これは病んだ錯覚なのか



 半ば追い立てられる様に伏魔殿より離脱して来たのは、使い慣れた、太白神社近くの山中に位置する鬼門だ。
 見上げた空は未だ陽が高い。こんな時間に『外』に出るのは久しい事だ。とは云え時間の感覚の曖昧となる伏魔殿内部と現世の正確な日数の差異が正確に換算出来ている訳でもないので、実際どの程度の『久しい事』であるかは解らないのだが。
 ともあれ、久々の『外』だ。思いも掛けずに現世へ戻る羽目になった事を苦々しく思いつつ、ヤクモは溜息混じりに朽ちた社から降りた。地に足を降ろせば、しっとりと湿った腐葉土の感触が靴底を通して伝わって来る。昨日の天気は余り良くなかったのかも知れないなとぼんやり考えながら、ヤクモは手近な建材の上に腰を下ろした。苔生した木は人ひとりの体重を乗せて軽く軋むが、折れたりはしない。
 鬼門はヤクモひとりをその裡より吐き出してからは、何事も無かった様に静かに封ぜられ沈黙している。空間を繋ぐ特異点ひとつが失われれば、そこは静かなだけの森の有り様でしかない。
 杉の木々茂るそう深くない山中。然し其処を流れる空気は俗世のそれとは何処か趣を異にしている。社の『建物』としての体裁を失わせたのは人為ではなく、時と自然の流れに因るゆっくりとした老朽で、恰もその一帯だけは何者も手を加える事叶わぬ、ひとつの『場』を保っていた。
 動物の気配さえも断絶した静謐に過ぎる空間は、一種の神秘性すら裡に内包して只、在る。解る者が見ればそれは社と云う神域を包む、結界と呼ばれる隔であると知れるだろう。
 鬼門と呼ばれる力場を封じ奉じた『場』。それは容易く外部から手を加えて良い地ではないと云う、その表れの様にして此処に在る。
 この社を守っていたのがどの様な者であったのか、幾年前の事であるのか、その子細は知れない。然し鬼門からあらゆる外界を除けている結界の効果から見ても、天流の何某であったのは確かだろう。昨今類を見ない見事な結界は、人や動物が自然と其処へ近付く事を避けさせる類で、余程の能力者で無ければ結界の存在にすら気付かずに通り過ぎて仕舞う程に洗練されたものだ。
 遠くに騒ぎ立てる鴉の声や、更に遠くの町のざわめきも風ひとつが吹くだけで流れて消える。静かの地。
 そんな『場』は、実相世界に確かに在ると云うのに、伏魔殿の内部に未だ居るのではないか、と云う錯覚さえ起こさせる。
 同時にそんな感覚は、どれ程己が伏魔殿と云う位相空間に馴染んでいるかと云う事を思い知るには充分に過ぎて、ヤクモは感情に蓋をした侭で密やかに息を吐き出した。誰に憚る事もない隔離世に在ったとしても、それは習慣に似た行動。負の感情の揺らぎを悟らせまいとする無意識の所作だ。
 そうして少し閉じた思考で手繰るのは、先程まで居た伏魔殿内部の、フィールドでの事だ。そこで起こった戦いと、出会った相手の事。
 
 ──「こちらは、天流の青龍使い、とでも申し上げておきましょうかね」
 
 そう、不敵に口角を持ち上げてみせた男。恐らくはヤクモ自身とそう年頃も変わらないだろう闘神士。端正な造作の顔を時折獣の様に歪めてみせた、それは紛れない敵愾心、或いは憎悪を示す表情に他ならない。
 当然幾ら記憶を検索してみた所で、彼はヤクモに個人的に覚えのある相手ではない。即ち名指しで恨みを持たれる謂われはない訳だ。第三者として恨みを知らぬ間に抱かれていた相手が偶然あの場に現れた、とも思えない。
 なればそれは明確な敵。否、一方的に敵対心を抱かれている対象──神流の闘神士。
 (……それにしてはまるで一般人の様な装いだったな)
 少なからず今までヤクモが遭遇して来た神流闘神士達は、皆時代がかった古風な格好をしていた。口調や態度も何処か横柄で、共通項として付け足すと全く話し合いの余地が持てないのが特徴である。
 恰も彼らにとって天流(ないし地流)とは、絶対の敵対者であると定められて仕舞っているかの様に。
