『頼む』
 そう、嘗ての式神に願ったのは、心の裡より自然と湧き出した信頼からだった。
 身を蝕んで行く呪の苦痛の中で、あの頃と全く変わらない慕わしげな、そして苦しげな眼差しで己を見上げて来た白虎の式神に『頼む』とそう願ったのは、助かるかも知れないと云う希望に縋ると云うよりも、恐らくこれから闘神士として辛い戦いに身を投じる事となるのだろう一人息子を案じる故の事だった。
 息子が、白虎の式神が、己を救わんと戦うだろう事は想像に易い。だがその相手はあのマホロバだ。天流最強の闘神士と謳われた、あの絶対者だ。更にはそれが禁忌の力を手に入れ、まさしく最悪の存在と化しているのだ。今日初めて闘神機を手にしたばかりの少年が立ち向かえる相手では到底無い。
 だから願ったのは寧ろ、息子がマホロバを倒す程に成長して欲しいと云う希望よりも、息子とその式神が無事に在る事だった。間もなく完全に石と化す己の身よりもただそれだけが心配だった。
 『頼む』。それは、これから命をも懸けて戦う息子の身を。たったひとりの肉親を失う息子の心を。どうか守り育んで欲しいと云う、願いだった。

 再び目を開いた時己が見たものは、何よりの信頼の証。その願いの成就だった。



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 咲き初めの紅梅の鮮やかな色彩は、突き抜ける様な冬の青空によく映える。
 僅かに漂う花の香に自然と目元を弛めながらそんな事を思い、太白神社の境内でモンジュは足を止めた。まだまだ厳しい寒気の中、健気に蕾を開かせている梅の、古木めいた枝振りを何とはなしに見上げる。
 奥にある桜の巨木はまだ寒々しい枝先を空へと伸ばし、青空にレースの様に複雑な模様を描いている。こちらが花を咲かせるのはもう一月や二月は先の事だが、それもこの穏やかな日々の中ではきっとあっと云う間の事だろう。刻は日々を過ごす人間達の歓喜や悲哀など構わず瞬く間に流れて行って仕舞うものだ。
 己が石化の呪をかけられその身の時を静止していた間も、梅は変わらず香り高く咲いていたのだろうし、桜も新たな季節の始まりを祝福して咲いていたのだろうと、止めた足の留まった視線の先でモンジュはそんな事を思う。
 桜の咲く頃にはヤクモは中学校に上がる。ついこの間まで幼かった気さえ憶える一人息子の時間もその例に漏れず、モンジュの消費した刻の中を瞬く間に成長していた。一年と云うたったの何百日程度の時間を然し戦い生きて、あの時のモンジュの願いは確かに叶えられたのだと、教えてくれた。
 ……だが、同時にそれは、叶った願いは半分だけだったと知る事でもあった。願いの半片。息子の事を頼み託した信頼の式神の無事は、叶えられなかった。願った信頼の代わりに、再び失われて仕舞った。
 ヤクモは何度もしゃくり上げながら、白虎のコゲンタの事をモンジュへと語ってくれた。その友情や思いや信頼は、モンジュの願った通りに彼らは在ってくれたのだと云う絆を窺わせるものに相違なく、その事実にモンジュはただ安堵した。悲しさよりもそれはより強い喜びだった。
 彼の式神の与え応えてくれた信頼は、モンジュとヤクモの願いを確かに叶えてくれたのだから。
 こんな風に『戻った』時を過ごしているとその事実を無心に痛感出来て、モンジュは幸せな様な泣きたい様な心地になる。
 これから爛漫の春を迎える世界は今日も節季に祝福され、日々をささやかな希望で彩ってくれている。その中で再び生きて、急激に早くなった気のする息子の成長に一喜一憂する。ここに在るのはそんな幸福で当たり前の日々なのだ。
 「……ん?」
 ふと、憧憬に似た回想から立ち返ったモンジュが目を細めて見遣れば、裏山の方からこちらに向かって歩いて来るヤクモの姿が目に留まる。ヤクモはモンジュの姿を認めこちらに歩いて来ている、と云う訳ではない様で、俯き加減の侭で境内を悄然とした空気を纏って横切って行く。
 向かう先は自宅の様だが、最短ではない距離やゆっくりとした歩き方から特に急いでいる訳では無いと知れる。だからモンジュが佇むのが境内の端にある鳥居の傍だからと云ってその存在にまるで気付いていない様子なのは、意識を何処か余所に取られているからだろう。普段から、家族や知り合いであってもなくても、その視界の先に人ひとりが居て気付かない様な息子ではない。
