神の還るところ / 13



 今の伏魔殿はその構成上ひどく不安定で、危うい。ひび割れた空間の端々から透けて見える隔離世は、恰も宇宙の様な無限の拡がりを持ってそこに存在し、人の身がそこで存在し得る事をただただ拒絶している。
 晴天の様な空から降り注ぐ驟雨は収まって久しい。然し今度はそこかしこで砕けた金属の破片が粉となり、暴風に混じって鋭く皮膚を叩いて来ている。
 マサオミは割れた大地の淵へと一旦退避して、強すぎる風の中で顔を顰めながら、符に頼った心許ない障壁の下に座り込んでいた。
 大地の崩落と共に隔離世へとヤクモが呑まれてから、既に小一時間ぐらいは経過している筈だ。恐らくは途へと正しく導かれたのだろうと踏んではいたが、それでも余りに遅いと段々と思考に余裕も出て来て、不安や心配の占める割合が大きくなり始める。
 伏魔殿に入ってから、ヤクモは確かに何かを思い出しかけていた。式神を失ったと言う事象からは絶対に逃れる事は叶わないが、それでも何か抗う様な──戻りたがっている様な、そんな気配を漂わせてはいた。
 それを信じるのは、低すぎる可能性──寧ろ楽観的な思考と言って良い程──だ。だが、それでもマサオミはヤクモの事を案ずる反面で信じていた。
 記憶を失っている筈なのに、ヤクモは無意識の裡で闘神士に近づこうとしていた。それが信じるに足りる根拠と言うと、自分でも笑い飛ばしたくなる程に頼り無いのだが。
 「…幾ら心配した所で、仮にここを落下すれば名落宮に行けたとして、式神のいない今の俺には出来る事は無い…」
 つまり、己には待つ以外に取れる手段はないと言う事だ。マサオミは大きく嘆息すると、崖の淵から少し身を乗り出して眼下を覗き見た。陸地の破片の様なものがところどころに漂うそこは、少し下っただけで忽ちに光の無い暗闇へと変わっている。隔離世に五行の理は、闘神石での加工でもしない限りは本来固着出来ないものなのかも知れない。何しろ、すぐそこに見えても、現世とは全く科学も物理も法則を違えた空間であるのかも知れないのだから。
 かと言って、出来る事は何もなく、ただ待つだけと言うのは実にストレスが貯まる。髪をぐしゃりと掌で潰して、マサオミは俯いて目を閉じた。
 「……何してるんだ?」
 「見りゃ解るだろ、待つしかないから待、」
 頭の上の方から降って来た声に苛々と返した所で、はた、と気付いてマサオミは額を押さえていた手を浮かせた。勢いよく振り返ってみれば、そこにはヤクモが立っている。
 きょとんと目を開いて、少し眉を寄せて。心底不思議そうに首を傾げるヤクモのその表情の、見慣れた気配にマサオミは思わずかくんと下顎を落とした。
 「い、いや今さっきアンタここから落ちてったろーが?!こっちはどうやって追いかけたものかとか、待つしか無いのかとか色々考えて、」
 隔離世の深々と口を空いている崖と、己の背後の地面にしっかりと立つヤクモとを二度、三度と見比べて、マサオミは困惑の侭に喚きかけて、口を閉じた。
 落下して、空間をぐるりと一周してまた戻って来た。そんな荒唐無稽に過ぎる想像をしてから、いやいや、と思い直す。幾らなんでもそんな当たり前の様な空間構造をしている筈がない。
 数秒の間。マサオミはそこで漸く、ヤクモが片手に紅い神操機を手にしている事に気付く。そこに、以前と変わらぬ気配が宿っている事に。余りにも当たり前過ぎて、そうだと理解するのに時間がかかって仕舞った。
 「………まさか、取り戻せ、たのか?」
 恐る恐る紡いだマサオミの問いに、ヤクモは紅い神操機械をちらと見て、それから柔い笑みを形作った。どこか苦しそうに。
 「……ああ。お前の言った通りだった。皆、こんなにも不甲斐ない俺を、待っていてくれたよ」
 「じゃあ、じゃあ記憶も、」
 思わず立ち上がったマサオミは、ヤクモの両肩を掴んだ。嘘や誤解が一つも生じない様にと、その顔を覗き込む。
