カゴメ格子



 幾度も繰り返して見た、これは夢だ。
 
 「闘神士ヤクモ──ここに白虎コゲンタとの契約を」
 
 互いに肩に頭を預けて向かい合って立つ。
 彼我の間に挟まれているのは、幼い己の手の中で確りと握りしめられた紅い神操機。
 願いごと絆ごと抱え込んで、背中に添えられたあたたかな白虎のてのひらに、噎せ返りそうな幸福と失意とを感じながら。
 最期に信頼を捧いでくれた式神の思いに、ただ応えようと、
 
 「満了する」
 
 泣き出しそうな心を堪えて、微笑もうとして──出来ずに唇を噛み締めた。
 
 ……だから、これは。夢だ。
 
 * 

 背中が痛い。
 目を開いた時に真っ先に浮かんだのはそんな感想だった。
 仰向けに転がって、全身で見上げている空は穏やかな晴天。その日差しに包まれている大気の温かさも相俟って、幾分寒さに近くなった季節には恵みとさえ感じる程の。
 そんな空に近い下で、四肢を伸ばして転た寝をしていられるなど、贅沢に過ぎる。
 これで寝返りにも不安を感じず、背中が痛くなければ云う事もないのだが、流石に日本家屋の屋根の上と言う場所柄そう云う訳にもいかない。
 地上よりは幾分近い空をぼんやりと見つめながら、ヤクモは重い息を吐いた。幾つかの難点さえ除けばこのロケーションは抜群だと云うのに、夢見が余り良くなかった所為でどうにも怠さが付きまとう気がしていけない。
 (……久々に見たな。ここ何年もずっと見ていなかったのに)
 脳裏に、意識せずとも夢に見ずとも再生出来る、あの瞬間の記憶。
 縋る心算も後悔する心算も無いと云うのに、当時は幾度となく思い出に引き擦られる様にして夢を繰り返し見た。
 当時はヤクモも相当参っていた、と云うのは、その様子を見ていた北条ナナの弁からして間違いはないのだろうが、あれからもう五年もの年月が経っている。その間新しい式神達と契約したり、別の戦いに身を投じる様になったりと、息つく暇も無い様な時間の経過は確実に、当時の『別れ』の記憶を和らげてくれていた。
 悪夢ではない、確約として繰り返し見た夢も、時と共に見る事もなくなった。だから、先程の夢見は久々であるが故に、懐かしいと云うよりも寧ろ不安に近い質を想起させたのだ。
 況してそれが、笑顔の別れを享受出来ず、悔いる様な己の姿を投影していた、など。
 過去の追体験を受け止められなかったのは、結果が欲しくなかったからではない。そうでなければヤクモが今ここに居る事など到底出来まい。
 故にこれは悔恨でも妬みでもない。記憶に確かに憶えた、あの頃の痛痒を思い出しただけだ。
 (夢を見たのは、恐らく)
 そう、息を吸う様にヤクモが目蓋を下ろした瞬間、カラン、と耳に軽やかな鈴の音が届いた。
 『よォ。起こしちまったか』
 懐かしい音に誘われる様に、ヤクモが半分目を開いて横を見遣れば、そこには長い間座っていた風情でいる白虎の背中があった。
 視線を受けて、尾の先の鈴がもう一度揺れる。
 (『ここ』に居るから──だ)
 降神されていない式神の霊体とは云え、コゲンタのその存在に全く気付けていなかった事にばつの悪い思いを憶えながら、ヤクモは上体を起こした。
 そればかりではなく、今までの思考や夢見が夢見であるだけに、懐かしい白虎の姿を真っ向から見るにも気が重い錯覚さえ憶える。
 「別に。本気で寝入る心算も無かったからな。それより、こんな所でどうしたんだ。リクの傍に居てやらなくて良いのか?」
 無駄な言葉を省いて、率直に思った事を問えば、コゲンタは、は、と肩を竦めて寄越す。
 『今は部活の訓練だとかで、あのよく解らねェ体操やってる最中だしな』
 そう云いながらも、コゲンタは眼下を気にする様に見下ろしている。その座る位置は丁度、屋根の縁から庭を睥睨出来る場所だ。
 気のなさそうな素振りをしながらもこうしてちゃんと見守っている辺りに、リクの事を大事に思っているのだろうコゲンタのそんな様子が伺えて、ヤクモは密かに笑みを噛み殺した。
 よくよく耳を澄ませれば聞こえて来る、規則正しいホイッスルの音に誘われる様にヤクモがコゲンタの横から同じ様に眼下を覗き見れば、庭でボート部の三人組がリズムよく揃った動きをしているのが目に入る。両手に持った葱の意味は良く解らないのだが、そういうものなのだろうと思って未だに問いていない。