 「ヤクモ」
 「……とうさん」
 かけられた声にはっとなって顔を起こしたヤクモが、取り繕う様に微笑もうとした事に気付き、モンジュは密かに眉を寄せた。「どうしたの?」と近付いて来る我が子の姿を見下ろして腕を組む。
 「何処かへ行っていたのか?」
 自分に良く似た、然し亡き妻の面差しを何処か感じさせる子供の顔から視線を裏山の方へと移しながらモンジュが問うと、それを追う様にヤクモも半身を向こうへと向けながら、腰に下げられた闘神符の入ったストッカーを示してみせる。
 「ちょっと修行。って云うか特訓。大丈夫、ちゃんととうさんに云われた通り結界も張ってるよ」
 モンジュの問いを修行の内容への窺いと取り、きちんと教えは守っていると答えて来るヤクモの腰に、神操機が下がっていない事にモンジュは気付いて仕舞う。
 符を示して見せる以上、修行やら特訓やらの内容は間違いなく闘神士としての事だろう。だと云うのに、契約している式神を連れていないと云う息子の妙な行動や様子に、同時に何となく思い当たりが過ぎった。
 「妖怪を喚んだりとか危険な事もしてないし。それにさ、大分符の扱いも上手く」
 「ヤクモ」
 いつもの様に振る舞い話を続ける息子をその名を呼ぶ事で遮ると、モンジュはじっとヤクモの目を見据えた。困惑の表情を浮かべるその頭にてのひらをそっと乗せる。
 「……どうしたんだ?式神にも知られたくない様な悩みでもあるのか?」
 式神にも知られたくない、かどうかは判然としない為に予想でしか無かったのだが、モンジュの問いにヤクモは思わず、と云った感で眼を瞠らせた。判り易い我が子の反応は肯定も同然だ。
 闘神士として過ごした一年。モンジュの知らぬ時間の中を過ごしたヤクモの成長は父親の目から見ても目覚ましく、外見や技能ばかりではなく精神面でも大きく変わったと云える。だが、生来の真っ直ぐな気質は伸びた身長や増えた気力とは違い、モンジュの知るその侭であったらしい。
 「一年はコゲンタに任せてサボって仕舞ったが、俺はお前の父親なんだぞ、ヤクモ。一人では解決出来ない様な悩みがあるなら話して御覧」
 父親から出た、ほろ苦さを纏わせた言葉に、先程俯いて歩いていた時の様な張り詰めた表情を寸時ヤクモは浮かべる。その琥珀の色をした瞳に映る己の姿は果たして、心身共に急激に成長を遂げる事となったこの子にとってどの様な父親の姿に見えているのだろうと、そんな事をモンジュは思う。
 『ヤクモは大きくなったら何になりたいんだ?』
 まだ、目の前の息子が膝の上にすっぽり収まって仕舞う程に小さかった頃、頭を撫でてやりながらそんな事を問いかけた事があった。
 『んっとね、おとうさんになる!』
 『ヤクモも自分の子供のお父さんになりたいのか?』
 『じゃ、なくて…、おとうさんみたいになる!』
 膝の上からぐるりとモンジュを見上げて、大きな瞳をきらきらさせながら、幼いヤクモは照れくさそうに、しかし誇らしげに微笑んでいた。
 だからそれとは反対に、モンジュは苦しい様な居た堪れない様な気持ちになる。この父の様になると云う事はどう云う意味を持つのか。未だこの子供はそれを知らないし、知らせる必要も──生涯訪れなければ良いとさえ思った。
 『お父さんみたいに、と云う事は闘神士だな…。だからそれは無理だよ、ヤクモ』
 とーじんし、と小さく反芻して、それからヤクモは漸く自分の願いを否定されたと気付いたらしい。あとはぶうぶうとむずがりながら、『おとうさんになる』と機嫌をすっかり損ねた表情でいつまでも呟いていた。
 『とーじんし、に、なる』
 その言葉の意味も解らぬ侭、駄々をこねてそう云うヤクモを何とか寝かしつけて、それからモンジュは苦く重たい息を吐いた。
 (お前には、俺の様な思いを──、)
 声にならぬ声を、最早零れる事もなくなった涙と共に押し出すと、モンジュは眠る我が子を瞳に映し出して淡い微笑みをそこに落とした。
 子供の純粋な願いを、果たして喜ぶべきなのか忌むべきなのか、あの時は未だ解らなかった。
 「……ごめん。とうさんを騙すつもりも、皆に隠すつもりも別に無いんだ」
 丁度あの時のモンジュに良く似た表情を浮かべ、眼下のヤクモが応えてくる。あの頃父親の膝の上で無邪気に笑って眼を輝かせていた子供の表情はそこには既に無い。
