イーアネラレギン



 「何だってアンタはこう考えナシに行動するかな……。いや考えてはいるんだろうが打算的じゃないって云うか勝率を考えずに取り敢えず張るって云うか」

 ごう、と耳元を走り抜けていく風の音は相当大きい筈だと云うのに、呆れた様なマサオミの声音はその間隙を縫うかの様にヤクモの耳へとはっきりとした響きで降って来た。
 それだけ声量が大きかったのか。それとも内容が明瞭な訴えだからか。
 「咄嗟の行動は反射だからな。思いつきでも打算でもないのは当たり前だろう」
 両方かも知れない、と考えついでに一応正直な所を返しながら、眼下にだだっ広く広がる水面の先をぼんやりと眺めてみるものの、渺茫とした伏魔殿のフィールドは水の先に標となる地平も陸地もなにひとつ見せてはくれていない。いつの間にか結構な距離を進んで来たらしく、振り返ってみると先程まで居た陸地が遠くに霞んで見えた。
 高度もかなりのものだ。意識を切り替えれば、水面をこちらに目指して泳いでいるタンカムイの様子が知れるにも拘わらず眼下にそれらしい魚影(魚ではないが)は見て取れない。小さな姿は波立つ水面に紛れ、こんな高所からでは視認する事が出来ないのだろう。
 「その『反射』が問題なんだって云ってるんだよ俺は。アンタ自分に対する危機意識とか思いっきり抜けてるだろ絶対」
 はあ、とこれみよがしな溜息と同時に、掴まれていた左腕に少し力が加わった。いい加減人間一人の体重などを片手にしていては辛いだろうに、その膂力に揺らぐ様子は全く無い。咄嗟に符でも使ったのだろうか。思いながら何となく腕の先を見上げてみれば、苦さと云うよりは凄味のあるマサオミの表情に行き当たる。
 「幾らアンタが凄腕の闘神士だって云ったってな、人間に出来る事の限界なんて軽いんだよ。あんな風に動けば落ちるし、落ちたら下が水でも大怪我は免れないし下手したらその侭──!」
 「ちゃんとタンカムイがフォローに回ってくれていたからそれは杞憂だ」
 ヤクモの身が崖から離れた時にはもう、最初から降神されていたタンカムイは素早く崖を蹴って水へと飛び込んでいた。仮令マサオミが間一髪ヤクモをこうして確保しておらずとも、せいぜい服が濡れる程度で済んだだろう。
 「そもそも、あんな所で足を滑らせるお前が原因なんだと思うが?」
 真顔でそう云えば、マサオミの顔が露骨に顰められた。吐き捨てる様に睨まれる。
 「〜だからこそ余計ムカついてるんだよ、悪いか!……敵を助けて自分が代わりになるなんて、どうかしてる…!」
 「目の前で何の備えも無く転落した人間を見殺す方が、余程どうかしてると思う」
 「転落してない!〜そりゃしかかったかもしれないが…、問題はそんな事じゃなくて、アンタにとっての敵を」
 「敵はイコール見殺して良いと考えるのが正しいとは、俺には思えないからな。その基準はお前の価値観だけで通じるものだろう。同意しろと云われても困るが、批難されるのはもっと困る」
 「………」
 二度の簡潔な返答だけでマサオミの激昂らしき言い分をさらりと躱せば、それ以上続ける言葉も見つからなかったのか。或いは無駄だと思ったのか。彼はどちらとも判断し難い表情で、ぷいと顔を横へと向けた。
 少なくとも納得した類のものではないのは明かだ。
 ヤクモは暫くの間、わざとらしく背けられたマサオミの顔を見上げていたが、首が疲れて来たのを契機に視線を下方へと戻した。
 マサオミが何処を見ているのかはヤクモには解らなかったし、どうせ過分に関わりたくないのはお互い様だろうからそれはどうでも良かった。だが、細かな棘を呑み込まされている様な沈黙だけは酷く居心地が悪くていけない。
 謂われの全く無い事で責められている…とは惚けても云えないところだが、互いの主張が擦れ違っている以上は仕方のない事だ。それについてはヤクモは寧ろ諦めている。
