与えられて知る事が出来たのは、喪失の切なさと辛さと、手放したくない愛着。狂いそうな程の献身を尚も求める、何処かに残された満たされない孤独な魂。
 家族を取り戻し、後悔や憎悪を払拭しても、そこには居ない存在をずっと思うのだろう。彼のそんな有り様の全てだった。
 その存在が千二百年前へと戻り、帰結しても。この時代で手に入れたものをその代償に失うしか無い。
 そんな、決して癒されはしない、相反する二種類の彼の寄る辺。

 そのひとつであることを自覚していたからこそ、彼がこれから決して癒されない喪失を抱える事になる──その事実を、嘗ての己と重ねて。



  かえりみち



 愛用の原付きのエンジンを切り、荷台と足下に固定しておいた、かなりの嵩のあるビニール袋を両手に一つずつ。
 先日初雪も降っていよいよ本格的になった冬の寒さに白い溜息を吐きつつ、マサオミは積雪に滑り易い石段を、しかし存外慣れた足取りで昇って行く。
 新太白神社の鳥居を高台に見上げるその石段はお年寄りにはキツそうな急勾配と段数で、更にこの寒さで所々凍っている事もある。巫女のナズナが毎朝掃除を怠らないとは云え、気温の変化で張る薄氷まではどうにもならない。
 そんな危なげな石段にも然しここ数日で随分と慣れた。
 この時代の履き物は己の知る藁の草履よりも摩擦係数が少ないから、最初の内は慣れずに困ったものだったのだが、マサオミは元来器用なのでコツさえ掴めば何とでもなった。要は上手い体重配分の問題だ。
 そればかりではなく最近の履き物は便利で、冬用の靴には路面凍結での転倒防止を目的としたスタッドレス仕様なんて事になっているものもあると云う。
 世の中は果たして不便になっているのか便利になっているのか。いきなり時代を大幅に超えて来ているマサオミには良しも悪しも大きく目につく。
 両手のビニール袋の中には、大量の食材。季節のものからそうでないものまで、いつでも金銭さえあれば手に入れる事が出来ると云うのは──少なからず便利で豊かになっている、と云う事の証明ではあった。
 無論その代わりに自然界や人間が抱える事となる負債も、確かにあるのだが。
 そうして長い石段を危なげなく昇り終え、続く緩やかな坂道を登って行くと、今にも落ちて来そうな薄曇りの空を支える様に立った鳥居が迎えてくれる。嘗ては天流の闘神士か一般人かしか通れぬ様結界の張られていたそこを何の障碍も無く抜け、マサオミは境内を横切って神社の裏手側にある建物へと向かった。
 まだ新しい、人の気配や生活感のどこか希薄な、余所余所しさすら感じる簡素な造りの二階建て建築。和風の、それなりに馴染みのある雰囲気であり決して悪い類のものではない筈なのにそう思わせるのは──そこに今棲む住人が「『家』とは思っていない」などと云って除けた所為だろうか。
 正面に近い玄関の前に立つと引き戸に手をかけ──然しマサオミは少し考えてから踵を返した。殆ど花弁を散らして精彩のなくなった山茶花の垣根を回り込んで、神社の真裏に当たる庭に面した和室へと足を向ける。
 裏庭の空気は人の行き来が全く無い所為で少し寒い。そんな寒い中開け放しになっている縁側がふと目に入り、眉を顰めながらもそこを覗き込むと。
 「……………何やってんのアンタ」
 何となく。予想通りと云えば予想通りの顔が予想以上の形でそこにあり、マサオミは思わず剣呑な表情で首を傾げて仕舞う。
 そんなマサオミの姿を逆さまの琥珀色の瞳に映して、珍しくも愛想良く返事の代わりの様に手をひらりと軽く振って寄越すヤクモの表情は苦笑めいている。
 「お早うマサオミ」
 「おはようって時間じゃ無いんだけどねぇ……うん、お早う。で、何してんのかな」
 時刻としては昼過ぎで、「おはよう」の時間には明かに無理があるのだが、今日初めて顔を突き合わせているのだから別にそれでも良いかと投げやりに思いつつも、再度問いは忘れないマサオミを前に。縁側付近に敷いた薄いラグマットの上で仰向けに転がったヤクモは、ふう、などと溜息をついて目を細めた。仰け反り角度にこちらへと向けていた顎を正位置へと戻すとその侭眠る様に目蓋を降ろす。
