キミノワ



 「こんにちはー。ってヤクモじゃない珍しい」
 週末の気怠い、退屈、と云うには少々遅い午後。慣れた様子で吉川家の門扉を潜って上がって来たのは、ヤクモの幼馴染みであるヒトハだった。
 彼女は神社裏手に面する縁側でのんびりと過ごしていた彼らの姿を発見すると、さも驚いた様な声を上げてぱたぱたと手を振って寄越す。
 「っと。えーと……大神さん、だっけ?こんにちは」
 「こんにちは。お邪魔してますよ」
 途中目的地に居たもう一人に気付いて、ぺこり、と頭を軽く下げてくる少女の姿に、釣られてマサオミも思わず同じ様に。その横で、お茶の乗った盆ひとつを挟んで共に寛いでいたヤクモが立ち上がる。
 「最近じゃそう珍しくもないだろう。で、どうしたんだ?」
 「音信不通の期間が長すぎるんだもの。何かヤクモが家で大人しくしてるって云うの、慣れなくって。
 でね、これ近所のひとからお土産にって頂いたんだけど、ちょっと量が多すぎるしお裾分けにってお母さんが」
 さらりと酷い事を云いつつ、はい、とヒトハが差し出したのは何処ぞの旅館の名前の入った紙袋だ。よくある事なのか、ヤクモも平然とそれを受け取る。
 「いつも済まないな。おばさんにもお礼を伝えておいてくれ」
 「お互い様だから気にしないでいーよ。イヅナさんとナズナちゃんに、この間のお漬け物美味しかったって、こっちからも伝えておいてね」
 「ああ。伝えておく。……そうだ、イヅナさんと云えば」
 紙袋を腕に引っかけた所で、ふとヤクモは手を軽く打つと、ヒトハと、マサオミと、両者に軽く視線を投げた。
 「今朝出かける前にお八つの事を頼まれてたんだ。餡蜜なんだが、折角だしヒトハも食って行くだろう?」
 思わず時計を見やるマサオミとヒトハ両者の視線の先で、時刻は丁度三時を迎える頃合いにあった。心なし顔を輝かせてうんうんと頷くヒトハ。
 「餡は勿論イヅナさんお手製だよね?食べる食べる!」
 「粒だけどな」
 「えー。漉し餡の方が好きなんだけど……。私の分だけで良いから漉してよヤクモ」
 尖らせた唇でこともなげに無茶な事を云われ、ヤクモは呆れた様な息を吐く。
 「出来る訳ないだろうが…。食べるか食べないかどちらかにしろ」
 「食べる、食べます!じゃあせめてフルーツか白玉入れて?」
 平坦な迫力込もった声に、まだ何処か不満そうながら白旗を上げるヒトハ。まだ追い縋る辺りの何とも微笑ましいと云うか気安いやり取りに挟まれて、マサオミは無言で湯飲みをくるりと回した。悋気なんて断じてないぞと、心の中で独り言。
 「……果物は缶詰で良いなら開けてやる。白玉は無いから諦めろ。作れと云っても断る。で、マサオミはどうする?」
 果たしてマサオミのそんな様子を酌み取ったかの様なタイミングで降って来る問いに、余り気楽とは云えない仕草で首を傾ける。
 餡蜜と云うだけで可成り甘い所に持って来て(イヅナ謹製の餡ならば甘さは控えめだろうが)、マサオミは特別甘い物を積極的に好む質でも無かったのだが、何となく置き去りにされた心地がするのが厭だったので此処は甘えておくことにする。
 「じゃ俺も折角だからフルーツ宜しく」
 「お前まで一緒になって面倒な事を頼むな」
 然し訊いておいてこの云い種である。ヤクモがマサオミに素っ気ないのは概ねいつもの事だが、幼馴染みの少女との応対差にマサオミの気分はすっかり消沈しきって消し炭だ。
 「……なら訊くなよ〜……」
 「冗談だ。一人分も二人分も変わらないし」