 故に。この居心地の悪さは、ヤクモ側の諦念とは異なった部分で感じるものだ。
 言葉や雰囲気より余程雄弁で明瞭な負の感情。嫌悪とまでは行かない、理由もなく毛嫌いされているのにそれは多分近い。
 (……敵意、かな)
 それは天流の闘神士へと向ける、正体不明の闘神士としては別段間違いのないものだろう。それを居心地が悪いなどと真っ当に受け取るヤクモの方が寧ろおかしいと云えるのかも知れない。当てられる敵意には敵意で受けて立つのが恐らく相応しい。
 (相応しくない、などと判じる義務はどちらにも無い筈だと云うのに)
 不毛だ、と一般的な感情ひとつで、マサオミが露骨に不可解そうな態度を隠さない事に僅かに憶えた疵を呑み込むと、音のない溜息を吐き出す。
 ただ、立ち位置や流派、目的意識と云う、明確ではあるが所在の明かではないもので黒や白を断じて仕舞うのは勿体ないと思うだけだ。
 だからこそか、痛みを刺した棘は喉から消えていかない。掴まれた左の手首も少し痛かったが、呑み込んだ得体の知れない感傷の方が余程痛い気がした。
 そんな、痛みに耐えるのに似た暫しの沈黙の後、マサオミの片腕を取ってぶら下げていたキバチヨが緩やかな速度で旋回の軌道を取りながら声を上げる。
 「ところでさ。元居た陸地に戻るのでいーんだよね?マサオミ君?」
 「ああ。適当に進んだ所で陸地があるかどうかも定かじゃないんだ」
 「はいはい──っと」
 己の闘神士の、不機嫌を孕んだ返答に、いつも見せる様な軽口は叩かずキバチヨは素直に希望を実行する。片腕にぶら下げる形になっている二人の人間に負担をかけない様に、大きい円弧を遅い速度で描いて、元来た方角へとUターンしていく。
 風圧は強かったが、本来この高度に居てこの速度で感じられるものよりは随分弱い。やはり咄嗟に何か符でも用いたのだろうと、もう一度疑問に一人で答えを提出して、ヤクモは大人しくマサオミの腕にぶら下げられた侭、だらりと下げていた右腕を──その手に強く握りしめていた神操機を持ち上げた。こつ、と額に軽く当てて目を閉じる。
 意識して捜索せずとも、今遙か下方の海を泳いでいるタンカムイとは『繋がって』いるのは解る。言葉を届けようと叫ぶ必要など無く、繋がった感覚へと簡単に今の状況を示してから目蓋を持ち上げた。
 念のためにもう一度、大地のない己の足下と、その遙か遙か下で揺蕩う水面に視線をその侭投げて見るが、矢張りと云うべきか、相変わらずその何処かに居るだろうタンカムイの気配も姿も直接探る事は叶わない。
 それでも意識だけは届く。心だけは繋げられる。慣れて猶不思議なその感覚は、心地の良さに似たものを想起させる。
 酷く簡単なその伝達は、闘神士とその恃む式神だからこそ出来る所行であって、他のことでは上手く行かない。だからこそ難しくて、悩まずにはいられないが──実感としては多分悪くないものだ。
 話せば解る、とは云ったものだが、強ち間違ってもいないとヤクモは思う。
 感情だけでは届かない。一方的な視点だけでは何も見えて来ない。言葉を交わさなければ、お互いの気持ちを認め合わなければ、在る筈のものですら見誤る。
 或いは。見えている筈のものにすら、目を閉ざす。自主的な感慨を排して、己の『在るべき』立ち位置からものを見ようとする。
 向かい合うべき場所にそもそも相手がいなければ、言葉すら交わせない。伝うべき手段は沢山ある筈なのに、どうして彼はそれを選んだのか。それを唯一と奮い立たせるのか。
 (『敵意』、か)
 胸中で反芻してみる。彼のそれは、果たして何へと向けるものなのだろうか。
 そんな事をふと思って顔を少し上げて見ると、丁度こちらを再び見下ろす姿勢になっていたマサオミの眼差しに当てられた。別段そう値する理由があった訳でもないのに、ヤクモは我知らず息を呑む。
