2019-08-21
・さて…、そろそろ式神の記憶保持についてを邪推するお時間です。

・まず大前提として、式神は人間には及びもつかぬ程に永い時間を生きる(在る)存在です。
・節季を司る存在と作中語られる通り、彼らは節季毎に種族として分類され、地球上に生きる生き物をモチーフにした姿をしています。=つまりは地球の守護者と言い換えても良い存在です。
・然し、式神は飽くまで「人間が使役する事の出来る存在」として設計されており、個別に恰も生物である様な意志と肉体を持ちながらも、能動的な行動を単独で起こす事はありません。
と言うよりそうは出来ない様に創られているのだと思われます。
・……ので、式神の存在には太極の意志が関わっているとは思うのですが、扱いは人間次第、と言う、凄く人間に優しいシステムになっています。
これは、式神との交流を通じて人間(闘神士)にも成長を促している、と言う点を見ても言える話ですね。人間が人間の手で世界を護り、正しい方角に導かれる様にと言う太極の意志と言うか慈悲を感じます。

・そんな式神たちですが、前述通り永い刻を生きる存在です。少なくとも千年単位で在る存在なのは間違いありません。
そんな生の中、人間の闘神士と過ごす時間は、契約闘神士の目的や願いにも因りますが、どんなに長くても人の一生の一部分に限られます。
作中では四国四鬼門を護っていたナンカイさんが、30年と言う長い契約である事が語られており、具体的な年数が判明している中では(刻渡り組を除けば)多分最長なのではないかと思われます。
ともあれ精々長くてもその程度。人間にとっては人生の一部であったとして、一度しかない時間ですが、式神にとっては瞬き程度の時間でしかありません。
・然し式神は人間に使役されると言う前提で存在する以上、例えばどちらかの流派に肩入れするとか、以前の契約者と敵対する事があるとか、契約者の能力や性格を比べちゃうとか、そう言った個人的な「感情(敢えてこう言います)」は在ってはならないものでなければなりません。
それに何より、毎回全ての契約者との全ての時間を「記憶」として留めておいたらえらい事になります。キャパ爆発します。
・式神はその「人」──契約闘神士との、人の視点で見ればたった一度しか許されない出会いを幾度も繰り返します。闘神士にとってはたった一度、たった一人の式神であっても、残念ながら式神の立場から見ればそれは何度かの一つ。何人かの一人と言う存在にならざるを得ません。
・…ですが、作中で式神は慈悲深い存在として描かれています。人間側にとってのたった一人の式神と言う存在を、式神視点からでもたった一人の闘神士で恰もあるかの様に、式神たちは自らの契約闘神士に深い情を寄せて絆を結んでくれています。

・コゲンタは漫画版にて「俺はいつでもモンジュに会える。そしてヤクモ、お前にも」と言ってくれます。
この台詞からは、永劫に等しい式神の感覚、或いは記憶に、人間を、思い出を留めてくれる事が可能だと言う事が解ります。
また、アニメ版でも式神たちはウツホの求めに応じてその元へと集まってくれています。
・つまり式神にも『記憶』と言うものは存在し、そこに膨大な刻の間に出会った膨大な数の闘神士(人間)を、或いはその闘神士との思い出を全て記憶出来ると言う事です。
然し先述した通りに、契約した式神はその契約闘神士一人の式神で無ければならず、その立場は公平で無ければいけない。例えばコゲンタがいちいちりっくんをヤクモと比べる様な真似をする様な存在であってはいけない訳です。
(モンジュ>ヤクモの場合は互いに知る存在且つ親子だから、寧ろヤクモの成長要素としてそれもアリだったのかなと)


a.式神は今までの契約者との記憶を保持出来る。
b.然しその記憶に現在を阻害されてはならないので、普段は思い出せない事そのものを忘れている。
c.かと言って現在の契約者が居る限り過去の契約者の事を思い出せないと言う訳ではない。
d.過去の記憶の話をしてはいけない訳でもない。

