望んだすべてを喪って、望まぬたったひとつを手に入れる。
 その裏切りを嘲りと変えて耐えようと思った。
 その裏切りを報いと知って享受しようと思った。
 恐らくはあの瞬間に、自分はもう決定的な何かを選び取って仕舞ったのだから。



  カンタレラ



 今更、気遣いも隠し事も取り繕う必要も何も無い。どうせ用件はひとつしかないのだし、ヤクモの方だってそれを解りきっている筈だ。
 断じるが早いか、マサオミはいつもの様に浮かべかけた人当たりのよい微笑みを取り消すと、社の段上に腰掛けているヤクモの方へと躊躇い一つ見せず近づいていった。
 「……マサオミか」
 ちらりとだけ顔を上げて、ヤクモ。改めて見ずとも気配で恐らく接近は知れていただろうにと思って、マサオミは応えも返さず彼の前まで歩いた。足を止める。
 夕刻を通り過ぎたばかりの頃合い。昼間から鬱蒼と薄暗い森に阻まれた社はただでさえ余り人の寄りつく場所ではない所に持ってきて、陽も落ちれば尚のこと周囲は厳粛に静まりかえっている。
 月は未だ頂点に昇ってはいないが、時が来ればリク達が月の勾玉の導きを受けるべく訪れると云う。地流に、強大な敵であるミカヅチに打ち勝つ為の伏魔殿での修行とやらは未だ鋭意継続中らしい。結構な事である。
 伏魔殿より天神町へ久々に顔を出したと云うヤクモが珍しくもそれに付き合うと申し出てくれたのだと、頼もしそうに報告して来たリクやナズナから、然し太刀花アパートの何処にも居なかった彼の所在をマサオミが訊き出していたのは半ば反射的な事ではあった。
 マントや装備一式を取り払った平服姿で、ヤクモは人待ちと云った風情でも無く『いつもの様に』ただ物静かな気配だけを纏って其処に居た。案の定、マサオミの訪れに驚いた様子さえもまるで無い。いや、いつも驚いてくれた事など無かったか。
 まるで俺が来るのを解って待っていたかの様だと、そんな都合の良い事をヤクモのその様子に当て嵌めて、マサオミは社の階段に足を掛けた。
 力を特別込めるでもなく肩を、とん、と押せば、ヤクモの身体は存外簡単に傾いだ。観音開きの扉の今は開かれた、社の中へとその上体は不安定に倒れ込み、肘をついて途中で留まる。一言も発さず剣呑な態度も顕わにマサオミはその侭ヤクモの身体の上へと圧し掛かった。言葉も無く唐突なその行動に寸時琥珀色の瞳が瞠られ、直ぐに眇められる。
 「………直にリク達が来るぞ」
 「無粋だね。何なら結界でも張って差し上げましょうか?」
 呆れも諦めもない、淡々と抑止を仄めかす言葉に口の端を吊り上げて返すと、マサオミは本当にヤクモの眼前に符をちらつかせて見せた。実際そんな面倒な事などしてやる心算も無かったが。
 「……」
 そんなマサオミの態度に無言のみを返したヤクモは、それ以上言い募る気も特にないらしくあっさりと身体の力を抜いた。それは雄弁な返答ではあったが、妙に苛立つ心地を刺激されて、マサオミの裡にたちまち不機嫌が浸透していく。
 突き抜けた様な表情で見返して来ているヤクモの顎を乱暴に捉えると無理矢理に仰向かせ、マサオミは噛み付く様に乱暴な口接けを落とした。
 ぴく、と思わず跳ねた身体を抑え込んで、甘さも労りも無く口内を蹂躙する。薄く開かれていたヤクモの瞳が躊躇う様に幾度か睫毛を震わせ、やがて静かに閉ざされる。それを待って、マサオミは更に深く角度を変えながら口接けを続けた。
 苛立ちの解放や蹂躙する満足感が本気の欲情に変わるまで、何度も。
 「──、」
 その間ヤクモは大人しく、マサオミの与える仕打ちに耐えていた。既に幾度も交わした、情も無い行為を恰も贖罪と取るかの様に。代償行為と識るかの様に。
 ……思えば最初のときからそうだった。抵抗も抗弁もなく、彼はただ黙ってマサオミの事を『見』てくれていた。
