人でなしの恋



 「や。久し振り」
 申し訳程度としか云い様のない挨拶とほぼ同時に、マサオミの両腕は眼前に居る人物へとかなり不意打ち気味の速度で伸ばされている。
 「一週間程度では久しいとも云えないと思うが」
 素っ気のない返答と、これもまたほぼ同時の動きでヤクモの身体がさっと右方向へ僅かにずれた。当然最初のマサオミの『不意打ち』はその動作で躱され、すかっと腕が宙を掻く。
 「一日でも会えなければ充分に惜しさが募るからして、その空白の時間は人生の迂遠だ。だから俺の定義では久し振り」
 しかし初撃(※不意打ち)が外れたからと云って、マサオミはそこであっさりと項垂れる程に諦め良く出来てはいない。空振りした腕を素早く翻して、右へ一歩と云う距離も動いてはいないヤクモを即座に追い掛ける。
 「それは無駄が多そうな人生で結構な事だ。無益でない限りは無駄も有限だ、精々楽しんで有り難がって生きると良い」
 その程度の追撃は予想の範疇だったのか、マサオミの右腕が目標地点に到達するよりもかなり早く、ヤクモの身体が今度は左へと、先程よりも少し大きめの移動。
 しかしそれを読んでいたマサオミは、最初に空振りしたきりでいた左腕をさっと持ち上げた。待ち構える。マサオミの動きに気付いたヤクモの身が一瞬強張るのに、得た、と笑みが浮かんだ。
 「無駄も勿論楽しみますがね、今は無駄じゃない事を楽しませて頂きましょうかと」
 急停止を許さぬ慣性に因って、見事にマサオミの左腕は向かって来たヤクモの右肩を難なく確保していた。
 だがその侭引き寄せようとする動きを許さぬ強さで、ヤクモの左腕が己の肩を掴むマサオミの左腕を捕まえて暫し膠着。
 「参考までに訊く事にするが、その楽しみとやらは曰く久しいと投げる相手に真っ先にする挨拶として適切なものと胸を張って云えるのか?」
 引き寄せようとするマサオミと、それを留めるヤクモの手との間で鬩ぎ合いが起きる。お互いに口調と表情だけは穏やかなものだから、一見した所では大の男二人のじゃれ合いにすら見えないかも知れないのだが、少なくともマサオミの内心は必死でそして全力であった。
 「云える。お望みとあらば誓約書に三回書いて拇印まで添えて断言する」
 言い切った勢いに、流石に一瞬呆れを隠せなくなったヤクモの、力が僅かに弛んだその隙にマサオミは空いていた右腕で彼の腰をすかさず捉えた。
 「失敬。問題外の少数派の意見と云うものもある事を考慮していなかった様だ。因ってお前の解答は問題外とみなす。離せ」
 引き寄せると云うより自ら近付いて来たマサオミへとヤクモはここに来て初めて明確な抗議を漏らすのだが、これだけ戦った挙げ句それに従うぐらいなら始めからこんな攻防は展開していないマサオミは、敢えて聞こえない振りはせず、きっぱりと断る事にした。
 「終わったらな」
 露骨な、目的も意図も隠さないマサオミの返答に、ヤクモの眼差しが不機嫌色に染まった。深くなる眉間の山脈と共にそれを、急激に近くなっていく距離の先に見る。
 もう良いだろうと、最初に捉えたヤクモの右肩を掴んでいたてのひらをそっと上へ滑らせ、首筋に手を添えて口唇を重ねる。
 (………?)
