インセクト



  落葉の季節ほどではないが、満開だった桜の一斉に散るこの頃もまた、散った花弁の掃除には苦労させられる。
 とは云え視界を淡い霞色にひととき染めて後から後から舞い散る、雪のひとひらめいた花弁は非道く美しくて果敢なさを憶えずにはいられないから好きだ。
 咲いては、はらりと。花首ごと、或いは一枚一枚の花片となって。尽きる事なく天より落つる薄紅色した淡雪を、飽きることなく見送る。
 「ヤクモ、そんな所でどうしたんだ?」
 ふと耳に届いた声に、現実に引き戻される様な心地でヤクモが己の真正面へと意識を戻せば、『其の』太白神社の境内にモンジュが佇んでいる事に気付く。
 「……とうさん」
 社殿の縁に手をかけ、身を乗り出す様にして父の姿をじっと見つめる。そんな息子の様子に何を思うのか、モンジュは軽く笑いかけながら戯けた様な仕草で手を振って寄越して来た。
 「そんな所に居ないでこっちへおいで、ヤクモ。    も待っているぞ?」
 声の『其の』部分だけは何故かまるで聞き取る事が出来ず、ヤクモは軽い困惑を憶えた。
 (イヅナさん?それともナズナ?……それとも)
 連ねて、然し率爾にかぶりを振る。
 もっと有り得ない、識り得る筈の無いものを聞いて仕舞った様な、気がしていた。
 「──、」
 無意識に腰の後ろに手をやれば、『其処』には紅い神操機が静かに下がっている。憶え深い温もりを、気配を、朧な意識が手繰ってそして認識する。
 はっとなって再び視線をモンジュの方へと戻す。果たして父は其処に、ヤクモの期待していた通りの風情で居てくれた。厳しくも優しい父性の眼差しの先には、息子であるヤクモと、もう『一人』──
 「おいヤクモ、さっきから何ボケっとしてやがんだ?早く行こうぜ!」
 目の前でそう、楽しそうに目を細める白虎の式神に手を引かれる侭、ヤクモはふらふらと境内へと進み出た。雪の様に降る桜の花弁が視界をひととき攪拌して、甘い香りに眩暈を憶える。
 「    殿!ヤクモ様がお困りではないですか。無理強いするのはなりません!」
 「まあまあ、良いじゃありませんか。ヤクモ様、足下にはお気をつけ下さいね」
 モンジュの横には、腰に手を当てて怒るナズナの姿と、相変わらず優しい微笑みを湛えているイヅナの姿もあった。
 そして、彼らの元に向かって手を引いて行く白虎の式神の姿も『其処』には在る。
 「    」
 音にならない言葉がヤクモの口から漏れた。唇の形作ったその動きが然し『其の』白虎の『名(意味)』だったのか、前を往く姿がくるりと振り返ってきた。
 「何やってんだよ。モンジュも、巫女達も待ってんだろ?」
 あの頃は見上げていた筈の紅い瞳が、今は頭ひとつ分は下にある。相変わらずの人懐こそうな表情は、咎める様な云い種にはそぐわずただ楽しそうにしている。
 (だって、これは)
 捉えようのない違和感と幸福感に、薄くやさしい色彩の花弁で敷き詰められた足下ごと融けて崩れ堕ちそうな錯覚を憶えて、ヤクモは今一度己の神操機へと静かに触れてみた。
 「────」
 慥かに『其の』裡に在る、断たれてはいなかった絆に、甘やかな絶望がひととき落ちる。
 「……だって、これは」
 戦慄いた口唇が呼んだのは後悔だったのか、それとも縋る様な偽だったのか。己のただ一人の式神に手を引かれる侭、モンジュやイヅナやナズナの待つ方へと進んで行くヤクモの足が、躊躇いながら止められた。
 訝しげに振り返る白虎の式神の表情を見るその前に、こつ、と停止した足下に何かがぶつかって来る。思わず視線を落としてみれば、『其処』には丁寧な造りの手毬がひとつ、転がっていた。中に鈴が入っているらしく、ヤクモの足にぶつかって跳ね返り転がったその中からはからころと涼やかな音がする。
 「ヤクモ」
 手毬の転がって来た方角から呼ばれた声に振り返る寸前、もう良いのかと問われた様な気がした。
 ──答えは迷いのない、『是』だった。

 *

 灯りの下の目醒めは酷く鮮明だった。眠気に意識をいつまでも引かれるでも無く、急激な目醒めに驚くでも無く、呼ばれ振り返ったその侭に、冴えた意識に目蓋だけが自然と持ち上がる。
 それでもただ途方もない孔へと堕ちて仕舞ったかの様に、夢の残滓を追いもしない心が居場所を失い果ててぽつりと独り立ち尽くす。
 あらゆる外的刺激を拒絶するかの如く、目を開いた侭の意識が閉じ籠もろうと身を竦ませているのを感じる。
 横たわる布団の感触も、窓を開け放しにしていた部屋の温度も、全てが痺れている様に遠く緩慢なその中で、畳を踏み歩く無粋な足音が近づいて来て。枕元で止まった。
 「あれ、……起きてたのか?なら返事ぐらいしてくれよ」
 見開いた侭感情も感慨も無く天井板に向けられていたヤクモの視界に、夢の中で見た様な気がする男の姿が入り込む。
 「まさおみ、」
 思いの外にはっきりとしていた声音が、然し妙にぎこちなくその名を紡いだ。呼びかけたと云うよりは、呟いた。
 恐らくは、意味として。問いではない、形として。
 「てっきり未だ寝ているもんだと思っていたからね。勝手に上がらせて貰いましたよ。云っておくがちゃんとノックはしたんだぞ?」
 マサオミはそう肩を竦めて云うと、部屋の隅に寄せてあった小卓の上へと向かい、そこに両手に携えていた盆を下ろした。立ち上がって暫くきょろきょろと顔を巡らせると次は窓辺に歩いて行って、カーテンを静かに引く。
 途端、昼と云うには大分遅そうな優しい橙色の光が目を射て、ヤクモは眩しさに目を眇めた。角度の低い陽光の眩しさに、不健康な暗さを保っていた室内が一気に払拭される。
