ギヤマンの唄声



 勝(と)った、と思った瞬間、掴んでいた右腕から力が抜けるのを感じた。
 小さな衣擦れの音と同時に、捉えていた筈のヤクモの身体が半分ずれる。
 その侭残されているのは既にヤクモにとっては意味を失った右の腕一本。それを掴んだ侭マサオミは、然し躊躇した。
 殆ど密着していたヤクモの背が、マサオミに掴まれた侭の右腕を無視して逆に反転する。この侭では折るとまではいかずとも捻って仕舞う事は確実だと判じ、マサオミは咄嗟にヤクモの右腕を解放した。
 瞬間、ひゅ、と空気を呑む音が聞こえた。息継ぎと云うには強いそれは、気合い。呼気。
 とられた、と思った瞬間、マサオミは奥歯を食いしばった。続いて来る浮遊感と衝撃とに身構え──
 視界が反転し空を見上げるのと同時に、突き抜ける様な衝撃が背中に走り、マサオミは地面に仰向けに転がされていた。あの体勢からならば殴った方が早かっただろうに、わざわざ投げてくれたのは或いはヤクモなりの慈悲なのかなあと、痛みに呻きながらそんな事を思う。
 「……これでお前の四連敗だぞ、マサオミ」
 「いちいち報告してくれなくても自分で数えてるって」
 マサオミの顔を逆さまに見下ろして来ているヤクモは、返される悪態に少しだけ微笑を浮かべると、投げる支点にしたマサオミの腕をそっと解放した。ぱんぱんと両手を軽くはたいて息を吐き、なおも辛辣な評価を告げて来る。
 「全体的に甘いが詰めが特に甘い。あと、本当にやる気があるのか?」
 「あるに決まってるだろう?じゃなければわざわざアンタに指南なんて頼まないぜ俺」
 「そうは云うが。大体お前は符使いでも普通に頼りになるんだ、わざわざこちら方面まで鍛える必要など無いと思うぞ?」
 「それは、──」
 (毎度アンタに投げられるのも、こうして負けっぱなしなのも情けない、とか思った訳だが)
 この調子では余り変わらないかも知れない。そう思ってマサオミは地面に寝転んだ侭で肩を竦めた。珍しい、ヤクモからの褒め言葉も余りすんなりとは胸に落ちない、そんな思考の中で取り敢えず不自然に空いた答えを濁す。
 「次の式神を得るって気には当面なれないからな。俺自身がちょっとぐらい『使える』様になった方が良いかなと思ったんだよ」
 今日の最初に云った言葉を繰り返して示せば、ヤクモは一応納得したのか。小さく溜息に似た呼吸を挟むと軽く腕を組む。起き上がるのに手ぐらい貸してくれないかな、と思い、太白神社の境内に大の字で横たわったマサオミは黙ってそれを見上げた。
 マサオミは闘神士の契約を満了し終えたが、ヤクモはそうではない。つまり彼は未だ闘神士としての戦いを、使命を遵守して生きている。
 そんな彼に関わる以上、微力ながらもその助けになりたいと云うのは、マサオミの(元)闘神士としての矜持である。男として看過しかねると云うのも無論大きいのだが。
 とは云え、実際幾つかの事件を一方的に手伝い実感したのは、殆ど自分の出る幕など無いと云う事実だった。それだけヤクモが闘神士として優れていたとも云えるし、符しか持たないマサオミに出来る事が少なかっただけとも云えるし、或いは舞い込んで来る依頼が取るに足らない内容だったとも、云えなくもない。
 然しマサオミは新たな式神と契約をする気にはなれない。リクの両親より託されたあの神操機は無論まだ大事に持っているが、その中にキバチヨ以外の式神が収まると云うのもどうにも考え辛いし、そもそも式神を得る事がイコール、ヤクモの助けに結びつくとも思えない。
 そこで思いつき頼んだのが、自らを鍛える事であった。マサオミは運動神経は決して悪くないが、身を守る或いは相手へと打って出る為の武術や体術などを専門に学んだ事はない。
 そもそも闘神士とは基本的に式神を使役し戦うものであり、自ら技を鍛える必要性など殆ど無いと云うのが概ねの共通認識である。寧ろヤクモやその父のモンジュ(と、どこぞの地流宗家)の様に、式神の力に頼るばかりではなく自らも戦える様に、などと云っている方がどちらかと云えば異端なのだ。
 モンジュの方は式神を失ってから身一つ符一つで戦っていたと云う恐ろしい経歴の持ち主なので、それを含めた見方をすればまだ頷けるのだが、問題はヤクモの方である。
