徒花



 天を突く巨木を縦に割り、その中身をくり抜いたかの様な大空洞。その内部には更に、青々と茂る木々や、菌糸類、苔生し朽ちた倒木で構成された『森』が拡がっていた。
 深い、人の手の入らぬ森の中の自然サイクルをその侭巨大化した様なそこは、木の属性の強いフィールドだ。伏魔殿と云う空間の作用自体が実相世界の理とは掛け離れている為、そんな奇妙な自然な世界の縮図にいきなり放り込まれた所で、今更驚きもしない。
 巨大な、趣味の悪い落書きめいた毒々しい色合いのキノコの下をくぐり抜け、マサオミは予め測って来た方角と現在地の座標とを脳内で測量した。
 方向感覚には自信がある。幾ら周囲が頓狂な光景でいようが、向かう先は間違ってはいない。
 フィールドの外周を覆う巨木の内側に、恰も階段の様に生え揃った板状の茸を踏んで少しの距離を昇りながら、予めアタリをつけていた地点へと辿り着くとマサオミは慎重にその壁面へと手を這わせてみる。
 「わぁお」
 と、程無くして結界の手応えが掌に触れるのを感じ、マサオミは思わず口笛を吹いた。
 「これってラッキー?……どう思う?キバチヨ」
 『へっえー。神流(アイツら)の情報が当たるなんて珍しい事もあるもんだ。辺鄙なフィールドだし、誰にも『偶然』見つけられて無かったのかもねぇ?』
 手に触れている、目には未だ見えない結界の『戸』を指先に引っかけた侭、軽く気のない答えを寄越して来る己の式神の姿を横目に、マサオミは眉を寄せた。
 「引っ掛かる物言いじゃないか」
 『だって、あっやしいじゃんコレ。そもそも此処に来る迄の間もトラップの一つも無いだなんて、偏執的な大昔の天流の傾向から見ると、胡散臭過ぎると僕は思うね』
 「これ自体が罠、って事もある、か?」
 口にして見るとぞっとしないものを覚え、マサオミはごくりと喉を鳴らした。迂闊に触れて仕舞った結界が今にも罠として発動はすまいかと、緊張に背筋が張る。
 『さあねぇ。そこまでは流石に。ま、でもトラップって云ったって精々妖怪程度だと思うし、最悪でもフィールドが消滅する程度で済むんじゃない?』
 「…………やれやれ。気楽に云ってくれるな」
 キバチヨの云い種は空気の様に軽いが、正しい分析ではある。頭の後ろで腕を組んで気楽にふらふらと浮かんでいる青龍の姿を溜息混じりに追うと、マサオミは指先に軽く力を込めた。丁度横開きの戸を掴む様な形だ。
 「ま、わざわざこんな黴臭い所まで出向いたんだ。罠だとしてもアタリだとしても、開けてみない訳にも行かないだろう。ひょっとしたら本当に運良く『誰にも見つけられない』様な辺鄙な場所だから、周囲に罠の一つも配置されていなかったのかも知れないしな」
 『楽観的だねぇ』
 どこか面白がる様な風情でいながら冷ややかに云って来るキバチヨに、マサオミは軽く肩を竦めて返す。
 「頼もしい相棒を信じているからさ」
 『ハハッ。違いない』
 笑みの乗った式神の応えに同じ様な表情を向けると、マサオミは一息に結界の『戸』を開いた。
 ぐ、と僅かに引っ掛かる様な手応えを残し、結界は予想に反してあっさりとその真の姿を現した。幻術で巧みに隠されていた、巨木の外壁がぽっかりと黒い淵をそこに開いてみせている。
 『……行き止まり?』
 「の訳ないだろうが」
 横に開いた空間はごく僅か狭い空洞でしかなかったが、マサオミがそこへ一歩足を踏み入れると、その足下に鬼門口と同じ陣が現出する。発動の青い光は紛れなく天流の仕掛けたものだ。軽い術圧を感じながらそう判じた瞬間、暫時の無重力感が全身を包み込む。伏魔殿へと降りる際にも似たその感覚は、転移。
 「これはいよいよ本当にアタリかも知れないぞ」
 浮遊感を振り切る様にマサオミが呟くのとほぼ同時に、彼らの姿は先程まで居た場所とは異なった環境へと放り出されていた。
 眼前には、足下に浅い水溜まりを掃いた、庭園風の造りに囲まれた社殿が堂々たる風情で佇んでいる。背負う空は相変わらずの伏魔殿の精彩ない有り様ではあったが、建造物の堅牢さや何処か芸術的な趣を褪せさせるには足りない。
 『さっきのフィールドの上層みたいだ。あ、君は見ない方が良いかもよ。正直眩暈がしそうな程高い』
 マサオミの頭より高く浮かび上がったキバチヨが周囲を見回し、そんな、どうでも良さそうな事を報告してくる。相当の高所と云う割に気温や大気の具合が先程までと全く変わらないのは、慣れきった伏魔殿の不条理だ。それもやはりどうでも良い事と云う意味では同じである為、特に頓着もせずマサオミは社殿へと近づいて行った。
 『益々怪しくない?』
 その後を引っ張られる様に、風船めいて浮かぶキバチヨが続きながら口を尖らせた。
 「何がだ?キバチヨ」
 思わず足を止めるマサオミの前に慣性の様な動きで、すい、と進み出て来ると、キバチヨは軽く腕を組んだ。背後の社殿を斜めに見上げる。
 『罠。此処は確実に天流(奴ら)結界の中で、中にこれだけ『豪華』な何かを隠しているんだよ?だって云うのに、罠のひとつも未だ見当たらないだなんて不用心過ぎる』
 「……云いたい事は解るがな。折角久々のアタリかも知れない予感に胸躍らせてるってのに、易々と打ち砕かないでくれよ」
 伏魔殿のフィールドの多くは五行の要素で構築されたものだが、人工的な術の何かしら及ぶ箇所には大概の場合、何らかの意味を持った建築物が在る事が多い。それは神流の仲間を封印したものであったり、伏魔殿へと閉ざされた天流の遺物だったりと、少なからず何らかの益となる可能性が高いのだ。
