ベレンゲイリア



 「……………ん?」
 漏れたのは実際呟きにも足りない程の、息を呑む小さな音だけだっただろう。
 だが、訝しさを宿して仕舞った眼差しそのものに気が付いたのか、或いは不審さの滲み出た気配を聡くも察したのか。傍らをあれこれと話しながら歩いていたリクが足を止める。
 「…あの、どうかしたんですか?ヤクモさん」
 今のこのリクの問いかけに始まった事ではないが、リクがヤクモへと向ける言葉に僅かの硬さがある事にはヤクモも随分と前から気付いてはいた。
 恐らく。一応は恐らく。リクにとって年上であり闘神士として『先』を行く者でもあるヤクモに対して、彼が多少なりの緊張を抱いて仕舞うのは已むない事ではあるとは思う。
 年功序列と言う観念の薄いヤクモ当人にしてみれば、「気にする事はないのに」と云った所なのだが。
 ともあれ。それが些少な気後れに繋がるのは当然。元より他者の感情の機微には、鈍い様に見えて実のところ聡い方であるリクの事だ。未だ向かい慣れないヤクモへと普段よりも注意深く意識を向けていたのだろう。問いかけには、よもや己が何か不興を買ったのか、何か失敗したのか、と云う不安が少しばかり加味されていた。
 「ん、いや。ちょっと気になる事があってね」
 そんな勘違いをさせた事に申し訳なさを感じつつも、ここで下手に誤魔化すのは却って逆効果だろうと、ヤクモは訝しんだ姿勢を崩さぬ侭、いよいよ近付いていた違和感の方角へと視線を滑らせた。
 そこに在るのは一軒の家だ。しかも、ついぞ寸前にリクが「あそこが僕とおじいちゃんの棲んでる家です」と指まで差して紹介をくれた物件、即ち今案内されようとしていた目的地である。
 アパートとして門戸も開いているのだと説明されていたその通りに、老人とその孫とが二人暮らしをするには少しばかり大き過ぎると思われる二階建ての家。少々草臥れた感はあるが、逆にそれが人の営みの年月と云う温かみを持っていた。
 生け垣の向こうの庭には木々が、明るさを遮らぬ程度に植えられ、その剪定も怠ってはいない様で、家と共に酷く優しくしっかりとした佇まいを全体的に見せている。
 ヤクモの視線を追ったリクが、『気になる事』と明言された言葉と、我が家との狭間で躊躇う様に揺れる苦笑を漏らす。
 「……えっと、お向かいのモモちゃんの家に比べるとちょっと古いかも知れないですけど…、確かに最近屋根も傷んで来てるし、戦いと部活とで雑草もあんまり抜いていないし……ってそうじゃなくて…、そのー…、」
 「違う違う、気になる事と云うのは君の家そのものの事ではないよ」
 額を掻きながらにもごもご紡ぐ、よく解らない方角に転じつつあったリクの漏らしていた言葉を殊更に明るく遮って、ヤクモは折り曲げた人差し指を顎の下に当てた。ともすれば不機嫌さの滲み出そうになる表情を、何とか普段の侭に保つ。
 「そうなんですか?……あれ、でも…?」
 自分や家に問題がある訳ではないと云う、ひとまずの懸念が解消されて安堵したのか、少年は年相応の幼い顔立ちをきょとんとさせた。ではヤクモ曰くの『気になる事』とは果たして何なのだろうと、次なる疑問に首を傾げる。
 ここに来てヤクモは漸く、間違いようのない確信を得心の名に変える事にした。つまりそれは、この少年の有り様には裏も表も無く、同時に『これ』に全く気付いていないのだと云う事だ。
 それは目に見えて明かな異常ではない。有り得てはならない異様でもない。寧ろ勘付くにはそれなりに聡い感覚を有していなければならず、同時に『この家を訪う』明確な目的或いは意識が必要だ。
 「これは。実に見事な結界だな」
 内心舌を巻きながら、思わずと云った感の感想が漏れた。幾分苦いものの混じってしまったその呟きは、ヤクモの様子を伺っていたリクの耳に当然の様に届いたらしい。彼は事も無げに軽く手を打って云う。