 そして話し合いの余地が持てなかったのは彼の男も同様ではあった。相対した場で、名乗りを式神の降神に変えた事はあからさまな牽制だ。『四神を使う闘神士に挑むのか?』と云う意図の濃い。
 更にはそれで自らを天流の青龍使いだなどと名乗ったのだから──これにはもう苦笑しか浮かばなくなる。故に否定と誰何の意を込めてこちらも青龍のブリュネを降神したのだが……気付けば問答無用でその侭戦闘に持ち込まれて仕舞った。同じ青龍を喚んで相手の嘘を否定したのが結局は徒となって仕舞った形だ。
 相手のあからさまな嘘に引き擦られた形になったのは事実で、その結果があの戦闘となったのだから、少し短気を起こした己に反省するヤクモである。
 ともあれ、相手だ。式神の威を借りるなど、と当初は思ったが、実際戦闘が始まってみれば彼は可成り使える闘神士だった。場数の慣れ、式神の強さ、的確な印と指示、戦闘行為と意思の疎通。何れを取っても今までには無かった難敵と云えよう。技量が拮抗すれば単純な力勝負が物を云う事になる為、この闘神機の侭では正直勝つのは難しいだろう。
 そこまで考えた所で、ヤクモは右手に握りしめた侭だった件の闘神機の存在を思い出した。覗き見る様に掌に収めた侭、左の指でその表面をそっと撫でる。
 「ブリュネ、大丈夫か?」
 『負傷は大したものでは。全く問題ないであります』
 呼応すると同時にふわりと半透明の霊体をヤクモの傍らに浮かばせ、青龍の式神は生真面目な応えを寄越して来る。
 その動きを視線で追いかけて頼もしい姿を見上げれば、自然と固くなりかけていたヤクモの表情が僅か弛む。
 「どう思う?」
 『……先程の青龍使い、でありますか?』
 「ああ」
 主語がないとは云え問いかけを正しく解した青龍に首肯ひとつ。受けてブリュネは暫し何かを考える様に瞑目し、口を開いた。
 『今までの神流闘神士とは何かが違う様に見受けられたであります。それに、我らを試す様な戦い方をしていた事からも、実力もその自負も相当の物かと』
 飾りも言い訳も無いシンプルな感想はヤクモが抱いていたものと何ら変わらない。と、なるとそれは式神達を含めた『自分達』の総意とも云えよう。客観的な印象としては間違っていないと云う事だ。
 「そうか……やはり試されていたと、ブリュネにも見えたか」
 最初は本気でこちらを仕留めようとしていた様に思える、相手は然し途中からその方策を変え、場の離脱に転じた。在るフィールドを破壊する事で完全にこちらの動きを封じると云う、全く見事な転進だったと舌を巻く。
 ヤクモは伏魔殿の構造を熟知しながら来ていた為に即時鬼門への連結空間を開き、離脱する事が出来た。これに因り敵の目論んだだろう、伏魔殿の奈辺とも知れぬ空間へと彷徨う様な事態にはならなかった訳だが、こうして予期せぬ撤退を余儀なくされたのも事実。
 周囲の空間構造を思い浮かべて見れば、近場に一時離脱に適したフィールドもあったのかも知れないが、ヤクモはあの辺りの地理には未だ明るくなかった為に、無用なリスクを負う事を避けて『外』へ一旦出る選択を取ったのだが、結果的に追い返された形になっている現状には溜息の一つもつきたくもなる。
 闘神機をベルトに提げ直してから、ヤクモはマントの下で軽く腕を組むと、思考の淵に意識を傾けた侭脚を組んだ。薄く目を閉じる。
 傍らに浮かんだ侭のブリュネ(霊体)は、黙考に沈むヤクモの邪魔をすまいと思ったか、その侭静かに控えの姿勢を保つ。外界から切り取られたかの様な静かの結界の中、ヤクモの思考もまた酷く鎮かに、そして鮮明に流れていく。
 (神流か、その協力者か。地流の者かと問いて来たのは偽装か本音か。何れにしても相手が天流を名乗っている以上は注意を払っておいた方が良いだろうな。宗家も不在の今の天流はちょっとした事で壊滅しかねない不安定な状況にある…)
 あの闘神士が天流と名乗り──然し本来天流にとって厳しく戒められた伏魔殿と云う地に入り込んでいた事には若干の不安を覚える。