 こうして簡単に力を抜くのは諦観からではない。況して呆れでもない。
 赦しと癒しとを嘲りとして欲したマサオミの心を慰める様に。乾いた砂に注いだ水の様に。まるで、それこそが当然だとでも云う様に全てを見て捧いでくれていた。
 何故だろう、と今更の様にそんな疑問がマサオミの脳裏をちらりと過ぎった。嘲り棄てる手段としてこんな無為を選んだのは誰あろうマサオミ自身だが、抵抗の余地無く一度流されただけならば兎も角、どうして今も猶ヤクモはこうして『敵』である事を承知のマサオミへと黙って身など任せているのだろう。
 抵抗の一切を許さず、両の手を戒めた事も神操機を符で封じた事もあった。だが今はそう云った制限は一切行っていない。よくよく見ればヤクモの手の届く位置にある、畳んだマントの上には彼のものである紅い神操機が鎮座している。否、それ以前に、空手の様に見えたが符ぐらい何処かに隠し持っている筈だ。
 更にはいつリクらが此処を訪れるとも知れない状況だと云うのにヤクモは大人しく、マサオミの行う行為に抵抗のひとつも見せてはこない。
 「…………、」
 口唇が離れる瞬間、僅かに躊躇いが後を引いた。
 気が済んだ『事実』さえあれば良いとは思っていた。だがよくよく考えれば考えるだけ、まるで何かの罪滅ぼしの様にさえ見えるヤクモの態度が気にかかって、欲情するどころか却って苛立ちが増して行く。これで最後だろうと云うのにその気になれなくなり、マサオミは裡の鬱屈を溜息にして吐き出した。
 「……アンタさぁ、感覚とか麻痺してるんじゃない?」
 長い口接けの終了と同時に薄く目蓋を持ち上げたヤクモへと、棘や苛立ちを隠さない物言いでマサオミは囁きを落とした。
 いっそ嘲り呆れる様な云い種で。そうしないとどうして、勁い闘神士である筈の、敵である筈の彼が此処までマサオミへと心を折ってくれているのかに説明がつかない。
 きっと此奴は闘神士として得た強さの代わりに、人間として本来必要な感情の何かをごっそり欠如しているのではないかと。そう思ってその想像に少し嗤う。
 「闘神士として強く在り過ぎて、心まで強くなった錯覚でも?感情とか感覚とか、自分が今何を思われ何をされてるのかとか、アンタちゃんと解ってる?」
 理解をもしもした上の事であれば──それで猶納得して受け入れていると云うのであればそれはマサオミには到底度し難い。なんて無惨でなんて哀れなものか。
 理解など無く流されただけの事であれば──故にただ黙って放っておいていると云うのであればそれは、壊れているとしか云い様がない。なんて愚かでなんて哀れなものか。
 (だ、としたら……どちらでも同じ事なのか?)
 思う侭に与えられる侭に、憎悪と嘲笑とを呑み込むものであることには、変わりない。
 何故、黙っているのか。
 何故、歯向かわないのか。
 何故、軽蔑しないのか。
 何故、こんなにも真っ直ぐに見返してなど来れるのか。迷いなど無く偽さえも無く。なぜ。
 「麻痺していると云うのならば、寧ろお前の方である様に感じられるな」
 ヤクモは相変わらずの得体の知れない眼差しで、無表情にマサオミを見上げてきた。その瞳はマサオミとほぼ同じ年数を生きて来た筈だと云うのに、その間苛まれて来ただろうあらゆる感情や経験に擦り切られてはいない。あらゆる不幸、あらゆる幸福を享受し世界と己との在り方に折り合いをつけて、只管真っ直ぐに生きる意志を何処までも貫いている。
 簡単な憎悪に身を浸し、大義名分の名の復讐にばかり身を焦がして来たマサオミとは矢張り何処までも決定的に相容れない、それは真っ直ぐで正しい。透徹とした心の有り様。
 晒されて、マサオミは口元を歪めた。確かに麻痺をしているのはこちらの方かも知れない。憎悪を心地の良いものと感じて、こんな風に他者を貶め防衛本能に従う侭に嗤うのだから。
