怒りだったのか、それとも悔しさだったのか。
 激しい熱に噎せ返りながら、衝動の侭に手を──届かぬと知りつつも、伸ばした。

 いとも簡単に手から離れたその生に、抱いたのは恐怖。再びの喪失の。


 
  解熱の夜



 ふと見下ろした己の影の長さを目で追い、その侭顔を地平に沿って持ち上げる。そうすると後方からのあかいひかりに灼かれた街が、一日の残照を受けて金色に染め上げられている有り様が視界に映り込んだ。
 逆光の照り映えが家々の屋根を白く見せており、目に眩しい。もう少し上を見れば、東の空の縁は既に夜の近い群青色。
 長い一日だったが、こうして全てが終わってみればいつもと全く変わらない夕暮れ時を迎えている。僅か前まではこの空も大地も全てが『無』に沈もうとしていたと云うのに。まるで嘘の様な。
 いつもと変わらぬ日常の一幕を象徴するかの様に、家路を急ぐ子供らがはしゃぎ合いながら横をすり抜け走っていく。
 そう云えば幼い頃は、陽が沈んで楽しかった一日が終わって仕舞うのが惜しくて、夕日を飲み込もうとする地平を追って走った事もあった。今云えば笑い話でしか無いが、あの頃は、陽にさえ追いつけば一日は終わらないのだと信じていた様な気がする。
 とは云え逆に東へ歩いているからと云って日の入りが早くなって仕舞う訳でもない。極端な距離を移動でもすればともかく、こうして歩調ゆるりと歩いている程度では夜も早く訪れはしないし、夕暮れも長続きしない。
 この一日が己の歩く方角になど関わらず、いつも通りにこうして沈んで行く──たったそればかりの事象が、今は何故か妙に安心出来た。
 存在する概念そのものを停止させられていた人々や街の営みも、想像していたより大きな混乱は引き起こさなかった。時間の意など無い『無』に空間ごと包まれていた世界に於いては一分一秒の経過も少なからず自然現象ではっきりと知れる程には動いていなかったのだ。人々にとっては「一瞬意識が飛んだ様な?」と云う程度でしかないだろう。
 あと僅か。僅かでも、自分達の勝利(と言い切るには抵抗があるが)が遅れていたら。僅かにも、無を支える力が失われていたら。
 そうだとすれば、こんな『いつも通りの』黄昏時などは来たり得なかっただろう。世界は渺茫たる無の地平へと沈んで──全てか一部かが、失われていたのかも知れない。
 そう考えると、改めてあの戦いのギリギリの苛烈さを思い知る。
 此処に来て初めて知る事となった、背中へと掛かる重みに、強いられた犠牲を思い知る。明確な犠牲と消えた訳ではないとは云え、この重さ(或いは軽さ)こそが払った負債の一つであるからだ。
 故にこのいつもと変わらぬ日常の日の入りの有り様を惜しむ。様々の犠牲の上に取り戻した世界を、いとおしむ。
 「そうだなあ、頑張り屋さんには功労賞でもひとつ、って所ですかね」
 そう、特に意味もなく──感慨に似た言葉が漏れた。よ、と、背に回した腕に改めて力を入れ直す。
 「……何か云ったか?マサオミ」
 ぽつり、と返される言葉は、常に彼に抱いていた印象からは大きくかけ離れて、疲労の質が濃い。声音同様殆どまともに機能しなくなっている身体は脱力しきっていて、少し背に重かった。
 「別に。それより本当に大丈夫なのかヤクモ。この侭休んじまっても良いんだぜ?」
 それでもそんな不安は微塵も見せず。マサオミは己の背中に負ぶさる形になっているヤクモへと殊更に軽く云うのだが、返るのは否定の気配。余裕があればかぶりでも振っている所だろうか。
 「いや、今意識を失ったら恐らく三日は軽く目を醒まさなくなるから起きてる」
 これもまた何処かマサオミ同様に、強がる…と云うより、弱さを見せない質の云い種だ。淡々とした口調は、そうと明かに知れる程に──疲労と憔悴を漂わせていると云うのに。
 「…随分具体的ですね。経験でも?」
 「まさか。ここまで気力体力共に空になったのは流石に初めてだ。だがこの侭ならなさでは軽く昏睡ぐらい出来るだろう自信はあるからな。
 家の方にも戻らない内にこんな所で寝込む羽目になったらリク達に迷惑がかかるし──何よりとうさんやイヅナさんに何て云われるか」
 苦笑混じりに呟くと、溜息ひとつ。マサオミもそんなヤクモの有り様を背中と云う至近距離で過分に感じ取って、同じ様な溜息ひとつ。
 気丈と云うよりは寧ろ気概かも知れない。自分の家族やリクらに迷惑がかかるからと、今直ぐにでも手放したいだろう意識をこうして保っている、などと。全く殊勝にも程がある。
 そんな強い呆れを更なる重みの様に感じつつ。マサオミは再び、琥珀色の残照に晒される空を見上げた。その動作で、項で縛った髪が触れたのか。背中から吐息に似た声。
 「髪がくすぐったい。ちゃんと前を向いて歩け…」
 「悪いね。て云うかアンタ益々眠そうなんだが。無理しなくて良いから休んだらどうだ?どうせアンタん家の方まで俺も同道する事になる訳で、面倒ぐらいなら俺が何とか」
 「電車にも禄に乗れない奴が何を云うんだ」
 ふ、と鼻にかかった微笑の声にマサオミは一瞬、仕舞ったと思う。
 どの道自分ではどうやら、この生真面目且つ殊勝に過ぎる闘神士を休ませてやる事は出来ないと云うのは理解済みだ。今更何を気遣った所で、結局最後まで救われながら──世界ごと救われながら。未だなにひとつをも返せていない現状を思い知るばかりでしかない。
 何せ相手は筋金入りの、自己の犠牲すら厭わぬお人好し様だ。借りを──恩を返すに足りるのは、今の自分では未だ遠過ぎる。そんな、棘に似た悔しさ。
 とは云え、本人に云わせれば『自己犠牲だなんて自惚れた事は思っていないし、ちゃんと帰れる勝算があるのを信じていた』だそうだが。
 「救世の勇者を気取った様に見えるかも知れないが、意外と俺は打算的だぞ?」