 「……アンタは少し不用心過ぎる。愚かだと云い直しても構わない」
 「…………」
 愚鈍である、と告げながらも、その眼差しは己より格下のものを見下す類には到底見えない。
 「他人を、敵を、助けてやれる程の余裕や自信か?あるとでも?──…いや、あるんだろうな。その癖アンタの『自信』をヘシ折れるだけの隙がいつも無防備に晒されてるから、見ていると本当苛々する」
 正しく苛々と。何故こんな事を云わせるのだと、そう文句を云いたげな──実際文句なのだろう。些かお門違いな風ではあったが──マサオミの言葉に、ヤクモの感情は反射的に上向いたが、抗議をする前に反芻して、よく解らなくなって考え込む。
 ヤクモとしては、マサオミへの相対は比較的に『自然体』で居た心算だったのだが、どうやらマサオミにとってそれは彼曰くの『苛々する』事でしかないらしい。
 ……そこまでは解った。
 マサオミを──彼の言を借りれば『敵』を、助ける事がそもそもおかしいと云う。
 それはヤクモにとって、先程の遣り取りで告げた通りだ。お互いの価値観の違いと云えばそれまでなのだし、現にそれでマサオミは一度は引き下がっている。
 だが、彼の云う『苛々』の正体は、どうやらそこにあった訳では無い様だ。
 (〜……助けるとか以前に、俺の行動そのものを咎められているのか?これは)
 ヤクモとて日和見に曰く無防備で居る訳ではない。マサオミに対して警戒を抱く必要が感じられなくなっている現状を把握した上で、彼に対する態度を改める必要がない、としたのは只の安穏とした思考から来るものでは決してない。全てを踏まえた上で、己の行動に対するリスクと責任とをちゃんと理解して選んで猶、正す必要性がないと云う結論に至っているだけの事だ。
 仮にいつかマサオミが背後から刃を向けて来た所で、それを卑怯だと罵る様な心算は一切無い。逆に己の判断が間違っていたと悔いる事もないだろう。ただその時尽くせる全力で『敵』を迎え撃つ。
 そして叶うならば闘争の理由を知りたい。『敵』として配された事に意味がなかったなどとは思いたくもない。
 更に贅沢を言うのであれば、目先の『敵』云々よりその理由そのものをなんとかしたい。
 それがヤクモの、闘神士と云う根源であるが故に。
 ただ刃を相手に突き立てることだけが戦う目的ではないのだと知るからこそ、理由を知る必要がある。それはこの『旅』の目的となっている事でもある。
 「……それが気にいらないとか苛々するとか云われてもな……」
 思考から続く呟きが思わず漏れた。噛み合わない意見の遣り取りだからか、先程から困惑ばかりさせられている気がする。
 「要するに、寝首を掻かれない様に精々気をつけやがれ、と云う事で良いのか?」
 伏魔殿での行動や、闘神士の事について妙に実用的な一家言を持つマサオミだからこその忠告なのだろうと、前向きに受け取ろうとしたヤクモだったが、こちらを見下ろした侭固定されていたマサオミの表情があからさまに沸点寸前になっていく事に気付くと、結局『困った』と云う袋小路に再び戻されるのを感じて口を噤んだ。
 ……愚鈍である、と告げながらも。どうして解って貰えないのか、と縋る様な色を孕んだその表情はよくよく考えれば、ヤクモと同じ様に、『困った』としか云い様のないものにも見える。
 「………………ひょっとして、掻きたいのか?寝首」
 困惑を抱えた侭、ヤクモは思わずそう呟いていた。
 眈々と狙っているのに、いつでもどうぞと云わんばかりの隙に、闘神士としての矜持が許さないとか、そう云う──いわゆる好敵手的な考えでもあったのかも知れない、と思ったからなのだが、何故かマサオミはあからさまな溜息を吐き出して寄越した。当たりとも外れとも宣言はない。
 「だ、としたら、なんでわざわざアンタにそんな事忠告してやらないといけないんだよ」
