対話の可能性



 土地の人々が『水神の沼』と呼ぶそこは、春から夏へと変わりつつある季節の中、周囲に草木や花を芽吹かせており、それなりに見事な景観を見せていた。
 山麓の市街地にある大きな神社の、奥宮に当たる森の奥である。普段は観光客の立ち入りを許している為にか、沼──と云うよりは少し大きな池と云った方が良さそうだが──の畔には転落の危険を促す立て札と、沼そのものの謂われを記した碑とが並んでおり、来る途中の隘路には益体もない土産物や飲み物、食べ物などを販売していたと思しき売店までもがあった。
 沼の対岸には小さな社と賽銭箱が備えられており、外周の湿った地面の土は長年踏み固められていた。ついぞ数日前までは普通に観光客が歩いていたのだろう様子を伺わせる様な足跡も点々と残されている。
 「有り難みがあるんだか無いんだか……まぁ観光用程度には霊験も灼然、かね」
 小さく呟いて、ハヤテは社の中を覗き込む様な素振りをした。その背中合わせの配置で沼の畔に膝をついて何やら検分している様子のヤクモが小さく苦笑する気配だけが返って来る。
 「灼かかどうかはさておいても、実際『問題』が生じたからこそ闘神士(俺達)に仕事が来た事は確かだ」
 闘神士であるとは云えハヤテは特別勘が鋭い訳ではなく、術の気配などを聡く手繰れる様な才能も生憎持ち合わせてはいない。その為、社などをこうして覗き込んでは見るものの、御神酒が供えてあるとか御神体らしきものが祀られているだろう程度の、客観的で普遍的な状態(こと)しか解らないのだが、ヤクモの方はそうでも無い様だ。経験(慣れ)と勘だと本人の云う通りに、今もハヤテには気付けない『何か』を掴んでいるのだろうか、水に掌を浸して何かを考え込む風情でいる。
 ──"何某神社の観光地である『水神の沼』にて妖怪騒ぎが起こった"──それがMSS所属のハヤテに通達された、此度の事件の概要である。実戦を得意とするハヤテには申し分の無い仕事で、場所が知る人ぞ知る観光地であった事もあり、余裕ついでに折角だからと友人共に声をかけてみた所、特に説得するでも無く時間の空いていたヤクモが珍しくも付き合ってくれたのだった。ちなみに友人『共』の片割れは留守だとかで此処には来ていない。
 そんな経緯で二人連れ立って件の神社へ向かったのだが、肝心の妖怪らしき気配は云う程甚大には感じられない現状。事前の調査書曰く、「前触れも無く突風が吹いて観光客が沼に落とされた」り「『凶暴な野生動物』が観光客を襲った」りと云った事故や事件が立て続けに起こった為、神社側はひとまず奥宮を閉鎖せざるを得なかった様だ。
 ところが、そうした途端異変はぱったりと止み、事態の解明に乗り出した神社の人間達も困り果てて仕舞った。とは云え根本的な解決を見ていない為、沼をまた観光客に開放した途端騒ぎが起こる様な事があれば──、と懸念していた所で、異変を聞き及んだMSSが密やかに調査を行った結果、本件が闘神士の領分であると判断した。そして密やかな侭、解決の為の人員として鷹宮ハヤテが派遣されて来る事となったのだった。
 闘神士の所行はそれ以外の人間に察知される事は基本的にあってはならない事である。MSSは一応企業としての体裁は整えているが、その所属する闘神士達の負う業務については当然の事ながら公には出来ない。因って『表向き』な仕事以外にも、各地に派遣した調査員を通じてあらゆる異変などを察知し、それが闘神士側の解決しか見れない事であれば密やかに人員を送り込み、同じく密やかに解決する様努めているのだ。
 事が大きければ『お上』からの『依頼』も時にはあるが、特にこう云った原因不明瞭な妖怪騒ぎであれば大概の場合人目に触れない様に事件を解決させる事の方が多い。
