ほんとうは、欲しかったのは赦しでも何でも無かったのではないかと、今になってそんな事を思う。
  (何かを乞い続けた所にただ、偶然この形が収まっていただけの僥倖であったのかも知れない)

 求めると云う事は、充たされていない事と等しい。
  (だから乞われる侭に充たそうと思った)

 どうやっても充たされない癖に、充たされようと縋る彼を哀れんだ。
  (だから壊れる前に救いたいと思った)

 こんなものでは埋まりはしなかった孔が、今はもう何処にもない。


 鏡に映った彼の姿は始終にこにこと楽しそうで、その横では彼の家族達が同じ様に微笑んでくれていた。
 嘗ては、幸福などない様な表情をしていた彼は、今漸く乞う必要も無く、温かな此処に自然と充たされたのだと。確信した。

  (──本当に、良かった)

 そう、彼に抱く理解と親しみが果たしてどの様な名前を持つと云うのかは知れない。
 ただ本当に嬉しかったから、こちらを向いた彼の笑顔に応える様に、目元を弛めた。
 「また」と密かに願って、閉ざされる刻の隔を。見送った。



  マヨイガ



 千と二百。
 言葉に乗せてみればそれはいっそ陳腐ささえ感じさせるだろう数字。
 その間の堆積として、人の死と築いた歴史と繰り返した過ちの数の膨大さを知れば、幾分かはその重さを感じる事が出来るのかも知れない。
 千と、二百。
 繰り返し胸中で呟くマサオミの裡で、その数の示す、気の遠くなる様な年月の数えは、やはり何処か客観的なものを含んで吐き出される。
 千と二百年。
 果たしてその間、何度支配者が変わり何度血が流され何度人間に後悔を与え何度進化を促したのか。
 捲ってみれば教科書一冊程度にも満たない、それは天体の回転数。歴史の数えただけの年月。
 千二百年。
 月への距離さえも変える程に遠い刻へと、だからこそ馳せた思いは然し、マサオミの体験してきた実際の身体的感覚ではたったの五年の間の事だ。
 姉と家族とを失い、式神(キバチヨ)と共にそれを取り戻す事を願っていた時間は、千と二百年と云う膨大な、経過した年月の中の、たったの五年間に過ぎない。
 たったの、と言い切るには余りに長く険しかった道程は然し、今全て報われて此処に在る。
 憎悪と復讐とにまみれて立った、五年の間には思いもしなかった。あれ程に憎んで来た天流の領域で心安く、茶を挟んで姉が座っている姿など。
 「ええ……そうですね。刻の理は勿論、子供達や皆の事を思えば、私たちは元の時代に正しく在るべきでしょう」
 不意に耳に戻ったウスベニのその言葉に、マサオミは一瞬表情を歪めそうになり留まった。そんな様子には気付かず、だがまるでその代わりの様なタイミングでナズナが首肯を返す。
 「皆様を元の時代へお帰しする為の尽力は、天流、地流共に惜しみませぬ。直ちに刻渡りの儀式の支度を致しますので、その間はこの新太白神社にてどうぞごゆるりとお寛ぎ下さいませ」
 全ての発端とも云えるあの忌々しい封印を解いた天地宗家は今、この場に居合わせてはいないが、居たとしても彼らも恐らくはナズナと同じ旨の言葉を贈ってくれていただろう。
 神流の者達への、深い謝罪と贖罪。その為の労も感情も惜しまない本心。神流は最早彼ら天地流派の敵ではないのだ、と、はっきりと示された今であれば間違いなく。
 子供達は兎も角、大人の闘神士達の中には今のこの──天と地と神の流派が手を取り合い封印を解き放ったと云う事実を未だ信じ難く思っている者達もいた。頭の固い彼らの幾人かはこの時代に残ってそれを見極めてやる、などと気勢を揚げている程だ。
 確かに、いきなり千と二百の年月などを経て仕舞えば、あれ程までに敵対していた者達がそう易々と和解出来るものかと疑いたくもなるのだろう。
 実際超えて来た年数としては、その間に天と地の流派は分かれ啀み合い、歴史は歪められ伝えられた長き背景と経緯とを持つのだが、封印されていた神流の者達にとってみれば、襲撃を受けたのはつい数時間前の話なのだ。
 そう考えれば成程、千と二百年と云う刻は確かに途方もない年数なのだと、改めて思い知らされる。
 そんな中で、マサオミとキバチヨとを介し全てに得心したウスベニは、マサオミと共に神流の代表として、今後の自分達の身の振り方を相談していた訳なのだが──
 「あー……、姉上、ナズナちゃん」
 「他に何か足りない事などがございましたらどうぞ遠慮なく──、何ですか?マサオミ殿…」
 「どうしたのです?ガシン」
 刻渡りの事について移っていた議題に唐突に口を挟んだマサオミへと、ウスベニと、ナズナと。両者から訝しむ様な視線が向けられる。
 (……千二百年前。俺が、俺達が、本当に在るべく故郷。時代……、)
 千二百年前と、現代と。両方から向けられる視線に晒されたマサオミは、もう一度そう、噛み締める様に呟いてから曖昧な苦笑を浮かべた。さも疲れた様に肩を落として云う。
 「……悪いんだが、気が抜けたら何か一気に疲れちまってさ。今日もう一晩だけ、此処に留まる事は──出来ませんか?姉上…」
 前半をナズナへ、後半をウスベニへと回すと、マサオミは我知らず膝の上で強く握り固めて仕舞っていた己の拳に気付き、力を抜こうとして──然し失敗した。
 