 神流の闘神士らは自らが天地流派に属さない存在である事を誇りにしている節がある。否、天地流派を激しく憎悪するが故に、それと同列になど扱われたくはない(と思っているのだろう)、と云うべきかも知れない。
 その神流(と思しき)闘神士が、自ら天流を名乗る──偽装。それは恐らく『手段』として用いる為。なればその目的は天流にとっての益とは言い難いだろう。寧ろ『利用されている』と云う意図を感じずにはいられない。
 天流の内部崩壊を狙う意図では恐らく無い。何故なら現状の天流には殆ど力が残っていないからだ。放っておいても何れ自然消滅すると云っても良い程の規模の相手に、そんな回り諄い手段を取る必要など無いだろう。
 そもそも『利用』するのであれば、果たしてそれは『何』に対してだろうか。地流への牽制、天地流派を衝突させての消滅(総力戦と云う次元では既に無い程に両派の力の差は歴然だが)。それとも──天流を活かす事に何らかの意味があると云うのか。
 (……天流の、と名乗った癖に、その天流のほぼ唯一の『名』のある存在に対して、初耳でした、と云う様子だったのは……単純に勉強不足と判じて良いだろうな。
 何れにしても、形振りを構わなくなった相手程厄介なものはない)
 考えながら自然と押し出される様にヤクモの肺から静かな息が漏れる。天流を何ら利用するだろう意図を持つと云うのに、その天流の実力者であるヤクモの存在を(少なからず外見を知り得ていないのは明らかだ)全く把握していないと云うのはどうにも解せない。
 つまりわざわざ天流を名乗る目的は、流派そのものを利用する所にあるのではないと云う事だろう。
 名乗らない相手に対し、ヤクモが自らの式神(の一体)と己の名乗りを正確に挙げた理由は、相手の嘘に対する反発は勿論あったのだが、それよりも相手の立ち位置を確認する為の意図の方が大きかった。
 慢心ではなく只の事実としてヤクモ自身が認識している事に、天地流派の何れかであれば『天流のヤクモ』の名程度は知識として知り及んでいる者が圧倒的に多い、と云う事例がある。天流からは羨望の、地流からは畏怖ないし敵視を向けられる事には既に慣れていた。
 然しその何れも、あの闘神士は持たない様に見えた。向けて来たのは天流と云う存在への憎悪や嫌悪で、ヤクモと云う個人に対しての先入観はまるで無く──
 はた。と、そこで目を開いて、ヤクモは二度瞬きを繰り返してから呻いた。
 「……………成程。厭な感じがしなかったのはそれが原因か」
 『? 何か仰有いましたか、ヤクモ様』
 「いや、独り言」
 それは相手の正体をあやふやにしている要因の一つだと云うのに。忌々しさよりも寧ろ新鮮な驚きを得ている己に何処かで呆れつつ、ヤクモはマントの下で肩を竦めて云う。
 「畏怖されるよりも憎まれる方に安堵を覚えるなんて、歪んでいるかな」
 天の流派と青龍の式神との威を借りたあの闘神士の、好意的とは些か言い難い敵愾心剥き出しの表情を思い出して苦笑する。
 あれは、『名』や個人に対する意識をなにひとつ間に挟まない、純粋で単純(シンプル)な『憎悪』の感情──
 『……ヤクモ様、そう云うお考えは少々不健康でおじゃるよ?』
 今度ははっきりとした呟きに、言葉を失って仕舞ったブリュネを押し退ける様にしてサネマロの霊体がふわりと浮かび上がって来た。面の下の表情が、子供を戒める親の様な様子になっているのを見て、ヤクモは微笑から苦さを消した。
 「ん。済まない。自分でもそうは思ったんだが…」
 闘神士として生き始めてその間ずっと晒されて来た、畏れられる様な意識や、取って代わって名誉の為の何かを企む様な視線は正直、気持ちの良いものでは全く無い。
 余りに上げられた『名』に付随するのは、ヤクモが憶えている限り良い記憶には全く結びつかない類ばかりで、その事実に辟易もしていた所だった。己が幾ら憚りなく在ろうとしても、飾り立てられた他者の先入観はそれに戸惑いしか与えない様なのだ。
