アメドリア



 「この世界には太極と呼ばれる、陰と陽の均衡(バランス)が存在します」
 説明と同時に、まっさらなホワイトボードの上を黒いマーカーが走り、見慣れた太極図を器用に描いていく。
 「世界は善なる陽──白ばかりであれば善かれと思われるやも知れません。然し単一的な価値観だけではそれは『均衡』たり得ないのです」
 続けて、勾玉が二つ互い違いに合わさった様な円形の、その片側が斜線で黒く塗り潰される。
 「『均衡』を保つ為にはこの太極図の様に、陰と陽とが同一に等しく存在していなければならない。
 仮令陽こそが善、陰こそが悪と定められていたとしても。その両方が存在していない世界は、その姿形がどうあれど、正しき本来の有り様とは云えません」
 そこで一度講師──ムツキと云ったか。彼は振り返るとゆっくりと受講者達の姿を見回した。その視線が一瞬だけ、気怠そうに頬杖をついているマサオミの所で怪訝そうに止められる。が、咎める様子もなくムツキは息を継ぐ様に眼鏡を軽く押し上げた。続ける。
 「闘神士の本分と云うのは──その『均衡』を保つべく尽力する事にあります。
 今の世界は若干『陰』の増加傾向と云えます。その原因は人心にあるのですが……、兎も角その乱れた均衡の歪みから成るのが、妖怪と呼ばれる存在です」
 受講者達は皆、ある程度の覚悟や知識を持ちそこに居るとは云え、流石に現代社会に於いて『妖怪』などと云う荒唐無稽な単語は俄に受け入れ難いと云うのが本音なのだろう──、メモを取るペンの動きが止まり、ちらちらと周囲を伺う怪訝な視線があちこちで交わされる。
 そんな受講者達の戸惑いは想定の範囲に無論あったのだろう。ムツキは落ち着いた様子で暫しの間を持つと、ホワイトボードに『妖怪』と云う単語を書き付け、その上から矢印を下ろした。
 「因って歪みを正す為に、闘神士とはこの妖怪を──、」
 闘神士、とそこに並べ、括弧書きを続ける。
 全ての戦いが終わった今、ここに集まった受講者達が嘗て頼り、得た存在の名を。文字としてその中へと刻む。
 ──(式神)。
 「式神と契約し、その力を用いて倒す事が使命なのです」
 誰からも。その名称を知識として書き付ける以上の反応を引き出すことは無く。
 当然の事と解ってはいたが、その事実に酷く打ちのめされて、マサオミは音を立てずに席を辞した。
 
 *
 
 ビルのエントランスから真っ直ぐに続く、立体交差の上の歩道橋。通常のオフィス街とは所在が同じであれど一線を画したそこは、正午を過ぎた時間の割には人影も疎らで静かだ。
 手摺りに背中を凭せ掛けて、ジャケットのポケットへ両手を突っ込んだ侭、青いばかりの空を真っ直ぐに見上げてマサオミは何度目になるかの溜息をついた。
 天へと伸びるビルが、波立ちもしない空から逆に落ちて来ている様な錯覚を憶え、いっそ潰されて仕舞えば、と思ってから力無く苦笑した。
 自分なりのけじめをつけたくてわざわざ来たと云うのに、弱気な錯覚に己の裁決を委ねるなど。
 馬鹿馬鹿し過ぎて情けないとすら思えない。
 (…………ま、来なきゃ良かった、とは……、やっぱり思っちまう、か)
 弱気な己の思考に応える様に、背筋が更に傾斜角を増した。手摺りを支える力を抜くだけで自重で頭から転落出来そうな角度になった所で、マサオミの体の傾きが然し留まる。
 死にたい訳ではない。怪我で済んだとして、無用に痛い思いをする事に意味があるとも思えない。況して償いや報いなどそんな所にあろう筈もない。
 ……戦いだったのだ。相手も本気で、自分も本気だった。
 覚悟を抱いて立てばそれは『敵』。勝てば望みが叶えられ、負ければ全てを失う。
 ……戦いだったのだ。相手は憎むべき天地の者で、自分はその憎悪を糧とした。
 天も地も。幾人もの闘神士を──その式神を失わせ、記憶を、望みを、全てを。
 『奪う』のではなく、無にした。
 喪失さえも与えない喪失と云う残酷さは、思い知れば思い知るだけ──有形無形の罪悪感とその結果ばかりを生む。
 それが決して赦されない事だから、それが罪悪として残り続けるからこそ、罪であって償いなのだろう。
 (でもやっぱり……来なきゃ良かったなぁ………)
 ずる、と革靴をまた少しずらして、マサオミは仰向いた侭の頭を少しだけ横へと向けた。視線の先にあるのはミカヅチビル敷地内にある、社員達の特別講習に用いられている講堂のある建物。
 ここからそう離れてもいないその入り口に立てかけられた案内板には、『有限会社ミカヅチセキュリティー特別講習会場』と書かれている。
 