 などと付け足す様に云って笑っていたが、マサオミには確信があった。ヤクモは恐らく、あの場でリクらに勝利の要因が欠片も無かったとしても、その『有り得ない希望』を信じて同じ事をしていただろう、と。救いが果たして無くとも、限りなくそれに近づける結果の為なれば、己が身の犠牲さえ厭いはしない奴なのだ、と。
 そうでなければ、つい先程まで敵だった相手に、未来(さき)など託して行くまい。最後まで信じて止めてくれようなどとは、すまい。
 そんな人の有り様を目の当たりにして仕舞ったから──逃げも、引き返せも、出来なくなったのだ。
 何の疑いもなく信じたあの目を。擲った献身を。捧いだ犠牲を。無為にする事など、決して許されはしないのだ、と。思った。
 感じたのは清々しい迄の完敗。得たのはこの存在を失いたくないと判じた心。
 これが惚れた弱みと云う奴なのか、完全敗北にあってマサオミの心は寧ろ晴れやかに過ぎた。故に、こうして背負われながらも何とか未だその勁さを保ち続けようとするヤクモの心を曲げさせてみたかった訳なのだが──連戦連敗、否、既に不戦敗の様相ですらある。
 「マサオミさん、大丈夫ですか…?」
 気付けば足が遅れていたらしい。不意にかけられた声に顔を起こすと、少し先に立ち止まってこちらを心配そうに振り返るリクとソーマの姿がそこにあった。
 「大丈夫大丈夫。こう見えて結構力仕事は得意だからね、ヤクモの一人や二人軽いって」
 マサオミと殆ど身の丈の変わらぬ筈のヤクモだが、鍛えている割には身自体が薄く、想像よりも幾分軽かった。以前成り行きで介抱する羽目になった地流闘神士ハヤテの方が重量としては明かにあっただろう。
 とは云えそんなヤクモの重量でも、二人分になったら流石に無理も無理過ぎる訳だが──無論そんな考えは表情にも態度にも全く出さない。つまらない事ではあるが、同年代の男としての矜持(と云うより強がり)である。
 余談ながらマサオミは当初横抱き(俗に云うお姫様抱っこと云う奴だ)で運ぼうとしていたのだが寸前でそれを察したヤクモに、絶対零度の会心の笑顔と云う一見矛盾していそうな、兎に角背筋の冷たくなる様な表情をされたので断念した。
 なおマントやら、装備一式はリクが預かって運んでいる。あの伏魔殿専用の格好で町中を運ばれるのは流石に全力で厭だったらしい。
 「そうですか、良かった。ヤクモさんは、」
 「大丈夫ですか、ヤクモさん」
 マサオミの言葉を額面通りに受け取る、実に素直な天流宗家リクは続けて、背負われたヤクモの方を伺う様に首を軽く傾げる。横でソーマも自然と同じ様に。
 「ああ。些か情けない格好だが俺の方も平気だ」
 二人を安心させようと云う意図の知れる、先程までとは異なりちゃんと感情を真っ当に込めた言に、思わずマサオミの口元に苦笑が浮かんだ。何処までも殊勝な事である。
 余裕もないだろうに、ひらひら、と軽く手を振っているその様子には、傍目では全く無理など無い様にしか見えず。その在り方のアンバランスさを受けて、マサオミの腕に僅か力が込もった。感じたのは微細な苛立ち。
 「よし、何にしても早く戻ろうぜリク。ヤクモさんは元より、マサオミの奴だって疲れてるだろうし。いい加減ナズナの方も『準備』とやらが出来てるだろ」
 一瞬陽入りの近い空を見やり、助け船の様にソーマが云う。時刻は既に伏魔殿から出て半時間程は経過していた。
 ボート部の面々も家族の事を案じて一足早くに帰宅しており、ナズナは皆の休息が速やかに摂れる様にと一足先に太刀花アパートへと戻ってあれこれと『準備』をしているらしい。当人も疲れているだろうに、その辺りは吉川一家の気性が染みついているのかも知れない。
 ともあれその為、少しゆるりとしたペースでこの四人は帰路に就いていたのだが、いい加減のんびりしすぎた感はある。
 「うん、そうだねソーマ君。じゃあマサオミさん、あと少しですから頑張って下さい」
 「はいはいオーケー、任されたよ」
 少し申し訳なさそうなリクの微笑みに片目を閉じて返すと、マサオミは完全な脱力状態に近いヤクモの身体を軽く背負い直す。
 抵抗も文句もないその身から感じられるのは、人としての憔悴と同時に──どこか虚ろな容れ物の様だ、と云う、曖昧な感想だった。

 *

 そうして太刀花アパートへと戻った四人を待ち構えていたのは、これでもかとしっかりと隙無く用意された早めの夕食と、適温に沸かされた風呂だった。
 更に居間もしっかりと片づけられており、僅か三十分足らずの間だと云うのに全く見事なナズナの手際を感じさせる。
 「用意も無かった為、あり合わせばかりになって仕舞いましたが…」
 それでいてそう、全力を尽くせなかった事を悔やむ様な消沈ぷりまで見せる訳で、ナズナの『家族』であるヤクモでなくとも思わず労ってやりたくもなると云うものだ。
 予想通りにかヤクモはナズナの頭を撫でて心からの謝辞を述べていた。同じ事をマサオミがやったら激しく嫌がられそうな予感はしたので、感謝は口頭までにとどめておく。
 「に、しても凄いじゃないか、短時間でこんなにしっかりとした食事を用意出来るなんて」
 「そうですよね。ナズナちゃん、本当にありがとう」
 「なあなあ早く食べようぜリク、僕もうお腹ペコペコだよ…」
 「はあ……貴方は相変わらず不作法な。然し今日ばかりは赦免致しましょう。怒って疲れるのも莫迦莫迦しいですから。どうぞ皆様、お席に着いて下さいませ」
 マサオミ、リク、ソーマと感想(一部除く)がぐるりと流れた所で、ナズナが流石に疲れた様子で、然しソーマを軽く睨む事は忘れずに。皆を促した。
 と、席には着かずヤクモが軽く挙手。
