不携帯癖



 「おいヤクモ!何で電話に出なかったんだよ!?何遍掛け直したと思ってるんだ!」
 結構な勢いで二本の腕が降って来るのを気配で察した瞬間、ヤクモがした事は手にした文庫本を素早く待避させる事だった。
 だむ、と体重を込めた両掌が叩き付けられた卓袱台は反動で大きく揺れ、中身の少なくなっていた湯飲みを勢いの侭に転がした。素早く起こすが僅かに溢れた茶が卓を濡らすのを見て、本を避けておいて良かったと小さく吐息。何せ今日買って来たばかりの最新刊である。潰されるのも濡らされるのも願い下げだ。
 頭の上へと持ち上げた手(と本)をゆるりと下ろすと、ヤクモは眼前でこちらを睨み据えているマサオミへと意識を戻した。珍しく可成り本気で怒っているらしく、卓袱台に叩き付けた腕の先では怒りにふるふると震える肩が強張っている。
 「……そう云われてもな…。持って出るのを忘れたら仕方がないだろう」
 どうせ云われるとは思っていたが、此処まで怒りを買うと云うのもよく解らない。一応正直に言い分は述べるのだが、どうやらマサオミの方はヤクモの言い訳を聞きたい訳ではなく、単純に過失についてを責めたいだけの様で、猶も苛々とした様子で続けて来る。
 「〜俺がど・れ・だ・けっっ!心配したと思ってるんだ…!」
 「近所に出掛けるぐらいで大袈裟な。大体その『心配』と云うのは何なんだ具体的に」
 「例えば迷子になったり。例えば痴漢に遭ったり。例えば…」
 べし。
 「殴っても良いか?」
 「………………殴ってから云うな。兎に角だ、色々と不都合もあるし、ちゃんと携帯ぐらいは持ち歩いてくれよ。んで出てくれ。電源オフだったとかお約束のオチは禁止」
 紅くなった頬を軽くさすりながらも釘を刺し続ける事を止めないマサオミに、ヤクモは正直な処を隠さない怠い視線を向けた。
 こいつは本当に千二百年前の時代の人間なのかと、思えば思う程に馬鹿馬鹿しささえも時に憶える。下手をすれば正真正銘現代っ子のヤクモよりも余程文明の利器に馴染んでいるのではないだろうか。
 「伏魔殿歩きなどしていたから、連絡の不便さが普通に染み付いているんだ。携帯電話なんて持ち歩かなくても別に困らないと云う認識が未だ離れない」
 圏外確定の伏魔殿へと携帯電話を持ち歩く習慣など、ヤクモでなくともあろう筈もない。
 そもそもあの頃は伏魔殿の内部であろうが外部であろうが、ヤクモは単独で動いている事が殆どであった為に、連絡や伝達を特に誰かと交わさずとも別段困らなかったのだ。仮令伏魔殿内部で電話が通じるなどと云う不条理が起こっていたとしても、己が携帯電話を持ち込んだとは到底思えない。
 そんな想像を踏まえての本音に、然しマサオミの怒りは冷めやらぬ侭。暫し、何をこれ以上ヤクモへと言い募っても無駄だろうかと慮る様な呻き声の漏れる葛藤の後。
 「俺・が・困るんだ!!〜そうだ良い事思いついた、ちょっと待ってろ!」
 「お、おい…?」
 ひととき絶叫してから、不意に手をぽん、と軽く一つ打ったかと思うと、マサオミはポケットから財布を確認するなり慌ただしく吉川家を飛び出して行って仕舞った。
 嵐の様な勢いを呆然と見送るしか無かったヤクモは、一連のマサオミの手前勝手に過ぎる行動と言動とに、今更の様に少し眉を寄せるのだった。
 
 *

 物語の輪郭が定まり、漸く展開が面白くなって来た頃に邪魔は入った。
 マサオミが居間にどかどかと入って来た事には気付いてはいたが、本の内容が丁度良い処だったのもあってそちらに意識は殆ど向けなかった。
 現状を脳で咀嚼し、先の展開をその端で想像し味合う。正に物語へと没頭していたヤクモの鼻面に、ずい、と無粋に思えるオレンジ色の鮮やかな色彩が入り込んだ。
 むっとしたヤクモは、あからさまな闖入者へと出掛かった言葉を然し寸での所で呑み込んだ。文庫本の書面と顔との間に差し込まれたその物体の表面に表示されていたデジタルの数字が偶然目に入った事で、漸く先程までの遣り取りを思い出せたからである。
 読み取った時刻は、丁度マサオミが飛び出して行ってから一時間少々と云った所だった。『ちょっと』と云う割には少しばかり長い時間を待たされた事になるが、実の処ヤクモは読書に没頭しており、今の今までマサオミの事を忘れかけていた。
 目の前でぷらぷらと揺れるそれに促され、ヤクモはそのオレンジ色の四角い板を手に取った。薄く、真新しいそれは、まじまじと観察する迄もなく携帯電話である。
 「何だこれ」
 「買って来た。こっちも。同型でお揃い」
 故に浮かんだのは物体としてではなく意味としての疑問。その問いに簡潔に正しく答えを寄越すと、マサオミはヤクモの眼前へと、全く同じ色、同じ形の携帯電話をもう一つ、取り出して示して見せた。
 「……で?」
 そんな行動も言動も腑に落ちず、ヤクモが首を傾げると、マサオミは彼曰く『お揃い』の携帯電話をそれぞれ指し、その指先をその侭ヤクモの眼前へと突き出してくる。
 「良いか、これからはこの携帯が俺とアンタの専用機だからな!もう俺の番号は登録済みだから知らぬ存ぜぬは無し!」
 「はあ…」
 「これでもう連絡の不行き届きなんて事は無くなるな。うん安心安心」
 呆気に取られ、何と返すべきかに悩んだヤクモを置き去りに、マサオミは上機嫌そうに頷くと鼻歌などを歌いながら台所の方へと消えて行く。恐らくはお茶でも煎れに行ったのだろう。
 そんなマサオミの様子を半ば呆然とした侭見送ったヤクモは、今し方『専用』などと指定され手渡された、真新しい携帯電話を指で摘むと、何とはなしに裏表に返して眺めてみた。
 何度見ても間違いなく携帯電話である。今ヤクモの使用している折り畳み式とは違う、スライド式のものだ。見覚えのそこはかとなくある外見は、確かCMか何かで見た記憶がある。と、なるとそれなり新しい機種だろうと思われた。しかも新規契約。考えれば考える程マサオミのしている事が良く解らなくなって首を傾げたくなる。
 長い時間をかけて出たのは、結局溜息ひとつ。
 「…………結局俺が元より不携帯電話だと云う事の解決には何もなって無いんじゃないか、これ……」
 不審そうに呟いてみるが、同時に、彼奴が何やら勝手にやった事だし放っておけば良いかと云う結論が出て、ヤクモは真新しい携帯電話をくるりと軽く回すと、取り敢えず適当に卓の下の方に放り、さっさと文庫本の読破に戻って仕舞う。
 
 マサオミがその欠点に気付いたのは、翌日、着信音が卓袱台の下から響いて来た時だった。




時代のズレはサ○エさん式で。ガラケーの時代でした。
うちのヤクモは歴史物大好きらしいので、読んでる本は多分歴史ドラマもの。