それは或いは苛立ちにも似た感情だったのだろう、とは思う。
 決して相容れる事のない質であると理解したからこそ、その不可解さに激しく嫌悪し、逆に──羨ましくて堪らなくなった。
 どうやればそう在れるのか、と云う問いは、どうやればそれを穢せるだろうか、と云う欲求への答えにもなる。
 理解の無いものを払い除けたいと思うのは、子供の癇癪に似た反射だ。
 ……それ程までに、溺れる事を拒否したかったのかも知れない。



  仇敵の言い分



 ばしゃばしゃと水飛沫を散らし、波打ち際がきらきらと光る。
 「わーぁ、見て見てキレーイ!」
 「ねぇねぇあっちのアレはなにかしら?」
 白砂の上を歓声を上げてはしゃぎ回っているのは二人の少女達。見るからに活発そうな年頃の乙女上善寺モモと、どことなく大人しそうだがその実奇矯な麻生リナである。
 「おいお前ら、あんまりはしゃぎすぎてんなよ!」
 一応彼女らを宥める役割なのか。香味屋リュージが腕を振り上げて叫ぶが、きゃいのきゃいのと騒ぐ少女らには余り効果が出ていなさそうだ。
 「上善寺さん、麻生さん!調子に乗ってまた前回の様な事になっても知りませんよ!」
 「えー、だってそうなっても平気なように、このお守りくれたんじゃないの?」
 項の毛を逆立てて云うナズナに、モモは首から下げた、丁度ナズナの髪の先につけられているものとよく似た勾玉のペンダントを指す。
 「そんなもののは低級な妖怪を寄せ付けないだけの気休めに過ぎません。地流の闘神士や式神が現れたらあなた方一般人はリク様や私達の迷惑になるのだと、きちんとご理解して下さいませ!」
 「ふーん、そうなんだ。じゃあちゃんと気をつけるから大丈夫!それに何かあってもリッくんが助けてくれるんだよね?」
 「ぇ、え。あ、うん、頑張るよ…」
 モモに話を振られた太刀花リクが、曖昧な苦笑で頷く。それに対しナズナがまたしても眉尻を跳ね上げた。
 「リク様!!そうではなく!」
 「全く、そんないちいち目くじら立てなくっても平気だろ?万が一地流の奴らが現れたって、一般人に危害を加える様な莫迦な真似なんてしないさ」
 「ふん、野蛮で下賤な地流の考える事は解りません」
 「なんだと?!」
 「まあまあ二人とも落ち着いて。ほら、こうすれば良いんだよ」
 そしてまたしてもいつもの言い合いを始めそうになるナズナとソーマの間に割って入り、取り出した闘神符を一枚、少し離れた処ではしゃぐモモとリナ、追いかけるリュージの方へと無造作に投げるのはマサオミ。投げられた符は『警』と云う文字を表し発動し、少女らの近くでふっと消える。それは彼女らの身に何かがあれば直ぐに察知出来る、警報の様な効能だ。
 それを一瞬だけ感心する様な目で見送って仕舞ってから、ナズナははっと我に返った。誤魔化す様に咳払いをひとつ。
 「それとこれとは話が別です。そもそもあなた方の様な闘神士を伏魔殿の中へと入れるだけでも天流の私としては遺憾だと云うのに、またもや一般人を入れなければならないとは…」
 「ごめんナズナちゃん……。今回はちょっと断りきれなくって…」
 「べ、別にリク様の責任と云う訳ではありませんが、……はぁ」
 申し訳なさそうに謝るリクへとかぶりを振って、ナズナは小さく溜息をついた。こころなし、二つに結った髪も力無く下がって見える。
 経緯としてはこうである。夏休み最後の週にリクはボート部の子らと海へ出かける約束をしていた。が、それは不意な戦いに因って果たす事が出来なくなって仕舞い、モモが主に駄々をこねて、代わりの場所へ行こうと云う話になり──
 気付けば何故かこうなっていた次第である。
 一応リクはナズナ、ソーマ、マサオミを同伴し修行として来た訳だが、「海に行けなかった代わりに連れて行って!」と(特にモモに)強く言われて仕舞えば反論も出来ず。
 最初は伏魔殿に再び入る事に躊躇があったボート部メンバーも、喉元過ぎればなんとやら、なのだろうか。それとも、ナズナがうっかりと低級妖怪祓いのお守りがある事を漏らして仕舞った事が原因の様な気もしないでもない。彼女の溜息はそれ故である。
 「まあホラさ、皆遊びたい年頃な訳だし、いいんじゃないか?それにこれだけ闘神士がついて来ているんだ、そうそうヤバい事にはならないさ」
 例によってマサオミが軽くそう締めて、結局渋い表情の侭ナズナが折れる事になった。
 「………〜解りました。それでリク様、修行とは一体どの様な事をなされるおつもりなのですか?」
 「うん、やっぱりフィールドの妖怪とかを相手に実戦を積んでみようかなって」
 『なんだぁリク?たかだか雑魚妖怪の相手なんかしたって今更じゃねーか』
 リクの神操機からコゲンタが顔を出し、如何にも「つまらない」と云った風情で云う。
 「そうじゃなくて、式神(コゲンタ)の力を借りるばっかりじゃなくって闘神士である僕らが強くならないとって思って。伏魔殿は気力の消費が激しいけど、だからって直ぐ倒れたりしない様にしないといけないし、闘神符の使い方だって巧くならないと。
 僕はヤクモさんみたいに戦える様になりたいんだ」
 ぴく、とリクのその言葉に、マサオミの鼻の頭に僅かな皺が寄る。
 「ヤクモ様の様に…ですか」
 それには気付かず、ナズナはリクを感心した様な表情で見上げると頷いた。
 『ッんだよそれじゃますます俺は暇じゃねぇか。ていうかリク、ヤクモを無理に目指す必要は別にないんだぜ?お前にはお前の戦い方ってのがあるんだからよ』
 「うん、それは解ってるよ。だけど少しでもコゲンタの負担を減らしたり出来る様になりたいから」
 頭の上で腕を組むコゲンタを見上げて云うと、リクはぐるりと一同を見回した。
 「そう云う訳なんだけど……どうかな?」
 「それならお任せ下さいませ。符を使えば妖怪は簡単に集められます」