 (……まぁ無理もないわな)
 そんな事をぼやきながら、社を検分する振りをやめたハヤテがちらりと沼の畔のヤクモを見下ろせば、彼はいつの間にやら傍らに消雪の式神の霊体を浮かばせて、その紡ぐ言葉に耳を傾けていた。そんな有り様を知覚出来ない一般人から見れば、ヤクモは水に手を突っ込んだ侭神妙な面持ちで凝固している様にしか見えないのだ。それで『何かが解る』と宣うのなどアヤシゲな宗教か詐欺か『おかしな人』が良い所である。
 『凶暴な野生動物』が妖怪なのは間違い無いだろうが、普通の人間に『そう』と解る有り様で顕現しないものを『そう』であると説明するのは難しい。因って概ねの場合闘神士が不審がられるのは已む無い話と云えるだろう。式神についても同じである。
 人や世界の役に立つ事であれそうでなかれ、闘神士とは基本的に一般社会の裏で活動する存在である事は確かなのだ。
 ヤクモは暫くの間そうして消雪の式神の言葉を聞いていたが、やがて小さく頷くと立ち上がった。式神(の霊体)の方は、泳いででもいる心算なのか、水面にゆったりと仰向けに浮かんでいる。
 「で、解ったのか?」
 「ああ。存外当然の帰結と云えるかも知れないな。若しくは『よくある話』とでも。
 取り敢えず幾つか道具が必要だから、ちょっと借りて来よう。ほらタンカムイもいつまでも遊んでいない」
 『はーい。片付いたらゆっくり浸からせてね。此処の水は好きそうだから』
 云うなり自らの左手を濡らす水気をぺしぺしとはたいて、神操機へ戻るタンカムイに頷きを返しながらヤクモは境内の方へと歩き出して仕舞う。此処まで通じる隘路を抜けず何故か森を突っ切って。
 「少しそこで待っていてくれ。余裕があれば人払いの結界でも切り分けていてくれると助かる」
 後を追い掛けようとしたハヤテにそう言い置いて、ヤクモは森の途中でその姿を消した。云う迄も無い。符を使ったのだろう。
 「……『借りて』来る、ねぇ……」
 その様子から、真っ当ではないのだろう、ヤクモ曰くの『借りる』とやらの手段を感じ取ってハヤテは小さく肩を竦めた。
 世に潜まなければならない、闘神士と云う役割柄、と云えばその通りなのだろうが、こうやって現在立ち入り禁止にされている奥宮まで入り込んでいる現状から見ても、大なり小なり警察の世話になれそうな社会の法は疾うに犯しているのだ。この上の軽犯罪を重ねる事など今更と云えば今更なのかも知れない。
 
 *

 沼を中心とした八方に符を配して、人避けの簡単な結界を張り終えて十分少々が経過した頃、去った時同様森を抜けてヤクモが戻って来た。その手には『借りて』来たのだろう物が何やら色々と携えられている。
 「結界は上々。危うく俺も辿り着けなくなる所だった」
 褒めているんだか心底困っているんだか、今ひとつ解らない苦笑でそう云ってヤクモは運んで来たものの幾つかを沼の畔に下ろした。
 「そりゃ光栄なこって。んで、願わくばそろそろ説明が欲しい所だな」
 一応前者と取って頷きながら、ハヤテは沼の畔に次々並べられたものを見下ろした。物体自体は無論よく解るのだが、益々意味が解らないと云うのが正直な所である。
 「簡単に云うと、辺りの売店だけが原因では無いだろうが、神聖な筈の沼が投棄物──要するにゴミだが、に侵されつつある。それで祀られた『カミ様』が機嫌を損ねて、その負の力に寄せられた妖怪が顕れ騒ぎを起こした、と云った所だ」
 「…………つまり?」
 問い返しながらも厭な予感は的中するだろうと思えていて、ハヤテはしゃがみ込むとヤクモの『借りて』来た、柄の長い網を摘み上げた。神社の名の書いたラベルが貼ってある辺り、沼の清掃用に用意されていたものらしいが、余り使用された形跡が無い。
