或いは望んだ幻覚なのか



 巨大な神が岩山を踏み抜いて歩いたかの様な、起伏の激しい山岳地帯。人の存在どころか植物の繁茂をも拒んだ、荒削りの岩に囲まれた場所にそれはあった。
 一見何の変哲もない岩壁に触れると、神流の結界が開き道を現す。山間を辿る様に複雑に湾曲した、長蛇の石段連なるその先には、東洋風の社殿が堂々たる様子で佇んでいる。
 それは伏魔殿の各所に隠された、神流の拠点の一つだ。拠点、とは云えそれは嘗て天流が封じた者らの放り込まれていた建造物その侭の流用が殆どだが、内部は特殊な結界に因り外界と同じく『空気』が循環しており気力の消耗が抑えられる為、伏魔殿での活動を主としている神流闘神士たちの回復や休息などの用途にも度々用いられていた。
 とは云えその結界以外には特別な何かが用意されている訳でもない。屋根があって床があって壁があるだけ、と云えば概ねそれだけのものなのだが、野晒しで封印されていたマサオミやタイザンから比べれば、そこに封じられていた者達は遙かにマシな状態と云えただろう。それだけ慎重に封印された、と云う言い方も出来るが。
 石段には幾重にも神経質なまでの結界が張り巡らされている。それを、呼び鈴を鳴らすどころか蹴って棄てる勢いでマサオミは歩調荒く通り抜け上っていく。誰から見ても不機嫌としか云い様の無い態度だが、それとは相容れずその表情は薄気味が悪い程に冷え切っていた。
 そうして結界を無視し発動させながら社殿まで上がると、その入り口には神操機を構え立つ狩衣姿の男がひとり、待ち構えていた。
 「一体何事かと思えば……ガシンか。貴殿は無事だった様で何よりだ」
 結界を容赦なく鳴らしながら入って来たマサオミを、すわ敵の襲来かと警戒していたのだろう。神流闘神士の男は安堵した様な声音でそう云うと神操機を下ろした。
 その発言に今までの思考が肯定される。やはり、と苦々しく思い、マサオミは顎を僅かに擡げた。目を細める。
 「今日俺に情報を持って来る筈だった奴が、約束の場所に現れなかったんだが──その様子だと原因は知れている様だな?」
 「……ああ。不覚を取ったらしい。その者は…闘神士を、降りた」
 マサオミに睨まれたから、と云う訳ではないだろうが、男は僅かに俯き視線を外すとそう正直に吐いた。
 闘神士を降りる、と云う言葉は、事実であり一つの示唆だ。事象の言い方を柔らかくした、と云っても良い。
 神操機で式神と契約した闘神士は己の式神の敗北と同時に、式神に懸けた願いを、それに起因する全ての記憶を失う。それは端的に言えばその式神と繋いだ闘神士の精神の絆が断たれた、と云う現象となる。
 数日や数週間の間であればどうと云う事にもならないかも知れない。然しマサオミの知る時代の闘神士達──彼を含み、目の前に居る男も無論だが──は、幼少の頃より闘神士として生きて来た者が圧倒的に多い。
 即ち。闘神士を降りる、と云う事は、大概の場合に於いては、その人生をも失うと云う無惨な結果をも意味するのだ。
 「…そうか」
 その闘神士とは連絡担当として幾度かの面識はあるが、特別な付き合いや感慨があった訳でもない。自然とマサオミの口から出るのは悼む類の言葉と云うよりも確認の為の相槌になるが、対する男はそれだけでは済まなかったらしい。彼は拳を握り固め無念の表情で俯くと、軋る歯の隙間から怨嗟の言葉を漏らす。
 「天流の闘神士如きが……神流(我ら)をこの様な地に封じたばかりか、永き刻を越え猶足りぬと云うのか…!」
 友、同志。ないし何ら近しい関係にでもあったのだろうか。心底に感情を滾らせて呻く男を、然しマサオミは冷ややかな視線で見つめた侭。
 「──天流のヤクモ」
 先頃知ったばかりの、その名を口にした。
 「!」
 その言葉に、男は面白い様に表情を転じた。顔を起こし、信じられない、と云った表情でマサオミを見上げて来る。
 子細を問いただす迄もない。その態度を見れば明らかに意味が知れて、マサオミは態とらしい溜息を吐き出した。
 「矢張り既知の事だったか。今回が初めてじゃ、勿論無いんだろうな。
 困るなぁ、何で今まで黙っててくれちゃってたんだ?」
 冷たい嗤いを口元に残した侭、然し表情だけは剣呑に。これは単純な事実確認ではないと意図を殊更に、軽くした口調に乗せてマサオミは云う。
 「そ、それは…、たかだか天流の一人如き、貴殿らの手を借りる迄もない、と…」
 それに返るのは歯切れの悪い抗弁。後ろめたさや神流と云う矜持を内包した焦燥。
 愚かでしかない、と、その様にマサオミは即時判じた。先だってよりの苛立ちと相俟って、爪を噛みたくなるのを堪えて片目を眇める。
 神流の闘神士達は揃いも揃って、その自尊心や自負の高い傾向にある。己の所行を肯定する為の詭弁意識も強く、それらを一言で纏めれば『頭が固く融通が効かない』者となる。
 恐らく彼らは、その自尊心の高さ故に、たかだか天流闘神士の一人ぐらい、と高を括ってかかっていたのだろう。
 (あれが、そんな軽い相手で務まるものか…!)