 「じゃあお願いするね、ナズナちゃん。ソーマ君とマサオミさんはどうする?」
 「僕もリクを手伝って妖怪退治実戦をやるよ」
 「じゃあ妖怪の取りこぼしが出たりしない様、俺は監督でもしようかな」
 リクの問いにソーマとマサオミが頷くのを見て、ナズナは闘神符を取り出した。


 一方。少し海に似た、しかし純水の満たされた波打ち際ではしゃぎ合っていたモモやリナは、俄に騒がしくなったリクらの方を見ていた。
 「ちょ、ちょっと!リッくんたちの方に妖怪が来てる!!」
 「あの子たち、あそこに呼ばれてるみたいよ?」
 「あれが闘神士の修行って奴なんじゃないのか?」
 流石に現役闘神士(成り立て)の親友らである。色んな意味で落ち着いていると云うか、すっかり妖怪慣れして仕舞ったと云うか。三者共に驚くよりも呑気な風情で闘神士達の様子を観察している始末。
 「じゃあ……今度は邪魔しないほうが良いよね?」
 「下手に戻ったりして妖怪が俺達の方に来たりしたら、またリク達に迷惑がかかっちまうだろうしな」
 「このお守りがあれば、弱い子たちは近付いてこれないみたいだから。私たちも大人しくしていれば大丈夫よモモちゃん」
 「うん、そうだね…」
 ナズナが霊力を込めて一つ一つ作ったと云うその勾玉は、なるほど確かに下級の妖怪程度ならば近付く事すら出来ない様だ。前回リュージに襲いかかった鳥の様な妖怪も先程見たが、それらはお守りを持つ彼らに近付いたり手出ししたりは出来ない様で、暫く付近を彷徨いていたがやがて興味を無くした様に飛んでいってしまった。
 「運悪くこのお守りが効かない様な妖怪が俺たちの処に来るとも思えないしな」
 そう呟いて、リュージは勾玉の形をしたそれを空になんとなく翳して見た。と、淡い翠のその表面にゆら、と影が落ちる。
 「ん?」
 思わずリュージはその影を振り返り、そこで口元を引き攣らせた。
 「!なんか足がうぞうぞした感じ…」
 不意に謎な事をリナが呟き、辺りを見回し──リュージと同じ処で眼鏡を曇らせる。
 そのリナの視線を追ってモモも顔を起こし、そこで、リュージの背後にいつの間にかぬっと姿を現していた、平屋の屋根くらいは軽く越えられそうな体躯をうねらせる巨大な妖怪百足と目を合わせて仕舞った。
 「………………………っきゃーーーー!?!!!!!」
 すとん、とモモの腰が抜けた。その隣でリナがかくかくと内股で座り込む。
 見たこともない様な巨大な百足はその大きな顎をぎちぎちと云わせ、小さな小さな三人の人間を見下ろしている。
 「ど、どっからどう、見ても、低級〜って奴じゃ。ないよな」
 冷や汗を垂らしリュージは呻きながら、それでも座り込んで仕舞ったモモやリナをせめて庇うべく二人の前へと出る。だが百足がその身を下へと降ろしたら、三人ともいとも簡単に踏み潰されて仕舞うだろう。
 「──!──!!」
 漸く向こう岸の闘神士組も彼らの危機に気付いたらしいが、彼らが駆けつけたり式神が降神されるよりも、百足が気まぐれで身体を降ろす方が、恐らくは早い。
 「った、助けてリッくん…!」
 リナと抱き合ったモモが涙目でそう呟き、百足が顎を叩きつけんと振り下ろし、固く目を瞑ったリュージが両腕を広げ踏ん張ったその時。
 ひゅ、と風が吹いた。それを頬に感じた次の瞬間、モモ、リナ、リュージは空中に何者かに抱えられ離れた場所に浮かんでいた。想像していた衝撃の無い事にモモが恐る恐る目を開くと、遙か下方に狙いを外し地面に上体を降ろした大百足の姿が見下ろせた。その大百足の頭の上には小さな紅い闘神符が貼り付いており、そして符が瞬間的に『滅』の文字を浮かばせ光ると──大百足の巨大な身を粉々に吹き飛ばす。
 「え、え?」
 この間僅か数秒。何が起きたのかが理解出来ず、でも恐らくは闘神士の誰かに助けられたのではないかと思い、三人が辺りを見回すと、彼らを抱えた何者かはすとんと地面に降り、彼らをそっと解放してくれた。降ろされたのは先程と殆ど同じ場所だが、符に因って滅せられた大百足はもうそこにはおらず、代わりの様に人影がひとつそこに降り立つ。
 「あ、」
 その後ろ姿に憶えのあったリュージが人影──彼を指差した瞬間、向こう岸からリクたちが泡を食って走って来た。
 「モモちゃん、リナちゃん、リュージ君!大丈夫!?」
 「あんな大物が出るなど…怪我はありませんか、あなた方!」
 「り、りりりりりリッくんん〜!!」
 我に返った様に震えて抱きつくモモを支えてやりながらリクは顔を起こし、そこで驚きに目を見開く。
 「や、ヤクモさん!?」
 大百足を闘神符で滅した張本人であるヤクモは、相変わらずの出で立ちでぐるりと一同を見回し、最後にリクへと視線を転じ。困惑を湛えた複雑な眼差しで息を軽く吐いた。
 「こんな所で何事かと思えば……リク、ナズナ、ソーマまで…一体何をしているんだ?」
 ふわ、とその背後に、先程その持ち前の機動力でモモら三人を抱えて場を離脱したタカマルが降り立つ。
 「ヤクモ様!実はこれは、」
 どう説明したものかとリクが口を開く前に、不意打ちの様に現れたヤクモの存在に驚きつつもいち早く我に返ったナズナが、取り敢えず簡単に経緯を説明する。
 それを黙って聞き終えると、ヤクモは首を傾け少し大袈裟な溜息を吐いて。闘神士組からボート部組へと今度は視線を転じた。
 「………リク、この際だから少しキツく云う事にしようか」
 不甲斐なさに複雑そうな表情をするリュージ、まだ震えが収まらずに泣いているモモ、そんなモモを慰めているリナ。そして彼らの無事に胸を撫で下ろしているリクとを順繰りに見てから、ヤクモは小さく二度目の吐息を吐き出して琥珀色の双眸を僅かに眇めた。
