気付いて仕舞った時には、疾うに手遅れになっていたのだと思う。
 それはまるで抗い様のない引力の様に。
 夢とも現ともつかない境界に立たされ、偽なのか真なのかさえも判然とせず。ただ此の中に在ると。
 気付いて仕舞った時には、もう手遅れだった。



  あけがたにくるひとよ



 真っ暗な室内の、同じく真っ暗な天井。
 ぱちりと、奇妙にはっきりと冴えた眼が開くなり捉えたその光景を、ヤクモは瞬きも忘れたかの様に暫し茫と見つめていた。
 時間にして数分程の間ずっと天井板に熱心に視線を注ぎ続けて、やがて疲れた様に身体ごと横向きに寝返りを打つ。外気に触れていたのか、少しひんやりしていた布団端の感触にヤクモは思わず顔を顰めた。
 温かな布団に未練を感じ暫しの間、身体に密着して温かい毛布をもぐもぐと引っ張り寄せて丸まってみるが、はっきりと冴えて仕舞った意識は心地よい温度の中でも二度寝を許してくれそうにない。もう二度、三度と軽く寝返りを打って結局最初の通りに天井へ視線が戻ると、ヤクモはいよいよ諦めて身体を起こす事にした。億劫な背中を持ち上げ振り返る。
 起きる寸前にごろごろと左右に転がった所為か、シーツが子供のものの様に寝乱れて仕舞っている事に眉を軽く寄せ、掛け布団を足下に畳むと乱れた寝床を引っ張って整える。
 習慣の様に見遣れば卓の上に置かれた紅い神操機が同じくいつもの様に目に留まるが、裡の気配を窺ってみたところ式神達はどうやら眠っているらしく、ヤクモが起き上がった事にも気付いていない様だ。
 手を伸ばすことを一瞬考えるが、用向きも無いのにわざわざ起こす必要も無いか、と思い直し、物音を殺して零神操機に背を向ける。
 寝間着に着ていた単衣一枚の身が、布団の温度を恋しがってぶるりと震える。ヤクモは冷えた己の両肩を軽く抱きながら室内をぐるりと見回してみるのだが、上掛けになりそうなものは近くには見あたらない。
 動いていれば何れ温かくなるか、と諦め混じりに思いそっと立ち上がると、ヤクモは足音を立てずに真っ暗な室内を横切り出た。

 *

 負い目が、全く無かったと云えば嘘になる。

 彼が求めていたのは、失くしたものを取り戻す事だけ。
  (それを知った時には、彼を哀れんだ)
  (似ている、と思って仕舞った時から、戦意など消え失せていた)
 彼が憎んでいたのは、全てを手の届かぬ所に奪い去った天地流派だけ。
  (それに気付いた時は、彼を憐れんだ)
  (恨み言も既に届かないものへは、復讐すら出来ない)

 だから彼は、自分の中に生まれた負債を払おうとした。
 家族を守れなかった、と云う悔恨を拭い棄て、家族を今度こそ助けようとした。
 その為には何をも対価にしようと構うまいと、恐らくはそう強く決意し此処まで来た。
 向けられる僅かの好意には、口先では応じながらも胸中では容赦なく嘲りを向けた。
 向けられる僅かの棘にも、それが己を殺す刃だとばかりに悪意を感じ取った。