 漸く叶った目的だったが、そこに至る迄の苦労が全く報われない僅かの時間で、マサオミは自ら距離を開いた。
 行為に、と云うよりは居たたまれなさと気恥ずかしさとその他とでむすりと顰められた顔が至近距離にある。不機嫌の下地に敷かれた、諦念とでも云うべき──云って仕舞えば億劫さをそこに見て取る事が今更の様に叶って、マサオミは悪巫山戯の中に潜めていた溜息を呑んで隠した。ヤクモの首筋に添えていた手をそろりと彼の額に乗せる。
 「…………………熱、測ったか?」
 「いや。……矢張りあるのか。しかもお前の莫迦な勢いが思わず熄む程に」
 「ある。思いっきりあります。思わず久し振りの感激も心配に変わっちまう程に」
 今度はマサオミが諦念を呑み込む番だった。成程、ヤクモの動作がマサオミ程度でも簡単に捉えられる程に鈍かったのも、思いの外に諦めが早かったのも、全ては不調に因るものだったかと、苦々しく思うのと同時に納得する。
 「だから。たかだか一週間程度で久し振りは大袈裟だろうに」
 「混ぜっ返すなって。ンな事より、その様子じゃ全然気付いていなかったっぽいな。
 早速で悪いが俺はイヅナさんに『言いつけ』て来るから、アンタは速やかに部屋に戻って布団へゴー。はい」
 一方的に畳み掛けるなり、ぐるりと反転させたヤクモの背中を彼の部屋の方へ押し遣る。押された勢いの侭数歩進んで、それからヤクモは困った様な表情で振り返って来た。
 「これから掃除をしなければならなかったんだが」
 「……俺が代わりにやっとくから」
 打算ではない。本心なのだろう、所在なさそうに示す、片手に携えていた竹箒を奪い取って、マサオミはもう一度ヤクモの背中を今度は少し強く押した。義務感は良いがこう云う時は自重して貰いたい。
 それ以前に、己の体調不良に薄々気付いていながらも全く頓着していなかったと云う様なヤクモの云い種が少しばかり腹立しいと自覚すれば、殊更に手に力も込もろうものだ。
 ……それが八つ当たりでしかないのは、自覚の上だが。
 「後で『お見舞い』に伺わせて貰うからな。その時大人しくしてなかったら覚悟しろよ」
 「それが人を寝かしつけようとする輩の台詞か?第一何を覚悟しろと云うんだ」
 「それはその時のオタノシミ。ま、アンタが大人しく休んでくれればそれで良し」
 呑み込んだ溜息の代わりに、露骨な所を隠さない不機嫌で追い払う仕草を受けて、ヤクモは暫くの間何か反論を考えていた様だったが、やがて諦めたらしく、こちらはその侭の意味なのだろう息を大きく吐いてから、何処となく蹌踉とした足取りで自宅の方へと去って行く。
 特別弱々しい訳では無いが、普段より憶束ない様子で遠ざかって行くその背中にともすれば向けたくなる、肩透かしや気まずさに因って生じた鬱屈を何とか堪えて、マサオミは竹箒を天秤棒の様に肩に担いだ。
 取捨するまでもない選択肢を一応は連ねて、それから身を翻す。
 一:逃げるより。二:逃げるより。三:見なかった事にするより。四:先ずは社務所にでも詰めているだろうイヅナへと、事の次第を報告せねばなるまい。
 
 
 殊更に時間をかけて境内の掃除を終えた後、事前の予告通りにヤクモの部屋へと向かおうとしていたマサオミは、その途中の廊下でばったりとイヅナに遭遇した。
 「お客様にすみませんね。お掃除、お疲れ様でした。宜しければお茶をお煎れしましょうか?」
 「ああ、いえ。お気になさらず。それより様子、どうでした?」
 云って楚々とした所作で頭を下げるイヅナの手には、カラの盆が携えられている。その事と彼女の歩いて来た方角から、ヤクモの所へ行っていたのだろうと見当付けてマサオミが問うと、イヅナは軽く小首を傾げた。長い黒髪に飾られた勾玉がころりと揺れる。
 「ヤクモ様ですか?珍しく今日はしおらしいご様子でしたので、そんなに具合が優れないのかと心配したのですが、どうやら普通の風邪みたいですね。
 大丈夫ですよ、安静にしていれば直ぐに良くなられますから」
 「……そうですか」
 様子、と云っただけでマサオミの問いたい焦点を綺麗に見抜いてくれたイヅナの、何の他意も裏表も無さそうな微笑に曖昧に頷きを返す。
 どことなく姉に雰囲気が似ている所や、いまひとつ年齢不詳な点も相俟って、イヅナの時折見せるこう云った『女の勘』とでも云うべく鋭さにはどうにも慣れない。事実何の他意も裏も表も全く無いのだとは思うのだが。