 天流を敵として見る地流ですらも、天流と云う流派よりもヤクモと云う個人としての価値(倒すべき強敵としてだが)を寧ろ見て来る程だ。
 それに比べて、個人としての感想を抱かれぬ事の何と気楽な事か。
 故に、他者との接触を避ける様にして伏魔殿の調査へと進んで乗り気になったのは、無意識の必然だったのかも知れない、と今では開き直り気味にそんな事を思って仕舞う次第。
 果たしてそれは精神的に不健康と、確かに云えるかも知れない。ヤクモは少々苦みの強い感情を払う様に破顔した。
 「俺、基本的に人恋しくなる質だからなあ。無理をしている訳じゃないが、この環境の悪さには最近流されていたのかも知れない」
 吉川ヤクモと云う人間は元来、孤独を望む質では決してない。
 明るく闊達で嫌味の無い人格は大概の場合他者に好かれ、周囲にはいつでも人の輪があった。人の世界に身を置く限り、彼の在り方はそれで良かった。
 然し闘神士として『名』を上げた天流のヤクモへと向けられて来たのは、単純な好き嫌いだけの感情では無い。それで済む程に、ヤクモの築き上げて仕舞った功績は安いものでは決して無かったのだ。
 結果。無用なトラブルを避ける為に自ずと人目を憚る行動を好む様になるのは自然な流れ。
 そこに来て、伏魔殿は実相世界から隔離された位相空間だ。当然の如くに他者との交流など限りなく無いと云える。あったとしてそれは闘神士同士の交流──つまりは殺伐とした戦闘行為になる事が殆どだ。その為にヤクモは基本的に無益な戦いになる地流闘神士を避け、襲い来る神流にのみ相対する様にして来ている。
 (何ヶ月も真っ当に、同業者との交流が無いと云う事になる訳か……)
 浮かんだのは自嘲に似た答え。戦闘かそれを避ける為の方策か、などと云う極端な二択ばかりの末の結論。
 なればこそあの、ヤクモと云う個人へと何の感慨も抱かず相対した、神流以上には未だ話し合いの余地の持てそうだった得体の知れない闘神士へと妙な──どちらかと云えば嫌悪より好ましさに近い──感想を抱くに至ったのだろう。
 どうかしている、と云えばその通り。サネマロに『不健康だ』と窘められるのも仕方のない話だ。
 「兎に角、あれが敵である事には代わり無いだろうからな。貴重な人材だったとして、油断はしないさ。大丈夫だよ」
 軽く微笑みながらそう締めると、サネマロは一応は納得したのか、ひとつ頷きを返してから姿を消した。ヤクモは静かになった闘神機に軽く手を添えてやりながら、今一度社を──鬼門を見やる。
 余計な話はここまで。いつも通りの伏魔殿探索モードに精神を切り替える。……その心算だったのだが、今日は普段のそんな流れとは異なり喉の奥深くに灰色の蟠りが引っかかり取れない。未だ名も付けられないその感覚を訝しみながら、出せない声の代わりの様に脳をじわじわと浸食する思考に、ヤクモは仕方なしに意識の半分ほどを譲ってやる事にした。『外』に出たついでの小休止だと思おうと言い聞かせながら、立てた膝の上に横頬を乗せて再び目蓋を下ろす。
 然し議題は、考えても結論の出ない、推測ばかりの事ばかりだ。流れる思考は机上の焦燥や懸念以上に意味がない。
 (今までの神流闘神士とは……違う、か)
 己でもそう結論付けた事を再度呟いてみて、結局の所望みはそれなのだと思い知る。
 あの得体の知れない闘神士が神流そのものか、それとも協力者なのかは未だ判然としないが、話の通じる相手であれば良い、と云う希望的な思惑。
 今までに遭遇した神流闘神士達とは異なる、単純な実力の程はヤクモ自身認めている。故に思うのは、彼ならば或いは真っ当な話し合いが出来るのではないか、と云う期待だ。
 流派のしがらみと云う前提を踏まえた上で、更に両者の間に在るのが絶大な力の差であれば、どう言を回した所でそれは対等な話になどならない。頭ごなしに叱られる理不尽を多くの大人が受け入れ難いのと同じで。
 あの闘神士はヤクモの事を『畏れて』逃走した訳ではない。簡単に御せない相手であると判断し転進した迄だ。