 「ナズナ、済まないが俺は食欲が無いから、後で頂くよ。先に風呂を借りても良いかな?」
 「え、ですがヤクモ様……、解りました、少々お待ち下さいませ」
 顔を上げたナズナは何かを言い募る様に視線を僅か巡らせるが、ヤクモとそれなり深い付き合いあっての経験からか、彼女の日頃の気質にしては珍しくあっさりと折れると、即時立ち上がり抽斗からタオルを持って戻って来る。
 「ありがとう。じゃあ行ってくる」
 「あ、ちょっと待てヤクモ。アンタその状態で自分の世話なんて出来るのか?手伝った方が、」
 「必要ない。自分で何とか動ける内にやっておきたいし。それにマサオミ、ナズナの食事を冷ます気か?」
 思わず腰を浮かせるマサオミを淡泊な一瞥で押し退けると、更に続けるヤクモ。
 「お前は丼のテイクアウトばかり食していたから知らないかもしれないが、身内の欲目を除いてもナズナの料理の腕は一流だぞ。美味しさが最も際立つ内に有り難がって食べていろ」
 「〜解った、解りましたよ。有り難くお相伴に預からせて頂く事にしますって。その代わり風呂場で倒れても知らないからな」
 他者を理由にしてまで(それが寧ろ本音そのものかも知れないが)のきっぱりとした拒否に、負けるとは半ば解りつつも挑んだマサオミは、ただ負けるのも癪だったのでついつい余計な悪態を足して仕舞う。
 此処まで拒絶されるとシタゴコロを警戒された様で、やさぐれたくもなる年頃なのだ。いや全く下心が無かったと云えば嘘になるかも知れないが。
 「安心しろ、お前の目の届く所ではそうそう失態なんて晒さないさ」
 嫌味か。素か。実に判断し辛い一言を投じて、ヤクモは風呂場へと向かって行った。
 その背を見送ってから、マサオミは座布団ごと反転、出来合わせの総菜が目立つとは云えしっかりと栄養を考え整えられた夕食に向かう。
 ヤクモの指摘通り、ここの所丼ばかりを食べていた為に、こう云った食卓は久々だし、何よりリクらと肩を並べ卓に今一度着いていると云う事自体にも複雑な喜びを禁じ得ないと云う本音もある。
 「さ。釘も刺されちゃった事だし、先に食おうか」
 「いっただっきまーす!」
 「…そうですね。じゃあ、いただきます。あ、そうだ、ちゃんとヤクモさんの分も別にしておかないと」
 「それはお任せ下さいませ。リク様はどうぞごゆっくり召し上がって下さい」
 云うなりナズナはマサオミの伸ばしかけた箸の先に合った煮物を素早く回収。皿は大きいと云うのにわざわざ狙ったものを取って行く辺り、何やら意趣返しめいたものを感じないでもない。
 のだが、状況が状況なので強くも云えず。マサオミは少し気まずそうに箸を噛んだ。手早いナズナの動きを黙って見送る。
 
 *

 結局風呂から上がったヤクモは、食事には殆ど手を付ける事が出来なかった。先程よりも増した様に思える、傍目に見てもはっきりと知れる顔色の悪さは今すぐ無理にでも寝かしつけたくなる程に、到底『元気』などとは云えない様相。
 それだと云うのに、秋口の風冷たい縁側に腰掛けぼんやりと空などを見つめている。
 風呂上がり、特に探すでもなくそんな背中を見つけて仕舞ったマサオミは、湿った髪をタオルで拭きながらその背にふらりと近づいて行った。
 「………アンタさあ、自分が要安静の重傷人って事忘れてないか?」
 「重傷とは云っても我慢出来ないと云う程大袈裟でもないが、寧ろ忘れられるものなら忘れていたいぐらいだな。止痛に符を扱えないと云うのは結構堪えるものなんだぞ?」
 応えながら、本当に億劫なのか、ヤクモは夜空から視線すら外さずに肩をほんの僅かだけ竦めさせた。その様子を、引きつる眦を感じつつも見ると、マサオミは溜息にもならない息を軽く吸った。吐く。
 色々と云ってやりたい事は山ほどあるのだが、ヤクモが意図して行っている『大丈夫』な挙措であるのなら、それを崩すのはどうにも忍びない。
 居間にはマサオミとヤクモの他にもソーマがおり、卓についている。何やらノートパソコンを忙しく叩いているが、周囲に全く無関心と云う訳でもなさそうで、ちらちらと時折こちらを伺っている。
 年下の子供の手前、と云う部分を除いたとしても。ヤクモはナズナやリクばかりではなく、ソーマにだって勿論無用な心配をかけたくないと思っているだろう。
 そこに来て色々と、彼の尽力している『無理』を指摘するのは宜しく無い。
 さてどうしたものか、とマサオミ。片手間の様に自分の髪をタオルで拭きながら、意趣返しにはならない程度に、然し釘を刺すぐらいは出来ないかと思索を始める。と、
 「ヤクモさん、解りましたよ。ええと、天神町の駅から七時十分発の電車で──」
 空いた間にタイミング良く、液晶画面と睨めっこをしていたソーマが顔を起こした。画面を見ながらあれこれと云うのに、縁側のヤクモが半身を振り返らせ聞き入る。どうやら京都へ戻る為の電車の時刻表でも調べて貰っていた様だ。
 「ありがとう、助かったよ。所でソーマはどうやって東京へ戻るつもりなんだ?」
 「途中までは同じ電車で行きます。経由駅で東京と京都と、別々になっちゃいますけど…」
 「そうか。なら途中までナズナとも一緒だな」
 「っべ、別にナズナはどうでも…」
 解り易いと云うか多感な年頃と云うか、真っ赤になるソーマにくすくすと笑いを返すヤクモ。人が悪いと云うより寧ろ鈍いと云うべきなのか。ナズナの心境を思い浮かべるとマサオミは実に複雑な表情になるのを禁じ得ない。
 「駅まではそう遠くなかったよな?時間になったら出るから、準備は今の内にしておいた方が良いぞ」
 「あ、そうですね。荷物とかまとめないと…。大きい物は後でリクに送って貰っても良いし使って貰っても良いし………あ、その前に兄さんに連絡入れないと」