・…と言う訳で、恐らく式神の記憶保持のルールの基本的な部分は、ざっくり並べると大体こんなものなのでしょう。
・ところで、りっくんが京都を訪れた時、太白神社と言う名にコゲンタは全くぴんと来ていなかった様ですが、りっくんが太白神社を探して困り果てながら彷徨っている内に、風景を見て太白神社──つまりは前の契約者であるヤクモの家を、意味ははっきりと解らなくても「思い出せ」たと言うシーンがあります。
この時コゲンタは「何となく」と言うその通りに具体的な事は何一つ解ってはおらず、はっきりと太白神社の場所を思い出した、或いは憶えていた、と言う素振りは見せませんし、本当に「記憶にあっても現在はその記憶を取り出せない」様な状態にあったのだと思われます。
荒れ果てた太白神社の跡地を見た時も、りっくんとは質の違う驚き方をしていますが、矢張り具体的にヤクモやモンジュの事を思い出したと言う訳では無い様です。(と言うか「思い出せない」のだと思います)
・それでもその感情を処理出来る様にも出来ているのでしょう。コゲがあの時荒れ果てた太白神社を見て「ここで自分にも何かを感じる様な事があったんだろう」と実感があれど、それを思い出したり思い出そうとしたり思い出せずに苦しむと言った事も無く、個人的な感情に纏わる部分は多分に現在の契約者に全てが置かれて仕舞うとか、そう言う感じで。

・取り敢えず、式神が記憶や知識を全保持していたら、現在の契約闘神士との間に問題が生じると言うのは勿論ですが、印を憶えているとかそう言った事だけでも一種のチート状態になって仕舞うので、現在の契約闘神士に纏わる事以外の「記憶」は、普通は「思い出せ」ない様に恐らくは出来ているのだと仮定します。
・10話の場合は、契約闘神士であるりっくんが太白神社を探して困り果てていたと言う事情もあって、コゲンタが無意識にその助けになろうと「記憶」を感覚的な部分で引っ張り出したのではないか、と。
まあそれも多分に本来ならばあり得ない様な、例外的な事なのだと思われます。何しろ記憶がそうホイホイ出せて仕舞ったら、初めから解答を知っているテストみたいな茶番になって仕舞いますしね。
・例えば今までの契約者の中で極レベルや大降神レベルに達した人がいるのは初めて、なんて事も無いのだと思いますが、ヒントやその知識を出すのはルール違反なので、式神の「記憶」にあっても現在の知識としては引っ張り出せない、と。
・式神同士の記憶や、妖怪についての知識、妖怪退治をしていた事、節季に纏わる事などは割と普通に記憶として出ているので、その辺の、式神の存在意義とか関係性についてはベースの記憶や知識として保持出来てる様ですね。
・ちょっと話の都合とかそう言うメタ部分から見ると結構かなりグレーな設定なんだと思います多分に…。邪推とか重箱より、単に辻褄合わせをしたいだけなんですけどね、重ね重ね。

・そして恐らくその「記憶」は、例えば以前の契約者に出会ったり、話を聞いたり、訊かれたり、と言う事で当たり前の様にするっと出て来る類のものなのだと思います。
実質忘れている訳ではないので、必要に応じて容易に出て来る、と言う感覚ですかね。
・実際アニメ24話でコゲンタはあっさりと、成長したヤクモの存在を「そう」と認識しているし、モンジュとの記憶の事もさらっと口に出しています。
・「お前大きくなったなー」とかそんな台詞が全く無いと言うのが、個人的には物凄く驚いたと同時に胸にキた要素です。式神は人の存在を記憶として当たり前の様に留めて呉れるのと同時に、刻を幾ら超えようがその人をきちんと、記憶なんだけど記憶よりも、存在として認識しているのだ、と実感出来るシーンでしたから…。
(漫画版では傷だらけでボロボロなのもあって、モンジュだと言う認識が遅れただけなのだと解釈してます…)

・その後もコゲンタは度々ヤクモの事を口にしますが、これは単純にりっくんの知る先輩闘神士である事から来ている、言って仕舞えば共通の知人みたいな認識だからでしょう。例え話として出すのに丁度良い対象と見ている節もありましたし。
多分に普通の場合は、現在の契約闘神士がその存在を知った所で、現在の闘神士に訊かれない限りは前の契約者の事をいちいち口にしたりはしないと思います。
(コゲはヤクモには「比べる訳じゃねぇけど」と言っているものの、りっくんにはそうと言ってない辺りちょっと問題だとは思いましたが)

・そんな訳で、式神たちはウツホの存在を「記憶」に持っていても、現在の知識としては出せない、と言う(式神自身は勿論無意識の)縛りがあったのではないかとかなんとか…。
それが割と原因となって色々こじれたと思えば少々アレなんですが、人間の事は人間で解決しなさいよみたいな太極の意志みたいなものもありますしね…。式神は飽くまで手を貸すだけであって、能動的に世界を救いに行ったり、危機の原因を直接取り除きに行ったりしてはいけない、と。

・いまいち纏まってませんがまあそんな感じかなと。