BERKANA



 まるで、夢の中で起こった事の様だと。思う事が──ある。
 急激に引き出された、今までの『現実』を大きく覆した出来事は何処かゲームやアニメの世界の如き夢見心地であって、未だ心がそれに完全について行っていないのかも知れない。
 それでも、夢などでは断じてないと云う証明の様に、実際──想像よりも実体験よりも、何よりも雄弁に示された実感が。事実がひとつ。ある。
 「……おはよう、とうさん」
 ぽつりと、応えのないそれに向かってこぼす。
 あの日以来、ヤクモが朝目覚めてから最初にする事は、この挨拶になった。目を開き床を離れるなり、着替えよりも身支度よりも朝食よりも先ず、最初に確認する。
 確認せずにはいられない、と云った方が良いかも知れない。
 何故ならば、未だ。まるで夢の中の事の様だったのだ、と。思う事が、あるからだ。
 ひょっとしたら全ては夢で、父は寝間着の侭隠し神殿にまで入って来たヤクモを叱ってくれて、それから二人で朝食を摂って、いつも通りの一日が始まるのではないかと云う、期待に似た錯覚。
 現実を認めていない訳ではない。父の元へと行く前に、手はまるで何年も前から続く習慣の様にごく自然に、枕元に置いてある闘神機を掴んでいる。
 闘神機も式神も、ヤクモが淡く抱く『いつも通りの一日』にとっては無縁でしか無いものである筈なのに、それでもそれを手に取る事を躊躇わず望んでいるのは──、『これ』こそが『現実』であると、何よりも理解しているからに他ならない。
 だから毎朝。これは夢の中の事ではないのだ、と。確認する。意識する。改めて見据える。
 太白神社の本殿地下に位置し、天然の光の一切を届かせないこの隠し神殿内部は、壁に沿って配置された灯明台に火を入れない限り朝と云えど暗闇である。
 その中に佇んで見上げるのは、暗い中でも思い起こせば仔細まではっきりと思い描ける、今の父の姿。
 息子の声にも応える事ならぬその有り様は、人の柱。石化の呪をかけられ、その身も心も在りの侭に封じられると云う、残酷な状態にある。
 石と化した父の前で、ヤクモは朝の挨拶──確認──を漏らした先はただ黙ってそれを見つめている。己まで石と成って仕舞ったかの様な、痛い程の沈黙を纏って。
 「…………さぁてと」
 やがて、沈鬱に沈んだ空気を自ら振り払うかの様に殊更に軽快な調子でそう呟くと、ヤクモは軽く腕を伸ばして背伸びをした。気合いを入れ直す為の特に意味のないかけ声とは云え、自らの声が澱んだ隠し神殿の澱んだ空気を払うのを確認してから、父に向かって改めて話しかける。
 「おはよう、とうさん。今日は日曜だから学校はないし、宿題も……聞いてよ、ちゃんと昨日の内に終わらせたんだ。だから一日ゆっくり修行に励めそうなんだよ。
 あ、でも無理はしないから心配しないでいーよ。イヅナさん普段は優しいのに、そーいう事に関しては厳しくってさぁ…」
 呟きながら『そーいう事』の例を思い出して苦笑が昇る。ついこの間もイヅナの目を盗んで倉庫から持ち出した妖怪を呼び寄せる札を使ってヤクモは実戦めいた修行にこっそりと励んだ。結果は上々で怪我や大事にも至らなかったのだが、無断で危険な事をなさらぬ様に、と後でこってり何時間も叱られる羽目になったばかりである。
 父モンジュが『こう』なってから身よりの無くなったヤクモを、闘神士としてばかりではなく日常の側面からも面倒を見ると申し出てくれたイヅナへの感謝は尽きないのだが、奔放な精神を持つ子供としては少々手強いと思える存在でもあったりする。
 母の記憶が無く、きょうだいもいないヤクモにとってイヅナはまるで歳の離れた姉の様な対象にあるのだが、彼女は恩義のあるモンジュばかりか、未だ子供であるヤクモに対しても決して畏まった物腰を崩そうとはしない。然し逆にそれが、不自然な『家族』の姿を生まずに済んでいる。
 今は未だ『家族』と云う存在を意識すればするだけ、その喪失を思い知るばかりのヤクモにとっては、そんなイヅナとの関係は酷く救われている部分でもあるのだ。