 「…かもな。だがそれが悪い事だなんて俺はちっとも思わないね」
 それがそもそも、麻痺していると云う事なのかも知れない。
 では果たして、歪んだ行動や心行きに何も感じないマサオミと、歪んだ行為を平然と受け入れるヤクモと、どちらが麻痺しているのだろうか。
 「俺は。……判らないで居る程愚かな心算は無い」
 「…………、」
 脳裏の囁きに答える様に、眼下のヤクモが何かを透かし見る様に目を細める。射抜かれてマサオミは口を開きかけ、然し細く吐息だけを吐き出して噤んだ。煮えくり返る様な肚の底の熱に灼かれた呼気は出る事の無かった言葉の代わりにマサオミの全身の神経を苛んでいく。
 「本当に解ってるのかよ、アンタ」
 心の裏側から凶暴な衝動が背筋を真っ直ぐ通して行き渡ると、戦慄いた指が、晒されたヤクモの首にいっそ優しく絡みつく。
 未ださほど力は込めず、それでも指先の末端にまで『本気』であるのだと意識だけを張り巡らせてみせる。
 生かすも殺すも生殺与奪は『敵』のこの手に。或いは人としての尊厳も無く踏み躙るだけの残酷な目的を。明敏で正しいこの闘神士を貶めるだけの権能を。
 目の当たりにして猶、抵抗も反論もなにひとつ見せないのだとしたら、それは一体何を『解って』いると宣うものなのか。
 「判っていなければ、こうしていない」
 肯定の意味は。理由は。何処にあると云うのだろう。
 これは何なのだろう。慰むでも憐れむでも諦めるでもない、この勁い意志は。心も身も或いは生さえも晒け出してただ介在するこの存在は何であると云うのだろう?
 「………まさか、未だ俺が『本気』でこんな事しやしないと、『信じている』とでも云ってくれる心算なのかな?」
 辛うじて指に引っかけた想像は安っぽい倫理観の成れの果てだ。酷く不快な、最初にマサオミのこの衝動に火を点けた、想像にも恐らくは違えまい、ヤクモの本心の一つ。
 紡ぐ内、自然と両の手に力が込もっていき、少々息苦しさを感じ始めたヤクモが眉間の皺を深めた。詰まった息を押し出す様に吐くと、目蓋を閉じて口を開く。
 「天流にも地流にも、神流にも。俺にも、そしてお前にも。正義や悪とも未だ決まっていない、信じて貫く意志が在るだろう?」
 ただ立って呼吸をするかの様に。組み敷かれ首を絞められかけている所だと云うのに、ヤクモが酷く当たり前の様な声音で紡いだのは、マサオミの問いとは全く関係の無い事の様に聞こえた。
 「目的とか、価値観とか、信念、とか。そう云う名前のものだ……」
 「………で?」
 「当然それは人の数だけ存在する。誰にも誰を正義とも悪とも断じる事は出来ない。何故ならば基準が違うからだ。然しだからと云って全てが公平に許されて仕舞う程世界は単純にも無辜にも出来ていない。
 だから俺は俺の基準で正しい事とそうではない事とを判じる。多くの人がそうする様に。俺自身の正義に従って、戦うべきものとそうではないものとを区別する」
 「………」
 瞬間的に浮かびかけた同意や反論を一旦は呑み込んで、マサオミは表情には出さず苦笑した。ヤクモの云いたい事が段々と解って来て、だが同時に、それを云ったら遠慮無く括り殺してやろうと云う衝動が沸々と沸き起こる。
 そのマサオミの気配を薄らと感じ取っているのか、それとも我知らず感情に先走って手に更なる力が籠もっていたのか。少し苦しそうに喘ぐとヤクモは再び目蓋を持ち上げた。ひととき隠されていた鮮烈な心を湛えた水面にも似た瞳が、感情を微塵も感じさせない様な冷ややかな表情を覗かせてくる。
 「…………俺は『お前』の所行を、糾弾に足りる『悪』と判じている。誤った事であると思っている」
 「……………………あァ、そう」