 「この事件は、ゴミ拾いとご機嫌取りで解決出来る」
 網と、火ばさみと、ゴミ袋。水場のお掃除三種の神器、とでも云いたげな風情で並べられたそれをぐるりと示して云うヤクモに、ハヤテは脱力を隠せず自嘲とも取れる云い種を呟かずにはいられなかった。
 「………闘神士ってのは意外と地味〜な活動もするんだな?」
 「戦いが俺達の本分だが、それだけでは解決出来ない事も時にはある、と云う事だ」
 意図は通じたのだろう、最後まで手元に残していた白い布を拡げながらそう、苦々しくとも晴れ晴れとも取れる調子でヤクモが微笑む。
 「一応清掃は月一度励行されていた様だが、サボっていたのか適当にやっていたのか、それとも観光客の節度がそれを超えていたのかは解らない。が、お怒りを買う様な定量には達して仕舞った様だな。
 これでは仮令妖怪を祓った所で根本的な解決にはならない」
 一見何事もなく見える水面をちらりと見遣って云うと、ヤクモは火ばさみを無造作に沼に突っ込んだ。ややあって持ち上げられたそれに挟まれているのは、空のペットボトル。
 「こう云う事例はここの所増加傾向にあるらしい。モラルの問題か神の軽んじられる世の中が問題か──それこそ抜本的な話に至らないと本当の意味で解決は出来ないが、それでも出来る事はしてやりたい」
 肩を竦めてそれをゴミ袋に放り入れると小さく溜息を漏らして、ヤクモ。行動からは余り伺えなかったが、その眼差しの奥に宿る真摯なものへと白旗を上げて、ハヤテは手にした網を肩に担ぎ上げた。
 待っているのは戦いかと思いきやゴミ渫いとは、既に予想も何もあったものではないレベルである。
 「一旦水を集めるから、そうしたら沼底のゴミ拾いに移ろう。普通に渫うより余程楽なんだから、ボランティアとでも思って」
 諦念強い感を隠さず水面に網を向けるハヤテを宥める様にそう進言すると、ヤクモは紅い神操機を沼の方へと掲げた。
 「式神降神」
 「待ってました〜消雪のタンカムイ、見参!」
 ぽん、と上機嫌そうに界門より飛び出したイルカ似の式神が沼の中へと勢いよく飛び込む。と、水面が渦を巻き、恰も水底の栓を抜いたかの様に水量がぐんぐんと減っていく。
 数分もしない内に沼の『水』だけが綺麗に無くなり、深い窪地状になった底には消雪の式神だけが佇んでいた。
 「ご苦労様、タンカムイ。暫くその侭保持しておいてくれ」
 「はいはーい。でも、魚とかも棲んでいるから早めにしてあげてね。
 それにしても、本ッ当杜撰な扱いされていたのかなぁ。ゴミだらけだよ」
 ゴムの様な質感の鰭を手の様に振って示し、肩を竦める様な仕草を付け足したタンカムイがその言葉通りに『ゴミだらけ』の有り様を見せている穴からぴょいと飛び跳ねて戻る。それと入れ替わりにヤクモがそっと元・沼の底へと降りたので、ハヤテも足下に気をつけながらそれに続く。
 「……飲んだのか?水」
 「そんなワケ無いでしょ。『水』としての存在を一時的に『此処』から隔離しただけ」
 余りにも綺麗にカラになった沼底を見つめて思わずそう呟くのに、あったま悪いなぁ、とでも続きそうな風情で、穴の縁にぶらぶらと腰掛けながら返して来るタンカムイをハヤテは忌々しげに見上げる。実際説明を受けてもさっぱり解らなかったのだが、深く訊ね直すのも癪に障る。
 ヤクモの式神達は皆揃いも揃って自らの闘神士を酷く敬愛しているらしく、(時にはそれ以上の気配を纏って)果たして嫉妬なのか他に何か理由でもあるのか、ヤクモに近付く者に対してやたら刺々しい事が多い。聞けばマサオミの方はもっと手酷く嫌われているらしいので、まだ嫌味じみた事を時折投げられるだけのハヤテの方がマシだそうだが、実際当人達の毒を前にしては気休めにもならない。