 「最初はちょっとした、身体や技を鍛える事で精神をも養う鍛錬の心算だったんだが、お陰様で闘神士を直接狙う輩相手にも何とかやって来れた訳で、何が幸いするか解らないな。何事もやっておけば役立つと云う好例になった」
 などとヤクモ当人は朗らかに云って除けたが、生来の運動神経や勘の良さと相俟って、彼が身につける事となった体捌きは間違い無く闘神士ヤクモの強さと戦力的価値とを軽く数倍に引き上げていると云っても過言ではない。
 (ナントカに刃物……いやちょっと違うか。兎に角色々反則だ)
 マサオミが憮然とそう思うのは、彼にとっては当然の流れであった。何しろ仮令ヤクモに式神がいなくとも符が無かろうとも、マサオミのフォローなど必要としないその理由は、ヤクモが単独でも生存能力が恐ろしく高いと云う事実に因る所が大きい。伏魔殿に何ヶ月も篭もりっきりで平然としていた事を思い出して見れば、成程納得。
 普段なんだかんだで(口先以外では)負けっぱなしで、『仕事』でも手伝える事が殆ど無い。
 これでは立つ瀬がないではないか。と云うのが消沈しきった挙げ句生まれたマサオミの正直な感想である。
 「闘神士や符術士を目指すだけならば、体術など磨く必要は無いと思うがな……」
 そこで、マサオミは暇な時間を見つけて当のヤクモへと体術の指南を頼んでみた訳だが──結果はこの「理解しかねる」と雄弁に語る呆れ顔と云う訳だ。
 「だから俺がやりたいだけだって。第一その論法で云えばアンタだって同じだろうに」
 「俺の場合は実際役立っているから良いんだ。実の所生身を狙われる事は、闘神士同士の戦いを除いても少なくない」
 物騒な事をさらりと云うと、ヤクモは恬淡とした表情でマサオミから自然に目を逸らした。その発言に余りに衒いが無さ過ぎて、マサオミは深入りするタイミングを逃した。唖然と、口を開閉させる。
 「〜そう云う、平気じゃなさそうな事を平気そうに云うのは止めろって」
 「それよりも、お前が何故俺に勝てないか、その理由に思い当たりが一つある。興味は?」
 一応抗議めいたツッコミは入れるが、案の定かヤクモは自然と話をも逸らした。こうなると彼には云う気も訊かれる気もないと云うのはマサオミにも解りきっていた為、不承不承逸れた先に乗ってやる事にする。
 「参考までに頼むよ」
 マサオミの溜息をどういう質と取ったのか。ヤクモは少しだけ考える様な素振りをしてから、真っ直ぐに眼下へと視線を投げて寄越して来た。逆さまの顔の中で、琥珀色の双眸が冽たいとも云える表情を形作る様に細められる。
 「お前が俺に勝てない理由。強いて挙げればそれは、勝つ気概の無さだ。
 執念でも信念でも、呼び名は何でも構わないが、己の──ないしその目的の為には敵(あいて)がどうなろうとも勝たなければならないと云う意志。自らの作った屍を乗り越える覚悟。それが今のお前には少々足りない」
 一息にそう云う、こともなげな口調。流石にマサオミも顔を顰めたが、構わず続けられる。
 「例えば先程もだ。あの時点で負ける事が解っていたとしても俺(敵)の腕を放してやる必要など無いだろう。右腕一本でも道連れにしてやろうとか、上手く立ち回って逆転しようとか。そう云う意識がお前には全く無い様に見受ける。だからやる気はあるのかと訊いたんだ」
 「〜当たり前だろうが。組み手程度でアンタの、しかも利き腕を折る訳には」
 「云っただろう。気概の問題だと。お前にその気が本当にあれば、練習なのだから俺も止めている。折られるのも捻り上げられるのも御免だしな。だ、と云うのに全くその気さえ無い様だったから、遠慮無く投げさせて貰った」
 薮蛇だったと気付くが既に遅い。マサオミは憮然とした表情で上体をゆっくりと起こした。結局手を貸してくれそうになかったヤクモの様子を振り返って伺えば、彼は丁度目蓋を下ろして溜息をついた所だった。やれやれと肩など竦めて寄越す。
 …………煮え切らない癖に悪態は止めないマサオミに呆れているらしい。しかも心底。
 「俺の気概の甘さとやらはよーく解りました。が、な。嘗て敵対した視点の俺に云わせれば、アンタだって相当に甘いと思うが?」