 背筋を辿った想像通りの甘い戦慄とは逆に、嗤い混じりの首肯に併せてマサオミの肩が強張った。両腕に力がひといきに込められる。詰まる呼吸にヤクモの表情が苦しげに歪められ、然し噛み締めた奥歯の向こうから、軋る様な声が続いてくる。
 「だが、それは俺の判断基準から、の、ひとつの物の見方に、…過ぎない。だからこそ、俺は俺の信念で、止めたいと、思っている。……お前達の所行が、悲劇になるその前に」
 言葉と同時に今までだらりと横に流れていたヤクモの両腕が持ち上がった。圧し掛かって首を絞めるマサオミのその腕を引き剥がす様に強く掴む。
 ここに来て初めて見せたヤクモの明確な『抵抗』に、マサオミの中の箍がはずれた。途端湧き起こる、獲物を逃すまいと云う本能的な意識に任せて、体重をもかけて更に強く力を込めていく。
 「話は…ッ、最後まで、聞け……!」
 「あ、」
 ぐ、と腕に力の込められた、真っ向からのヤクモの抗議に思わずマサオミは手の力を緩めていた。そうして仕舞ってから瞬間的に何を流されているのだと我に返るが、再び殺意が鎌首を擡げるよりも早く、続きが放たれる。
 「善か悪か、正しいか否か。それだけを正義の大義名分にして、相容れないものを否定する事で自らの信念を肯定する、そんな悲しく愚かしい事を繰り返してどうする…!?憎悪の肯定も復讐の正当性も、その先には悲劇しか生まない!」
 何処までも『正しい』事をそう叫ぶとヤクモは再び、とどめる様に掴んでいたマサオミの手から力をそろりと抜いた。然しそうする迄もなく、既に首にかかったその手には力など殆ど込められてはいなかった。
 ……惚けていた。余りにも単純で明け透けに。ただしく何も知らずそんな事を云う、この闘神士の甘い心に。普通に抗議されつい反射的に手を弛めて仕舞った時の様に、酷く当たり前に。
 「……だから俺は『お前』を、その全てを、一切否定しない」
 だから、信じていると判じたその通りの意志を今でも貫くなどと、云うのか。
 耐え難い抗いの衝動の末にマサオミの選んだこんな非道い冒涜を、慰みに捧いだ挙げ句赦すなどと、云うのか。
 それは正しい人間だとか、勁い闘神士だとか、莫迦だとか甘いとか都合が良いとか、そんな言葉では最早マサオミには説明がつけられなかった。
 理解し難い程に。
 「………………やっぱりアンタ、麻痺してるよ」
 己の瑕も厭わず、平然と誰か他者へと、何の迷いも衒いも無い真っ直ぐな心と一つしかない身を差し出せるなどと。どうかしている。矢張りこれは何処までも正しくて、何処までもマサオミの心を灼くものだ。
 苛立ちや甘えたい衝動。非道い不快感を持つ筈のそれが凶悪な殺意や行為に姿を変えて、そうしてまたヤクモを傷つける。彼はマサオミを赦すと解っているから、疵を与え続ける。
 最も惨い疵を負った彼の心は、遠い昔にひっそりと死んで仕舞っていたのではないかと、そんな事をもぼんやりと思う。有り得はしないと理解していても、勝手な想像をせずにはいられない。
 あの優しさは、信念は、毒だ。
 甘く喉を下って、マサオミに嘲笑と云う名の安堵をもたらす毒だ。
 憎悪も嘲りも殺意も欲望も弱さですら肯定してくれる、たちの悪い癖に習慣性のある毒。
 マサオミの負った疵や餓える心へと、情の名前で塗りたくられた毒(くすり)。
 だからきっと、彼は麻痺しているのだ。自らを支払いの勘定になど数えず惜しみなく差し出せる程に。正しさと甘さの剰りに、きっと何処かで破綻しているに違いないと思えた。
 そう思わないと信じられない。根拠のないこんな現象に、何の代償も存在しない筈がないのだ。
 (ああ、そうか)
 そこでマサオミは目を僅か瞠って息を呑んだ。ヤクモの首に巻き付いていた指がこわごわと解けていくのを他人事の様に見つめて、激しい殺意のひととき冷めた平坦な心で思う。
 (だから解ってるんじゃなくて『判って』いるのか)