 この子は成長した。一年と云うモンジュの知れぬ時間ばかりではなく、もっと先まで。ずっと、先まで。
 『俺も、とうさんのような、闘神士になりたいんだ!』
 あの時。モンジュの静止を振り切って闘神機を手にした時から、恐らくそれは決まっていたのだ。子供の侭の純粋な願いを叶えようとした時から、彼はひとりの闘神士として生きることが、決まっていたのだ。
 「………それで、一体どうしたんだ?」
 故に今目の前に居るのは、息子であると同時に闘神士でもあるものだ。子供の姿だが、子供の心を棄てようと日々を育つものだ。家族にも想像だにし得ない様な悩みを抱えて、迷いながら生きようとしている人間だ。
 果たして己は、失った式神との絆を抱いて、それでも進む闘神士のその心を気遣い癒す事が出来る父親だろうか、とモンジュは己の胸中に問いてから、改めてヤクモに尋ねる。守る事はもう出来ないかも知れないが、手を伸べる事は息子が何歳になろうが、どんなものになろうが、いつだって出来る筈だと信じて。
 「ん…、下らない事だと思うよ?」
 「構わないから云うだけ云って御覧」
 普段は厳格と云うよりも朗らかと云った方が良いだろうモンジュの性質は、然し酷く頑固だ。簡単に己の云った事、する事を翻したりはしない。ことそれが正しき信念の元にあれば尚更の事である。ヤクモもそんな父の影響か血筋か、実に似た様な質を持ち合わせている。故にどれだけヤクモの往生際が悪かろうがモンジュが引き下がる事はないだろうと察したのか。僅かの迷いと沈黙の果てにヤクモは表情を切り替えた。居心地の悪そうだった微苦笑が、澄んだ厳しい横顔へと変わる。
 そうしてモンジュから少し視線を外したヤクモは、ぽつりと呟きを発した。
 「………………これは慢心とかじゃなくって、事実として、なんだけど。──俺は凄く、強くなったと思う」
 淡々としたヤクモの呟きには、自ら云う通りに慢心や浮かれた様子などまるで無い。そこに在るのは自信でもその喪失でもない、惑いだ。
 モンジュにも未だ正体の知れぬその惑いが、躊躇の末の掠れた声音と共に変化する。
 「多分。あの頃よりも。もっと、ずっと」
 今度はモンジュにもはっきりと知れた。ヤクモの視線の先にあるものは過去の出来事で、そこに向け述懐するのは──
 「俺は、強くなった」
 瞋恚。
 自分自身への、怒りだ。
 「……だから、どうしてだろう、って、思い始めたら止まらなくて」
 子の小さな声は、自ら握り締めた拳の中に閉ざされ細く。しかしその眼差しは酷く炯々と、鋭い光の如くに瞬いては己を責めている。
 人としても闘神士としても成長を日々続ける、ヤクモの孕んだ怒りや惑いがその様から良く伝わって来て、モンジュはヤクモの頭からそっと手を退けた。下にあったのは痛ましささえ憶える程に硬い表情。
 「どうして、」
 憤怒、嘆き。それらのない交ぜになった感情がただひとつ示しているのは、悔恨。
 「どうしてあの時には、今のこの強さが得られなかったんだろう──って」
 ……その先に続くだろう言葉は、今のヤクモの胸中を量れば容易く知れる。
 『今の強さがあれば、コゲンタをここに連れて帰って来る事が出来た』。
 コゲンタの此度の命を犠牲にする事など無く、勝つ事が出来たのではないかと云う、想像。
 「ヤクモ、それは」
 「わかってるんだ。それはあの時の俺や、俺を信じてくれたコゲンタを裏切る様な考えだって事ぐらい。解ってるんだ。でも、俺がもう少し強ければ、もう少し頑張る事が出来てたら、って、そう思い始めたら、止まらなくて…っ、」
 モンジュの言葉を遮り一息にそこまで云った所で、強張っていたヤクモの肩から力がすとんと抜けた。こうしていればその両肩はまだ細く小さく──それが未だ親の庇護下にあるべき子供なのだと知れる。
 闘神士として立ったあの時から、強く在ろうと生きて来た。子供なのだと。
 「……判ってるんだ。こんなのはコゲンタにもブリュネ達にもとうさんにもあの頃の俺に対しても、非道い想像でしかないって。こんな事で落ち込むのなんてお門違いだって解ってるんだ」
 わかっている、と繰り返し呟きをこぼす俯いた侭のヤクモの眼差しは、然しはっきりとしている。泣きそうな声音なのに、涙に濡れてはいない。
 「だから。ごめん、とうさん。心配かけて。わかってるから大丈夫だよ」