 閉ざそうとしていた意識とは裏腹に、彼の様子を気付けば具に観察していた事に気付き、怠惰に転がっている事が莫迦莫迦しくなったヤクモは布団から上体を起こした。鮮明な目醒めは僅かの眠気や気怠さすら伴っておらず、未だ夢の渦中に立たされている様な妙な感触がする。
 心地の悪さを引き摺りながら立ち上がり、入り口の横にある水場へと向かうとヤクモは顔を洗おうと蛇口を捻って、そこで頬に触れる冷たい空気に気付いた。指でそっとなぞれば、目の縁から濡れて乾いた痕が続いている。
 咄嗟に背後を振り返るが、マサオミはヤクモの抜け出た布団を畳んで押し入れに向かっている最中で、こちらの様子に何ら気付いている気配はない。様に見えた。
 「……」
 情けない、とか、不覚だった、とか云うよりも夢の痛痒そのものに顔を顰めて、ヤクモは掌に掬った水で涙の痕ごとゆっくりと顔を洗い流した。涙を自覚した途端腫れぼったさを感じる気のする目元を押さえる様に、傍に置いてあったタオルで丹念に水分を拭う。
 「ほら、着替え。昼間ナズナちゃんが洗濯してくれたってさ」
 タオルから苦労して顔を剥がしたヤクモの方へと、マサオミが着替えを放って寄越す。丁寧にアイロンまでかけられたそれに少しだけ表情を弛ませると、黙々と袖を通した。
 馴染みの無いタオルや洗濯物の匂い。遠い空気。日向の匂いのする布団に、黄色くなりかけた畳の温かさ。
 憶え深さ、とは趣が少し違う筈だと云うのに、懐かしさと云う言葉にすればそれらは酷く近しく慕わしい。仮令それが夢想でしかないとしても。これは恐らく『懐かしい』のだ。
 その手応えに目元を弛めたヤクモに気付く様子も無く、マサオミは先程盆を置いた卓を部屋の中央へ運んで来ると、その上にかけられた覆いを除けた。盆の上には未だ暖かい湯気を立てる白米や味噌汁、魚料理、煮物と云った食事が並べられている。
 その中から急須と湯飲み二つを取り上げて、マサオミは卓の前についた。己の向かいをちょいちょいと指して座れと促して来るのに、食物の匂いで空腹の刺激されたヤクモは特に逆らう理由もなく大人しく腰を下ろした。
 「…お前の分は?」
 見れば夕食は一人分しか揃えられていない。思わずヤクモが問えば、マサオミは自らの腕時計を一瞬ちらりと見遣る。その動作の途中で彼の掌に真新しい包帯が巻かれている事に気付いてヤクモは顔を顰めるが、その瞬間偶然にも真逆にマサオミは少し笑った。無論意識しての事では無いだろうが、何となく居心地が悪くなる。
 「俺は毎日夕方四時半から二十食限定のつくね焼き鳥丼を食って来たんだ。夕飯にはちょっと早すぎだが、ぼやぼやしてると直ぐ売り切れちまうんでね。油断出来たもんじゃない」
 云いながらマサオミは思い出した様に立ち上がると、電灯の紐を引っ張った。白色の蛍光灯が二、三度躊躇う様にしてから、夕陽に添える灯りを降らせて来る。
 白色の光の下では食べ物は余り美味しそうには映らないとは云うが、空腹なのが正直な所だったヤクモには余り関係の無い事だ。
 「で、アンタは夜までには出るって云うからって、ナズナちゃん、早めの夕食を準備してくれたんだぜ。だからつくね焼き鳥丼を食いに行ったついでに買って来てやった俺のお薦めエビチリ丼は残念ながらお預け。リク達で折半して食うそうだ」
 「それは気を遣わせた様だな。ナズナにも、お前にも」
 「まぁ、また機会があれば買って来てやるよ」
 俯いて箸を手に取るヤクモの様子を落ち込んでいるものとでも取ったのか、慰める様にそう云うとマサオミは急須を傾けた。二つの湯飲みに交互にお茶を注いでいくのに、思わず首を傾げる。
 「……居座る心算か?」
 「配膳させるだけさせて追い払おうってのか?リク達も部活の続きでまだ戻らないしで、退屈で寂しい俺にちょっとは付き合って下さいよ」
 (世話を頼んだ憶えもないんだけどな…)
 心外だ、とでも云いたげなマサオミにヤクモは内心溜息をついたが、わざわざ手間をかけさせて仕舞った事などを思えば、まあ良いかと思い直し、箸を両手合わせにした親指の間に挟んで「いただきます」と呟いた。白米の盛られた茶碗を手に取る。
 暇だから付き合え、などと云う以上何か煩く話しかけて来るかと思いきや、ヤクモが黙々と箸を動かす間マサオミは黙って湯飲みを静かに傾けていた。
 その様子からは全く何を考えているのやら知れない。いつもの事だが。
 声に出さずに呟いて黙々と食事に専念する。揚げた白身魚に野菜あんかけを絡ませたものはヤクモに覚えは無かったが絶品だ。リクやソーマの世話を日々こなす内でもナズナの料理の腕は上がっているのだと知れて、家族として誇らしい様な気持ちになりながらヤクモは早めの夕食を手早く終えた。
 「ご馳走様でした」
 綺麗に平らげた食事を前に両手を合わせて云ってから、ヤクモは空皿を盆の上へと片付け易い様にまとめた。そう云えばまともな食事は久し振りだったと思いながら、マサオミの差し出して来た湯飲みを受け取る。
 睡眠も、腹も満たされた。気分の悪さももう全く残ってはいない。夕刻に丁度差し掛かった頃合いの斜陽は眩し過ぎず優し過ぎでもない。郷愁に似た空気を纏った室内。伏魔殿に降りる予定時刻には未だ少し早い穏やかな空隙。
 だと云うのに、丁度飲み頃の温度になっているだろう焙じ茶を前に、ヤクモは全く寛げる気がしていなかった。
 その理由の概ねは、触れそうで触れない距離に残留した夢の感覚と、眼前でのんびり茶など啜っているマサオミの所為だ。
 曖昧に霞んだ夢の正体は既によく思い出せない程遠くなっている。一体何に泣かされたのやらと殊更どうでも良くヤクモは考えてみるのだが、此処で見る夢が現実の理解と齟齬を生じているだろう事は、改めて思いを巡らせる迄も無く重々承知している。
