咎の謂われが果たして無くとも、一度縋った感情はそう簡単に解けてくれるものでも無かった。
 だがこの偽の空隙に「そう」と在るべくかの様に収まってくれたのは、そんな憎悪よりも遙かに易い、温もり。
 思い違えである、と、囁く己に苦笑を返して、極力嘘である事を信じようと偽悪めいて認める。
 そんな甘やかな手など、必要無いだろう。
 俺は与えて貰いたいんじゃない、奪いたい側なのだから。



  灰空暮れる前



 天流だの地流だの闘神士だの式神だの妖怪だの伏魔殿だの。
 そんな言葉が脳を過ぎるのも莫迦莫迦しい程に長閑な昼下がり。マサオミはすっかり通い慣れた天神町への道を愛用のバイクで走っていた。
 霊体と云えど己の力でなく『疾走』出来るのが楽しいらしく、彼の式神であるキバチヨは神操機から姿を現して荷台の上に『座って』からからとはしゃいでいる。
 キバチヨの『座る』荷台の上には今日の手土産であるミソカツ丼が鎮座ましている。最初は警戒を解く為の手土産(と趣味)だった訳だが、今ではすっかり慣例になって仕舞い、リク達の側もマサオミの訪れと共に寧ろそれを期待していると云うか、太刀花アパートの食事のスケジュールにマサオミ持参の丼物がそこはかとなく加えられていると云うか。そんな状態だ。
 「今日もリクは伏魔殿かな……」
 長閑な空の下で、そぐわないなと思いつつも自然と独り言が漏れた。
 以前伏魔殿の内部でヤクモに窮地を救われて以来、リクは「強くなりたい」と云ってコゲンタと共に伏魔殿に入り、積極的に式神戦の訓練や闘神符の扱いの特訓に夢中になっている。
 式神の力だけに頼ったり、必殺技ばかりを放って戦うのではなく、式神に的確に指示を出し、符を用い式神をサポートしたり己を守ったり時には攻撃に迄転じる、そんな闘神士ヤクモの戦う姿を目の当たりにし、リク的に何か感化されるものがあったらしい。
 そこに来て白虎消失の危機を抜け、益々絆の深まったリクとコゲンタだ。二人協力し合い修行に没頭する事にも余念が無い。
 然し如何んせん、天流宗家らしくリクは式神を使役する気力や器には最適に過ぎる才能を生まれつき持ってはいるものの、元より運動は人並みにしか出来ないし、今まで特別鍛えていた訳でもない。優柔不断で穏やかな性格もあってか、判断力も甘い。
 そんな中学一年生がいきなり、戦いの年季のまるで違う年上の闘神士に憧れる、と云うのは些か敷居が高い。だが基本的にリクには強くなって貰いたいと願っているのはコゲンタも同様な為か、結果的にリクの頑張りを増長させている現状。
 「リクには天流宗家として力をつけて貰いたいのは確かだが──天流のヤクモ、ね。……何もあんな人外を目指す事も無いのにな」
 伏魔殿で一戦を交えた闘神士の姿を思い出し、マサオミは手が空いていたら爪を噛みたい心地になった。
 あの時ヤクモは神操機と比べ式神のポテンシャルを活用出来る出力の低い闘神機を使っていたが、それでいてキバチヨと同じ青龍族の式神同士で衝突し合い、結局マサオミの方から戦線を離脱する形で、決着は付けずに終わっている。
 正直、式神の出力と云うレベルでは神操機を扱っているマサオミの方が有利にあった。一対一で同威力の必殺技で押し合いをしたらキバチヨの方が確実に競り勝っていただろう。
 だがそんな状況に在っても戦い慣れた動きと判断とを見せ、式神に的確な指示を出し、闘神機の八方音に因る印入力も正確に早くこなし、それでいて更に闘神符でサポートを行うだけの──実力。
 故に厄介であると判じたのだが、結果的にそれが後々である今にまで、マサオミのすっきりしない苛立ちを保つ事となっている。
