午後のお遊戯



 晴天の昼下がり。太刀花アパートの庭からは賑やかな声が上がっている。
 「123!123!123!ほら上善寺遅れてるぞ!123!」
 「いちにっさんいちにっさん…あーもー疲れたあああ!」
 「モモちゃん、後少しだから頑張ろう?123!123!」
 二組ずつ向かい合った少年少女たちが、木の枝を櫂に見立ててボートを漕ぐ訓練に興じている。それぞれ息の合った動きはそれなりのものだが、如何んせんここ十分ばかりずっと動きっぱなしで、モモやリナ、女の子らの方は疲労を隠せない様子でいる。
 「よしあと20セット!123!123!」
 リーダー格の少年、リュージが声を張り上げ、それを聞いて他の三人は慌てて表情を引き締めた。最後の余力を振り絞る様に、やけくその様に腕を回し始める。
 そんな天神中学ボート部の定例らしい部活動の様子を見ながら、縁側にのんびりと腰掛けていたヤクモはそっと立ち上がると、タオルと共に冷蔵庫からよく冷えたスポーツ飲料とを人数分持ち出して来る。その配慮は普段ナズナのしている事なのだが、彼女は今買い物に出かけて仕舞っていて不在である。
 ついでに急須に茶葉を放り込みポットから湯を注ぎ、湯呑み二つを別に携えヤクモは縁側へと戻った。
 「12ッさん、いちにっさん、いちにっ……さん!やったーおーわーりー!」
 「いちにっさ…ん……はぁあああ…」
 「よーし今日はここまで!休憩するぞ!」
 丁度その時ボート部の訓練が終わり、女の子二人は崩れる様にその場にへなへなと座り込んだ。元気なのはリュージばかりで、リクの方も辛うじてまだ立ってはいるもののぜえはあと息をついて苦しそうだ。
 「お疲れ、皆」
 縁側へとふらふらと戻って来る少年少女らに穏やかな笑みを向け、ヤクモはタオルとスポーツ飲料を手渡してやる。
 「あ、ども…」
 「この気配り、とてもマサオミさんとは同い年とは思えないなぁヤクモさんて…あ、どうもありがとうございます」
 「ありがとうございますぅ〜……はっ!あなたの後ろにいるのは…トカゲのゲーちゃん!?」
 年上の人間との交流に慣れないのか、照れくさそうに云うリュージに、なにやらしみじみと呟くモモ、更には持ち前の感覚でブリュネの姿でも見て仕舞っているのだろうか、何故か目をきらきらさせているリナ。
 「あ、ありがとうございますヤクモさん。…すいません、こんな事までして頂いちゃって」
 そして現在この家の主の筈ながら、年中無休の腰の低さと人の良さとを誇る、リクが最後におずおずとそう云った。
 リクにとって未だヤクモは『憧れの闘神士』である。伏魔殿で命を救われ、名落宮から送って貰い、加えてどちらの場合にも神流闘神士から庇われると言う、恩ばかりを受けて仕舞っている現状が更に彼の萎縮を増長させて仕舞っているのだろう。
 「気にしなくていい、リク。俺も此処に身を休めに来させて貰っているのだから、気遣いなんて要らないさ。それに勝手に色々させて貰っているしな。──ほら、ソーマ」
 琥珀の瞳を緩ませてそう云うと、ヤクモは一緒に持って来た急須からお茶を煎れ、先程から同じ様に縁側に腰掛けていたものの、ノートパソコンをかちゃかちゃと忙しく叩いていて、見慣れた部活動風景には全く興味を見せていなかったソーマへと湯呑みを差し出す。
 どちらかと云うと歳に合わずにいつも周囲の騒ぎを遠目に見ている事の多いソーマは、己に向けられたいきなりの配慮に「え、」と暫し瞬き、ヤクモの微笑みを受けて、紅くなった頬を隠す様に俯いて湯呑みを受け取った。
 「あ、ありがとう、ございます」
 ぼそぼそと呟いて、照れくさそうに煎れ立てのお茶を啜る。
 そうする間にもリュージが何やら提案し、モモがそれに絶叫し、リナはふらふらと座り込んだり。
 そんな子供らのいる風景を、自らも茶を啜りながら、目の縁を緩めてヤクモは見つめていた。
 『そうだぜリク、別にコイツに遠慮なんてする事ねぇんだぞ?今更そんな他人行儀な訳でも無ぇんだし。それによ、闘神士やってる時以外のコイツは何も出来ねぇんだから茶坊主やらしとくぐらいで丁度良いんだよ』
 と、そこに差し挟まれる、リクの神操機から霊体を現した白虎の声。
 「え、。そんな、コゲンタ、なんて事云うの…!」