 マサオミの問いに、ヤクモは僅かに目を伏せながらそっと頷いた。どこか恬淡としたその表情は、ここ二年の間に目にした、平和に過ごしていた青年のそれではなく、闘神士であるマサオミのよく見慣れたものであった。
 「お前にも、随分と迷惑をかけた様だな」
 ありがとう、と紡いだ柔らかな調子ごと、マサオミはヤクモの体を思い切り抱きしめた。安堵だけではない。今まで嵩んでいた不安や諦めに似たものが、己のエゴや悪足掻きが、きっとそれでも正しい事をしたのだと赦された様な気がして、全身から力がどっと抜けた。
 抱きしめているのではなく、強く抱きついていないと、今にも膝から崩れそうな気がしたのだ。
 「……忘れて、済まなかった」
 お前はそれを最も忌避してと言うのにな。
 ぽん、と優しい力で背中を叩かれる。涙のこみ上げそうな気配を感じて、誤魔化す様にマサオミはかぶりを振った。
 「戻って来てくれたから良いさ」
 ヤクモの肩に額を押し当てたマサオミは、静かに、そっと、息を吐く。本当に良かったと心底に思う。あの、全てを忘れて仕舞ったヤクモの姿は、そうと解っていても堪えるものがあった。
 「…そう言えばお前、背少し伸びてないか?」
 良かった、と。心底に思いを噛み締めていたマサオミは、不意に呟かれたヤクモのそんな言葉に、ゆるりと腕を解いた。
 己の額の上にやった手を水平に動かすヤクモの手が、マサオミの鼻上辺りにとんと触れる。確かにあの頃より数糎ほどヤクモを上回って仕舞った背丈にはマサオミもとっくに気付いてはいたのだが、肝心のヤクモの方が初対面と言う態度であった為に、余り意識する事も無かったのだ。
 「いやあ、自然豊かな時代で伸び伸び過ごしてますから」
 「…成程?」
 眉を寄せて言うヤクモは少し釈然としていない様子ではあったが、マサオミは笑って誤魔化す事にした。
 『ねぇヤクモ、そろそろ戻った方が良くない?この空間もいつどう変容しちゃうか解らないし〜』
 そこに、二人の間ににゅっと顔を差し挟んで言う、タンカムイの霊体。慣れた『妨害』にマサオミはぐっと顔を顰める。久方ぶりの再会の感激も、癖の強いヤクモの式神たちにかかればこの様だと、妙な懐かしさと諦めとの前にあっさりと消されて仕舞った。
 (まあ取り戻せばそうなるよな、当然)
 苦笑と共に溜息をつくと、マサオミは式神たちと何やら会話を始めて仕舞うヤクモの姿を見た。
 取り戻せたのか、と。改めて思う。
 「それじゃあ早い所家へ戻ろう。とうさん達にも心配をかけて仕舞ったしな」
 「…ですね。俺の分までしっかり絞られて貰わないと、割に合わない」
 モンジュとの一悶着を思い出しながら言うマサオミの様子から、ひょっとしたら何か面倒な事があったのだろうかと言う表情で見遣ったヤクモは、「…解った」と一応はそう承諾した。
 懐から取り出した符を指に挟んで、マサオミは帰路を念じる。ここまでを扉を開いて行く事は出来なかったが、帰りは別だ。ここまで歩いて来ているのだから戻る途は簡単に作れる。
 キン、と澄んだ音を立てて眼前に開かれる扉に、マサオミは先に足を踏み入れた。
 「あ、そうだ」
 「?」
 片足を進ませた所で振り返ると、直ぐ後ろで疑問符を浮かべているヤクモに向けて、右掌をそっと差し出した。再会した時とは違う。今度は本心から、思う侭に笑む。
 「お帰り、ヤクモ」
 すればヤクモは鼻から抜ける様な吐息を漏らして笑い、マサオミの掌にそっと己の掌を重ねた。
 「ただいま、マサオミ」




ヤクモが負けると言うのが想像つかないのに、『負け』て喪う話をやりたかったとかなんとか…。
モンジュとマサオミとの間で、息子さんを下さい(曲解)のやりとりが出来たのでそれだけで満足です。
あとは、現代っ子風味のチーム元17歳とかもうちょっとやりたかったんですが、頭の中のマサオミくんに思いの外の抵抗を受けまして…。

八雲立つ。神の還る月の在る地。