 『なにマサオミ、また彼奴の事考えてるのかい?』
 相棒の胸中を敏感に悟ったらしく、荷台にあぐらをかいて、過ぎゆく景色を後ろに見ていたキバチヨが云ってくる。
 「ああ。ヤクモは神流(俺達)にとって予定外の大きな障碍だ。今の所はまだ計画に支障が出る程ではないが──こちらが仲間の多くを潰された事で予定外の不利益を被っているのは間違い無い。出来るだけ早い内に奴を何とかする手段を考えなければいけない」
 とは云え、ヤクモが神流闘神士の存在を確認し、それに因って伏魔殿の探索に主を置いてくれているのは神流にとっては大きな利ではあった。お陰でヤクモの注意は神流と伏魔殿とに集中することとなり、神流が入り込み操る地流の動きの方には全く気付く様子も無い。
 逆に神流は仲間を多く失うと云うリスクを背負っている訳だが、あの厄介な闘神士の注意を、計画の核である地流の動きより引き離せていると云うのは重要だ。
 もしもヤクモが伏魔殿の内部の神流の動きだけではなく地流宗家の動きに注目していたとしたら、大鬼門の建造などはとっくに看破され、何かしらの手段を用いて妨害されていたに違いない。完全に防げないとしても、大幅な遅延は生じていただろう。
 地流の相手は修行も兼ねてリクらに任せてある。彼らは地流宗家の計画や動きになど全く気付いていない。ただ「闘神石を守る」として、遭遇する地流闘神士と小競り合いを起こす程度しか出来ていないのだから。
 然しその小競り合いが功を奏して、リクとコゲンタの成長に役立っているのは云う迄もない。彼らは勝利と己らの成長に一杯一杯で、自分達の倒した地流闘神士は他の闘神石を狙って伏魔殿へと侵入を続ける者らの中の、氷山の一角でしか無い事になど気付いていない。
 故にそこにきて、リクがヤクモに感化され修行に身を入れると云うのは悪い事では無い。ただ矢張り、憧れる相手にしては敷居が高すぎると云うか。万が一にでもあのレベルにまで到達されたら厄介が二乗だと云うか。そんな埒もない想像をして仕舞い、マサオミは少し厭になった。思考を戻す。
 「……それに。出来る事なら、彼奴は俺が仕留めたい」
 『へぇ?珍しいじゃん。マサオミ君が誰かに積極的な興味をそうやって持つなんて』
 「キバチヨも、あの青龍と決着をつけたくはないのか?」
 『僕は別にそう云う細かい事は気にしないからねぇ。でもマサオミ君がやりたいって云うんなら勿論協力は惜しまないよ。僕は基本的に楽しい戦いが好きだし。その点では彼奴らは楽しませてくれそうだし』
 霊体とは云え、キバチヨの背中がこつりと己の背中に寄りかかるのを感じて、マサオミは微笑みを浮かべた。頼もしい相棒に胸中で感謝をする。
 『それに、なんだかんだでマサオミ君、彼奴の事好きなんじゃないの?』
 感謝をした瞬間そんな事をさらりと云われ、マサオミは思い切りバランスを崩して転倒しそうになった。後ろの車にクラクションを鳴らされ、慌てて路肩の方へと避難する。
 「こらキバチヨいきなり何を言い出すんだ!事故ったらどうするんだ!?」
 『え?だってそうじゃないの?アレからずっと彼奴の事気に掛けっぱなしだし、自分で倒したい、なんて興味持ちまくりだし』
 荷台の上から浮かんで、ひょいと真横に滞空しながら呑気に云うキバチヨ。マサオミは一瞬その姿に視線をやるが、直ぐに進行方向へと向き直り、ぐっとアクセルを捻る。
 「それは、彼奴が神流にとっての邪魔者だからでだな…!」
 『自分でも暇を見付けてはちまちま伏魔殿うろついたりしてたし?敵を捜してるって言うより、単に会いたくて仕方ないとかそんな感じに見えるけど?』
