手が伸びたのは、純然たる衝動からだった。
 そこには悪意や善意と云った方向性は無く、ただの無為しか有り得ない。
 違え様のなく、それは反射的な──恐らくは酷く攻撃的な防衛本能。まるで獣の息遣いに似た。

 締める。潰す。喰い破る。
 何れでも良い。詰まる呼吸の中で真っ直ぐにこちらを見ているあの眼を閉ざせるのであれば、何でも良い。
 ああ、そうだ。

 見ろ
  (認めろ)
 見るな
  (知る事もなく)

 俺は此に溺れる訳には、いかないんだ。
 だから、

 見ろ
  (否定しろ)
 見るな
  (容認などせず)

 全てを知った上で、それを認めて受け入れてくれようとなんて、するから悪い。
 その甘さに、溺れる訳には。いかないんだ。
 この決意を変えるに足りる存在など、永久に不要。


 逃れたい本能。相容れないその存在に呑まれるのを恐れたのは、その可能性を否定出来なかったからに他ならない。
 



 手を離して。食い込んだ指の紅い痕に──激しい嫌悪を抱くと同時に、欲情していた。
 


  カラの水槽



 新太白神社本殿。神域に在る静謐な大気にただ静寂のみで包まれた、板張りの──些か無機質な印象を与える、御神体の奉られた御前。
 その、静寂ばかりで何も無い間の中程に──白いシンプルな和装に身を包んだ青年が座していた。
 背筋をぴんと伸ばし、両拳を膝の上で固めると云う酷く綺麗な姿勢で正座した彼は、陽の光の僅か射す静謐の内で、ただ鎮かに瞑目している。
 姿勢も、表情も揺らさず、時折流れる空気に鳶色をした髪を僅かに揺すられるのみ。
 静かな呼吸を繰り返す肺と、静かに然し確実な鼓動を刻む心の臓以外にはまるで動くものなどない様に。
 その、成り立ちもそして内包した人間までもが静謐に落ちている本殿の扉が、唐突に開かれそして閉じられた。扉を開け中へと入って来たのは、座し瞑想する青年と殆ど年頃の変わらないだろう一人の男。
 明るい栗色の、少し長めの髪を項で縛り、前髪は無造作に分けて垂らした青年の印象は、日頃の彼を知る者に云わせるのであれば『華』だった。
 人当たりの良い笑顔と穏やかな物腰で、面倒見が良く、年齢差や身分差、相手の好意悪意を隔てずに誰の心にでもするりと入り込める──そんな男。
 然し今彼の、その屈託のない華やいだ質を顕わしているかの様な明るい翡翠の瞳は翳り、表情もまるで貼り付けた能面の様に、硬い。
 否──これこそが或いは、『今』の彼の本質だ。
 長きに渡って、幸福だった子供の頃に培われた生来の屈託の無さを押し殺し、只管深く暗い思いへと身を投じ続けて出来上がった、彼の生きるべく本性(こころ)。在るべく実態(すがた)。
 マサオミ、と。そう偽の名を以て造り上げた『華』の様な姿を歪に模倣した、ガシンと云う真の存在。
 彼は音も無く本殿の中を進み、程なくして座した青年に接近すると、その斜め後方に無造作に腰を下ろした。胡座をかき、何かを思う様に前傾姿勢で腕を軽く組む。
 闖入者であるマサオミの存在に、瞑想に耽る青年は気付いているのだろうが、その身は相変わらず微動にしない。またマサオミも座した侭、何もしようとしない。云おうともしない。
 そうして暫し、静謐よりも深く重い沈黙が流れ。
 唐突に、それが破られる。
 「珍しく、下らない挨拶の一つも云わないんだな」
 青年の、瞑目した侭唇ばかりを動かし紡がれた言葉に、マサオミは俯きかけていた顔を起こす。暫し視線を投げかけるが、こちらに背を向けた侭の彼が動く気配は無い。
 「………………偶には、俺だってそんな気分の時もあるんだよ」
 呟く様に返すマサオミの言葉は、己で眉を顰めたくなる程に覇気のない掠れた声だった。むきになって言い返すでもなく、淡々と本音を口にして仕舞っていた事に気付き、何となくばつが悪くなる。
 「それに、やって来て丼講釈をしないのなんて、初めてだな」
 くす、と僅かに乗せられた青年の微笑の気配に、痛い程に沈んでいた空気がふわりと緩和された。
 その、清涼で馥郁とした風に似た空気に酔うに任せて、救われた様にマサオミは相好を崩す。
 「あぁ、そう云やそうだねぇ。うっかりお土産に買って来るのを忘れちまっていたよ。何かこの辺でお勧めの店とかない?名物とかあったら嬉しい限りで買いに行くんだけど。アンタの分も買って来るからさ、何か希望とかある?」
 『いつも』の気配へと姿を変え、マサオミは言に笑顔を乗せてそう云った。
 その声色に、今まで背を向けていた青年がゆっくりと頭を振り返らせた。その目蓋は物憂げに、琥珀の瞳に睫毛の影を落として薄く持ち上げられている。
 「別に無理はしなくて良い、『マサオミ』。何かがあったから来たんだろう」
 光に因って金色にも時折見える、透徹とした琥珀色の眼差しに打たれた様に。マサオミは密かに息を呑んだ。
 彼の呼んだ名が、目の前の己の──然し何処までも本質に在る、ガシンであってマサオミでは無い筈の部分へと向けられているのが、解る。
 「…………………」
 その名も、意味も知らぬ筈の静かな瞳に全てを見透かされた様に。マサオミは口元に、人好きのする笑顔ではない──『彼らしい』、偽悪めいた笑みを乗せた。
 立ち上がると、こちらをじっと見据える青年の横に膝をつき、その細い顎を乱暴に取った。
 顔を持ち上げられ、然し何も云わずただ静かにマサオミを見る、その視線に灼かれる前に。戦慄く感情に囚われる前に。口を開く。
 「………………させろよ」
 喉から漏れた己の声音が、まるで自分のものではない様に掠れて、低く重く響いた。
 「全部、俺を受け入れてくれるんだろう?──ヤクモ」
 それでも囁きは睦言の様に甘い。そんな違和感に己で獰猛な笑みを浮かべて。
 床へと細身の身体を横たえようとすると、軽く手で制される。
 「ここでは駄目だ。仮にも御神体の御前だ……──俺の部屋へ行こう」
 それは観念した獲物の声では決して無く。
 食ろうてる筈がまるで偽の様な、透徹とした色をしていた。

