だから、あの時止めていればよかったのだ。
 後悔にも損得にもならない、これは断罪ではなく救済でもない、繰り言。
 誠意を嗤う最も汚い心に、充足を嘲る最も醜い心に、欺瞞を誇る最も優しい心に、あなたがついに気付いて仕舞う前に。

 止めていればよかったのだ。
 あなたが情愛の味を知る前に。あなたが憎悪に溺れて仕舞う前に。

 あなたがもう取り戻せないほど損なわれて仕舞う前に。
 


  フラスコの廃庭



 目蓋に白々と注がれているのは、夜明けを疾うに過ぎた朝の日差し。薄く柔らかな陽光は然し、気怠さに沈んだ脳にとっては疼痛や圧力さえも以て、じわじわと目醒めを促す。
 (そんなに照らさなくとも、解ってるって……)
 既に覚醒しかけている意識野が、朝日に向かって意味のない悪態をつく。文句を言おうが抗議をしようが、時は容赦無く過ぎて行くし陽も構わずに昇る。一日は寝た侭でも怠惰に流れて仕舞うのだ。
 別段、身体は貪欲な程に睡眠を欲している訳ではないのだが、覚醒に異論の無い意識に反して身体はなかなか起き上がろうとはしない。全身を覆う酷い倦怠感に、『起き上がる』と云う動作をする様命じるには、相当の労力が必要な様だ。
 それでも苦労して、ヤクモは目蓋をゆっくりと持ち上げる。途端眼球を直接灼く陽の眩しさにまるで抗議するかの様に、重たい右腕が反射的に動いた。のろのろと己の眼を覆う動きに、やれば出来るじゃないかと褒めてから息を重く、吐いた。
 それから逆の手を床に這い出させると、腕で支えながら上体を大儀そうにゆっくりと起こす。
 開け放たれているカーテンの半分からは、角度の低い陽光が薄暗い部屋の輪郭を照らし出している。畳張りの、生活感の無い空間。敷かれた布団に眠っていたのはヤクモひとりで、その隣にも、室内の中にも、この新太白神社の敷地の何処にも、それ以外の存在はもう、いない。
 しっかりとかけられていたらしい掛け布団が、ヤクモが起き上がった事でずるりと滑り落ちた。その下にあるのは一糸も纏わぬ己の身ひとつ。
 乱された節季に因って、本来のこの節季には感じ得ない様な寒さを剥き出しの肌に感じて、僅かに震えるとヤクモは、枕元に畳まれて置いてあった着物を手に取る。
 昨日あれだけ乱暴に剥ぎ取られた割には、畳まれていたお陰か目立った皺もないそれをまじまじと拡げて見つめて、妙な所が律儀な奴だと苦笑した。
 起き上がらない侭取り敢えず袖を通そうと、袷を掴んだ手にふと眼が留まる。
 流派章もリストバンドも外した手首には、血さえも滲ませた擦過傷が痛ましく刻まれている。原因は知れているので別段驚く事もなく、軽く腕を回し、神操機を振るう分には問題はなさそうだと判断さえ終われば、それ以上は気にしておくものでもない。
 ついでの様に身体にも視線を落とせば、その至る所に、痕、と云うには痛々しい、まるで噛んだり引っ掻いたりした様な疵が刻まれているのに気付く。
 闘神士と云う役割柄、元より生傷の絶えない身ではあったが、未だ新しいそれらは紅みを帯びて酷く生々しさを感じさせ、ヤクモは思わず眼を逸らした。袷を掻き寄せ掴むと視界から隠す様に除ける。
 「………、」
 指がふと首筋に触れた瞬間、寧ろ背筋を冷めたものが伝う。指先を幾度か、首周りに滑らせてみるがそれだけでは何も変わらない。何も解らない。
 (……痕、はもう、残ってはいないだろうか…)
 発端は此処だった筈だ。あのとき彼は、この首に手をかけ、強く──、締めたのだ。頸動脈ではなく気道を塞ぐ、苦痛の長い窒息。そう、結果を求めた恐らくは……、殺意と呼ばれるだろう衝動に因って。