 「今はお休みになっておられますから、お静かになさってあげて下さいね」
 「……………心得てます」
 挙げ句の、マサオミの心境を正しく解した上の様な、細いが鋭い釘を刺して寄越したとも取れるイヅナの云い種に、思わずと云った感で肩が落ちた。別にやましい事など考えてはいないしそう断言された訳でも無いのだが、手前勝手にも居たたまれない心地になるのは否めない。
 では、と再び微笑んで頭を下げ、その場を辞したイヅナの気配が遠ざかった頃、マサオミは溜息混じりに自らの前髪を掴んで潰した。ぽろりと呟きが漏れる。
 「……俺、そんなに邪念だらけに見えてたりする?──訳、ないよな」
 別に特別そう云った意図が明確にあった訳でも──無い。多分。ついぞこの時代を訪う度にヤクモと、本日の開戦幕開けの様な遣り取りをするのは概ねいつもの事であるし、それも既に慣例化していると云うか──勝てれば儲けもの、程度のものでしかない。筈。
 要するに、些細な悪巫山戯。挨拶の様なものだ。とは云え実際そう提言すればヤクモから間違いなく容赦も審議も排した却下が下りるだろうが。
 今だって別にやましい意図がある訳ではない。これははっきり断言出来る。それでもイヅナから釘を刺されたと思えるのは、一種の被害妄想だろうか。それともマサオミは己で気付いていないだけで、本心ではそう忠告されても仕方の無い程の邪な目的意識を抱いて仕舞って(しかもそれが駄々漏れて)居るとでも云うのか。
 「まあ。考え過ぎかな。別に眉を顰められてるとか厭がられているとか云う風でもないから実害でも無いし。それに、」
 好きなのだから多少の雑念が混じるのは致し方ないだろう──と、諦め混じりに呟く。
 実際のところ、マサオミがヤクモへと好意を振りまいて近付く事そのものを厭うきらいがあるのは、ヤクモの式神達とナズナぐらいのもので、イヅナは寧ろマサオミと戯れ(主観)ているヤクモを見て「楽しそうだ」とまで評してくれたぐらいなのだ。
 ここから基づいて考え直せば、単純にイヅナは「ヤクモ様が寝ていらっしゃるからお部屋では騒がないで下さい」と忠告をしてくれただけとも取れる、のだが。
 それでも勝手に釘や棘を浮かべて仕舞うのは、イヅナの鋭さや雰囲気に慣れないから、ばかりではあるまい。些か情けのない話ではあるのだが、マサオミ自身にも実のところそんな被害妄想じみた思考に至って仕舞う思い当たりがある。
 「俺も。大概シツコいのかも知れないけど」
 ひととき沈んだ、その癖ざわついて止まないマサオミの胸中には拘わらず、そう呟きの落ちた廊下は、冬の寒さに満ちて常よりも静閑である様に感じられた。
 その静寂の中に、或いは雑念とでも呼ぶべきかも知れない、ひとつの望みが佇んでいる。
 往くも還るも躊躇われる、前後の途の狭間に突っ立って、力無く。然し想いだけは。眼差しだけは炯々と、ひとつの結実を求めて熄まない。
 それが、小さな、ほんの些細な変化に一喜一憂する事の出来る日々の消耗の中で、置き去りにされて未だ此処に取り残されている。
 あのとき離さざるを得なかった手の。掻き抱こうとした腕の。空白が。
 (……未だ俺は、彼奴の事を諦めきれないでいる)
 未練がましい想いを抱いて、大神マサオミと云う形を取り図々しくも未だ此処に居るのだから。
 
 
 音も立てずに、ひと一人分が通れるだけの隙間を開いて、マサオミはヤクモの部屋に滑り込んだ。同じ様に音ひとつ立てずに、後ろ手で戸を閉める。
 窓もカーテンも閉ざされ、冬の昼間の陽光や空気の一切を遮った部屋は、薄暗い侭でただ静かだった。
 部屋の中程に敷かれた布団の中には、濡れタオルを額に乗せ、深く掛け布団の中に潜り込んだヤクモの、眠り立てらしい綺麗な寝姿がある。
 目蓋をぴたりと閉ざして、病人特有の不規則な呼吸を薄く開いた唇から漏らしているその様子からは、彼が本当に眠っているのか、ただ臥しているだけなのかは伺い知れない。
 何となく、前者で正しいだろうと思ったマサオミは、入って来た時同様に物音を衣擦れに至るまで殺して、空気だけを揺らしながらそっとその枕元に腰を下ろした。