 素早く話題を切り替えたヤクモの言に、思い出した様に手を打ちソーマは立ち上がった。ポケットから携帯電話を出すと、ぽちぽちと操作しながら居間から出て行く。
 電話をかけたのか、喋りながらその侭遠ざかっていくソーマの気配を送ってから、マサオミは神妙に己に頷いた。縁側を振り返ると、ヤクモは既に室内から視線を外して、再び夜空にぼんやりと見入っている。
 「あのな。気を遣われるのが厭だって云うならもう少し自重しろよアンタ」
 その背に、何処か投げ遣りに、然し忌憚なくそう声をかけると、意外な事にもヤクモは頭をマサオミの方へと巡らせて来た。表情は瞠目。心底の疑問符を浮かべた琥珀の瞳が軽く瞠られている。
 「……何の事だ?」
 「…………〜だから。寝て休む気が無いとしても、身体状況を休ませる事ぐらい出来るでしょうが、って事」
 その様に酷い疲労感を憶え、マサオミは自然な動作で縁側へと近付くとその侭ヤクモの横に腰を下ろした。瞠られた目がその動作を追って、今は隣の至近距離で瞬きをしている。
 「っっておい!?髪も濡れた侭じゃないか!何やってんだアンタ一体!!」
 近くで見ると癖の強いその髪がまだじんわり湿っている事に気付き、マサオミは泡を飛ばしながら自らの首に引っかけたタオルを外して持った。両手で少々荒っぽくヤクモの頭を掴んでわしわしと拭いてやり始める。
 (何でこのお莫迦さんはこうも妙な所手間がかかるんだか──!)
 自分の事をそれなり棚に上げて心中で絶叫しつつ、今度こそ誰もいないのを良いことにかなりの意趣返しの意を込めて乱暴に拭きたくる。
 「こら、痛…、」
 ぐ、と息を呑む様な反論。声を張り上げ怒鳴りたくとも、肺と横隔膜への負担に加えてここがリクの家である事を懸念しているのか。
 頭を押さえられる形になって身を竦める様な姿勢でいたヤクモの、縁側についていた後ろ手が妙な震えをした事に気付くと、マサオミはタオルを彼の頭に残した侭、手だけを離した。代わりに背中を支えてやり、倒れ込むのを防ぐ。
 「大丈夫か?」
 「…………………礼など云わんぞ。誰の所為だと思ってるんだ……ッ痛、」
 些か凶悪そうな視線を向けてくるものの、自らの身体を支えようと腹筋に力を込めた途端に、傷に障ったのかヤクモは寸時苦い表情で呻いた。目線に色々と込めて厳しく睨んで来る。
 「謝る気なんざないからお相子。自重しなさいって云う俺からの薦めだから心して受け取って下さいよ、と。ほら」
 そんな視線を、ふん、と軽く鼻息で吹き消すと、マサオミはヤクモの背をそっと元の角度に戻してやってから、落ち着くまで待ってやる。
 「これだけの重傷で、この上更に風邪まで引いてたら世話ないぜ?」
 「そこまで柔に出来ていない」
 「それは普段のアンタの場合、だろ。気力も体力も人並み以下にしか残ってない今のアンタには通じないね」
 ぼす、と再びヤクモの頭の上のタオルに手を置くと、一転して今度は丁寧な動作で髪から水分を吸わせながら、マサオミはあからさまな溜息をついた。正論だと思ったのか、それとも単純に面倒になっただけなのか、ヤクモからのそれ以上の反論はない。
 「そもそもアンタは自分の痛みに疎すぎる。他人へのアンテナは鋭い癖にな」
 そのヤクモの様子を都合の良い方に取ったマサオミは、顔を顰めながらそう吐き出した。以前から薄々と思っていた事なのだが、この一連の騒動で確信に至って仕舞っていた感想である。
 「他人や世界を守るったって、そもそれは大前提として、自分って存在が満足でないと出来ないって事を解ってるのか?そんなのは単なる犠牲と自己満足で、無駄死にだ。残された者達を悲しませるだけ、余計にタチが悪い。後顧の憂いが無いとか云えるのはやった本人だけだろうが所詮」
 言を継ぐ内自然と剣呑な表情になる己をマサオミは自覚していた。
 守る為、と自ら捧ぐ犠牲は、余り良い記憶をもたらさない。
 姉は自分や子供達を守る為に自らを省みず戦い、結果斃れた。それは自分が倒れる事を決して前提としたものではなかったが、それでも──それさえも、恐らくは選択としてあったのであれば、厭われなかっただろう。
 思い出すのは、守られるしかなかった無力だった頃。取り戻す為に力を欲した、切実な願い。
 そんな暗い記憶の淵に投げかけられるのは、宥めるでも否定するでもない、淡々とした言。
 「……マサオミ。お前は少し思い違えをしているぞ。さっきも社で云ったが、俺はリクやユーマやお前を信じていたからこそああする事が出来たんだ。現にその時間稼ぎだって役に立っただろう?」
 「論点を逸らすなよ。俺はな、アンタが結果を仮令信じていたとして、自ら犠牲になりに行った事についてを抗議しているんだ。
 そも、その『結果』もあの時点では不確定以上に宛にならなかった筈だ。だ、って云うのに何であの時あんな手段を選んだんだよ。未だ俺が改心したかどうかも解らない様な状況で」
 解せないのはその一点。ついぞ先程まで敵として相対していた者を然し信じて、正して、保証もない『先』ひとつを残して自ら犠牲になる事を選んだ──愚直な迄の心。
 そんな得体も知れない心に然し『負け』た事実。
 それは紛れない完敗宣言ではある。問うだけ愚かでしかない。寧ろ言を重ねれば重ねるだけ、単なる八つ当たりと諦念になる類。
 「それも含めて『信じて』いたからだ、と云ってるだろう」
 予想通りに。平然と、こともなげに返して来るヤクモの言がマサオミの苛立ちを煽った。喧嘩腰になっていると何処かで思ったが、制止しかかる感情をねじ伏せて、殊更にヤクモの事を睨み据える。
 「〜だから!云っておくがその予想は外れてるんだぜ。俺は一度は戦う事も止めようとして、リクに神操機を返しもしたんだ!そんな奴を、何でアンタは『信じて』、あんな事をしたんだよ!