 故に、ぶちぶちと不平を漏らす様な素振りを見せながらもその表情は楽しげだ。
 そうしてヤクモが幾つかの事を父に話しかけていると、ふわりとその頭の横にひとつの気配が立ち上る。手の中の闘神機から眠そうな霊体(すがた)を浮かばせたのは、式神・白虎のコゲンタだ。
 「おはよ、コゲンタ」
 『ふわぁ……。よォ…ヤクモ、早ぇな』
 半透明の白虎の姿が、欠伸の仕草をして眠そうな目を幾度もしばたかせている。余りに自然なその仕草に、式神もちゃんと寝るんだなあと妙な所に感心しつつヤクモは闘神機の表面を軽く撫でた。
 闘神機の『中』がどうなっているかはコゲンタ曰く『人間の感覚には説明し辛い』だそうで、未だにヤクモは今ひとつ解っていないのだが、少なからず引っ込んでいる時はリラックス状態にあるらしく、下らない事で呼んだりすると臍を曲げられる事もある。降神も戦いや修行以外の目的で行うと、これもまた偉く機嫌を損ねて仕舞う様だ。
 (ひょっとしてそれってコゲンタに限った事かも知れないけど……とうさんに訊けば解ったんだろうなあ…)
 今ヤクモの小さな手の中に収まっている闘神機は、もともと父モンジュの物だった。そして父は嘗てこの闘神機で白虎のアカツキ──コゲンタの一つ前の『名』だ──と契約を結んでいたと云う。
 その詳細を問う前に父は呪をかけられて仕舞った為に、前後のコゲンタとのやり取りから得た情報程度しかヤクモには与えられていない。父とアカツキとがどの程度の付き合いであったのかは知らないが、共に戦った間柄であればその性質ぐらい当然理解しているだろう。
 『何だよ?ジロジロと』
 まじまじと、闘神機と己とを見上げるヤクモの視線に気付いたのか、コゲンタが不審そうに問いてくるのに、ヤクモは視線を少し外す事で応えた。
 不自然な間に、コゲンタは暫くの間眉を寄せてヤクモの事を見下ろしていたが、やがて問い正す事を諦めたらしく、再び欠伸をするとヤクモの頭に組んだ腕を乗せそこに落ち着く。
 不思議と落ち着き払った、まだどこか眠そうなその気配を頭上に感じつつ、ヤクモは少し苦みの乗った表情を闘神機の表面に映した。
 疑問を解消すべく、問いを発する事の出来る相手は父だけではない。父と共に在ったこの白虎にも同じ問いをかけられる。寧ろその方が確実な答えを得られる筈なのだ。
 然しヤクモはいつも、思う度出掛かるその問いかけを呑み込む。
 白虎のアカツキでは既に無い、白虎のコゲンタは──果たして父を今でも思ってくれているのだろうかと云う不安に怯えて。
 
 *
 
 式神の心の在り方は人のそれとは大きく異なると云う。
 喜怒や哀楽は人と殆ど変わらないのだが、物事の受け止め方や感じ方、記憶の保持やその依存は人とは確実に異なったものだ。
 そもそも存在する意味も時間も構成物も、何もかもが式神は人と合致しない。云って仕舞えば式神とは未知の生物である。霊的要素に縛られている以上『生物』と云うカテゴリには収まらないのかも知れないが。
 基本的に式神は人を好み愛している。契約を結べば契約者に従い、その心の有り様を見守り導いてくれる。絶大な力を持つがそれは人の世を脅かす為のものではなく守るものであり──即ち式神と云うのは、無条件で人の良き隣人と云える存在であると云う事だ。
 然しそれは永遠ではない。契約の満了、或いは予期せぬ別れを迎えれば式神は契約した闘神士の元を去る。そうして再び迂遠の長い長い刻を経て新たな契約者を得て、と云うサイクルを繰り返す。
 コゲンタも式神である以上、当然その例には漏れないだろう。以前過去の時代で共闘した雷火の式神を後に「若い式神だった」と評していた事からも、相当の──人間であるヤクモには想像もつかない様な刻を生きて来たのは確かだろうと伺えた。