 口の悪い己の式神にリクは狼狽し、コゲンタと、その視線の先で茶を悠然と啜る『伝説』の闘神士──の、僅かに細まった琥珀の瞳とをおろおろと見た。
 「こ、コゲンタ、ヤクモさんに謝りなよ!ヤクモさんすいません、ほらコゲンタ!」
 『へッ、良いんだよ。間違った事言った訳じゃないしな?なぁヤクモ』
 「……確かに、闘神士で居る時間が俺にとっては最も長いな。だからその他が疎かになって仕舞う事もあるだろう。
 だが、戦闘莫迦な事以外は庭掃除程度しか出来ない式神も世の中には居るくらいだし、引け目を感じる程の事でもないさ」
 互いに言葉の内容の割には、云う様はどこか気安く。暫時、にや、と音がしそうな笑みで笑い合うコゲンタとヤクモ。気安い癖に何処か不穏な空気を纏った両者を、リクは冷や汗をかいてきょろきょろと見比べる。
 『云ったな、無茶と無謀が取り柄の莫迦の一つ憶え闘神士』
 「云ったぞ、何かあると直ぐ必殺技に走るしか能の無い単純な戦闘莫迦式神」
 売り言葉に買い言葉を背負って、にこやかに。とてもにこやかに、穏やかな午後の空気が冷えて行く。互いに飽く迄ににこやかに。
 『へえェ……随分云う様になったじゃねぇかヤクモ。契約当初は印も八方音も五行の理すら知らなかったただの生意気なクソガキだった癖に』
 「お前は暫く見ない内に随分低年齢化したな。幼稚になったのは身の丈だけじゃ無い様で安心したよ。それとも漸く性格に見た目が追いついたのか?」
 『ハッ!テメェは図体ばっかデカくなりやがって、中身は何ンにも変わっちゃいねぇ癖にな。虚勢張って大人振ってンのが見え見えなんだよ!』
 「また随分な事を言うな。半分くらいは誰の所為だと思っているんだ」
 『式神(俺)の所為にすんじゃねぇって!大体テメェはな──』
 そうして目の前でリクが目を白黒させている内に、コゲンタ(霊体)とヤクモは喧々囂々と、周囲を忘れて言い合いに興じて仕舞う。
 然しその内容は憎さや嫌悪ではなく、お互いの恥ずかしい点や至らない点をからかったり暴露し合ったりすると云う、友達同士の様な気の知れた類ばかりだ。
 『…………リク殿』
 突然耳に届いた声に、茫然と一人と一匹のやり取りを見守っていたリクが振り返ると、縁側に置いてあったヤクモの零神操機からブリュネの霊体が姿を現していた。
 『大変申し訳ない限りではありますが……コゲンタ殿を降神しては頂けないものでしょうか……。この侭では、その、ヤクモ様の株が余りにも……』
 大きな肩幅を縮めて云うブリュネの視線をリクが追ってみれば、霊体のコゲンタが見えていないリュージやモモは、突然あの落ち着いた物腰のヤクモが何もいない空間に向けて怒鳴り続けるのを見て目をぱちくりさせていた。
 「あ……そ、そうだね…うん、ごめんなさい…」
 その様子を見て、リクは苦笑しながら腰の神操機をホルダーから外し、ヤクモと大変低次元になりつつある言い争いを続けているコゲンタの方へと向けた。
 「えーっと…式神、降神」
 『うおっ!?』
 ぼそりと呟かれたリクの宣言と共に、霊体のコゲンタの姿が神操機に一度吸い込まれ、次には式神界からの空間を渡って実体化しそこに飛び出して来ていた。
 「だっ、おいこらリク、いきなり何しやがんだ!?」
 「だってほら、こうした方がヤクモさんも話し易いかなー…って……」
 コゲンタの降神に我に返ったのか、当のヤクモは怒鳴っていた口を噤んでのんびりと茶などを啜って「ふう」と息をついている。その耳が僅かに紅いのを傍にいたソーマは見逃さなかったが、これ以上この『伝説』の先輩闘神士であるヤクモの株を落とすのも気の毒だと思い、敢えて指摘はせずに。倣って茶を啜った。
 「そうは云っても、特に昔話の種がある訳でも無いから、」
 「けっ、云うだけ云って云い逃げしてるんじゃねぇよ。そうやって落ち着いた振りしてんのがそもそもガキなんだっての」
 「っこ、コゲンタ!」
 穏やかに終わらせようとするヤクモの言葉を遮り、再び混ぜっ返そうとする式神の言にリクは慌てる。が。
 「その『落ち着いた振り』さえまともに出来ないお前にだけは云われたくないな」
 と、存外に大人気ないヤクモの一言で再び始まる冷えた空気。