 マサオミは神流の情報や独自の調査でそれらの施設を探し続けているが、多くの場合それは嘗ての天流の仕掛けた罠である事が多い。今までに見たハズレは数知れない程だ。全く、天流の執念と云うか偏執的なその手管には毎度の事ながら辟易させられる。
 そんな蓋然的判断に来て漸く辿り着いたこの豪奢な社殿。これならばひょっとしたら、と期待をするなと云う方が無茶である。そう、戯けた溜息をついてみせるマサオミに、キバチヨは諦めの吐息をついた。
 『オーケー。君と僕なら大概の事はどうにでも出来るだろうけど、面倒の労力の挙げ句ハズレってのはつまらないからね。精々油断はしないでくれよ?』
 「ああ。期待しているぞ、キバチヨ」
 言い種はともかく、一応は心配を寄越してくれたのだろう青龍に頷きかけると、マサオミは油断のない仕草で社殿へと近づいた。階段を上り、観音開きの扉にそっと手をかける。
 僅かに力を込めるだけで、扉は摩擦や抵抗など無いかの様にするりと開き、広大な吹き抜けのホールをマサオミの眼前へと晒した。
 内部へ身体を滑り込ませるのと同時、扉が再び音も立てずに閉ざされるが、軽く押せば普通に開く様で、別に侵入者を閉じこめる類のものではなかったらしい。少々気抜けを感じながらもマサオミはホールの真正面にあった階段を上り、テラス状になった二階へと上がってる。
 左右両翼にはそれぞれ部屋がある。その部屋たちが見た目巨大だったこの社殿の土地の殆どを占めている様だった。少々薄暗いそこへ入るなり、嗅ぎ憶えのある匂いが鼻をつくのを感じ、マサオミは足を止めた。
 「…………書庫、か」
 古い紙と墨の匂い。伏魔殿内部の更に結界の裡だけあってか実相世界ほどに古くさいものではなかったが、古書の独特の匂いに浸された空気が室内には凝っている。
 目の前にあった書棚へ指を伸ばし、軽く一冊を引き抜いて見る。紐で綴じられた色褪せた書物は、此処の主の独特の編纂に因るものらしい。手書きのタイトルは『妖怪の生態と機能巻之伍』。
 実益と云うよりは趣味としか思えないその書をぱらぱらと捲ってから、マサオミはそれを元通り棚へと戻した。伍と云うナンバリングがある事から少なくとも前の四巻があると云う事なのだろうが、探して見る気も起きなければ興味も湧かない。
 『神流(仲間)の封印の類がありそうな場所じゃないね』
 「…の様だな。まぁ大昔の天流が残した書庫ならば、ひょっとしたらあの封印の事について何かの手がかりが得られるかも知れない」
 肩透かし半分、期待値半分。溜息をやや真剣な面持ちにする事で呑み込んだマサオミは、雑然とした本棚の群れを目で追った。正直骨の折れる話だが、背に腹は代えられまい。何しろ天流の遺物がこうして完全な形で、更にこれだけ多く遺されているのは一応は稀な事なのだ。時間をかけてでも詳しく調査する甲斐はあるかも知れない。
 書庫の二階部分はホールと同じくテラス状になっており、書棚の間に設けられた梯子が更に広大な一階部分へと降ろされている。一階に書庫への入り口や窓が無かった理由は恐らく外の湿気を防ぐ為なのだろう。
 結界と云う隔に在る以上、内部の自然現象や経年劣化を案ずる必要は本来無い筈なのだが、建物自体を構築する際につい実相世界での慣習に倣って仕舞ったのだろうと察して決め込み、マサオミは足下に注意しながら梯子を降りた。更に濃くなる古書の匂いと、全方位に佇む書棚の群れにうんざりと、堪えきれなくなった溜息が漏れる。
 「ま、地道に探しますか……」
 書棚の中身は各棚の角に手書きのインデックスが貼り付けてあるのを見る以上、一応の管理はされていた様なのだが、真正直にそれを受け取っていたら捜し物など出て来ないと云うのが常である。更には書棚から漏れているものや床に積んである『分類外』のものも少なくない。
 惑わされずに虱潰しにするのが一番だろうと、マサオミは古書の森の最奥の一角へと向かった。後にくっついて来るキバチヨが上の方の棚を眺めているのを見上げながら、端の一列をぐるりと回り込み──
 「!?」
 そこでぎょっとなって立ち止まる。マサオミの手は反射的にジャケットの内側にある神操機を引き抜きかけ、然し途中でその動作をも急停止させられた。
 『あれま』
 気の抜けた様なキバチヨの呟きとほぼ同時に、瞠目した目を瞬かせ、マサオミはぱくりと口をも開いた。「は?」と息が漏れる侭に呻きを発する。
 書棚に囲まれた角にあったのは、嘗て此処の主が使用でもしていたのだろう机。その上には堆く書物が積まれており、幾つかの山は崩れた侭で散らかり放題と云った様相にある。
 そしてその机に合わせて設えたと思しき、同じ様な印象の椅子が適当に引き出されてその前に置かれており、そちらの座面にもまた乱雑に書物が積まれていた。
 それらの書物が元は収まっていたらしい周囲の書棚は当然多くの空白を空けてその一角を囲んでおり、その先、ほぼカラになった書棚の一つに寄りかかって座していたのは。
 「…………………ヤクモ?」
 茫然とした侭の意識でそう、漸く現状を一言で己に説明出来るだろう名前を呟くと、マサオミは一気にのし掛かって来た疲労感に肩をがくりと落とした。緊張に強張りかけた手を苦労して神操機から剥がすと、書物の山に半ば埋もれる様にだらりと両手両足を伸ばして座り込んでいる、件の闘神士を見遣る。