 「だ、だからそれは…!」
 『この間だって死にかけてるのを助けてやってたし。向こうは式神が報告しない限りマサオミ君に命を救われただなんて思いもしないだろうけど』
 「……」
 つい先日の事を言われ、マサオミは反論出来ずに黙る。
 内臓を損傷までして失血死の寸前だったヤクモを助けだし、応急処置どころか伏魔殿の中に隠された神流の回復拠点へとこっそり連れ込んで傷を癒し、見た目には完治した所で、彼の住まう京都の適当な鬼門まで送り届けてやると云う、自分ながら甲斐甲斐しい人命救助だったとは思う。
 一度戦った、敵であると云うのに。
 その時は「すっきりしない侭死なれるのなんて御免だ」と己や式神には言い聞かせていたのだが……、どうやらキバチヨはマサオミの言ったその、『すっきりしない』と言う部分をそう取ったらしい。
 『僕は式神だからね〜。闘神士の恋路は邪魔も応援も反対も特にしないよ?あ、して欲しいならするけど』
 けらけらと笑いながらい云うキバチヨの姿を、先程の頼もしさから一転して忌々しげに見つめると、マサオミは密かに吐息をついた。
 「………確かに、鮮烈な存在では、あるがな…」
 何となくそう思って、キバチヨには聞こえない様小声で呟くと、資料の通りならばどうやらマサオミと同い年だと云う闘神士の横顔を思い出す。
 常に固く保たれた厳しい面差しの中に、意志の強そうな琥珀の瞳を炯々と抱いていたのが印象的だった。物腰は穏やかではあったが、ただの会話の間ですら隙の一切が無く、張り詰めた緊張感を崩そうとはしない。資料の評価通りの強さと、自信ある態度を裏打ちするだけの経験と技能を持つ青年。
 その癖、名落宮よりリクを伴ってやって来た時の、少しだけ年相応に思える言動に、穏やかな微笑み。符で咄嗟に隠行を発動させて忍んだから、恐らくマサオミの存在には気付いていなかった為に見せる事が出来たのだろう──戦っていた時からは想像もつかなかった柔らかな気配。
 敵同士である闘神士として互いに戦った時の様子と、闘神士の先輩や歳の離れた兄の様な、不思議な包容力を持ってリクに相対していた様子とを思い出すと、そのギャップに何故か溜息が漏れた。
 出会いが敵同士だったのだから、どうやってもあの態度の違いの片方しか、己には向けられる事はないのだろうなと何となく思ってマサオミは苦笑した。
 そして気付く。
 「……………………おいおい、これじゃまるで本当に恋でもしてるみたいじゃないか……!」
 呻く言葉は、一気に速度を上げたバイクのエンジン音に掻き消されて碌に聞こえない。
 道路脇の標識の示す、天神町の方角へと。マサオミを乗せたバイクは一気に滑り込んでいった。

 *

 「よぉリク。今日は名古屋まで行って買って来た特製ミソカツ丼を持って来たぞ〜」
 と、いつも通りの笑顔でがらりと、いつの間にか通用口となっている縁側のサッシを開きながら、マサオミは手にした袋を掲げ持ち──そこで笑顔の侭凍り付いた。
 見慣れた太刀花家の居間。卓には今は誰もついておらず、テレビも消してある。
 かと云って無人かと思えばそうではなく。凍り付いたマサオミを、その凍結の原因である──台所の方に立っていた人物は、奇妙なものを見る様な目つきで遠目に見下ろしていた。
 「成程、リク達の云っていた丼物の配給係とはやはりお前の事だったのか」
 伏魔殿でお馴染みの砂色のマントは羽織っておらず、代わりに黒いシャツに濃紺のエプロンなぞを纏って、ぐるりと振り返ってお玉片手に溜息をひとつついてみせる、そんな彼の姿。