 ……結局、最初から最後まで彼は、愛情と云うものを切実に希求し続けていたのだ。

 *

 冬の夜明けは夜程に暗い。未だ日の出る兆しの全く感じられない空は薄暗く、空気も鎮と冷え切っており身を切る様に冷たい。寒さに幾度も肩を震わせながら、ヤクモはなだらかな山道を昇っていた。
 特に目的地があった訳でもない。ただ部屋から出たら縁側に草履があったので突っかけて、適当に歩き出したらなんとなく、太白神社の方へと足が自然と向いていただけだ。
 山道は人が歩く為に地面は幾分踏み固められている。とは云え舗装された道ではない。下生えの草が剥き出しの足の皮膚をひやりとした温度でくすぐり、その下では霜柱が踏まれ崩れる。早朝特有の、ひとけよりも水気や空気の匂いの濃い朝の空気を肺にやわく溜めて、ヤクモは危なげのない足取りで進んでいく。
 程なくして太白神社跡へと辿り着くと、境内へと入り込んで辺りを見回してみる。まだ暗い所為か、それとも今日は余所に出掛けて仕舞っているのか、辺りに住み着いている野良猫の姿は見あたらない。居たとしても餌も何も持っていない訳だが。
 残念と感じたか安堵を憶えたのか。或いはどちらでも良い様な思いを引き連れて、ヤクモは境内を回り込んで横手にある林へと踏み入った。見上げる木は、桜、木蓮。少し手前には銀杏。何れもこの季節には何も抱かない枯れ枝ばかりを拡げており、ほんの僅か先程よりは白んで来た様に思える空の前に、複雑な図柄をした天蓋の様に聳えている。
 精彩の無い樹皮の下、枝先にはこの春芽吹かせる花の蕾が眠っているとは俄に信じ難い。そんな桜の繊細な枝振りを見遣りながら、ヤクモは桜の木にその侭半身を寄りかからせた。立っている心算はあったのだが、その意に反して寄りかかったその侭ずるずると膝が崩れ、根元に座り込んで仕舞う。
 (……汚れるな)
 白い単衣と地面の土を見てぼんやりそんな事を思うが、動く気力が何故か湧かない。生来の少々楽観的な気質で、何とかなるかと消極的に諦めながら、ヤクモは座り込んだ侭行き場を失った眼差しを空へとなんとなく向けてみる。
 時計も見て来なかったから時刻がどの程度かは判然としないが、頭上は本日の晴天ぶりを窺わせる澄んだ空だ。もう地平の淵は曙光を受け始めている頃だろうが、空の頂点はまだ暗く、眼を凝らせば星さえも見る事が出来る。
 暗い。昏い空。室内を無遠慮に舐め、人を目覚めさせる様な眩しい陽光は未だ遠い、彼者誰の時。
 幾ら今まで、日頃のヤクモが規則正しい生活を遵守していたとは云っても、こんな薄明の時間に起きる事は稀だ。況して今日の様にあんなにはっきりと目が醒めて仕舞う事など普通ならばまず無い。
 ウツホとの戦いで大きく損耗したヤクモの気力と体力とは、未だその全てが万全に戻ったとは言い難い。怪我の方はもう問題など残らぬ程に回復しているが、体力と、その養う気力は未だ不十分だ。
 その為にヤクモの身体は己で意識せずとも休息を欲しており、最も簡単な手段として睡眠を多く摂取しようと務める傾向にある。そんな状態にあってこうもはっきりと目が醒めたと云う事は、昨晩の早寝も手伝い『今』の睡眠は充分であると勝手に判断されたのだろう。
 と、なると遠からず再び睡魔に襲われる可能性は高い。突然眠くなったり突然目が冴えたりする、この不規則な睡眠サイクルの所為でよく食事や活動時間が家族皆と合わなくなる弊害を思い起こしながらヤクモは小さく溜息をついた。全て自分のツケだ、と、習慣の様にそう締めて、両腕をだらりと横に落とす。
 過分な力も必要無く、ただ時の移り変わりを黙って空を見つめるだけで過ごす。空の色は一瞬たりとも同じに止まらず変化を続けており、幸いにも見ていて飽きると云う事もなかった。先程まで感じていた寒さも、長々と歩いて来た事で身体が暖まったのか、今は何処か遠い。
 そろそろ菫色に染まりつつある空に、風が吹く度金色の雲が形を変えながら筋を描いていく。そんな天然の奇跡の様な光景を、思考する事にも疲労を感じ始めたヤクモの眼はただ美しいものとだけ感じながら受け止めていた。
 (もう日の出か…)
 そろそろイヅナやナズナが起き出す頃合いだ、とは考えが至るのだが、すっかり座り込んで収まっているヤクモの身体はそんな意識に反して僅かたりとも動こうとはしてくれない。朝、布団から姿を消していた、などと云う事が知れれば皆は心配するだろうなとは解っているのだが、そんな思考さえも段々と億劫になって行くばかりだ。
 そうする内に陽はどんどんと空を薄蒼く染め上げて行き、ひととき白い一瞬を抜ければもう夜明けの時間は終わりだ。小鳥達が騒がしく囀り始めるのを頭上の木々にも受け止めて、ヤクモは、戻らないと、と云う意思とは逆に力を抜いた。と云うよりは抜けて仕舞った。
 (………まずいなぁ…)
 ぼんやりと、大して焦燥も感じずにそう呟いて、目蓋を半分下ろす。起きていられる時間の限界の訪れは、本当に唐突だった。
 (お説教は覚悟、だな)
 ここまで気紛れで来て仕舞った事に対する後悔は特に無いものの、家に戻った──戻された──後の事を思い暗澹たる気持ちでそう呟いたヤクモの耳が、石段を登って来る足音をふと捉えた。
 眠気に支配されつつある意識で、ヤクモは聴覚に全神経を総動員してこちらに近付いて来る気配の正体を探ろうとする。が、そんな事に残り少ない意識全てを注ぐ迄も無かった。まるで抱いた疑問に応えるかの様に、呼び声が無造作に耳に飛び込んで来たからである。
 「おーい、ヤクモ?いるのかー?」
 憶えも馴染みも深い声音に、僅かに強張りかけたヤクモの肩から一気に力が抜けた。思えば、探る迄もない事だ。いつだって──伏魔殿の中でも──ヤクモを探しに来るのは大概がこの男だったのだから。
 男が──漸く石段を昇り終えたマサオミが、息を軽くつきながらも早足で『立入禁止』と区切られた鳥居を横から回り込み境内へと入って来る。ヤクモの座る桜の根元からは辛うじてその様子が伺えるのだが、向こうからは林の奥になって仕舞っているこちらに気付くのは難しいかも知れない。
 「あれ。てっきり此処だと思ったんだが……。猫…も居ないな。全く、何処行っちまったのかね……」
 (一応当たっているぞ、マサオミ)
 山道ではなく石段を登って来たマサオミは何処となく疲れた様子で、腰に手を当てて周囲をきょろきょろと見回している。自分を探しに来てくれたのは明らかなのだから返事をすべきだ、とヤクモは思うのだが、何故か言葉は胸の裡から全く出ていこうとはしない。ヤクモは軽く口を上下させ、喉奥に清涼な朝の空気を吸い込んではみるが、どうした訳かその呼吸と共に吐き出せば良いだけの返事が出てこない。言葉を出す程に億劫な訳では無い筈だと云うのに。
 「ヤクモ?いるのかー?いるなら返事しろよー?」
 折角こんな所まで登って来たからか、それとも此処が正解であると云う確信でもあったのか、マサオミはヤクモからの応えが無くとも諦める様子も見せず、境内をうろうろと歩き始めた。ひととき視界から消えるその姿を視線で追う事も止めて、ヤクモは脱力の侭にことん、と首を傾げた。
 応えられない訳ではない。応える必要が無いだけだ──と。そう気付いた瞬間、どうでもよくなった。
 この声は、本当はここにはないものだ。居ないものの囁きだ。
 迎えになど本当ならば来ない。此処には、居ない筈の者だ。
 (………お前は、本当は此処には、居ない)
 ヤクモにしては珍しくも後ろ向きで陰鬱な思考だった。或いは酷く前向きであったと云うべきかも知れない。
 ──あの、千二百年前の時代に生まれた男は、この時代のものではない。
 次の新月には彼の家族を封印から解くべく手筈が既に整えられており、リクと、ユーマもその時には此処を訪れる事になっている。双方とも、宗家としての最後の贖罪と責務を果たす為に。
 そしてそれと同時に──マサオミはこの時代から消える。帰って行く。
 つまりそれは、ここにはいない、と云う事だ。
 (居ない者の迎えを期待するのに、慣れたくないし、)
            、  も無い。
 ぼんやりとした思考の横を、マサオミの、ヤクモを探す声が通りすぎて行く。
 一体どう云った気紛れか思考回路か知れないが、マサオミはヤクモに好意らしきものを寄せて来ている。友情、と云うには少々質の違うその正体を深く考えた事はヤクモには無かったが、どうやらそれは本人曰く恋だの愛だのと云う情なのだと云う。
 ただでさえ、同じ年齢の男にそんな事を真っ向から告げられても、当然頷くには抵抗のある話だろう。それに加えてもう一つ、互いが在る刻の差異、と云う最大の原因に於いてそれは特に顕著に。
 少なくともヤクモの抱くこの思考は、マサオミが期待している様なものではない。
 だが、彼の存在に何かしらの愛着や友情、或いは単純に慣れとでも云うべきものを憶えているのは否定しようもない事実であるのだと、こう云う時にはっきりと思い知らされる。
 結局絆されたと云う事なのか。
 ──或いは未だ自分はマサオミの事を憐憫の眼差しで見て仕舞っているのか。それとも負い目なのか。判然とは、しない。
 「ヤクモー?もしも動けない状態なら何とか合図しろよー。──……ホントに居ないのか?」
 黙った侭のヤクモを余所に、マサオミの声が辺りを忙しなく移動していく。その声音に潜む心配の質を確かに感じ取って、ヤクモは寸時苦い感情に蓋をした。
 いっそこの侭発見されなければ良いと、後ろ向きに沈んだ思考がそんな事を囁くのに苦く微笑む。
 勢いで家出をして、素直に帰る事の出来なくなった子供でもあるまいし。一体何をやっているのだろう。
 (……そうだな。お前には見つかりたくないのかも知れない、が──……どうせ、)

 「見つけた」

 (どうせ、お前はしつこいぐらいの熱心さで俺を見つけ出すのだから──)

 期待に添えなかった筈の結果が、然し何処か甘く胸の中に残留する。その居心地の悪さに耐えかねてヤクモは力無く目蓋を押し上げた。果たしてどうやって此処を見つけたのやら、じゃり、と湿った土を踏みしめる音と共に、目の前にマサオミがしゃがみ込んで来る。
 「全く。居るなら返事くらいしろって。毎朝アンタと隠れんぼしてる訳じゃないんだからさぁ」
 抗議めいた云い種の割にマサオミの声音は酷く優しく、心地よい響きでヤクモの耳朶を揺する。起きている事に疲れを隠せない眼を数回瞬かせ、同じ目の高さに居る彼を見遣れば、声音同様に緩く穏やかな表情がそこに在る。
 「聞いてるのか、ヤクモ?ん?ひょっとして眠い?」
 なかなかに鋭い問いと同時にマサオミの温かな手がヤクモの首筋をなぞる様にして、両頬に触れて来た。その感触はくすぐったいが、抗議も振り払う気力も湧いては来ない。
 見つけられたと云う諦観なのか、或いは安堵なのか。それとも丁度良い逃げ道だったのか。眠気は先程よりも強く、瞬く間にヤクモの意識を蝕みつつあった。
 「…………ああ、眠い」
 半分以上が落ち掛かった目蓋を辛うじて保ってそうとだけ呟くと、次の瞬間にはヤクモの視界が暗くなる。かくん、と首が眠気に因る脱力に逆らわず下を向くのを感じ、丁度頷く形だなと纏まらない思考がそんな事を考え直ぐに忘れた。
 「ってこら、眠いのは判ったからこんな所で寝るな!おい、ヤクモ!!寝たら死ぬぞ!?おーーい!」
 流石に狼狽した様なマサオミの声と共にぺちぺちと頬を打たれるが、意識の無い眠りは生憎そんな事で妨げられる様なものでもない。
 すまない、と胸中で最後に──何についてかも知れない様なそんな言葉を漏らしてから、ヤクモは一息に、深い眠りへと己を突き落とした。

 *

 負い目は、いつだって不安と不審を伴って此の中にあった。
 
 彼の、全てを懸けたその願いが叶って欲しいと思ったのは、純粋に本心からだった。
 彼の、心すらも踏み躙ったその叫びが届いて欲しいと思ったのは、単純な反射だった。
 同情は彼の信念に対する冒涜だとは解っていた。解っていたが、彼をどうにか救えはしないだろうかと思い上がった。

 然し、彼のその望みが絶対に叶わないと云う事を、既に知って仕舞っていた。
 望みを、願いを。妨害するのは誰あろう『自分』なのだから、絶対に叶わせはすまいと、理解して仕舞っていた。
 