 そんな不確定な、身勝手な確信だけで自らを擲つなんて、間違ってるだろうが…!」
 声音はそう大きくはならなかったものの、結構な勢いでそう捲し立てたマサオミを、ヤクモは暫く瞬きを繰り返して見返していたが、やがて。
 「…………ひょっとして心配してくれていたのか?」
 「……………………アンタ、人の話聞いてた?」
 「怒らせた理由が見当も付かないからな。議題的に平行線になるしか無いのは承知の上だろうし」
 そう、嫌味の無い苦笑で云うとヤクモは小さく息を吐いた。湿った前髪の隙間から覗く表情はよく伺えなかったが、肩をはっきりと竦めた事で知れる。どうやら呆れているのだろうと。
 結局の所完敗具合は全く変わっていない現状。それが──半ば諦めつつも矢張り男として悔しいので、ついつい余計とは思いつつも愚痴めいた抗議が止まらない。ついでに自然と、髪を拭いてやる手に力が僅かこもる。
 「それにだ、心残り無く全てを託すって云うなら伝言ぐらいもっとはっきりしろよな。何が『極めし者だけがウツホを止められる』だ。あんな大事なグッドエンドフラグのアドバイスならもっとはっきり云えっての」
 ヤクモのこの助言の意味を取り違えていたユーマやマサオミは、危うくウツホを鏡合わせの印で再びの封印に陥れる寸前にまで行きそうになった。リクがその事に気付かなければウツホは失意と憎悪の侭再び封印され、悲劇はまたいつか繰り返される事となっていたのかも知れない。
 「? 充分過ぎる程核心しか語っていないと思うが。式神との絆を極めたお前達なら、とも、ちゃんと云っただろう」
 力の強くなったマサオミの手元を少し迷惑そうに見上げながら、ヤクモがあっさりと云う言葉に。マサオミは思わず記憶を反芻して仕舞う。
 思い起こせば確かにヤクモは「ウツホを封印」だの「ウツホを倒す為の力」とは一言も云ってはいなかった。『止める』と云う意味を正しく解していれば、紛れなくリクの取った選択が最も合致している。
 「〜解り易さの問題だ」
 「極神操機を覚醒させた、式神との絆を知ったお前達ならば、決してその意味を取り違えもすまいと思っていたからな」
 「……そら未熟者で申し訳ありませんでしたね」
 ヤクモの、笑みを隠さない挑戦的な言い回しにマサオミは真っ向からむくれた。ぺし、と軽くタオル越しにヤクモの頭を叩くと手を退け、組んだ膝の上で頬杖をつく。
 放り出されたタオルを自ら除けると、ヤクモは乱れた髪をいじくり回しながらそんなマサオミの横顔に視線をちらりと投げて来る。目を逸らして仕舞ったから表情までは伺えないのだが、恐らく様子からして呆れているか笑っているかのどちらかだろう。
 そんな直ぐ隣の視線を感じながら、漸く落ち着いて来たマサオミは、我ながら大人気ないにも程がある、と鼻の頭に皺を寄せた。
 苛立ちの原因は明らかだ。──不可解。
 敵だった己をも信じたその気性と、それ故に犠牲と成り得たのだと何の衒いもなく云う心。それでいて──何を告げてもどんな状況でも揺らがない人の有り様。
 今だからこそ結論として判じる事が叶ったのは、敵として、ではなく。仲間と云う陣営にあっても弱さや寄る辺を求めていないと思い知った事実。
 つまり、ヤクモはマサオミには決して寄りかかってはくれないのだ、と云う。単純な悔しさと納得の混在した遣る瀬の無さである。
 「そんなに独りで無理して立つ事も無いだろうに…」
 やさぐれかけていたからだろうか、つい、思っていた事が口からすんなりと出ていた。それを受けてヤクモは再び瞠目し──それから、少し不安定な質の笑みを口元に乗せ、云う。
 「誰にも頼る気が無ければあんな事はしない、と云っただろう。俺はお前が思い違えをしている程に、強くも万能でもないさ。時には皆に助けて貰うし、それに甘んじる事だってある。別に俺は一人で戦っている訳じゃないんだからな」
 「……ご冗談を」
 謙遜でも嫌味でもない質の声に、思わず真顔になって返して仕舞う。浮かぶのは常に毅然と。ひとりで揺らがない、強者の孤独の様な中に立つ筈の闘神士の姿だと云うのに。相対するは酷く普通の青年の微笑。
 「闘神士も只の人間だ。式神が居るからと云って万能の強者になる訳でもない。それに、今さっきお前が云ってくれたばかりの事だが、闘神士としての力を疲弊した今の俺はこの通り只の怪我人で。この侭だと風邪だって引くかも知れないんだろう?」
 そうして再び目を藍色の夜空へと向ける、横顔。刻まれた口元の歪みが笑みなのか拒絶なのかはよく解らない。
 「……………」
 謙遜か嘘にしか聞こえない、と云うのが本音だったが、目の前でそうと云われて放っておける程にマサオミは性格の悪い質でもない。無言で立ち上がると、居間の鴨居に掛けてあったいつものジャケットをハンガーから抜き取って縁側へと戻り、確かに少し寒そうに見えるヤクモの肩の上に羽織らせてやった。
 「貸しといてやるよ。だから風邪も引かないでくれ」
 ぽん、と肩を一つ叩くと、マサオミはその侭ヤクモに背を向けて座り込んだ。背中から振り返る様な気配は感じるが応えもせず。やり場のなくなった感情を溜息にして吐きだす。
 遠い様で近い。悔しい様で嬉しい。苛立ちながら──酷くそれに安堵している。それは何処をどう突いた所で、情けないかな『惚れた弱み』にしかなりそうにない。その一方でマサオミの一喜一憂になど関わらずに恬淡と在り続けるヤクモの姿は、成程己で判じたその通りに、関わらずも変わらない。意志が強く他者に甘く己に鈍感な、紛れないひとりの人間であるのだと云う事。