 その永い刻の中で、果たしてコゲンタは幾人の闘神士と共に戦ったのだろうか。一桁や二桁では足りない程かもしれない、代わる代わる出会いと別れとを繰り返した中で──コゲンタは前回の契約闘神士の事など、もう忘れて仕舞っているのかも、知れない。
 記憶として憶えていたのは確かだ。ヤクモが生まれる前に父と別れたのであれば十年は間が空いていると云うのに、コゲンタは父を、モンジュの存在を確かに認めていた。
 ……再会の時。父は重傷を負っていて、目の前にはマホロバとランゲツとが立ち塞がっている様な切迫した状況だったと云うのに、コゲンタは酷く嬉しそうにモンジュの声に応じた。
 最期に父が何と伝えたのかは知れないが、「モンジュとの約束だ」と、ヤクモと共に戦う事にコゲンタは納得してくれた。
 それだと云うのに、以降のコゲンタは全く父の事を気に掛けてはいない様に、ヤクモには見えていた。
 自分は毎朝その前に立って、この現実を噛み締めていると云うのに、コゲンタはその無惨な父の姿を前にしても動揺一つ見せない。今日の様に落ち着いた様子で暢気に欠伸までして見せる。
 果たして、この白虎にとって父はもう、どうでもよい存在になって仕舞ったのではないか、と。コゲンタの余りに平然とした様子からそんな考えに至ったヤクモは、父に対する己とコゲンタとの感情の齟齬に気付く度、不安と不審とに苛まれていた。
 「なァ、ヤクモ。何か俺に云いたい事があるんなら云っとけよ」
 だからこそ、不意にコゲンタの方からそう切り出された時にはヤクモは大層驚いた。
 午前一杯修行をして、昼食を挟んで軽く運動をしてから、休憩を取るべく境内に座り込んだ直後である。降神されているコゲンタは腰を下ろさず、段差に腰掛けたヤクモの向かいに立ち、じっとその姿を見ながらそう云って寄越した。
 「べつに、云いたい事……って程じゃ」
 その真っ直ぐな瞳に圧された様に、己の想像が後ろめたくなり、隠そうと思っていた思考が僅かに漏れる。これでは誤魔化すどころか『云えない』ないし『云い辛い』事であると告白して仕舞った様なものだ。
 とは云え実際ヤクモ自身も、コゲンタに今抱いているこの感情をどう表して、どう説明したら良いのかが良く解っておらず、また、どう云った答えを期待しているかも今ひとつ定かではないのだ。コゲンタに求めているのが『式神』と云う範疇で想像する答えなのか、人の様な想いとして抱きたい答えなのか。それさえも判然としていない。
 故に『云えない』事実を、誤魔化そうとしたのに、それに失敗した。
 余りにも真っ直ぐ真摯な視線を向けて来る白虎の式神を前に、未だ十年ばかりしか生きていない人の子供は、一体どう相対したら良いのかと測りかねる様に。
 「……云いたくねェ事なら無理に問い正すモンでも無ぇがよ、式神と闘神士にとって心の繋がりってのは重要なんだ。お前が変に迷ったり俺を信じ切る事が出来ねェ様な事がもし戦闘中に起きてみろ。──負けるぞ、お前」
 大袈裟に驚かせるのでも、揶揄するのでもないとはっきり知れる云い種に、ヤクモはぞくりと背筋を震わせた。
 『俺を信じ切る事が出来ない』──そう、ある意味で核心を突いた指摘に得体の知れない恐怖が沸き起こるのを感じて、ヤクモの喉から自然と声が押し出されていた。
 「コゲンタは……負けたら、困るか?」
 負けたら、父を、救えなくなる。
 約束を果たせなくなる。
 自分は未だ諦めずに挑めるかも知れないが、『コゲンタ』にとってはそれが『終わり』だ。
 今度ははっきりと解った。期待している応えは、問いに対する肯定。即ち結果(それ)に対する否定。
 『俺達でモンジュを助けるまで、負ける訳には行かねェだろ?』
 そう──云って欲しかった。
 だが。
 「闘神士が頼りないからって負ける事になっちまったら、そりゃ色々と悔しいな。第一、負けたら困るのはお前の方じゃねェのか?」
 耳を抜けた言葉は、脳が受け取るのを拒否したからだろうか。
 怒りとも哀しみともつかない感情に後押しされて、ヤクモは拳を強く握った。震える爪が掌に食い込む。がちがちと歯の根が合わない侭、思考が凍り付いた様に、然し沸騰する様な激情に流されて。