 あの後特に確認はしなかったが、暫くは指の痕ぐらいくっきりと残って仕舞っていただろう。
 つつ、と掴まれた喉までを自らの指でなぞりその時の感触を思い出すと、ヤクモは掠れた息を吐き出した。知らぬ内に詰めて仕舞っていたらしい呼吸を静かに再開させる。
 マサオミとの間にこの、歪んだ関係が生じたのは、あれからだ。そして今まで。今からも。
 彼の衝動はヤクモへと殺意を以て向けられ、そうして形を微細に歪めて『こう』なった。憎むべき者を容易く殺めたりはせず、飼い殺しにするかの様に辱めて痛めつける事を彼は選んだ。
 己より弱いものではなく、己と同じ立場にあるものを敢えて組み伏せる事で、余計にその鬱屈を晴らす手段と為り得たのかも知れないが、実のところは解らない。
 思う度、暗澹たる思考を内包した溜息が漏れる。
 戦う事を生業とした身が元より『痛み』と云う刺激に強かったから、と云うべきか。身体の訴える不快感も、有り得ぬ感覚への痛苦にも、それをどうすれば緩和する事が出来るか、と云う考えにも、或いは歪みそのものを享受する事にも、心が幾分慣れを感じているのは間違い様がなく。
 結果的に然程の痛痒は直ぐに憶えなくなった。元より必要だったのは受容と言う納得だけであったから、そこに余計なものを感じる様になって仕舞ったら却って苦痛を生んだに違いない。あるのは精々自己嫌悪ぐらいのものだ。
 慣れる事は容易だ。望まずとも。この戦う身の様に。あの殺意の様に。乱暴な行為の様に。
 慣れて仕舞った方が良い。情も愛も取り払った無為にも、時に憐憫さえも感じさせる彼の方便ない心にも。
 『……ヤクモ』
 声がかけられたのは、丁度疲れた様に項垂れていたヤクモが薄く目を開いた時だった。出所は解っているから、ゆるりとそちらを見遣る。
 丈の低い文机の上に乗せられた、紅い神操機。聞き違えようのない呼び声はその中に『居る』式神のものだ。
 「…どうしたんだ?タンカムイ」
 声をかけてきた式神は、珍しくその霊体(姿)を表に出して来ていない。声だけを飛ばして来るのは別に珍しい事でもないし不便も特に無いのだが、彼らはいつも、ヤクモが話し辛いからと云って大概の場合は顔を見せてくれると云うのに。
 声をかけられた事と、その事に対して浮かびかけた疑問は然し即時に、己の今の姿を思えば解消される。
 ヤクモの契約する式神達はその何れも、契約と云う義務以上に常々ヤクモの事を案じ、敬愛や誇りさえも抱き大事にしてくれている。
 故に。だからこそ彼らはヤクモのこの様な有り様など見たくはない筈だ。同時に、見られたくもないだろうヤクモに気を遣ってくれているのだ。
 思い当たって仕舞った事に苦笑を浮かべながら、ヤクモは着物の前を寄せきっちりと整え着ると、僅かに紅い染みの残る帯を締め、布団に座り直した。それでも式神達が姿を見せてくれる事は無いだろうとは思いながらも、せめて誠実な思いだけは示したかった。
 『ねぇ……ヤクモ、』
 その作業を待ってくれていたかの様なタイミングで、タンカムイの声が続けられるのにヤクモは耳を傾けた。
 『僕らは皆ヤクモの事を、何度だって云うけど信じているよ。だからヤクモの信念や心や、考えを疑ったり、否定する訳じゃ、決してない──けど、
 ……………本当にヤクモは、それで良いの?』
 日頃忌憚なく物を言うタンカムイにしては珍しく、何度も躊躇いながらの問いかけだった。それは個人的なものではなく、告げに来たのがタンカムイであったと云うだけで、恐らくは五体の総意からの言葉であったからだろう。