 「……何やってんだアンタ……」
 思わず呻くが、相手からの応えは無い。伏魔殿の中だと云うのに珍しく脱いでいるマントは椅子の背に適当な風情で引っかけられており、彼の神操機の収まったホルダーやベルトは散らかった机の上に所在なく乗せられている。
 『………………熟睡してるんじゃない?』
 「それは何となく解る」
 あっさりと云うキバチヨにそう返す通り、よくよく観察する迄もなく、書物に埋もれたヤクモの方からは静かな寝息が聞こえて来ていた。ただマサオミにはそんな現状が俄に信じ難かっただけである。
 こんな予想外の場所で予想外の顔に出会うとは、言葉通り予想だにしていなかった。成程ヤクモが通って来た後だからこそ、罠も何も残っていなかったのかと得心に頷き、マサオミはどうしようもなく呟いた。
 「……どうしたものかね?」
 端からその呟きに答える心算だったのか、そうマサオミがこれ見よがしに肩を竦めて見せたのを待っていたかの様なタイミングで、ヤクモの神操機から式神の一体が姿を現した。理知的な面持ちを面で覆った、霊長目の姿に似た榎の式神のサネマロである。
 『見ての通り、ヤクモ様はお疲れでおじゃるよ。麻呂達も外敵の接近に気付いていたからお起こししたのでおじゃるが、誠に遺憾ながらそち達はヤクモ様にとっての『敵』とは捉えられていなかった様でおじゃるね……多分』
 不承不承な所を全く隠さないしかめ面を作ると、サネマロは微動だにしないヤクモの真横へと霊体を下ろした。一応マサオミへの牽制の心算らしい。
 要するにマサオミが接近した所で、ヤクモは本能的な危機を察知していなかったと云う事か。普段伏魔殿の中で気を張り詰めて居る印象の強い闘神士にしては、意外性を隠せない。以前の様に重傷を負っているとか云うやむない背景があるならばまだしも、だ。
 (軽視されてると見るべきか、入り込めていると成果に喜ぶべきか、それとも単に此奴が日和過ぎなだけか……)
 何れであっても余り面白くはない。マサオミは不機嫌も顕わにそっぽを向いた。腰に手を遣り、逆の手で前髪を掻く。
 「アンタらの方が先客だってのは解った。ヤクモが今敵前でも爆睡出来る程に疲れているらしいって云うのも解った。だがな、同じ様な状況二度目で、今回もみすみす見逃してやる義理は俺には無いね」
 斜めの視線をサネマロと、その後ろのヤクモ、そして机の上の紅い神操機へと挑戦的に向けてみるが、じっとマサオミを見返して来ている式神の様子には寧ろ、余裕といった風情さえも伺える。
 『(読まれてるよマサオミ君)』
 「煩いぞキバチヨ」
 こそ、と小声で囁いて来る青龍に莫迦正直に毒突き返して仕舞ってから、マサオミは拙いと内心臍を噛んだ。
 現状、絆されて仕舞った様に、理由無くヤクモへと喧嘩を吹っ掛ける気になどなれそうにないと、彼らには完全に見抜かれて居る様だ。図星ではあるがそれ故に気に入らない。
 一度和んで仕舞ったらやり辛い、と云ったヤクモの以前の言は、今となってはマサオミにとってもそう変わらないものになっている。況して無防備に暢気な風情で眠っている相手を前に、神操機を奪ったり怪我を負わせたりと云う卑怯な手立てを行わなければならない程に追いつめられてもいない。
 『……そう云う訳でおじゃるから、諦めて立ち去るが良いでおじゃるよ』
 愛嬌のある顔立ちに、然し愛想は全く乗せずに云って来る榎の式神を憤然と睨み返し、マサオミは間を保つ様に辺りを軽く見回した。よくよく見れば、書物を酷く散らかしているのはこの辺り一帯だけと云う訳では無さそうだ。状況から推測出来るのは、その乱雑さの中心に居座るヤクモが熱心に調べ物をしていたのだろうと云う事程度。
 (そうして時には自分らの祖の遺して来た嘘を暴き立てなければならないってのも、皮肉なもんだろうな)
 思考ほどには感慨もなくそう溜息をついて、マサオミは書物に埋もれ寝息を立てているヤクモの姿を再び見下ろした。無遠慮な程の視線なのだが、深い眠りに落ちている彼からは何の反応も当然返らない。
 「こっちも調べたい事があるんでね。手ぶらで帰る気には生憎なれないのよ」
 軽く声を上げてそう云いながら、式神の制止を待たずにマサオミは散らかった机へと近付いた。そこから適当な書物の一冊を取り上げてみるのだが、研究か何かの類らしく書面には暗号めいた言葉が延々と記されているのみで、流し読みする程度では理解など出来そうもない。
 同じ様に積まれていた書物を次々見れば、何れもどうやら同じ系統のものの様だ。綴じ紐に解いた様な跡がある辺り、ひょっとしたらヤクモはこれを解読しようとしていたのかも知れないと思う。
 問う様に振り返るが、サネマロはヤクモの方を向いた侭でおり、マサオミの視線には気付いているのだろうが、応えはしなかった。
 「〜んー…」
 手に何冊か取った書物をどさりと机に下ろした途端、ヤクモの口からもごもごと、明瞭とは云えない呟きが漏れる。何となく腫れ物に触れて仕舞った様な気分になり、マサオミは我知らず額にかいていた汗を拭う。その注視の先でヤクモはなおもはっきりとはしない呻きを漏らしながら身体を丸めて横に倒した。
 書物を下敷きにした寝心地が気になるのか暫しその侭もぞもぞ動いていたが、やがて再びの寝息がすやすやと響いて来る。どうやら寝返りを打っただけらしい。