 *

 紅く穿たれた指の痕も既に残らない、然しあった筈の仰け反った喉に歯を軽く立てると、腕を戒められた身がひくりと震える。
 その様はまるで餌として供された贄。薄ら暗い満足感と、この侭喉を噛みきって仕舞いたくなる欲望──或いは衝動──は然し未だ堪えて。 
 見下ろした眼差しは揺らいでいても、然し耿りを失わない真っ直ぐな、琥珀のいろ。
 瞳は離さない。陶酔と苦痛と屈辱と或いは恐怖の中で、その琥珀の瞳ばかりはどこまでも、どれだけ追い込んでも啼かせても、マサオミを只管に見つめている。
 ──否。
 「………ヤクモ。こっち見てよ」
 頤を掴み、顔を固定して鼻先の距離でマサオミは囁く。
 「見ている」
 荒い呼吸の中で、然しはっきりと返る言葉。
 「…………こっち見てよ」
 云いながら、貪る様に深く深く口接ける。余裕の無い呼吸に琥珀の瞳が瞑られ、然し薄く開かれ。──見る。
 「……………俺を見ろよ、ヤクモ」
 「見て、いる…」
 解放された口唇が紡ぐ、変わらない応えに、マサオミの心がぞわり、と黒い感情に浸される。
 こちらを只管に見つめるその透明な眼差しは、然しマサオミを見てはいない。
 マサオミを──その中に潜むガシンと云う本性をも全て、真っ直ぐに逸らさず、その存在を認める様に、受け入れる様に、知る様に、見透(みとお)している。
 「俺を、」
 俺だけを見ていろよ。
 叫びたかった声は殆ど掠れて囁きの様な言葉にしかならない。
 ただ否定はしない。鎮かに其処に、受け入れる為にあるかの様な──迷いの無い眼差し。
 呑み込まれそうなくろい感情に圧されて、その眼を無理矢理に閉ざさせた。
 透明な癖に中身のまるで見えない──或いはカラでしかない──身を、乱暴に掻き抱く。

