決意を定義付けるのものとは、果たして自意識ひとつの下した判断と云えるだろうか。
 流れる侭の選択、与えられた解答、模範的な行動、本能が受諾した是と否。
 果たして何が必要なのか、何は不要なのか。
 惑える境界の曖昧な思考は融けて混ざり、形無き、意味無き、意志無き在り方ばかりを示し凝ってゆく。
 故に、その前に、決意を択らなければならない。
 その惑いに浸され、溺れ怯えた事を、認めなければ、ならない。

 まるで秘蹟の様な、願望の様な。情愛の牙を研ぐ、──惑わせたものの在る不幸か。
 まるで儀式の様な、睦言の様な。殺意の爪を削ぐ、──憎むべきものの在る幸福か。



  セルロイドの矩形で見る夢



 現出したのは、京都の東、青龍の社だった。
 余り良い所とは言えないが、場所を選んでいる余裕など無かったので仕方がない。人が居る場所では無いだけましだ。
 少し埃と陽の匂いのする社の床へと、マサオミは肩に担いでいたヤクモの身体を下ろした。
 ぐったりと力無く横たわった身は、硬い床に横たえられた事にも何の反応もなく、精彩を失った顔色と、少し苦しげに寄せられた眉、閉ざされてぴくりとも震えない目蓋だけが、目で見て伺える様子の全てだった。
 余り楽そうに見えなかったので、首当てを解いてマントを脱がせてやる。ベルトを外す際にちらりと神操機を見やったが、そこからの反応は特に無い。式神達が声も姿も現そうとしないのは、ヤクモの気力のこれ以上の消耗を抑える為だろう。
 その事にも──マサオミと云う彼らが嫌っている相手の前に、契約する闘神士が無防備に晒されている事に抗議出来ない程に深刻な、現状を思い知らされる。
 脱がせたマントを床に敷き、その上にヤクモを寝かせ直す。抱え起こした時に、薄く開かれた唇が乾ききっている事に気付いて、マサオミは音を立てない様に社から外へと出た。
 よく晴れた、爽やかな初夏に似た天候。ひとの気配のない静かな空気が、凝った社の空気を攪拌して通って行く。
 幾ら参拝者など訪れない様な寂れた社であるとは云え、清めの水場ぐらいはある。清浄な水を蕩々と湛える手水舎に向かうと、備え付けられた柄杓に冷たい水を注ぐ。
 小さな柄杓から瞬く間に水が溢れてこぼれ落ちるのを茫然と見る内、マサオミはそこに映った己の表情が酷く歪んでいる事に気付いて──思わず柄杓を振り落とすと両手で勢いよく、掬った水を叩き付ける様に頭から被った。奥歯の更に向こう側から、軋る様な息を吐き出す。
 「………何を、やってるんだ。俺は……」
 
 *

 「……ヤクモを、罠に?」
 渋面を隠さず、マサオミは鸚鵡返しにそう問いた。
 対するは、鷹揚な仕草の首肯。その様子に、古くからの、永き時間を封印され過ごしていた神流闘神士たちに特有の自尊心の高さや過信の強さを感じ取り、マサオミは更に眉を寄せた。
 そんなマサオミの表情を、値踏みをする類であると取ったのか、話を振って来た二人組の神流闘神士の男の片方が続ける。
 「ガシンよ、見れば貴殿は大層あの天流のヤクモへ取り入れている様子。今ならば彼奴を欺くのも容易であろう?」
 監視されていた、と云う訳ではないのだろうが、マサオミがヤクモへと接触していた何かしらの時(タイミング)を覗き見されていた、と云う事実を裏打ちする様な云い種に、更にマサオミの渋面が濃くなる。沸き起こる苛立ちには爪を噛む代わりに、口内で音を立てずに舌打ちをした。
 紛れなくマサオミは神流闘神士ガシンであり、その悲願は天地流派に因って封印されたウツホを解き放ち、失われた家族達を取り戻す事にある。
 その目的は、願いは、叶うまではこの先何年と云う時が流れようが変わりはしない。神流として、天地流派を激しく憎悪する感情も、変わりはしない。
 だが──これは思い違えとしか云い様がない事なのだろうが、天流のヤクモと云う存在に相対する様になってからと云うもの、マサオミは己の心の中に沸き起こっていた不快感に因って幾度となく惑いを憶えさせられていた。
 潰すに足る空隙。絶望に貶めてやりたい嘲笑。晒された甘さに食らいつきたい欲望。或いは衝動。
 沸き起こる数々の感情は己で呆れ果てる程に倒錯じみていると云うのに、然し気付けばヤクモとの間に築かれていた、『偽』の関係──敵同士である筈なのに、敢えてそれを余所に追いやった、仲間や友達の様な有り様──を、快く思う様になって仕舞っている事実があり、その事にマサオミは少なからず動揺を憶えていた。
 別段表立って神流の仲間を裏切る様な心算など無いし、悲願も変わらない。故にどちらが『偽』なのかと云えば、それは紛れなくヤクモとの関係の方だ。
 彼に対する己の在り方が──大神マサオミとしての己の在り方こそが『偽』であり、不必要なもの。
 だから今更『偽』としてヤクモへと接近していた様子を神流の仲間に見られた所でどうと云う事も無いのだ。
 あれは『偽』なのだから。
 考えれば考えるだけ、そう言い聞かせなければならない程に己がどれだけその『偽』に惑わされていたのかを思い知る事となる。マサオミは組んだ腕の下で無意識に指先がジャケットの袷を掴んでいる事に気付くとそっと指から力を抜いた。
 「罠、ね……。それは一体どの程度の勝算があるんだ?既に解りきっているとは思うが、ヤクモには生半可な罠など通じはしないぞ。無駄に犠牲を払う様な事になったり、俺の正体を看破される事になるのは、この大詰めも近い時期には御免だな」
 いつわり、と理解しながらも、反射的に言葉はその真逆をついて出ている。肩を竦めるマサオミに、神流闘神士は寧ろ楽しむ様な風情で眼を細めた。
 「彼奴に随分とご執心な様だな。とは云え、我らとてそれは思い知っている。今までの犠牲、タイシンの敗北。何れも軽いものではあるまい。
 解るかな、ガシン。だからこその罠なのだよ」
 せせら笑う様な言葉に疑いは全く無い。だが揶揄する様な色である事に気付き、マサオミは出掛かった反論を呑み込む。
 彼らは、つまりその『罠』とやらの効能には自信があるのだ。問題はその罠へとかける事。確実な勝算となるそれが足りないからこそ、彼らはわざわざマサオミへと話を持ちかけて来たのだ。
 ヤクモが心を許して仕舞っているだろうマサオミであれば、罠に填めるのは容易である、と云う──確信を抱いて。
 「……俺の手管次第、って事か。──で?そこまで自信があるならば、『罠』のその正体をお聞かせ願いたいものだね」
 どちらとも知れない──皮肉に歪んだ表情を、不敵さの込もった表情にすり替えて云うマサオミに、神流闘神士の男は野卑ささえも覗く笑みを浮かべてみせた。
 それは激しい──天流への、憎悪。
 故に躊躇いなどない。禁忌などない。正道などない。躊躇いなど──無い。
 ただ、憎悪に突き動かされる侭に振るわれる詭弁。正義。
 「式神も降神出来ぬ様な封印結界を既に準備してある。後はそこへと貴殿が奴を誘い込めば良いだけだ。頼まれてくれるな、ガシンよ」
 そこにあるのは、完全に形振りを払いきった男の──罪悪も不安も感じていない様な、無為の獣の表情だった。
 