 だと云うのに、どうにもマサオミの方が寧ろそれを気にしているかの様だ。悟られる程気は抜いていない心算だが、ヤクモの一挙手一投足に一喜一憂してくれる事の多いマサオミには、何か『気付く』様なものがあったのかも知れない。
 案の定、夕闇に沈みかかる室内は気鬱な沈黙に包まれつつあった。互いに探る本心と探られるのを好まない拒絶とを解りきっており、それを破る気にはなれないものの破りたい好奇がある。然しそれ以上を紡ぐ事は踏み込む事と踏み込まれる事であり、それはこの曖昧な均衡を崩しかねない破壊力を秘めている。
 故に沈黙以上は酷く不安定で、必要もない。だが不自然に心を抑えて言葉を留めるものだから、その沈黙こそが最も居心地の悪い空気を作り出している元凶そのものとなって仕舞っているのだ。
 (いつもは煩いぐらいだと云うのに、こう云う時ばかりは静かだから困る)
 諦め半分程度に、少しばかり露骨な動きでマサオミから視線を外したヤクモの視界に、部屋の隅に畳まれて置いてある、これもまたきちんと洗濯して貰ったらしいマントと伏魔殿装備一式が目にふと留まった。
 その一番上に乗せられたホルダーと紅い神操機に吸われる様に意識を奪われ、ヤクモは膝をついてそちらに近づくと、零神操機をそっと手に取ってみる。
 式神達にとって仇敵とも云う程毛嫌いしているマサオミがヤクモの傍に居ると云うのに、珍しくも彼らは裡よりその気配すら顕わそうとはしていない。
 だが、だからと云って『居ない』訳でも眠っている訳でもない。絆を手繰るまでもなく意識にはっきりと、『其処』に皆が居る事は感じられている。
 五体の何れもがヤクモの心を察しているかの様に、労りを込めてただ無言で寄り添ってくれているのを感じて、ヤクモはそっと零神操機の表面を指で幾度もなぞった。
 「……………妬けるねぇ」
 そんなヤクモの様子を、頬杖をついた手に湯飲みを下げたマサオミが具に見つめて来ている。注視されている事自体は別段どうでも良かったのだが、伺い見る様な気配は正直居心地が悪い。
 「……暇だなどと云った割には大人しいんだな」
 静かなのは結構な事だが、と小さく続けて、神操機を右てのひらの上に収めた侭、ヤクモは壁に凭れる様に座り直した。今更の様に己の些か不躾と取られても仕方のない様な観察眼に気付いたのだろう、マサオミは態とらしく音を立てて茶を啜った。
 「アンタを見ているだけで俺は充分楽しませて貰っていますから」
 そう云って、にこり、とこれもまた態とらしい笑顔を向けて来るマサオミに、ヤクモは深く溜息をついた。
 「あ。その顔は信じてないな?」
 「…と云うより、お前の『楽しみ』の基準が良く解らないだけだ」
 何が楽しいのやら、よくマサオミはヤクモに対して恋だの愛だのと胡散臭く諳んじて来ている。ヤクモに云わせればそれは正気か本気かを疑う以前の『方便』だろうと云う認識でしかないのだが、最近ではそう巫山戯た扱いを受ける事にもいつの間にやら慣れて仕舞っているらしく、いちいち反論や否定を投げる気もしなくなった。
 そんなヤクモの諦観こそが或いは、マサオミの企んでいる『手管』なのかも知れないが、不思議とそれすらもどうでも良いと思い始めている次第である。果たして良い傾向なのか悪い傾向なのか。気にする気にすらなれなくなっている自分に気付いて、ヤクモは密かに眉を寄せた。
 「恋する男子にとっては何でも楽しいんですよ、って前も云わなかったっけ?」
 ことり、と卓の上へと戻した湯飲みの縁を指先で叩きながら、マサオミ。そう云えば以前そんな事を聞いた様な気がするなとヤクモは思い出しはしたが、同時にそれが本質的な答えには全くなっていないとも気付き、渋面になる。
 「恋でも愛でも戯言なら何でも構わんが、それで楽しいのか?」
 「ああ。何せ俺はアンタの事を愛しちゃってますから」
 戯言に付き合うレベルの話題だなと思いながらも一応ヤクモが返せば、マサオミは妙に自信たっぷりに頷いて寄越した。器用に片目を瞑る。
 「だからさ、アンタも俺に恋してみれば解ると思うんだよね〜。どう?」
 「…………何が『どう?』なんだ」
 寝言は寝てから云えと、卓に両手で頬杖をつき端正な顔を崩して笑いかけて来るマサオミを睨みながら呻いたヤクモは、抱えきれない程の脱力感に一気にのし掛かって来られる錯覚を憶えてこめかみを揉んだ。
 戯言でも方便でも、この莫迦みたいな云い分を通す輩と真っ当な話が出来ると思った方が間違いだったらしい。先程よりも深い溜息を漏らすヤクモを前に、マサオミは少々気分を害した様な息継ぎをしてくる。
 「……なんかアンタまるで信じてない?悲しいなぁ俺」
 よよよ、と泣き崩れる真似までして云ってから、マサオミはややあって表情を切り替えた。座った侭で卓を少し横に除け、遮るもののない彼我の間を縮める様に少しだけ近づいて、居住まいを正す。
 マサオミの纏っていた、浮ついた気配が突然遠ざかった事に気付いたヤクモが訝しげに顔を起こしてみれば、彼は驚く程真剣な眼差しでこちらをじっと見つめて来ていた。どうやら漸く本題に入る事にしたらしい。ワンクッション巫山戯なければ切り替えられないと云うのは、気遣いなのかそれとも単に不慣れなだけなのか。
 「ま。楽しかったのは半分。もう半分はアンタの事がちょっと気がかりだったんでね。──もう具合は平気なのか?」
 今更になって此処に居座る事になった経緯と云う、当初の返答を寄越した彼を困惑の表情で見つめ返してから、ヤクモはマサオミの問いの意味を正しく解した。と云うよりは態とそう取る事にした。