 その有り様に抱いたのは──全てを赦し認めた、戦慄するばかりの慰藉。
 琥珀の瞳には、激しい怨嗟と歪んだ欲に表情を歪めた己が映っている。

 *

 嘗て。壊れそうな程の激しい憎悪を抱いた。
 天流が、地流が、大事なものを全て奪い去り──それからずっと過ごして来た、只管にその存在を恨み憎む日々。
 だから、自らを天流と名乗る、己の正体をも見透かさんとした彼を激しく嫌悪するのは必定だった。
 太刀花リクの様に、利用する為に必要な『天流』ではなく。欺き続ける必要のある『天流』ではなく。明確にマサオミへと──神流のガシンへと意識を向けて来た、敵でしかない『天流』。
 一度は戦い、その後には幾度か戦いの無い穏やかな時を過ごして、ヤクモと云う人間を──天流である事を抜き去った『ヤクモ』と云うひとりの人間を知ったマサオミの裡に生まれたのは、理解さえも許せない苛立ち。
 「殺すべきだ」「生かしたい」相反する感情にこたえる様に、憶えたのはどこか縋る様な、祈る様な、甘える様な、安堵。
 然し形無きその情に溺れる度、己の裡にある天流や地流への憎悪が酷く疼いた。名も不要な、癒される日々に浸る度、激しい二律背反に心を掻き毟った。
 警鐘は鳴っていた。慕情或いは嫌悪、それとも憧憬。それらの矛盾した欲を抱く度にヤクモと云う存在を認める意味が欲しくなり、同時にそれを無為にすべく穢してみたくなる歪みの原因は、紛れも無く──其れに惹かれ惑わされていたからに他ならない。
 彼は姉や式神(キバチヨ)とは異なり、マサオミの生に、望みに、『在って当然』の存在ではない故に。
 己の許には有り得ない存在でしか無かった、その故に。
 果たして仮託したかったのはひとりの人間に対する慕情なのか、天流の闘神士に対する憎悪なのか、不可解な存在に対する嫌悪なのか、瑕を癒されたいと云う甘えなのか、それすらもどうでも良い程に、気付いた時には浸りながら、溺れて仕舞う事ばかりを忌避し──それを払い除けるのか、それとも欲するのかと。問いていた。
 瑕を。恐らくはそれを知ってくれたからこそ。確信を。想像するに易い甘さで「戦いたくない」などと情けを寄越したからこそ。それは復讐よりも何よりもマサオミの心を癒し、嘲るに足る理由をくれた。
 個人、と云う単位のみで見る事がもしも許されたのであれば、ヤクモはマサオミにとっての光だった。太陽の様に強くは無い、ただこの憎念に浸された黒い途の中、無辜に差し伸べられる道標に似た月のひかり。
 然し永年天流(それ)を敵として只管に憎んで来た精神にはそんな光でも眩しすぎた。灼かれる心に惑った。
 だから、衝動的に。信じているなどと宣った、無防備に晒け出されていたその喉に手をかけ、気道を塞ぐ様に指をめり込ませていた。優しいばかりのおろかな者を嘲ろうとしたのか、消したかったのか。それすら判らない侭、ただ、衝動的に。
 苦しみに端正な貌を歪めた彼は、然し抵抗は一切せずに、ただその双眸でマサオミの姿を射た。鮮烈に。
 自分がころされるかもしれない中で。それを成そうとする──或いは成した後のマサオミの心を案じ思う、そんな目。
 憐憫ではない、純粋に向けられた感情は深い慰藉。憎悪や忌避と云う衝動に逃げたマサオミを赦した。そんな情。
 それに甘える様に、縋る様に、踏み躙る様に、恐れ戦く様に、その侭奪い尽くした。屈辱を与え、侮蔑を込めた嘲笑を浮かべ、激しい憎悪や嫌悪を原動力にして残酷に貶められてなお──それでも咎めない眼差しは、最初から最後までマサオミを全て見つめ続けていた。
 その所行を。感情を。存在を。『その意味』をも、全て認めて、受け入れ続けていた。
 同情で手を差し伸べるでなく。憐憫で共感するでなく。自己犠牲に満足を浮かべるでなく。