 負い目は、申し訳無さを伴ってただ彼をあわれんだ。
  (彼の憎む天流である事)
  (彼に同情を寄せた事)
  (彼に己を重ね合わせて見ていた事)
  (彼の願いが叶えばと思って仕舞った事)
  (彼の願いを妨害する最大の障碍が、誰あろう自分であると知っていた事)
  (だから、魂以外の全てならば差し出しても構わないと思った事)
  (或いはそれでも、救えはしないかと思い上がっていた事)

 (そして最後の最後で、俺はお前の願いよりも、世界を選んだ。──その事実)

 ……負い目は、いつでも此の中にあった。

 *

 「うわー……本当に寝ちゃう気かよこんな所で!」
 かくん、と人形の様に脱力したヤクモが、桜の巨木に寄りかかった侭憎らしい程に穏やかな表情で眠りへと落ちるのを見て、マサオミは両腕が空いていたら頭を抱えて嘆きたい心地になった。
 鎮か過ぎる寝息を微かに漏らす、日頃の鋭い眼差しを閉じてさえいれば実に幼い印象を与えるヤクモの寝顔を挟んで持った侭、マサオミの肺から重たく漏れるのは諦観の溜息。
 手を添えた耳の下の温かな体温と血流。この寒さに在ってこれだけの体温を保っているのは恐らく、軽く熱が出ているからだろう。あれからしょっちゅう繰り返して来た事だからそのぐらいは直ぐに解る。
 それにしてもこんな屋外である事にも拘泥せず眠りに落ちて仕舞うのは、今のヤクモにとっては仕方のない事とは云え、不用心にも程があるぞとマサオミは胸中で遠慮無く抗議した。
 「〜こんな無防備で良い訳ないだろうが……」
 はあ、と再度、先程とはやや質の違う嘆息を漏らすと、マサオミはヤクモの顔から手をそっと離した。途端かくりと項垂れて仕舞う頭を見つめながら、さてどうしたものかと思考する。
 石段を戻るにしても山道を行くにしても、脱力しきった男の身体ひとつを横抱きにして歩こうと思う程にマサオミは無謀ではない。かと云って叩いても突いても全く目を醒ましそうにない相手を起こす良い方法も思いつかない。
 全く手間のかかる、と、満更でもない表情で呟きながら、マサオミはぴたりと閉ざされているヤクモの左目蓋に密かに口接けを落とした。本人が起きてから知れば叩かれるかも知れないが、この程度は役得と手間賃で許して欲しいものである。
 さて、と脱力しきったその腕を掴むと己の肩に凭れ掛けさせ、身を反転させて一気に身体を前傾に倒す。と、上手い具合にヤクモの体重がマサオミの背に乗って来た。その侭落とさない様にバランスを取りながら足を支えてやれば、なんとか背負っている形になる。これも何度か経験していい加減慣れて仕舞った動作だ。
 単純な睡眠以上の深い所へ落ちて仕舞っているヤクモの身体は、身の丈を考えると本来ならばもう少しは重いのだろうが、最近の療養生活で体重が幾分落ちているらしく想像よりは軽い。一度萎えた筋肉を鍛え直すには苦労しそうだなあと余計な事を考えながら、マサオミは背負ったヤクモを落とさない様気を配りつつ、山道へと向かって歩き出した。横抱きにするよりはバランスが良いと云っても、この状態であの足場の悪い石段を下る気にはなれない。
 だからと云って山道が決して楽な道程と云う訳でもない。ぐっすり、と云うよりは、ぐったり、と云った表現が相応しい様子で、力無く自らの背に負われているヤクモをちらりと振り返る仕草をして、マサオミは溜息をついた。今度は先程よりも少し大きかった。

 *

 いつの間にか辺りには靄が出始めていた。湿った空気が着衣を重くする不快さと、視界が碌に見通せない不便さとに顔を顰めて、ヤクモは慎重な動作で辺りを見回してみる。
 高地特有の気紛れな天候は気付いた時には瞬く間に辺りを包み込んで仕舞っている。この上天気が崩れたら最悪だと思いながら彼は頭上を見上げた。空は、靄の緞帳の向こうで青々した拡がりを持って悠然とヤクモを見下ろして来ている。どうやらこの様子ならば雨や雹が降って来る様な事にはならないだろう。
 そんな空の上の事よりも問題は寧ろ地の上の事だ。大気に濃いミルクを溶かしたかの様なこの真っ白な視界では一寸先の様子を窺う事すら困難だ。振り返って見れど、寸前まで歩いて来た筈の風景はおろか、その先も、足下さえもよく把握出来ない。
 足場の悪い山道で、これ以上前後不覚の侭進み続けると云うのは自殺行為である。多くの者がそう判じるだろう通りにヤクモもまた、それ以上進む事を諦める事にした。
 手探りで慎重に己の周囲の様子だけを探り、ふと手の触れた木の根元にそっと腰を下ろす。何となく軽く自らの頬をなぞってみれば湿気にべとついた厭な感触がそこにあり、ヤクモは少しだけ顔を顰めた。同じ様に湿った髪の生え際を爪で掻いて、その侭ゆっくりと顔を起こしてみる。
 粘度がある様な錯覚さえ憶える濃い靄の中に、辛うじて己の寄りかかる木々の葉と枝との輪郭が伺える。そのほか、空に向かって奇妙な晴れ間が頭上に拡がっているだけで、他の光景は不明瞭に澱んだ視界の中、はっきりとはしない。
 幾分明瞭な筈の空には、然しその抱く筈の光源が見当たらない。あれ、と一瞬ヤクモは首を傾げるが、ここは自然の理外れた伏魔殿なのだからそれは当然かと思い直し、何故今更そんな源初の疑問に突き当たるのだろうかと、更に不審な心持ちになる。
 何か、根底になにかを置き去りにして来ている様な違和感を憶えるのだが、喉に引っかかった言葉の様にそれは吐き出されない癖に酷い不快感を伴って寄り添っている。真っ白な靄の向こうにその正体を探すかの様に、ヤクモは暫くの間無言で考え込んでみるのだが、
 (………そもそも、何故そんな事を考えて仕舞ったのか、が解らない)
 違和感の正体そのものが全く判然とせず、却って思考が霞がかって仕舞う。晴れない天候に流れ込んだこの靄の様に、己の姿でさえも確認する事の出来ない事にただ不明瞭な不安を煽られると云うのに、こうして暫しの休息を得られる事には居心地の悪い安堵を覚えて仕舞う様な。
 (…………………不安?)
 そう、呟くのと同時に己の体温が一度や二度は下がった錯覚を憶え、ヤクモは自らの両肩を軽く抱いた。項をちりちりとさせ、背筋をつたって落ちるこれは、紛れもない。間違いようもない。不安と云う感覚。
 何に憶えているのか。何に感じているのか。判らない──が、余り質の良いものではないなとかぶりを振ってそれを否定する。
 歩き慣れた伏魔殿と云う空間で己の立ち位置に不安を覚えるなどと云う事は、久しく無かった事だ。その程度にはヤクモはこの位相空間での生活に馴染んで仕舞っている。孤独も恐怖も──そして不安も、今となってはある意味で全く無縁とも云えるものだ。
 「──ッ!!」
 そこまで考えた所で、漸くヤクモは違和感の正体の欠片を掴み取る事に成功した。思わず腰を浮かせて右手を寄せるが、いつも在る場所の所にそれがない。
 「皆、」
 愕然と呟く。そこに在る筈の神操機が、無い!
 落とした、と云う事は有り得ない。ホルダーごとその姿を消した紅い神操機は、そもそも始めからそこに無かったのだ。
 置いて来たか、などと巡らせるのは愚考だ。無いものは無い。始めからそこに、用意されてなどいないのだ。
 ぞ、と更に冷えた己の心──不安ごと自らを抱いて、ヤクモは下唇を噛んだ。
 ──そうだ。そもそも、今は伏魔殿は殆どその原型を留めてなどいない。
 なれば此処は伏魔殿以外の一体何処か。
 何処でも在る筈のない。不安の坩堝。
 つまり、これは。
 「  、」
 呟きかけた刹那、前方に唐突に気配が生まれるのに気付いたヤクモが顔を起こすと、そこにはよく見知った姿が居た。
 薄明に似た靄の白い暗がり。彼の者は誰か。
 「……まさおみ、」
 掠れたヤクモの呼びかけに彼は満足そうに微笑みを寄越して来ると、いっそ優しいとも云える動きで、その指をヤクモの眼窩へと滑り込ませた。