 「……驚かすなよ心臓に悪い」
 『だから速やかに帰る事を勧めているのでおじゃる。重ね重ね、ヤクモ様はお疲れなのでおじゃるよ、多分』
 「だからこっちも、はいオヤスミナサイって訳には行かないんだって云ってるだろ。〜……ん?そもそも何でこの爆睡闘神士に俺が気を遣ってやらなきゃならないんだよ?!」
 最早何処に文句を向ければ良いのか解らなくなりつつあったマサオミが当初の疑問に漸く行き当たった丁度その時、ばさりと勢いよく書物が一冊、顔面に向けて飛びついて来た。
 「……………うるさいぞマサオミ…」
 当然書物とは勝手に顔に飛びついて来るものでは決して、無い。
 適当に手元にあったのだろう書物(それ)を投げ放ったその姿勢の侭で、相変わらずもごもごとした、然し先程よりは確実に低く明瞭となったヤクモの声が重苦しく響く。思わず目を点にして仕舞うマサオミの視線の先で彼はなおも口元で怨嗟めいた事を呟きながら、書物の積まれた椅子にへろへろと倒れ込む様に寄りかかった。危ない、と反射的にマサオミは思うが、どういった偶然か椅子も書物の一冊も倒れず堪える。
 「………」
 取り敢えず云いたい事は山の様にあったが、まずマサオミがしたのは顔面に投げつけられた書物を背後へと放る事だった。本の落ちた先で別の棚だか山だかが崩れる様な音がしたが、気にする心算など端からない。
 ぺしぺしと、椅子にだらりと寄りかかったヤクモの手が机の上を見当違いな所から辿り、漸く己の神操機に触れる。そうして彼は未だ眠そうに目を瞬かせながら神操機を手元へと引き寄せた。
 「俺、どの位眠っていた?」
 『お早うヤクモ。殆どぴったり二時間て所』
 「おはよう皆。……二時間もか…」
 先程の榎の式神を押し退け出て来た消雪の式神と数言を交わすその間も、ヤクモは眠そうに欠伸を噛み殺し、重たい瞬きを繰り返している。
 あの寝起きの、書物を投げつけるなどと云う、普段の彼からは到底信じ難い行動も、成程疲労の余りの熟睡の果てだと思えば頷けなくもない。無理矢理思考をそう締めくくるとマサオミは眦を胡乱に細めた。上から覗き込む様な態度でヤクモを見下ろす。
 「よ。お早う」
 「…………………………あれ?マサオミ?何でお前がこんな所に」
 漸く椅子から上体を剥がし、両腕を上に伸ばした姿勢の侭で、ヤクモはきょとんとした表情を浮かべるとマサオミを見上げて来た。
 「………解ってて投げたんじゃないのかよ」
 その辺りに転がる書物を顎で示して云うマサオミに、彼は心底不思議そうな視線を暫し寄越して来ていたが、やがて素直に云って来る。
 「いや。何だか知らないが覚えがない」
 『ヤクモ、寝惚けてたみたいだからね。今回は疲れていた所を何処かの誰かに邪魔されたんだし、相当イラっとしたんじゃない?』
 念を押す様にマサオミをじろりと睨んで来る消雪の式神のその霊体の上へと、宥める様にヤクモの手が伸びた。
 「……だそうだ。まあそろそろ起きなければならない頃合いだったからな、別に気にしていないよ、タンカムイ」
 「謝られるべきは式神じゃなくって寧ろ俺の方だと思うんだがねぇ……」
 まあ此奴の思考が微妙にズレているのはいつもの事だし構わないが、と、やさぐれるマサオミの横目の先ではヤクモが幾度目かの欠伸を噛んでいた。寝起きと云う現状を除いたとして、相当に眠そうなその様子は彼の顔色の悪さも相俟って、ひょっとしなくても寝不足なのではないかと云う推論に辿り着く。
 「なぁ、アンタ一体どの位の間此処に篭もっていたんだ?」
 眠気を払おうと云う心算なのか、目蓋をごりごりと押しているその様子に思わずマサオミは問いかけた。余り実益の無さそうな事ではあったが、ヤクモがどの程度この書庫を調べたのかは訊いておいても損はあるまい。そんな事を思いつつ返答を待っていると、彼は視線を斜め上へ泳がせながら黙考した。無意識の所作なのか幾度か失敗しながらベルトを留め、神操機をそこに引っかけた所で漸く頷きを返す。
 「ん…、この書庫に入ってからなら…ひいふう……、五日目ぐらいか?今日で。正確な実相世界の時間には換算出来ないが、体内時計はそんなものだと思う」
 「………………………」
 「幸い外に水場があったし、飲用にも体を洗うのにも不便は無かったからな。つい長居をし過ぎた方だとは思う」
 果たしてマサオミの絶句をどう取ったのか。或いは全く意にも介していないのか。いつもの様に。
 再び眠そうになった目を時間をかけて開いたり閉じたりしながら云う、そんなヤクモの肩をマサオミは思わず正面から鷲掴んだ。何事かと顔を顰める彼の表情を、真っ向から睨み据える。
 「参考までに。睡眠は今の様子を見れば全く宛にならないのはよーく解ったんだが、飯はどうしてたんだアンタ」
 「? 携帯食ぐらい常備しているぞ」
 真顔で云うヤクモ。改めて問う迄もなく、ヤクモが云うのはよくある緊急用の保存食めいたものの事だろうし、それを真っ当に摂取しながら四日を過ごしたなどと云う事も無いだろうとマサオミには直ぐに想像がついた。この寝不足を抱えた睡眠時間同様に、カロリー不足なのも恐らく間違ってはいまい。
 「……解った、アンタに真っ当な返答を期待した俺が莫迦でした。後で何が何でも牛丼を喰わせてやるから覚悟しておけよ」