 「ああ。前もナズナちゃんが確かそんな事を云ってました。確か、…隠し?の結界とか。多分──、僕を守る為におじいちゃんがやったものなんじゃないかなと思っているんですけど……、今おじいちゃんはいないから、帰ったら訊いてみますね」
 不自然な間と笑顔が頷きを寄越す。宗家を守る為、と云いかけたのだろう言葉を一瞬の俯きと共に呑み込んだリクのその横顔にこそ、ヤクモは危ういものを寸時憶えたのだが、僅かに眉を寄せただけのそれにはリクは気付かなかったらしい。玄関へと客人であるヤクモを促しながら庭を横切っていく。
 その背に付き添う様に、一瞬だけ浮かび上がった白虎の霊体の姿が全てを物語っている様な気がして、ヤクモはそこから目を逸らすついでに不可視の結界へと再び意識を向けた。
 辿る者に明確な目的意識が無い限り、そこから自然に遠ざけられる類の隔。ヤクモの日頃頻繁に利用する鬼門にかけられた古い結界と、これは概ね似た様な組成で編まれている。裡の気配や力を隠匿すると云うより、存在そのものを見誤らせるその出来映えは正直見事なものだと評するに値した。
 今は不在だと云うリクの祖父の事は話には聞いている。だからこそ、彼の老人とは実際に会った事などないが、彼がこの結界を張った人物では有り得ないだろうとヤクモは確信していた。
 この結界を張った術者は、闘神士になれなかった老人どころか、もっと力量がずっと上の者だ。しかも、少なくとも術の腕ではヤクモと比肩する程の。
 そしてこの家に棲まう者らに気取られる事なくそれを成す事が可能である者。そうしてまで天流宗家の存在を隠す事を目的としているのは、地流では有り得ず──
 「……気に入らないな」
 明確な解答を一旦先送りにして、ヤクモは『触れ』た事さえ気取る事の不可能な、結界の裡へとそっと一歩踏み入った。
 抵抗も警報も無い。普通に空気を押し退けるだけの、感触さえない『歓迎』。
 その手応えからも、未だ見ぬ相手の力量をひしひしと感じ取る事が出来て、ヤクモは一瞬だけ涌いた反発心で結界を破ってやろうかと思いかけるが、意味もないリスクだろうと、己の冷静な部分が冷めた答えを向けて来た事に気付いて止める。
 『珍しいでありますね』
 「そうだな。『外』で誰かの家に世話になるなんて、ここ暫く無かった」
 己の闘神士の物騒な一瞬の思考を聡く察したのか、青龍の霊体が案ずる様な眼差しを寄せて来るのに、態と的はずれな首肯を返す。
 『で、おじゃるな。さすればごゆるりと休息を取られるとよいでおじゃるよ』
 韜晦の色はあからさまだったが──だからこそか、ヤクモの性質を心得ている式神達は、態と逸らされた方へと話を運んで『誤魔化され』てくれた。
 僅かに垣間見た物騒な思考を、誰よりも思考した当人こそが、莫迦らしい反感めいたものである事に気付いていたからでもある。
 (…………心当たりが、あるからだ)
 思考は、不承不承ではあったが当然の帰結と云えた。
 天流の振りをして天流に融け込み、然しその憎悪の一切は隠さない──そんな闘神士。
 ヤクモが彼の者に抱いた感慨に、不健康過ぎると式神たちからも窘められたあの日からもう結構な日数は経過していた。その間当人様或いはその痕跡に遭遇する様な事も無かった為、余計に無用な敵愾心(或いはそれ以外の個人的な感慨)が沸き起こるのは否めない。
 自分は殊更に好戦的な質ではないとヤクモは己では評していたが、少なからず『負けず嫌い』に分類されるだろう方向性があると云う事を、こう云う思考になるとまざまざと思い知らされる。
 目にも感覚にも残らない結界の裡に取り込まれた所で、ヤクモは意識して、我知らず緩めかけていた口元を不機嫌には見られない程度に引き下げてから、少し先を行くリクの背を追う。