 「貧血気味はとっくに。疲労の方はぐっすり眠らせて貰ったからな。もう問題は無い」
 「…………へぇ」
 気のない返事を返すマサオミの様子で、矢張り見抜かれているな、とヤクモは直ぐに気付いたが素知らぬ振りを通した。
 涙の理由を問われたとしても答える気はなかったし、そもそも答えるに値する程の夢見の記憶を持つ訳でもない。
 ただ、想像はつくのだ。この町と、この家と、この空気はいつだってヤクモに遠い記憶を想起させた。そんな己の判断──強がりとでもマサオミならば評するのかも知れない──を裏切って、疾うに考える事さえ忘れていた過去の夢を揺すり起こすその感覚は非道い寂寥感と無力感とを滲ませる。
 忘れる事ではない。忘れられる様な事ではない。『彼』の笑顔はいつだって其処に在るし、『彼』の心にもいつだって自分や父が住む事が出来ているだろう事に疑いなど持たない。それは『彼』の司る『信頼』を試す様な冒涜だ。
 ふとした瞬間に振り返って、居ない事に疵を負う様な無様も今更無い。だが疵ではないその逆に、それはヤクモにとって必要不可欠なものだ。足りない訳ではなく、欠片に綺麗に収まっているからこそ大事な証の様なものであると云えた。
 だから、想像はつくのだ。他に、『ここ』に涙など落とす理由はない。
 とは云ってもそんな事をわざわざマサオミに説明してやる気が涌くでもないのも確かである。話した所でそれは愚痴か弱音にしかならない。『ここ』で過去にならない事は会話の隙間に埋める様な思い出話には未だならない。
 マサオミとてヤクモがそう簡単に口を割るとは端から思ってもいなかったらしいが、かと云って無闇に訊きだして見ると云う程無粋な精神を持ち合わせている訳でも無い様だった。ただ気にはなるらしく、こちらを窺う眼差しにはほんの少しの好奇の色が宿っている。
 尋ようか尋まいか。尋ねるとしてどう言い訳をしたものか──そんな所だろうか。
 「兎に角、俺は平気だ。それより、お前の怪我の具合は大丈夫なのか?」
 『平気』だと、マサオミにも式神達にもどうとでも取れる様な云い種で応えながらも切り返し問えば、マサオミは少々面喰らい、失望をちらつかせながらも件の左手をひらひらと振ってみせた。色の薄い肌の上でも包帯の白さは鮮やかだ。
 「この通り。平気ですよ。もう傷自体は符で塞いじまったんだがね、ナズナちゃんが大事を取ってくれたんでちょっと大袈裟に目立つだけで」
 符で施した処置では生物の欠損部位の完全な修復は見込めない。気力と指向性が直接効能を生み出す闘神符であれば理論上では可能な筈なのだが、生命に関わる事柄は術でも式神でも安易に起こしてはならないと云うのが陰陽道黎明期よりの暗黙の了解であり、普通に使用される闘神符には対象効果の制限がかけられている。その為一見塞がっている様には見えるが、実際マサオミの傷は「塞いだ」とは云えど表面上なんとか『傷などない』様に見えるだけの措置しか与えられていない。つまり強い衝撃を与えれば再び容易に開いて仕舞う訳である。ナズナがわざわざ包帯を巻いたのは傷が開く事を予防する為のテーピングの役割としてだ。
 彼が傷を負った経緯自体は、マサオミ自身の不注意としか云い様がないので直接その事に対してヤクモに負い目や思うところがある訳ではない。だが僅かの弱音を吐露する経緯となった元凶ではある為、それなりに経過が気になるのは、話題を逸らす意図とは無関係の事実だ。
 「怪我は怪我だ。ナズナの適切な処置に感謝して暫く無茶はしない事だな」
 「いやまあそれは勿論感謝し放題なんだが、そんな事よりも、だ」
 こほん、と態とらしい咳払いを挟んで、マサオミは座った侭少し身を乗り出してきた。じっと、覗き込む様な──窺う様な眼差しで、露骨に厭そうに顔を顰めて仕舞うヤクモの表情を構いもせず覗き込んで来る。
 「アンタの方は、本当に『平気』なのか?」
 形を変えはしたが繰り返された言葉に、どうしたものか、とヤクモは溜息一歩手前の呼吸を吐いた。
 「お前もしつこいな?」
 「シツコくもなるさ。だって、」
 云いかけて、仕舞った、とばかりにマサオミは口の端を下げた。ついぞ適切な説明や反論として言い募ったは良いが、後ろめたい様な内容なのだろう。大体想像はついていたが、ヤクモは空惚ける事にした。今にも舌打ちせんとばかりの表情を作って固まっているマサオミの姿がそれなり面白かった事も一つである。
 「…『だって』?」
 促すヤクモの問いに、マサオミはそっぽを向いて今度こそ舌打ちをした。その侭暫し遠い目で五秒ばかりの間を置いて、それから「開き直りました」と顔面に大書きしたかの様な不機嫌面で、然し静かに。真摯ささえ滲む声音で呟きを寄越す。
 「………………、泣く程、辛い事……なんだろうが」
 ああやっぱり、と思うのと同時に、それまでヤクモの裡にあった今回の不覚に対する意地や自尊心が酷く簡単に落ちて消えた。
 偶然か故意かは知れないが、この男は時々妙な所で鋭い事がある。ヤクモが夢見に泣いたのが『ここ』であったと云う事だけで、それが何に由来するものなのかと云う所に想像がついたのかも知れない──そう、要するに彼はただの真摯な気遣いをくれたと云う事だ──ので憤慨は驚く程に湧かなかった。或いは寝言のひとつでも漏らして仕舞っていただけかも知れないが。
 「…………別に、」
 云いかけて、今度はヤクモが口を噤む番だった。だがそれは先程のマサオミの様な後ろめたさに因るものではなく、『この感覚』をどう説明したら良いかが解らないと云うだけの事でだった。