 口には出さず、マサオミは胸中で苦々しく吐き捨てる。
 『外』と伏魔殿内部とを行き来するマサオミやタイザンよりも、内部に籠もり続ける形となっている彼ら神流闘神士勢の方が当然の如くに、伏魔殿内を闊歩する外敵の存在を早く察知する事が可能だ。
 然し、情報を互いに余すことなく提供する、と云う取り決めがあったにも拘わらず、マサオミはつい先程目の当たりにする事になるまで彼の天流闘神士の存在を知り得ていなかった。それはつまりは。
 「甘く見た結果ならば当然だ。今後は報告を怠らないで貰いたいもんだね」
 「………、」
 嘲笑さえも浮かべてマサオミが云えば、男は反論を捜す様に沈黙するが、尤もな事を云われているのは事実であるとは認めているらしく、表情は露骨に歪めているものの、それ以上は特に何も言い募ろうとはしない。
 不満顔の理由としては寧ろ、彼らの多くから見れば『若造』であるマサオミに叱責を受けている、と云う事に対する方が大きいのかも知れない。
 「判断甘く放置してる間に一体何人やられたのやら知れないが、あれがお前達の手に負える相手じゃない事ぐらいはいい加減理解出来ただろうよ。高い授業料になったな」
 「き、貴様…!散った仲間たちをも侮辱するか!」
 遠慮のまるで無いマサオミの言い種に流石に憤りを憶えずにはいられなかったのか、男は一度は下げた神操機を再び起こしかけ──
 「やめておけよ。下らない仲間割れで人材をこれ以上減らしたくはない」
 瞬間、マサオミの向けた剣呑な──『本気』の気配を感じ、一歩。退いた。
 「……く…」
 人材、と云え。仲間、と云え。必要ならば手を下す事を全く躊躇わない、とはっきり示したマサオミを前に、渋々、と云った表情で彼は神操機を下ろす。丁度良い引き際をマサオミが与えたのだとも気付いていたのかも知れないが、自尊心の高さが矢張り邪魔をした様だ。
 不承不承に神操機を引く男の姿に目を向けたのは僅か一瞬。戦意を失わせたのを確認したそれだけで、マサオミはいい加減苛立ちを堪えかねる胸中を隠す様にそちらに背を向けた。
 射殺さんばかりの鋭い視線を背中に感じながら、半分だけ顔を振り返らせる。
 「奴の件に関しては俺が一旦預かろう。これ以上逸って無駄な犠牲は出さない様にして欲しい所だな。ただでさえこちらの手勢は全く足りないんだ。仲間の封印を解き終える迄は大人しくしていてくれると助かるんだがね?」
 男は無論、日頃のマサオミを知りもしないだろうが、少し感情の機微に聡ければ気付く事ぐらいは出来るだろう。怒りや苛立ちを隠さず、恫喝さえ漂う意をはっきりと示した態度に。
 それは主に『外』でのマサオミを知る者が見れば、別人かと見紛う程に、無感情で無感動な、ひとりの闘神士の有り様であった。
 「…………心得た」
 未だ諦観や納得まではない、渋々と云った様子で男が応じるのを聞き届けると、思い出して、マサオミは去りかけた足を止める。己の苛立ちや不満を先立たせて肝心な目的を怠る訳にはいかない。それでは彼らと全く同じ轍を踏むだけだ。
 「それで、此処には今日報告される筈だった事項を訊きに伺ったんだがね。封印のある場所の目星でも付いたのか?」
 「あ、ああ。先立ってより調査を進めていた区画に、天流が意図的に構築した空間が幾つか点在すると──」
 打って変わって険の幾分取れたマサオミの言葉に、男は少し不自然に頷いて説明を始める。先程までの恫喝めいた様子からの変化に驚いた様にも、ついていくのが遅れた様にも見える。
 ひょっとしなくても脅しが過ぎたか、と、偽悪めいた方向に思考を走らせ、情報を頭の中で整理しながらマサオミは密かに苦笑した。
 無駄な感情を伴う事にも飽きた、冷たい笑みだった。
 
 *
 
 腑が煮えくり返る、とはよく云ったものだが、腑と云うよりも煮えくり返っていたのは寧ろ、脳髄の裏側、心の奥底とでも呼ぶべき部分だった。