 *
 
 飽く迄神流闘神士ガシンである事が本分のマサオミは不承不承、形ばかりだけはそれに乗ったが、内心では果たしてどうしたものかと悩む事となっていた。何せ相手は天流のヤクモだ。憎むべき流派の中の強者で、計画の遂行には今確実に邪魔となる場所にまで入り込んでいる闘神士。
 だがリクに近付き、自然とヤクモにも接触する様になってからマサオミは、確実にヤクモに惹かれて仕舞っていた。それは或いは憎悪故の執着だったのかもしれないし、或いは本心の愛情や友情だったのかも知れない。が。
 何れを問いても全ては『今更』でしかない。既にマサオミは『偽』としてあの優しい時間に身を浸して仕舞っていた。
 倒さなければならない敵。同時に、失わせる気にはなれない存在感。果たしてどうする事が最善なのか、そんな二律背反に佇み──故に殊更彼らの在る『日常』を嘲る事を選んだ。
 倒せもしない敵(ヤクモ)に向かい無駄な犠牲を出すな、と今まで神流の仲間を制止してきたマサオミだが、罠に絡める事、そうして仕掛けた神流闘神士と、神流随一の実力者たるガシンと云う組み合わせを思えば、それは勝算に足りると判断せざるを得なかった。
 ここに来てマサオミは己の惑いをまざまざと思い知る事となる。
 勝算とは勝利に足る目算。
 勝てば、天流のヤクモと云う障碍を排する事が出来る。
 負かせれば、記憶か命か。その存在を失わせる事が出来る。
 敵から。天流から。或いは、この心の裡から。
 敵対し、命を救い、意外な一面を知り、いつしかその存在を心地よく思う様になっていった。それは取り戻せない家族のを求める人恋しさの生んだ思い違えだったのか、それとも心底望んだ事だったのか──
 何れを問いても全ては──結局のところ『今更』でしかない。既にマサオミはそれを『偽』であるのだと示して仕舞ったのだ。
 長い前髪を伝って落ちる水が、気付けば徐々に乾きつつある。億劫そうにそれを払い除け、マサオミは地面へと落とした柄杓を拾い上げると水の中へとそれを再び浸し、それからゆっくりと背後を振り返った。
 そこにあるのは、鬼門を封じた社。
 社の中には、再び命を救う事になった『敵』が居る。
 