 早朝の山奥や雨上がりの空気や柔らかな春の日差し。当て嵌まる様で少し趣を異にした『感覚』は浮かぶのだが、それを上手く説明出来る気がしない。言葉にして正しいものとは何か違う。と云うよりマサオミがそもそも『この感覚』を理解出来ないのではないかとさえ思えて、ヤクモは少し躊躇いがちに呻いた。
 「、……上手く説明は出来ないが、少なくともお前の思う様な『瑕』では無いぞ?」
 少し考えた挙げ句正直にそう云ってはみるのだが、マサオミはあからさまに疑いを込めた溜息をつくのみだ。ヤクモでなくとも他者に疑われる気分は(しかもマサオミに直接関わる事柄でも無いと云うのに)正直楽しいものではないだろう。
 「…俺が。嘘や気休めを云う様に見えるか?」
 憮然と、だが極力穏便に云う事にしたヤクモに、しかしマサオミはあっさりと頷いて返した。
 「嘘はつかないだろうな。だが気休めや強がりはアンタの特技だろうと生憎俺は踏んでいるんでね」
 「下衆の勘繰りだな」
 「──、」
 指摘通りなのはある意味では確かである。少々腹を立てたついでに低くした声音で断じてやれば、マサオミは眉間に鉛筆ぐらいは挟めそうな深い皺を寄せて黙り込んだ。己の言い分や追求が理不尽で身勝手な、それこそ下衆の好奇心に因るものではあると自覚はあったらしい。
 諦めきれずすっきりしない様な、それでも最後まで問い質してみたいと云う様な、云って仕舞えば好奇そのものである表情を不満気に曇らせているマサオミを見遣って、それからヤクモはやれやれと溜息をついた。
 思えば此処に来る前に「慰めてやる」などと申し出て来たぐらいなのだから、常に在る単なる興味に少しぐらいは真剣な思い遣りを加味してくれているのかも知れない。腹を割って話してみたらどうか、とか。そう云った類の。
 然し問題は先頃の通り。話をする事ぐらいならば別段構わない事なのだが、それをどう説明したものかと云う点にある。話してみた所でマサオミ自身がそれをヤクモの本音であると認めてくれなければ、壁に向かって話すよりも意味が無い。
 「本当に何でも無い事だ。嘘や気休めにするのはお前にも『皆』にも不誠実だろう。──だから。そうだな。これは、」
 みんな、と云う中に含有されたひとつの成分に気付いたのか、マサオミが少し辛そうに目を逸らした。
 (……何で、お前の方がそんな表情をするんだ……?)
 いつかなにかの予想を、未来を、彼自身が描いているかの様ではないか。
 (これではまるで、)
 少しだけ不愉快な想像になりながらも、ヤクモは顔にはそれを出さず目蓋を下ろした。手の中に在る紅い神操機をひときわ意識しながら──自然と口元が微笑んで仕舞う事に気付けば、説明する『言葉』など端から不要ではないかと思えた。
 「これは、……幸せだと云うひとつの結実なんだと思う」
 マサオミの口が「は?」と云う形を作るのに、やっぱり理解は得られないかなあと思いながらも、ヤクモは笑顔の侭続けた。と云うよりは自然に笑みが浮かんで離れないと云ったほうが良いかもしれない。
 幸福なのだ。喩えようもないほどに。
 「いつでも思い出せると云う事は、贈って貰ったとても大切なものだ。満了出来たと云う事は、世界で最も遠い様で最も近くに居る事が許されると云う事でもある。
 少し前までは俺も、どちらかと云えば今お前が考えている様な不安や余計な事に偏った思考にあった。例えば、忘れられていないだろうかとか、敵として再会する事にならないだろうか、とか」
 笑顔で続けるヤクモを、図星だったのかマサオミが憮然と見返して来た。
 「だから『ここ』で再会出来た事は幸運以上の安堵で、一生分のツキを使ったかも知れないと寧ろそんな事を心配して仕舞うぐらいなんだが──兎に角、これで解っただろう?俺にとってそれを思い出して、『ここ』で夢に見る事は決して感傷の類ではないと」
 構わず最後まで云いきってやれば、マサオミは矢張り何処かまだ「信じ難い」と疑いの念を乗せてじっとヤクモの表情を窺ってきていた。嘘がないのは認めているだろうが、そこにはほんの少しでも気休めの綻びがあるのではないかと、疑う様に。
 「だが、まだ気にしているからこそ、夢に泣かされたんじゃないのか?」
 「……その云い種だと矢張り、俺が起きる随分前から見ていた様だな?」
 「──、ちゃんとノックはしたって云っただろうが。返事が無かったから勝手に上がり込んで、〜……その、まぁ…何分か居たが。別にやましい事とかそう云うんじゃなくてだな、何かアンタも魘されてるっぽかったし…」
 ぴん、と来てヤクモが鎌を掛ける心算で云えば、マサオミは先程よりも余程後ろめたそうにもごもごと、存外正直に吐いた。目の醒める直前にノック音などしなかったな、とは、起きた時分からヤクモの疑問に引っかかっていた事である。
 「ああ、──だから起こしてくれたのか」
 ノック音はしなかったが、呼ばれ振り返った事だけは夢の内容の曖昧さとは裏腹に感覚としてはっきりと残っていた。ヤクモのそんな得心に、マサオミは苦笑を乗せたぞんざいな仕草で肩を竦めて寄越した。
 「起こしたって云うかちょっと呼んだだけだがね。……ってそれは兎も角。
 アンタが魘されてるわ泣かされてるわで、俺も正直すっきりしない所なんだよね。昼間屋根の上でコゲンタと何か話してただろ?だからひょっとしたら何かあったのかも知れないなと、老婆心が働いちゃった訳」
 眠るヤクモを暫時の間とは云え観察していたと云う事実を吐露して仕舞えばもう各種後ろめたさは打ち止めになったのか、いよいよ開き直った感も強くマサオミが云うのにヤクモは眉を寄せた。
 「立ち聞きとは趣味が悪いな?」