 呆れ──諦めかも知れない──を多分に含んだ声音でぼやくと、マサオミは両肩を軽く下げた。だが逆に、ヤクモの手首を掴んだ手の、指先にまで力が込められる。
 「やっぱりアンタには解らないんだって事を実感したよ」
 そう──腕に込もった力とは真逆に、マサオミは力の全くない言葉を投げてから、そっと視線を顔ごと前方へと戻した。向かう風圧にか僅かに目を細める。
 先程マサオミが転落しそうになった崖際の道もはっきり視認出来る程に、気付けば陸地は随分と近付いて来ていた。崖の下、波を砕いている岩の上には先に戻って来ていたタンカムイがちょこんと立っており、上空のヤクモの接近に気付いて手をぱたぱたと振っているのが見えた。
 その様にヤクモが目元を緩めている間に、キバチヨがゆっくりと高度を下げて陸地へと滑空していく。
 「降りるよ」
 式神の簡潔な言葉に首肯を返す前に、いきなりの落下感がヤクモの全身に走った。先にマサオミがキバチヨの手を離したのだ。
 「──」
 一瞬の不快感に息を呑むより早く、草地に足がついている。とと、と押し出される様にして数歩を進んだ所にマサオミが続けて降り、手を掴まれた侭だからヤクモは危うくバランスを崩しそうになって何とか止まる。
 着地の時差と軽さからして矢張り何らか符を使っていたのだろうが、まるで先程までの遣り取りの意趣返しの様な状況に、ヤクモは憤然としかかった感情を鎮めた。それでも振り返ってみれば、マサオミは「それみたことか」と云いたげな表情をしている。差し詰めこれも彼の云う、一種の「寝首を掻く」事だと示したのだろうか。
 一方的に腕を掴まれていたのはこちらだが、それもある意味では『隙』だ。現状に関しては反論の余地もない。
 ただ結果が、単なる悪戯であったから今も生きているのだ、と。そうまざまざと示された様なものだ。むきになるだけ下らないとは思いつつも、マサオミの手を少し乱暴に払う。
 「……」
 少し考え、矢張り止めて、それでももう一度考え直しながら、迷い同様に所在を失った手でヤクモは纏ったマントの襟ぐりを意味もなく摘んで引いた。塩気のない海風は実相世界のものと異なって不快な感触を皮膚に与えていないから、僅かの湿気は布地を引き剥がす程には至らない。
 それでも数秒程は指先に引っ掛かった布を弄んで、それからヤクモはマサオミの方へと向き直った。果たして迷うだけの価値があったのかと訝しみながら、告げる。
 「だが、しなかった。……それでこの話もお仕舞いだ」
 主語のない指摘に、然しマサオミの表情が剣呑さを深める。図星だったと云うよりは、嫌味であったとでも取ったのだろう。
 寝首を掻けたのだと雄弁に示して、実際行ったのは意趣返し。悪戯ひとつ。
 出来るならばいつでも可能だったのにも拘わらず。
 (……『しなかった』のは、そう云う事だから、だろうに) 
 顰めた顔を隠さない、マサオミの右手の中で神操機が強く握られ音を立てる。確かに本人の云う通り『苛々』していると云う事なのだろうが、その苛立ちは到底ヤクモ由来と云えるものでは無いとは流石にいい加減見当もついた。
 「お前は、敵(俺)の寝首を掻きたいのか、それともしたくないのか。
 自分で決めかねているから、俺(こっち)の態度が悪いんだと言い掛かりをつけている様にしか見えない」
 まさか気付いていない訳ではないだろうとは思う。己の言い分がヤクモへの言い掛かりであると理解しているからこそ、苛々と文句を募るのだろうから。
 だがこちらを見据えたマサオミの表情は、図星を突かれたと云うよりも、思いも掛けずぎょっとした風ですらあって、寧ろヤクモの方が驚いた。
 何でそんなに動揺するのだろうと訝しんだ一瞬で、マサオミは苦いものを呑み込んだ時の様な表情を通り過ぎて、苛立ちや怒りを孕んだ様子に戻っていた。
 「アンタが自惚れる程の『何か』なんて、生憎無いね。逆に、何で機会はあるのに生かされてるんだとでも訝しんだ方が建設的だぜ?」