 *
 
 いつも通り、慣れた手順を踏んで伏魔殿の内部を辿り進む。とは云え今回はヤクモの居るだろう概ねの座標を知らされていただけに、いつもの同じ作業よりも余程楽だった。
 ヤクモの居所は現在この辺りだろう、と云って来た神流闘神士に「入念な事だな」と己の普段している事を棚に上げて思ったマサオミだったが、罠に填めようとする対象の位置を予め探っておく事なのだ、入念と云うよりも勝率を上げる手段として当然の事と云えただろう。
 とは云え一朝一夕で、伏魔殿の内部を動き回る闘神士を捕捉など出来まい。つまり彼らはそれ程に以前からこの『計画』を練っていたのだとも取れる。
 知己がやられたか、それとも己が嘗て敗走したかは知れないが、彼らが天流のヤクモへと抱える感情は相当に根が深い、と云う事でもあるのだろう。
 当の神流闘神士二人組は既に罠の付近に身を潜め、ガシンがヤクモを罠に誘い込むのを待っている筈だ。
 今ならば未だ言い訳も引き返しも通じる段階だ。そうマサオミが思った矢先、丁度視界に砂色のマントが入り込んだ事に気付いて仕舞い、思わず重い溜息が漏れる。
 いつもならば諸手を挙げて大歓迎をしている展開だが、今日ばかりはそうも云ってられなさそうな状況に心の底から正直な、うんざりとした感情が渦を巻いて昇る。
 (さて……どうするかね)
 暗澹たる気持ちで呟くと、然し次の瞬間にはマサオミはするりと上機嫌の笑みへと己の気配を転じた。以前の様にヤクモに、己の今の精神状態を気取られるのは望ましくない。
 故に『いつも通り』。丁度こちらの気配に気付き振り返ったヤクモへと、ぱたぱたと手など振ってみる。
 「ハァ〜イ。また会ったな、ヤクモ。にしても、ここまで何度も広い伏魔殿で遭遇出来ちゃうと、いい加減これって運命?みたいな感じとかして来ないか?」
 荒涼とした大地を吹く強い風にマントと首当ての紐とを靡かせながら、半身だけ振り返ってマサオミを見ているヤクモの表情が僅かに和らいだ。苦笑したらしい。
 「して来ない。それよりお前、リク達にはいつも忙しいと云う様な事を云っておきながら、実は暇だろう?」
 呆れた様に云いながら、マサオミが追いついて来るのを待ってくれるかの様に足を止めたその姿に意識を寸時奪われる。
 いつものマサオミならばここで、ヤクモのそんな行動ひとつを取って口説く様な真似を始めている所だ。何故かと云えばそれは対応の変化が嬉しいからに他ならない。永遠に縮まらないと思って居た筈彼我の距離が、然し態度の軟化と云う形でほんの少し、変化する兆しを見せる様な。
 ヤクモのそんな僅かの動向にさえ、一喜一憂せずには本来いられない筈だと云うのに、今のマサオミの裡にあるのは紛れのない──落胆と躊躇いだった。
 「……何でこう云う時に限って……」
 無為の獣ではない。為り得ない。何故ならここには憎悪が足りない。ヤクモと己との間にあるのは、天流闘神士に向ける憎悪と云うよりも寧ろ──
 「? 何だ?」
 「いや、何でもない。それよりもアンタがそうやって俺を待っていてくれるなんて珍しいね〜。ひょっとして久し振りに俺に会えて嬉しいとかそんな事」
 「思って堪るか」
 これはいつもの様にざっくりと切られて、マサオミは少し傷ついた風を装いながらヤクモの横へと近寄った。少し進路を誘導する様な立ち位置を選んで止まる。
 (……寧ろ、   )
 誤魔化す様な言を連ねた所為で、僅かに気付きかけていた事をマサオミは意識せずに呟き、そして直ぐに忘れた。
 倒すべきであった相手に、気付けば何故これ程までに入れ込んでいたのやら、知れない。
 (ここでヤクモを倒したら、リクらの疑いを招く事にならないだろうか?)
 (まだ核心全てを衝かれた訳ではないから、放置しておいても良いのではないだろうか?)
 幾つも浮かぶ言い訳に己で狼狽し、マサオミは再び何事もない風に歩き出したヤクモに気取られぬ様喉奥で呻いた。
 本当の恋心だとか憎悪だとか家族ごっこだとか心地の良い空間だとか底の知れない透明さだとか、そんなものは全てどうでもよく。
 自然と、その侭歩いて行くヤクモの後ろを追う様に足が動いた。
 『いつも通り』でしかないその行動は、然し今日に限っては決して『いつも通り』にはならない。
 待つのは永訣か、それとも。
 結果の未だ不明瞭な先へと進む。此処から先は恣意などではなく、選択だ。
 そのマサオミの裡の迷いを恰も察したかの様に、先を行くヤクモがふと云って来る。
 「別にお前が暇なのは結構な事だが、邪魔をする心算なら帰れ。そうではないのであれば……、好きにすれば良い」
 それもまた、『いつも通り』の言葉である筈だと云うのに──言葉と、その『先』とに確実に存在する威圧感に似た錯覚に、マサオミは密かに喉を鳴らした。
 その選択は、正しいのか?
 後悔はしないだろうか?
 ヤクモはこの先に待つ『罠』の事も、それに因ってマサオミが『裏切る』事も、知り得てはいない。だが此処でこの背を追わなければ、『罠』などは無意味と成り果てる。神流闘神士達には『ガシンは裏切り者か』と疑いをかけられるかも知れないが、タイザンがフォローしてくれるだろう確信はあるし、最終的に天流宗家を役割通りに動かせばその嫌疑も易々と晴らす事が出来るだろう。
 故にこれは、選択だ。
 一言を寄越してからはもう、平気で背中を晒して歩いて行こうとするばかりのその姿へと熱心とも取れる程に真剣な視線を向けて、マサオミは予てより抱いていた疑問をふと、口に出していた。
 「好きにすれば良い、って云うが……なぁ、アンタさあ…、俺がアンタの命をつけ狙う刺客だったりしたらどうする訳?」
 未だ晴れない選択と云う名の惑いの中、恐る恐るマサオミの吐き出したその問いに、然し返ったのはいつもの恬淡とした薄い微笑み。
 「お前の目的や正体を今更どうのこうの、とは思わないな、もう」
 ヤクモは神流の事を探りながらも、その神流の一員である筈のマサオミを、敢えてその埒外から外して見ているのだ、と──、マサオミはその言葉で今更の様に、思い知った。
 『お前とは出来れば戦いたくない』と、以前云った通りに。ずっと。
 或いは。ヤクモ自身もひょっとしたら、マサオミの存在に対して何かしら、得難いものを感じていたのかも、知れない。
 だがそれは選択ですら既に無く、問い質す事のならない、恐らくは『正解』。紛れなくヤクモの──天流闘神士の敵である神流闘神士ガシンには、決して問う事のできない答えだ。
 喉から溢れ出しそうな感情は噎せ返る様な熱となって、マサオミの裡を灼く。
 「…………何で?ひょっとしてこうしてる間にも、背後からざっくりとか考えてるかも知れないんだぜ?俺」
 だから態と偽悪めいてそう云ってやれば、返ったのは──
 「それに引っかかってやる程お前と云う闘神士を甘く見てもいない。だがそれよりも、そんな事はない、と云う確信の方が強いな。本当にやる気があればそんな事を問う躊躇いなど見せないだろう?」
 そう無防備に背を向けた侭云うヤクモの姿を見てマサオミは、灼かれた喉から迸りそうになる絶叫を、堪えて。立ち竦んで。伸ばしかけた手を然し留めて、その代わりに嗤った。
 マサオミの裡に確信が落ちる。先程気付きかけた答えが続きを促す。
 『寧ろ、枷だ』。それは欺きと云う名の理性。ひとが獣に墜ちない為の。
 神流闘神士ガシンが、天流闘神士ヤクモの前で、大神マサオミと云う存在で居る為の、枷。
 外して仕舞えば、憎悪よりも遙かに簡単な欲求が姿を現すだろう。
 そう。彼は、敵なのだから。疑いもなく信じる愚かなものへ相応の報いを与える事に、今更躊躇う必要もない。
 知らずの内に誘導された通りの道を進むヤクモの背へと向けて、マサオミは凄絶な笑みを浮かべる。それは奇しくも、あの神流闘神士の見せたものとよく似た、無為の獣の様相であった。
 憎悪の無い只の無為。嘲笑か侮蔑か、それとも喜悦か。
 「確信、って要するに俺、信用されてるって事か?それなら光栄の限りだねぇ」
 物騒な気配は何れも胸の底に押しとどめた侭、マサオミは柔和な笑顔を浮かべながらヤクモの横に回り込んだ。ちらり、とだけこちらに視線を向けて来る横顔をにこにことしながら見つめて、距離を測りながら歩を進めて行く。


 ──選択は、択った。
 何れは敵になる相手。
 憎むべき天流闘神士。
 目的遂行の為の確実な障碍。
 大勢の神流闘神士達の仇。
 隣を歩く、マサオミ同様に『いつも通り』の気配を保っているヤクモへと、表情にも感情にも一切の揺らぎを見せずに次々にマサオミは神流の者として抱くべき本来の感情を連ねていく。
 (そんな愚かで甘いアンタが、俺の事で傷ついて、瑕を負ってくれれば良い)
 笑顔で言葉を募りながら、時折向けられる微笑や気遣いに心を掻き毟られながらも、胸中で宣言したのは相反する永訣の。
 向けて来たその信頼を裏切って見せれば、ヤクモはきっと酷い疵を負うだろう。
 憎むか、泣き叫ぶか、引き裂かれた心を抱えてどう無様に斃れるかを、見てみたい。
 指定された『罠』の座標まではここからそう遠くはない。同じフィールド上に当たる。誘導するのは容易だ。
 (どうせなら、瑕ついたアンタが欲しいな)
 あの、歪みのひとつも負わない様な透明さが、例えば憎しみひとつに浸されたら、酷く綺麗な憎悪を見せてくれるのだろうか?
 それとも或いは、疵を負い、瑕だらけになっても未だ、変わらず立ち続けるのだろうか?
 睦言に似た甘ささえ乗った囁きは風の中に等しく散り、己ですらもはっきりと受け取れはしなかった。
 
 *

 柄杓に清涼な水を掬って、社へと戻る。
 己がどのぐらいの間黙考に沈んでいたかは定かではないが、時間の経過に関わらず、横たえたヤクモの姿は先程までと全く変わらない侭で其処にあった。
 社の戸を閉ざすと、マサオミは少し苦しげに表情を歪めたヤクモの枕元へと膝をつく。柄杓を傾け、乾ききった唇へと水を流そうとするが、微動だにしない身は僅かの水でさえ受け入れてくれようとはしない。
 仕方なしに清潔な手布を取り出し、それに水を少し染み込ませると、唇に当てて搾ると、唇を湿らせた僅かの甘露に、薄く開いた口唇が戦慄く様に震えた。
 後ろめたい様な感情は何処かにあったが、一旦それを閉め出して、マサオミは柄杓から自らの口に水を少量含むと、それを口移しでヤクモに与える事にした。
 口接けと云うには甘さの足りない行為は、ごく、とヤクモの喉が何とか水分を嚥下するのを確認すると同時に、触れた時同様に静かに離れて終わる。
 「………、」
 だが至近距離で薄く、気怠い質量を持った目蓋が持ち上がるのに誘われる様に、再びマサオミは口唇を落とした。
 誰何か罵倒か。言葉か呼吸か。
 何でも良い、その乾いた唇の紡ぐ断罪を塞ぐ様に。
 