 同時に、記憶に蘇りかけていた、純粋な憎悪を孕んだ男の眼差しをそっと仕舞い込んだ。
 仕舞うと云う事が、取り出し易くする為の無意識である事には気付かぬ侭。
 
 *
 
 供されたお茶と卓とを挟んで、子供達の遣り取りを観察する。
 ナズナとソーマとは折り合いが悪いらしく、時々お互いに言葉尻を捉えてはああだこうだと言い合いをして、その度苦笑を浮かべながらリクがそれを仲裁する。
 その上では三者の式神達の霊体が、各々溜息をついたり微笑ましそうに見守ったりしていた。
 成程これが太刀花家での『日常』らしい。皆それぞれがそんな位置に自然と収まっている様子は、家族に似た、きょうだいの様な雰囲気すら薄らと透けて見させる。
 不自然さはない。だが盤石である保証も実のところは持たない、そんな優しい光景を同じ様な眼差しで見つめながら、ヤクモは本日幾度目になるか、少し冷めた己の思考に溜息を噛み殺していた。
 久方振りの穏やかな空気は、確かな休息をヤクモへともたらしていた。憧憬めいたものさえ抱いて仕舞っている自覚があったからこそ、それを戒めようと自分で思うのにも頷ける。
 だがそんな事よりも。何よりも。そう──『気に入らない』のだ。己で最初に呟いたその通りに。
 「〜だからあなたは短慮だと云うのです!第一リク様は朝食の時はいつも──」
 「なんだと!?僕だってちゃんとそのぐらい考えてるよ!だから──」
 ナズナとソーマとの、何が始点であったかもう定かではない言い争いは、『客人』であるヤクモを前にしていると云うにも拘わらず、彼らにとっての『日常』──いつも通りに展開されている。
 ソーマの方は兎も角、正直新太白神社で日頃は基本的に大人しく畏まっている姿を見る事が殆どだったナズナが、彼女の敬う対象であるヤクモを前にこれだけ我を忘れて喧々囂々と角を出している姿は珍しい。
 「ま、まあまあナズナちゃん、そのぐらいにしてさ…、ほら、ヤクモさんも困ってるから。ね?」
 折しも挟まれたリクの言葉で漸く我に返ったのか、ナズナははっとなって口を手で押さえると、真っ赤になった顔を俯かせて慌てて頭を下げた。
 「っ、申し訳ありませんヤクモ様、みっともない所をお見せして…!」
 「気にしないで続けていても良かったのに。こんなに楽しそうなナズナを見るのは久し振りだしな」
 「ヤクモ様!か、からかわないで下さいませ!──〜そうです、そろそろ夕食の支度をしなければ!」
 微笑むヤクモへの抗弁に慌てた様に付け足したナズナが、頬もまだ赤い侭で台所へと不自然な程慌ただしい足音で去って行く。その様子をソーマがにやにやと笑って見送り(恐らく後々からかうネタに使う心算なのだろう)、リクも苦笑ながらに何処か楽しそうな風情でいる。
 その様子に『成程』をまた一つ押し進めて、ヤクモは静かにお茶を啜った。
 「……今日は来ないのか」
 「え?なんですか、ヤクモさん?」
 ぽつりとした呟きは、落ちた静寂を割くほどに騒々しい、テレビの音声に殆どが呑まれて消えて仕舞ったが、ヤクモが何かを口にした事には気付いたリクが、くるりと振り向き問いてくる。
 問いと云うよりそれは殆ど意味など持たないただの独り言だったのだが、少年の気遣いを邪険にする気には到底なれず、ヤクモは「なんでもない」と言いかけたのを止めて言い直す。
 「ん、何て云ったか。以前に君の話してくれた天流の闘神士」
 「マサオミさん?」
 卓に戻した湯飲みの淵を意味もなく視線でなぞりながら、ヤクモは彼にしては時間をかけてその名を声に出さず反芻し、それからリクに頷きを返した。
 「そう──それ。ひょっとしたら、会う事が叶うかなと」