 傍らには水差しと、中身を半分ほどに減らしたコップが添えてある。それらと一緒くたに、薬が入っていたと思しき包みが棄て置かれているのを見て、ちゃんと薬も飲んで安静にしている様だと、イヅナの先程の報告と照らし合わせて得心する。
 常よりも顔色の悪いヤクモの寝姿をぼんやりと見つめて、安堵とももどかしさとも憤りとも心配とも取れない、奇妙な感覚に押される様に、マサオミは密やかに吐息を漏らした。

 愛だの恋だのと云うよりは、それはもっと鮮烈なものであった様に思える。
 情や思慕。反発。敵に対する名前も無いただの嫌悪感。苛立ち。あの時から今に至るまで、消化しきれずに残ったそれらの残骸は全て、マサオミにとってヤクモと云う存在を求める理由にしかならなかった。
 或いはそれこそを恋とでも呼ぶのかも知れないが、そんな名前で括ってただ叶わぬ想いに煩悶していられるだけの人並みの『幸福』の可能性は、生憎マサオミの場合は抑止にもなりはしなかった。
 刻を違える事で諦めきれる、と思った訳ではない。実際益々想いは募った。そして募った挙げ句に、刻渡りまでを起こそうとする原動力にまで成った。
 なまじ『出来て』仕舞ったからこそ、益々マサオミに『諦める』選択肢は失われたのだと云っても良い。断られ別れたその侭、永遠に刻の隔たりに遮られ続けていたら、或いは疾うに諦める選択も視野に含まれていたのかも、知れない。
 その──或いは望みかそれとも単なる想像か──通りに、マサオミが刻を越えて戻った事にヤクモは手厳しい叱責を寄越してくれた。
 ……でも、そこまでなら、まだ良かったのかも知れない。
 (……アンタの所為にする訳じゃないが、もしも本当に。再び迎え入れてくれる様な事が無かったら、それこそすっぱりと諦めきれたのかもな)
 病人の寝顔に物思いを落として、マサオミは再び吐息を漏らした。今度ははっきりと沈んだ感情の侭に。
 果たして、諦めたかったのだろうか。と。嘯いた己に軽くかぶりを振って、眦を細める。
 咎められようが、拒絶されようが、口説いていたかと問われれば、答えはノーだ。好かれたいとは思うし愛されたいとも思うが、何よりも嫌われたくはない。決定的な断絶とも為り得る拒否をされるぐらいならば、まだ手応えの曖昧だった片思いの侭で仕舞っておく方がマシだ。
 そう──なまじ、出来て仕舞った。刻を渡る事も。それを迎え入れられた事も。ヤクモが自分を決して嫌っている訳ではないのだと云う、確信も。
 (思えばアンタは、刻の隔絶については何度も口にしたが、一度も、俺からアンタへ抱く想いそのものを拒絶した事は無かったよな)
 甘えや思い違えであるとは云われたが、ヤクモはマサオミの寄せる想いそのものを否定した事は無く、その事がマサオミにとって或いは単に都合の良い事かも知れない想像を肯定させたのだ。
 だから。刻を越える事に対する意識はただ、何処までも誠実で切実。
 ──あなたがすきです。
 ただそれだけをもう一度はっきりと、偽もなく伝えたくて、取り残された己の感情を拾い集めた。此処に再び至る事を選んだ。
 (……………それが、いつの間にかどうだこれは)
 何もかもが意に添わなかった訳ではない。だが、うんざりとした思いに押し出された呟きは、酷い不満を伴ってこぼれ落ちる。
 己の抱く慕情自体を否定する心算はない。成就を願わない訳でもない。ただ、そんなに誰から見てもあからさまと知れる程に、餓えていたのだろうかと。
 気付けばそれは傍から見ても明らかな程の、恋慕にしかならなくなっていた。
 マサオミの想いそのものを決して否定しなかった、ヤクモに対する甘えの様に。
 気付けばそれは傍から見ても明らかな程に、恋心でしか無かったと云う事だ。
 (……情けね)
 長くなった思考にうんざりして、マサオミは音もなく溜息をついた。眼前の、この概ねの思いの対象たる当人は寝返りひとつ打たず昏々と眠った侭でいる。
 昔であれば迷わず手が伸びていたかも知れない。小さな悪戯心かそれとも憎悪に程似たものを指先に潜ませて、触れていたかも、知れない。
 今は。出来ないのか、それとも、──しないのか。
 巫山戯ている様でその実目一杯に本気なのは今更敢えて説明する迄もあるまいが、一度は断られまでした、進行形で叶わぬ想いに背を押されて日毎に訪うのを止めない、その有り様を客観的に想像してみてそんな自分に失望する。