 *

 一歩を踏み入れた途端、ざわりと項の毛が逆立った。
 予め覚悟していたからはっきりと気付けたこの違和感は然し、普通に歩を進めていただけであれば或いは判然としなかったかも知れない。
 いつの間にかマサオミを追う様に歩いていたヤクモが、数歩後ろで足を止める。
 流石に気付いたのだろう。皮肉な事だがこの『罠』の結界は、五方に五つの行を配する事で、時に結界内の全てを克し、時に結界内の全てを相す──正にヤクモの得意とする類だった。
 気付いた時には然し遅い。万全のタイミングで発動しなければそれは『罠』たり得ないのだから。
 「──ッ、これは、」
 咄嗟にヤクモが符を取り出し対抗の意を見せた瞬間、周囲五方の大地から五行を示す光が立ち上り、マサオミとヤクモをその内に閉ざす五角形の形に結界を構築した。
 (禁呪……!?)
 結界に因る外界との完全な遮断を認識した瞬間、突如として、ぞわり、と澱んだ空気にマサオミの肌が粟立つ。これはただの結界などではないと、その違和感が全身に、全知覚に強烈な不快感を以て知らしめて来る。
 「が…ッ、!」
 視界の隅に、膝を付き呻くヤクモの姿が映り込む。その指から符が発動もならずに落ち、代わりに自らの喉を喘ぐ様に掴んで震える。
 「……、おい、」
 『外部の気力が丸ごと遮断されたんだ。更にはこの中も相当な術圧だし、丁度溺れている様な感じだよ。神操機の中とは云え式神にも相当な負担になってるだろうな。でも神流にはこれ、効かないみたいだね。僕もだけどちょっと不快感を感じる程度で済んでる。大した出来映えの結界……いや、禁呪だ』
 思いの外の効能に流石に狼狽するマサオミへと、小声でキバチヨが囁きを寄越す。もう術の範囲内なのだから、迂闊な行動を取ると神流闘神士(彼ら)の目につくよと、暗に警告を孕んだ低い声音。
 その言葉にマサオミは我に返る。そうだ、これは──『罠』なのだ。
 天流のヤクモを倒す為の、必殺の手立てなのだ。禁呪であろうが真っ当な術であろうが関係は無い。
 幾らヤクモが現状苦しんでおり余裕が無いとは云え、結界の中へと先に入り込み、そうして何の制約も受けていない様に見えるマサオミに対し疑いを抱かない筈はないだろう。
 (……………そうだ。これでもう、終わり、だ)
 これが、選択。結果は恐らく永訣。
 裏切りの代償は果たして何で支払われるべきか。
 小さく言葉を口内で転がして、マサオミは苦悶を漏らしているヤクモの、腰に下げられた神操機に目をやった。式神が降神出来ない以上、あれを破壊するなり奪うなりする迄はヤクモを完全に無力化したとは云えない。
 ところがマサオミの接近をまるで拒むかの様なそんなタイミングで、ヤクモが緩慢な動作で身を起こした。膝が笑う様に震え地に戻りそうになるのを彼は必死で堪え、手が砂利を掻きながら大地を離れた。酸素を求める様に喉に触れていた逆の手が再び闘神符を掴み取り、構える。
 然しその目はマサオミとは全く逆の方向を見据えている。その視線の先には、今や勝利を確信し姿を現した、神流闘神士が一人。
 いきなり禁呪による封印結界などに閉じ込めて来た相手を友好的とみなせる程、ヤクモは日和見な人格でも無い。何よりあからさまに『神流』の特徴的な気配と装束とを纏いその存在を『敵』として知らしめている者を前に蹲ったり、背を向けて立てる程に油断も見せない。
 (ならば、何故未だ俺に背を向けてるんだ……!?)
 その事実に、ぎり、と心が灼かれる。
 まさかあともう一人神流が潜んでいるとまでは知れていないだろうが、ここにはヤクモにとって明確な『敵』となった者が『もう一人』、居るのだ。
 それだと云うのに、先程までと同じ様に、ヤクモはマサオミの方へと背を無造作に晒した侭、眼前、結界の外に佇み嘲弄の色を既に隠そうともしない神流闘神士へと相対している。
 そう、先程までの言の様に──『そんな事はない、と云う確信の方が強い』と、未だ、この絶対的な状況下でも思い続けているかの、様に。
 「禁呪までをも使う事を躊躇わないとは……そこまで堕ちたか、神流…!」
 ヤクモの言葉は決して挑発の類ではないし、況して苦し紛れの罵倒でもない。曖昧でしかない行為(罪)の『結果(形)』を客観的に『そう』と言葉に因って示す事で、それが如何に卑劣な行為であるのかと云う事を突きつける。恰も断罪に似た。
 然し神流闘神士はヤクモの言葉をせせら笑った。寧ろ『そう』と示される事で、己が如何様な手段を取ってまで、天流のヤクモと云う闘神士を滅ぼそうとしたのかと云う事を知り、或いは知らしめ、その事に酔いしれるかの様に。
 「全ては貴様を倒す為の手段。憎き天流の闘神士めが…、失った仲間達の仇は此処で取らせて貰おうぞ」
 己の抱く正義──即ち手段に浸り、男は三日月型に口を歪めて嗤った。神操機を構え、開く。
 「式神降神!」
 神操機の内より現世へと連結する障子を斬り棄て、神流闘神士の横に、頭に鍬形に似た巨大な角を抱く式神が降り立つ。
 「黒鉄のココトウ、見参!」
 「よし、行けココトウ!天流のヤクモを葬り去れ!」
 云うなり切られる印を受け、黒鉄のココトウは手にした二本の剣を構えた。その刃を容赦なく振るうと、ヤクモへと向かって突き進む。その迷いの無い動きは正に獲物を狙う昆虫と同様。絶対的な力を持つ存在として下位のものを容易く捕食する様な。確実な強弱の理を持った所行。
 目の前に迫った『死』の顕現に、然し悲鳴を漏らす程にヤクモは愚かではなかった。一呼吸さえも無駄にせず、横方向に飛び退いて自ら大地に転がると、その横を二対の残撃が奔るのを見てから、転がった慣性その侭の勢いを利用して素早く起き上がり、転じて追撃をかけようとする式神の前に符を閃かせる。
 「むっ」
 刃が一瞬で障壁を裂いた瞬間、間髪入れず投げられた二枚目の符が煙幕を生じ、ココトウは呻いて刃を引き戻した。視界の不明瞭なその中から続けて三枚目、四枚目と飛んで来る、火行の力を持つ符を次々に叩き落とすが、そうする内に彼はヤクモの姿を見失う。
 一連の、戦いにすらなっていない──恰も『狩り』の様な光景に、マサオミは苛々と神流闘神士を振り返った。小さく呻く。
 「式神に直接ヤクモを仕留めさせたりしたら、式神を名落宮に堕とす事になるんだぞ…!?」
 どう控えめに見てもココトウの動きはヤクモの無力化を目的としているとは到底云えそうもない。ヤクモの戦い方が通常の闘神士並に式神に依存しきったものであったのならば、疾うにその命は式神の刃に因って断たれていただろう。
 「まさか式神を犠牲にしてまでヤクモを殺そうって云うんじゃないだろうな…?」
 『……形振りを構わない以上、そのまさか、かも知れない。この禁呪もひょっとしたら、』
 何かを言いかけたキバチヨの言を遮るかの様に、ヤクモがココトウの背後から煙幕を破って現れた。その指に挟まれている紅い闘神符が閃く。
 「済まない…!」
 言葉は果たして式神に対するものであったか。直接式神の身に符を貼り付けたその瞬間、ヤクモは自らの気力をその符に一気に叩き込む。
 「──!!」
 苦悶もなく悲鳴もなく、ココトウの動きが停止する。続け様に符の貼られた位置からぱきぱきと音を立てて急速に白い色が広がって行き、それはその全身を瞬く間に凍結させた。
 「な、にぃ!?」
 流石にこれには目を剥いた神流闘神士が印を切るが、完全に凍結の術中下にある式神にそれは及ばず、凍り付いたココトウの身に触れた傍から印は砕けて散っていく。
 この、内に閉ざされた神流以外の闘神士の力を大幅に遮断し、行動をも制限し、更には気力を削る結界の内側に在って猶、天流の──伝説とまで謳われる闘神士の力は、生半可な闘神士の使役する式神をも、状況に因っては凌駕している。
 密かにジャケットの上から神操機へと手を触れさせながらマサオミは、改めてその有り様へと感じた脅威を呑み込んだ。
 当のヤクモは、今の一連の行動で気力の殆どを使い尽くしたのか、呼吸荒く足下も憶束ないものの、相変わらずマサオミへと背を向けた侭で再び神流闘神士へと相対すると、呼吸の合間に口を開いた。
 「答えろ、神流……。この禁呪は、どうやって発動させた?一体『何を使った』んだ?!」
 罠と云う絶対の結界に在りながら式神を封じられたと云う事実を前に、表情を引きつらせていた神流闘神士は、然しヤクモのその言葉に我に返った様に再び嘲弄の意図深く口元を歪めて見せた。