 「それでお前の心が少しでも鎮まるのなら、」

 今まで抱き続けていた、己の寄る標たる怨嗟が、憤怒が、憎悪が。

 「俺は、お前を、赦そう」

 穏やかな微笑みさえも浮かばせたその姿に、偽りの無い言葉に、それまで抱いて来た生きる為の強い感情が酷く歪んで、不可解な苛立ちと悦びとに満たされて。
 その琥珀の瞳が見つめるのが、マサオミ=ガシンと云う人間(もの)の全てであると云う事に、薄ら暗いばかりの欲望を知った。

 「ならば赦して受け入れ続けろ。俺の憎しみが尽きるか、お前が壊れて仕舞うまで」

 これは、この存在に溺れて仕舞うのではなく──貶めているのだ、と。嗤う事さえも、ゆるされた。

 *

 そうして時に本気の愛と、慈しみと、労りと。それは眩しいばかりの恋心で。
 時に止まらない憎悪と、怒りと、嘆きと。それは迂遠に潰えない衝動で。
 マサオミはヤクモの身を、心を、赦される侭に蹂躙した。
 その甘さを嘲りながら、その心を嫌悪しながら。その慰藉に甘えて浸る事に、愚かなその選択を嘲る事に愉悦を憶えながら。
 故に──
 「お前は俺のものだ」
 荒い呼吸で耳元に囁く。全てを見ている瞳に、然し己ばかりは見つめられないと云うのに。
 戯れる様な愛でも。尽きない憎悪でも。怯える陶酔でも。これは俺の為に赦された、贄なのだから。
 「ヤクモ」
 睦言の様に名前を囁いて、その身に全てを刻みつけ、血を流させれば流させる程、その疵に己を示して。
 それでも──見つめているのに、見つめてくれていない、琥珀の眼差し。瑕も偽もない心。
 お前はガシンを見ているのか、マサオミを見ているのか、或いは全てを見ているのか?
 ならばこの、映り込んでいる、充足と云う悦びに歪んで嗤う俺は、誰なんだ──?
 「!!、っく!」
 背筋から沸き上がった衝動の侭、マサオミはあのときの様にヤクモの喉を押し潰す様に指を絡ませた。苦悶や悲鳴を封じる様に強く、強く体重を込める。
 かは、と口から掠れた呼気が吐き出され詰まるが、瞠目した瞳は──見ている。
 歪んで嗤う、貌を。
 ぐ、と背筋が持ち上がり、息苦しさに、横たわった四肢が張り詰めていく。
 開かれた口内で舌が戦慄く様に震え、喉奥にある得体の知れない感情までもが突き抜けて見えた気がした。
 闘神士として立つ、抜き身の刃物の様に冴え渡った彼とは違う、弱ったその有り様に、マサオミは歪んだ嗤いを浮かべて手を放した。解放されたヤクモの身体が一度痙攣する様に跳ね、急激に戻った呼吸に全身を揺すって激しい咳を繰り返す。
 「なあ、どう云う気の迷いなんだ?伝説、とまで謳われた天流最強の闘神士様が」
 未だ呼吸が整わず、涙を浮かべて苦しみ続けるヤクモの身体を押さえつけ、手すさびに指で喉を辿って遊べば、反射的にその背筋が跳ねた。畏れる様に。拒絶する様に。
 その様に嗜虐心を刺激され、マサオミは嬲る様に続ける。
 「憐れみや情けをかけてくれてるとでも?甘さで懐柔出来るとでも?それとも単純にこう云う事が好きなのか?」
 益々偽悪めいて来る口調に己で勢いを増して、マサオミはくつくつと喉で嗤った。
 ヤクモは酸欠で焦点の合わなくなった瞳をぼんやりと開き、掠れた呼吸を繰り返すばかりで、マサオミの偽悪めいた物言いには何も応えようとしない。
 「っ……俺を、見ろ!」
 その揺らぎが肯定なのか否定なのかは解らなかったが、マサオミはヤクモの顎を掴むと、覆い被さる様にしてその貌を凝視した。
 すると、ヤクモは一度瞑目してからゆっくりと目蓋を持ち上げた。その双眸は、尚も未だ穏やかな耿り射す琥珀の色。