 「──!──!──!──!!!」
 言葉にならない絶叫を上げ、マサオミは腕を振り回して彼を指差すのだが、当の指される側は全く気にせず無造作に近付いて来ると、ぶんぶんと上下していた右手からミソカツ丼の入った袋を素早く取り上げた。
 「食べ物を粗末にするな。今日の昼食はリクがお前が来る事を見込んでいたから、何も用意していないんだ」
 それだけを云うとまだ憤懣やるかたないマサオミを置いてさっさと台所へ戻り、丼の蓋を開けて中身が無事な事を確認すると、鍋の面倒に立ち戻って仕舞う。
 「────────っ、おま、ッ、天流の、ヤクモっ!!」
 何とかつっかえながらマサオミは漸く相手の名を叫び、胸の神操機に手をやった。今の数瞬だけで一気に疲れ切ってぜはぜはと喉が鳴る。
 「ヤクモっ、何で貴様がこんな所に居るんだ!」
 「リクの持つ月の勾玉の事を調べようと天神町(ここ)に出た矢先に、これから伏魔殿へ修行に行くと云う彼らに遭遇してな。邪魔をしては悪いからと機会を改めようと思ったんだが、今日は丼物の配給係が来るかも知れないし、良ければ家で休息がてら待っていて欲しいとリクに頼まれて、それならばと留守番を任されたと云う訳だ」
 マサオミの動揺と真逆に、ヤクモの方は淡々としたものだ。簡潔に過ぎる説明は台本を読む様に淀みがまるで無い。
 日々ヤクモの事を考えて、苛々だの再戦だの追跡だのあれこれと意欲を燃やしていたマサオミの方としては、その温度差が少々腹立たしい。
 「で、丼だけでは何だと思ったからな。俺にも出来る物、と軽く汁物を用意させて貰っていた所だ」
 どうやら鍋の中身は味噌汁か何からしい。
 「ってそうじゃなくて!アンタな!仮にも一度敵として戦った同士なんだからもっとこう取るべき態度とか!あるだろ!?」
 「……それはそうかも知れないが、だからと云って二度目をも拳で語る事もあるまい?
 第一此処は伏魔殿ではなく町中で、しかも他人様の家だ。無駄な迷惑を起こす心算は俺にはない」
 だが周囲も気にせず挑んで来ると云うのであればそれは容赦しないが、と続けて。ヤクモはお玉に鍋の中身を掬って味を見ると、一つ頷いてから火を止めた。続けて冷蔵庫を覗き込む。今までの話だと先程訪れたばかりの筈だと云うのに、すっかり勝手知ったる家の様相だ。
 ちらり、とマサオミが窺うと、居間の卓袱台の上にはベルトと共に紅い神操機がホルダーに収まった侭で置いてある。訊くまでもなくヤクモのものだろう。
 つまり今のヤクモは一動作だけでは式神を降神出来ない。符を隠し持っているとしても、マサオミから数歩の所にある神操機を先に奪って仕舞えばその侭倒す事が出来るだろう。
 そんな物騒な事を考えているマサオミに気付いていないのか、それとも関心が無いだけなのか、或いは自信があるのか。ヤクモは己の神操機がこちらの手の届く位置にある事に頓着した様子も無く、冷蔵庫からナズナ特製の漬け物を取り出して検分している。
 思えば先程丼を取りにこちらに接近して来た時点で神操機をさりげなく回収する事も出来た筈なのだ。動揺していたマサオミならばその動きにすら気付けなかっただろう。
 何となく器の違いを見せつけられた気がして、マサオミは憮然とした侭、胸の神操機から手を離した。いつかの感想通りどうにもすっきりしないが、取り敢えずは靴を脱いで居間に上がるとサッシを閉じ、後ろ手で音も立てず鍵をかける。
 先程まで、マサオミの来訪を待ち迎え入れるかの様に開けられていた鍵を思い、密かに目を眇めると、台所へと歩いて行く。