 ヤクモのその様子に反骨心を刺激されたマサオミは思わずそう返していた。蛇どころか鰐を引き摺り出して仕舞いそうだ、と、らしくもなく云って仕舞ってから少し後悔する。
 然しヤクモはそんなマサオミにきょとんとした目を向け、それからさも可笑しそうにくつくつと喉を鳴らして笑いだした。それは厭な質では決して無いのだが、何となく軽視された様で苛立ち、マサオミはむすりとヤクモを睨み返す。
 「何だよ」
 「マサオミ。忘れていないか?」
 マサオミの憮然とした視線には拘わらず、やがて笑いの発作がひととき収まったヤクモはそう、微笑みを浮かべてみせた。
 (──畜生)
 どきりと鼓動が跳ねるよりも早く、マサオミは得も知れぬ予感で、背筋に薄ら寒さを覚える。
 藪から出て来たのは、蛇や鰐などよりももっと。きっとずっと、恐ろしいものだった。
 「俺はお前を一度、仕留めているんだぞ?」
 思い当たりはある。時間稼ぎの心算ではあったが、それ以上に式神(キバチヨ)の命さえ、闘神士としての己さえ懸けた。それでも負けると慥かに思った。仮令己が斃れようとも、悲願さえ達成されれば良かったのだから、迷わず。賭けた。
 事実、マサオミは敗けた。ウツホの措置が間に合わなければ、マサオミは今こうして此処に居る事すら無かった筈。
 天流のヤクモに因って、神流闘神士ガシンは闘神士を降ろされていたのだから。
 それを、『解っていて』告げるのは。
 (……なんて綺麗な微笑みだよ)
 優越でも嘲りでも苦味でも、況して後悔もない。ヤクモの浮かべるそれは、恬淡とした空気さえも突き抜けた、腹立たしい程に綺麗な表情だった。
 あらゆるものを棄て去った、偽の様な笑顔だった。
 「つまり、その瞬間の俺は、ちゃんと優先順序を弁えていた。お前と云う闘神士よりも、世界を救う事を選ぶ事が出来た。要するに、決意に足る信念、勝たなければならないと云う気概とはそう云うものだと云う事だ」
 そんな人間味のないきれいな微笑みを見せてくれたヤクモは、同じ様に透徹とした声で唄う様にそう云うと、普段時折見せる悪戯っぽい表情に切り替えた。肩を竦める。
 「相手が誰であろうと。そう云う気概が無ければ勝つ事など出来ないさ。今のお前にはそう云うものが足りないし、それに」
 そこで一旦言葉を切ると、ヤクモは気を抜く様に息を吐いた。長めの吐息の果てに再び微笑みを寄越してくる。
 今度は何も棄てない、寂しそうにも、悔しそうにも見える笑顔だった。
 (羨望、とか、憧憬、とか)
 反射的にマサオミはそう思った。或いはそう感想を差し挟む事で、この背筋から入り込み心臓を鷲掴んだ寒気を振り払いたかったのかもしれない。
 「寧ろそんな身勝手な覚悟を背負って戦う事なんて、無い方が良い。だろう?」
 そう、不意に真剣な表情と声音とではっきりと云うと、ヤクモはぐるりと回り込んで歩き、マサオミの真正面へと立った。その動きを身体ごと目で追って、そこで漸くマサオミは自分が座った侭で、背後に居たヤクモを仰ぎ見ると云う不自然な体勢にあった事を思い出す。正位置へと向き直っても首は未だ少し痛かった。
 「いい加減立ったらどうだ?」
 ほら、と今更の様に差し出された手と、ヤクモの──平生通りでいる表情とを二度、三度と見比べてみても、そこには誠実な恣意以外のものを感じられない。
 ひとを屠ってまで戦うのは御免だと云いながら、アンタは何の為に闘神士を続けているのか。そんな当たり前の疑問よりも先に途方もない徒労感を憶えてマサオミは息を吐いた。溜息だ。
 当たり前の疑問には、マサオミにでも答えは直ぐに出せたからだ。
 それはもう、戦えない、ということで何かを失わない様にと云う、弱々しい願い。
 伝説とまで謳われた強者が口にするとは到底思えない様な、果敢ない望み。
 滅びにさえ救いの可能性を見る強さを抱く彼は然し、己にとって最も重要である『強さ』そのものに対して自分で価値を与えられていないのだと知る。
 「……だからさ。平気でも無さそうな事を平気そうに云うのは止めろよな」
 二度目の抗議を漏らすと、マサオミはこちらに向けられたヤクモの手を取った。引かれ促される侭に腰を持ち上げ立ち上がる。