 「ほう……よく気付いたな。だがそれを知った所で何となる?見れば貴様の気力はもう既に限界の様ではないか。その凍結の術が解ければその命運もそこまでなのだぞ?」
 周囲環境を巻き込む陣の形態ではなく、直接式神へと作用する為に符から直に気力を送り為した凍結は、当然陣よりも式神の抵抗力にその効能を左右されている筈だ。時間が経過すればココトウが術を破り、今度こそヤクモは確実に死へと追いやられる。
 故に今言葉などを交わす事は無駄と云えた。今の内に式神を滅するなり、闘神士を止めるなりをする方が、戦いに勝利する為の行動としては正しい筈だ。
 「決まっている、この結界を解かせる為だ…!こんな出力で結界を展開し続けていたら──、この侭では命を、!」
 然しヤクモはそう叫ぶと、眼前の神流闘神士を苛烈な眼差しで見据えた。
 その様子に、然し返るのは嘲笑。
 「愚かな事だ、天流のヤクモよ。この結界は術者(わたし)で無ければ解けぬ事を知って猶云うか。
 ならば構わぬ、これは貴様ひとりを仕留める為に我が同士が身を捧いだもの。その労と末路とを思い知り逝くが良い!」
 く、と喉の奥で嘲る様に嗤うと、彼は取り出した符を己の左右へと投擲した。結界の端と端とを結ぶ丁度その位置まで飛んだ符は、『破』の文字を以て効能を示す。
 途端、その地点に幻に因って構築されていた空間がゆらりと揺らぎ、その下から現れたのは実に奇妙な物体だった。
 「……!!」
 ぎ、とヤクモの口から軋る様な呼吸が漏れる。マサオミも同じ様に左右を素早く見遣り、そこで息を呑んだ。
 「『ひょっとしたら』とは、こう云う事か、キバチヨ…!」
 思わず呻くが応えは返らない。その所為では決して無く、マサオミの心は激しい苛立ちと嫌悪感、吐き捨てたくなる程の侮蔑とに一気に満たされる。
 そこに現出したのは、見れば見る程に奇妙なものだった。
 神操機を手前に構えた闘神士(ヒト)の姿をしているのだが、その身にはぐるりと、何かの呪詛の如き禍々しさを持った黒い札の様なものが繭の様に幾重にも巻き付き、それらは闘神士とは別のイキモノの様に瘴気を噴き出し、恰も自ら鼓動をするかの様に赤黒く明滅を繰り返している。
 そればかりではなく、酷く憔悴した、まるで木乃伊の様に成り果てた闘神士の身は更に注連縄に似た黒いものに因って地へと戒められ、その身を大地に横たえる事さえも許されていない。
 そして、その闘神士──の成れの果て──の向かい、結界の反対側には、同じ様な状態にさせられた式神の姿が、あった。
 枯れ木の様になった闘神士の腕が然しまだ握っている神操機は開かれた侭、式神を式神界へ帰結させる事も許さずに、契約ごと身を縛る呪詛に因って戒め続けている。
 『何の標も無く五行の力でこれだけの結界を構築しておきながら、術者が更に式神を降神なんて出来る訳がないからね。正にこれは、闘神士の生命力と式神の力とを糧にして作り上げた禁呪だ』
 結界の礎として其処に留められ続けている闘神士と式神とを、何処か遠い眼差しで見遣るキバチヨの呟きが耳朶を打つ。云われる迄もなく、また、まじまじと観察するまでもなく、禁呪の正体は知れていた。礎とされているのが二人組だった神流闘神士の片方であった事も。
 (幾ら形振りを構わないからって──闘神士を式神に仕留めさせようとするばかりか、同じ仲間の命をも犠牲に、)
 嫌悪感に心の中が波立つ様な感覚を覚え、マサオミは奥歯をキツく噛み合わせた。そうでもしないと今にも叫びだして仕舞いそうだった。
 あの、無為の獣の表情が──、己の正義を、正しき『正当』な復讐、憎悪を晴らす為の手段であると思い違えた、神流として、闘神士としての禁を──否、人としてのあらゆる事を違えて仕舞ったひとの表情が。
 ただ、嗤う。
 「愚かな、事を…ッ!!」
 マサオミの代わりの様に声を荒らげたのはヤクモだった。
 この結界の──ヤクモと云う闘神士を無力化する為だけの罠として犠牲にされた、闘神士と式神の姿を心に、恐らくは激痛として受け止めながら、叫びと同時に取り出した符を結界に向け投げつける。
 だが天流の力を無力化する、その禁呪で構築された結界はその程度では揺らぎはしなかった。解くには外部より結界の礎となっている闘神士と式神とを滅ぼすか、或いはヤクモが持つ五行の力、ないし方向性の無い力そのものをダイレクトにぶつける事ぐらいしか、この場では有り得ない。
 ヤクモの投じた符は結界面に触れても弾けず、注がれる気力を受け、それを純粋な『力』へと変換させ結界を無理矢理に破ろうと拮抗する。
 然しそんな抵抗をあざ笑うかの様に響くのは哄笑。
 「寧ろ此処は感極まり泣き崩れる所ではないか?貴様如きの為に、我々はこの様な犠牲を払う道を選んだのだ!今まで貴様の踏みにじって来た仲間達の無念を、全ては晴らす為に彼奴は自ら結界の礎をなる事を望んだのだからな!」
 神流闘神士の──最早只の、一方向からの弾劾と成り果てた言に、ヤクモの横顔が更に歪められる。今にも泣きそうな表情が、然し瞬き一つの間に決然と前を。
 その背後で、凍結させられていたココトウの表面に、ぴしりと罅が入る。その背に貼り付けられた符が不安定に明滅を始め、術を今にも解かんと抵抗を起こしているのだ。
 「未だ負けを認めず抗うか。愚かな事だな、天流の。──ガシンよ、何なら貴殿の手でこの見苦しい茶番を終わらせてくれても良いのだぞ?」
 「……」
 向けられた言葉に、然しマサオミは応えず、ただ神操機に手を触れさせた侭の姿勢でじっと立ち尽くしていた。
 表情が歪んだのは、此処に来て確実にヤクモへと、己があの神流闘神士の仲間であるだろうと知れた事に対してであり、それは諦めにも似て苦い。
 その視線の先で、符の力と結界との衝突が強い圧力を撒き散らし、それでも変わらずマサオミへと背を向けた侭でいるヤクモの纏ったマントがひっきりなしにはためいていた。
 「────!!」
 それは嘆きか、それとも怒りか。それとも哀しみか。或いは理性そのものだったのかも知れない。
 喉から漏れる、形になっていない声が絶叫となりヤクモの喉から振り絞られて行く。その伸ばした手の先に在る結界面と拮抗する符が強烈な白い輝きを放ち、力同士の衝突が視認出来ぬ火花を散らす。
 それを嘲笑い見ている神流闘神士と。
 結界の礎となり最早命を絶たれているも同然の者達と。
 今にも凍結を破らんとする式神と。
 猶も内部へと強い圧力を掛け続ける禁呪の結界と。
 それを打ち破るべく力を注ぎ込み、無防備な背をこちらに向けた侭の天流闘神士と。
 順繰りに見回し、マサオミは拳を握りしめた侭俯いた。
 何れが正しい在り方なのか。
 何れを択るべきなのか。
 恐らくは今罠に填めた対象がヤクモではなかったとしても、マサオミは眼前の光景へ惑いを憶えた筈だ。
 天流も地流も憎むべき対象だ。千と二百年の悲劇、悲願はどうあっても償われるものではなく、取り戻せるものでもない、歴史にとっての大きな傷痕なのだ。
 だが、だからと云って何もかもが許される訳では決して、無い。
 闘神士として──人として『何か』を違えて仕舞ったそれは、流派でも復讐でも悲願でも何でも無い。赦しを詭弁とをはき違えた、只の愚かしい許容だ。
 殺戮の、無慈悲の、理性と法の無力への、肯定だ。嘗て過ちを犯した闘神士たちの堕ちた末路だ。
 確かに理性は枷だった。人が人では無くなる為の。あらゆる無為に佇む為の。
 憎悪を薄皮一枚で遮ったそれは、望んだ偽であり、そう在るべきだと理解していた本能だった。だからマサオミはそれを外せなかった。
 嘗て、式神を道具として扱った者達を畏れ憎んだ。彼らの所行に因って世界は一度はその業を滅びと云う結果で示そうとした。
 然しウツホがそれを救ってくれたからこそ、マサオミやウスベニ達が心安く過ごせた里がある。今の世界がある。
 憎悪と云う名で。復讐と云う大義名分で。人として違えたものは、その、嘗ての闘神士達と同じく愚かで──在ってはならない、歪みでしかない。
 そして、そんなものに因って、この卑劣な罠に落とされ猶、殺意や憎悪を僅かたりとも持とうとしない、あの真っ直ぐで透明な愚かなものの心が、命が、蹂躙されるだろうこの光景は──、
 マサオミは下顎に力を込め、目を見開いた。
 