 「ここは伏魔殿であって現世とはその理も法則も在り方も違う。天流だから地流だから一般人だからと立ち入りを制限する心算など俺にはないが、だからと云って軽々しく遊ぶ感覚で踏み居るべき場でもないとは、仮にも闘神士ならば解っているとは思うが改めて繰り返させて貰おう」
 言葉の調子から叱責の気配を感じ、おずおずとヤクモを見上げるリクの表情が。温度を失った琥珀の瞳に寸時凍り付く。
 それは今までに見た事もない様な、鋭く厳しい眼差しだった。眼差し同様に怜悧なヤクモの声音が、萎縮したリクの心を容赦無く切り裂く。
 「人にとって妖怪や式神の力は大きい。その前では人の命など容易く奪われる事もある。
 ──君は彼らを死なせたいのか?リク」
 「っそんな、そんな事あるわけないじゃないですか!」
 「ならば!何故この伏魔殿の中へ彼らを連れて来たんだ。そして離れたりしたんだ。守る気がないのであれば、守れる力が無いのであれば、他者を軽々しく巻き込むな!」
 歴戦の強さ故に、落ち着いた物腰の青年、と云う印象の強いヤクモの珍しい本気の怒声に、リクも、ボート部の面々も、ソーマやナズナまで、雷が落ちた時の様に思わず身を竦ませた。
 しんと静まり返るそんな中、モモだけが立ち上がり、リクを庇う様にヤクモの前へと進み出て、泣きながらも毅然とその顔を見上げる。
 「ごめんなさい、私がリッくんに無理を云ったんです!だからお願い、リッくんを叱らないで!悪いのは我侭を云った私だから、リッくんは悪くないから、だから、ごめんなさい、ごめんなさい…ッ!」
 「モモちゃん……、違いますヤクモさん、本当に悪いのはモモちゃん達を強く止められなかった僕で…!」
 「俺達もつい、リク達がいるから平気だとか甘い事ばっか考えて…」
 泣きじゃくるモモを留める様にリクもまた前へと進み出て。リュージと頷くリナもそんなリクに並んで頭を下げる。
 「…………と云うのは建前で」
 次にはナズナが「きちんと止めなかった私が」と進み出そうなそんな状況になった処で、ヤクモの口から出たのは、ふぅ、と小さい吐息と共にそんな言葉。
 「巻き込んだのでも巻き込まれたのでも、どちらでも要するには同じで。ちゃんと皆を守ってあげれば良いんだ。幸い君は闘神士で、守る事が出来る力はあるんだし、な」
 急に、笑みすら浮かべて軽さに転じたヤクモの弁に、「へ?」と、リクもリュージもナズナも、モモですら涙を浮かべた大きな瞳を瞬かせた。きょとんとする一同の視線を真っ向から受け、いつの間にやら怒り顔が何故か微笑みへと転じているヤクモは、マントの下の肩を竦めてみせる。
 「と云う訳でリク、此処に居る以上は君は彼らを守ってあげられないといけない。それが君にある義務だ。勿論極力巻き込むべきではないが、こうなって仕舞ったのなら肚を括るんだ。良いな?」
 「え、ぇ、え、あの…、?」
 微笑みがもはや隠さないくすくす笑いになって続けるヤクモの云いたい事などは、恐らく最初から解っていたのだろう。コゲンタだけがリクの後ろで「ヘッ、似合わねぇ説教しやがって」と楽しそうに笑っている。
 「お、怒ってるんじゃ、ないんですか…?ヤクモさん……」
 「ん?どちらかと云えば怒っているぞ。皆にではなく、闘神士がこれだけ雁首を揃えているのに一様に自覚が足りない処にとか」
 「め、面目ありませんヤクモ様…」
 ずーんと沈むナズナと、未だ怯え顔のリク+ボート部の皆とソーマとを、言葉と裏腹に全く平時の何処か呑気そうな表情で見回すと、ヤクモは組んでいた腕を解き、人差し指を軽く立てた。
 「別に君達は解っていない訳ではないからな。一度反省を得られたならばそれ以上叩いても意味は無いだろう?だからお説教はお仕舞い」
 そう云い器用に片目を閉じてみせるヤクモに、漸く彼の伝えたい事を知り、和らいだ空気と共に安堵の息をつく子供ら。
 「さて。そう云う訳だから、皆で修行ついでに『遊び』に行くと良いだろう。──そうだな、いきなりだし軽めに、この湖一周マラソンぐらいで。道中妖怪が出たらちゃんと皆を守るんだぞ、リク、ナズナ、ソーマ。そしてそこでにやにやしている人の悪い白虎も」
 湖は出ている靄を除いても対岸が見えない程広大なサイズ。学校のグラウンドなどとはレベルが違う。「えええー?!」と一斉に上がる抗議や驚きの言葉に耳を貸す気配もなく、ヤクモは両腕を腰に当てて軽く身を屈めるとにっこりと微笑んで一同を見回した。
 「行っておいで」
 酷く人畜無害な笑顔には、然し有無を全く云わせない妙な迫力。
 「い、いってきまあああす!!」
 「なんで僕まで〜〜」
 「よしこれもボート部の基礎体力作りだと思え、上善寺、麻生、リク!」
 「あっ、トラさん待ってぇ〜!」
 「やっぱり怒ってるんじゃないのぉー!?」
 ばたばたと慌ただしく走りだす子供ら+式神の霊体を見送ると、ヤクモは闘神符を一枚取り出しそれを彼らの背に投げつける。符は中空で『追』の文字を残し発動すると、薄く光る蝶の形になり、ぴったりと彼らの後を追いかけ始めた。
 ナズナだけがその気配に気付き一瞬振り返り。ヤクモは彼女にぱたぱたと軽く手を振って送ってやると、微笑の中で細く息を吐いた。
 「子供は元気で良いな。少し危なっかしいけど」
 彼はそう妙にしみじみと呟くと右手の零神操機を、背後にずっと控えた侭だったタカマルの方へと軽く向ける。
 「タカマル、取り敢えず安全そうだから戻っていてくれ」
 「ヤクモ、然し──」
 そう、タカマルが空の色をした双眸を向けた先には、先程の騒ぎには加わらずに少し離れた場所に佇んでいたマサオミの姿がある。
 その視線を追ったヤクモは、ジャケットの内側にある己の神操機に僅かに触れているマサオミの姿を半秒視界に留めるが、軽く肩を竦めるのみだ。
 「心配は別に要らないさ。それに何かあればまた来て貰うから大丈夫だよ」