 「ちゃんと、見ているから。大丈夫だ。マサオミ」
 慰撫する様な穏やかな声音に、マサオミの感情が急激に熱を帯びて逆に冷却される。
 「…………ッ、!」
 咄嗟の衝動でヤクモの身体を掻き抱いた。何故抱き返してくれないのだろうと思って、ああ、自分で戒めたのだったと思い出す。
 大丈夫だ、と繰り返される言葉に我知らず安堵し、暫時の後マサオミは身体を起こした。
 見つめてくるのは、何処か慈愛の様さえ思わせる瞳。
 見下ろすのは、果敢なささえ憶える筈の勁い有り様。
 獲物で、餌で、贄で──或いはただ欲しい。意味を、形を与える事すら愚かしい。そんな真っ直ぐなばかりの綺麗なもの。
 溺れる、などと生易しくなく。奪おう、と想起させる。確かに在る、もう無い筈の安らぎに只管甘える事を求む心。
 敵でもなく、同志でもなく、ただ己へと純粋に向けられる感情は──久しく憶えのない幸福によく似ていたのだろう。
 (だからどうか、)
 「……、『俺』を、見てくれよ……なぁ、ヤクモ」
 零れたのは懇願する様な声。返るのは応える気配。
 「…………お前と、その心の有り様を。全部見ている」
 ゆっくりと告げられた甘い真摯な囁きに、マサオミは力無く微笑んだ。期待通りの言葉は期待した通りに放たれた。自らそう仕向けたと言うのに、決して違える事のないこたえに、何故か小さく失望を憶える。
 「ああ……約束は守って貰うさ、勿論」
 歪みを隠さない物言いで囁く様に告げると、口接けを落として眼を閉じた。
 一度誓った約束を反故にする相手だとは思ってもいない。だからこそ恐れるのは、赦しを以て敵になる事だ。
 マサオミを止めようと立ち塞がりながらも、その心は甘い侭で、赦してくれようなどとするのであったら。
 (甘さに赦されるのか、それとも踏み躙るのか)
 そっと嗤う。答えは知れている。どちらでもない。両方だ。
 「姉上が戻られても。天流地流全てに復讐を果たしても。ずっとお前は俺を赦し、受け入れ続けるんだ」
 憎しみを。或いは愛を。迂遠に。
 きっとヤクモの存在はこの乾いた心を潤してくれるだろう。
 愛されれば偽の様に幸福で、憎まれればもっと良い。
 この憎悪を、溢れんばかりの愛しさを、歪んだ独占欲を、戸惑うしかない己の心を、振り払う様に。無心に。嗤う。
 心無く、欲望ばかりを追えば後は簡単だ。これは己の為に用意された贄なのだから。時間をかけて存分に味わえば良い。
 こちらを見つめて離さない透明な眼差しさえも、血を流しながらも受け入れるその情に甘えて、心が静まるまで。只。

 感情を受け認めるだけの、この有り様はまるで式神の様ではないか、と。
 いつしか意識を失っていた身体を見下ろしながらそんな事を思った。
 なれば救いは果たしてあるのだろうかと、期待すらしていない事を思い浮かべ、マサオミはそれを無感動に見下ろした。
 



実際ヤクモはここまで末期の受動的病と言うより何と云うか、行動理念は最初から最後まで一貫しているからこそ歪んだ道筋にも真っ直ぐ当たる訳で、そうなると拒否するか歪んだ道を辿りつつ気休め程度に補正させるかぐらいしか出来そうになく。
でも一緒に堕ちる気は更々無いんですよ。ただ、歪んでいてもその信念を尊重しているだけで。頭ごなしに全てを否定する訳でなく「それをそれ」と認めた上で己の理念に従って行動する、と。で、マサオミはそれに調子付いて偽悪度を深めながら感情がエスカレートしていくと…。
…面倒過ぎやしないですかこの十七歳ども…。

水を泳ぐ魚は水槽から出る事は叶わない。だと云うのに気付けばそれはカラ。或いは最初から何もいなかったのかも知れない。