 苛立ちの余りにそれが怒りなのかすら判らなくなる程に、原形質にまで熔けた感情のもっと深くに。然し焼き付けられた影の様に酷く鮮烈にそれは残留している。
 『彼』と云う存在。敵と見据えるべき、対象。
 それは天流と云う存在へ向ける単純な憎悪では既に無い。もっと業深い、敵愾心にも何処か似たものを想起させた印象。
 全てを透して見たかの様な、透徹とした瞳に射抜かれた瞬間、マサオミが確かに憶えたのは、負けた、と云う揺らぎだった。
 果たして何に『負けた』と云うのか、それすらも解らない。そもそも負けたと感じた事自体も直感めいていて、己の心中ながら全く宛にならない。負けと云うよりは打ちのめされたと云うべきかも知れない。
 或いは単純に、それら全て思い違えであったのだと判じて仕舞えたら楽だろうか。
 その得体の知れない感覚が残留しているからこそ、マサオミは胸の裡に居座るこの不快感と苛立ちとを消す事が未だ出来ずに居た。
 実力の確かな天流闘神士。それだけで『敵』であると云う条件には足りる。そして、敵であれば排除する事が己の負う役割だ。
 数回式神同士の交えた刃で、簡単に御せる相手ではないと判じたが、なればこそ本来それを捨て置く選択を取ったのは愚かしい事と云えた。
 (あの場では多少面倒でも──倒せない相手じゃ、無かった筈だ)
 これでは報告を怠り自らの手で制裁をと望み、そして失敗したあの愚かな神流闘神士の男達と何ら変わらないではないか。
 自嘲する様に思って、マサオミは符を取り出した。今一度確認する様に見回すフィールドは、先程聞き出した情報に従って入った区画の一つだ。そう易々と目的が果たせる、とは端から期待していなかったが、案の定そこにあったのは嘗ての天流が仕掛けたと思しきトラップのみだった。知り得て仕舞えば発動させるのも莫迦莫迦しいので、取り敢えず放置しておく。
 まだ情報にあった一帯全てを調べ尽くした訳ではないのだが、ちらりと見やった腕時計が示すにはいい加減刻限も迫っていたので一旦伏魔殿よりの帰還へと思考を切り替え、マサオミは鬼門へ通ずる途を開くべく符を発動させる。
 (……何にしても放置しておいて良い相手じゃない。暫くは俺が動向を伺った方が良さそうだ。あの石頭共もまだ統率が取れてるとは言い難いしな。これ以上無駄に人材を減らされるぐらいなら、多少の苦労ぐらい喜んで買ってやるべきかね)
 タイザンに相談し、地流の闘神士を当たらせると云うのも一つの手段かもな、と、忙しく頭を働かせながら、マサオミは障子を潜った。
 背後のトラップを振り返り、軽く溜息。人手が全く足りない現状には頭を抱える他ない。今後の伏魔殿での己の行動は、天流のヤクモと名乗った彼の闘神士の動向を調査しつつ、一刻も早く封じられている他の神流の仲間達を発見し解放していく事を優先すべきだろう。
 そんな事を考える内、一瞬の浮遊感と共に鬼門の外へとマサオミは現出していた。最近管理者を失ったばかりの、未だ小綺麗に佇んでいる社から出て、その場に腰を下ろす。
 「キバチヨ」
 『何だい?マサオミ』
 呼びかければ即時応えが返る。霊体を真向かいに浮かばせたのは、付き合い慣れた己の式神。青龍のキバチヨだ。
 「悪いが、リク達の方の様子を軽く伺って来てくれないか。今のリクとコゲンタならば、飛鳥ユーマに易々と後れを取ったとは思わないが──万が一って事もあるからな」
 『オッケー、そう遠くないし軽い軽い』
 「頼むぞ」
 気安く応じたキバチヨを降神させると、手を軽く振って、瞬時にして姿を消すのを見送る。
 京都の一角。東方に位置する、青龍の名を冠した社。その暮色に染まった境内に人の気配はない。ついぞ先日までは天流の闘神士が社として鬼門を守っていたのだが、それはマサオミが既に退けている。今後も機会があれば伏魔殿への途として利用する価値を含んだ地であった為の措置だ。
 境内同様、空は既に西寄りの残照に晒され薄暮の様相にある。結局一日の殆どを費やして、得たものは不快な苛立ちばかりだった事を思えば、自然と歯が爪を噛んでいた。