 他の神流闘神士は躍起になってヤクモを付け狙っているのだから、それはない、と断言出来るだけの根拠も自信もヤクモにはあったのだが、揚げ足を取る様な反論では火に油を注ぐ事になりそうな気がしたので黙っておくことにした。
 憎む理由こそあれ、生かす選択肢を含む好意的な理由など──神流の、天地流派への感情を推察してみれば、悲しいぐらいに思いつかない。
 だから。恐らくこれは、神流と云う組織ではなく大神マサオミの個人的な感情に因るものなのだ。
 「…………では何故、お前は俺を倒さないんだ、と問うべきか?」
 それは逆に。何故マサオミはヤクモを生かしておくのだと云う答えでもある。
 そのことにいちいち苛立つと云うことはつまり、それは彼にとってなにかが破綻している事でもある筈なのだ。組織か目的か感情か負担か、何かを抑えなければならないからこそ、迷った末についぞ出た、『敵と云う立ち位置に居て躊躇わず倒す理由をくれないヤクモが悪い』と云う言い分に繋がっている。
 「何を迷うのか知らないが、敵だと云いつつお前の方が俺をそうでなくしている事に気付い──」
 風切り音に自然と呼気が途切れた。
 目の前──ヤクモの喉の皮に触れるか触れないかの位置に、キバチヨの得物である槍の先端が突きつけられている。
 「……」
 声帯を震わせただけで届きそうな距離にある冷えた刃の感触に、驚いているのはヤクモと云うより寧ろ動いた式神本人の様だった。
 おや、と云いたげな表情で、キバチヨはヤクモに槍を突きつけた姿勢はその侭に、目だけを動かして背後で神操機を構える闘神士の姿を盗み見た。
 「……本気みたいだね。珍しいよ、結構な殺意」
 ヤクモの生殺与奪を決める一手を携えているにも拘わらず、キバチヨは戯けた様な口調で小さく囁いて寄越してくる。
 少々驚いてはいたが、抵抗や躊躇いの気配がない以上、式神として闘神士の意の侭に動いた結果と云う事だろうか。仮令名落宮へ堕ちる運命だとしても、刃を僅か突き出せと云う意志さえ受ければ応じるのだろう。
 「アンタを倒さない理由は──殺してやりたくなるからだ」
 天流は敵だ。天流が憎い。そう、今まで怨嗟を漏らした神流闘神士達と同じ、薄ら暗い眼差しでマサオミは嗤っていた。
 それを鵜呑みにする気など毛頭ないヤクモは、崖を登って近付いて来るタンカムイの気配を感じていたのもあって、無造作に手を上げるとキバチヨの槍を横へと軽く退けた。キバチヨの方も元よりマサオミの殺意を受けてはいても、実行段階に無かったからか、大人しくヤクモに除けられる侭槍を引っ込めてくれた。
 こんな殺伐とした場面を見せたら、己の闘神士の事に関してはリミッターの緩いタンカムイが激怒するのは目に見えている。
 ヤクモのそんな懸念までを読み取ったかは定かではないが、青龍の式神は何処か同情的な視線で肩を竦めてみせてきた。受けて、喉元の刃の感触から解放されたヤクモは、意識して大きく息を吐いた。
 殺してやりたくなるから、倒さない。
 「…………堂々巡りだな。では何故殺さない?」
 反芻に小さく呟きを返すが、キバチヨを神操機に戻している最中のマサオミには届いていない。問いかけたい訳ではなかったから、ヤクモも二度は繰り返さない。
 (殺す気なんて無かったから、式神に手を挙げさせたんだろうに。それを解っていたから、式神も躊躇わなかったんだ)
 本当に殺して仕舞おうと、命を断って仕舞おうと思うのならば、自ら手を挙げれば良いだけの話だ。式神を名落宮へ堕とすリスクなど一切不要。
 実際それを躊躇わない闘神士も中には居る。式神の魂を汚させ名落宮へと堕とす事を厭わない闘神士も逆に居る。
 当然、ヤクモはその何れも選ぶ心算など無く、マサオミもまた同じ質の闘神士だろうとは確信すらして仕舞っている。