 ヤクモ曰くの「何か」が、マサオミを指したものではないと云う事にタカマルは聡くも気付くが、己の闘神士を信じている為に、それ以上を言い募る様な真似はしない。
 「…………解った。だが余り油断はするなよ、ヤクモ」
 後半はマサオミには届かぬ様に小声で云うと、タカマルは零神操機へと姿を消す。ヤクモは右手で紅い神操機を軽く回すと、ホルダーへと戻した。
 「幾ら護符を持たせてあると云っても、式神連れの闘神士が四人も居て一般人を放置するのはどうかと思うぞ?俺が通りかからなければ──いや、通らずとも別にどうにもなりはしなかったろうが……兎に角良識的な問題としてどうなんだ、マサオミ」
 言葉の割には余り重みの無い調子でそう云うと、ヤクモは傍にあった適当な岩の上に腰掛けた。足を軽く組んで頬杖をついて息を吐き出しているその様子はまるで平時の侭で、警戒や責める調子は何処にもない。
 「………」
 指摘されたから、と云う訳ではないがマサオミはジャケットの内側の神操機に上から手を乗せた侭沈黙し、ヤクモを油断なく見据えた。
 「流派や人間関係はさておいて、年長者として年下の人間の様子を気にかけると云うのは当然の事だと思うんだが?」
 応えないマサオミをどう思ったのか、ヤクモは軽く片目を眇めて細く、蝋燭を吹き消す様な吐息をこぼした。呆れた様にも苦笑を浮かべた様にも見える。
 「ナズナは知らなかったみたいだが、あの護符は着用者の身に危険が迫ると、ある程度の因果律を曲げて迄その身を護る作用を持っている。とは云えその発現は護符そのものに込められた力程度だから、そう大きくはない──が、あの程度の妖怪であれば護符の消滅の代わりに滅する事ぐらいは出来る。だから端から心配する事も無かった訳だが…」
 それでも一応年長者として、などと呟くヤクモをちらりと見て、マサオミはジャケットの袷を掴んだ。動こうとしない手を鼓舞したかったのと、ヤクモの注意を向けさせたかった意図だが、肝心の相手は全くの無反応でいる。
 マサオミとしては、リクの家など──つまり伏魔殿の外で出逢う以上には「戦わない」とヤクモが明言していただけあって結構好き放題にヤクモへと相対していた訳だが、実際伏魔殿の内部で真っ当に遭遇して仕舞うとその対応に困る次第だ。
 「外では戦わない」と云う事は逆に、「伏魔殿で会えば敵」だと云う意味とも取れるからだ。そしてヤクモが重傷を負っていたあの時を除外すれば、これが伏魔殿での改めての初遭遇となるのだ。
 最初の邂逅では戦い、二度目は助けた。三度目は。果たして?
 その懸念もある為にマサオミとしては気が抜けない。ヤクモが不意打ちなどの卑怯な真似はしてこないと云う確信はあったが、リクらに余計な情報を漏らされるかも知れないと云う事と、伏魔殿と云う場所で改めて見て──この天流の生ける伝説とまで謳われた闘神士が、数多くの神流の仲間達を倒して来た存在であるのだと、思い知らされるからだ。
 然しマサオミのそんな感情や警戒、敵愾心に気付いていないと云う筈もないだろうに、ヤクモは外で会った時の彼と全く態度も様子も変わらない。マサオミがあからさまに警戒を隠していない事を理解しながらも、指摘するでもなく取りなすでもなく応じるでもなく、全くの平時である。
 「余り物騒な気を撒き散らすとまた妖怪が騒ぎ出すぞ」
 不意にぽつりと、そんな言葉を漏らすとヤクモは己の革靴を蹴る様にして脱ぎ捨て、靴下も引っ張り抜くと、マサオミの方から水面へと反転。素足を水に浸しだす。
 「──」
 敵である相手を前に、無警戒を通り越して、寧ろ莫迦にされているのではないだろうかと思いつつもマサオミは、神操機からそっと手を離した。
 「……アンタ、一体どういう心算なんだ?」
 「ん?………ああ、別に」
 「……………別に、ってなあ…」
 表情が厭な形に歪むのを自覚しながら、マサオミは油断は──ここまで来たら警戒を解くのも何だか負けた気がして厭だった──出さない侭、ヤクモの斜め後ろへと立った。呑気な返答を寄越した生ける伝説様はその言と同じく呑気そうに素足で水をばしゃばしゃと蹴って遊んでいる。
 「一度は矛先を交えた相手に、何でそうも平然と相対出来るのかね…。しかもここは伏魔殿で、『外』じゃない。戦う理由はそれだけで足りてると思うんだがな」
 少し苛々と、棘を立てて云いながらマサオミは、何故こんなに苛立つのだろうかとふと己に問いてみるが、どうにも明確な解答になりそうもなものは浮かばず、結局答えのない苛立ちだけが残る。
 そこに、水飛沫を跳ねさせながらヤクモが呟くのが届いた。
 「何か勘違いをしていないか?俺は別に彼らに喧嘩を売りたい訳じゃない。ただ話をしようと思っても問答無用で襲われるだけだ。しかも連中はどう云う訳か式神に闘神士を直接攻撃させる事を厭わないから、俺自身の安全確保の為にも、入り込んでいる他の闘神士の為にも、何とか止めさせるか無力化させる手を選ぶしか無いだけで……」
 彼ら、と。敢えて「神流」とは云わないヤクモに、マサオミは右目の下に皺を刻んだ。
 水面の光を受けて金色に燿う琥珀の眼差しをそっと伏せて。彼は何か苦いものを嚥下する時の様な表情を浮かべているものの、足ばかりはぶらぶらと水を掻き回している。
 「……………」
 そんなヤクモの姿を見ている内に、神流(じぶんたち)の不当な生き様への想いが浮かび上がり、マサオミは翡翠の瞳を少し物騒な表情の中に光らせた。
 現代に交わり生きるマサオミとしてはヤクモの言い分も解るのだ。確かに古い考えを持つ神流の仲間らは己の所行に一種の傲慢と云える程の信念を持っており、天地流派へと復讐をするのは当然の権利であると云って憚らない。それ自体を否定する気はマサオミには無いが、正直「神流」の名や存在も隠さずに、式神で闘神士を直接害する様な真似は極力避けて貰いたいのが本音ではある。