 「天流の、ヤクモ……」
 その名乗りに確たる憶えはない。力衰えた天流、と嘗めてかかっていたのは実のところマサオミとて他の神流闘神士達と同じだった。
 今までマークしていたのは天流宗家のみであり、他の天流闘神士を軽視していた事が果たして仇になったと云えるだろうか。あれだけの実力者であれば寧ろ現世(こちらがわ)でこそ名を馳せている可能性の方が高いのだ。
 まるで習慣的な毒の様に、マサオミは本日幾度目になるだろう、その有り様を脳裏に再生した。その都度蘇る鮮烈な、躊躇いの無い鋭い眼差しに記憶からも見据えられ、がり、と爪が歯の間で音を立てる。
 あの存在が個人的にマサオミへと穿っていった単純な印象とは然し別に、今後の計画を思うとそれは紛れない、邪魔な存在として在る。とは云え早い内に手を打つにしても、人手も力もまるで足りないのが神流の現状だ。
 (何故──、)
 今何も出来ない以上、結局苛立ちはマサオミの裡に留まって終わる。あの場でキバチヨが云った様に、倒していれば。そう思うのは然し後悔と云うよりは繰り言──言い訳の様に思えるのだ。
 「…これは計算外だったな………」
 計画の先行きにも認められるはっきりとした妨害者と成り得る存在。そして、マサオミの裡に留まって去らない忌々しさ。単なる直感、と云えばそれまでだが、生憎既にそれは確信めいて居座って仕舞っている。
 (倒せるか、それとも利用する手段を考えるべきか……?)
 奴の目的は果たして何だろうか。流派だけで云えば天流で、紛れなく神流の敵。憎むべき対象。だが彼が伏魔殿に降りる、その目的が神流への敵対行動とは未だ限らない。実際相対したマサオミとて問われたのは誰何だけで、それだけでは『邪魔者』ではあったとして『敵』と断定するには早いやも知れない。
 とは云え神流の仲間らの指針では既に、天流のヤクモと云う存在は明確な敵として位置付けられているだろう。少なくない数の神流(仲間)を倒された様なのは自業自得としても。
 そも、相対した時のヤクモにはこちらを倒すと云う意図は無かった様に思える。試すつもりでマサオミが向けた動きに違えず、同じく遠回しな手管で応じた。それは互いに実力を測っていたと云う結論に相違ないだろう。
 果たしてそんな相手が、無益に(正体不明の)闘神士達を屠って来るだろうか。
 ……推測でしかないが、『犠牲となった仲間』とは逸った者らが結果的に負うことになった負債と云うだけで、ヤクモ当人には真っ向より彼らに敵対する意思があったとは思えないのだ。
 推測以下の云い方をすれば──あれは恐らく甘い。眼差しは意思が強く透明だったが、そこに冷たい翳りは何一つ見受けられなかった。例えばマサオミが胸の裡に抱え込んで居る様な憎悪や偽悪には全く属さない。
 そうだ。あれは、腹立たしい迄に透明に過ぎたのだ。流派と云う名乗りさえ無ければ、敵か味方かの判断さえも誤らせるだろう程に。
 惑わされた。それも恐らくはこの苛立ちの原因の一つ。敗北感の一つ。得体の知れない不快感。知りたいと思う必要は果たしてあるのか。それとも何かの錯覚か偽か。
 遠回しに思考しながらも、己の本心をマサオミは知り倦ねていた。それがどちらかと云えば、惜しむ様な類であった故に余計に。
 「…………惜しいかどうかはさておいて、面白そうな奴であるのは……確かだろうな」
 不快感をもたらすものだと自覚しながらも、マサオミは感情に反して笑う事を選んだ。口角をなぞる舌で湿らせ、獣の様に貌を歪める。




12話直後マサオミ篇。こちらもまた13話ラストまで社にのんびり座っていた理由をとか辻褄をとか妄想をとか。ユーマをりっくんに焚き付けておいて結果を気にせず座り込んで爪噛んでヤクモへとぶつぶつ呟いてる様に見えて笑えたもので。

望んだ幻覚は、望みとして理解した瞬間に偽と断じられるものか。