 謬りなどない己の心を。その取捨を。マサオミの内包した憎悪や我侭を赦すその選択を。
 温もりと云う堕落、幸福と云う絶望に溺れる事を罪悪と、己を責めるマサオミの選んだ、最も非道い裏切りや冒涜や嘲笑を受け止めてくれる為の形として。贄として。偽もなく在るが侭。
 そんなマサオミの想像を肯定するかの様に、ヤクモの手がふらふらと伸びて来て頬にそっと触れてきた。撫でるでもなぞるでも無く、ただ在るものと云うだけの接触。
 思わずまじまじと見下ろせば、先程までの温度の無さは何処へいったのやら、瞳の縁を優しく和ませたヤクモの顔に行き当たる。
 そうして彼は和らいだ空気の中にかぶりを振って、そっと静かな言葉を流し込んだ。
 「信念から生まれた悪意も憎悪も、同じひとつの心でしか受け止められない。心には心で相対する事しか適わないんだ」
 そう云ってなんでもない事の様に微笑んで見せると、彼はそっとマサオミの下から抜け出て身を起こした。襟元を整えてからマントを軽く羽織って仕舞えば、首に刻まれた痛ましい殺意の痕跡はもう見て取れない。
 「俺はそれを──まあそれも俺の基準での話だが。間違った事であるとも麻痺した心であるとも思わない」
 「………とんでもないお節介焼きなんだな、アンタって」
 マントを留める肩口の釦を探りながらこともなげにそんな事を云うヤクモの姿を、こちらは未だ座り込んだ侭でどうしようもない心地になりながら見上げて、マサオミは辛うじてそれだけを呻いた。
 神流のガシンと天流のヤクモとが目指している逆ベクトルの途。互いに目的も信念も譲れないのだと知るから、ヤクモは己の基準に因る『正義』で真っ向から神流へと、マサオミへと相対する事を選んだ。
 敵と味方。裏切りと嘲笑。友情と愛情。鬱屈と錯覚。通らない道理と通せない偽。問題などは提起された途端に帰結されて仕舞ったのだ。彼の中では。惑いの晴れない侭のマサオミとは対照的なことにも。
 仕方のない事だ。どうにも出来ない事だ。彼は自らの事では決して疵など負いはしない。麻痺しているのだから。とんでもなく正しく。
 だから、マサオミがどの様に痛めつけようと、自らの負う痛痒などでは彼のその正しく真摯に差し出された勁い心はなにひとつ揺らぎもしないのだ。
 (ひとつ、可能性があるとすればそれは俺がアンタのそのお節介や真摯な思い遣りに耳も貸さず、リクやアンタをほんとうに裏切った時、だな)
 その時初めて彼は恐らく疵を負ってくれる。但し自分ではなく。皆を裏切り疵つけたと云う事と、裏切った末に在るマサオミの心に対して。後悔や満足に対して。振り切ろうと嗤うだろう嘲笑に対して。
 『裏切られ』た己の事に対しては、ヤクモは恐らく耐えて踏みとどまるだろうと云う自信は、随分前からあるのだ。
 (だから、さ? ──裁くならどうぞお好きな様に。出来るものならね)
 リクには各地の四大天の封印を破壊する様順調に仕向けている。千と二百年の悲願の成就も、計画ももう大詰めだ。天神町や京都でこうしてヤクモに遭遇する事もこれが恐らくは最後になる。そう遠からず彼は全てを突き止め、伏魔殿の深奥へと辿り着く筈だ。
 だから、ここで決定的に崩してやろうと思っていたのだが、残念ながらそれは適う事は無かった。然し逆に非道い瑕疵を知る事が出来た。
 もう、これで終わりだ。
 「ヤクモ」
 マントを羽織ったついでにか、社の中に佇み伏魔殿へと降りる準備を早めに済ませようと支度するヤクモの前へ、立ち上がったマサオミは一歩を近付いた。入り口から差し込む僅かの光を遮られる形となった彼の向けて来る訝しむ様な眼差しに向け、今まで女の子には概ねの場面で効果覿面だったとびきりの笑顔を浮かべてやる。
 「……?」
 疑問符と言うよりは気持ち悪いと言いたげですらあるヤクモの様子に、マサオミは笑顔の狭間で渋い表情を浮かべ、溜息を吐いたその侭に足下へと視線を固定する。