 *

 「──────ッ!!!」
 己で上げた声にならない悲鳴でヤクモは目を醒ました。冷や汗でつめたい己の身体を掻き抱き、恐慌に震えるてのひらで、痛い程に見開かれた目蓋を強く強く押さえる。
 ぜ、ぜ、と耳障りな呼吸と心臓の跳ねる様な鼓動。仰け反り枕に沈んだ頭の後ろで血流が耳鳴りを伴って血管内を巡って行く。
 恐る恐る、左の手を退け、その手にあかいものが付着していない事を確認してから、ヤクモは今度は右の手で左眼を覆った。震える指先で眼の縁をゆっくりとなぞり、そこに眼球が確かにある事が知れると、そこで漸く全身の力が抜けた。
 引きつったかの様に見開かれた眼だけはずきずきと酷い痛みを訴えていて、すっかり乾ききっているのか瞬きひとつにも貼り付く様な激痛を伴う。
 (…………夢)
 殊更突き放した様に呟き、改めて背筋が凍える。夢と云うには奇妙にリアルだった体験。指が眼球を押し退けて眼窩深くに潜り込んで来た感触さえも子細に思い出せて仕舞う。
 「──ッは、」
 記憶が再び感触を伴って蘇るのに吐き気を憶え、ヤクモは何とも無い筈の左眼を閉じる事も出来ず、てのひらで覆って荒い呼吸を吐いた。
 夢にしては何とも趣味の悪いものだろうかと幾度か呟き、落ち着きを取り戻そうと周囲に意識を向けてみる。
 改めて確認するまでもなく、そこは新太白神社にあるヤクモの自室(但し仮)だった。畳張りのこぢんまりとした和室。相変わらず生活感も特に無く、興を引く様な面白味や変化がある訳でもない。零神操機や式神たちの気配も同時に無い事に気付くが、それに対する不安や不審は特に湧かない。モンジュが鬼門の調査などで式神視点の助言を求め、時折ヤクモに断りを入れて借り出して行く事が最近あるからだ。
 そして今は式神たちが居ない事で、逆にヤクモには安堵があった。この恐慌の目醒めを皆に問われた所で、上手く説明出来る気がしない。
 また熱でも出していたのか、ヤクモの額には冷たい濡れタオルが乗せられていた。そのタオル越しに額を強く押さえてみれば、まだ残るひんやりとした温度がそこから僅かに拡がる。
 眠っていたヤクモに気を遣っての事か、カーテンは寝床の頭側だけが閉ざされており、足下の方にだけ陽が降り注いでいる。丁度ヤクモの横たわる白いシーツはそこから差し込む茜色の斜陽に染め上げられていて、その有り様に一瞬血の色を思い出してまた吐き気を堪える。
 陽光の色や角度からして、カーテンを開いて確認する迄もなく時刻は黄昏時の様だった。まだ早鐘の様に打ち続けている鼓動の煩さを感じつつ、殆ど一日を眠って仕舞った訳か、とヤクモは余所事の様に呟いた。朝が早過ぎた意味などこれでは全く無い。
 「………はぁ、」
 酸素の少なさに喘ぐ様な溜息が我知らず漏れ、そこで漸くヤクモは己の身体が酷く乾いている事に気付いた。正確には身体自体は冷や汗をかいて寧ろ冷たいぐらいなのだが、身体の内側──喉や眼球が酷く乾いて苦しい。
 額に乗せられていたタオルの温度や湿り具合からして、これを置いていってくれたのはほんの僅か前の事だろう。ヤクモが熟睡していたのであれば、面倒を見てくれたらしい人は当分は戻って来てくれないだろうと思って困り果てる。万が一ひっくり返す様な事を案じたらしく、枕元に水の張った洗面器の類は置いていない。あったとしても飲用とは言い難いその水を飲む気にはなれなかっただろうが、思わず目視で探して仕舞う程に水気が恋しいのは実の所可成り切実な本音ではあった。
 どうしようか、と思案したのは数秒。自分で台所まで行くしかないと判じたヤクモは、そんな当たり前の事を思いつくにも時間がかかって仕舞った事に気付いて渋面を作った。タオルを額から毟り剥がすと、乾いている筈が酷く重く軋む身体をのろのろと起こそうとする。肘を付きながら背を何とか浮かせ、横向きに起きあがろうと畳に手を付いた、その時。
 「!」
 ずる、と体重を支える事に失敗した手が滑り、ヤクモの身体は重力に従って容赦なく横向きに倒れた。顔面を畳に打ち付ける様な事には何とかならないで済んだが、強かに打ち付けた肩が元よりある全身の軋みと相俟って酷く痛んだ。
 不覚過ぎる、と呻きながら、然し同時に、今の音で誰かが気付いてはくれないものかと期待もする。恥や情けなさや痛みよりも、今は乾きの方が切実だった。
 そんなヤクモの偶発的な思惑通り、倒れ込んでからほぼ間を置かずに、部屋の扉を開いて姿を見せたのはマサオミだった。
 「今の音……ってやっぱり気の所為じゃなかったか。〜熱も結構出てたし、無理して起きるなって」
 不安顔を隠さず部屋に入って来たマサオミの姿に先程の悪夢が寸時重なり、ヤクモは思わず身を竦ませるが、マサオミの目にそれは、起き上がろうと一人で藻掻いている様に映ったらしい。彼は制止する様な仕草をヤクモへと向けてから、
 「少し待ってな。丁度今何か持って来ようとしてた所なんだ」
 そう云って再び踵を返そうとする。その背中に思わず──何と云おうとしたのかは判らない──声をかけようとしたヤクモだったが、その喉は渇いて貼り付き、乾いた呼吸を吐き出すのみで終わって仕舞う。
 「──、」
 「ああ、あと水な。解ってる。大人しく待ってろよ?」
 乾いて引きつる喉に表情を歪めたヤクモに念押しする様にそう云うと、マサオミは廊下をばたばたと駆けて去って行く。扉は開け放った侭で、そこから室内の澱んだ空気の代わりに涼しい風がほんの僅か吹いて来る。冬の寒気は汗をかいた身体には寒いぐらいだったが、今は却って脳を冷却してくれる気がして、ヤクモは漸く落ち着いて下ろせた目蓋の下で息をゆっくりと吐いた。再度、呟く。
 (夢、にしては本当に──趣味の悪い)
 今朝ヤクモを探しに来てくれた時の心配声や、今し方見た心底案じる様なマサオミの表情は到底、あの悪夢の中の奇妙な笑顔と行動とには結びつきそうもない。だと云うのに厭な心持ちがぐるぐると頭の中を渦巻いている事に、呆れに似た怯えを憶える。
 熱の最中に見る夢など、子供の落書き以上に支離滅裂な事が多いものだ。幾ら生々しい内容だったからとは云え、そんな事にひとときとは云え怯えて仕舞った自分に情けなさを感じずにはいられない。
 それでももう一度だけ、ヤクモはそっと左の眼球を目蓋越しになぞった。