 『そう云うお前こそ何やってんだ?こんな屋根の上なんかでよ』
 器用なものだなと思いながらボート部の体操風景を観察していたヤクモへと、やがてコゲンタが怪訝な表情で問いを投げかけてくる。
 幾らリクが部活動中だからと云って、その傍を一応は離れて屋根の上(こんな所)に居る以上、恐らくコゲンタはヤクモに何か用向きでもあったのだろう。
 やっと見つけた、と思えば当のヤクモが暢気に転た寝などしていた為に、目を醒ますまで待ってくれていた、と云った所か。
 そう見当付ければ確かに、この太刀花アパートの、よりにも因って瓦屋根の上などと云う場所に何故いるのかと訝しまれるのも仕方のない話か。単純に睡眠を摂りたいだけならば部屋の中の方が寝心地もよく安全なのは当然だ。
 尤も、ヤクモも眠る事を目的として屋根の上に上がったと言う訳ではないのだが。
 「ああ。以前屋根を修理してくれない式神の話をリクから聞いていたからな。一宿一飯の礼にと思って軽く見てみようかと。
 ……とは云っても素人仕事だから宛にはなりそうもないが」
 肩を竦めながらヤクモは少し姿勢を移動させ、そこに置いてある工具箱と、瓦の落ちた屋根の補修跡をコゲンタに示して見せた。屋根を修理してくれない式神、と言外にはしないものの指されて、コゲンタは反論こそしないものの、むすりと眉を寄せてそっぽを向いて仕舞う。
 戦いの事以外には相変わらず無頓着そうな、白虎の式神のそんな姿を苦笑混じりに盗み見て、ヤクモもまたコゲンタの横顔から自然な所作で視線を外した。
 蒼穹は何処までも穏やかで遠い。雲の一つも浮かばせていない真上の空は周囲に測るものを何も持たない為に、その距離感や突き抜けた存在感にただ圧倒される。
 節季の乱されつつある世界とは云え、個別に各地を見れば各々は間違った現象を生み出してはいない。春は春、冬は冬の事象として在るそれが、ただ無秩序に訪れただけだ。
 世界や情勢は変動し混乱を来して居ると云うのに、ここにただ在るその節季(形)だけは何も間違ってはいない。ただ美しく、ただ恵まれて、そこに在る。
 無論歪まされた現象自体を甘んじて受け入れる程には、ヤクモも──リクやコゲンタ達も、愚かではない。本来在るべき流れに戻すべく尽力を惜しむ心算など端から無い。
 だがこうしてただ空を見上げているだけならば、只の──安らぎを憶えて仕舞う程の時間を伴った恵みだ。目さえ閉じて仕舞えば穏やかで平和な『日常』だ。
 落ちた沈黙に甘んじる様に、ヤクモは目蓋を下ろした侭で顎を擡げた。感じるのは降る陽光の温度。聴こえるのは庭に居る子供らの声とホイッスルの高らかな響き。
 それと、時折コゲンタが退屈そうに尾を揺らす度に響く、鈴の音。
 (そう云えば、)
 りん、と鳴る音に鼓膜ごと感情を揺さぶられ、ヤクモの脳裏に懐かしい光景が過ぎった。
 血を流した父の制止する声を振り切って、闘神機を手にした。名を強く呼び必死で願った──最初の降神。
 (あの時も)
 間髪入れず再生された次の光景は、喪われかけた存在を取り戻すべく名落宮へと行き、零神操機を手にした──再会の時。
 (……あの時も)
 流れる様にして最後に浮かんだのは、消滅寸前の体で戻って来てくれた──満了の瞬間。
 走馬燈めいて次々に浮かんだそれらの光景が、ふと眼前の、現在のコゲンタの揺らす鈴の音に重なった。
 (いつだって、俺を『起こし』たのは、この音だったな)
 頭上の空以上に穏やかな心持ちを憶え、ヤクモの手が無意識に持ち上がった。何やら物思いに耽っている風情でいるコゲンタの、霊体のその尾を掴もうとするかの様にして──当然感触もなくすり抜けて止まる。
 『……何やってんだ?』
 「……………なんとなく」
 霊体に感触があるのかは解らないが、不審そうに振り返って来たコゲンタに、ヤクモは苦笑を返して手を引き戻した。何も得られなかった指先を所在なく振って、妙に軽い錯覚を憶える掌を落とす。
 実際何かをしたかったと云う明確な意識など無かった。あの頃を思い出していた事で、自然に同じ様に動いて仕舞っていただけなのかも知れないし、或いは余計な物思いを引き起こさせる鈴の音を止めさせたかったのかも知れない。
 己で意図が知れず、眉を寄せるヤクモの姿を振り返って、ふとコゲンタが少し迷いを乗せた様子で口を開いた。
 『なァ……ヤクモ、』