 ふん、と肩を竦める仕草を見せるタンカムイからそそくさと視線を外すとハヤテは、網から火ばさみに持ち替えてさくさくと沼底のゴミ拾いに勤しむヤクモに倣った。
 
 *
 
 「そろそろ良いだろう」
 粗方のゴミが片付いた頃合いでそうヤクモが云い、ハヤテは最後に手にしていた木切れを袋に放り込んだ。黙々と勤労に勤しんだ成果か、いつの間にやら泥にぬかるんだ沼底は最初とは比べものにならないほどには綺麗に片付いていた。
 泥で汚れたゴミ袋を持ち上げれば、中は結構な重量が占めている。空き缶空き瓶ペットボトルの類に始まり、果ては厄鎮めの心算だったのか、布に包まれた日本人形まで(流石にこれはゴミとは別に『処分』しなければならないが)。幾らマナーやモラルの乱れが目に付くつご時世とは云え、同じ人間として少々居たたまれなくなる。
 とは云え自分とて、全く所謂『ポイ捨て』をやった事はない、とは云い切れないのが少々悲しい所である。ハヤテ自身は基本的にアウトドアのマナーを尊ぶライダーで来た心算だが、中には平気でその辺りにゴミを投棄して行く仲間も居たし、わざわざ彼らを咎める様な真似もした事は無い。
 (そう云うのの、積もりに積もった結果、の一つ……か)
 先に上へ上がったヤクモへと、ずっしり重くなった袋を手渡しながらハヤテは小さく溜息をついた。ひとりひとりの心構えが変われば世界は変わるが、ひとりの心構えが変わった程度では世界は変われない。
 (……………いや、少なくとも自分から見たものは変わるな)
 上から手を貸して貰いながら沼底から上がって、いつの間にやら用意されていた水桶で軽く手を洗いながらぼやく。知らず知らずの内に自分の世界観も変わっていたのかも知れない。以前までのハヤテであったら、面倒な事などさておいて妖怪退治だけをして、そこまでだっただろう。後の事など知るものか。根本的に解決が見られなければ何度でも『仕事』になるしそれはそれで構うまいと思っていたかも知れない。
 (……具体的に想像はついたが、はて、俺この稼業に就いて未だ日も浅い筈なんだが)
 奇妙な、『有り得な』い既視感と己の想像力とに首を傾げて、然しそれ以上頓着する気にも何故かなれず、ハヤテは投げ遣りに思考を切り替えた。
 「で。ゴミ拾いは終わった訳だが、これからどうするんだ?」
 「ご機嫌取りと云うか後始末」
 振り返れば、先程『借りて』来た中にあった、白い布に黙々と袖を通すヤクモの姿。その姿をさりげなく遮る様な位置に佇む消雪の式神が着替えを手伝っている。
 当然の如くに、着替える以上元着ていた衣服は既に脱ぎ捨てられ畳まれ置かれている。
 「………何やってんだ?」
 現実的に屋外でいきなり着替えねばならない理由を頭に浮かべかけ、然しこれが『闘神士の仕事』である事を思い出したハヤテは、その『屋外で着替えている(しかも唐突に)』ご当人をぽかんと見た。
 「お清めの御参りだよ。そんな事もわっかんないの?」
 然しその問いに答えを寄越したのは、何やら面白くなさそうに息を吐くイルカ似の式神の方だった。口調も相変わらず以上に刺々しい。
 心底問いの正体である『屋外で着替えている』理由の解らないハヤテに呆れているのか、単に自分の闘神士の着替える姿などをぽかんと凝視している事が気に入らないだけなのか。どちらとも取れるしどちらでも正しそうではある。
 「ひとまず沼は綺麗になった。後は当のカミ様にちゃんと道理を通す為に謝って、機嫌を直して貰わないとならないからな。一応俺も神社の子だし、こう云うものは形式から入るべきだとも思うしで」