 *
 
 百戦錬磨の活躍をした闘神士と云えども、一度敗ければ全てが失われて仕舞う。
 生きる為には、望みを叶える為には、失わない為には、忘れて仕舞わない為には、勝ち続けるか逃げ続けるかしか、無い。
 それが闘神士の生き方であるのならば、何と残酷な話だろうと思わずにはいられない。
 結局、失いたくなければ強くなるしかない。強くなる為には戦うしかない。誰かに何かを失わせてでも、自分は生き延びなければならないのだ。
 彼らと云う闘神士達も、皆そうであったのだろう。
 己の為に挑み、そして──喪った。
 少なからず地流ミカヅチグループに所属していた闘神士らは、苛烈な生活の代わりにその『後』の保証も与えられていた為に、或いは幸運な方だったと云えるのかも知れない。
 戦いに敗北し、式神を失った彼らは例外なくミカヅチグループに保護され、療養やその後の生活への指針が、予てからの誓約書の通りに授けられた。
 とは云え『失う』前の己の署名(サイン)など見せられた所でピンと来ないだろう彼らの概ねは、元に戻る事も先に進む事も出来ずに立ち尽くして置き去りにされて仕舞う事が多いのだと云う。
 地流としても式神を使役していた『才能』ある者をその侭一般人として返して仕舞うのが惜しい為にか、復職を求める流れもあり、結局多くの者はその侭再び闘神士ないしそれに準じた役割へと就く事になって仕舞うらしい。(無論当人の希望は尊重されている様だが)
 その流れを継いだのが、形骸化した地流組織ではなく、地流闘神士ムツキがその侭代表取締役を引き継いだミカヅチセキュリティーサービスだ。その構成社員の概ねは、嘗て地流ミカヅチグループに所属していた闘神士達と、嘗て戦いに敗れその記憶を失った元闘神士達である。
 ムツキは積極的に彼らに働きかけ、今日の様に彼らに対し日頃から熱心に教鞭を振るっている。
 ………嘗ては式神を降神させていた彼らが、式神と云うその言葉にすら何の感慨を抱かなくなっていたとしても。
 「……………来るんじゃ、なかったなぁ………」
 三度目の思考は遂に言葉になってマサオミの口からこぼれていた。
 講習を受けていた元闘神士達の中には、見た顔も居た。己が嘗て打ち倒し失わせた者も居た。望んで倒した者もいれば、倒さざるを得なかった者もいた。
 嘗て敵対した彼らは何れも、妖怪や式神と云う言葉に、怪訝な様子でさえもあった。
 戻れないし戻せない。罪悪感を引き擦った所で今となっては何の意味もない。それは充分に解ってはいたが、慥かに『彼ら』を喪わせたのが己であると云う事実ひとつが、けじめか赦しか後悔か──何かをマサオミへと求めさせ、気付けばわざわざ東京まで出て来させ、講習会に顔を出させていたのだ。
 然し結果はこの通り。『彼ら』の今の有り様を見れば見るだけ、後ろめたさに似た感傷を無為に呼び起こすだけの、ただの痛々しい確認作業にしかなりそうにない。
 ぐしゃ、と些か乱暴に自らの前髪を潰し掻き上げながら、マサオミは重たく瞬いた。
 …………望みの為だった。故に後悔はない。
 だが、この罪悪感(?)は、信じた望みが履き違えられていた事に起因する。
 それが違えたことであると気付かされ、戻ってくることが出来た己は果たして、そんなふうに赦された侭で良いのだろうか。
 無かった筈の後悔が、罪悪感が、己が赦された事で鎌首を擡げ始めているのは、このナーバスな思考回路からいっても間違いはない。
 然し赦すことすら出来なくなった者らに赦しを求めるなどと云う事は、とんだ図々しい思い違えでしかないのだ。
 こんな悲観は如何にも傲慢が強すぎて嫌悪感ですら産み落として、然し去らない愚考。
 ヤクモに救われマサオミは戻って来れた。
 では、嘗て己が喪わせた者たちは、誰にならば救ってやる事が出来るのだろうか。奪ったものを返すにはどうしたら良いのだろうか。
 魂以外の全てであれば差し出せると。或いはヤクモならばそう云うのかも知れない。
 (……罪滅ぼし、したいのか、ね)
 或いはそれは感情の上の繰り言かもしれない。実際赦される事も出来なくなったマサオミには、彼らにしてやれる事などなにひとつ無いのだから。
 厚顔に微笑んで、闘神士の先輩面をする事など。喪わせた彼らの矜持や信念を冒涜する行為でしかない。