 新たな追求の原因に今更思い当たったのか、どうやら未だ打ち止めにはなっていなかったらしいが忘れられてはいたらしい後ろめたさに、マサオミはひとこと「あ」と漏らして、それから諦めた様に呻いた。
 「……誤解だ。聞いてはいない。ただ屋根の上で珍しく二人だけで居たから、何かあったのかと思っただけで」
 聞けたか聞いていなかったかは兎も角として、興味があったのは事実なのだろう。実際話した事はそう大した、深刻な内容でも想い出話でも無いので、聞かれていた所でどう、と云う事も無いのだが。一応良識的な問題として不快さを示す為に、ヤクモはマサオミの言い分を溜息で吹き消した。
 「まぁ、夢を見たのはその所為とも云えるし二度寝の所為とも云えるな。──何れにせよ、何度も云うが夢に見る事が出来る事そのものが幸せの証明の様なものだから、それはお前が勘繰る様なものではないさ」
 「…………泣いてた癖に?」
 「癖に、だ」
 意趣めいたマサオミの云い種に、にこり、と会心の笑みを添えて云ってやれば、彼は露骨に厭そうな表情をした。
 ヤクモの言い分を嘘や気休めと疑っている訳ではなく、それは恐らく、ヤクモの云う答えがマサオミの納得や理解を得られてはいないからなのだろう。
 (…解って貰える気は端からしていなかったが……これ程までとはな)
 経験の有無と、考え方の相違だ。説得出来る事でもないし、仮令言い聞かせる事が出来たとして、それはマサオミ自身の出せる答えとはほど遠い。ヤクモとしては仕方あるまいと断じて仕舞いたいのだが、マサオミの方は生憎未だ絶賛不満そうである。
 「何故そんなにこの事を気にするんだ?今すぐ契約満了する訳でもあるまいに」
 しかも他者の体験談を根掘り葉掘りしたがってまで、とは密かに繋げるだけにしたものの、そんな言外にしない嫌味はさておいて、問いたそれこそがどうやら本質的な原因だったらしい。マサオミの表情が見て明らかに硬くなった。
 これではまるで、と先程思いかけたその続きを、ヤクモは吐息にして呑んだ。それこそ下衆の勘繰りだった。
 (まるで。お前は初めから、喪う覚悟で契約を結んだみたいだ)
 いつか、満了へ至る願いと、己自身の満了出来る事実とを天秤に掛けた時、躊躇わず前者を選ぶ悲壮な覚悟があるかの様だ。
 「…………忘れられる事は時に死より辛い事もある。そう、お前が云っていたとリクから聞いた事がある」
 愉快とは到底云えない想像をかなぐり捨てて、ヤクモがそう悄然とこぼせば、硬い侭の表情で然しマサオミは小さく顎を引いた。
 勘繰りと云うレベルでしかない──が、もしもその覚悟ですら既にマサオミが手段のひとつとして捉えているものであるなら。
 「それは、闘神士の周囲の人間だけではなく、式神をも悲しませる事でもある」
 通じるか否かは解らない。けれど云わなければならない事だ、と、直感的な思いだけでそう紡ぐと、ヤクモは狷介そのものと云った表情でいるマサオミに向けて更に続けた。
 「だから俺にとってコゲンタとの契約の満了は何よりの幸いで、今もこうしていつでも思い出せる事そのものに感謝せずにはいられない程に大切なものだ。懐かしさそのものに泣く事も、悪い気はしない」
 神操機を抱いて口元を弛めたそれが、明確な答えそのものと漸く気付いたのだろう。納得は相変わらず出来ない様子ではあったが。ともあれマサオミはそれなりに真面目そうな表情で頷いて寄越した。吐き出した盛大な溜息と同時に瘧が落ちたかの様に、肩を竦める。
 「……アンタが、途方もなくポジティブな奴だって云うのはよーく解りましたよ」
 呆れているとも感心しているとも取れる、何処か巫山戯た色の乗った彼の云い種にヤクモは鷹揚に頷いた。
 「当然だろう。俺を育ててくれたのはとんでもなく前向きな父親と、過剰な自信を信頼で応えてくれた式神なんだからな」
 自信たっぷりに、誇らしささえ滲ませ微笑み返してやれば、マサオミは一瞬だけ虚を突かれた様な表情をして、それからヤクモと同じ様に相好を崩した。
 「良いね、アンタ。惚れ直しそうよ俺。で、ど?」
 ひとまずコミュニケーション未満の遣り取りは完了か、とそんな事を思ったヤクモの耳に謎の音声が入り込んで来た。戯けた内容は兎も角、上がった語尾から問いかけなのかは知れたが、何の問いなのかが前後の流れからも見当がつかず首を傾げる事でそれを返せば、マサオミはいっそ素っ気ないとも云える口調で言い添えてくる。
 「だから。俺に恋してみませんか?って。さっき云ったろ?」
 「……………」
 あっけらかんとしたマサオミの態度の変化に、ヤクモの唇がキツく真一文字に結ばれた。こちらは直球で感心するよりも呆れた。前門の虎、後門の狼。不毛な遣り取りが終わったかと思えば更に不毛な流れになりつつある現状の、何処に抗議したものかと悩んで仕舞う。
 「……折角の申し出だが丁重に断らせて貰う」
 心なし擦り切れた感漂うヤクモの返事にひょいっと肩を竦めて、マサオミ。
 「ツレないねぇ。とっても俺は本気なのに。なぁキバチヨ?」
 『オフコース!最近丼を食べている時と寝ている時とその他の時以外はなんやかんやと君の事ばっかり考えてるみたいだからねぇマサオミは。もういっそ色ボケってやつ?』
 本気なのか本気で楽しんでいるのかとも知れない云い種と表情とで傍らに浮かび上がる青龍の霊体(すがた)。当人に当たる気はあってもその式神までをも咎める心算など欠片もないヤクモは、仕方なく苦笑を浮かべた。どちらかとは云う迄もなく否定的な。