 ヤクモの集中力は、正しい日常生活と云うサイクルを遵守する上に於いては明らかな欠陥である。そもそもいつも伏魔殿に篭もりっきりで果たしてどうやってこの年頃の男子に必要とされる栄養素を摂取しているのかと云う事は兼ねてからの疑問だったのだ。彼の現在のエンゲル係数を想像するだけでこちらまで胃が痛くなりそうな錯覚さえ憶える。
 呆れ混じりに吐き捨てながら、マサオミは立ち上がるとあからさまな溜息を投げた。
 「云われてみれば少し空腹ではあるな。お前の奢りなら覚悟してやっても良い」
 「なんでそんな偉そうなんだよ」
 「発案がお前の方だからだ。俺は今はどちらかと云えば空腹よりも眠気の方が切実なんでね」
 その溜息を真っ向からキャッチして平然と返すヤクモに憮然と云ってみるが、なおも欠伸混じりの眼差しを向けて来ている彼は気のないその返事通りに、牛丼を奢られると云うマサオミ的には大層魅力的な提案にも余り心を動かされなかったらしい。
 全く度し難い。そうは思うが一度云った言葉を反故にする気もないマサオミが、特盛り牛丼のサービス券は未だ余っていただろうかと存外真剣に考え始めたその横で、書棚に寄りかかりながらヤクモもまた立ち上がる。未だ眠いのかそれとも寝起きだからなのか、何処か足取りと云うか挙動そのものが危なっかしい。
 「別に無理せず未だ寝ていて下さっても結構ですよ?俺の捜し物にはアンタが起きていない方が寧ろ好都合なんでね」
 「お前も何か捜し物か。その割にアテは余り無さそうだな?」
 嫌味たらたらに告げるマサオミには動じる様子もなく、皺のよった衣服を軽く整えながらヤクモが逆に返して来る。
 マサオミは何度目かの図星にむっとした態度も隠せず、肩を竦めるのみで返答をはぐらかしたが、矢張り気にした様子もなくヤクモは続けて来る。
 「何を探しているのかは知らないが、此処にはお前の探す様なものは無いぞ。断言出来る」
 「知らないのに断言出来るのかよ」
 図星なのも捜し物の正体も気取られる訳にはいかない、とは冷静に思考するが、思わず自制出来ずに反論を返せば、対するヤクモはあっさり「ああ」と頷いた。不愉快な表情を隠せないマサオミの前を横切ると、彼は机の上で書物に埋もれていた、手帳の様なものとキャップのついた短い鉛筆とを引っ張り出す。
 「お前は、人体の代替組成に妖怪を移植したり、死者を泥人形で蘇らせる様な下法に興味があるのか?」
 「──ある訳」
 無い、と言いかけてマサオミは口を噤んだ。一瞬遅れて、揶揄された訳では無いと気付く。
 ヤクモが云うのは文字通りの下法だ。闘神士と云うよりは術者の管轄だが、そう云った所行は誰にとっても流派にとっても、基本的に忌み嫌われるものである事には変わりないのだ。当然マサオミにしたってその印象は変わらない。
 こちらは書庫のものではなく彼の私物だったのだろう、取り出した手帳にさらさらと何かを書き付けると、ヤクモはそれをジーンズのポケットへと押し込んだ。そうして手近な書棚に横倒しになっていた一冊の書物を取り出し、それを軽く振ってマサオミの方へと投げて寄越す。表情は苦笑。
 「つまり、嘗ての天流の術者が遺した、此処にあるものの殆どがそう云う事だ」
 嘗て伏魔殿へと閉じ込められた天流の遺物。流派と云う意味では同一。或いは祖先と云う事もあるかも知れない者らの所行。歴史に刻んだ偽どころか、開かれてはならない様な醜聞を前にしているにも拘わらず、ヤクモの様子は落ち着き払っている。
 「……全部?」
 投げ寄越された書物と、広い書庫とをぐるりと見渡してマサオミが問うのに、椅子の上にかけてあったマントを拡げながらヤクモが答えてくる。
 「ああ。ざっとみた限りではその手の類の研究ばかりだった。残念ながら互いに益にはなりそうも」
 「どうだかな。天流の忌まわしい所行を、適当な事を云って隠そうとしている様にも見えるね」
 遮って、鼻を鳴らして云うマサオミを見遣った侭、ヤクモは眉を顰めた。事も無げに返す。
 「隠す意味が無い。慥かにこんな研究が悪用されれば厄介だとは思うが……、そもそも隠す心算なら初めから天流の仕業だとも云わないとは思わないのか?」
 至極尤もな話である。そもそも伏魔殿へ入り真実を探っていると云う時点で、ヤクモの理念は、歴史を歪め真相を隠した大昔の天流や、規律を厳しく遵守する者らとは相容れる筈もないのだから。
 解りきっていた八つ当たりだ。マサオミはどちらとも敢えて答えずに書庫の中を無造作に歩き出した。マントを携えたヤクモがその後に続くのを物音で察しつつ、先程の散らかり様から見れば未だ片付いている様に思われる一角を指さす。
 「殆ど、だの、ざっと見た限り、だのって事はだ、未だあの辺りとかは未調査なんじゃないのか?」
 「大体のタイトルは改めた。そもそもその辺りの書物(もの)を俺が放置したのは」
 背中を追って来るヤクモの声を耳に入れながら、マサオミは手近な書棚から、少々ぶ厚い書物を一冊取り出してみる。
 途端。
 『────!!』
 声にならない吼え声と共にマサオミの手にした書物がばらばら勢いよく捲れ、その紙の隙間から妖怪が一斉に噴き出した。妖怪達は飛び出した勢いの侭天井近くに浮かび上がり、ぐるぐると不穏な動きを見せ蠢く。
 「おい!?」
 思わず書物を取り落とし、妖怪を見上げてマサオミは二歩、後ずさる。その一区画ほど後方で同じ様に、天井で渦を巻いている妖怪(それ)を見上げながら、ヤクモは「それ見たことか」とばかりに肩を竦めた。