 「あああああ〜;;二人共落ち着いて…」
 「…無駄っぽいから止めとけよリク」
 頭を抱えて泣き笑いを浮かべるリクの肩を、妙にしみじみと叩くソーマ。昔は歳の離れた兄とこんな長閑な『兄弟喧嘩』をしていた為か、どうにも親近感を憶えた様だ。
 「──」
 「──!」
 そうしてなおも幾つか言を重ねていたコゲンタだったが、不意にその手を出した。
 「──こっ、!」
 が、思わず息を呑んだリクの眼前で放たれたコゲンタの不意打ち気味の拳を──然し本気ではなかった為にか、ヤクモは首を軽く傾げる一動作だけでさらりと避けてのける。
 そうして何事も無い様に、ことん、と湯呑みを置いて立ち上がるヤクモの表情は、いつもの物腰穏やかな様相ではなく──口角を持ち上げた、不敵な微笑み。
 ヤクモはその侭庭を横切ると、取り出した闘神符を指で弾き上げて発動させる。一瞬『結』の文字が滄く光り、コゲンタとヤクモの佇む一角を囲んで消える。
 『……結界でありますな。どうやら荒事になりそうであります』
 「ってしみじみと云ってる場合じゃないですよブリュネさん!止めないと!」
 『大丈夫大丈夫。片や印の補助を受けない素の式神で片やヤクモだもん。下手な事にはならないよ』
 慌てふためくリクに、ブリュネ、続けてタンカムイと霊体を現して呑気に云う。
 そして、どうしよう、となおも慌てるリクの眼前で。前代未聞の式神対闘神士の喧嘩のゴングが無言の侭で鳴り響いて仕舞うのであった。

 *

 幾ら印での補助を受けていないとは云え、コゲンタは飽く迄式神だ。つまり人間ではない。
 普段の戦いで印に因って入力された必殺技を繰り出す迄の、所謂『通常攻撃』のみの状態ではあるが、それだけでも並の妖怪や況して人間では敵うべくもない、武に特化した式神らしい卓越した戦闘技能がその絶大な強さを物語っている。
 リクは幾度もその動きに助けられ、振るう爪が妖怪を倒し、その脚力と判断力とで敵の式神の攻撃を避けるコゲンタの姿を見ている。
 ……のだが。
 「うおおおおお!!」
 目の前で展開されているのは、次々繰り出される目にも留まらないコゲンタのそんな連撃を酷くあっさりと躱し的確な反撃を行うと云う、到底信じ難い闘神士の戦い振りだった。
 正直、リクの目では全くついていけず、理解もし難いその喧嘩風景は、その場に居た全員を(色んな意味で)唖然とさせるのには充分過ぎる光景と云えた。縁側に集まった子供らはぽかんと口を開いて眼前の遣り取りを見ている。
 そうする間にも素早くヤクモの背後へと回り込み拳を叩き込もうとするコゲンタが、振り返りもせず放たれた裏拳に鼻を打たれて踏鞴を踏んだ所で、あっと云う間に腕を掴まれ前方へとすとん、と投げられた。
 式神とは云え降神されていればその体重も質量も見た目通りちゃんとあるので、筋力をほぼ使わず相手の重量だけで投げ飛ばすと云う、全く見事な柔術である。
 「ヘッ…!やるようになったじゃねぇかヤクモ」
 素早く起きあがると一歩退き、コゲンタが打たれた鼻の頭を擦りながらそう云えば、
 「お前は五年サボって鈍ったんじゃないか?俺はまだ闘神符も使ってないんだが?」
 などと肩を竦めて苦笑するヤクモ。
 成程確かにブリュネらの云っていた通り、喧嘩と云うには些か危機感や不安を感じさせない、彼らの何処か不思議な有り様。
 ナズナちゃんの云っていた『伝説と謳われる闘神士』ってこう云う事かなあ、などと茫然と考えながら、リクはいつの間にやら縁側に落ち着いて、ソーマやボート部メンバーと一緒になって娯楽の様な両者の戦いの観戦モードに入っていた。
 「うわあ…」
 「す、凄ぇなあの兄ちゃん…」
 「ああ…っ、トラさんがんばって…!」
 「ねーねーリッくん、コゲンタって結構弱いの?」
 「それは無いと思うけど……単にヤクモさんが規格外なだけなんじゃ、ないかなあ…」
 ヤクモはリクの中で相変わらず憧れの存在である『伝説』の闘神士だが、ここまで人間──もとい闘神士離れしている様を見せつけられれば、同じ闘神士として多少は凹む。
 そうする内にも両者は不敵に睨み合った侭、じりじりと互いの隙や心情を探る様、利き足へと体重を移動させ。
 「──っ」