 *

 負い目があるから、公平さなど無かった。

 彼は、自分で踏み躙った筈のものを、今は失うまいと必死で欲していた。
 彼は、自分で失くそうとしていたものを、今は取り戻そうと只管に望んでいた。

 そう、やはり最初に思った通り。
 最初から最後まで彼は、愛情と云うものを切実に希求し続けていたのだ。
 
 *
 
 程なくして戻って来たマサオミの手には、ミネラルウォーターの入った瓶とグラスなどが乗ったお盆が携えられていた。
 透明の飾り気のないグラスに注がれた水を、受け取るが早いがヤクモは殆ど一気にごくごくと飲み干す。お代わりを要求する迄もなく、空になったグラスに二杯目がそっと注がれたので、今度はゆっくりと時間をかけて喉を潤した。
 「……有り難う」
 ふう、と漸く楽になった喉でそう素直に云うと、マサオミは「どういたしまして」と衒いもなく返して寄越す。眼球の方はまだ瞬きの度乾いて僅かに痛かったが、幾分表面は潤いを取り戻し始めている様で、こちらはそのうち治るだろうと思って、ヤクモはゆっくりと瞬きを繰り返した。
 水を文字通り得たヤクモが人心地を取り戻したのを待って、マサオミは盆の上に載っていた缶詰を缶切りで器用に開封し始める。ラベルには桃の写真。内容物も当然そのものだろうと思いながらも、ヤクモはぱちくりとそれを見遣った。
 「病気の時には桃缶。って云うのが定番だって聞いたんだよ。食欲は無いかも知れないがアンタ今日一日何も口にしてないし、何か入れておいた方が良いと思ってね」
 視線だけでヤクモの問いを察したのか、マサオミはどこか上機嫌そうな風情でそう答えると、缶詰の中にフォークを突き入れた。ややあって再び取り出されたその先端には、種を刳り抜かれ半分にカットされた白桃の果肉が刺さっている。
 若干濃いシロップによく漬かった、とろりとした表面を見せる桃の一切れを皿に一旦移すと、今度はそれを器用に二つに割り、マサオミはその半片を突き刺したフォークをヤクモへと、すい、と差し出して来た。
 「はい、あーん」
 そう云って来る表情が締まりの無い笑顔だったからか。それとも水飴に浸したかの様につやつやと光る桃が食欲を促したからなのか。マサオミに云われる侭にヤクモは大人しく口を開いた。一瞬の躊躇に似た間の後、口内によく冷えた桃が潜り込んで来る。
 さく、とフォークが抜かれるのを待って、少し繊維質な甘い果肉を時間をかけてもくもくと咀嚼する。そんなヤクモの様子をまじまじと見つめていたマサオミだったが、第一陣が嚥下されるのを見るなり、残った半片も慌てて差し出して来た。同じ様に大人しく口に放り込まれ、無言の侭味わう。
 同じ事をもうワンセット。時間を掛けて一個分の桃を何とか平らげたヤクモだったが、一日何も食べていないと云う割にはそれ以上の食欲も湧かず、続けてマサオミの差し出して来ようとした一個半目にはかぶりを振った。
 「旨かったか?」
 「甘い。でも悪くなかった。ご馳走様」
 缶詰の味などそうそう差異が解るものではないが、特別美味しい訳でも不味い訳でもない。喉を下った冷たさと口内に残留する甘味は空腹を満たしてくれたと云うより寧ろ現実の触感を思い出させてくれたと云った方が良い。唐突に胃に落ちて来た固形物に抗議する様な臓器の働きは、ここが夢の中ではないと実感させてくれた。本当の意味で漸く人心地がつく。
 「所で、皆は?」
 安堵と同時に湧いて来た最初の疑問を口にする。
 「何処から何処まで?」
 「……家に居る全員だ」
 巫山戯ている様な返し方にヤクモが軽く眼を眇めるが、臆した様子もなくマサオミは指を立てた。淀みなく数えていく。
 「ナズナちゃんは買い物。イヅナさんはさっき珍しく参拝客が来たからその相手。モンジュさんはアンタの神操機を連れて鬼門の調査だってさ。そう云えばモンジュさんからはアンタに断る様に伝言頼まれてたんだったが……その様子だと端から案じてもいなかったみたいだな?」
 「まあな」
 概ね予想通りだった事さえ確認出来ればそれ以上を問う必要も無い。胃の腑の重さにそろそろ言葉を連ねる事も疲れ、ヤクモは黙って静かな呼吸を繰り返した。傷に因る痛みなど疾うに無いが、熱で生まれた気怠さや不規則な睡眠に因る脳や臓器の抗議はなかなか収まるものでもない。
 「……何か、今日はやけに大人しいな?」
 「なかなか本調子には戻らないものだな」
 マサオミの不審そうな問いに独り言を投げ返すと、ヤクモは妙な感慨にとらわれ肩を竦めた。起床時間も、持て余した時間も、怠惰な感情も、夢見の悪さも、大人しく桃を食した事も。マサオミ曰く『大人しい』のだろうその全てが、今ヤクモの甘んじている『不調』そのものだったのだと改めて気付かされる。
 正直、気力を使い果たした我が身がこれ程までに脆弱なものだとは、思いもよらなかった。
 普通人は皆誰もが精神面での強さから涌く力──気力を持っている。その容量は人や年齢に因って異なっているのだが、通常人が日常生活を営む上で気力とはそう大きく消費される事はない。妖怪にでも襲われない限り、気力を能動的に形として消費するのは術者や闘神士だけだ。
 そして気力の消費は体力にも大きく作用する。何故かと云うと、実際のところ気力が枯渇する事はイコール人の心の死であり、それを未然に防ぐ為に、気力を取り戻さんと人体は自然と疲労し休息を取ろうとするのだ。激しく怒ったり泣いたりした後に眠くなるのと、原理としては同じ様なものである。
 嘗てのコゲンタ曰く「ま、お前はモンジュの子だしな。才能…っつーのとはちょっと違うかも知れねェが、闘神士向きなのは間違い無い」だそうで、元よりヤクモは気力容量が大きく、同時にそれを効率的に消費する天性のセンスに恵まれていたらしい。
 とは云え飽く迄それは資質の一つでしかなく、実際得て来た力はヤクモ自身の弛まない努力に因るものが殆どなのだが──ともあれあの戦いでヤクモの使い切った気力は大袈裟ではなく、本当に生命を維持するギリギリのラインだったのだ。その消耗に加え、なまじ気力容量が大きかったのと身体の衰弱とで様々な症状を併発した為に、回復には現在に至る迄の膨大な時間がかかって仕舞っている。
 情けなさと云うよりは侭ならなさに感じる不快の方が多い。それがマサオミ曰くの『大人しい』様そのものであるとすれば、果たして『大人しい』と評される自分はそんなに不審に思われる程に妙なのだろうか。
 取り留めもないそんな事を考え、大きく息をつくヤクモの横顔を暫く見ていたマサオミだったが、やがて手持ち無沙汰になったのか、缶詰に再びフォークを突っ込んだ。
 フォークに貫かれ持ち上がって来たのは、白い球面に粘度の高いシロップをとろりと伝わせた、眼球。
 「ッ!」
 「ん?」
 それがマサオミの口の中へと消えるのを見て、本能的な嫌悪感で全身が怖気立った。息を呑んで凝視するヤクモの視線の先で、マサオミは一体ナニゴトかと云った表情で、白い──桃をくわえている。
 「? やっぱり食うか?」
 「──、いや」
 口をもぐもぐさせながらマサオミが差し出して来る缶詰から視線を逸らして、ヤクモは嘔吐感を必死で堪えていた。
 まだ意識が夢見心地にあるのか、それとも冷めない熱に幻覚でも見ているのか。
 或いは、部屋を出ていった筈のあの夜明け前から、ずっと悪夢の渦中にでも居るのかも知れない。
 (そうでも無ければ、お前が都合良く俺を捜しに来て、これもまた都合良く見つけて連れ帰ってくれた、なんて事は)
 「……………有り得ない話でもないか。執念深さはお墨付きだしな」
 「何か噂されている気がするんだが、一体何の話だ?」
 皿に空けた残りの桃のなだらかな球面をフォークでつつきながら、マサオミ。また眼球が痛くなる様な錯覚を憶えるそんな光景からは目を逸らし、ヤクモは無意識に己の左目蓋を軽く押さえた。内心の温度の反映されない表情で息を吐く。
 「夢を夢であると確認する為の証明を探しているだけだ」
 マサオミの表情が益々困惑に満ちていくのを見て、却って困らせるだけかも知れないとは思いつつも答えを放てば、彼は酷くあっさり「ああ」と頷いた。それはヤクモの裡の思考を察したものでは当然無く、ただの相槌の様な首肯だったのだが、ちゃんと応えの返った事に自然な安堵を覚えた。
 桃の皿を盆に戻した、マサオミの少し冷たいてのひらがヤクモの額に伸ばされる。
 「ま、熱が出ている時の夢なんて訳が解らないしな。やたら現実感も稀薄だし。でも、確かめる方法はあるぜ?」
 「?」
 そう笑うとマサオミは、虚を突かれた様に瞬いたヤクモの側頭部を捉えた。指がまだ痛む左目蓋を辿り、そこにそっと口唇が寄せられる。
 「!!」
 想像以上に鋭敏な感覚の集中していたそこに触れられた瞬間、ヤクモの背筋がぞっと冷えた。薄い目蓋をこじ開けて指が舌が侵入してくる錯覚を憶えて身が竦む。舌の上で転がされる眼球はくるくると回る世界を映し続けるのだろうか。
 突き飛ばさなかったのは最後の理性だ。不自然な程に硬直したヤクモをマサオミが果たしてどう思ったかは知れないが、彼はヤクモの目元に口唇を触れさせた侭、囁く様に呟いた。
 「例えば、こんな事をするのは現実の俺だけだと思わないか?」
 (ああ、そうだ。夢の中のお前はこんな優しい口接けどころか、眼球を抉り出さんとばかりに指を突き立てて来た)
 「…そうだな。趣味の悪さでは他に思い当たりがない」
 己の内心にも、マサオミの問いにも通じる様な答えがすんなり出た事にヤクモは僅かに安堵した。どうやらそこまで弱ってもいない様に思える、悪態としか云い様のない言葉を返されたマサオミは大人しくヤクモから手を離す。
 「世話賃とでも思って大人しく受けてくれればまだ可愛げもあるのにな〜」
 「感謝の意とお前曰くのかわいげとやらが俺には等価値に結びつかない。それだけの事だろう?」
 「……まぁ別に良いがな。解り切ってる事だし。で、夢がどうとか答えは出たのか?」
 「ああ。少なからず『此』れは夢ではないとは」
 これ、と限定したのは今の戯れめいた口接けだけにだ。どこまでが現でどこまでが夢だったかと判じるには、足りない。
 或いは此れ自体が、未だ醒めない夢なのかも知れない、とは、胸中でだけ付け足した。
 