 敵と云う立場にあるものを憎む。プロセスは理解出来る。だがそれには『敵』を『憎む』べき大前提が必要だ。意味もないものに憎悪或いは関心を向け続けることなど、普通は出来ない。
 (……『敵』だから、殺してやりたい、か。倒すだけでは飽き足らないのが『敵』たる天流の資格)
 自分で先程諳んじた通りの堂々巡りを並べて、それからヤクモは苦い表情で喉を鳴らした。神操機を上着の下に仕舞い込むマサオミが、余り宜しくないその気配に気付いたのか、顔を起こす。
 「自分の言葉と感情とで語る気はないのか。『敵』だと名付けられた宿命だけで人の正体を決めつけられるのは、少しばかり気に入らない。
 敵の処遇を決めかねた、その地点にあったものが答えで、恐らくは正しい」
 仮令それがヤクモのものとは逆のベクトルであったとしても。己の裁量に委ねられない程の、目的意識の遵守と云う大義名分すら選べないそれは、決意のないただの迷いだ。
 もしもその『迷い』の天秤を、本能と感情とを無視した強い意志だけで傾けようとしているのであれば──それはなんと苦痛を伴うものだろうか。なんて愚かな行為だろうか。
 飾りすらない、ヤクモの真っ向からの指摘に、マサオミは一度だけかぶりを振った。
 剣呑さを湛えた表情は一転して。
 (……ああ、やっぱり。苦しそうだ)
 「それは、アンタにだけは云われたくないな。アンタだって身に覚えがあるだろうに」
 忘れたとは云わせない、と、マサオミの口が歪んだ弧を描いた。
 その先に続く言葉はわかっていたから、ヤクモは黙って憶え深い痛苦にそっと身を任せる。
 「大切なものを取り戻す為に、自分の立ち位置こそが正義、目的への指針だと信じて、ただ『敵』を倒して来たからこそ、貴様は今此処に居るんだろうが!」
 ……目的や、望みを。『敵』達も抱いていたそれを、全く考えなかった訳ではない。
 ただ、父親を救う為だと云う目的の方が大きくてそして絶対だった。
 そしてまた『敵』達も、ヤクモの識る事の殆ど無かったその目的や望みが絶対だった。
 全員が全員と、わかり合えなかったと断じる事など出来ない。北条ナナやマリの様に、わかり合う事が出来た『敵』だっていたのだから。
 今更マサオミの口から弾劾を受けずとも、そんなことはヤクモとて解りきっている。
 だからこそ、同じ者を止めたいのだと云うのは、当事者から見ればただの傲慢か世迷い事。
 「──」
 ヤクモは長い一呼吸で、マサオミの怒りに似た苛立ちを呑み込んだ。苦みと痛みだけはその侭にして、心の中ではこれにだけ小さく謝罪する。
 (だから、俺はお前を見放せる気がしないんだ)
 同情とは多分、違う。だが、きっとよく似ているそれは、マサオミの迷いとは決定的に異なる一つの決断だ。マサオミが最も欲しくないだろう天秤の分銅だ。
 だから、口にはせず謝罪する。知れば彼は恐らく酷く憤慨するだろうから。
 『敵』となったとしても、絶対にこれだけは変わらない。変われない。譲れない。それは彼にとって不本意で不愉快なことだ。
 敵意があったとして──そこに悪意はないのだと、騙されていたい。だから謝る。前置きの様に。承諾などない勝手さは承知で。
 「……」
 それきり黙り込んだ侭になったヤクモをどう思ったのか。マサオミは小さく舌打ちをしてから乱暴にジャケットのポケットに手を突っ込んだ。僅かに横を向いて、立ち去る暇を探す様に周囲に視線を意味なく走らせている。
 「お帰りヤクモ!怪我とかしてない?ヘンな事もされてない?大丈夫?」
 そこに、タイミングが良いのか、空気を読み損ねたかの様に、崖の淵からタンカムイがぴょいと飛び上がってヤクモの方へと飛んで来た。案の定渡りに船と、マサオミが無言で背を向ける。
 余りの間の良さ(或いは悪さ)に、ひょっとしたらタイミングを窺っていたのだろうかと苦笑しながらも、ヤクモはタンカムイを抱える様に迎え入れながら口を開く。