 だから正装とまでは行かなくともこのぐらいは。と白い袖を振って、式神の説明になっていない棘に対してか、軽くその頭を小突く真似をしつつもハヤテの問いに対する解答の補填をしたヤクモは、袴の帯を慣れた手つきでさっさと結んでいく。
 「時間はそうかからないだろうが、見ていて面白いものでもないだろうし、正直気が散るから、その辺りでも適当に散策していてくれ」
 そうして支度を調えた途端、気遣いなのか辛辣なのかただ正直なだけなのか判別し辛い一言を、ほー、と感心しながら見ていたハヤテへと寄越して、ヤクモは自らの式神を軽く振り返った。
 「タンカムイ」
 「はーい」
 主語も何もないヤクモの促す様な呼びかけに頷くと、口調同様に軽い身のこなしでタンカムイは水のない沼の底へと飛び降りた。と、瞬く間に丁度先程の逆再生の様な形で、沼に再び水が充たされていく。
 何となく興味が湧いたので、ハヤテが沼の淵までそっと歩み寄ってその底を覗き見てみれば、水は最初に見た時と全く変わらぬ風情で殆ど揺らがぬ穏やかな水面を見せていたが、心なし先程よりも澄んでいる様に見えた。当然と云えば当然だが、幾ら目を凝らして見ても水底にゴミの類が揺らめいている影なども無い。
 「ほーらー。ヤクモも邪魔だって云ってるんだからさっさとどっか行ったら〜?」
 「うお」
 まじまじと見つめていた眼前の水面から突如、先程沼底に下りたタンカムイの頭が半分程浮かび出て、驚いたハヤテが仰け反る。一瞬海坊主かと本気で思った。
 仰け反った身を器用に飛び越えてハヤテの背中側にすとん、と着地したタンカムイは、驚かせる事が出来た事でひとまず満足でもしたのか、尻餅をつきかけたハヤテにそれ以上頓着も当然謝罪もせず、とてとてとヤクモの佇む方へと行って仕舞う。
 「〜段々露骨になってきやがったな……」
 ヤクモがこちらの異常に気付いていないのを良い事に、一見『可愛らしい』様子でにこにこと振る舞うイルカ似の式神へと何となく忌々しい視線を投げて、ハヤテは溜息を隠した。一度アレの態度について『飼い主』に物でも申した方が良いかも知れないと思いはするが、何せヤクモの事だ、己の式神の毒ある性質ぐらいは当然知っているだろう。知った上で好きにさせているのであれば、抗議するだけ無駄も無駄だと気付いて、考えを自ら却下しておく。
 ちらりと件のヤクモの方を伺えば、彼は『お清めの御参り』とやらの準備の一つなのか、沼の畔で瞑想する様に瞳を伏せて佇んでいた。
 ヤクモがああ云う言い方をしてきた以上、邪魔にならぬ内に立ち去るべきだろうとは思うが、あの式神に追い払われた様な心地がするのが否めない。
 どうにも悔しさの抜けきらぬ侭、ハヤテは後ろに転びかけていた身をのろのろと起こした。立ち上がって、ふと思いついて沼をもう一度見遣る。
 澄み渡った水面と、祀られた小さな社とを軽く見比べて、ハヤテの口から成程と小さく呟きが漏れた。確かにこんな清浄な水を湛えた沼が森の中にぽつりと涌いていれば、それをカミ様の住処であると、何らかの霊験を感じて仕舞うのも頷ける。
 だが、その『度』が過ぎて、却って此処を訪う人間こそがカミ様の霊験の灼かさを損なう事になるとは、実に皮肉な話だ。
 特定の宗教や絶対たるカミサマを崇めたり縋ったりと云う人の思想は、正直ハヤテには理解し難い部類に入る。だが、式神と云うものを知る闘神士として、その使命を遵守する役割を負う事の適った身として、自然やその有り様を尊ぶ感情はある。
 太古の人々は、そう云った自然や節季、それらに庇護される世界とその恵みとを享受し、畏敬や尊崇の念を抱いたのだろう。そうして、この『水神の沼』の様な場所が各地に生まれた。
 (……世界も人も、在り方が変わったから、か。いや、世界と言うよりは寧ろヒトと云うイキモノの作った小世界、即ち社会、か?