 諦めの悪さは都合の良さそうな推定事実だけを掬い上げて、猶も根を蔓延らせ続けている。その内咲くのは戀のしるしの素馨の花か。
 理由も、それとも理性も、躊躇いも。有りの侭に晒け出すには、些か猥雑なものが混じり過ぎていたのかも知れない。既に、諦めると云う考えになど端から至れない程に。
 あなたがすきです、と──ただそれだけで済むのであれば、どんなに簡単だろう。
 (アンタをただ想える程に、俺は赦されている訳でもないだろうに。それでも、片恋では我慢のならない結実を求めるだなんて。滑稽だよな)
 どこまでも続く、その上途方もない事であると確約された物思いは徒労以外の何でもない。微動にしないでいた身をそこで漸く、疲れた心地その侭に軽く背を折る事で動かしたマサオミは、臥せる想い人の姿だけを意識中に満たして停止させた。
 その侭、何の動きも揺らぎもない、静かな時だけが流れる。
 不意に用を思い立ち、暫し考えてからマサオミがそっと腰を浮かせると、その袖元を布団からつと伸びたヤクモの指に捉えられた。決して強い力では無かったが、何か咎められた様な心地になってマサオミは思わずその場に凍り付く。
 「マサオミ」
 静寂を弾いて響いた心地の良い音声は、呼んだ、と云うよりは、確認をするかの様な調子に聞こえた。
 いつの間の事だろうか、臥していた人の目蓋ははっきりと意思を持って持ち上げられ、琥珀色の瞳の焦点ははっきりと、凝固したマサオミの姿を捉えている。
 呪縛されたかの様な心地になって、マサオミは元通りに腰を下ろした。その動作を追う様にしてヤクモの頭が枕の上でことりと横に転がって、額の上の濡れタオルが布団の上へと落ちる。
 「……ひょっとして、起きてたのか?」
 袖を掴まれた侭の手とは逆の手を伸ばして、熱に温く燥いでいたタオルを取り上げながら、そのついでの様に問いを落とす。
 内心では余り穏やかとは云えない感情が渦巻いている事を悟られまいと、声も自然と顰められて仕舞う。
 この薄ら暗い室内に実に似つかわしい、もう少し磨げば物騒なものを想起させそうなマサオミの声音は然し、有り様ばかりは病人として臥している癖に意識のはっきりとしていそうなヤクモの裡の何処にも響かなかったらしい。確りと届けられている眼差しと、マサオミの袖を掴んでいる指先とに揺らぎらしきものはまるで見て取れなかった。
 「いや。寝ていた」
 「の割に妙に寝覚めすっきりしてない?アンタ寝起きそんな健やかな方でも無かったと思うんだけど」
 「そうかな」
 「うん」
 益も埒も無い様な遣り取りを投げ合って、その侭互いにどちらともなく黙り込む。
 ただ静かに時の流れだけを許す、居心地などを思うには無粋にさえ感じられる沈黙。ヤクモもそれきり何かを云う心算は無いらしく、マサオミに至っては紡ぐに値する言葉を見つける事すら出来ないし、必要性すら感じられていない。
 惜しい、とも思える奇妙な『間隔』に満たされた空隙に、然し結局終わりを切り出したのはマサオミの方だった。
 「……昼食さ。そろそろ時間だから。用意して貰えない心配は端からしてないんだが、一応は礼儀として『頼み』に行った方が良いかなーと。で、ついでにアンタの分も持って来ようかと思って。食欲、無い程じゃないだろ?」
 「積極的に摂取したい程じゃ無いが、栄養を付けないと治るものも治らんからな」
 少々遠回しではあるが、一応は諾と云う意味だろう。そう理解してマサオミは再び腰を浮かせるべく膝を付くのだが、掴まれた侭の袖に縫い止められる様に、半端に動きをまたしても停止せざるを得なくなる。
 「……………………………あの、だから、昼食」
 マサオミは別に心底困っていた訳でも無かったのだが、表情が自然と心底に「困り果てました」と訴えるものになって仕舞う。それに対してもヤクモの様子は全く変わらず。
 「それは解った」
 「アンタの分とか取って来ないと」
 「ああ」
 「いけないなと思ってるんですけど」
 「だから。解ったと」
 最後は少しだけ、しつこい、と云う意が込もった首肯だった。マサオミとしては自分から沈黙を破った挙げ句、更に自分からこれを切り出すのは正直気が全く進まなかった為、浮かべた己の表情その侭に所在のない心地を持て余して、ちらりと、臥したヤクモに確りと掴まれている袖口を見下ろした。