 「うーん、なんだか最近忙しいみたいで……。あ、そうだ、マサオミさんにもヤクモさんの事を話したんですけど、マサオミさんも「それは是非にも会いたいね」って云ってましたよ」
 「マサオミの奴が来る時はご飯の前とかだと丁度良いんだけどね。第一あいつ、どうでも良い時には牛丼とか無駄に沢山買って来る癖に、肝心な時に限っていっつも来ないし」
 リクの、裏表などない真っ向からの笑顔と言葉とに、どう上手く返すかと詰まりかけたヤクモを救ったのは、株式ニュースを熱心に見ていたソーマの乱入だった。その侭流れは自然と、マサオミと云う男の持って来る手土産の話へと傾いていく。
 「………ふぅん」
 小さな溜息は、子供達の会話の中には混じらずに溶け残る。ヤクモの裡に残留したその名と共に。
 マサオミ。天流の闘神士。子供らの様子を見る限りでは少なからず、悪印象を与える様な人間ではないらしく、それなりに慕われてもいる様だ。
 そう。これこそが『気に入らない』と感じたその理由。
 年齢も立場も違う人間を一人余分に孕んでいると云うのに、この家で『そのこと』は日常を乱す様な変化には足らないのだと云う、推測。
 日頃は他者の前では醜態など晒すまいと努めるあのナズナが、今日は『此処』にヤクモが居ると云う事すら忘れる程に。
 『此処』に普段、ヤクモではない、だがそれに似たものが収まっている『日常』に、この家に居る誰もが慣れきっているのだと云う──確信と事実。
 きっと『彼』も今のヤクモと同じ様に、のんびりとお茶を啜って平和などを噛み締めながら、いつも子供らの遣り取りを眺めているのだろう。
 (……全く、気に入らない話ではあるが)
 ふとした事で幾度も脳裏を過ぎりそうになる姿を、かぶりを振って払ってからヤクモは卓の上に頬杖をついた。溜息。
 (是非にも、か。──その侭そっくり熨斗を付けて返上したいぐらいだ)
 「あの…ヤクモさん、さっきからずっとなんだか、その、…、どうしたんですか?」
 不機嫌そうに見えます、とは流石に明言されはしなかったが、実際リクが呑み込んだのはその類の指摘だったに違いない。自分ながら少々己の思考に振り回されているなと云う自覚も充分だったヤクモは、子供らに余計な気遣いをさせて仕舞った事を反省しつつ、面食らった様な表情を作って感情を隠す。
 「え。いや、少し疲れているらしくて。さっきから実は眠気を堪えてたんだ」
 「あ、そうだったんですか?済みません、疲れている所に無理矢理連れて来ちゃって…」
 「いーや。寧ろこうして休む場所を提供してくれて大助かりなくらいだ。こちらこそ何だか上の空で申し訳が立たないよ」
 未だ完治しているとは言い難い傷の事もあって、少々疲れているのは事実なのだが、それを方便に使うのは申し訳の無さが伴うから、自然と苦笑が浮かぶ。
 「じゃあさリク、そこの部屋は空いてるし、夕飯が出来るまでヤクモさんには休んで貰ったらどうかな」
 「そうだね。じゃあヤクモさん、今お布団を出しますから」
 それを、疲労によるものなのだろうと取ったらしいリクが、ソーマの提案に頷きながら、続き間仕切りの襖を開けて押し入れに向かおうとするのを止めるそのついでにヤクモは立ち上がった。灯も人の気配もない部屋を覗き込む。
 「気にしなくて構わないよ。熟睡する心算も時間も無いからね。それじゃあ、悪いけどお言葉に甘えて、少し外させて貰うとしようかな」
 「え、でも…、」
 「日本人なら畳の上」
 今ひとつ意味の通じない言葉を投げるなり、ぱたりと畳の上に横たわって仕舞うヤクモの姿に、リクは暫しどうしたものかと狼狽していたが、やがて毛布を一枚だけ取り出して、それをヤクモの枕元にそっと添え置いてくれた。
 「寒かったら使って下さい。それじゃあ、夕飯が出来たら起こしますから。お休みなさい、ヤクモさん」