 目を逸らしたかったのだろう、と何となく解って仕舞う、少しばつの悪そうな表情と僅かに赤い耳。
 「……ちょっと寝転んだら、動けなくなっただけだ」
 それでも根が真面目だからか結局誤魔化さずに答えを寄越すヤクモを、ますます剣呑に見下ろしてマサオミは大きく溜息をついた。
 成程妙に愛想が良さそうだったのも、恥ずかしさと気まずさからか、と得心が行く。
 「アンタさあ、本当なら入院しててもおかしくない怪我人なんだから、無茶してないで大人しく部屋で寝てろって…」
 「それで鈍るのは本意じゃないからな。それに怪我人怪我人と云われているが、もうそんなに程度が酷い訳でもないし、少しぐらい起きれる方が、」
 「右腕骨折寸前、肋骨…何本だっけ?折りまくって血吐く程に内臓までチクチクやって、更に細かな全身打撲や裂傷は数え切れず、おまけに気力と体力の大幅消耗で重度の衰弱プラス過分な無理の祟った筋肉痛。その他」
 あの大戦でヤクモの負った負債(怪我)を、両手は塞がっているから取り敢えず頭の中で指折り数えると、マサオミは半眼になった目で眼下のヤクモ当人を見下ろした。
 「……これで重傷じゃないとか云うかな?」
 「そもそもお前が云うな。原因の殆どの癖に」
 言の割には柔らかく微笑など浮かべ、ヤクモは身体を起こそうと、未だ到底完治しそうにない傷を庇いながら身じろぎし、途端に顔を歪めてばたりと脱力して仕舞う。
 「〜痛…」
 「あーもう無理するなって!今度から本当に布団に簀巻きにして符で封印するぞ?」
 本来ならば若さ故の代謝で大人しくさえしていれば治りは早いのだろうが、気力体力の著しい消耗に因る衰弱でそもそも全身が怠く侭ならない所に持ってきて、自然治癒力も低下して仕舞っているのだ。
 これに更に加えて自覚があるんだか無いんだか、ご当人様が結構こうしてフラフラと歩き回るので、面倒見役のナズナやイヅナでなくとも口を尖らせたくなると云うものだ。
 「それは勘弁願いたいな。布団から出るのに式神(皆)の力を借りるのは流石に間が抜けているだろう」
 「…………少しは真摯に『抜け出さない様に』するとか考える気無いんですかね?」
 気力の大幅な消耗に因る疲労感と衰弱とで、ヤクモの身体は望まずとも回復の為の睡眠を必要としている。伏魔殿からの帰還後は新太白神社に戻るなり倒れて死んだ様に三日も眠りっぱなしだったのだ。
 それから二週間も経つ今も未だ、ヤクモは一日の殆どを休眠時間として過ごしている。それだけあの戦いが苛烈であったのだと改めて思わされるのと同時に、負った彼の消耗の大きさをも物語っていた。
 ウツホの復活の際の力の余波でまず大きく負傷。その後気力を削る伏魔殿を飛んで天神町へ。数時間の気絶の間にナズナから受けたのは飽く迄応急処置。構わず再び伏魔殿へ降り、四大天の力を得た朱雀のバラワカを使役するウスベニと、超降神のキバチヨを連れたマサオミとの厳しい戦いに。挙げ句の果てには世界を一時的とは云え支える為の五行の人柱になってなけなしの残された気力を全放出。
 更にこれだけの間、戦うべく体裁を整える為に、気力の消耗を承知で闘神符を絶え間なく使い続け痛みや傷のそれ以上の悪化などを極力払い除けていたと云うのだから、無茶とか無謀とかを通り越して──寧ろ死に急いでいるのではないかと邪推したくもなる。
 当事者であるマサオミとしては逐一を思い出すと実に苦く行き場無い心持ちにはなるのだが、その後こうして無事戻っておきながらもヤクモが未だあれこれと無茶(本人曰くは違うのだろうが)をしているのは決して自分の責任ではないと断言出来る。
 ……と言うより、正直これだけ連ねると改めて、相手が規格外の闘神士なのだと厭になる程に思い知らされるのだが、こうして目の前でどこか途方に暮れて仰向けになっている姿を見ると寧ろ安心や脱力を憶える方が強い。
 胸中の考えは顔に出さず、革靴の踵を踏んで縁側に脱ぎ捨て、マサオミは両手の荷物を右手一方へと持ち直すと部屋に上がった。歩いて近付くその動きを目で追いながら、仰向けのヤクモが憮然と云ってくる。
 「抜け出す、と云うのは少し人聞きが悪いぞ。俺は別にお前曰くの無茶をしている訳ではなく、日常的な動作をしたいだけなんだ」