 キバチヨ曰くの『その他』の含有量が若干気にはなったものの、戯言は戯言である。真面目に取れば取るだけ損を見るのは云う迄も無いと断じて、ヤクモは手の中の零神操機を軽くくるりと回した。何処までも気を遣ってくれる心算なのか、珍しくこんな話題だと云うのに姿を現しては来ない──特にタンカムイが出て来ない事は驚嘆に値するかも知れない──式神達へと感謝の念を込め微笑みかけてやって、洗濯されたマントの一番上に置かれていたホルダーを手に取った。
 「飽く迄無視する気かよ……。アンタもさぁ、恋のひとつでもしてみればちょっとはその顰め面や憂い顔も晴れると思うんだけどなぁ」
 ああでも憂い顔も絵になるから良いんだけど、と頭の悪そうな事を続けるマサオミの笑顔に、ヤクモの中で唐突に何かがぱたりと倒れた。それは苛立ちの琴線や堪忍袋の尾ではない、もっと別の場所で疼いた振動で衝動だった。
 ──酷い、諦念にそれは似ていた。
 恐らく、駄目だ。
 仮令べつのものを想う事になったとしても、この記憶は、この感情は、叶った願いへの喜びや帰結は、どうした所で一生ヤクモに付き纏って離れないものなのだ。
 不安も無ければ焦燥もない。後悔も悲しみもない。寧ろ歓喜に満ちたこの感覚は、いつだって、どうなったって、夢や憧憬となってここにおちてくる。
 だから、恐らく。駄目なのだ。
 切っ掛けなど本当は要らない。ちょっとした事で思い起こされる不快もない。夢に見る必要もない。いつだって、あの絆はここでヤクモの心を奮い立たせる。
 じんわりと染み込んで全身に広がるその感情に特に名前はつけない。空いた空白、落ちた寂寥、恒久の憧憬。寂しさを伴う癖に酷く幸福なそれがあれば、生きていける。
 『彼』は、吉川ヤクモと云う闘神士を作ってくれたものだからだ。
 式神だとか人間だとか、そんな括りでは分けられない。ヤクモにとって二人目の肉親。
 「………………ヤクモ?」
 突然黙って固まって仕舞ったヤクモの目の前で、マサオミが掌を上下に振っている。その動きにぱちりと瞬きをして、それからヤクモはかぶりを振った。
 (だから。お前の云う通り恋なんてしてみた所で、これはずっと俺を支えてくれるもので、時には涙など流させるものである事は、変わらないさ)
 「ちゃんと聞いている。ま、恋が云々とはさておいて、その対象がお前である必要性は感じられないな」
 「〜この流れでそう来るかねフツー…。折角お手軽な相思相愛だって云うのに」
 肩を竦めるマサオミをちらと見遣って、ヤクモは手の中でもてあそんでいた神操機をホルダーへとそっと収める。
 「マサオミ」
 「ん?」
 それこそ本当に『楽しい』のかも知れない。文句を寄越した割には満更でもなさそうな表情で疑問符を浮かべる彼の方へとぺたりと畳を這って近づくと、ヤクモはひといきにマサオミの胸倉を掴んだ。引っ張る。
 「────」
 ぎょっとした様な顔が急激に近づいて、然しヤクモが目蓋を閉ざした事で直ぐに見えなくなる。折角容色の良い顔立ちをしているのだから、そんな間抜けな顔を晒すなよとぼんやり考えながら、口唇が触れるか触れないかの距離を僅か掠めるだけの、惜しみも色気も無い口接けをひとつ。
 「   、」
 薄く目蓋を上げれば惚けた様な翡翠色の眼差しがあって、その近さに今更ながらヤクモは赤面した。何をやっているのだとふと涌く疑問には、絆されてるなあと諦観の域。
 「や、」
 我に返ったマサオミの呟きが漏れるより先に、ヤクモは彼の肩をどん、と押した。
 「ちょ、…おい?!」
 「……礼と思え」
 相当驚いたのだろう、肘をついて身を支えながら思わず喧嘩腰で見上げて来るマサオミに、これ以上の質問を許さず短くそうとだけ言い置くと、ヤクモはつい、と身体ごと顔を背けた。
 「…………………ぇーと」
 相当狼狽したのか、些か間の抜けたマサオミの呻き声がヤクモの背中に飛んで来て、刺さらずに部屋を覆う沈黙へと吸い込まれる。
 張本人が片方欠けて冷えるのを待つばかりの空気の中で、ぽつりと追い掛けて来る声は、成程確かに楽しそうではある気がした。
 「じっくり堪能したいんでもう一遍、なんて……」
 「〜礼は済ませたからな、調子に乗るな。お前の言い分が本気なら相応の、戯言なら意趣と取れ。恐らく俺も同感だ」
 今更ながら己のした事が急激に恥ずかしくなり、ヤクモは苦虫を噛み潰しながら吐き捨てるのだが、マサオミの方は「えー」と本気で残念そうに返して来る。その温度の違いが更に羞恥心を増す要因となっているのは解っているのだが、止めろとも言えない。
 「……て云うか何の『お礼』なんだ?アンタに恩を何か売ってこう返るなら、毎度喜んで押し売りしちゃいますよ?」
 「…一応は、慰めようとしてくれた礼だ。これ以上は無い。
 そんな事よりお茶のお代わりでも取って来い。お前が飲み過ぎた所為でもう殆ど残っていないんだからな」
 云うなり、ずい、と迫って来たマサオミから慌てて離れて、ヤクモは目についた急須を掴んで適当にそうまくし立てた。実際お茶はもう残っていなかったし、今の遣り取りで無駄に冷や汗をかいて仕舞ったのも確かだ。
 マサオミはヤクモの唐突な要求とあからさまな拒否に唇を尖らせたが、まあ良いかとばかりに存外大人しく急須を受け取った。彼の表情は常に比べてみれば些か弛んで仕舞っており、莫迦面、とヤクモはその横顔に密かに叩きつける。
 「じゃ、続きは後でゆっくり、な」
 にこりと、計算された様に鮮やかな笑顔は、楽しんでいると云うよりも意趣返しの気が強い様に思われ、ヤクモは苦い表情で彼を睨み返すのだが、マサオミはそんな事は全く気にしない風情で立ち上がった。それこそ彼曰く『楽し』そうに。
 「後も先もあって堪るか…」
 閉じられる寸前の扉に向かって吐き捨てると、再びひとりになった部屋でヤクモは盛大な溜息を吐き出して頭を抱えた。