 「ああ。お休み。リク、ソーマ」
 襖の向こうから顔を覗かせていたソーマと、部屋をそっと辞して行くリクとに手をぱたぱたと振ってやる。
 天井の方で、白虎の霊体が全てを悟った様な眼差しで、呆れた様に肩を竦めているのが、閉ざされる寸前の光景に見えた。
 ぱたりと襖の閉まった部屋に落ちた暗闇と同時に、振っていた手が力無く畳の上に転がった。億劫なので引き寄せない侭、空いた片手だけで顔の半分を覆って、ヤクモは珍しくも自嘲の色の強い溜息を吐き出した。
 「…………うまくないな。どうにも」
 子供達に下手な、嘘とも云えない態度を取って仕舞った事も、コゲンタにはそれを見抜かれていただろう事も。
 ともすれば脳裏をちらつく、この家にいつも居るのだろう存在にも。
 『此処』に在る全てのものが、ヤクモの心に沈んだ澱を掻き乱すのだ。しかもそれが、何れを取っても己の心持ち一つ次第で苦にもならなくなるものである事だから、余計に。
 情けない事だ、と苦笑した、その笑いさえも乾いている事に気付いて仕舞えば、いい加減、自嘲ぐらいしたくもなる。
 『なればこそ、些事は気になさらず、休んで下されと進言したのでおじゃるよ』
 ヤクモの裡の葛藤の正体を知るからこそ、今は余計な事は考えずに休むべきであるのだと改めて告げて来るサネマロの声に、ヤクモは寝転がった侭で肩を竦めた。
 「それを云われると弱い」
 先程『誤魔化し』た事を接がれた形になっている事に気付いたヤクモは、少し意の異なった苦笑を浮かべながら枕元に畳んで置かれた毛布を頭の下へと持っていった。ごろりと身体を横に寝かせて頬をその上へと埋めれば、程良い柔らかさに誘われる様に自然と目蓋が下りる。
 「でも一つだけ主張。これはきっと、余計な些事ではない」
 何れ向き合う事と、何れ知る事。
 今は未だ、巻き上げられた澱の不快感に顔でも顰めていれば良い。こうして態度がうまくない事に自嘲して不貞寝でもして揺籃の時を堪能していれば良い。
 だが何れ。そう遠くない何れの時に──再び対峙する時が訪れる。
 「此処の結界を張った輩とは厭でもその内また顔を突き合わせるだろう。下手をすればそれこそ今この瞬間にでも可能性は幾らだってあるんだ」
 その時が訪れたとして、いきなり刃を突きつける気など──しかも現の世界で──ヤクモには毛頭無いが、果たして相手はどうだろうか。己に負けず劣らず『負けず嫌い』に見えたが、彼もまた形振り構わずあの憎悪を再び向けてくれるのだろうか。それともリク達の前ではそれを隠すぐらいの賢しさは持っているだろうか。
 『……〜やっぱりヤクモは、彼奴にまた遭遇する事を期待している気がするよ?』
 「皆に『不健康』だと窘められた様な期待はもうしていないから心配は要らないさ」
 霊体が出ていれば、それはもう不機嫌極まりないだろう表情をしているだろうとは想像に易そうなタンカムイの声音に、ヤクモはまたしても矛先を少しだけ逸らした答えを返し、本心の一部を晒す事を避けた。
 『そー云う所、ヤクモって狡いよね。でも僕はそんな所も好きだから良いけど』
 それをあっさりと見抜いた割に追求はせず、神操機の裡の気配たちが静かになる。気を遣ってくれたと云うより、糠に釘だと思ったからの様だが。
 ありがとう、と、意図をはっきり向けはしない囁きを残して、ヤクモは毛布へと頭だけではなく意識をも沈めようとした。
 (…………………期待は。していたさ、それは)
 長い沈黙の中に浮かぶ、冴え冴えとした意識。暗闇の中の目蓋の下の、剣呑な肯定。
 眠れる筈などない。幾ら疲れていようとも。自嘲の笑いに空気を震わせようとも。此処で眠れる筈などない。
 伏魔殿でリクとコゲンタとに遭遇した時から。隠しの結界に気付いた時から。