 「殆どが偽装(フェイク)だからだ。要するに、罠」
 そうする内に、天井でぐるぐると回った妖怪達は、漸く眼下に獲物がいる事を思い出したらしい。ぐるん、と反転するとそこに佇む闘神士達の方へと一斉に飛びかかって来る。
 「そう云う事は早く云えって!行くぞキバチヨ、式神降神!」
 「はいはいオッケー!青龍のキバチヨ、参上!ってね」
 素早い降神に気楽な返事で応じたキバチヨが、名乗りもそこそこに二階分の天井へと飛び上がり妖怪達を次々に片付けて行く。だが空間の狭さ故にか、得物の一撃を何とか免れた妖怪達が新たな書棚を倒し、そこからまた新手の妖怪が溢れ出すと云う悪循環に、マサオミは苛々と背後のヤクモを振り返った。
 「おい、アンタも少しは手伝えって!」
 「自業自得、と云う言葉を知っているか?」
 未だ眠気が残留しているのか、目の縁が少々眠そうに弛んでいるヤクモは、マサオミの批難を気にした様子も無くそう云いながら腕を組むと、眼前のキバチヨの動きを観戦する様な風情で欠伸を噛み殺した。
 どうやら予想に違えず未だ眠いのだろう。
 「あとは有言実行。人の言葉を信じられない分は、自分で気の済むまで調べると良い」
 「〜何気に根に持ってるだろアンタ…」
 「おーいマサオミ君〜?いつまでも痴話喧嘩してないで、少しは戦い(こっち)に集中してくれって!」
 言葉の割には寧ろ遊ぶ様な様子を隠さず、妖怪の群れを相手取っているキバチヨを「すまん」と振り返り、マサオミは大人しく印を切った。
 「どう見れば痴話喧嘩になるんだ」
 不満そうなヤクモの声が耳に届くがそれは無視して、マサオミは意識だけでキバチヨへと戦う意志を投げる。
 右手の神操機から繋がる感覚はいつだって、どれだけ慣れた所で不思議なものではある。手や意志の延長線上にあるが、それとは決定的に違う。式神を使役すると云う事。
 印を切らずとも、言葉など発せずとも、マサオミの向ける意志にキバチヨはいつだって的確に応えてくれる。だからマサオミはそれを信じていれば良い。
 一歩取り違えればそれは、式神と云うものが己の腕の先にある武器であるのだと、そう捉えがちになる。若い未熟な闘神士に特に多い、それは驕り或いは畏れである。
 当然マサオミは既にそんな段階は幼い頃に経験し抜けて来ている。故にキバチヨの事を武器でもなく手段でもなく、況して己の意志でもなく、それに幾分近いが決定的には異なる、相棒であるのだと認識する事が適っている。
 恐らくはそれを、人は絆と呼ぶのだろう。
 妖怪達は一度砕かれると次には妖怪の様な姿形を捨て去り黒い不定形な靄の様になって、戦うキバチヨへと次々迫って来る。が、キバチヨは遊ぶ様な態度を見せた侭、それらを的確にのんびりと捌いて行く。云う迄もなく余裕の表れだ。
 「……強いな」
 不意にマサオミの耳に届く、ぽつりとしたヤクモの呟きには感嘆が込められていた。一瞬未だ寝惚けているのかと振り返ってみるが、彼は少し眠そうな表情を引き摺ってはいるものの、眼光だけは鋭く真剣に、マサオミとキバチヨの戦い振りを見ている。
 「そこいらの闘神士とは年季が違うんだよ。相性より雄弁な、培った絆もな」
 「どの程度の付き合いになるんだ?」
 「ざっと千二百年って所さ」
 冗談ではあったが意味としては正しく。マサオミが真顔でそう云うと、対してヤクモは少し笑みの乗った息を吐いた。どことなく優しげな眼差しで頷く。
 ──憧憬の様にも見えた。
 「凄いな」
 「……アンタが云うと嫌味にしか聞こえないがな」
 「心外だな。紛れなく本心だぞ。大体、闘神士としての力量と云う意味では、お前と俺とでそんなに違いがあるとも思えない」
 発言の真意を量るべく、マサオミは戦局が圧倒的にキバチヨのものである事を確認し直してからヤクモを振り返って見る。何処となく眠たげな目はともかくヤクモの表情は真剣そのもので、考え深げであった。少なくとも嘘や適当な言動とは思えない。
 同年代、同キャリア程度の闘神士としては非常に自尊心のくすぐられる話題だ。未だ若輩と云える範疇に在りながら、マサオミは正直己の実力に自信がある。実戦経験も応用力もあるし、何より式神との強い絆にも恵まれている。ついでに云うなれば、タイザンとの練習試合以外での『負け』を見た事もない。
 そこに来て眼前のこの同い年の闘神士とは、一度は刃を交えたもののその決着は未だ付かずにいる。勝負を投げたのは己の方なので今更強く不満も言えたものではないのだが、改めて闘神士としての『強さ』の話などをする相手としては抵抗が少々ある。
 今ひとつ認め難い事実として、マサオミはヤクモの強さを認めている。それもどちらかと云えば感嘆の意で。「なかなかやる」と云った褒め言葉ではない。「此奴は強い」と純粋に驚異すら感じて思う。これは敵としては殆ど初めて抱く感想だ。
 だが、己の実力に一家言あるマサオミとしては、そう易々と他の闘神士に負けを見ると云う事(可能性)は認められないのである。
 因って。
 「そもそも比べようがないだろう。そっちは五体で、こっちは一体なんだ。それにアンタ自身も容赦無く符は投げるわで、戦術からして量り様がないと思うんだが?」
 ヤクモが強い闘神士なのは認めている。が、だからと云って自分がそれに劣るとも到底思えない。のだが、どう比べるかと云う意味では性能差に些かの問題が生じる。その為マサオミの言には棘がちくちくと生えて来る訳だ。