 「はいはいそうしてこーやって動けなくなる訳ね。
 ところでアンタ何でこんな所に起きて来たんだ?しかも縁側全開で。この上更に風邪まで引く気か?」
 空いた左手を腰に当て、大袈裟に溜息をつく所作をしてマサオミは呆れた様に云う。正直云って起き抜け(なのだろう)の身には些か寒すぎるのではないかと云う程に、部屋の空気は外気と同じくらいにひんやりと冷たかった。
 「朝食も昼食も食いっぱぐれて、少し小腹が空いたから起きて来たんだが──」
 台所へ行く前に何となく和室に入り込み、外の空気でも入れるかと戸を開き、清涼に冷たい空気を堪能しようと座って、暫く茫としていたらまた程良く眠気が来たので横になってみて──以下現状に続く。
 「で、取り敢えず心配でも呆れでも構わないが、起きるのを手伝ってくれないか」
 そんな事を存外真面目に云ってくる、呑気な(本人に云っても認めはしないだろうが)琥珀の双眸を見下ろして溜息ひとつを置いて。そこはかとなく苛立って仕舞ったマサオミは買い物袋の中から、これはスーパーでのまとめ買い分ではなく、途中の果物屋で何となく買って仕舞った紙袋を引っぱり出すと、仰向けになったヤクモの胸の上で無造作にその手を放した。
 「ッこら!」
 流石の反射神経か、身体に落ちる寸前で両手でずっしりと重い紙袋を受け止めたヤクモは激しく顔を顰めて、真逆に思わず感心の目で見て仕舞うマサオミを睨んで来る。
 「ナイスキャッチ♪」
 「〜怪我人だのと人には云っておいて自分はこれか。全く、この期に及んでとどめを刺そうとか企んでないかお前。で、何だこれは…林檎?」
 掴んだ勢いで開いて仕舞った袋の口から転がり落ちた、赤い果実をぱちくりと見つめてヤクモは首を傾げ、意図を求める様にマサオミを見上げてくる。
 「お見舞い。小腹空いてるなら丁度良いだろ?コレ台所に置いてきたら剥いてやるから、起き上がろうとかしないで大人しく寝て待ってなさいよ」
 意趣返しもお仕舞い。瞠目した琥珀色の目に笑顔を送って、マサオミは縁側の戸を半分だけ閉じると台所へと向かう事にする。夕食の下拵えをしているだろうナズナとイヅナが、そろそろ買い出し係の帰宅の遅さに辟易しだす頃かも知れないので速やかに。
 だが和室の戸に手をかけた所で、ふと思い出してマサオミは振り返った。予想通りにか寝ころんだ侭で律儀に紙袋を抱え、こちらをきょとんと見つめているヤクモと目が合う。
 「そうそう、言い忘れてた。──ただいま」
 「…………ああ、お帰り。それよりイヅナさん達を余り待たせるな。さっさと荷物を置いてこい」
 妙な間の後にそう云い息を吐くヤクモを斜めの視線で見下ろして、マサオミは我知らず苦笑に似た表情になるのを自覚しつつ、それでも口を開いた。
 「アンタにとって新太白神社(ここ)が家じゃ無いってのは解ってるけどさ、俺にとっては──アンタがそうやって云って迎えてくれるから、ただいま、でも良いよな?」
 違えた時に身を賭して呼んでくれた声。信じてくれた心。
 それに加え、生きる事を決意し、崩落の最中の伏魔殿から戻った時──真っ先に迎えてくれた、受け入れる声が、言葉が、余りにも心地よかったから。それを手放したくは無いのだと、今でも惜しむ様に思う。
 珍しく弱気な云い種を誤魔化す様に、最後は少し戯けて云うマサオミを見上げるヤクモは、案の定か複雑そうな表情で、何かを思い倦ねる様に目を僅か細めた。その口から何らかの言が出る前に、マサオミは矢継ぎ早に続けた。
 「それにさ、そんなボロボロの体でもアンタは俺を説得してくれただろう?こっちはアンタやアンタの式神を葬ろうとまでしてたってのにさ。最後の時なんて殴りかかりそうな勢いで。引き留めてくれただろう?
 そのお陰で俺は本格的に違える前に戻って来れたんだ。だから……何て言うかな、アンタは、俺が帰っても良い場所、みたいな気が。してるんだよ」
 そんな、『戻って来れる場所(ひと)』が──何かの虚構の様に余所余所しくて、冷やされるばかりになっているのは、とても哀しくなる。
 変わりすぎた二つの時代。その狭間に居る自分は本来、ここに迎え入れられて良い存在ではない。それ故に余計に。