 そう云えば、あれ以来この子は涙を見せなくなったな、と、先程までの様子とは一転し晴れやかな笑顔で見上げて来るヤクモの姿を見てモンジュは今更の様に気付いた。
 ぐしゃ、ともう一度。駆け足で成長しようとしている息子の頭を撫でてやりながら、モンジュは柔く目元を弛めた。
 コゲンタはモンジュの願った通りに、ヤクモ自身が望んだ通りに、強く、闘神士としてこの子を育ててくれた。子供の成長を純粋に親として嬉しく思う気持ちと、それを見守る事の出来なかった歯痒さとが混在して心にひととき落ちる。
 「ヤクモ」
 そっと呼びかけると、あの頃の子供とは違う──だが先程まであった居た堪れ無さや遣る瀬の無さを払拭した、澄んだ眼差しが応えてくる。
 我が子の双眸に宿るのは、確かな成長と、それとは別種の、あの頃から全く変わらない純粋な心。
 「お前とコゲンタは、二人で父さんを救ってくれたんだ。その事が俺はとても嬉しいよ。再びこうして節季の移り変わりや、一人息子の成長を日々一喜一憂しながら見守る事が出来る。それも全て二人のお陰だ。──これ以上の幸せは無い」
 梅の香も満開の桜も、我が子の成長も。今全てを得られているのはただの幸運の結果などでは決して無い。息子と、その恃んだ式神との絆とが、戦いの末に取り戻してくれたものだ。それはモンジュにとって或いは何よりも喜ばしい答えであり、結果であったとも云える。
 闘神機を手にしたヤクモの決意の眼差しに、確かな己の血筋を感じて微笑んだ。ヤクモは闘神士にはさせまいと云うモンジュの思いは、決して危険で苛烈なそこから我が子を遠ざけたかったばかりではなく、同時にその覚悟や心を信じると云う事でもあった。
 得たものは確かな、紛れもない『今』そのものなのは、改めて思うまでもない。
 モンジュの掌の下で、ヤクモの表情が何か言葉を探すかの様に揺れる。答えなく思考を渦巻かせるその淵へと少しでも近づければ良いと思いながら、モンジュはその場に屈み込んだ。まだ未発達な子供の両肩に腕を回して抱きしめる。
 「だから、ヤクモ。もういい加減、自分の頑張りを認めて、赦してあげると良い」
 コゲンタが失われたのは、ヤクモの力が及ばなかったからでは無い。彼らはその時の最善を戦った筈だ。嘗てのモンジュとアカツキの様に。
 取り戻せたことは幸福だ。戦いの末の、努力の果ての、結果だ。その事を感謝こそすれど、悔やむ様な事を思う訳にはいかない。思わせた侭ではいけない。ヤクモはそんな事ぐらい『わかって』いると云うが、なれば尚更、後押ししてやる言葉がきっと必要だった。
 (お前には、俺の様な思いを──、)
 それは式神を喪う事にだけではない。喪わせた己に失望し、その後悔に押し潰され、戦う心が折れて仕舞う事に、だ。
 (大丈夫。お前はそれでも再び起ち上がる事が出来たんだからな)
 ヤクモは式神との絆を再び望んだ。それは怠惰や甘えや欲ではなく、純然たる信頼。モンジュはそれを知っているからこそ、ヤクモが再び折れて仕舞う事などはないだろうと信じている。
 ヤクモが、そう遠からずモンジュの手の届かない所へと行って仕舞うだろう事は既に予感めいてある。故に、ひとりで戦おうとする我が子に、そっと手を添えてやるのだ。振り返りさえすればいつでも届くのだと、教えてやるのだ。
 「……………うん」
 小さな頷きには、先程までは形を潜めて仕舞っていた安堵や柔らかさが潜んでいる。
 「お前の式神達も、それを待っている筈だ」
 「……そうだね。皆に謝んなくちゃなぁ…。ずっと心配してくれてたみたいなのに、置いて来ちゃったりしてるし」
 微苦笑と共に吐き出された言葉は、苦さと云うよりも優しさに満ちている様に感じられ、モンジュも釣られて微笑みながら、ヤクモの両肩をそっと放して再びその頭を撫でてやった。その度、子供は照れくさそうに笑う。
 その表情からそっと上方へと視線を移せば、梅の枝先で鳴き交わす小鳥達が眼に留まる。
 春の気配の近さと、それと同時に訪れるだろう息子の成長とを思い浮かべて、その幸福感にモンジュは心底の感謝を込めて、未だ遠い節季の式神へと感謝と、憧憬を馳せた。




「戦隊契約当初のヤクモは以下略」と伏線と云うか設定を随分前に差し挟んだ癖にずっと消化して無かったなと気付いたので。いやね、式神の事だのをナチュラルに語り合う親子とか超理想ですから! 妄想万歳ですから!

半色はいいろ。惑いの式。