 「……ああ」
 だからヤクモは彼らの心を推し量って、慎重な、然し嘘も気休めも無い本心からの意志を、たった一つの首肯で返す。
 『……………』
 故に。タンカムイは──式神達は、沈黙して仕舞う。それは決して真意を量る為の間ではない。返答がヤクモの真っ向からの意志である事は疑いようが無いからこそ、自分達がそれを咎める事も出来ず、止めさせるに足る権限も持たぬと解っていたからだ。
 強制力の無い意見を、式神としては相応しくない私情の交ざる感情を、どう正しく伝えれば良いのかと迷う様に。
 『どうして?僕は正直彼奴が大ッ嫌いだけど、それを抜きにしても、どうしてヤクモがあんな奴の為にそこまでしてやらないといけないのかが、解らないよ』
 沈黙の後に、結局はダイレクトに告げる事を選んだタンカムイが、これもまた珍しく極力声を荒らげない様に問いを発して来る。
 感情の侭に口を開いたら、我慢がならなくなるのかも知れないな、と心の隅で思いながら、ヤクモは出来るだけ刺激が少ない様な言葉を選んで答える事にした。
 「こんな事で、彼奴が楽になれるのならば、それでも良いと思ったからだ」
 『──解ってると思うけど、彼奴が求めているのはヤクモのそんな優しさや気持ちじゃなくって、』
 「天流や地流への憂さ晴らし。憎しみの捌け口。つまり、八つ当たり、だろう?」
 解っているよ、と続けた言葉には苦笑が乗っており、自嘲めいて仕舞っていると思ったが、構わずに続ける。
 「それを踏まえた上で、それでも良い、と思ったからだ」
 それは確かに、自嘲しか浮かべられぬ様な思考の結果と云えるだろう。
 だから人としての尊厳など与えられずとも構わぬと云い、憎悪を込められるヒトガタの様に只、黙ってその理不尽を受け入れる。赦す。
 強制された行為に思考を停止させるのでは決して無く、その間ずっと赦しを与え続ける。それが言葉通りの不毛な行為であると、理解を抱きながら猶。
 何故ならば、知って仕舞ったからだ。
 惑いに無謬が無かっただけに、理解して仕舞ったからだ。
 救うべく望む心の無さに、気付いて仕舞ったからだ。
 彼との間にあった確実な齟齬に。一度は見ぬ振りをしようとしたその決定的な隔たりに。気付いて仕舞ったからだ。
 失ったものを取り戻すべく戦う。その為に憎悪や敵意を向けて来た。強い感情を糧に只管生きた。
 マサオミがそうして、嘗てヤクモが受けて来た同じ様な痛みを負って来たものであると知ったからこそ、まざまざと思い知る事が出来たのだろう。
 それは孤独、不安、恐怖をも内包した、何よりも激しい瞋恚。失った形そのものを取り戻す迄は、周囲の何を宛がっても決して埋まらない、満たされない事実に憶える、深い望みと疲労。
 理解していたからこそ、マサオミをその淵から救えはしないと解っていても、ヤクモは手を伸ばさずにはいられなかったのだ。
 『……ヤクモ様。なれば既にご理解はされていると思うでおじゃるが……、彼の者の今抱える痛みや苦しみは、ヤクモ様の経験してきたそれとは違うのでおじゃるよ?』
 黙って仕舞った(か、黙らされたか)タンカムイに代わり深慮深そうな声音で、まるで言い聞かせる様な問いかけを接いだのはサネマロの声だった。
 世界の理不尽を未だ知らぬ子供に、正しき事を教えなければならない教師や親の様な声音で紡がれたサネマロの言葉に、ヤクモは意識せず微笑みが浮かぶのを自覚した。