 斜め後方、少しばかり離れた位置に立って、まな板に向かうヤクモの手元を覗き込むと、慣れはなさそうだが存外不器用でもない手つきで胡瓜の浅漬けを輪切りにしている。
 「マサオミ、手が空いているのなら皿を出してくれないか」
 「あ、ああ…」
 反射的に頷いて仕舞い、しかし頷いた手前何もしない訳にもいかず、マサオミは食器棚からナズナが漬け物用に使っている皿を探し出すと、まな板の横へと置いてやる。
 「ありがとう」
 普通にそんな礼を言い、ヤクモは包丁をまな板の上においた。続けて良く漬かった白菜を手に取ると流しに向かって絞り始める。
 「──」
 マサオミが手を伸ばせば触れる位置に、無造作に置かれた包丁。置いた当人はこちらに背を向けた侭、流しに向かっている。
 その、偶然にしては奇妙に狙い済ました様な配置にマサオミは思わず息を呑んだ。包丁を掴んでその身に突き立てるのなど、ほんの一動作で事足りる。
 「…………」
 いや、と思い直し、マサオミはヤクモから一歩離れた。本当にそんな衝動が湧き起こるかも知れないのが何故か怖いと思った。そうさせる背中の隙が余りにも無防備に見えて、苛立ちを転嫁する。
 そんなマサオミの葛藤に気付いているのか、それともやはり、いないのか。ヤクモはよく絞った白菜を刻むと、先程切り終えた胡瓜と共に、マサオミの取った皿へと盛りつけていく。
 「……ってそう云やアンタなんで俺の名前」
 ふと思ってそう問う。先程皿を取る時確かに名指しで頼まれた。故についつい頷いて仕舞った。のだと思いたい。
 「以前リクから訊いていたのと、今日も云われたのもあってだ」
 丼の配給係はどうやらマサオミと云う名らしい、とヤクモは記憶していた様だ。
 酷い扱いの様だが、敵としてならば当然の様な気もする。寧ろここは名前を覚えてくれていた事に喜ぶべきなのだろうか。妙な気分になってマサオミは苦笑した。
 「味噌汁の具、何?」
 すっかり戦意も払いのけられ、マサオミは云いながら鍋の蓋へと手を伸ばすが、届く寸前でその甲をぺしりと叩かれる。
 「豆腐と茗荷。蒸気がこぼれるから開けるな」
 叩かれた手を「おー痛て」と大袈裟にさすりながら、マサオミは改めて、闘神士として本来敵であるべき青年の姿をこっそりと観察した。当初の驚きから立ち直ってみれば、色々な意味で予想外のその姿に段々と笑みが浮かぶのを押さえきれなくなる。
 そんなマサオミの気配の変化に気付いたのか、ヤクモは顔を顰める。
 「………………何だ、にやにやと。気持ち悪い」
 「いや、ね。普段あんなマントとか羽織って伏魔殿を可成り人外に徘徊してる奴が、エプロンなんか、ぷ、つけて、くく…、台所に居る、なんてな、って」
 最早含み笑いを隠さないマサオミの云い種に、流石にヤクモも頬に僅かに朱を乗せた。自らの格好を改めて見下ろし、鼻の頭に皺を寄せる。
 「人外とは随分だな。人聞きの悪い。あのマントにもちゃんと意味はあるんだぞ」
 「え、マジで!?」
 「意味もなくあんなの被って堪るか。伏魔殿の中は環境が炎天下だったり猛吹雪だったり兎に角安定しないから、気候に左右されて煩わされない様にだ。それに守りの術を施してあるからああ見えて耐水耐火耐衝撃耐刃にも優れているし」
 確かに。日差しがキツければ遮れるし、寒ければ被り物一枚でも助かる。フードは雨の時にも良いだろう。
 「でもそれならフツーにコートとかでも良いんじゃないか?伏魔殿だからまだ良いが、出て来た時にマントじゃこの時代、ちょっと表とか歩けないだろ」
 「コートなんて着たら動きが制限されるだろう。印も切り難くなる。