 触れそうで触れない曖昧な彼我の距離は僅か数センチ足らず。然しこのほんの僅かな距離を埋めるに値する言葉は、マサオミの裡には存在しない。
 踏み出す一歩を遮る様に、ひとつあるのは慚愧に似た後悔。敵として相対し、焦がれた故にその存在を貶めた事。
 人として軽蔑されてもおかしくない、確かにそれは愛だの恋だのと散々謳う様に云っていた者のする事では無かった。
 いっそ激しく嫌悪して貰えれば良かったと、甘える様に思う。軽蔑の眼差しで拒絶してくれれば、と。縋る様に思う。
 然しヤクモは一切の抵抗無く、赦しまでも囁いて寄越した。敵として本格的に違えた後のマサオミを未だ、信じていてくれた。
 心が広い、とか云う問題では最早無いだろう。人として貶め敵として殺意まで向けた相手を、一体どうすればそんなに無条件に赦し信じられると云うのか。
 故に不可解。安堵と不安のない交ぜになったその感覚は、一言で云えば──罪悪感。
 「……然し、お前があそこで戦意を喪失するだろう事ぐらい想像に易かったが……。まさか己の式神(キバチヨ)まで手放そうとしたとは。流石に思わなかったかな」
 遠くから静かに掛けられた声の様に。不意に背から聞こえたぽつり、とした呟きにマサオミは思わずヤクモを振り返った。
 憔悴の濃い顔色は夜の暗さの下で猶精彩がなかったが、穏やかな表情ばかりは常の侭。金に似た双眸がマサオミの顔をじっと見て──不意に剣呑な色を瞳に灯した。前髪の隙間から鋭い眼差しが覗くのに射竦められた様に、思わず喉が鳴る。
 何処か非難する様な視線。或いは、これが──断罪なのか、と何処かで期待して。マサオミは戦く事も出来ずにただ続きを待った。
 何かしら、責める言葉の一つでもあれば、安心出来る様な気がした。
 (だって、そんなんじゃアンタは本当にまるで──偽みたいな存在じゃないか)
 だからどうか。願わくば罵ってくれれば良い。
 或いは決定的に拒絶されて仕舞えば──酷く傷つくだろう己は確かだが、その分、信じられる気がした。
 それとも、この熱に似た焦燥の求む甘えなのか。
 「式神を何だと思っているんだお前は」
 然し吐息の様に呟かれた言葉は実にヤクモらしいと云えばらしい。期待やら不安やら。外れた安堵やら。マサオミは思わず毒気を抜かれて肩を落とした。
 「って、怒る点そこだけなんですか…?」
 それに肩透かしの様なものを感じつつも。そんな風に滅多に激高しないヤクモが、然し腹に据えかねるといった調子で切り出した内容にどこかびくびくと聞き入る事にした。無論外面には全く出さず。
 思えば、怒りと云う質で云えば、予想外の所を突かれる方が余計に恐ろしい。
 然しまたしてもマサオミの警戒を裏切って、続く言は何処か軽く、甘い。
 「当然だろう。俺は別にお前が神流として敵だった事に関しては嫌悪も憎悪も抱いていないからな」
 「へ?それは異な事を」
 流石にこれには素で愕きが漏れた。ある意味核心である内容に、純粋に疑問符が浮かぶのだが。
 ヤクモが先程一瞬見せた剣呑さは『式神をなんだと思っているんだ』と云う件の一言の為だった様だ。続ける口調は既に平時の時のもので、怒りや嫌悪や──マサオミが期待し(或いは恐れ)ていた類にはまるで合致しそうにない。
 「余計なお節介と云われそうだが、そこが『放っておけない』処でもあった。お前は甘い甘いと云うが、俺はお前……と言うよりも神流と云う存在そのものと、和解したかった。連中が莫迦な事をしでかそうとするならばそれを止めなければと思うのと同時に、どうすればその莫迦な事をしでかさないで済むのかと考えていた」
 そうして浮かべる微笑は、苦笑ではなく自嘲。
 ああ、と。静かな得心に、マサオミの口元に自然と苦いものが浮かんだ。
 全てを負うこの人格が──己の負った疵についてをマサオミへと咎める事など、有り得はすまい、と。
 呆れた様な諦めた様な様子で。唾棄すべく感情を持て余して落とした肩は戻らない侭、マサオミは吐き捨てる様に呟いた。
 「…………アンタ、ご立派過ぎるねホント」
 お前とは出来れば戦いたくない、と。そう告げた通りに、最後までマサオミを止めようとした、単純な甘さ。
 かけられたのは同情でも情けでもない、真っ直ぐな慰藉であり誠意。
 そんな偽の様なひとは然し、こうして時に全く普通の人間と変わらずに其処に居て、喜怒も哀楽もあって、年下の子供の手前気を遣ったり張ったりしている。至極普通の。
 「闘神士として斯く在るべきだ、とまでは云わないが、力を持つ者としては当然の事だと思うぞ」
 己を律する事か、それとも他者を慮る事か。或いはどちらもか。
 微笑の乗った声音で云うとヤクモはふらふらと不安定な挙動で立ち上がった。壁に手を付いてバランスを何とか取ると、小さく嘆息。
 そのタイミングを見計らったと云う訳ではまさかあるまいが(或いはヤクモが見計らったのが正解か)、居間に小さな風呂敷包みを携えたナズナが入って来る。彼女は居間を軽く見回し、開け放たれた侭の縁側と、そこに背を向け座っているマサオミと、程無い距離に佇むヤクモの姿とを見て一瞬だけ大きく瞬きをした。
 何か意外性のある取り合わせだったのだろうか。然しナズナはそれに別段頓着する様子もなく、次の瞬間にはいつも通りの、少女の年齢に少しそぐわない凛とした表情に戻って口を開く。