 世界の在り方自体は、仮令千年前だってそれ以上の前だって、何も変わりはしないだろうに。見る者棲む者が変わっちまえばこんなもんなんだって事だな)
 「だが、ヒトの手でもそれを取り戻す事は出来る。こう云う風に」
 不意に、ハヤテの思考を接ぐ様な形で声が届き、思わずぎょっとして振り返れば、ヤクモが丁度水の中へと入っていく所だった。
 「俺、なんか云ってたか?」
 「いいや。ただ、そんな事を考えている気がしたからな」
 沼の端の、水深が浅い段差になっていた辺りでヤクモはそう軽く笑みを寄越して足を止める。膝丈以上まで水にどっぷりと沈んで、何処か寒々しげな様子にも見えると云うのに、その表情は明かな程に弛んで晴れやかだった。
 「此処だって一応は神域だったんだけどね。一体いつから人間は自分たち以外の存在を敬わない様になっちゃったんだろ」
 先程までちらほらと吐き出されていた『毒』とは少々趣の異なった口調で、溜息をつくのに似た仕草をして云うタンカムイの頭を、振り返ったヤクモが軽く撫でる。
 「ゴミを拾うだけの事でも。一部の人々の心ない行動をそっとフォローするだけでも。たったそれだけの事でも全然違う。
 世界は本来、そこに息づく生命に優しい様に出来ている。式神達(みんな)も含めて、皆生けるものたちを慈しんでくれているからこそ、俺達は生きる事が許されているのだから──……だろう?」
 同意する様にも諫める様にも取れる優しい仕草と言葉とを自らの式神へと残して、さて、とヤクモは再び沼へと向かった。袖を整えてから、ぱん、と柏手を打つ。
 念のためにもう一度ハヤテが沼の畔の式神を見遣れば、露骨に追い払う様な仕草をひらひらと動かす鰭で示された。
 まあ邪魔なんだろうな、と改めて己に頷くと、少々不承不承ではあったが、ハヤテは沼から少し離れると適当な木に寄りかかって遠目に、沼と、その中に佇むヤクモと、水神の祀られた小さな社とを見つめる。
 人の手に染まらぬ領域。即ち神の息満ちた域は年々減少傾向にある。霊験の灼然な地などは、都市部を始めとした人の密集する地域からは疾うに失われて久しい。
 その上そんな『神域』が『保たれ』存在したとして、それは人との関わりに因って簡単に崩れて仕舞う程に脆いものだ。
 現代と云うこの時代は神代の時代とは異なり、真性の神と云う具象には優しく出来ていない。それは同時に、自然物より祀られ出でたそれら『神』が失われる事こそが、天然の環境が失われていっていると云う証明でもある。
 近年環境破壊やエコロジーとして語られる意味の正にその通りに。或いはもっと具体的な警鐘の様に。
 (……人間ってもんの文明が存続する限りは、闘神士の役割も尽きない訳か……)
 乱れた域より出でる妖怪、人の心に呼応するそれらは、ひょっとしたら世界の悲鳴そのものなのかも知れない。
 明瞭とは云えない思考をそこまで巡らせてから、ハヤテは己の結論にかそれともその肯定にか、己でもよく解らぬ部分へと苦笑と吐息を同時に漏らした。頭の後ろで腕を組んで目を閉じる。
 闘神士として生きるのであれば、極論、それは願ったり叶ったりの事である筈だ。尽きない役割も終わらない『何か』との戦いも。存在する意味があるからこそ、許されて此処に居るのだから。
 (…………じゃあ彼奴は、矛盾してるのか。それとも彼奴こそが正しいのか)
 思ってちらりと片目蓋を持ち上げてみれば、沼の中のヤクモは祈る様な姿勢の侭、黙ってただ立ち尽くして居る。カミサマとでも対話をしているのか、現状を憂いているのか。解りもしないし、特に解りたいとも思わない。何処ぞの、彼にベタ惚れの闘神士なら兎も角、ハヤテは別に同一意識を抱いて彼と並びたいなどと云う大それた願望など抱いていないのだから。
 「ま……。闘神士の在り方の見本の一つ、って意味では確かに充分過ぎる存在だがな」
 思わず漏れた声は呟きにも満たない小さなものだったが、何か厭な気配でも聡く察したのか、イルカ似の式神がちらりと視線をこちらに投げて来るのに慌てて目を逸らす。
 理念も在り方もなにもかも違うと云うのに、並び立つ事だけは出来る。友達としても闘神士としても。
 嘗て天と地の流派は分かたれ千年の争いを続けて来たと云う。しかしその隔絶も溝も今は取り払われて久しい。恐らく少し前であれば、地流の闘神士と天流の闘神士とがこうして共に『仕事』をしている図など考えられもしなかったのだろう。