 *
 
 公平さを欠いていたから、同情も憐憫も思い遣りも、全て負い目に似ていた。
 
 彼の望みを最後に摘み取るのは、彼を最後に断罪するのは、紛れもない、自身だった。
  (だから、憎まれれば良いと思った)
  (だから、恨まれる事が正しいと思った)
 憎悪を受け止めるのはきっと、正しい。当然の報いだ。
 
 だから──彼は思い違えてはいけない。
  (此の中にあるのは、彼に対する応えを持たない、情なのだから)
  (刻の理を越えるには赦されない、隔絶があるのだから)

 『御前がそれに、情愛の欠片を期待しない様に』。
 『家族を取り戻した御前が、手には決して入らないそれを悲しまない様に』。

 彼の寄せる想いに応えは用意されていない。それもまた負い目であり、不安であり──、

 *

 (……だから、憎まれてだけいれば良かったんだ)
 暗澹たる気持ちでそう云ってはみるものの、惚れただの腫れただのと言い出したのはそもそも向こうの方である。端からヤクモには応える心算など毛ほどもない。付け入られる隙を作った過失があるのは認めるが、その後相手がどう想い今に至るか、などそもそも知った事ではない。
 ……筈、なのだが。
 「〜♪」
 寝汗をかいていた身体を拭くヤクモの作業を手伝いながら、鼻歌から上機嫌を垂れ流しているマサオミの姿を見て仕舞えば、悲しいかな申し訳の無さが先に立って仕舞うのがお人好しの質故である。
 お前はこの時代の存在ではないのだから、ときっぱり云ってやった事は今までにも幾度と無くある。が、それに対するマサオミの反応はと云えば、確かに一瞬は傷ついた様な風を見せるものの、一日もすればまた「そんな都合の悪いことは忘れました」、とでも云う様に『いつも通り』にしている。
 或いはその態度こそが、ヤクモに却って負い目を感じさせるのかも知れない。
 いつも通り、にあると云う事は、マサオミがそれだけこの時代に馴染んでいるかと云う事でもあり、その中では当然ヤクモの存在が『いつも通り』に在る事も勘定に入っているのだろう。その『いつも通り』の定義に、時間に、思い当たれば当たるだけ、ヤクモは逆に負い目と云うものを強く意識する。思い違えをするなと諭す口が重くなる。マサオミの『戻った』後の『いつも通り』に齟齬を憶える様になる。
 (……だから、あんな夢を見る)
 情愛が棘の様に。感情が刃となって。好意が恐怖ないし悪意となって。負い目を罪悪と抱いたヤクモへと戻って来る。
 本能ごと浸食を拒絶するかの様に。
 負い目や哀れみに対する復讐の様に。
 或いはそうと望んだ具現の様に。
 (お前は、どうする心算なんだ?)
 声には出さず、上機嫌なマサオミの横顔へそう問うと、ヤクモはまた無意識に左の目蓋を押さえた。
 夢想でしかないとは解っていたが、『あの』マサオミの望みを思い浮かべる。
 眼球ひとつ。それとも命ひとつ。或いは闘神士として抗うこの身をか。
 ヤクモが支払うと決めた負い目の対価は、果たして如何程になっているのだろう?
 ヤクモのその決意を、己の衝動や暴力的な意識が原因であると未だ判じているだろうマサオミは、果たして何処までこの存在を求めているのだろう?
 情愛にも、復讐にも既に適わなくなった身(もの)ならば、諦めて仕舞えば良いと云うのに。
 取り戻したい望みの中には、元々これは含まれてなどいなかったのだから、それ以上を願おうとなどしなければ良いのに。
 「マサオミ」
 「うん?」
 着替えの寝間着に袖を通し終えた所で、ヤクモに名を呼ばれたマサオミが視線を向けて来る。
 なおも、上機嫌です、と示している様な柔い笑顔がじっと見つめて来るのに、ヤクモは酷く哀しくなった。
 家族を取り戻したところで、たったひとつどうやっても手に入る事のない──彼にとっては恐らく喪失──ものに傷つき悲しむのだろう、マサオミの姿が容易に想像出来た事に。
 「お前は」

 (『どちら』を選ぶ心算なんだ?)

 「──……莫迦だろう」
 問いが零れる前に渋面になり、ヤクモは思わずそう溜息と共に吐き捨てると、力を抜いて背を倒した。「は?」と目を白黒させているマサオミを余所に、毛布を顎まで引っ張り上げる。
 マサオミに云いたかったのか、それとも自分自身に云いたかったのかもしれない。
 「………何ですか藪から棒に」
 「言葉通りだ。プラシーボ効果が出過ぎなんだお前は」
 厳然と当たるのと八つ当たりをするのとでは結果は兎も角意味が違い過ぎる。夢見の悪さに相俟って意味の浅い夢想などを描くだけ描いて仕舞ってから、ヤクモは少々自己嫌悪に陥った。幸いかマサオミには聞き慣れない横文字単語だったらしく、「ぷら?」と首を傾げて呻いているが、わざわざその意味までを教えてやる気になどなれない。
 欺いた訳では決して無いが、結果は似た様な事になっている。憎悪を受け止め同情を寄せ、彼の望む侭の捌け口にされて猶、それで救いの足しになれば構うまいと、好きにさせた。
 そんな不安定で醜い関係が終わってからも、己の庇護者を生まれた時から刷り込まれている動物の様に、マサオミはどこか無心にヤクモの事を求めて仕舞っている気がするのだ。
 己を赦したものへと、未だ甘えているのだろうか。
 これからも、その甘えが通ると思っているのだろうか。
 (……俺がお前に、応えをやれると。思い違えているのだろうか)
 心の奥深くに堆積されていた腐敗が、ずきりと痛みを此の中に生む。
 曖昧にしか思い出せない、やわい笑顔で云う。「アンタは、俺が帰っても良い場所、みたいな気が」──

 (違うだろう、マサオミ。お前が在るのはこの刻ではないんだ)

 一見巫山戯ている様な、然し真摯な眼差しで云う。「触れる所に居てくれて良かったなぁ、なんて」──

 (俺のことよりも、お前の願いを思い出せ。此れは過ぎて去る無為だと諦めろ)