 拗ねた様子を隠さずに云えば、別にそれは関係無いのかも知れないが、少し人の悪い微笑みで返される。そんなヤクモの姿を目の当たりにして仕舞うと、何だか飴と鞭を振り回されている様な気がしないでもない、とは思うのだが、単純にも消し炭状態からは回復出来ている。そんな己の解り易さに少々思うところもあり、マサオミは小さく溜息を吐いた。
 「お隣良い?大神さん」
 台所に去って行く背中を、そんな複雑な思いを込めつつ見つめていると、立っていたヒトハに不意にそんな事を云われて、マサオミは手の中でいつの間にかかなりの回転数になっていた湯飲みの動きを止めた。我に返って盆を脇に退かす。
 「マサオミ、で良いよ。ヒトハちゃん。どうぞどうぞ」
 「ありがと。えーと、じゃあマサオミ、…えーと。くん?あ、そう云えば同い歳なんだっけ」
 『さん』、か、『くん』、かと敬称に悩む侭に首を傾げながら、ヒトハは縁側に腰を下ろした。突っ掛けたサンダルがぷらぷらと、女の子の華奢な足先で揺れている。
 化粧も無ければ装飾品の類も無い、お洒落を特別して来た様子でもない少女の日常の姿。何となく横目でそんな様子を観察しつつ、リクとモモと云う例を脳裏に浮かべ、ヤクモとヒトハは果たしてどう云う関係なのだろうかと、無粋だとは思いながらマサオミは巡らせずにはいられない。
 これも悋気なのだろうかと思うと情けないやら申し訳ないやら複雑である。
 「はは。よく『見えない』って云われるけど、これでもまだ俺十七なんだよねぇ」
 同年代から見るとやっぱり老けて見えるのかなあと、誤魔化しも兼ねて少しだけ凹みながら笑って云うマサオミに、ふと。ヒトハの視線が止まる。じっと。
 己の容色が華やかな質を持っていると云う事ぐらいはマサオミにも自覚がある。然し隣の少女が向けて来る視線は、それに見惚れる、とか、興味がある、と云う類ではない。まるで見定める様な、観察眼だ。
 表情は険しくはない。ただじっと向けられる視線に、段々と気まずい様な居心地が悪い様な圧迫感を憶えて、笑顔に冷や汗一筋。
 もしや良からぬ詮索を思っていた事が知れたのかと、思わず非現実的な事までマサオミが考え始めた矢先。視線は外さぬ侭でヒトハが漸く口を開いた。
 「ねぇ、マサオミ君ってヤクモの事好きよね?」
 一息。
 「……………はあああああああああぁぁぁあああああッ!?!!!!!!」
 予想どころか真っ向から土俵の違うそんな、不意打ち以上に不意打ちな言葉をさらりと投げられ、どこぞの白虎の様に喉裏から絶叫して思わず縁側を横滑りして仕舞うマサオミ。背中がごちりと柱に衝突し、後退が漸く止まる。
 「……そんな凄いリアクション取らなくても。別にヘンな意味じゃなくて、よ?」
 「いや待ってくれいきなり何を言うかと思えば…ッじゃなくて何!?」
 「だからぁ。アイツ人気者だから昔っから。何かヒトに好かれるのよね。貴方もきっとそうなんじゃないかなあって思って」
 きょとんと見返して来るヒトハの、何の衒いもない表情にマサオミの感情、急速冷却。所謂よくある勘違いなのではと漸く思い至り、妙な赤面の侭わたわたと不自然な挙動で元の位置に戻る。
 「は、はぁ……で、ナンでいきなりそんな」
 寧ろ彼女曰くの『ヘンな意味』の方に思い当たりがあるとも云えず、不自然な咳払いをひとつ。
 「最近のヤクモが、貴方みたいな『友達』と居るのって珍しいから。貴方もあれでしょ?……トウジンシだっけ?アイツの稼業(しごと)のお仲間。なんだよね?」
 マサオミの内心には当然の如くか全く気付かず触れぬ侭、ヒトハは不意に視線を横にやった。縁側の正面、生け垣の向こうの風景を見やる様に眼を細める。