 「ヤクモ様、私の方の準備は整いましたのでいつでも出立出来ます。この時間になりますと電車の方も本数が減って仕舞いますので、早めに出なければ今日中にご実家へと戻る事が…」
 「電車の時刻はさっきソーマに調べて貰ったから大丈夫だ。一緒に出るからソーマも今準備をしているし、リクもまだ風呂から出ていないしな。ええと、」
 そこで記憶を走査する様に頭を巡らせるヤクモに、察したマサオミが助け船を出す。
 「七時十分発天神町駅」
 「そう、それだから未だ時間はある。俺も未だ大丈夫だから、時間まで待っていよう、ナズナ」
 柔い笑みでそう締めると、ヤクモは縁側の戸を閉じた。先程立ち上がる時に見せた憶束なさよりもしっかりと歩いて、居間の卓へとつく。
 徹底していると云うか殊勝と云うか。ご苦労な事と云うべきか。ヤクモの横顔を軽く仰いで、マサオミは小さく肩を竦めて苦笑した。
 「そうですね。ソーマはともかくリク様にはきちんと出立をお知らせしなければなりませんね」
 「ソーマも途中の駅までは一緒の電車で行けると云っていたぞ。良かったな」
 「べ、別にソーマが居ても居なくても……〜そんな事より、今お茶をお煎れしますのでヤクモ様はどうぞお体を休めていて下さいませ」
 偶然にもソーマと同じ様な反応をすると、ナズナはヤクモを少し恨みがましげな上目でちらりと見やってから、誤魔化す様に咳払いを一つして席を立ち上がった。当のヤクモはくすくすと微笑ましそうに笑ってそれを見送る。
 その姿を更に見やって。マサオミは苦い溜息を吐いた。空回りをしているのはどうやら自分だけの様で、この居心地の良い家の中が、人の傍が、未だ何処か慣れて良いものか解らない。

 *

 電車の発車予定時刻の五分少々前。先程まで太刀花アパートの一階でのんびり茶などを楽しんでいた一同は、天神町の駅前へとその場所を移していた。
 これから来る電車に乗るのはヤクモとナズナとソーマで、リク(とコゲンタ)は見送り。マサオミはやはり電車に乗る気にはなれないのもあっていつも通りのバイクを押しながら歩いて同道して来ている。ちなみに、まだ足取りの危うかったヤクモはその後部シートの上に『置かれ』ていた。
 「それじゃあリク、暫く経ったらまた連絡を入れると思う。ユーマも含めて、まだまだ君達には宗家として事後処理が色々残っているからな。多少の面倒事は覚悟しておいた方が良いかもしれないぞ。コゲンタも、リクの事を頼むぞ」
 「はい、宗家としてまだ僕にはやらなければならない事があるでしょうから」
 『おう、それはお前に云われるまでも無いっての。お前の方も身体を大事にしろよ、ヤクモ』
 少し人の悪そうな笑顔のヤクモに、至極真面目に頷く少年と白虎の式神。
 「リク、僕も家に戻ったら一度連絡を入れるよ。ボート部のみんなにもよろしくな」
 「リク様、私は荷物の事などもありますのでまた後日一度戻ります。それまでどうかご健勝で」
 「うん、ありがとう、ソーマ君、ナズナちゃん。またいつでも遊びに来てくれて良いからね」
 子供達もそんな別れを交わし合う中。バイクのシートからマサオミに支えられながら降りたヤクモが、まだ己に掛けられた侭だった上着を返そうとするのを手で軽く制する。
 「貸しておくって云ったろう。京都(あっち)に着いたら返して貰うから遠慮するなって」
 「冷暖房完備の電車は兎も角、お前の方が寧ろ寒いだろう?」
 「弱ってるアンタに風邪引かれる方が困りますからね」
 マサオミは肩を竦めて軽く云いながら、ヤクモの背中の上着を掛け直してやる。
 余り厚手とは云えないジャケット一枚だが、あるのとないのとでは随分違う。確かにこの侭風を切って走る羽目になるマサオミの方が寒くなる筈なのだが、こんなもの一つだけでもヤクモの支えになれば、と。そんな淡い願いだ。
 少し反則だが、符を使って仕舞えば寒さを感じる事なく道路を疾走だって出来るのだし。
 マサオミ同様に恒常的に符の扱いに慣れきっているヤクモであれば、そのぐらいの事は直ぐに思いついただろう。普段であれば或いは「そんな事に軽々しく符を使うな」と眉を寄せたかも知れないが、今は別段追い縋る様子もなく。彼は目の縁を柔く弛めてジャケットの袷を軽く掴んだ。
 「そこまで云うなら有り難く借りておこう。……まぁ別に俺が風邪を引く可能性が低くても、」
 と、そこで一旦言葉を切って、ヤクモは子供らの方を軽く振り返った。その視線を追ってみると、目に涙を溜めたソーマと何やらまた言い争いを始めているナズナに、両者を宥めようとしているリク。呆れて溜息をつく式神達の姿。そんな今まで通りの光景がそこにはある。
 何て事もない様に。彼らのそんな様子を楽しそうに見つめながら、ヤクモは囁く様な声音で微笑んだ。云う。
 「お前に心配されるのは結構気持ちが良いからな」
 「……………………………………な、」
 想像もしなかった言葉に思わず絶句するマサオミに構わず、子供らの手前だからか笑い声は噛み殺して、伝説の闘神士様は悪戯っぽく笑って寄越して来る。
 「云っておくが度が過ぎるんだ。甲斐甲斐し過ぎて心地よさを憶える程に」
 未だ放たれた言葉の衝撃が去らない侭、ぱくぱくと口を開閉するマサオミに、少々その意を勘違いしたヤクモの言が続く。
 実際マサオミの心中状況はと云えば、決して不快や不満の類ではなく、意中の相手からの予期せぬ一撃に取るべき態度を計りかねていただけなのだが。