 *
 
 弾劾であったとしても、赦しであったとしても、今はその何れも欲しくはなかった。
 薄くぼんやりと開かれ、視界を定めようとする瞳を遮る様に、ヤクモの両の眼をてのひらで覆って、マサオミはその口内へと舌を滑り込ませる。
 深くなった口接けに身じろいだヤクモの両肩を、全身で上からのし掛かる様にして押さえ込み、同時に顎を固定し捉えて逃がさない。
 言どころか満足な呼吸さえも封じる様な行為に、目元を覆ったてのひらの下で睫毛が上下するのを感じる。
 漸く我に返ったかの様に、上から押さえつけられて視界と口とを完全に塞がれた状況に対し、ヤクモは逃れようと藻掻き出すが、大幅の力を削がれて疲れ果てたそれは無力で、殆ど抵抗にならない。
 「──ッん、」
 喉奥から漏れた抗議をする様な音は、鼻にかかって力なく抜ける。マサオミの手に固定されている下顎が戦慄くのは、言葉を紡ぎたいからなのか、舌を噛んでやろうとでも思っているのか。
 意図を探る様に、マサオミはそろりと、ヤクモの両眼を覆っていた手を退けた。
 そこに在ったのは、先程まで見せていた様な激しい力を失った、弱々しい琥珀色の眼差し。
 それを真っ向から受けて、マサオミはそっとヤクモの口唇を解放した。
 途端、音を立てる程に呼吸を荒くついて、漸く眼と口とを共に解放されたヤクモが呆然とした様にマサオミを見上げて来た。
 「………好きにしろとは云ったが、こんな形での窒息死は御免被るぞ……?」
 耳までを赤らめて云う言には苦笑が乗っており、明らかにその物言いは冗談と知れたが、どこか向けて来る剣呑な表情には、本調子だったら張り倒しているぞと云う『本気』の念が籠もっている。
 (……………ああ、やっぱり、)
 取り敢えず飛び出した言葉が弾劾でも問いかけでも罵倒でも無く、『いつも通り』であった事に一旦は安堵して、マサオミも似た様な表情を返してやる。
 「水。飲ませてやっただけだって。後は……役得?」
 そんな事を云いながら、微笑みの裏でマサオミは、じりじりと己の裡を灼く激しい感情へと、片足を差し入れた。
 憶えたのは、形はどうあれ神流(仲間)を失う事になった事実そのものに対する反射的な敵愾心と、倒錯しきった己の──理解を拒否したい迷い。
 知って猶、己を大神マサオミと云う人間として受け止めている、この心に対して抱いた、不審と不安。
 (あれだけ明確に立って猶、未だ俺を『信じて』いるとでも云うのか?)
 瑕は、ないのか。つまりそれは『何もない』のか。そんな事が有り得るのか。
 ならばいっそ、はっきりと示してみたらどうだろうか?
 この『偽』ではない全てを晒して。
 そう。未だ決定的な、自らの示すべく最後の軛は、枷は、解き放たれてはいない。
 