 たちまちほぼ同じ高さになる、鮮烈な琥珀の双眸を抱いた顔はマサオミの抗議を黙殺する心算なのか。放たれた言葉の内容に呻吟する様子もなく、目的を果たした筈がいつまで経っても解放されようとしない手にただ向けられていた。
 「? 放せ」
 「意味は特に無いが厭だね」
 云いながら、嘘ではないと云う意図を込めてマサオミはヤクモの手を握る手指の先にまで力を込めた。振り払う事を躊躇う様に揺れる指先と、眉間の不快そうな皺とを見遣りながら、捕まえた手を両者の顔の高さにまで持ち上げる。
 「折りも捻りもしない。だが、捕まえておく事ぐらいなら出来るんだぜ?」
 しっかりと握り締めた手をヤクモの目にも映してやる。が、彼は苦虫を纏めて咀嚼している最中の様な表情で、それを見返しながら不審そうに問い返して来た。
 「……………意味が解らないぞ?」
 「言葉が届く程度の距離なら、逃がしませんよ──って事」
 先程から変わらない、苦くなって仕舞った表情の侭でマサオミはヤクモの指先に口唇を寄せた。ぴく、と神経質そうに震えた爪の先までをじっと見つめて、そろそろ本気で抗議行動に移りかねない彼の怒気ごと吹き消す様に、溜息を吐きかける。
 信念と名付けた強さが必要だと口では云っておきながら、それはヤクモの最後の言葉とは矛盾していた。
 あんな綺麗な微笑みを浮かべて云うものではない。全てを──本心をも──棄ててしか云えないものなど。
 なんて強がり。なんて嘘吐き。
 「……本気出せずに敵(俺)を説得した挙げ句時間切れになって初めて、漸くンな決意に至った奴の台詞じゃねぇだろ」
 神流の闘神士として暗躍をしていたあの頃でも滅多に出なかった、乱暴な己の言葉遣いに、マサオミは己がどれだけ怒りを孕んでいたのかと云う事に気付いた。
 恐らくはそうしなければ人ひとり傷つける事をも躊躇うのだろう人を、マサオミは憐れみ、同時に酷く腹を立てていた。
 だからマサオミは、殊更に苦い表情でヤクモの顔を黙ってただ見詰める。
 『言葉が届く程度の距離』。其処に捕えられたヤクモには果たして、この言葉は届いているのだろうかと。相変わらず眉をキツく寄せた侭黙って佇む彼の姿にそんな事を思いながら、目の高さに持ち上げていた指の背に再び口接けた。
 「……闘神士としてのアンタの役には大して立てないかも知れないが、何かしら助けになりたいんだよ」
 何も傷つかずに切り捨てる事がどれ程難しいかと云う事は、マサオミ自身が思い知っている。憎悪や嘲笑、深い先の先の望みを思わなければ棄てきれなかった事も憶えている。
 殊更に冷徹に在ろうとしたマサオミでさえそう思ったのだから、このお人好しで正しい気質の闘神士が負うだろう傷はもっと深い筈だ。罪悪感に囚われながらも平穏に幸福を享受し生きる事が出来る程、人は器用でもなければ無責任でもない。
 (だから、あんな風に平然と笑って振る舞うアンタに腹が立ったんだ)
 「…………ははぁ」
 マサオミは胸中で言葉を噛んだ為、暫しの沈黙があった。それを破ったのはヤクモの、得心を漸く得た時の様な頷きひとつ。
 思わずヤクモを見遣ると、彼は珍しくも少しだけ弛んだ曖昧な微笑みを浮かべていた。回答を避ける気ではないかと思え、反射的にマサオミはヤクモの事を憮然と見返す。
 「要するにお前は俺の事を案じてくれていた、と云う訳か」
 「…………………………………なぁ得心したのそれだけ?それだけなんですか?」
 マサオミにして見れば今更である。それをさも納得したとでも云わんばかりで問いてくるヤクモの口調に、がくりと項垂れて仕舞うのを禁じ得ない。
 「ん、いや。済まないな。そう云う意味で疑われた事は実は余り無いんだ」
 軽くそんな言葉を返すヤクモの表情をマサオミは項垂れた侭思わず探り見て、直ぐに止めた。嫌味だろうが本音だろうが、どちらであっても問う事自体に意味はありそうもない。
 彼の家族や式神達であれば、『大丈夫』と告げる言葉を──その意味を疑う訳ではないが、理解した上で信頼してくれていると云う事だろう。ヤクモもまたそれを解っていて甘んじている。或いは己を保つ為に必要な虚勢にそれは似ているのかも知れない。が──。