 現在地流には大鬼門の建造を行い、四大天の封印を解いて貰わなければならない為、彼らが伏魔殿を我が物顔で探索し闘神石を持ち出しフィールドを破壊する事は、それ自体もウツホの封印を和らげる力がある為に神流としては容認する方向性でいる。
 その為に統制のとれた地流に余計な警戒を抱かれない事を重用視して、神流は極力その姿も痕跡も見せない様にしているのだが、中には神流の存在に気付いて仕舞う闘神士も居る。そう云った場合にのみ彼らには手を下すのだ。そして事実は地流内部へと潜り込んだタイザンがもみ消し、天流や妖怪の仕業として片づける。
 然し天流はそうではない。殆どの闘神士がバラバラになっている天流は事実組織としての力は何も持たないが、個別に能力の高い闘神士がちらほらと存在しており、その一人が云わずもがな、ヤクモだ。更にヤクモは伏魔殿に入る事を禁忌とする他の天流闘神士とは異なり、伏魔殿の内部を探索する事に重きを置き、闘神石も採取しない。
 これでは何処を取っても正直神流にとっての明確な『邪魔者』と云える存在にしかならない。
 故に逸った神流が彼に挑み──そこでどんな戦いがあったのかは解らないが、結果としてヤクモに「神流」の存在を感知され、尚且つその神流闘神士は倒された。
 後は流れる侭。神流は次々にヤクモへと挑み、ヤクモはそれを撃退するしか無い。そして神流ばかりが返り討ちに遭う。そんな繰り返しで神流にとって今「天流のヤクモ」は明確な障碍であると同時に憎むべき敵であり、最優先で排除すべきだ、と云う声も高い存在だ。マサオミとしてもあれだけの強さの闘神士──況してそれが神流の事やウツホの事を探る相手であるのなら尚更、放置しておくのは得策ではないと思ってはいる、が。
 そうこう考える内に段々とマサオミは己の裡の苛立ちの正体に気付いて来る。
 要するに自分はヤクモと戦う為の理由を何らか探しているのだ。それはヤクモにこちらと戦う気が無さそうだと云う事と、マサオミ自身もまた「出来る事ならば戦いたくない」と思って仕舞っている事とに、不本意ながら納得が行かずにいるからだ。
 マサオミはこの明け透けで偽の様に正しい存在に、どちらかと言えば好意を抱いている。それが善き感情なのか悪しき感情なのかは判断がつかないが、願わくばこの存在が、相対する時間が、惜しむものだとさえ思っている。
 リクの家で──伏魔殿の外で会った時に過ごした穏やかな時間。流派の垣根や闘神士としての理由など無い、ただ人間同士で友達や家族の様にただ穏やかに過ごせたあの時間が、酷く慕わしく。逆にどこか偽の様に感じられていたのだ。
 己が今過ごす『大神マサオミ』の人生そのものの様に。
 なればこの好意──或いは嫌悪も、伏魔殿で、神流と天流の闘神士として相対すれば判然とし、どちらを採るべきかを知れるのではないか、と。
 戦う理由があれば打ち倒し、その尊厳を踏みにじってやる事も出来る。
 だが、それすらも拒絶──否、そもそも是か否の判断すら持とうとすらしていない闘神士には、打つ手だても、相対する感情も持つことが出来ない。
 天流のヤクモとして。神流(マサオミ)の敵として立つのではなく、こんなにも平時と変わらない有り様を向けられるのでは、敵として倒す、と云う一方的な感情すら無意味だ。
 「まさか、リク達がいるから、とか云うんじゃないよな」
 結局沈黙の末にマサオミが下したのは、無意味な──既に不正解と知れる問いだった。案の定ヤクモはあっさりと「戦う気が初めからあるのであれば、リク達が居ようが居まいが戦っているに決まっているだろう」とあっさりとそれを肯定してみせる。
 「今の所そんな必要性は感じられないし、それに」
 切り返す様な言葉と同時に、ヤクモの足がぱしゃりと水を跳ねさせ止まる。澄んだ水の細波が収まり、再び水面に顔が映るまでに静かになってから。その口元が僅かに持ち上がるのをマサオミは見た。
 「お前とは出来れば戦いたくはないな」
 跳ねた水の様に、ぽつり、と落とされたそんな言葉に、マサオミは思わず目を見開いた。口が意味もなくぱくりと上下する。
 出来るならば戦いたくないと感じていた己と同じ事を、果たしてヤクモも思っていてくれたと言う事だろうか。あの偽の様な時間に浸ってくれていたと言う事だろうか。それを惜しむ感情を何処かに生じさせていたと、言う事なのだろうか。
 「参考までに訊くが……何で?」
 マサオミは、ヤクモの方へと向けた横頬が僅かに熱くなるのを自覚しながら、誤魔化す様にそこを掻きつつ問う。するとヤクモは再び爪先で水面を叩きながら、先程浮かべた笑みの気配もその侭に。
 「さてな。皆に云わせれば俺は『甘い』らしいからかも知れない。天流宗家の傍をうろつく果てしなく怪しい男であっても──一度和んで仕舞ったらやり辛い。無論お前が『敵』として相対すると云うのであればその時はこちらも相応の対処をさせて貰おうと思ってはいるが」
 そう一息で、どこか冗談とも取れる云い種で云うと、ヤクモは裾が濡れるのも気にしない様にばしゃりと両足を水面に無造作にたたき落とした。跳ねる飛沫に自分で目を細めて、後ろ手に体重を預けて空を仰ぐ。
 「取り敢えず現状のお前には害意は何ら無い様だし……それに何しろ、一度は助けて貰ったらしいからな。意図はさておいても恩義を蔑ろにする様な育てられ方はしていないぞ」
 助けた、と云われマサオミに思いつく該当例は、この間の甲斐甲斐しい人命救助くらいだ。
 あれから経過した時間を考えれば「今更」の事と云うべきかも知れないが、マサオミは元よりヤクモからの返礼など期待していなかったし、式神が報告しなければヤクモは己がマサオミの手で助けられたと云う事も知らぬ侭だっただろう。