 「では、俺の方もブリュネ一体(ひとり)として見たらどう思う?」
 そんなマサオミの遠回しの『不本意』な思考を直ぐに察したのか、ヤクモは事も無げにそう付け足すと、生徒に質問をする教師の様に、立てた人差し指をぐるりと回した。
 「そりゃあ……俺が勝つともアンタが勝つとも言い切れなさそうだが、……、正直な所を云えば勝っていると云いたいね」
 良い勝負は出来そうだ、と言外に本心を告げれば、ヤクモは少しだけ笑った。さも可笑しそうな息継ぎと同時にその人差し指がくにゃりと折れる。
 「正直だな。俺も負けてやる心算は無いが」
 「なんなら、今試してみるかい?」
 いつの間にやら妖怪を殲滅し終えていたキバチヨが、マサオミの横に降りて来るとそう、挑発的な微笑みを浮かべるのに、ヤクモは肩を竦める動作で応えを寄越す。
 「止めておこう。理由も曖昧な戦いで式神を危険に晒したり、失う様な事になるのはどちらであっても御免だからな」
 その妙に掛かる云い種に、マサオミの心の中の冷静な部分が息を呑んだ。何か今までは看過して来た決定的な部位に触れて仕舞ったかの様な、判然とはしないが不気味な心地に満たされて疑問符が浮かび上がる。
 「──そう云えばアンタ」
 思えば。何故今までこれを問わずに居たのか。気に掛けずに居たのか。
 日頃佇む足下が実は土の上なのだと今更気付いて仕舞った様な、酷く何の気無くどうでも良い空隙。
 応えは寄越さずにヤクモが軽く顔を起こす。眠気と云うよりは気怠げな眼差しで、彼は黙ってマサオミの言葉の続きを待っている様に思えた。
 或いは、それ以上は不要だと云う、決定的な拒絶だったのかも知れない。
 「慥か五年前、」
 呟いたマサオミは、タイザンから受け取った、地流の纏めた『天流のヤクモ』についての資料を唐突に思い出す。正確には何度も読み返した所為で、思い出すより雄弁に脳裏に、簡素な略歴が文面となって記憶に並んだ。
 (闘神士として立ったその子供は、太極神の災厄を鎮めた)
 闘神士として生き始めたばかりの子供に為せた事。代償。今彼と共に居る五体の式神。そして先程の、マサオミとキバチヨとを見つめた憧憬めいた表情。
 それらの断片的な事実を咀嚼して受け止め、マサオミは剣呑になる表情を隠しもせずにヤクモの事を不躾に見遣った。
 どこかぴりぴりとした空気の走る相対の中、それを先に破ったのはヤクモの方だった。
 「別に隠し立てする様なものでも無いし、その程度の情報はとっくに調べてあるのだと思っていたんだがな。恐らくお前の予想通りだ、マサオミ」
 「じゃあ、アンタは式神を」
 「……ああ。幸いな事にな。その時一度、満了している」
 言葉に曖昧な空隙はあったが、ヤクモの表情は明るい。
 (ならば何故、さっきはあんな表情をしたんだよ)
 腑に落ちない疑問が、詮を抜いた桶の中身の様にひとところに吸い込まれて行く。何処となく不快感を覚える部位へと。そんな予感を訝しむマサオミの視線の先で、ヤクモは書庫中をぐるりと見回した。特に意味がある動作と云うより、単に間を空けたかっただけの様だ。
 或いはマサオミから視線を外したかったのかも知れない。彼は顔を何の気も無い様に虚空へと向けて続ける。
 「でも再び逢う事が出来た。出会いも充分数奇だったが、これが一番の驚きかも知れない」
 そう嘯いて云うヤクモの、遠くを見遣る横顔が形作っていたのは、まるで絵に描いた様な微笑だった。
 何となく。此処まで来たら幾ら何でも幾つかの疑問や接点を結びつける事は簡単だった為、マサオミにもヤクモの指している『嘗て契約満了した式神』の正体は察せていた。
 今まで余りに自然体であった為、大して気にも留めていなかったが、成程彼らの気安い遣り取りや関係の解答は、此処にあったのだ。
 マサオミの得心を待った訳ではないだろうが、会話の終了を告げる様にヤクモが小さく息を吐いた。彼は片手に携えていたマントを慣れた様子で羽織り、首当ての紐を結んでからぴしりと弾く。
 「さて。結局此処は空振りだったから俺はもう行く。後を調べるなりするのは自由だが、一般的な下法の取り扱いに遵守して、ちゃんと結界は元通りにして行くんだぞ、マサオミ」
 いつも通りの姿に戻ったヤクモが、いつも通りの調子でそう云うのに、マサオミは慌てて我に返った。
 「あ、いや。俺ももう引き揚げるとする。慥かにアンタの云う通り、此処には俺の捜し物は無さそうだしな。それに、飯を奢るとも云っちまったからね」
 そうか、と特に気の無さそうな返答を寄越したきり、さっさと歩き出すヤクモに数歩遅れて続き、暫時間を置いてから結局マサオミは口を開いていた。
 躊躇いより雄弁なその間は、どうとも取り繕い様がない。──単純に、気掛かりだったのだ。
 「なぁ……ヤクモ、」
 口を開けば益々、どうにもならない感情を持て余す。少々余計な事だとは自覚していたが、マサオミは己の横に佇むキバチヨの事を一瞬振り返り、それから再び前へと向き直った。するとヤクモは足を止めて、半身だけをこちらへと向かせている。
 果たして自分だったらどうだろうか、とつい思考が巡るのを止められない。
 姉を取り戻し、キバチヨとの契約を満了する事こそがマサオミの、キバチヨの望みだ。
 だがもしもその先が。闘神士として『その先』があるとすれば、それはどうなのだろう、と。