 この真っ向から心そのもので体当たりをしてきた人に、この上『今』真っ直ぐに見据えられたら耐えきれない気がしたのだ。
 諦観でも殺意でも反則でも情愛でもなんでも良い。ベクトルが少々違うだけの、同じ熱意と衝動とを堰き止める事は難しい。
 「気は色々削がれちまったが、いつもと変わらないアンタを見れて俺は安心出来ましたよ」
 「……それは何よりだったな。それにしても、わざわざそんな事の為に来たのか?折角ならばリク達に付き合えば良いものを」
 嫌味には僅かに眉尻を上げた程度で、今更解りきっていただろう事を問いかけてくるヤクモへとマサオミは肩を竦めて返した。
 「これでも色々と忙しい身なんでね」
 恐らくは最後だから、思わずアンタに会いに来たくなっただけだ。とは態度で知れていただろうがおくびにも出さず、言葉だけを密やかに口中で噛み殺す。
 (もうアンタとの『ごっこ』戯びは終わりだ)
 『次』に会う時は、最初に会った時の様に今度こそ明確な『敵』として。神流の悲願と天流の障碍。ヤクモの望む『阻止』とは相容れぬが故に戦う。仮令その結果どちらかが損なわれる事となっても。
 「………じゃあな、ヤクモ」
 いつも通りに軽く手を挙げて、マサオミはその侭ヤクモの顔を見ずに踵を返した。
 あの時手からすり抜けて仕舞った様な錯覚を憶えたものへと、どれ程愛着を見せた所で──もう、二度とはやり直せる機会など、持たない。
 だから良い。それで良い。これで、お終い、だ。
 「マサオミ」
 だから、そっといつもの様に『呼ばれ』た声に──或いはその幻聴に──、マサオミは足を止めなかった。振り返りもしなかった。頭の何処かでも本能的な部位でも、これがどういったものであるかぐらい、わかっていた。
 「それでも、俺は躊躇わずお前たちを止める途を選ぶ」
 まるで自らに言い聞かせる様な言葉だと思って、マサオミはそっと忍び笑った。
 決断の時まで恐らくは、変わりはしない癖に迷って言い聞かせ続けるのだろうと思えば滑稽で哀れだ。いっそ蔑み怒りにその目を炯々とさせながら最後に立ち塞がって、そしてその優しすぎる毒で、それでも全てを赦せば良い。諦めさせてくれれば、良い。
 何故ならば、二度とは選べないし、砕けないからだ。仮令何度同じ選択肢を迫られたとしても、選べるものはたった一つしかない。
 人は、喪って仕舞ったものを元の様に欲しがるのだから。
 (………なら、いつか『元に戻った』世界で、姉上達を取り戻して満たされた筈の俺は、アンタ達の存在を欲するのかも知れないな)
 じゃあ俺が満たされる事なんて永劫無いのかもな、と自嘲の端に乗せてひそやかに笑うと、社へ続く小径に入った所でマサオミは符を取り出した。前方から僅かに聞こえて来ている賑やかな子供らの遣り取りに出会って仕舞うその前に、姿を消す。
 破綻も終焉も、気付かない程優しいしたり顔で直ぐ其処にもう迫っている。今更マサオミが煽りたてる必要などない程直ぐ其処で、終わりの時をじっと窺い待っている。
 恐らくはあの瞬間に、自分はもう決定的な何かを選び取って仕舞ったのだから。
 その裏切りを報いと知って享受しようと思った。
 その裏切りを嘲りと変えて耐えようと思った。
 望んだすべてを喪って、望まぬたったひとつを手に入れる。
 ……そんな無惨な結末を、選んで仕舞ったのだから。
 



対峙する前に、大人しく従ってる訳じゃねぇよ調子こいてんなとはいつか云わせたかったんです。
ヤクモ側の本音は罪悪感も含まれてるんですが、本質的な部分を言わない辺りが多分毒(…)。

ボルジア家の毒薬。題決めのとき暫くカンタレラと云う言葉を思い出せず、えーと…ガンダーラだっけ?とか云ってましたよあぶないあぶない。