 「……マサオミ」

 不意に名を呼ぶ、ヤクモの逆さまの表情が、困った様な微笑を浮かべている。
 「お前がそう思いたいのであればそれは好きにすると良いさ。だが、憶えるのは今ばかりの憧憬ぐらいまでにしておけ。郷愁は──本当にお前がただいまと云える対象は、ちゃんとまだあるんだからな」
 何となく。これも解っていた事ではある。それはやんわりとした拒絶。それとも隔絶。
 「お前は、」

  ──ああ、それ以上は云うな。

 強くそう思うが、浮かぶのは結局いつもの苦笑ばかりで、淡々と事実を紡ぐヤクモの抑止には決してならない。
 「家族を取り戻して、千二百年の刻を帰るんだろう」
 ──それは、嘗ては狂おしい程に切望した、望みの果てである筈なのに。
 たった一人の実の姉と、その式神と、きょうだいの様に暮らした子供達と。元の時代で再び平穏を過ごす悲願。
 だがそこには、あの時必死で呼びかけてくれた声は無い。
 琥珀の目の縁を緩めて、恐らくはマサオミのそんな心情全てを理解しているからこそ、そんな慈愛や慰藉にも見える崩れそうな微笑みばかりを浮かべて只、「間違えるな」と示す彼は、ここにしかいない。
 詰まる距離、手を伸ばせばあっさりと触れる場所に居るのに、己の指先とヤクモの存在との間には決して交わらない、埋まりも縮まりもしない、刻の理の隔たりがある。
 「家族を……大事にするんだ、マサオミ。もう二度と違えない為にも。──取り戻せた事は、経緯はどうあれ誇って良いんだぞ」
 冷え切った、家ではない住処(いえ)で。嘗て取り戻した家族が不在の、ただ「家」の体裁しか無いその空間で。
 或いはマサオミと同じ様に、遠い喪失を乗り越え、其の手で望みを取り戻した彼は。そんな言葉が空虚さを漂わせる程に皮肉めいた表情で立ち尽くすマサオミに向け、透る様な会心の笑みを寄越してくれる。
 「……………そんな姿勢で云っても、格好つかないぜ?」
 浮かぶ複雑な感情を自ら吹き消す様に、マサオミは戯けてそう云うと今度こそヤクモに背を向けた。
 戸を閉める寸前、全てを正しく解している溜息が聞こえ、少し気まずさが胸の裡に残る。
 (俺は未だ、此処に帰って来たいんだよ)
 胸中の呟きは形にはなってはいないが、恐らくは気付かれている。だからこそ「思い違えるな」と、彼は言外に示すのだ。
 浮かんだ侭の苦笑をかぶりを振って払うと。せめて買って来た林檎が甘くなければ良いな、とマサオミは思った。




13話で太白神社跡地に現れた時にすごい痛々しそうな表情してたのが、「ここが帰る家なんだ」と云う彼の心の有り様を示している様で。新太白神社を「家」とは思えてないんじゃないかなと邪推している次第。最終回でちゃんと再建してたのもそんな邪推を増長させました。

帰りたいね帰るよ帰れない。近くても辿り着けない。