 気に入らない気配の不在を確かに感じたその時から。
 忘れた訳ではない。懸念しなかった訳ではない。寧ろ望んで進み出た。
 既に腹中。
 此処は、認め難くとも、ヤクモよりも『彼』の領域にあるのだ。そしてそうでなくとも、ヤクモには寧ろ此処を避ける理由の方が今はまだ強い。
 今日は偶々、偶然、伏魔殿で遭遇したリクの誘いを受けてつい請われる侭に足を向けて仕舞ったが、それ自体どちらかと分類すれば軽率な行為と窘められて仕方のない事である筈だ。
 感じたのは寧ろ、敵の腹中と云うには不似合いな程の、温かみ。上手く取り入ったのか、それとも望んでそこに居るのかは解らない。
 だが間違いようもなく此処に満ちていた。マサオミと云う名前の主の気配。確かに存在していた、彼の闘神士の実在と云う証明。
 「全く、気に入らない……」
 幾度目かの、子供じみた反感の言葉は自分でも聞き取れないほどの囁きになった。誰にも聞かせたくなかったからかも知れないし、単にもう飽いて来ていただけなのかも知れないが。
 薄目を開けば、力無く天に向かって指を畳んだ己の掌が目の前にある。その指を親指から順に折っていって、拳を固めたところでヤクモは小さいが強く息を吐いた。心持ちの変化は陰鬱に沈んだ暗闇の室内さえも払拭してくれる気がした。
 上体をひといきに起こして、軽く肩を回す。闇に慣れた目で、窓外からの僅かの明るみに照らされていた時計を見遣れば、寝むと云って席を立ってからまだ十分も経過していない。今出ていけば今度は、騒がしかったかだろうかとまた子供らに余計な気を遣わせかねない。
 気にせず堂々と眠りこける、と云う選択肢もあるにはあったが、そこまで軽率になれそうもないのも事実である。それに何より、こんな、意もしないだろう場所で『敵』に遭遇した時の相手の反応も見てみたくはある。
 せめて自分ばかりは驚きもせず、平然と相対してやろうか。同じ様な態度に出たら、ちょっとは感心してやっても良い。
 (人をこれだけ不快にさせてくれたんだ。少しぐらい意趣返しでもさせて貰わなければ割に合わない)
 そのココロは、縄張りを侵された犬の様なものか。
 益々もって気に入らない。埒もない自己の撞着も、今日はどうしてか上手く立ち回る事の出来ない事も。下らないことが発端なのだと言い切れて仕舞うだけに。振り回されなければ済むのだと自覚しているだけに。
 結局は反省の意に決して、ヤクモは結跏趺坐の姿勢を取って再び目蓋を下ろした。瞑想と云うには既に雑多なものが混じりきって仕舞っている事に嘆息しつつも、止めどなく詮もない思考をなんとか休ませる。
 全く意味のない熱に、前倒しされた感情だけが囁いた。満更でもない嫌悪。相対した一瞬の印象だけから尾を引いた想像の肯定。
 期待があった。怖れがあった。そして、期待は裏切られず、怖れは叶えられなかった。
 何れ。そう、何れ。ならばそれは今ではない。それだけの事だ。
 嵐の前に傘を差してもどうにもなるまい。仮令嵐の渦中で傘など何の役にも立たずとも、だ。
 精々、この『期待』なのだろう持て余したからと云って投げる事も出来ない、感傷に似たものを、彼奴(あれ)にだけは悟られはすまいと。逃げ道の様に浮かんだ思いを契機に、ヤクモは気持ちを切り替えた。漸く落ち着いた感情の侭に思考は静かな瞑想へと落ちて行って、もうそこに波が立つ気配は無くなる。
 やがて、夕食の準備が出来たのだろう、襖の向こうの子供達の気配が慌ただしくなり始めるのに表情を綻ばせながら。立ち上がる。




別タイトル候補「伝説の闘神士だってにんげんだもの」。狡い思考だって醜い打算だって弱い本音だって淡い理想だって持ってる筈ですとも。

一度として、嫁いだ国の土を踏む事のなかった女王。