 結局。何かを求めて彼らの様子を見に来た所で、空ばかりが拓かれた、狭隘な塔の狭間でただ己に失望するほかないのだ。
 は、と自嘲する様に息を吐くと、マサオミは前髪をくるくると指で弄びながら姿勢を正した。空に落ちても後ろ向きに地面に落ちても、この罪悪感の軽減になどならない。
 マサオミにしては珍しくも、ヤクモには何も告げずに此処に来ている。この相談をした所で、莫迦にされるとは思わないが、却って甘やかされて仕舞う様な気がしたので止めておいたのだ。
 同じ様な痛みを知りその上に佇む事を勁く決意して在るヤクモであれば、恐らくはマサオミの罪悪感を正しく解してくれるだろう。厳しくか或いは甘くか、何を云われた所で楽になれるだろう確信もある。
 だが、どちらかと云えば欲しいのは同病の理解や慰藉ではなく、もっと激しい、身を刻む様な怒りだ。
 憎悪と云う名前でも構わない。同じ『楽になれる』のであれば、そちらの方が余程相応しい。
 (赦して貰えないのに、赦して貰いたい、なんて──我ながら不毛過ぎ?)
 力のない苦笑を浮かべながら視線を巡らせると、丁度今日の講習が全て終わったのだろう、講習会場の入り口が遠慮がちに賑わい始めていた。
 『荒唐無稽な話』をこれから現実そのものとする為に集まった同志だからか、彼らは声高に話しこそしてはいないものの、奇妙な連帯感に似た空気を纏ってそこにある。
 果たしてあの中の幾人が、再び式神と契約する事が適うのか。
 幾人が、再び喪失を迎える事となるのか。
 幾人が、同業者として肩を並べる事となるのか。
 若い者からそれなりの年齢の者まで、彼らは各々新しい望みや生活の為に、再びここから闘神士としての途を歩み出そうとしている。
 その横で、彼らがそうなった原因の一端が、空を見上げて失望している、などと云う構図に、マサオミは眦を細めた。
 これが、罪悪感か自己満足か負い目かはどうでも良い。
 全てを喪いまた歩き出そうとしている、彼らの様子を見に来た。
 望んでいた様な贖罪のカタチや赦しが得られずとも、これが己の為した正しい『過ち』の結果であると、認める為に。
 (だから、赦して貰えなくても──、だ)
 らしくない弱気な思考に佇んでいた己を押しやって、マサオミは思い思いに帰路について行く彼らの方へと無造作に歩いて行く。恐らくは一生涯忘れる事の許されないだろう、嘗て敵対した闘神士の男の方へと、迷わずに。
 マサオミの接近に、己の荷物を探っていた男が顔を起こした。此処に居る以上、講習会に出席していた者ではあると判じたのだろうが、こんな風に躊躇い無く接近されるには憶え知らぬ者へと、怪訝な表情で。
 多くの闘神士を倒してきた、そのなかで、何故彼ひとりに焦点を絞っていたのかと云われれば、それは年齢が近い者だからと云う他は無いかも知れない、が。
 名は聞いた。教えることは出来なかったが、憶えることは出来た。或いは、だからなのかも知れない。
 それは約束でも確約でもない、ただの過ぎた事物。
 だが赦しなど得られずとも、ただ請われた事を叶えてやろうと云うこれは、自己満足であっても構うまい。恐らくはヤクモも、それを責めなどしないだろう。厚顔とも云わず黙って認めてくれるだろう。
 「あんたもご同業かい?」
 他にマサオミの接近に思い当たる理由が無かったからか、彼はそう肩を竦めて云って寄越してきた。ああ、と頷きを返しながら、マサオミは人当たりがよさそうな笑顔を自然と乗せた。
 「兄さん昼飯これからだろ?特盛り牛丼無料券が丁度二枚余ってるんだけど、同業の誼でどうだい?一緒に」
 忘れたくはない、と云われた名を、再び教える為に。




これじゃただのナンパ野郎だよ大神さん……。
ともあれ大神と鷹宮(と吉川)の友情開始地点的妄想。ヤクモはマサオミに同情はしてくれないので、このあと紹介されてハヤテと普通に親交を深めちゃって、マサオミの胃を痛めてくれる感じで。 ……まあ所詮マサヤク前提なので精々悶々としてりゃいいんだ、みたいな…。
やっぱり『忘れる』事って辛いよなほんとああもう辛すぎて好き過ぎて憎すぎる設定だよ陰陽。

幸福の名をした泡沫の夢を望む。痛みに鈍くなれば生きていくことは容易いけれど、それは何て穢らわしい幸福なのだろうと思うのです。