 (………倒さずに、勝てるなら)
 実力の拮抗する相手を倒さずして無力化する事は困難ではある。が、互角に近い実力の持ち主同士であれば、正しく勝利と敗北とを解する事が出来る。
 多くの闘神士であれば己の式神を失う事を躊躇う。つまり互角に戦える相手ならば、その式神を失わせる事もなく無益を『解らせて』勝利する事が出来るやも知れない。
 「ブリュネ」
 『何でありますか、ヤクモ様』
 少し掠れた声の呼びかけに応じ、青龍の霊体が再び傍に浮かび上がる。疑問の視線を受けながら然しそちらを振り向きはせずに、ヤクモは薄く笑みを口の端に乗せた。
 「勝てると思うか?」
 再びの主語の無い問いを、果たして何を示していると取ったのか。ブリュネが実直そうな態度で首肯する気配。
 『ヤクモ様のお望みであれば、自分達は如何なる敵にも負けはしないであります』
 予想通りと云えば予想通りの己の式神の返答に、自然とヤクモの胸中に安堵がおちた。
 「……そうだな。ありがとう」
 それはヤクモの内心を正しく解した言い方だ。『望み』が『勝利』であるとは断定していない。そんな所にも式神達の優しさを感じて、思わず甘えたくなり、ヤクモは囁く様に笑った。
 「俺も、お前達を負けさせたりはしない」
 その為ならば、いざとなったら零の力を解放する覚悟も頭には入れている。
 今扱っている闘神機は飽く迄代替使用しているだけに過ぎないものであって、今後も苛烈な戦闘が続く様になれば何れは保たなくなり破損して仕舞うだろう。ただの闘神機ではヤクモの力に耐えられない事は、嘗ての大戦で既に明かだ。
 右手に在る筈の無いものを意識する。零の名を冠した神操機。人の世界で振るうには余りに強大過ぎた力故に、ヤクモが自ら名落宮へと再び封印する事を選んだもの。
 この侭では、そう遠からずその力を必要とする時が来る事になるだろう。神流闘神士との戦いも、先頃の青龍使いとの戦いも、この侭加減を続けて勝てる程に甘くは無い。
 思考に繋がったかの様に、自然と表情が剣呑な色を宿す事に気付き、ヤクモは僅かに眉を寄せると何となく頬を軽く手の甲で擦った。静かに周囲を見回す。
 妖怪や闘神士、況して一般人や小動物の気配さえ無い、長閑にも見える潤沢な森が四方を囲んでいる。現世のそんな穏やかな中に在っても思考ばかりが物騒な事を自覚して仕舞えば、もう苦笑しか浮かばない。
 気付けば、屈託の無い少年は闘神士としてこんなにも相応しく生きて来ていた。思考は戦いの為に尽力して、平和的解決の方策が為の力を結局は手段として選ぶ。
 畏れられるのならば、それすらも利する事を──望まぬとも辞さない。
 ひとり立ち尽くし、身は闘神士として。守りたいものが常に其処にあって、その為に戦う事だけが当然の様にしっくりと収まっていた。
 根拠も理由も必要無い、それは命題。つまりはそれこそが必要と云う、真性の。
 結局己は何処までも闘神士と云う役割に相応しく存在していたのだと。ヤクモはこう云う時に、まざまざと思い知る。
 (…………………………………なんだ、そんな事か)
 理解を得たその瞬間、今まですっきりしなかった喉奥の感情が不意に飲み下されて落ち、得心を呼気と共に吐き出す。
 闘神士として抱いた感想は、危機感と同時に満足感。
 吉川ヤクモと云う名の人間として抱いた感想は、新鮮な安堵と、それに対する──明確な、充足。
 戦う事に巡らせる、思考。手段。希望的な観測。全て建前。
 力の拮抗する相手。値する対象。己へと過分な要素をなにひとつ抱かず対等に見てくれた相手を知った──闘神士として、人間としてのヤクモが憶えた、単純な喜びに他ならない、と云うことだ。
 それは、先程サネマロに窘められた『不健康な思考』に類するのかも知れないし、或いは単なる気休めなのかも、知れない。が。
 思考する内に、口元が自然と緩くなっていた事に気付き、ヤクモは顔の下半分を覆う様に手を触れさせた。 
 (……たのしい?)