 ああ勿論、余程急いでいない限りは鬼門を出たら流石に直ぐ脱いでるから、そんな憐れみと疑いの眼で見るな。怒るぞ」
 へぇー、と感心しながらもどこか温い目のマサオミに釘を刺すと、ヤクモは先程取り上げて来た丼の袋をがさがさと開き始める。
 「じゃ何であんな裾とかボロボロなのを着てるんだ?」
 「元はちゃんとしていたし何度か既に替えているが──攻撃を受けた時などはやはり裾は一番損傷する率が高いからな。最初は毎回繕っていたが、段々どうせまた破れるから、と思える様になって放っておいている。
 所でお前、何人分買って来ているんだ一体」
 質問に答えながら、ヤクモが袋から取り出して行く丼の数は気付けば想定の人数分を越えている気がしないでもない。
 「ん?ああ、時々リクの友達のボート部の子らもここに来ている事があるからさ、多く買って来る癖がついちまってね。
 数余ったら夕飯に回しちゃっても良いし──ナズナちゃん怒りそうだけどな。そもそもリクの奴が結構見た目に違えて大食いだし、少しぐらいの余剰なら結構平気で片付けちまうんだよ」
 「ふぅん……そうなのか」
 そう云うヤクモの表情はとても穏やかに目の縁を緩ませていて、思わずそちらを盗み見たマサオミは瞠目した。
 闘神士である姿しか知らなかった、この同い年の青年の──これが年相応の『日常』の姿なのだと思い、それを知れた事が何故だろう、とても嬉しく、同時に酷く複雑だった。意外性と言う奴か、と胸中に言い訳を差し挟んで、結論については保留する。
 「さて、そろそろリク達も戻って来る頃だろうからな。卓の準備でもしよう。マサオミ、どうせ暇なら手伝え」
 落ち着いたとても丁寧な物腰を持ちながらも、同年代と云う事もあるのか──或いは敵だからとでも云う意趣返しなのか。気安くそう云って来るヤクモの態度がまた、マサオミには何故かくすぐったく嬉しくなり、
 「はいはい仰せの侭に」
 僅かに過ぎる暗雲めいた感情を誤魔化す様に笑いながら、腕をまくってそう云った。

 *

 そしてヤクモの予想通り、その後程なくして帰って来たリクやソーマやナズナと共に卓を囲んでのんびりと昼食に興じる。
 「ただ待っているのも退屈だったからな、勝手に冷蔵庫のものを使わせて貰ったよ。後で買い物に行って、使った物はちゃんと買い足しておくから」
 味噌汁を煮て漬け物を刻んだぐらいとは云え、ナズナは「ヤクモ様にその様な事をさせて仕舞い…!」と大騒ぎをしたものの、そんなナズナの云い種には慣れているのか当のヤクモが軽く漬け物の味を誉めながら取りなせば彼女は意外な程あっさりと大人しくなった。
 聞くとどうやらヤクモの実家である京都の太白神社で、ナズナとは一時期家族の様に暮らしていたのだと云う。そんな話をリクやソーマは物珍しく聞き入り、ナズナは誇らしさを隠し切れない様な、然し照れ臭さを憶えた様な表情でお茶を少し乱暴に入れて話をまとめさせて仕舞う。
 妹分に近いのだろうナズナのそんな様子にヤクモは笑いを噛み殺して、今度はコゲンタにそれをからかわれて、ああだこうだとやり取りを交わしている。
 どうやら思いの外に人への気配りが上手いと云うか。世話を焼くのが好きだと云うか。闘神士として戦いに徹する彼の表情の裏にあった、明るく屈託の無い人格。そんな所にも感心したマサオミがちらちらとずっと窺っていた矢先に、
 「マサオミ、次に買って来るのならカツ丼ではなく天丼にしてくれ。どちらかと云えばそっちの方が好きだ」
 「……しっかり食っといて云う台詞か?それ」