 会話の内容は決して褒められたものでもなく、寧ろ咎められている様なものだと云うのに、式神達のその気遣いに胸があたたかなもので一杯になる。
 「違いはない。同じだ」
 『違うよ』
 「同じだよ」
 咄嗟の反論の様に放たれるタンカムイの言を然しきっぱりと否定し、ヤクモは微笑んだ侭で卓上の神操機に真摯な眼差しを向けた。この気持ちを式神達(彼ら)に伝えるべく、神操機を手にとって胸に抱き締めたい所だったが、そうするには今のこの身は汚れている様な気がしたので、やめておく。
 「失ったものも、その質も、意味も、願望の強さも、恐らくは違う。だが、それでも──同じなんだ」
 強い望みは、同じ。希い流す涙の温度も、恐らくは同じ。
 同じ様な経験を経て来たからと、痛みや感情を同一視する程にヤクモは愚かではない。飽く迄これは、同病を相哀れむだけの『理解』だ。
 慰藉としてヤクモが差し出したのは『全て』で、手段を選んだのはマサオミだった。その結果がこの行為だっただけの事。
 大事なものを失った世界に、然し時折憶える幸福や安堵を責める嫌悪と焦燥。その故にマサオミはリク達を、ヤクモを、その伸べる手や温かな心遣いを嘲笑う事を選ぶしか出来なかったのだ。
 それを酷い罪悪、或いは溺れる程の誘惑と感じたからこそ。
 それをも含めて、全てを大神マサオミと云う存在として受け入れる事を選んだヤクモの事を彼は許す事が出来ず、故に、赦しを欲したのだろう。
 気概はあったが、実際にマサオミの選んだ行為(手段)に対しては、ヤクモも衝撃を受けたし、純粋な躊躇いのない殺意に対して恐怖も抱いた。疵も負った。
 然し、だからこそ伸ばした手を翻す心算は無かった。
 伸べた手は握り返されるどころか、乱暴に引き寄せられた形になったが、それこそが確かな証明でもあったからだ。
 救われたい、と望む心の。
 相対しただけでは望まれなかったその本心の。
 「………勿論、救えるなどと思い違えてはいない。だから、少しでも彼奴の心を楽に出来るのであれば、それで良いんだ」
 ヤクモは闘神士であり人間だ。万能の神でもなければ、叡智の救世主でもない。
 それは──人のひとりさえをも救う事など出来ないと云う、事実。
 闘神士としての能力が群を抜いていても、その力はマサオミに何をも与える事も、もたらす事も出来はしない。
 故に、苦しむ彼に全ての誠意を捧いだのは当然の道理。『そんな事しか出来ない』からだ。
 「それに」
 小さく続けてヤクモは立ち上がった。式神達と会話を交わす間に、身体の倦怠感や疲労はもう引いている。
 身の疵を。心の、痛みのない悼みを。抱える様に自らの肩に逆の腕を寄せて、目蓋を下ろした。
 これが恐らく、最も非道い瑕。

 「彼奴が救われる様にと望む俺が、彼奴の希望と縋る手段を打ち砕こうとしているのだから」

 世界と、ひとりのひとは、決して量り比べる事など出来ないと云う、致命的な瑕。
 救いとして捧いだ身を、眠り目が醒めた後には真逆に、そうはさせまいとこうして動かすこと。
 どちらも違え様の無い本心で、どちらも選ぶ事の出来ない選択。
 故に、慰藉などではなく──これは、贖罪なのかも知れない。と、思いながら。救いようのない齟齬と偽善と、寄る辺のない虚しい誠意と己の心とに向けて、ヤクモは苦く微笑んだ。
 



これまでのマサヤク補足、ヤクモの本音……つーか今までの繰り言はいらないよってぐらい簡潔にまとまりましたよ…?
壁に目あり障子に耳あり神操機に式神あり。闘神士の皆さん、色々大変そうです。

狭い器のなかの、野放図にされた単一世界。