 「リク達や俺の一挙手一投足を計り過ぎだぞ今のお前は。あれだけの事をしでかした手前、気まずいのも不安なのも解るが──」
 そうして、その所為で負った筈の負債に侭ならない身を何の支えも無くそこに佇ませて。彼は年相応の飾らない、無理も負わないひとりの青年として、マサオミを静かに見据えていた。
 「気にし過ぎだ、莫迦マサオミ」
 もう誰もお前を責めたりはしないんだからな。と、少し真剣に立ち戻った声音で云うと、ヤクモはマサオミから離れ、相変わらずの言い争いをそろそろ互いの引っ込みがつかなくなりそうなレベルにヒートアップさせているナズナとソーマの元へと向かっていく。
 ヤクモの年長者らしい穏やかな態度で取りなすのに加え、口喧嘩をする当人達にとって彼が憧れや畏敬の対象にある事も作用してか、程なく収束する言い合い。式神達を交えて再びの穏やかな会話に転じたその様子を、マサオミは些か間の抜けた瞬きを繰り返して見ていた。
 指摘は全く違えていない。意識しない様に心がけていたが、確かにまだ自分には彼らに対する負い目がある。そうでなければ罪悪感など抱かない。こんな風に曖昧な距離を保って見守ったりはしない。穏やかな筈の空間に戻れた事を安堵などしない。
 (お見通し、って事ですか。本当アンタは他人の機微には敏感だよなあ……)
 胸中でやさぐれる様に呟いて、そろそろ時間だからと改札に向かう彼らに軽い笑顔で手など振り返してやりながら、マサオミは真横に居るリクには気取られない様にこっそり溜息をついた。
 「さてと。そろそろ俺も行きますかね」
 そうしてホームへと消えて行く彼らを見送ってから、似合わないとヤクモに曖昧に一笑されたヘルメットを人差し指の上で軽く回してから被り。マサオミはイグニッションに指をかけた。
 「マサオミさんも道中気を付けて下さいね。良ければ今までみたいにまたいつでも遊びに来て下さい。モモちゃん達もきっと喜びます」
 そこに、子犬の様に人懐こい微笑みを浮かべて見上げて来るリクの。そんな姿を少し複雑な表情で見下ろして。マサオミはヤクモの先程の言をそこに重ね、暫し逡巡してから問う。
 「なあ…リク。お前は…………俺達を恨んでいないのか?」
 寸分の惑いを、然し隠す事も出来ずに放たれた問いかけに、リクはぱちくりとその大きな瞳を瞬かせた。そして苦笑めいた表情を一瞬だけ浮かべ、次の瞬間再び見上げて来た微笑みは、偶然にも先程ヤクモの見せた質によく似ていた。
 「恨むか恨まないかって云う点で云えば、マサオミさんが僕たち天流やソーマ君たち地流を恨んでいた、って云うのがそもそも僕らが知る事の出来なかった事で、天地の流派の過ちや神流の人たち、歪んだ歴史やウツホさんの事を思えばそれも当然なんだと思います。
 だから僕にはマサオミさん達を恨む理由はありません。確かに神流の人たちは酷い事をしてきたのかも知れない。だけど……それでまた僕たちが憎しみを憶えちゃったら、いつまで経っても闘神士は、式神は、仲良くなんてする事が出来なくなっちゃいます」
 この大戦と云う苦境に遭って、幾つもの犠牲や哀しみや戦いの果てに、天と地の流派は和解する事が出来た。それは闘神士達にも少年達にも、痛みの末の成長をもたらした。それは皮肉だが確実な成長だった。
 今目の前でその結果を示す様に、真っ直ぐな視線で見上げて来る天流宗家は──嘗てマサオミの憎んで来た天流と云う存在とは、既に違う。
 「それに僕は、マサオミさんは良い人だってずっと信じてました。あの時本気で僕の間違いを正してくれた事も、また僕たちと一緒に戦ってくれた事も」
 「………そうか。有り難うな、リク」
 ヤクモと同じ様に、マサオミを最後まで信じてくれていた少年は、己に真摯に向けられたその言葉に少し照れ臭そうに頬を掻いた。
 「ソーマ君やナズナちゃん、ヤクモさんも。きっと僕と同じ事を思ってますよ」
 だから心配しないで下さい。と、そんな語尾が聞こえた様な気がして、マサオミは軽く瞠目した。態度がぎこちなかった事を、ヤクモばかりにではなくリクにもひょっとしたら見抜かれていたのかな、と思い、困った様な苦笑が漏れる。
 「全くかなわないな。実はさっきヤクモにも同じ事を云われたよ。──さて、じゃあまたな、リク」
 気まずさと云うよりは気恥ずかしさを誤魔化す様に早口で云うと、マサオミはバイクのシートに跨った。イグニッションを掛けて、戯けた様に片手を上げて笑み一つ。返す様に手を振り返してくる少年と、その傍らで不承不承と云った表情を浮かべ佇む白虎の式神とを見やってから、走り出す。
 戻って来た。違えず。『此処』に。戻って来れた。
 家族ごっこだと嘲笑った、少年達の居る場所に。戯れだと恋心を囁いた、青年の元に。
 望んだだけでは然し取り戻せなかったものを、何でもない事の様に繋いでくれた人達。
 彼らのお陰で戻る事が出来た。知ることが出来た。
 あっと云う間に遠くなる少年達の姿をミラーで振り返り、マサオミは漸く表情筋を弛めた。
 心の何処か、未だ名前も付けられない様な深い場所で、「ここに戻って来れて良かった」と、泣きそうな喜びを訴える己に、今ばかりは正直に。




神経質になっている人の視点になるとまどろっこしい。マサオミはヤクモより余程感情(但し自分限定)に流され易い質だと思うので、きっと内心卑屈なんだけど態度には出さず、自分で完結する迄は何処か伺う様な目で見て仕舞いそうだな。なんて。

瞋恚や憎悪や後悔或いは情愛そのものが、カタチを変えて引いていく。穏やかな夜。