 解って仕舞う。気付いて仕舞う。痛い程に。切ない程に。呆れる程明け透けに。
 「……ヤクモ?大丈夫か?」
 口をじっと噤んで仕舞っているヤクモを案じる様に、マサオミの手がそっと近づいた。額にかかっていた髪を優しく避けて、触れてくる。
 案じる様な真剣な眼差し。労り深い指の動き。安堵を孕んだ温度。慈しむ様な声。
 至って仕舞う。理解して仕舞う。辛い程に。哀しい程に。眩しい程幸福そうに。
 (惜しみなどない様に、情愛を注いでくれているのだと──)
 …………与えられて、知って仕舞った。
 
 *

 負い目はいつしか罪悪感へと変わっていた。
 
 愛情と赦しと救いを希求する心へと、彼は埋めるものを望んで仕舞った。
 応えてはやれない心を、そうと知って猶諦めきれずに求めている。餓える様な想い。
 ──救いたかった筈が、またしても己が彼を、喪失の地獄へと突き落とさんとしている。
 
 『避けられず喪う。得られず終わる。俺はその痛みを知っているのに、御前にその疵を穿つ事になる』。

 向けられる想いに拒絶ではなく隔絶を示して。それでも寄せられ続けるあたたかな心を、いつかは斬り捨てなければならない。それが罪悪でなく何だと云うのだろう。

 *

 「ここを」
 「──!?」
 思考が宙に浮いたその瞬間をまるで狙ったかの様なタイミングで、マサオミの手指がそっとヤクモの、左眼の縁に触れた。反射的に硬く瞑った目蓋のその上を、愛おしむ様に指先がなぞっていく。
 「刺される夢でも見た?」
 いっそ優しく聴こえる言葉と同時に、指先がヤクモの目蓋を強く押した。加えられる微細な圧力と、僅かに触れる爪の硬い感触とにヤクモは肌を粟立て叫ぶ。
 「ま、──さおみ、ッ!」
 ひととき思い出すあの感触と原始的な恐怖とに眼球が痙攣する様に震えた。押さえられてはいない右目だけを見開いて、ヤクモはマサオミの静かな眼差しを必死で見上げる。意図を知る様に。止める様に。怯える様に。
 そんなヤクモの強烈な反応に、驚いた様にマサオミの手が離れた。彼は自分の手と、再び見開かれたヤクモの左眼とを見遣ると、申し訳なさそうに表情を歪める。
 「……すまん。さっきから左眼ばかり気にしていたから気になって巫山戯ただけなんだ。その…、怖がらせる様な心算は無かった」
 毒気を抜かれた様な表情で頭を下げるマサオミを、未だ戦慄の冷めない眼差しでじっと見て、それからヤクモはキツく眼を瞑った。「いや、」とかぶりを振って、謝るマサオミへ否定を向ける。
 それは、己の不安の見せた下らない夢だ。マサオミの責任では無い。
 負い目と罪悪感と熱がひとときだけ生み出した、取るに足らない悪い夢に過ぎない。
 「…………ただの夢だ」
 必要以上に消沈して仕舞っている気配を纏ったマサオミへとそう呟きを発する。怖がらせた、と云われた部分に否定は別にしない。事実あれは、夢にと云うよりもマサオミ自身に対する不審と怯えだった。己だけにある負い目から生じた感情だった。
 「すまん」
 「もう良い」
 尚も謝るマサオミに軽く聞こえる様に云ってやると、ヤクモは目元から時間をかけて過分な力を抜いた。早朝起きた時にも見上げていたのだろう天井板を意味無くじっと見つめて会話を途絶させる。
 負い目を抱いたからこそ視た、つまらない夢だった。
 何も手がかりのない頼りもない縋る術もない靄の中で、徒に裁かれただけの夢想だった。
 マサオミの向けて来る情愛を──その先に彼に負わせるであろう疵の痛みを勝手に思い、相応の報いを欲しただけの自分勝手な想像。
 彼に再びの喪失を味わわせる、それを思えばこんなものは取るに足らない痛みだ。報いであったとして、足りない程に、軽い。
 応えはやれないと云うのに、向けられる優しさは終わりの近付く日毎に増していく。あれから一度も、巫山戯てでも本気でも言葉には出されていないが、マサオミがどんな想いを込めて此処に居るのかと云う事ぐらいは、解る。
 それが本当にマサオミ曰くの恋心なのか、それとも思い違えなのか、子供の癇癪なのかは判じるに足りない。足りたとして本人以外がそれを断じる事など出来ない。
 だが、ほんの一挙動や声音ひとつひとつに込められている、情愛だけは確かなものだ。
 そこから伝わる、「喪いたくない」そんな願いも、確かだ。

 ……彼は。応えはないのだと隔絶を示すヤクモを知ってなお、そう願うことをやめてはくれない。

 *

 沈黙は痛い程に長かったが、取り留めもなく袋小路に嵌りきっている思考をあてど無く流すには適していた。それでも、「応える事は出来ない」「だが疵は負わせたくない」同じ思考のループに結論が幾度か吸い込まれていった所で、ヤクモは仰向いた頭は動かさず、視線だけを傍らに座っているマサオミへと向けた。こちらが無駄な思索に耽っている間ずっと落ち込んでいたのだろうか、彼は不意に向けられた視線に狼狽した様に見えた。
 「……何故俺なんだ?」
 ぼんやりと。さして意識もせずにそう呟いて仕舞ってから、ヤクモは後悔した。主語の無い問いかけを、然し正確に察したマサオミの表情が苦笑めいた微笑みを乗せるのに、堪らない焦燥を憶える。
 「取ってつけた様な理由を、アンタが必要とするとは思えないよ」
 驚く程真摯な声音でそう返すのと同時に、マサオミの手が再び近付いて来た。澱み無い動きは躊躇いの一切を見せずにヤクモの頬へと添えられる。
 「全てだ。本当に、どうしようもない程」
 云う通りに。恐らくはその通りに。想いの限りを伝えようと云う行動の様に、マサオミの顔がゆっくりとヤクモへと近付いて来た。
 吐息の触れそうな距離。躊躇う間を赦さないゆっくりとした速度。眼差しに込められた深い惑いも想いも全て知って仕舞える程の。
 (……──本当にお前は、莫迦だ)
 「俺は」
 「マサオミ」
 殆ど眼前と云ってもよい距離に迫った彼我の狭間で。
 「この眼を抉ったのはお前だった」
 結局、ヤクモが応えたのは、想いを遮る、どこまでも変えられぬ隔絶の意思ひとつだった。
 
 *

 すべては懺悔する事さえ出来ない、途方もない自分勝手な罪の意識。
 
 負い目から始まったそれは、彼を思い違わせて仕舞ったのかも知れないし、或いは全く関係無かったのかも知れない。
  (それでも事実、彼は望んだ愛情を自ら与える事で手に入れようとした)
 罪悪にまで至ったそれは、大事に思おうとしたものが喪われる事を知った哀しみの見せた、怯懦な欺瞞にも似ていた。
  (結局己のした事は、彼に疵を余計に負わせるだけの事だった)

 或いはそれこそが傲慢かも知れない。
 『だから、罪悪感を正当に感じる為の報いを、望んで仕舞った』。
 『この、何処までも公平ではない望みを、当然の様に受け入れようとしていた』。

 (………御前の望みを、俺は矢張り叶えてはやれないんだ)