 「──ッどうして!、そうじゃないだろ!?くやしいとかじゃなくって、なんで、何でコゲンタは…っ!!」
 気付けばヤクモはコゲンタの胸倉に掴み掛かって声を荒らげていた。
 「とうさんがあんな風になっちゃってるのに、なんで、どうしてそんな平然と…、!だって、契約してたのに、終わったからもうどうでもいいのか?!石に、なっちゃったから、もう、どうでもいいのか…!?」
 今まで在った薄ら暗い思考が、明確な形にもならずに漏れて行く。どん、とコゲンタの胸を叩いて、ヤクモは感情が流す侭に訳も解らずただ不満を──或いは弱音をぶつけ続けた。
 その間コゲンタはずっと、黙ってヤクモの言葉を、嗚咽を、聞いてくれていた。
 親やきょうだいとは異なるその包容力と思いは、確かにコゲンタは人を見守る式神であるのだと、無言でヤクモへと思い知らせて来る。
 いつもであればとっくに喧嘩になっている様な、一方的にぶつけられる言葉を、然し今のコゲンタは黙ってただ受け止めていてくれている。
 だからこそヤクモの感情は、怒りに似た哀しみをじわじわとその裡より吐き出し続けて止まる事が出来ない。
 どうしてコゲンタは、ヤクモにくれるこの思いのほんの少しでも、父に向けてくれないのだろう。と。
 ──コゲンタはもう、とうさんの事なんて嫌いになっちゃったんだ。
 最もしたくなかったそんな想像は、或いは形となって口から出て仕舞っていただろうか。
 黙ってヤクモの泣き言とも恨み言ともつかない嗚咽を聞いてくれていたコゲンタが、やがてそっと手を肩の上へと乗せて来た。
 大きな、人ではない温もりを持った手の。優しさや労りを持った仕草に、ヤクモは意識を奪われた。完全に我に返った訳ではないが、嗚咽がひととき途切れる。
 「……大体解った。要するにお前は、俺がモンジュの事なんてもうどうでも良く思ってるんじゃないかって、それが不安だったんだな?」
 「だって、コゲンタはとうさんの事とか、何も訊かないじゃないか……。十年も経ってるのに、その間どうしてたとか、全く気にしてないみたいだし…、今だって、とうさんがあんな事になっちゃったのに、ちっとも心配してないし…!」
 コゲンタの云い種が、肩に置かれた手の様な優しさを伴わない殊更に淡々としたものだったからか、ヤクモは再び激昂しかかるのだが、思いの外強い力で肩をその侭押し戻されとどまる。
 「落ち着けヤクモ。お前の云いたい事は解ったから、一個ずつ答えてやる。
 先ず、『今』のモンジュの状態について俺が何も言わねェのは、『解って』るからだ。ああなっちまった以上、周りで心配しようが騒ごうがどうにもならねぇ」
 「ッそんな言い方ってないだろ!?」
 「良いから聞けって。況して現状を悔やむのは無駄で無意味だ。お前だってあの時自分の無力さや未熟さを悔いたからこそ、強くなる事を願ったんだろうが」
 ぴん、とヤクモの額を軽く指で弾いてそう云うと、コゲンタは小さく重い息を吐きこぼした。それは呆れや疲れと云った様子ではなく、況して間を取ろうとしたものでもない。何か、心の中で澱んで浸した、本来清浄だったものの様に思えて、ヤクモは小さく瞬いた。
 何故だろう。それは酷く哀切を伴った、コゲンタ自身がたった今否定したばかりの──悔やむと云う言葉の、代わりの様に感じられたのだ。
 (もしかしたら……あの時、俺が弱かった所為で、コゲンタは思う存分に戦う事が出来なくて、だから、ひょっとしたら、俺なんかよりももっと、ずっと深く……『後悔』していたんじゃ…)
 力の無い、闘神士としての第一歩ですら無い場所に踏み入れたヤクモには、あの戦いは『何も出来なくて当然』の如くにあった。無論それは免罪符でもなく呵責を和らげる役にも立たない、酷い無力感を生み、戦いへと決意を向けると云う重要な経験となった。
 だが、コゲンタにはどうだっただろうか?