 繰り出されたコゲンタの足が宙を掠った。その隙をつかんと一歩を踏み出したヤクモの眼に映る、得たと云わんばかりのコゲンタの表情。咄嗟に息を呑み、フェイントで繰り出されたコゲンタの拳をヤクモは利き腕で受ける。
 ばしん、と痛そうな音が響き、僅か蹌踉めくヤクモの隙を逃さずに、続けて突き出されたコゲンタの右拳の前に、神速で取り出され発動した闘神符が『壁』の字を閃かせその拳ごと身を弾いた。
 符に弾かれた反動から難無く着地したコゲンタは、得意気な表情で尻尾の鈴をカラン、と鳴らせた。
 「どうだ、符を使わせてやったぜ?」
 楽しそうなその様子に相対するヤクモは、拳を受けた腕を「痛たた、」と軽く振りながら同じ様に楽しそうな笑みを返して云う。
 「ああ。こんな相変わらずの莫迦力、まともに受けたくはないからな」
 それでも人間相手、と云う事で多少の加減はあったのだろうか。コゲンタは楽しそうに笑うとヤクモの方へと近付いて行き、二人同時に、親指を立てた拳をこつりと合わせた。に、と笑い合う。
 「久々にお前と喧嘩出来て楽しかったぜ、ヤクモ」
 「こちらこそ。皆は俺と喧嘩なんてしてくれないからな」
 くすくす笑いでそう云ってちらりと己の神操機を振り返ると、ヤクモは己の両掌を軽く叩いて合わせた。と、二人を囲って隔離していた結界が再び一瞬顕現し、次の瞬間には音も立てずに雲散霧消した。
 「あー良い運動だった。おいリク、神操機に戻んぞ」
 「あ、う、うん」
 茫然と見ていた一人であるリクはコゲンタにそう云われ我に返り、神操機をそちらへと向けた。と、コゲンタはその中へと戻り消える。本気で休む心算なのか、霊体を出す様子もない。
 一方のヤクモは溜息などをつきながら、打たれた腕が紅くなっているのを気にしつつ、「手袋をしておけばよかった」と呻きながら縁側へと戻って来た。言葉通りに手も少し赤い。コゲンタのあの丈夫な毛皮…もとい体皮を殴りつけていたのだから無理もないが。
 「な、なんか武術とかやってんのかアンタ…」
 式神の力までは良く解らないものの、細身の身体で見事な体捌きを見せたヤクモの凄さ…もとい人外さは何となく解ったのか、リュージが興味津々と云った様子で訊いている。
 「ん?父に色々と習いはしたが、別に武術と云う程ではないよ。式神に主に戦って貰う闘神士には直接的な力技は不要だから、俺の場合は寧ろ回避に特化しているかな。相手の動きなんかは実戦で見て体験して慣れて来たものだし」
 などと云う、『パゥワー』を信じる某飛鳥兄が訊いたら卒倒していそうな事を答えるヤクモの声を耳に聞きつつ、リクは台所へと向かうと冷凍庫からアイスノンをがさごそと探し始める。結構腕が痛そうに見えたので、冷やした方が良いかな、と思ったのだ。
 目的のものを探しつつ、何となく腰に提げた神操機を意識する。すればいつも通りにコゲンタの気配がそこにある事に微笑を浮かべ、リクは片手でそっとそれに触れた。
 先程の光景を見ていて、少しだけ。コゲンタが、ヤクモが、羨ましかった。
 リクはコゲンタの事もヤクモの事も好きだ。故に、そのどちらもが、互いに妬ましい程に親しく気易い仲であった事が、とても眩しく見えた。
 コゲンタとヤクモの間にあるのは、今自分が在るのと同じ──式神との絆だ。
 自分もいつかコゲンタとああして、気安い嫌味を云ったり喧嘩をしたりする様になるのだろうか。憧れのヤクモに追いついて、あんな風に拳を打ち合って笑える様になるのだろうか。
 リクは穏やかにこっそりと微笑むと、漸く見付けたアイスノンにタオルを巻いて、同級生やソーマ達と楽しそうに──まるで自身子供の様に笑い合っているヤクモの方へと戻って行った。
 あんな風に、誰かと楽しく笑い合える、と云う事が。とても面映ゆくて愛しい。
 灰色の生が──今は節季の祝福を受けて、幸福だった。
 願わくばこんな時が続きますように、と。そう祈らずにはいられない。そんな日。




えーと何じゃこりゃ的。コゲと忌憚無く遊んで貰いたかったと言うか、ヤクモと対等にしてる式神と言う図がやりたかったと言うか…。そんな訳で喧嘩してればいいんだお前らなんて。何その思考。

式神さえ手加減してくれていれば、彼には気軽で気楽な運動みたいなもの。