 「うん?」
 『…………お前も、モンジュも。あれから、どうしてた?』
 少し躊躇いながら、然し真摯に出された問いに、ヤクモは思わずぽかんと目を瞠るが、次の瞬間には押し出される様に曖昧な笑みを口の端に乗せていた。
 「『信頼』しているから、心配はしていなかったんじゃないのか?」
 嫌味ではなく心底にそう思ったからか、少しの笑いが乗ったヤクモの声に、コゲンタはかっとなって毛を逆立てた。
 『ッだああ!心配なんて端からしてねぇっての!ただどうしてんのか気にしただけだろーが!』
 まるで『信頼』していないと云われた様に取ったのだろう、鼻の頭を赤くしてむきになって泡を飛ばすコゲンタの様子に、ヤクモはくつくつと遠慮無く笑いかけながら──ふと、目を細めた。転じられた気配にコゲンタが瞬くのを待ってから、ヤクモは空の上へと視線を戻した。静かに答える。
 「──元気だよ。………お前のお陰で」
 『ここ』で見た夢は現実(いま)の痛痒ではなく、失わなかったものに対する愛着の様なものだ。正直に手放しで喜ぶには抵抗のあるそれは恐らく本心に近いものなのだろうが、寧ろ『離れ』て猶変わる事の無い式神の思いに、非道い幸福と遠い酩酊とを憶える。
 恣意なく無意識に。万感の思いを抱いた心の侭に、ヤクモの表情はごく自然に微笑みを浮かべていた。
 そんなヤクモの様子を目の当たりにしたコゲンタは、いきり立ちかけていた態度を元に戻すと、嬉しそうに、然し少し遠そうに笑いを返してきた。
 『……そうか』
 そうコゲンタが呟いた瞬間、庭に居る子供達の動きに変化が訪れた。ホイッスルの音はいつの間にやら鳴り止んでおり、リナに促されたリクがきょろきょろとコゲンタの姿を探しているのが見える。
 「ほら、呼んでいるぞ」
 『……、ああ』
 ぱたぱたと手を振り、行ってやれ、と仕草でヤクモが笑うと、コゲンタは寸時ヤクモの様子を伺う様な表情を見せてから、小さく息を吐いた。溜息ではなく、ただの息継ぎに似た。恐らくは切り替えの。
 屋根の上に立ち上がったコゲンタは、もう一度ヤクモの方を振り返ると云った。
 『ありがとな』
 気易い笑顔が掻き消えるのを見送り、ヤクモは遠い、切なさの込もった微笑を浮かべた侭、穏やかに目を閉じた。
 同じだ。目さえ閉じて仕舞えば同じ、それは遠い音。夢と白昼の現との中で漏れ聞いた古い記憶への反射。
 『ヤクモ様…、』
 『大丈夫でおじゃるか…?』
 「ああ」
 一連のヤクモの感情の揺らぎを敏感に察していたのだろう、コゲンタが姿を消すなり、今度は五体の式神たちの気配が傍に寄り添って来るのに、穏やかな表情の侭頷きを返すと、ヤクモは口元を幸せそうに甘く弛めた。
 庭から漏れ聞こえてくるのは、子供達やコゲンタとの、『いつも通り』の遣り取り。
 薄く目を開いて見遣れば、笑い合ってそこに居るリクとコゲンタの姿が寸時、ヤクモの脳裏に在りし日の自分と白虎の姿を重ね透かして映す。
 然しそれも一瞬で、ヤクモは元通りに空へと視線を戻すと陽光に目蓋を下ろして、少し子供っぽく破顔した。
 「ここはあの頃に近い様で、もっとずっと幸せだ」
 ただ懐かしさに目を細める事が許される。ただ思い出した刻に幸福を憶える事が出来る。ただ現在の己に喜びを覚える。
 「こんな穏やかな日に、こんな幸せな所で、皆と一緒に『ここ』にまた居られる。これ以上の贅沢は要らないだろう?」
 そう、心の底から満足そうに目を細めてそう云うと、ヤクモは屋根の上で後ろ手に体重を預け──
 「!!」
 ばき、と云う音と共にその身が座った侭斜めに傾いだ。何とかバランスを保って恐る恐る振り返って見れば、ヤクモの手の下にはやっつけ修理の跡に空いた大穴がある。
 「……〜やっぱり瓦も乗せてないし駄目だったか……。とは云え放っておく訳にもいかないし…また直すか」
 苦笑を浮かべながら補修の甲斐無く元通りになった穴を見遣って、ヤクモは盛大な溜息をついた。




コゲはこんな風に気遣ってくれちゃう様な質ではないよなーと思いつつ、やっぱりモンジュ含めてちょっとぐらい気にしてくれよ的願望。
漫画版の要所で必ずコゲの鈴が鳴るのが凄く好きなんです…。きっとヤクモも音に脊椎反射で思い出しちゃうんだと妄想して仕舞う程。

正六角形と正三角形が規則的に配列した二次元構造。要するに複雑なにんげんもよう。