 此処でまさかそれを出されるとは思わず、マサオミは温度の幾分冷めた頬をぐるりと巡らせ、伏魔殿の空をその琥珀の瞳に落としているヤクモの姿をまじまじと見て仕舞う。
 「遅れたが改めて礼を言う。有り難う、マサオミ」
 そのタイミングを計ったかの様に、顔半分だけ振り返ったヤクモが穏やかに微笑んだ。土に水が染み込み、花を芽吹かせるかの様な、空気そのものを柔らかくするそれは、見た事などなかったが確信を持って云える。会心の笑みだった。
 「………いや、別にアンタに恩を着せる心算なんざ無かったんだが──、」
 絆される、と思った瞬間、マサオミは思わず言い訳めいた事を並べていた。だがそれには構わぬ様に柔らかく微笑んだ侭、ヤクモは再び眼前の水面へと視線を戻した。ぱしゃぱしゃと小さな水音が再開される。
 「…………………」
 拙いな、と己で自覚しながらマサオミは頭を掻いた。どうやら相当にこの相手に惑わされて仕舞っているらしい。これが苛立ちか憎悪か憧憬か、判然ともしないし或いはどれとも云えるのかも知れなかったが、確実なのは、この存在が己にとって心地よく感じられるらしいと云う事実、ひとつ。
 その感情や欲求が物理的なものなのか精神的なものなのか、それとも両方なのかは解らない。恋とでも喚ぶべき感情であるのかも。その事にも苦笑を浮かべて、マサオミはヤクモの座る岩へと近づくとその背に背を向けて座り込んだ。両膝に肘を乗せ、背中を丸めて密かに息を吐く。
 ヤクモの足が蹴る水音だけが響く静かな時間。マサオミは静寂は別段嫌いではないが、どちらかと云えば賑やかな方が好きだ。とは云え些細な水遊びに興じるヤクモにはそれ以上会話を振る気はないらしい。時折顔を持ち上げ、湖の対岸を伺っているのは気配で知れる。恐らくリク達の様子を確認しているのだろう。
 ならリク達が戻ったらこの時間は終わると云う事だな、と改めて思うと、マサオミは会話の糸口になりそうな内容を幾つか脳に描き、その中で五番目くらいに浮かんだ疑問を口にした。
 「そう云やアンタ式神が違ったな?確か天流の青龍使い、じゃなかったっけ?さっきのは──ソーマのフサノシンと同じ雷火族だった気がするんだが」
 尤もな疑問ではあったが、云いながらも「敵である自分にヤクモが自らの式神の事など語る筈もないか」と何となく答えが浮かんで仕舞い、選択を誤った、とマサオミは考えていたのだが、これもまたあっさりと。
 「ああ。タカマルは雷火族だ。お前と戦った時のブリュネは名乗った通りの青龍だが」
 そんな風に淀みもなく答えられ、マサオミは却ってその返答に困って仕舞う。
 「……アンタ、複数の式神と契約してたんだな。四神の青龍と契約するってだけでも闘神士としては可成りの名誉だろうに、それでいてもう一体別の式神と契約するなんて、」
 こうしてどんどん相手が本来答えたくないのではないかと思える部分に繋ぐしか無くなり、ヤクモの返答と同じ様に淀みなく繋げながらも、マサオミは正直困っていた。式神の事を問い質すなど、敵の事を探っている様で余り気分が良くない。それでヤクモもまたそれに躊躇わず忌憚もなく応えを寄越すのだから余計にだ。
 「ん、もう一体、ではないな。俺の恃む式神は全部で五体いるから」
 これ以上深くを問うのも何だと、マサオミは適当に「へー」と返そうとし、然し見事に失敗した。
 「っ五」
 思わず引きつって、後ろを振り返って仕舞うが、当のヤクモの様子は先程と全く同じ侭だ。マントの下で軽く肩が竦められるのだけが解る。
 「皆何故か一瞬絶句してくれるんだが……俺は、俺の呼びかけに応えて、導かれて来てくれた皆に契約を恃んだだけで、特別おかしい事はしていないと思うぞ」
 何と何処で呼びかけたのかは知らないが、それにそもそも五体の式神が同時に応えてくれるとかちょっと有り得ません。
 マサオミは胸中で痛烈にそうツッコミたい己を抑えて、思わず口元に手を当てた。背筋を辿るのは、気の所為でしかないのだが何処かぞっとしない気配。
 「普通だろう」とばかりに淡々と、自慢する風でも誇る風でも苦笑する風でもなく忌憚なくそう答えたヤクモはマサオミのそんな様子には気付かなかったのか、或いは気付いていて無視をしたのかは解らないが、今度は器用に身を屈めると手先を水に沈めて更に何やら子供じみた水遊びに興じ始める。
 そんな、姿からは想像も大凡つかないが──語った事は、事実だとすれば成程確かに「伝説」だのと謳われるだけはある、そんな異常性を思い知らされるものだ。
 四神の一体と契約を結ぶと云うだけで、闘神士の間ではそれなりに畏怖され誉めそやされる。そんな「常識」の中で、青龍と契約しながら尚且つプラス四体の式神と契約を交わしている、など。
 (タイシンを倒した力……五体の式神──成程、ひょっとしたら有り得るかも知れないな)
 事務的にそう考えを巡らせた己に一瞬嫌悪し、マサオミは軽くかぶりを振ってその考えを払い除けた。矢張り式神についての話などするべきではなかった、と後ろめたく思った時、救いの様にヤクモの口から言葉がふと出た。
 「リク達、遅いな」
 それが話題を変える意図だったのかは解らない。だがマサオミはそれを助け船と取り素直に乗る事にした。ぐるりと身体を反転させると、身を起こしていたヤクモの頭に顎を乗せ、腕をだらりと肩へと垂らした。そうしてまるで式神がもたれ掛かる様な体勢を作ると、片腕を己の額につけてわざとらしく対岸を見る仕草をする。
 「あれだけ注意したんだ、妖怪とか出て来ても平気だろ?アンタってひょっとして厳しい面して意外と過保護?」
 いきなり、全部ではないとは言え同い歳の男の体重を背中からかけられ、ヤクモは首を沈めて「ぐ」と苦しげな呻き声を漏らした。押しのける様に、ぐぐ、と伸びて来たその手をマサオミがひょいと捕まえてみれば、無意識にか鬱陶しそうに払われた。