 語尾は紛れなく問いだ。然し彼女はそれに対する肯定も否定も拒絶した様な、遠い眼をしていた。
 話題が宜しくない、とマサオミは不意に気付くのだが、そもそもヒトハとマサオミとの接点であり共通項にあるのがヤクモと云う人間である以上、どうやってもそう巡るのは致し方の無い事でもある。
 「……ヤクモね。その事に関しては、誰も知り合いとか友達とか近付けようとしないから。この間までずっとそれで音信不通だし。学校まで休学しちゃってたし。それでも友達が減らない辺りやっぱりアイツらしいなあって思うんだけど」
 浮かんでいたマサオミの苦い表情を疑問符であると解釈したらしい。その侭淀みなく言葉が続く。
 「でもね、皆それなり『何か』をちゃんと感じてるから。だから不審に思っても何も言わないで放っておいてるんだと思う。私もね。ナナちゃんは知っていても放っておいてるみたいだけどさ。それなのにアイツってば、嘘は吐かない癖に私たちに気遣っちゃって。莫ッ迦みたい…」
 ほわん、とした声音で呟くと、ヒトハは爪先から脱げ落ちたサンダルには構わず、自らの両膝を引き寄せた。
 「ねぇ知ってる?アイツね、私たちと居る時は『稼業』についての事とか、ほんの少しでも口にした事ないんだよ?」
 そうして彼女が浮かべたのは、抱えた膝同様にどこか寄る辺の無い様な苦笑。
 そんな態度が無くとも云い種だけで彼女が何を思っているかは知れて、マサオミはヒトハに気取られない様に眉を寄せ、無表情の侭で密やかに溜息を吐いた。呆れた、と云うよりはもっと複雑な。
 予想通りと云えば予想通りなのだが、あの根っからの闘神士様は、その関係者以外の周囲の人間には全く己の事を漏らしていないのだ。それどころか己が渦中にある時は彼らを巻き込むまいと遠ざけている様だ。
 彼らの存在──即ち、闘神士や式神と云う単語と無縁な、守るべき『日常』に闘神士は戻る事を願うべきなのだと彼はいつだったか云っていたが、成程勤勉な事である。
 遠ざけられると云う事は、結局の所、認められていない、と云う意とも取れる。守りたいからこそ遠ざけるのだと云う言い訳は、所詮は単なるエゴでしかない。
 日常と戦いとを完全に切り分け然し併せ持って生きる。それは同じ闘神士のマサオミから云わせて貰えば、全く無駄な労である。リクの場合と異なり、ヤクモは完全に闘神士として身を置く事を未来(さき)にまで確定している。なれば完全に、日常などと云うものは切り捨てた方が良い。巻き込まれる、或いは煩わされる、そんな不安を抱え日常(彼ら)を遠ざけるのであれば、いっその事端から『日常』に帰ろうなどと思わないべきだ。
 元より帰る心算など無い癖に、何故帰る場所を守ろうなどとしているのか。
 呟きに答えは即時返る。解りきった事。
 (甘いから、だねぇ)
 誰をも、何をも。己の内側に置いた者を棄てる事の出来ない──欠点。
 そうして自ら厄介事としか云い様の無い状況を作り出して、彼はそれを事も無げに払い除けて仕舞う。或いは自身の立ち位置に不安定材料しか無い事を知った上で開き直っているのか。はたまたとんでもない自信家か。
 あの、少しマゾヒスティックなきらいがあるのでは無いかと思わせる程に、無駄に苦労を背負い込むのが趣味の様な闘神士様が、果たして何を思ってそうしているのか。
 想像が容易について仕舞ったからこそ浮かんだ感想を考える内に自然と目蓋が半分降りた。己の向ける思考の先に、眼輪筋までもが呆れ果てているかの様に。
 「皆が心配しているんだけど何も云わないでいるのを知ってて、心配自体無用なんだって、何でも無いんだって、そんなのばっかりで。でも嘘って訳じゃないから強くも云えないし」