 *

 目に入った光景は、遂に力負けをし結界に弾き飛ばされ、その侭大地に転がったヤクモの姿と、同時に、白く凍結したココトウの表面に走ったひび割れが一気に内部から弾け飛んだ、その瞬間だった。
 神流闘神士の狂った様な嗤いが高らかに響き渡る。
 式神の手にした二本の刃が躊躇いも見せず、目前で何とか身を起こそうと弱々しく藻掻くヤクモへと目掛けて閃き──
 辿り着く前に、青龍のキバチヨの投げた槍『逆鱗牙』が、黒鉄のココトウの身を貫いていた。
 「────」
 驚きに振り返る間も無く、ココトウの名が砕け散る。
 それを呆然と見つめた侭、神流闘神士がその場に膝をついた。戦慄きながら、ガシンを──否、マサオミを、射殺さんばかりの形相で睨み据える。
 「き、貴様……、!」
 然しその口から弾劾や非難が漏れる前に、彼は意識を失い大地に身を横たえた。手から取り落とされた神操機がからからと音を立てて転がる。
 「確かに正直反吐が出る程の奴だったけど……神流(仲間)を倒しちゃって本当に良かったのかい、マサオミ」
 「……………ああ。奴は闘神士として、いや、人として既に違えていた。同志とは、仲間とは到底扱えない」
 マサオミの意図をしっかりと理解しており、降神されるなりココトウを得物で貫いてくれたキバチヨが、半ば解っているかの様にそう云ってくるのに、同じ様に『解りきった』言い訳を並べ、マサオミは続けて符を己の左右へと投げた。
 飛んだ符は狙いを違えず真っ直ぐに、結界の礎となっていた闘神士と式神とに当たり弾けて、その存在を戒めていた呪符や注連縄を断ち切る。
 術の戒めから解かれた両者は、寸時たりとも最早現世に形を残しはしなかった。闘神士はその身を灰に変え、式神は名を散らし、忌まわしい禁呪の痕跡をなにひとつ残さず消滅していって仕舞う。
 恰もそれが、禁を犯した罰であるかの様に。
 「監視も無いみたいだから、取り敢えずこの件に関してはそう厄介な事にもならなさそうだね」
 辺りを見回しそう云うキバチヨに頷きを返すと神操機へと戻して、マサオミは己の前髪をぐしゃりと乱暴に掻き上げた。
 思わずこぼれた溜息に内包されていたのは、何をやっているのだ、と云う葛藤。神流の仲間を自ら仕留めてまで、何故天流闘神士の命など救っているのだろうか、と云う模範的な。
 果たして、選択が結果ならば──これは、己の選んだ結果であったのだと、端から云えるのだろうか。
 ただ──、
 「…………アンタがあの侭、彼奴に嗤われた侭で死ぬのは、酷く不快だったんだ」
 純然たる驚異でしかない式神を滅する事よりも、禁呪を止めさせる事を選ぶなどと云う、愚かしい程の『人』としての正義を振り翳した綺麗なものを、嗤われると云うのは、何故だろうか我慢がならなかった。
 (あれは、冒涜で嘲弄で……、蹂躙だ)
 闘神士として、人としてあの男をマサオミ自身が許し難かったのも無論あるが、それよりも寧ろ強く憶えたのは、恐らくは不快でしかないそんな感情。
 噛み締める様に、マサオミは力なく視線を、倒れた地面へと転がったヤクモに向けた。消耗は酷い様だが決して死んではいない証拠に、肩を大きく上下させてふらつきながらも、彼は何とか起きあがろうと身じろいでいる。
 その姿へと近づこうとするマサオミの意識は、然し裡なる感情が躊躇う様に遮るのを感じて止まる。
 呼ばれた『名』が違うとは云え、確実に知れただろう結論(こたえ)。
 今までヤクモがマサオミを神流(敵)と恐らくは知りながらも平然と相対していたのは、その明確な答えが誰の口からも吐かれなかったから、と云う事がある筈だ。
 然し今確実に知れて仕舞った、『敵』──神流闘神士ガシンである事実を前に、マサオミはヤクモに近付く事を躊躇った。
 それは今までのマサオミの行動を全て『偽』と思われる事への──或いは望みでありながら──怯えだったのか、明確となった『裏切り』を罵られる事を畏れていたからなのか。
 長い様に思えた逡巡は然し、起こしかけた身を崩れさせるヤクモの姿を見て、咄嗟に駆け寄る事で定まっていた。
 気力の殆どを完全に失った為にか、結界が消えたとは云えその状態は簡単には回復しない。ぜいぜいと喉を鳴らしながら斃れたヤクモの身体を、マサオミは思わず抱え起こす。
 今は荒く呼吸を繰り返す唇が、果たしてどの様な罵倒を紡ぐのか。
 そう、畏れにマサオミが身構えた時。
 「………云った通りだっただろう?」
 焦点の定まらない、ぐらぐらと揺れる瞳を自ら閉ざし、ヤクモは口元だけを動かして呟くと、微笑みさえ浮かべてみせた。
 先程の会話の、それは続き。ヤクモはマサオミが己に闇討ちをするなどと云う事はまるで可能性として見ていなかったのだと云う事。
 そして此処に示された、それを裏打ちする様な──違え様のない、結果。
 力の無い身と、弱々しい表情とは、今すぐにでも組み伏せ『始末』するには酷く軽いのだと改めて気付き、マサオミは己の心が寸時ぞわりとした黒いものに浸されるのを感じた。
 (奴の自業自得とは云え、結果的に犠牲を払ったのなら、俺はこの天流闘神士を始末しておくべきだ)
 そう、冷静な思考が囁くのに、鼓動がひとつ、鳴った。
 「マサオミ」
 その瞬間、呼ばれた『名』に意識が引き戻される。
 痛烈な弾劾でも正しい批判でも当然の罵倒でもない。ヤクモが、マサオミの事を『そう』と認識しているのだとはっきりと知れる、名前。
 神流闘神士ガシンにではなく向けられた、大神マサオミへ捧ぐ意識。呼びかける名前。
 「……迷うなら、今からでも遅くないぞ……?」
 まるでマサオミの躊躇いを感じた様に、ヤクモは薄く果敢なく微笑んでそんな事を云い──その侭意識を失った。
 それはつまり、今からでも倒された神流の仲間に報いる為に、天流のヤクモの首級を取る事は出来るのではないか、と云う。問い。
 ヤクモがそう示した事に因って、それは明確な意識となりマサオミの脳裏に落ちた。
 与えられた、再びの選択。
 本気なのか、それとも先に何度も云った通りに、『信じている』故の安堵から出た冗談なのか。
 眼を、意識を閉ざして仕舞ったヤクモの姿からは、その何れであるのかは、知れない。
 殺せ、と云うのではない。
 ただ、その選択を択るのであれば、と云うそれは──何と公平な問いなのか。
 「……、死ぬ心算もない癖に、『俺』に身を委ねるっていうのはどう云う了見なんだ……!」
 倒錯めいた己の思考に浮かんだのは、苦い溜息。
 マサオミはぐったりと力の抜けたヤクモの身体を担ぎ上げると、符で途を開いた。
 気力の乏しい今のヤクモを、気力を更に消耗させる伏魔殿に置いておくなど正気の沙汰ではないし、神流闘神士の拠点に今は戻る気にもなれなかった。故にその行き先は──『外』。
 