 そこでハイそうですかと折れてやる心算であれば、初めからマサオミはこんな無謀な事などしていない。
 「〜アンタの家族や式神から見れば信頼に足るものだろうが、俺は納得してないんだよ。って云うかな、信じてないからではなく支えてやりたいから敢えて踏み込むんだって」
 繰り返してそう、途方もない脱力感に包まれながらマサオミがそう云えば、ヤクモは軽く息を呑んだ。直ぐに誤魔化す様に開いた口を噤みはしたが、一瞬瞠目した表情までマサオミの眼は捉えている。
 「だから──わぷっ」
 「そこまでだ」
 ここは一気に畳みかけてみるかと思ったマサオミの鼻っ面に、ヤクモの空いていた左てのひらがぺちりと叩きつけられた。油断したその隙を突いて、しっかり捕まえていた筈の右手がするりと逃れていく。
 「〜あのなぁ、!」
 紅くなった鼻を押さえ、先程よりも当然の様に距離を置いて仕舞っているヤクモをマサオミは思い切り睨みつけた。猫騙し並の不意打ちに、鼻への痛みばかりではなく憤慨が湧き起こるのだが、
 「命を狙われるとか家族を危険に晒すとか。そう云う目を見る度、いっそ力など持たなければ良いと思う事もある」
 マサオミに掴まれていた右のてのひらをじっと見つめて、ヤクモは一見全く関係がない様に思える、そんな言葉を口に乗せて来た。
 「だが、皆を守れない事実に直面すると思う方がもっと怖い。だから、せめて後悔はしない様にしている」
 てのひらを軽く、神操機を振るう時の様に畳み、厳然たる眼差しでそう──、まるで言い聞かせるかの様に云うヤクモの様子に、マサオミは零れそうになる苦笑を何とか堪えた。いきり立ちかけた感情は鼻の痛みと共に既に引いている。
 ヤクモは、傷を負う事自体に否定はせずとも、その先を『平気』なのだと振る舞って見せる。痛みを裡に、埋めて仕舞える。そして彼を取り巻く周囲の誰もがそれを疑わず信じている。だからそれに応えると云う事でヤクモは己の立ち位置を保つ事が出来ている。
 傷は負っている。負って、それに耐える事が出来ている。忘れるのでも、言い訳をするのでも、大義名分で誤魔化すのでもなく、真っ向から。
 だから。
 「だから。お前のそれは杞憂だ、マサオミ」
 彼は、自分が怯えている事にさえ、自覚がないのだろう。
 勁い心だからこそ。
 彼は。
 己を律する事が、出来て仕舞っている。
 「…………」
 哀しみも憂いもなく、マサオミは己と同い年の筈の闘神士の言葉を沈黙で迎えた。相応しくはないだろうとは思ったが、かける言葉など見つからなかったのだ。
 とは云え。それもまた今更ではあった。いつでも勁く在るヤクモとは異なりいちいち臆病になる己の心を叱咤すると、マサオミはざくざくと無遠慮にヤクモとの距離を詰めた。もう一度、手を取る。
 「そこで、ワカリマシタって大人しく俺が諦めるとでも?」
 「……………いや。実の所余り期待していなかった」
 ふん、と息を吐いて挑戦的に云うマサオミに、溜息混じりに返すヤクモ。
 「お前の執念深さ……いや、諦めの悪さにだけは負ける」
 「じゃあこれで一勝四敗だな。幾ら俺が惚れた弱みでアンタに勝てないとしても、一つぐらいは勝ちを譲って貰わないとな」
 「云ってろ」
 にこりと、笑いを零して続けたマサオミを少し紅い横顔で一瞥したヤクモが、掴まれている手を抜こうとするのを逆らわず見送る。
 佇む距離は変わっていないと云うのに、それでも先程までよりは近付いていると思えるのだと云ってやれば、果たしてヤクモは同じ様に、マサオミの思い違いだと云って笑うだろうか。
 



マサオミも、裏切ったとは云え基本的に取った手順は正しいのだから、二人とも卑怯な事が出来ない人なのは確か。だから強い。でも最後に天秤を示されたら、ヤクモは躊躇わず選ぶ事が出来る人だと思う(或いは、出来るものならば全部を選んでしかも叶えて仕舞う)。逆にマサオミは何とか両方選べないものかと最後まで希望(と書いて悪足掻きと読む)を棄てられない気が。んで選ぶとしてもきっと自分を納得させる為に棄てる方に対して偽悪めいた言い訳とか作りまくるタイプだとか決めてかかる。まあ諦めは悪そうだしね…?

透明な声音。嘘ではないけれど、繊細な響きは酷く脆い。かも知れない。