 ふと続けられる愚痴めいた言葉に横を見遣れば、そこにはマサオミと同じ様な表情を形作ったヒトハの横顔がある。
 「本当、自分勝手な奴なのよねー」
 「解る解るよ〜く解りますよソレ」
 ふ、と吐き出す様に肩を竦めるヒトハに追従する様に頷くマサオミ。脳裏ではぐるぐると件の人物の為して来た今までの『自分勝手』な記憶や評価が巡っている。
 例えば荒事に単身、相談もせずに乗り込んで行ったり。
 例えば気遣いやその理由を自分の脳内でだけ完結させて説明も無しに突然姿を消してくれたり。
 ……例えば、戦意喪失気味で途方に暮れている闘神士を前に、大雑把な伝言(ヒント)一つだけを遺して世界の人柱になって仕舞ったり。
 自分勝手、と云うには、それらの行動には何れも彼の真っ直ぐな理念や誠意が介在し過ぎているのだが。
 己を顧みず他者を慮ると云うのはある意味で最も自分勝手な行為である。結果としては利他的ではあるが、それを案ずる者から見れば、行動としてはその真逆でしかない。
 ……とは云え相手はそんな客観的評価を気にして信念をそう易々と曲げてくれる人格でも無い。
 「えっじゃあまさかヤクモの奴、お仲間のあなたに対してもそんな感じなんだ?」
 高速で展開して収束しつつあったマサオミの思考を裂く様に、隣の少女の驚きの声。自然に引き戻され、頷く動作を返す。
 「うんまあ。……意外?」
 「意外」
 驚いた表情その侭でこっくり頷くヒトハを見て、マサオミの表情が自然と苦笑になる。
 「ヘンな所まで誠実だからね。『こっち』と『そっち』とか、そもそも分け隔てる対象ですら無いんだろうと思うな。
 彼奴にとっては多分、全部ひっくるめて一個の『大事な物』なんじゃないかね……」
 闘神士としての人生と、そうではない日常とを別々にして生きている癖に、その両方に対して表も無く裏も無く、飽く迄彼の人格として存在して生きている。
 どちらを選ぶでなく、両方を。どちらに偏るでもなく、両方に。
 ──故に偽が全く無く。故に残酷。故に真性の。
 「だから、別に俺とか同じ闘神士だからって、特別扱いされているなんて事は絶対無いな。断言出来る」
 寧ろ他より扱いが酷いと感じる事さえもあるし。とこれは悲しくなったので、思いだした様に傾けた湯飲みの中の、冷めた焙じ茶と一緒くたに呑み込んだ。
 その横でヒトハの表情が、ほんの僅か──何に反応したのかは解らないが、曇りを見せるのに気付き、取り敢えず慌てて繋ぐ。
 「だから別にヒトハちゃん達が蔑ろにされてるとか云う訳じゃなくてね?」
 「ね、ひょっとして励ましてくれてるつもり?」
 「……うんまあ。オンナノコには優しくしちゃう性分だから俺」
 その事自体は嘘ではないが、意図せず結果的にそうなったのは確かである。
 率直な少女の物言いに対し少々毒気を抜かれたマサオミが苦笑と共にそう云えば、抱えていた両膝を落としてヒトハは身を折り、逆さに転がったサンダルを元に返した。複雑に組まれた合皮の隙間へと足の指を押し込んで、踵で軽く庭土を叩くとくすくすと密やかな笑い声を漏らし始める。
 「『そっち』にいる時のヤクモって凄く楽しそうだよね。マサオミ君みたいなお友達がいるから、なのかな。なんか狡いなぁって思えて来ちゃった」
 そう云うとにこにこと笑顔の侭でヒトハは自然に視線を外した。
 そのさらりと出た発言にマサオミは若干の引っかかりを憶えた。自然と彼女の裡にあった小さな悔しさに気付いて仕舞う。
 「お待たせ。マサオミ、ちょっとそこのお盆を退かしてくれないか」