 浮かんだ疑問が脳髄に刺さって、不謹慎だ、と戒める頭痛を憶えた。改めて己の思考に怖気を感じて苦い表情で額を揉む。
 敵である筈の相手に期待をする事もそもそも問題だが、希望的観測を通り越した安堵を探すなど問題の外過ぎる。
 況して、人としてそれが嬉しかったなどと。思い違え甚だしい。
 「全く。どうかしているにも程があるぞ俺」
 肩を竦めて殊更どうでも良い様に苦笑しながら呟くと、ヤクモは腰を浮かせ立ち上がった。社の方へとゆっくりとした歩調で向かえば、傍らに浮かんだ侭のブリュネの霊体がその速度に合わせて続く。
 『もう伏魔殿へと向かわれるのでありますか?』
 「いや。サネマロ曰くの『不健康』さが身に沁みたから、夕方ぐらいまで休んで行こうと思う」
 云いながら、殆ど『建物』としての体裁など残っていない社に上り、半壊した壁の強度を確認してからヤクモはそこに座り込んだ。苔生した柔らかな感触に感謝しつつ壁に背を預ける。
 『休まれるのであれば、ご実家か、せめて新太白神社の方に戻られた方が…』
 そもそも『不健康』の論点は寧ろそちらにあったのではないかと首を傾げるブリュネに、ヤクモは空恍けて返す。
 「何時間も休んで行く訳じゃないから構わないさ。とうさん達やナズナの手を煩わせるのも本意ではないし、伏魔殿の中で休むのに比べれば居心地も安全性も申し分無い」
 『〜…それはそうでありますが』
 すっかり論点を逸らされ、こんな野晒しに近い場所では休息になどならないのではないか、と云いたげなブリュネが言い募るのをかわすと、ヤクモは本格的に仮眠を取る姿勢に入る。欠伸を噛み殺して緩く腕を組んで目蓋を下ろす寸前、ヤクモはふと気付いた。
 陥った思考には少なくとも負の感情は僅かしか無く、何故だか縋るのに似た、苦痛ではないものであった事に。
 名を付けるのであれば、それは紛れない──ひとつの望みだ。
 楽観と。そうとしか呼び様のない意識。そこにあったのは単純な歓喜と鮮明な驚きばかりだっただろうか。他に理由があるとすれば──果たしてそれは何に値するものなのだろうか。
 「……、何れにせよ、目的を異にする以上、彼奴とはまた刃を交える事にはなるだろうな…」
 眠気と疲労とに半分意識をやった侭、ヤクモは己に言い聞かせる様に、そう、口にして目蓋を閉ざす。
 静謐な空気は休息を欲する身の妨げになる事はなく、眠りに落ちるのにはそれから大した時間もかからなかった。




12話直後ヤクモ篇。ちなみにこの後13話ラスト通り太白神社跡地に顔出してから再度伏魔殿と云う流れで。(つまり何で13話にあそこに居たのかの辻褄合わせを考えたかっただk…)
どうも悩める人外っぷりのノリが好きらしいです。本人の元々の性質を思えば、たった五年程度であそこまで変わっちゃうのってやっぱり外的要因(この場合は人外評価)も強いだろうと思うのもあって。

病んだ錯覚は、或いは自身にさえ気付かれざる望みそのものか。