 「勿論感謝はしているぞ。意外と美味かったしな。だから『次』は頼むんだ」
 とかなんとか、さらりと云われて仕舞い、らしくなくもマサオミは可成り狼狽えた。そこにキバチヨが神操機からひょいと顔を出して、
 『ははは照れちゃって〜?ヤクモの事好きだからさ、マサオミ君は』
 などと火薬に点火済みの爆弾を投げつけだし、マサオミは思わず咽せ返るが幸いにも皆は冗談だと思ったらしく楽しそうに笑い合うばかりだった。

 *

 食後に茶を飲みながら、リクとソーマはヤクモにあれこれと質問をしたり話を聞きたがったりし、コゲンタが時折それに茶々を入れ、ナズナがそれらを咎めたりしている。
 傍目にまるで保育園児と保父さんの様な様相を呈し始めた、未だ継続中の長閑に過ぎる午後。
 そんな様子を少し離れた所から見つめながら。此処に来てからの事を振り返って思い起こし、マサオミは妙な気分になっていた。不快ではないがそれなりに不可解な類の鬱積だ。
 気付けばヤクモの態度や様子に一喜一憂している自分がいて、成程その点ではキバチヨの指摘も強ち間違いではないと思う。
 だが敵意以外の感情を認めるには抵抗がある。相手は天流で、ウツホと共に自分たち神流を伏魔殿の中になど封印し続けた奴らの末裔なのだ。
 同時に、だが、と思う。他の神流の仲間は皆、天流地流それぞれをその存在だけで既に憎んで嫌っている。無論マサオミとてそう思っている。
 だが既に実際に「そうした」連中はもういない。神流の存在は文献にすら遺されず、伏魔殿と云う異次元の中に只忘れられていくばかりだ。
 彼には、その咎はないと云える。
 然し、神流には必要なのだ。憎悪を向けるべき対象が。己の正義の為に振り払うべき邪悪な手が。
 「好ましい、のは間違い様が無いかね…」
 敵として戦った筈の相手に向ける、油断ではなく心を平気に許している態度。それらを許せないのと思うと同時に、嬉しく思う事。反面湧き起こっているのは苛立ち。憎むべき相手へと向ける正当な感情。隙さえあらば鎌首を擡げんとする、薄ら暗い──嫌悪。或いは嫉妬。或いは嘲り。
 何より、思ったのだ。あの厳しく鋭い『敵視』の眼差しではなく、今丁度リク達へと向けて穏やかな微笑を浮かべている、彼の世界へ入り込んでみたい、と思って仕舞ったのだ。
 それを好意と解釈して良いのかは解らない。ただ、惜しむべき存在だとは思った。『すっきりしない』と言い続けていた感情の収まり方としては実に丁度良くも。
 敵が敵でない風に振る舞う事に腹を立てる一方で、その振る舞いをもっと向けて欲しいと思う。憎むべき感情を湛えた侭、その憎悪を忘れられる事の叶う時間を惜しんでいる。
 思う内に何だかおかしくなって、マサオミは密かに笑いを噛み殺した。一体己の感情はどれだけ屈折しているのだろう。
 『やっぱり僕の予想通りみたいだね?で、応援しようか?』
 「いや、良いさ。ゆっくりと、こんな時間を『楽しみ』ながらアプローチでもしてやろう」
 同じ様に笑って云うキバチヨに向けてそう云うと。
 マサオミは今後の算段や、相手の反応を想像して笑いながら目を閉じた。

 時間を潰すだけの戯れにしても。間違い様がなく自分は、この空気を楽しんで仕舞っているのだから。




惚気確信。時系列に無理があるんですがそこはそれ。一個前の話の救助の少し後くらいで。
イヅナやナズナと云う一級のおさんどんが居る訳なので、ヤクモは台所関係駄目だと思います。簡単に切る煮る焼くくらいは出来るかなくらい。伏魔殿での妖怪汁(笑)は名前通り煮込むだけっぽいし…。

長閑な昼間にそぐわない灰色の世界観。暮れれば朱。