 丁度その時、掛ける言葉に迷いを憶えていたマサオミの背後から、台所の暖簾を潜って出て来たヤクモの声が飛んで来る。その両手には大きめのお盆。乗せられているのは三つの器。
 反射的に横に退けた、こちらはすっかり冷めきったお茶の乗った盆。そこに代わりの様に置かれる。
 「わ。おいしそー」
 「お茶を煎れ直して来るからもう少し待ってろ」
 早速器に手を出しかけるヒトハを軽く窘めると、ヤクモはマサオミの手から急須と湯飲みの乗せられたお盆を受け取り再び台所へと消えて行った。
 ひらひらと揺れる暖簾を茫と見ていても仕様がないからと、首をぐるりと戻したマサオミの視線の先では、先程と打って変わった上機嫌そうな表情で盆の上の餡蜜三人前(蜜柑と黄桃付き)を見下ろしているヒトハの姿。彼女もどうやら、女の子は甘い物が好きだと云う例には漏れない様だ。
 今にも鼻歌など歌い出しそうに、両掌を肩の高さで緩く組んで上機嫌そうにしているヒトハを見つめながら、マサオミは困った様に項を掻いた。
 気付いたのが惜しむ様な悔しさであれば、例えばそれは小さな違い。恐らくは先程の同意の中で何かを感じたのだろう。同じ筈の意見の中に垣間見える、互いに『違う』事に対して一つの同じ見方をしていた事に。一見して気付くことは出来ないのに、決定的にある差異を示して仕舞ったのかも、知れない。
 ヤクモの隔てた『日常』に在るヒトハは決して、マサオミの語る『闘神士』としてのヤクモを知る事は無いのだと云う、事を。
 つまりは、最初に膝を抱えて見せた時の様な──寄る辺の無いそれは、寂しさ、それとも悔しさ、だ。
 余りに綺麗に二つの世界を切り分けているからこそ余計に。どちらも本当であるからこそ、尚更。絶対に妥協はされないのだと思い知らされる。確かに同じ人格と相対しているのだと気付いて仕舞えばそれだけ、永遠に知る事の出来ない側面があるのだと、理解して仕舞う。
 根底にあったのは思い遣りと決意であって偽りではない。罵って問い質して終わる事は出来ない。故に疵も負担も生まない。
 だからこそ、どうしようもない寂しさを憶えるのだろう。長い時間を傍で見て来た幼馴染みとして、見えるのに踏み込めない領域がある事に。
 (そう云えばモモちゃんも、リクが記憶を失った時は、もう闘神士(俺達)には構って欲しくないって本心を出しちゃってたな……)
 最終的には少し悲しげな微笑みで、天流宗家としての意識を取り戻したリクを見送っていたが、その内面で憶えていたのは──恐らく今ヒトハの漏らして仕舞った心と同じ、知る事も届く事も出来ない寂しさだったのだろう。 
 「……ね、もうそんな表情しないでよ。気遣ってくれてありがとね?」
 ヒトハは少しだけ腰を折るとマサオミを軽く見上げる様にしてそう云って来た。長い物思いにとらわれていたマサオミは直ぐに我に返ったものの、応えを返すのには数秒の惑いを要した。
 「………ああうん、云ったでしょ。オンナノコには優しくしちゃう性分なんだって」
 然し結局出掛かった気休めは言葉にはならない侭で、マサオミは得意の、曰く「軽薄そうな」微笑みを浮かべて片目を閉じてみせた。
 それはヒトハ自身がそれを割り切った上で得た感想なのだろうから、それを不躾に斟酌などする必要はない。況して同情などは不要だ。
 ヒトハがヤクモに対して抱いている感情が果たして恋愛感情なのか、単純な好意なのか、幼馴染みとしての矜持なのか、とっとと成長して仕舞った彼に対する悔しさなのかは解らない。が、何れにせよそれはマサオミがどうこう口を挟んで良い事ではないのだから。