 共に生きる事は出来る。世界と人間もそう在れば良いのだと、彼の闘神士はそんな事を思って『戦って』いるのかも知れない。
 取り留めのない思考に答えは無い。答えを持つ筈の相手も恐らくは、そんな事をわざわざ考えてもいまい。
 何せあれは真性だ、と、今までにも幾度か辿り着いていた結論の升に駒を運んだ所で、沼の方から水音がした。それに気付いたハヤテが背けていた顔を戻してみれば、何故か頭からすっかりびしょ濡れになったヤクモが沼から上がって来る所だった。
 「……水遊びでもしたのか?」
 傍らの式神の牽制に気付かない訳でもなかったが、沼の畔へと戻りながら問えば、ヤクモは喜怒とも哀楽ともつかない曖昧な表情を浮かべて「いや」とかぶりを振った。
 「カミ様流のちょっと景気良い御礼のつもりだったらしいんだが、俺達人間にはちょっと合わなかった様だ」
 「御礼、って事は上手くいったのか」
 「ああ。住処が綺麗になった事で、当のカミ様の纏っていた不穏な妖気も浄化された。妖怪騒ぎももう起こらないだろう」
 「当分は、な」
 「さてな。願わくば永続して貰いたいものだが」
 常より少しばかり穏やかさの加味された調子で云う口調もまた、どちらとも何ともつかない。云い種も同様。神だろうが人間だろうが闘神士だろうが、全てを公平に扱うからこそのものだろうか。
 そんなあっけらかんとした感の闘神士とは裏腹に、式神の方は少々口を尖らせている。
 「そんなことより、ヤクモは大丈夫?寒くない?──全く、時々居るんだよねぇ、人間の流儀に合わせらんないのって。これでヤクモが風邪でも引いたりしたらどうするのさもー」
 「いや、沼の水より温度も高いし、不思議と外気温の影響も受けていないみたいで、寒くは無いんだ。御礼って云うより悪ふざけだったのかもな」
 「でも濡れっぱなしは良くないよ。不埒な目をする輩とかいるかも知れないし。だから乾かすからね〜」
 不埒、と云う部分でちろりとハヤテを見上げてくるタンカムイの視線に、別にやましい事など無かったのだが何となく気圧されて仕舞う。マサオミの奴でもあるまいしそれは無い、と一応小声で訴えれば、闘神士と式神と、両方から厭そうな表情をされた。
 タンカムイに因って全身を濡らす水気を取り払って貰ってから、ヤクモは元通りの平服に着替えると、脱いだ着物を含め先程『借り』て来た道具の数々を再び抱え持った。
 「俺はこれを返して来る。その間に結界の解除を頼む」
 そう云って、神操機へと戻った式神と共にまたしても設えられた隘路を辿らず、木々の隙間を突っ切って行くヤクモの姿を見送ってから、ハヤテは八方に配した符を解除していった。張る時と異なりこれは簡単に終わる。
 「……さて」
 一仕事終え、再び沼の畔へと戻ったハヤテは何の気なしに周囲を見回してみる。が、先程までと変わった事はと云えば、目だけではよく伺えない水底に投棄物の堆積があるか無いかぐらいのものだろうか。
 だがそれでも、先程よりもその気配が、空気が、何処か澄んでいる様に感じるのは気の所為ではあるまい。そう、嘗ては誰かが、人々が、信仰を寄せた地なのだから。
 こぢんまりとした社にそっと近付くと、ごくごく自然に両掌が合わさっていた。
 自分は幾ら闘神士として式神と云う超常的な存在に触れているとは云え、特に敬虔な質でも無かった筈だ。だからこそ己のそんな行動にハヤテは一瞬驚くが、まあ悪くはないかと思い直し、目をそっと閉じる。
 ぱん、と乾いた柏手が穏やかで神聖な空気を打って響いた。




鷹宮的ヤクモ観察日記(…)。
闘神士と書いてエコロジストと読む訳では断じてありません。ただ、大戦後は闘神士対闘神士の構図も少なくなるだろうし、じゃあ何と戦うの>妖怪有象無象>コゲ曰くそれが本来の闘神士の在り方=節季の式神と共にそも戦うって事は大義として『世界を守ること』なんだろ>じゃあ世界をより良き方向に持っていくには環境問題なんじゃね…? とか云う連想でした。
古代日本の自然信仰は要素として好きですが、自身宗教家ではないので、じつのところよくわかってませn

永遠の対話、情熱的な対話、不毛な対話。 強いて云えば永遠に互いを呑み続ける三すくみの、"永遠の対話"かもしれない。