 あの頃の様に微笑む。縁を結んだ存在が知らない顔で笑い合う姿を。
 或いは、敵として牙を剥くかも知れない姿を。
 『今』が幸福であればあるだけ、それは酷く不快な感情を伴ってマサオミの心を複雑に疼かせる。同情かも知れないし憐憫かも知れないし、或いは畏れなのかも知れない。
 それをヤクモは、果たしてどう受け止めているのか。浮かんだのは純粋な疑問と云うよりは、不躾な感慨だったのかも、知れない。
 「その。……どうなんだ?そう云うのって」
 主語も明瞭ではない、マサオミの漏らした問いに、ヤクモは暫し瞬きを繰り返し、そうしてまた少し笑う。
 「お前。意外と容赦無い事を訊くな」
 今度ははっきりと、それが痛みを帯びた疵であるのだと知れる。そんな微笑みだった。
 「とは云っても、だ」
 然しそんな表情を切り返したのは、ヤクモ自身の、己の言にさほど関心もなさそうな云い種。
 「今の俺には、皆が居るからな」
 その言葉を待っていた様に、マントの下に隠された神操機から消雪の式神が霊体を、ヤクモの肩の上へと浮かばせた。その頭をいとおしむ様に、抱え撫でる様な仕草をして、彼は何処か得意気にも取れる一転して鮮やかな、物怖じも虚勢も無い、晴れ晴れとさえ見える笑顔を浮かべてみせた。
 「同じ様に、コゲンタにはリクが居る。お前にキバチヨが居るのとも同じだ」
 今度こそお仕舞い、と云う風に、式神の霊体を撫でていた手を軽く振ると、ヤクモはすたすたと書庫を横切って行く。彼にまとわりついていた消雪の式神の霊体の方は、神操機へと戻る寸前マサオミを激しく睨む事も忘れない。
 その後に慌てて続きながら、マサオミは己の斜め後ろに居るキバチヨの表情を密やかに伺ってみるが、キバチヨは軽く肩を竦めるとかぶりを振った。どうやらフォローなり横やりなり気休めなりを入れてくれる心算は無いらしい。
 結局、あの憧憬めいた表情に漂わせていた、孤独に似た思いをヤクモが吐露する事は無かった。
 彼は恐らく己で云った通りに既に過去の事を割り切ってはいる。それでも時折きっと、あの温かな式神との絆を思い出す度、甘い痛痒を憶えずにはいられないのだろう。
 下らない同情だよな、とは判じつつも、同業でなおかつ敵とくれば何れも遠からぬ事の様に思えていた。そして恰もそんな不吉な予感に押し出される様に、胸の奥底に溜まった膿が今にも溢れ出しそうに感じられる。
 「そう云えば、奢ってくれるんだったよな?」
 梯子に片足を掛けたところで、ふと思い出した様にヤクモが振り返って来た。こんな時ばかり向けて来る、どことなく楽しそうにも見える表情に一瞬面喰らい、厭な予感をたっぷり憶えたマサオミは反射的に渋面を作る。
 「どうせお前の奢りなんだ。皆の分も買って天神町へ行こう」
 それには気付いているだろうに、悪びれもせずそう云うと彼は鼻歌でも歌い出しそうな風情でさっさと梯子を昇って行って仕舞う。ホールの採光窓から漏れる光に晒され、「あー」とも「うー」ともつかない呻き声を漏らしながら、よれよれと体を持ち上げて階上へと消えていく。
 「ヒトの財布だからって容赦なさすぎだろアンタ……」
 天神町、と云う量った様な提案に、拍子抜け半分むず痒さ半分の心地でマサオミが溜息混じりに、存外本質でも無い事を吐けば、背後をついて来ていたキバチヨが面白がる様に揶揄する様に小声で囁いて来る。
 「闘神士同士の勝負は兎も角、こっちでは負けが込んでるねぇマサオミ君?」
 「……良いだろ別に。ヤクモがこんなにも、弱味の一つも晒さない可愛げの無い奴だとは思わなかったんだよ」
 ヤクモとの相対がもたらす、少なからず彼の本質を剥離させている筈の情報や人となりは、毎度知れば知るだけ逆に煙に巻かれている様な気さえ憶える。それはマサオミ自身、これが只の『猶予』の中に在る戯びだと思おうとしている事にも原因があるだろう。
 つまり彼に介入するだけの覚悟や気概がまるで無いからだ。そこに来てヤクモは重そうな話を平然とした様子で、明け透けな感情で──要するに至極素直に──漏らすのだから堪ったものではない。
 それを。いつしか知りたいと思って仕舞っている己にも、全く堪ったものではない。
 (………深入り。もうしちまってるって事かね)
 陰鬱にそんな事を浮かべてみれば、キバチヨのくすくす笑いが耳を打つ。
 「君が態とはぐらかされ過ぎなだけに僕には見えてるんだけどなぁ?」
 「…………煩いな!良いからもう戻れキバチヨ!」
 「ソーリーソーリー。ま、いつでも相談にぐらいは乗ってあげるからさ」
 図星に思わず声を荒らげたマサオミから逃れる様に、両手を合わせて謝る様なジェスチャーを見せてキバチヨは大人しく神操機へと戻っていった。頼もしいんだか厄介なんだか解らない『相棒』を一瞬だけ睨んで、ジャケットの内側に神操機を仕舞い込む。
 (結局、強がりで負けず嫌いって事なんだろ。アンタも、俺も)
 声に出さずにそう、上で待っている筈のヤクモへと当てつけめいて呟くと、マサオミは梯子を乱暴に掴んだ。
 浮かんで来る、己の今後の身の振り方と今月の支出の大きさとに、取り敢えず溜息だけを返しておいた。




ロケーションのイメージは覇者印の木の伏魔殿最奥。出現が書庫って辺り気になってたのでずっと、伏魔殿の旅=そう云う所を調べ回ってるんだよと妄想していた次第。

華やかで。それ故に無惨なほどに無用。