 見え透いたそんな結論に、マサオミはヒトハに気取られない様にそっと息を吐いた。他者として考えるだけでこれ程ならば、果たして当人にはどうなのかと思ってかぶりを振った所で、横から「あーあ」と溜息。
 「マサオミ君ってイイヒトね?」
 「はい?」
 「なんでもなーい。それよりさ、話変わっちゃうけど缶詰の黄桃って甘すぎると思わない?」
 マサオミの素っ頓狂な声を置き去りに、ヒトハは沈んで陰鬱になりつつあった己の思考を他者に流して仕舞った事を恥じる様、殊更明るく話題を切り替える。その侭他愛もない話に繋げていく内にお茶を煎れ直したヤクモが戻って来て、三者は暫しの穏やかな午後を共有するのだった。

 *

 穏やかな思考の裏を然し過ぎったのは先程既に浮かんでいた結論。
 誰に対しても平等で誠実な人格だからこそ、彼は偽を持ち出してまで居る心算が無いのだ。他者に対しても己の心に対しても。
 とんだ傲慢な自信家か、青臭い理想家か。然しそれを平然と併せ持つ。己の信念を貫き通し、それでいて尚気丈に振る舞う。
 一見完璧な、然しそれは、僅かの匙加減ひとつで致命傷を負わせ、また己で負いかねない、酷く安定した危険を裡に潜めている。
 偽はいらないと云うそれは、紛れなく破綻を孕んだ心なのだから。
 しかもそれらは当人に自覚を全く期待出来ない、と云う難を抱えているのだと──これは後々に改めて思い知る羽目になった。


 あの後、ヒトハは最初に来た時と同じく明るい様子で、ごく自然に「またね」と帰って行った。
 ……彼女もまた、己の中の悔しさや至らなさに負けぬ程に、ヤクモから向けられる思い遣りと云う名の隔絶を知っているからこそ、の。納得。或いは諦観に近いかも知れない。
 それは、悔しいな、と苦笑する諦めと紙一重にあり、それを自覚する度ヒトハは先程マサオミに見せた様な、悄然とした様子で俯くのだろう。
 当たり前の所に居て欲しいと云う願いは、ヤクモにとってもヒトハにとっても他の者達にとっても、決して優しい事にはならない。同質の意でありながら、互いに望むのは真逆と云う、どこまでも変わらない隔絶。
 つまりそれは──それ以上の存在である事を、はっきりと拒んでいると云う事に他ならないからだ。
 家族には家族の、友達には友達の、幼馴染みには幼馴染みの、その侭で居て欲しいと云う。己の守るべく『大事な』日常の象徴で在って欲しいと云う──酷い傲慢。

 「アンタって非道いんだか優しいんだか解らないね本当」
 「?……何がだ」
 「もう立腹を通り越して呆れたって云うか……〜」

 何の事やら知れずきょとんとこちらを見返して来る人の顔を、然しどうにも癪なので真っ向からは見てやらず、マサオミは様々の感情と共に、代わりの様に虚空を睨んだ。
 踏み込めば内側に隔絶され、近付かなければ外側に断絶される。
 果たして自分はどちらに類するのか。それとも全くの埒外なのか。どちらも願い下げだからこそ、彼我の距離を測りかねて目を逸らした。




ヤクモへの第三者からの客観視の予定が、気付けば相変わらず酷い人一直線。ぶっちゃけああ云う英雄的人格になると真性の利他人だろうと確信は。やってる事エゴイスト。紙一重。彼の人格(後天的な影響含む)は父親似ですから完璧に。
ヒトハは幼馴染み付き合いの長さからの自負があるだけに『そう云う』寂しさがあるだろうと云う妄想。恋愛とかではなくどちらかと云えば仲間や家族意識としての、仲間ハズレにされた様な、急に彼奴め変わりやがった、みたいな『置いていかれた』感覚。『内』に居るマサオミには解らないだろう、そんなもの。

君の輪。若しくは君の話。