 本気で解っていないのか、それとも惚けているだけなのか。訝しむよりも、そう口にする事で恐らくは何の躊躇いもなく離れて仕舞うだろう指の引っかかりを、惜しむ。
 「…………これ」
 余り明確とも云えないひとことだけで、マサオミは袖口を掴むヤクモの手指を示した。
 いっそからかって仕舞えば良かったのかも知れない。縋ってくれているのか、頼りにしてくれているのかと。今日遭遇した最初の様に、いつもの様に、笑って浮かれて仕舞えば良かったのかも、知れない。
 だが最早、そう巫山戯て仕舞える程には、今までの、真摯で行き場のない己の思考は軽くないものだった。
 だから理由を問いもせず、ただ惜しむことだけを態度で示す。
 然し、仮令どちらを取っていたとしても、それを契機にこの指が離れて行って仕舞うだろう事は、想像には易すぎた。
 「……………」
 言葉もなく、小さな吐息ひとつを残して、ヤクモの指がマサオミの袖から離れた。するりとほどけて布団へ戻って行く。
 出しっぱなしで、冷えていただろうか。そう思って目はヤクモの動きを追うが、彼の方はマサオミからもう関心を失って仕舞ったかの様に、目蓋を再び閉ざして仕舞っている。
 「ヤクモ、」
 何かを違えただろうかと、不意に落ちた罪悪感に程似たものに押されて名を呼べば、そんなマサオミの弱さを嘲笑う様な──或いは失望する様な──ヤクモの溜息が静かに返る。
 「振り解いて行けば良かったのに」
 なんの事もない様な、軽い提案に似た一言は然し、マサオミにとって真に払い難い失意を伴っていた。ヤクモも恐らくはそれを解ってて口にしたのだろうと、直感的に悟る。
 試されていたのかも知れない。
 それとも、共感を得ようと思ってくれていたのかも知れない。
 或いはあの時の別れの様に、マサオミが諦めに似たものを憶えるのを、待っていたのかも知れない。
 「…………………それは無理な相談」
 だからこそ、憮然とするよりももっと易く浮かんだのは、酷い安堵だった。
 同時に知るのは、諦めきれない己の抱く、恋心の残骸とでも名付けるのが相応しい、形のない質量。
 それにこたえるヤクモの意思こそが欲しいのに、それを何処かで畏れている。これは矛盾ではなく本能だ。
 嘗て己が傷つけたひとが、その瑕をこそ負わせた相手を、赦してくれたからこそ、罪悪は払拭し切れずに凝っている。
 赦しを疑う訳ではない。赦されても良いのかと信じ切れない訳でもない。その瑕を、この身勝手な己の想いそのものが再び切開するのではないかと怯える──本能的な恐怖感。
 再び会う為に、己の想いをもう一度吐き出す為に、答えこそを求めて、時を越える事をも辞さなかったその癖に。
 そして、なによりも。
 諦めはしないと、出来ないと、思い知って仕舞ったその後で猶。存在そのものを厭われている訳ではないのだと決め込んでいたその侭で猶。再び想いを乞う事が許されなければ、拒まれたならば、果たしてどうしたら良いのか。
 だから、一見して巫山戯た感情を先に置いて距離を測る。ああ、拒絶はされまいと云う安堵を繰り返し呑んで、その狡い甘さに浸る。
 あなたがすきです、と──ただそれだけで済むのであれば。どんなに簡単だろう?
 「……そうか」
 薄く開かれた目蓋が、未だ立ち上がる事も出来ないマサオミの姿を透かして、何処か遠くを見つめて。小さくそう呟きを漏らした。
 拒絶ではないが、明確な許容でもない。ただの首肯。
 それを確認してマサオミは、矢張りいっそ巫山戯て仕舞えれば良かったと思った。
 思ったと同時に、それが卑怯な逃げであると気付いて、らしくもないのかも知れない弱気に溜息を呑み込んで、そっと立ち上がる。
 当然の様に、今度は引き止めるものは何も無かった。
 
 
 己が惜しまれたからこそ、掴み留められたなどと。思いも出来なかった。





もうね書いた当時の自分に問いたいんですが多分にヘタレ属性なんだと達観が帰って来る気が。
いやね、うちの碌でなしな流れではやっぱりこう厚顔で再び仲良く〜って訳にはいかない筈なので(ただシツコさに絆されただけじゃ拙かろうと)、「ヤクモを振り向かせるべく口説くよ篇(…)」いつか消化しないとしないと…と。

あなたと云うヒトガタに懸想しているのだと云う、手前の鋳型。いっそヒトガタらしく筺の中で大事に囲おうか。