 「年長者として後輩の面倒は見届けたいだけだ。──それより重いから退けマサオミ、水に突き落とすぞ」
 律儀にもきちんと答えてから、ヤクモは押さえつけられている為か少しくぐもった声音でそう云う。その様子に「本気」の念を感じ取って、マサオミはちょっと惜しいなと思いながらもヤクモの頭から一旦離れる。
 「…闘神士は人にとって大きな力をもたらす存在だ。大概は式神が指摘するが、戦いが多ければ多い程、そうではなくなる場合の方が寧ろ多い。闘神士は時々そうして『普通』の人の脆弱さを忘れがちになる」
 マサオミに乱された髪を軽く手で直しながら、酷く重く呟いたヤクモの口調の変化に、マサオミは「おや」と目を軽く瞠る。
 「闘神士の望みや強さの為に戦いを推奨して、鍛えようとしてくれるのも一種の優しさではあるが──だからと言って闘神士自身が人間の世界で生きる『人』である事をも忘れさせて仕舞うのはどうかと思うしな。……例えばコゲンタとかコゲンタとかコゲンタとか」
 何か思い当たる記憶でもあるのか、苦笑混じりにそう云うとヤクモは水面を少し勢いを乗せて爪先で蹴った。散った飛沫がきらきらと光って落ちて行くのに目尻を僅かに緩める。
 「人の命を預かる責任を、リクはもう少し自覚するべきだ。それは宗家であるとか無いとか云う問題ではなく、闘神士として──それ以前に『人』として。
 彼の友人らがどれだけ強い心を持ってくれていたとしても、彼らが闘神士ではない、人である事を忘れてはいけない。彼らこそが、闘神士である者が帰るべき日常の存在である事だけは、忘れてはいけないんだ」
 区切りながらはっきりと。何処か己に言い聞かせる様な真摯さでそう云うと、ヤクモは再び大人しく水面に足を沈めた。緩めていた目尻は僅かに歪み、右目の下には密かな皺。
 何かを思い出す様な、耐える様な、まるで泣く寸前の様な表情だった。
 「…………」
 自然と。逆に何故か笑みが浮かぶのを自覚して、マサオミは小さく息を吐いた。再び背後からヤクモの両肩に腕を回して、今度はそっとしなだれかかる様に肩に顎を乗せる。
 伝説、と謳われ。異常性すらある五体の式神との契約を成して。その力で望まぬ戦いで神流(てき)を払い除けて来た、そんな同い歳の闘神士。
 然し彼が越えて来た戦いは確かに『戦い』だったのだろう。彼自身が憧憬じみて呟いた『日常』へ帰る、その事を強く望まずにはいられない程に。
 ただ異常性を持つ程の力があったから強いのではなく、そう云った様々な感情と痛痒とを要する戦いを乗り越えて彼が常に『日常(そこ)』へ帰結する事が出来ていたからこそ、恐らくは今のその有り様が在るのだろう。
 「アンタ、やっぱり過保護だね」
 苦笑混じりにそう云いながら、マサオミは何処か弱気な面を果敢なく剥離させたその心を労る様に、両腕に力を込めて、存外に薄い身体をそっと抱きしめてやった。
 「普通はそこまで心配してやらないって。幾ら後輩でもさ。ま、それがアンタの甘いって所で、良い所なんだろうが」
 ヤクモは少し驚いた様に、然し視線は前方から外さぬ侭に瞳を僅かに瞠目させ──それからゆるりと全身から力を抜いた。吐息に掠れる声で「そうか」と小さく返すと目蓋を降ろす。
 そこでマサオミは漸く気付いた。この心が正しいのは、勁いのは、優しいのは、彼が人の痛みを知る事が出来る人間であるからだと云う事に。
 人が獣ではなく人として有り得る最大の理由は、人は人の痛みを知る事が出来ると言う所にある。痛みを知り、痛みを負い、それでも人は生き続けなければならない。それは哀しいと云う言葉だけれは済まされない、人である為の業だ。
 他者の痛みを悼む事の出来る彼は、己にあった瑕疵を越えた者なのだ。
 マサオミの未だ佇む其処を経験し耐えて過ぎた。だからヤクモはこんなにも明け透けに、勁く、此処に居る。甘い余裕すら見せて、此処に居てくれる。
 こうして時折心が解けてみれば、その痛みを垣間見る事が出来る。それは永劫に消えない『何か』の瑕であり、或いは──、
 (……もしもそれが本質ならば、此奴はきっと、俺を裏切らない)
 そんな錯覚──或いは確信──を憶えてマサオミは両腕に僅かに力を込めた。きつい程の力ではないからか、ヤクモは身じろぎ一つしない。
 縋りたかったのは果たして相手なのか、自分なのか。そんな事を思いながら、マサオミが微笑を口の端に乗せたその時、ばたばたと賑やかな足音が遠くの方から聞こえて来た。
 「いちにっさん!いっち、に、…!!」
 「はぁ、はぁ、も、もうダメ…」
 「トラさんたすけて……はうう…」
 「し、しっかり、して、モモちゃん、リナちゃん…、あと、ちょっとで…ゴール、だから……」
 お、とマサオミが顔を起こすと、丁度真横にあるヤクモの顔もそちらを振り向いた所だった。
 リク達は一応は運動部の人間だからか、足腰はふらついて呼吸も侭ならない様子だが何とか「走る」体裁を整えて足を動かしているが、ナズナやソーマは日常的に特に運動をしている訳ではない。ぜえはあと肩と背中を落として、足を引き擦ってふらふらと歩いてリク達の後ろを進んで来る。その周囲で式神のホリンやフサノシンの霊体が何やら二人を必死で鼓舞している様だ。
 『おらリク、あとちょっとだ!頑張れ!』
 一応「修行」として捉えている為か、コゲンタは妙に熱心に腕を振って応援をして、リクは曖昧な表情でそれに応えながら、リュージやモモやリナとふらふらと足を動かしている。
 三人はその侭、マサオミとヤクモが見守る岩の前まで倒れ込む様に進んで来て。
 「お帰り。お疲れ様」
 と、少し人の悪そうな笑顔でヤクモがそう宣言するのを聞き届けると同時にばたばたと座り込んだ。
 コゲンタはそんなリクを労いながら「ん?」と頭を巡らせ、ヤクモの格好を見て露骨に顔を顰めると腕を組んでふわりと浮かび上がる。