 式神として人間よりも絶大な力を持ち、嘗ては共に戦ったモンジュの姿をそこに認めて──それ故に『勝てる』と、信頼をしていたのだとすれば。
 闘神士が無力だった故にコゲンタは本来彼の想定していただろう強さを全く発揮出来ず、みすみすモンジュが石化の呪をかけられる迄を、見ている事しか出来なかったのだとしたら──それは。
 無力な者が己を知る後悔よりも、力ある者がそう適わず無力感に苛まれる方が、より多くの痛みを伴う筈だ。悔やみを抱えずにはいられない筈だ。
 その想像は目の前のコゲンタの様子と相俟って、瞬く間にヤクモの思考を浸食した。
 己が無力だったから。
 それを仕方のない事実だと受け入れる心がある。
 それを後悔し無力を憎む心がある。
 それらを否定し──あの時闘神機を自分が手にしていなければ、と。消極的に投げる心がある。
 「コゲンタは、俺が」
 「そこまでだヤクモ。その考えだけはするな。今のお前とモンジュの有り様を諦め悔やんで否定しちまう様な事だけはするな」
 己を責める思考に陥りかけていたヤクモの両肩をそっと包み込んで云うコゲンタは、口にしてもいないと云うのにヤクモの考えを全て正しく解している様だった。
 或いはコゲンタ自身も──当初は己の無力感と云う悔しさをヤクモと云う無力な闘神士に押しつけたいと思った事が、あったのかも知れない。
 「確かにお前はあの時無力だった。でもよ、こうして今生きている。生きている以上強くなる事は出来るんだ。
 俺がお前を強くしてやるって云っただろうが。それなのにお前がそんなんじゃ、いつまで経ってもモンジュを救う事なんて出来ねェぞ」
 厳しい内容を存外に優しい口調で締めると、コゲンタはふわりと微笑んだ。
 「で、もう一個の方だがよ。モンジュの性格からして、俺と『分かれて』から十年間ずっとその事を思い悩んでいたんだろうって、そんくらい解っていたさ。きっとアイツは俺を死なせちまったって思ってるんだろうなって、その事を案じもした」
 生きていてくれて本当に良かった、と。呪の完成する寸前にモンジュの呟いたその言葉が全てを語っていた。不謹慎にもあの瞬間、コゲンタは闘神士と式神との絆に、それを越えたモンジュの思い遣りに、深い喜びを覚えたものだった。
 ヤクモはそのことを知らない。嘗てモンジュとアカツキがどの様な関係にあって、どの様な絆を結び、どんな戦いを、日常を過ごして来たのかを知る術も無い。
 ただコゲンタの言葉や父の様子から、きっとそこにあった別れ──『分かたれ』──とは、きっと望まぬ酷い痛みを伴うものだったのだろうと、想像はつく。
 「なら何で、とうさんが今までどうしていたのかとか、訊かないんだ…?」
 深い絆があったのであれば、十年と云う人の時間の尺度ではそれなりの永い刻を。結婚し息子を授かって、式神を持たぬ闘神士として生きていたその空白を、気にして問いても良いのではないだろうか。況してモンジュがアカツキとの別れを辛く思っていたのであれば尚更に。
 ヤクモのそんな疑問に応えたのは、和らいだ空気を更に拡げる様な酷く楽しそうなコゲンタの笑顔と、頭にそっと置かれた手の温もりだった。
 「俺はアイツを未だ──これからもずっとだが、信頼している。だから無用な心配はしない。
 何より、アイツが俺と分かれた十年間を生きて来た形が、証が、今目の前にヤクモ(お前)って云う存在で示してくれてるんだからよ。これ以上何を気にして、案じる必要があるって云うんだ?」
 そう云うと、まるで子供にする様にコゲンタはヤクモの頭をぐしゃりと撫でた。