 *
 
 戦い。その存在感を刻んで去って。
 次には命を救う事になって。
 それから幾度と無く、穏やかな邂逅と辛辣にも思える遣り取りと、心に楽しいとも云える時間を刻んでいった、愚かしい程に真っ直ぐに其処に佇みマサオミを見た人。
 その存在に憶えたのは、理解し難い苛立ちと、溺れず嘲笑おうとする反抗。
 得たのは、それが欲しい、本心。
 その甘さはきっと、幾度でも俺を許し受け入れるだろう。
 だから、欲しい。
 この充足を与えてくれるものが。
 『偽』に、『裏切り』に、疵を負って猶も耐えるのだろう、その心が。
 
 そこには悪意や善意と云った方向性は無く、ただの無為しか有り得ない。
 違え様のなく、それは反射的な──恐らくは酷く攻撃的な防衛本能。まるで獣の息遣いに似た。
 
 だから自ら、永訣を選んだ。
 この『偽』を壊した。
 枷も理性も憎悪さえも無く。
 はっきりと敵として、殺意を向ける残酷な『裏切り』として。
 信じる、と云ったそのひとへと。
 
 晒されていた首に両手をかけ、躊躇い無く力を込めた。
 
 *

 思えばそれは、裏切りですら無いのだ。
 何故ならば、全ては『偽』だったのだから。
 欺き続けた嘘を取り払って見せただけ。
 「──ま、」
 顎を仰け反らせ、声帯ごと気道を指で潰す。明確な殺意を込めながらも嬲る様に。
 詰まる呼吸、跳ねる身体、呼吸を阻害するマサオミの腕へと抵抗するヤクモの爪が立てられ、掻き毟る新鮮な痛みに笑みが浮かんだ。
 それが最後の抵抗か。
 闘神士として戦う為に此処に在る者の、そんなものが最後の抗いなのか。
 「信じている、確信、だって?全く何処までも甘いんだよ貴様は…!」
 信じた挙げ句の結果が、お前にとってのこの『裏切り』ならば、これ程に惨めな事もない──!
 く、と嘲笑に喉を鳴らした瞬間、然しマサオミの皮膚に強張って爪を立てていた手が、するりと落ちた。一瞬、意識を失ったのかと訝しみ、苦痛と酸欠とに歪んだヤクモの表情へと視線を、、
 「────」
 真っ直ぐに見た、鮮烈な眼差しに。総毛立った。
 殺意に対する反応も、裏切りに対する失望も、理不尽な仕打ちに対する怒りもなにもない。
 あったのは、静かに問いて来る、『その後』のマサオミを襲うだろう後悔や罪の念を案じる様な心。そして──慰藉。
 幸せさすら憶えるその世界に溺れる事を、それを嘲る事で棄てようとして──こうせずにはいられなかった、マサオミに対する思い遣りでしかない、そんなもの。
 「──ッ!」
 気付けば自分の方が息をする事を忘れ、向けられた琥珀色の眼から意識を離せなくなっていた事に気付いて、マサオミはまるで火傷をしたかの様に弾かれ手を解いた。
 途端、噎せ返り激しく咳き込むヤクモの身を、構わずその侭組み敷いた。
 

 それは逃れたい本能。全てを知り、それでも弾劾のひとつなく見た眼差しが。許容しようとする心を。
 この『偽』に、『裏切り』に、猶も耐えた、その心を。
 大神マサオミと云う存在を、確かに赦し受け入れた、その人を。
 ただ在りの侭ある様に見据えて来た、その偽のない信を。
 
 証明ではなく、形ではなく、ただ暴力的な意識ひとつで。
 逃れる為だけに、欲した。
 




















 
 符の一枚で、闘神士にとって唯一絶対の武器とも云える神操機を封じたが、実際そんな事をせずとも恐らく、抵抗など何も無かっただろう。
 『どうせ此奴は俺を赦す』、マサオミのその確信の通りに、恐怖を押し殺した身は然し抗いひとつ見せず、口汚い罵りひとつ漏らさず。
 ヤクモは、彼の辿って来た今までの生に於いて徹頭徹尾通して来たのだろう、偽の無い誠実な心で只、嘲りと憎悪とを押しつけ続けたマサオミを受け入れ赦した。
 何故彼がそこまでマサオミに対し心を折ってくれていたのかは解らないが、そんな事はもうどうでも良かった。マサオミに必要だったのはただその『事実』だけだ。
 赦すと云う事は許容で、同時に認めてくれる事でもあった。──誰あろうマサオミの嘲笑ったこの『偽』を。
 ……縋る様なそれは、果たして何への仮託だったのか。
 果てに、心の奥に生まれたのは、ぱっくりと開いた疵に良く似ていた。
 それは、此処まで積み上げたものを突き崩して、壊された『何か』の残滓そのものであったのかも、知れない。
 ああ、でも。
 (これは後悔ではなく、)
 手に入れた、それは。
 (何て酷い、あんまりな。満足)
 結局の所望んだ──或いは畏れた──通りに、彼の存在は酷く透明であった癖に、この手からは消えて無くなりもしなかったのだ。
 向けたのが『偽』の生活であっても、それを嘲笑った本心であったとしても、翻った殺意であったとしても、何も変わらず。ただ其処に。
 「……………逃がさないから、覚悟しろ」
 「………………………好きにすれば良い」
 激情の後の気怠さに任せてマサオミがそう、身体の下で意識を失っている様に見える白い顔に向けて宣言をすれば、意外にもヤクモは弱く掠れた声音でそう返し、億劫そうな目蓋を持ち上げて見せた。縁を少し腫らした目元が愁う様に歪み、
 矢張り変わらぬ視線で、マサオミを見た。
 
 ただ、決定的に壊して──それでも何も変わらない。確かに嘘のなかった事を知って、マサオミはその視線に密かに背を震わせた。



依存度は精神的な方が強いのですが、究極的な支配とでも云うか。言葉や心の有り様だけでは証明出来ないものを恐らくは欲した故の結果。何でこんな倒錯的なんだこの人。ちなみにヤクモの本心は後々云う通りに同病相憐れむ、程度の非道っぷり。
ヤクモからも純粋に想いが向きかけていた所で、ここで完全に僅かの可能性をへし折ったマサオミさん十七歳、衝動と後悔だけで生きてます。
露骨な莫迦悪役を考えるのって楽しすぎていかんです。

人形のようなすがたかたちが、有り様が、見せた夢。