 『〜ヤークーモー……』
 それを待っていたかの様に、本当に放っておいて欲しいこんな時に限って、神操機の裡からタンカムイの、普段はそう出て来ない低音を纏った声がどろどろと響いて来る。出て来た霊体(すがた)も擬音で想像した通り、まさしく『どろどろ』と云った様相。
 「……何も云わないでくれ、タンカムイ……。彼奴は大概だが、今日は俺も少しどうかしている様だ…」
 『…………じゃあ何も云わないけどさ。ちょっとサービスしすぎじゃない?』
 「〜だから云わないでくれと…。矢張り俺も少し弱っていたんだきっと。そう云う事にしておいてくれ、頼むから」
 『此』の原因とも云える理由を──この場でタンカムイに穏便に黙って貰うべく伝家の宝刀を抜いたヤクモに、それでもタンカムイは何かを云いたげな気配を漂わせたものの、大人しく口を噤んでヤクモの背中側に座り込んだ。引っ込む様子が無い辺りは恐らく、マサオミが戻って来た時、間違っても『続き』など許すまいと牽制する為だ。
 『……でもさぁ』
 「………?」
 ぽつり、と思い出した様に呟くタンカムイの方を、膝頭に顔を埋めたヤクモは僅かに頭を巡らせ振り返る。ぺたり、とした風情で畳に座り込んでいるタンカムイ(の霊体)の、くりっとした眼が半分ほど閉じていた。不機嫌、と云うより不機嫌一歩手前、と云った様子である。
 『彼奴のお陰って云うのは癪だけど、ヤクモが元気になってくれたみたいで良かった』
 「…タンカムイ」
 不承不承なものをくるめた云い種だが、良かった、と云う意図そのものは紛れなく本心からのものだと知れて、ヤクモはひととき申し訳なさと感謝とが混在した複雑な感慨に満たされる。
 普段は互いに培った絆や信頼もあって、ヤクモとは一部を除き衒いも遠慮もない遣り取りを交わし合っている式神達だが、彼らはヤクモの心が過去を向いている時だけはいつでも、気を遣って何も云わずにただ心だけを添わせて共に居てくれる。
 先頃の件にしたって云うまでもない。本当ならば慰めの言葉のひとつでもかけたい所だったろうに、黙って待ってくれていたのだ。だからこそか、遠慮会釈なくやって来て寝顔から泣き顔を見た挙げ句慰め役まで買って出て仕舞ったマサオミに不満を抱かずにはいられない、と云った所なのだろう。
 「マサオミにも説明してやった事だが、コゲンタの事は俺にとって感傷や瑕では無いんだぞ?」
 『でも、ひとりで想いたい時くらいあるでしょ?僕らだってヤクモが『そう』したい時かそうじゃない時かぐらい、解ってるから大丈夫。いつだって僕らの事考えてくれなきゃ厭だなんて我侭云う心算はないしね。あ、でも普段は極力考えてくれると嬉しいなぁ』
 式神達の気遣いに対して云えば、遠回しに釘を刺す様な事を返され、ヤクモは打って変わってにこにこ微笑む聡く賢しい消雪の式神に苦笑を向けた。そっと手を伸べその頭を撫でる仕草をして、「わかっているよ」と小さく呟いた。
 式神のもたらしてくれる存在感に安堵を思わず浮かべて仕舞うのはこんな時である。
 『でもキスまでしてやるのはやっぱりサービスしすぎだと思うな』
 「…………………だから、もう勘弁してくれって………」
 責めていると云うよりは、態と虐める様な言い回しを止めないタンカムイに力無い抗議を送って、ヤクモは熱を持った頬を冷ます様に開かれた窓の方を向いた。外気温は涼やかな程ではある癖に、火照りを鎮めてくれる役には立ってくれそうもなかった。溜息。
 マサオミの宣う「好意」だのと云う言葉を、今回は少し信じてみたかっただけだ。血迷った自覚はあるし、莫迦莫迦しい対応だとも思っている。思っていなければ進行形でこんなに恥ずかしい思いをする事もないだろう。
 仮令それがあの男の方便であったとしても。偽に程近いものであったとしても。
 (お前の云う「好意」とやらに、少しは相応しい形で、礼を応えてやりたかったんだ)
 などとは口が裂けても云えない。
 果たして彼が何を考えているのか。何を重ねようとしているのか。解りなどしない、が──
 最初は好奇。或いは期待。次は恩義。或いは不可解。そして次は慣れ。今は?
 いつの間にか『当たり前』になっている。コゲンタやリクやナズナやソーマの居る『ここ』に、マサオミもまた居ると云う事が。
 (……だから、振り返った。それが理由だって良いだろう……?)
 『あれ』はヤクモが油断したその隙に、もう追い払い様がない程に居座って仕舞っていた。きっとそう云う事なのだ。



 *

 是と頷き、掴まれていた手からあたたかな温度が消えて行くのを意識しながら、手毬の転がって来た先をゆっくりと振り仰ぐ。
 「…………マサオミ?」
 桜の緞帳の及ばぬその先で、手を述べるでもなく気を惹くでもなく、ただ一言名前だけを呼んで引き戻した、その闘神士が佇んで居た。
 ざう、と音を立てて、視界を淡霞に染め上げていた桜が一斉に融けて散って行く。恐らくは『其の』場所に居た人たち共々に。
 それでも二度は振り返らず、ヤクモは佇むマサオミの方へと歩み寄った。
 あの澄んだ鈴の音はもう聞こえはしなかったが、目蓋の奥に力を強く込めて、ゆっくりと目を醒ました。




よく思い起こして凹んでるイメージあるんですが(OPの所為)ヤクモにとってコゲとの想い出は負では決して無い永遠だと夢見る次第。習慣的な毒みたいな。24話前までは不安にに陥ってたけどそれ以降は晴れ晴れしてるもんだと言い張ります。
手毬=りっくん 鈴=コゲンタ。

何処から何処へいくのか。本当は何ものなのか。そんな事は関係ない。ただあなたと共に、生きていきたい。