 「また、な」
 「…………ああ」
 その背に向かってヤクモがごく普通に声をかけると、符を取り出したマサオミは暫しの逡巡の後に首肯して返した。
 目前で戸を開く界門へと足を踏み入れながら、彼はほんの僅かだけ振り返った。
 「次に機会があったら、今度は逃がさない」
 皮肉めいた笑みを浮かべている様に見えたのは、光の具合だろうか。もしも本当に皮肉であるのだとしたら、棄て台詞めいていると思ったからなのかも知れない。
 「その気も覚悟もないのにだっさいよ。ヤクモに八つ当たりばっかしちゃってさ。自分のヘタレさとか棚上げ丸投げ。ヤクモ、気にしない方が良いよ?」
 閉じた界門が消えた途端のタンカムイの真っ黒な舌先に、やはりタイミングを窺っていたのかと苦く目元を弛めながら、ヤクモは神操機を式神へと軽く向ける。
 「別に、気にしてもいないさ。今更真実に言い訳をしたい訳でもないし、それにこの痛みは必要な事だからな。
 ──あと、立ち聞きは感心しないぞ、タンカムイ」
 「だってなんか必要以上に殺伐としてるし、なんか彼奴には関係ない込み入ったこと云ってるしで、戻り辛くって。これでも空気、読んだつもりなんだけどなあ?」
 怒りを孕まないヤクモの諫めに、当のタンカムイはあっけらかんとした様子で軽く二、三歩ステップを踏んで、それから爪先でくるりと器用に回転して振り返った。
 「……別に、同情とかじゃ、ないんだよね?」
 彼奴に対しての。と言外にしない念押しに、ヤクモは小さく頷いた。見透かす様な天の蒼さを仰いで、もう一度、今度ははっきりと頷く。
 「聞けば彼奴は同情だと思うだろうが、そこまで履き違える程俺は器用じゃないんだ」
 「そ。ならよかった」
 こちらは尊大そうな頷きを返して、神操機の裡へと戻って来るタンカムイ。
 見届けてから神操機を収めて、ヤクモは崖の淵に残されている、出会い頭そう立たぬ内にマサオミが足を滑らせた跡を振り返った。その部分だけ土が軽く靴跡で剔られ、断崖の小石を幾つか眼下の海へと落としている。
 そこから少し視線を横へとずらせば、蹌踉めいたマサオミを救おうと跳んだ己の軌跡。
 それ以上の事は流石に残されても再現されてもいないが、これこそが動かぬ証拠。ヤクモの行動が確かに反射的であり、それに対して何を云われた所でそれは揺らがない。
 「逃がさない、って事は、逃げられない、って事か」
 (お前が最後に取るのが敵かそれ以外か何れであっても、抜かしただけの事はして貰いたい所だが……さて?)
 呟きの後半は声には出さず、物騒かも知れないと笑いはしたが、ヤクモの表情は何処までも真剣そのものだった。
 自分の感情がした結論ならば、それで良い。彼らを討つ事に理由は求めど、迷いは一切無かった。浅薄な者こそ酷く単純で正しいのだと云う証明の様に。
 それに克つ事こそが正義の名を許された勝者なのだとしたら。

 (……俺は本当に逃げられないと云う事になるのかも知れない)

 尤もそれは、マサオミの決断の前提次第なのだが。
 「…………ここには特に何もない様だし、先を急ごう」
 拡げるだけ拡げられた、真摯なのか滑稽なのか解らない遣り取りも、崖上の救出劇の痕跡と共に置き去りにして。
 事務的なひとりごとを宛もなく投げると、ヤクモは翻したマントの内から取り出した符を発動させた。




いつものもとい今までのお二方とは感情設定がちょっと違うところで状況懐かしい感じって云う心算だったんですが蓋を開けたらあれなんか大して変わらなくね?(ワンブレス
あ、殺意がないから従ったと云うより、闘神士がマジギレした時って式神の意志関係ないって云うアニメ中の様子からです。ランゲっさんみたいにストライキ起こすと式神も負担キツいんじゃないかとか妄想設定。いや今全然関係ないですけど。

にげられない。