 『おいこらヤクモ、リク達が懸命に走ってる間お前は水遊びかよ。全く何やってんだか…本ッ当いつまでもガキだなあお前』
 「俺にとっては久々の休息だし、こんな長閑な場所だしな、折角だから堪能しないと勿体ないだろう?それに走る事になったのは一応『お仕置き』の様なものだし。本当ならお前も降神させて走らせたかった所なんだぞ」
 口調には云う程の棘もやはり特に無く。裸足の爪先で水を軽く蹴りながらヤクモが軽く応えるのに、コゲンタは大袈裟な溜息をつくとリクの横へと戻っていく。
 その動きを逆に辿り、漸く呼吸の少し落ち着いて来たリクは、きょとんと、岩の上のマサオミとヤクモとを見る。
 「あの……何してるんですか…?二人とも」
 大きな紫の眼の見上げる先には、同年代の同性同士の気安さの様なもので密着したマサオミとヤクモの姿がある。ふらふらと今漸くゴールしたナズナやソーマはそれには気付く余裕もなく、座り込んで呼吸を必死で整えている。
 リクの視線から意味を察し、そこで漸くヤクモは己の右肩から頭を突き出しているマサオミの存在を思い出したらしい。ぱちくりと瞬きをしてから、露骨に迷惑そうな表情を作りマサオミの横顔をぐい、と押し退けた。
 普段からこうした気安い人付き合いに慣れているのだろう様子はマサオミにも伺えていたのだが、第三者に指摘された途端こうも露骨に除けられると云うのは正直不満である。
 「いやぁ?さっき漸く完全に親睦を深められた所でね。片思いが両思いになった感じとでも云えばいいかな〜?」
 にこにこと、押し退けられながらもマサオミが殊更に笑んで云うと、ヤクモは恐らくは反論や抗議の類だろう、何かを云いたげに口を開くが、それを遮る様に。
 「想いが通じれば相思相愛、かも知れないし?」
 露骨に迷惑顔を形作っているヤクモにマサオミは余裕混じりの笑みを寄越すと、肩に置いていた左手をつと伸ばした。彼の後頭部を捉え、その侭引き寄せて寸時、口接けた。
 「──」
 硬直と沈黙は果たしてその場の誰のものだったか。
 兎に角一瞬後にはマサオミは逆さ向きになって水中へと没していた。落ちた沈黙を破る様に勢い良く水柱が上がる。
 「えーと……何だか良くわからないけど、おめでとうございます?で良いのかな…?」
 どうしたものか、と考えはあったのだろうが結局素直にそんな事を言ってのける天流宗家に、らしくもなく引きつった表情を向けてヤクモは素早く立ち上がった。否定する様に真っ赤になった顔を左右に振る。
 『お、おいヤクモ……何でよりにもよってそんな胡散臭い奴と…!』
 狼狽えながら問う元式神の言葉に、ヤクモは咳払いなどをしつつ苦笑混じりに彼らへと弁解に励み、余り深く考えずに見上げているリュージやリナ、何やらリクと自分との妄想に置き換えて悶えているモモとを意識から取り敢えず締め出した様だ。精神衛生上正しい反応である。
 一番ツッコミの激しそうなナズナやソーマが運良くも未だ体力が尽きて倒れているのがせめてもの救いだっただろうか。そんな事を思いながら水面から顔を出したマサオミへと、ヤクモは厳しく固い眼差しを向けて来た。見下ろすると云うよりは寧ろ睨み下ろしている。
 「悪巫山戯にも程があるぞ…」
 何か己の式神たちから不穏な気配でも感じたのか、腰の神操機を宥める様に撫でながら、ヤクモはそう言い捨てるとマサオミからついと顔を逸らした。照れていると云うより怒っている。どうやら言葉通り、単なる悪巫山戯や意趣返しの様なものだと受け取ったらしい。
 「えー、俺悪巫山戯じゃなくて本気なんだけどなぁ?」
 「益々悪い」
 溜息混じりのマサオミをびしりと切り棄てると、ヤクモは脱ぎ捨てた靴に元通り足を突っ込んで身嗜みを整えてから岩から飛び降りた。そうして次の(多分にマサオミに悪戯をされた苛立ちやそれを皆に目撃された気恥ずかしさを珍しく含め)説教じみた修行話を始めるその姿を横目に、マサオミは水から上がるとびしょ濡れのジャケットを脱いで絞りながら、気を抜くとにやにやと笑いたくなる顔を引き締めるのに必死だった。
 『嬉しそうだね?マサオミ』
 「ん?まあ、な。色々と収穫があったからかもな」
 小声で囁いてくるキバチヨに笑いかけて、マサオミは水から上がると、誤魔化す様に熱心に弁を奮うヤクモの様子を密かに窺った。
 今日は色々な一面が知れた。不快な事から爽快な事まで。
 そしてその事に一喜一憂している自分は確かに、以前のキバチヨの指摘も違えなく、あの存在に惹かれ、その意味を欲しているのだろう。
 それは敵であっても、味方であっても構わないと云う酷く不安定な類だ。故にはっきりと是であるのか否であるのかは──己にも未だ、決する事には躊躇いが多少、残る。
 何が欲しいのか。何を望もうか。それを知るには恐らく未だ、早い。
 『ふぅん?でも君の思いは彼奴に今の所全く通じてないみたいだけどね。巫山戯てると思われてるんじゃないの?』
 「いや。それで良いのさ、キバチヨ」
 今は悪巫山戯に似たこの危うい関係が、果たしていつまで保つものなのかは解らない。だが保つ間はそれを楽しみたい。
 (いいさヤクモ。アンタが俺達の敵で在るならどうせ何れはぶつかる時も来る。その時に躊躇う様なそんな甘さが未だあるのなら──)
 その時俺は、どうするんだろうな。
 小さくそう呟くと、マサオミは何処か剣呑なひかりを持つ翡翠の瞳で、果敢なく違える程に透ったその信念や心を内包した──何処か硝子にも似たひとを見上げた。




ヤクモは天神町へしょっちゅう舞い戻る(脳内)のでボート部ともソーマとも顔見知りと言う感じです。アニメの初対面時期とか何それ僕知らない。

敵と云う定義はそれを人と思うかそれ以外かに尽きる。言い分は獣の吼え声と取るか、それとも人の意志と取るか。彼次第。