 それはきっと裏切る様に自然に。諦めない彼を傷つけ喪わせて、終わる。

 *
 
 夢は夢で本当ではない。誰とも共有はできない。
 それを承知していて、ヤクモは夢の内容を攻撃に使った。
 眼前の距離で翡翠色をした瞳が見開かれるのを見て、心の奥がじわりと冽たくなる錯覚を憶える。
 「夢は夢だ。だが、見た」
 氷の様に冷え切った硝子を噛み砕く様な痛苦が、平然と吐かれた言葉の後でヤクモを襲って来る。だが表情の一切、視線の僅かも逸らさず揺らさず、ヤクモは黙ってマサオミを見上げ続けた。
 悪夢の中で危害を加えたのはお前だと。そんな途方もないことを示されたマサオミは、どうしたら良いのか解らない表情を浮かべて暫し迷い、それから身体を元の様に起こした。
 夢にヤクモが感じた意味までは当然口にする気はない。だが、恐らくマサオミならばこう捉える筈だ。
 「……………俺は未だ、アンタの信頼を取り戻せちゃいない、って事か」
 思うより先に云ったのはマサオミの方だった。噛んだ奥歯の下で、彼は今嘗ての裏切りを思って苛まれている──。
 「……夢は夢だ」
 半ば反射的に繰り返しヤクモはそう口にして仕舞っていたが、下手な慰めだとは理解していた。マサオミもそれは解っている様だった。夢に見た。怯えた。咎めた。それ以上は想像の余地などあるまい。
 卑怯な己の思考にヤクモは非道い嫌悪感を憶えた。マサオミには気取られない様、布団の中で拳を強く固めて、己の心を叱咤する。
 「だが、お前がそう思うのであれば──……そう云う事なのかも、知れない」
 吐き出すのに途方もない痛みを伴った呟きの、しかしそんな事よりも、その瞬間にマサオミが非道く傷ついた表情を見せた事の方がもっと、辛かった。
 偽りに程近い拒絶の卑劣さに、ヤクモは目の前が真っ暗になる程の怒りを憶えていた。だがそれよりもマサオミの負う疵の方が痛い筈だと思い直し堪える。
 喪わせる前に、終わらせてやらなければいけない。
 この刻への未練など、生まれる前に断ち切ってやるべきだ。
 家族を取り戻し元の時代へと戻る。その源初の願いだけを思い出せば良い。
 此の中にはお前の、欲しいものは──無い。
 一時の慰め以上のものは、与えられはしない。
 「──偽だ」
 それだと云うのに、ヤクモがそんな事を思ったのを見透かした様に、マサオミが表情を歪めた。
 「アンタが、信じてくれたから、俺は戻って来れたんだ……!今更、そんな事がある筈無いだろう!?」
 不安に駆られた声。突き抜ける様な問いかけをこぼしながら、彼はヤクモの上に覆い被さった。両肩を掴んで、非道く苦しそうな表情で叫ぶ。
 その痛苦に向けて本当の事を云ってやりたくなる。慰めにもならないと解っていても、云ってやりたくなる。俺は御前に一切の応えを持たないのだから、御前が決定的な喪失を知る前に諦めて貰いたいのだと、教えてやりたくなる。
 疵を徒に拡げるだけだと解っているからこそ、負い目や罪悪感が切なく此の中へと降り積もる。どうあっても届かない、取り戻せないものへの憧憬は、恋心よりも余程残酷で救いようがない。
 それを思い知った時、この男はどうなるのだろうか?
 彼が。はじめてヤクモへと激情を暴力的な行為と云う形で叩きつけたあの時のような。人に見る尊厳も、捧ぐ情愛も、巫山戯た様子や優しさや労りなどなにひとつない、あの仕打ちを。それに似たものを。衝動を。堪えてくれるだろうか……?
 あの時は、抗弁も否定も肯定も言い訳もしなかった。
 もしも憤怒を向けられるのであればそれを受け、嘆きを受け取ったのであればそれを慰め、憎悪を慰んだらそれに呑まれようとしていた。
 だがひとつだけ。愛情を飲み下す事を求まれても、それにだけは拒絶以外のものを返せなかった。
 本来あったものが喪われたあとの、茫漠たる空隙へと。その代わりに埋めるものなど無い事だけが、ヤクモが確かに知る事だった。
 そしてその通りに今、ヤクモを組み敷く様に佇むマサオミの様子は、お世辞にも冷静そうには見えない。代わりにならない、代わり以上になるべくものに餓え、己の内部から湧き起こる否定の衝動に打たれて竦んでいる。どうすれば肯う応えが返るのかを必死に考えている。否、只望んでいる。
 まるで子供の様だ、と。幾度も思った感想をそこに挟んで、帰る場所を、飽和するものを、救いを、赦しを、情愛の礼賛を、拒絶以外のあらゆるものを求めてじっと、縋る様にこちらを見下ろしているマサオミを、ヤクモは黙って見上げた。
 応えは出ない。少なくとも彼の望むものは。
 だから、口を噤む。
 「ヤクモ、俺は、」
 それとは逆に、泣きそうな声音が雄弁に伝えてくる。
 足りないのだと希っている。
 必要なのだと叫んでいる。
 痛ましい程に純粋な願いを。
 愛する事を赦して欲しいと。
 ヤクモの両肩を掴んでいたマサオミの手が、強張りながら離れた。同時に乱暴な程の強さを持った口接けが降って来て、それ以上何も云わせまいとする様に口腔を侵される。
 未だ強張った侭の腕が、労りも思い遣りもなく衣服を乱して行くのに、ヤクモはキツく眼を閉じた。陶然ともしない、ただ諦めの様な、怒りの様な、哀しみの様な、それとも失意の様な淵に佇んで、息を吸った。
 一方的な口接けが終わるのを待って、ヤクモは薄く眼を開いた。欲情ではない、ただ諦めの様な、怒りの様な、哀しみの様な、それとも失望の様な底に沈んでいる彼に。それ以上の手を赦さなかった。

 「…………そうして、また裏切る心算か?」

 いっそ、目覚めた最初からずっと、悪夢であったら良かったのに。
 そうであったならば、左の眼球を抉られる痛みの錯覚だけで済んだのに。

 ──茫然と。マサオミは惚けた様に動きを止めてヤクモを見た。
 「──違う、俺は」
 こんなことではない筈だと、ヤクモはそれに気付いている。
 こんなことではないのだと、マサオミ自身もまた解っている筈だった。
 彼は、応えのないものが恐ろしくて、隔絶を告げられるのが怖くて、ただ欲した事象を捕まえておこうと叫んだだけだ。そうする事しか出来なかっただけだ。
 「俺は、ただアンタのことが、──ッ」
 踏みにじろうとまでして出て来る言葉でもない。続く意味を失って力無く座り込んだ侭のマサオミの身の下から這い出し、ヤクモは衣服を整えて窓辺へと近付いて行った。半分だけまだ閉ざされた侭だったカーテンをさっと引くと、夕暮れは既に遠く、空はもう夜に近い群青色をしている。
 黄昏を過ぎ薄明には遠い。夢を見るにも夢に惑わせられるにも早すぎる時刻。
 不安でも、悪夢でも、報いでも無い。だから醒めない。だから潰えない。だからこれは偽ではない。
 (だって、お前が苦しそうだ)
 夢の中の疼痛ではない。現の彼の痛み。狂おしい程に求め与えた愛情の、行き着くことのない先を知る。痛み。
 …………………気付いた時には、遅かったのだ。
 彼は『どちら』かを選ぶことなど、出来なくなって仕舞った。
 がむしゃらに立ち上がると、マサオミは窓辺に佇んだヤクモの身体を後ろから強く、抱きしめてくる。熱のもう引いた筈の身にもその体温は酷く熱く、そして痛々しい程の必死さがあった。
 そんなマサオミの切実な迄の想いを全身に受け止めて、ヤクモは硝子窓に隔てられた空を見上げる。早朝感じた時のその侭によく晴れ渡った夜空。風は強かったのか、高いところで雲が細く長く伸ばされている。
 夜に入る空を見上げる左眼には、もう痛みも不快感も残されてはいない。胸郭のずっと深くに疼痛だけを穿って醒めた。
 「……直に月が出る」
 だから、もう。
 「もう直ぐお前の願いは叶うんだ」
 それだけで、良いだろう?
 己と同じ様に応えは返らなかったが、抱きしめる腕の力だけが強くなってそれにこたえた。
 まるで絶望を抱いている様だと思って、つまらない想像にヤクモは自嘲した。
 紛れもない。その通りだった。




わかりにくそうな蛇足1。ヤクモもマサオミに抱く感情を恋情に昇華させない様必死なんです。多分憐れみや負い目なんだと判じていますが、そもそもそこまで気にかけるに至った自分の感情には無頓着で狡い。
わかりにくそうな蛇足2。左眼の理由は最初にマサオミが左眼ちゅーしたからです。きっと眠りに落ちた無意識下で何か不快に触れられたなとヤクモの本能が察してたんだと云う事で。やる事為す事全部徒になる率が高すぎですからうちのマサオミ。

「涙流させにだけくる人よ」