 他の者がしたのであれば、子供扱いをしないでくれと反発を抱いたかもしれない。だがその手は父の温もりに似た──或いはもっと近しく慕わしい、式神と云う幾星霜の刻を『人』を見守って来た、そんな深く温かなもので。まるで何かに押し出される様に、ヤクモは胸中の暗い想いを吹き払う為の笑みを浮かべようとして、泣き笑いの表情になっていた。
 「大体な、知ってるだろ?白虎族は何の式神だ?」
 に、と悪戯小僧の様に相好を崩して云うコゲンタの顔を見上げて、ヤクモはいつの間にか不思議に安らいでいた心の正体を知る。
 コゲンタが、とうさんの事を、こう云ってくれたのが──嬉しかったんだ。
 「信頼」
 迷い無く発せられた言葉に、コゲンタは満足そうな笑みを湛えた瞳でヤクモの事を見つめて来た。その眼差しは真摯で、然し奥に躍動する様な熱を孕んで猶澄んだ、たったひとつの感情を常に潜めている。
 その名前は──信頼。
 「そうだ。俺は信頼の式神だ。俺が力を発揮出来るか否かは全部お前の心次第になる。
 だから俺はヤクモ、お前を信頼してる。お前が俺を信じ戦って勝つ事を、信じている」
 真っ直ぐにそう告げながら、コゲンタはその手を伸ばした。闘神機を握りしめているヤクモの手を包み込む様にして、小さく頷きを寄越してくる。
 「お前が俺と共にモンジュを救う事を、信じている」
 「……うん」
 激昂した感情も涙も既に引いた心の中に、まるで優しい水の様にコゲンタのその言葉が染み込んで来るのを感じて、ヤクモは重ねられた指先にそろりと力を込めた。
 温かな手と闘神機から伝わる繋がる絆とに、融けそうに穏やかな感覚を覚えて、全身の、心の底から、ただ応える。
 これが、父の失ったものなのか──と思い知り、その絆が、想いが、今己の元に在る事にひたすらに感謝を憶えて。
 決然と顔を起こしたヤクモの表情は、既に前を向いていた。
 「八つ当たりして怒鳴ってごめん、コゲンタ。もうこんなみっともない真似はしない」
 「別に、泣き言云うなってワケじゃねぇよ。泣き事を云いたい時にゃ無理する必要なんざねェんだぜ?」
 まるで兄貴分の様に笑ってそう云うコゲンタは、然し心の中ではもう、ヤクモが振り返る事で抱く後悔を式神へとぶつける事など無いと、既に確信している様に見える。
 だから肯定する様に。裏切りのない眼差しでこたえる。
 「俺を甘く見るなよコゲンタ。こう見えてとうさん以上に頑固だってよく云われるんだからな?」
 「ハッ、上等じゃねェか。
 ──強くなれよ、ヤクモ。俺はお前が信じている限り、絶対負けねェからな」
 それこそが白虎族が『信頼』の式神とされる所以。闘神士が式神を信頼し、その勝利を疑わぬ限り強く在り、式神もまた闘神士のその心を信頼し続ける。
 その信に互いに応えようとする、深い絆。マホロバと云う具体的な『敵』だけではなく、互いを信じ合うと云うそれもまた、戦いだ。
 確認し合う何かの儀礼の様に、静かに離した手と手を握り、拳をこつん、とぶつけ合うと、コゲンタとヤクモは同時に笑い合った。
 



りっくんともあれだけあったコゲだし、ヤクモの時も何かしらスレ違いとかあってもおかしくないだろとか妄想から。実際最初の数話のコゲはモンジュに再会出来た喜びとヤクモへの不承不承感とかが際立ってるしで。
そんな訳ですんなりあれだけの関係になれたとは思ってないです。戦いを通じて、ってだけじゃちょっと薄い。『最初は反目し合ってた』なんて設定がある以上やっぱり何かしら越えるべき山はあった筈だろう、と。

努力と可能性。困難の克服そして成長。