 千と、二百年。
 何十万回と日が昇り沈む事で数えられたその刻は、帰る場所であり、同時に、大神マサオミと云う人間が構成されてきた時間の長さであり、終にそれが帰結する時とも云える。
 闘神士としての戦いも無く、ただ願ったあの穏やかな日々へと戻る。それは然し逆にそれまでが終わると云う事でもある。
 (俺は、)
 胸に憶える鈍い痛みの錯覚に、矛盾した心がこたえる。
 (まだ、大神マサオミで居たい)
 ………………全てを棄ててまで叶えようと思った願いに近いほどに。或いはそれ以上に。それが、迷いを促す。
 執着と未練とが、持て余された感情の下でのたうち回る。未だ駄目だ。未だ適わない。未だ届かない。未だ。
 (俺は、未だ、)
 乾いた声で、強く。握り固めた拳の中へと思いを仕舞い込む。
 
 *
 
 「悪いが俺も親父も今日までしか付き合えそうにない。天地の過ちは形だけでも精算した。後は何日でも、貴様らの好きな様にすれば良いだろう」
 未だマサオミに対する確執の完全に抜けきらないユーマはそう素っ気なく云うと、父親を伴い、陽が落ちる前に帰路へとついていった。
 ユーマにとってはマサオミやその家族が元の時代に戻る事に対しいちいち感慨以上の何かを抱く理由も無いので、それは別に冷たいからと云う訳ではなく、当然の事と云えた。
 地流はなまじ人数が多く残っているだけに、宗家としての責務もこれから多くが課せられるに違いない。ユーマの地流宗家としての戦いはまだ始まったばかりなのだ。
 「明日も学校はお休みだから、僕は大丈夫です。マサオミさんとこれでお別れなら、ちゃんと見送らせて下さい」
 リクの方はそう云って新太白神社への逗留二日目をあっさりと了承した。特にする事も無いからと手伝いに立とうとするリクであったが、案の定かナズナにぴしゃりと制されて、今は客間の一つに大人しく引っ込んでいる。
 「良いですか、絶対に外には出ない様に……ってそれに触れてはなりません!!ああ、違います、これはこうして、」
 そんなナズナは、精力的に現代の品物をあれやこれやと攻略にかかる子供達の世話にてんてこ舞いとなっており、叱責──と云うより悲鳴が賑やかに響いている。
 千と二百の刻を経た、と云ったところで、子供達にとっては目新しいものは興を惹き遊びに転じる対象でしかないのだろう。
 それは彼らにとってこの時代は、『帰る』迄を費やすだけの『帰り途』に過ぎないからなのかと思い──、或いはそう判じて仕舞った己に嫌気が差していたのか。マサオミは各種の感情を胸の裡に留めた侭、苛々とした仕草で足を組み替えた。
 その仕草で、馴染みのない客間の、比較的に新しい畳の感触でさえもが、この時代に在る己を拒絶しているのではないかとすら思えていた事に気付いて、マサオミは形にならない呼吸を只吐き出す。
 「……ガシン。少しは落ち着いたらどうですか」
 そんなマサオミの様子を見て、タイザンの見舞いを終えて部屋に戻って来たウスベニがやんわりと窘めを寄越して来る。
 その懐かしい声音や言葉の調子には、確かに代え難い程に大切な願いや記憶を憶えていると云うのに。或いはだからこそか、裡の苛立ちを掻き立てる齟齬を益々呑み込む事が出来なくなって、マサオミは咄嗟に取り繕った笑顔を浮かべた。この五年ですっかりと慣れて仕舞った作り笑いだ。
 「すみません、姉上。……やはりまだ少し、色々、あった所為で……、緊張しているのかも知れません」
 あれ程望んだ筈の姉の声を。案ずる様な響きを。願いの帰結、その具象たる彼女の姿を、何故だろう、マサオミは真っ向から見る事が出来ないでいた。
 恐らくそれはこの齟齬が在る限り。どうやっても埋まりそうにない、この孔の正体を見極めて仕舞わぬ限り。付き纏う。
 言葉の残滓を引き摺った侭俯き、再び足を組み替えるマサオミの姿を見て、ウスベニは小さく溜息をつくと、そっと、己より大きくなって仕舞った弟へと身を寄せて来た。手をつと伸ばして、頭を撫でる様な仕草をする。
 「…………無理はしなくて良いのですよ、ガシン。あなたやタイザンには私たちとは違い、この時代で得たものがあった。その為に哀しみを憶えるのは間違っていません」
 「──、姉上」
 「だから私たちに対して後ろめたい思いなど感じなくても良いのですよ?
 いえ、あなたが望むのであれば、」
 「姉上!」
 慰撫する様なやさしい手の動きと、思い遣りの込もった姉の声を遮る様に、マサオミは咄嗟に声を荒らげていた。
 「……ガシン、」
 華奢な手指がびくりとして引かれるのを縋る様に眼だけで追い掛け、マサオミは喉を迫り上がりそうになっていた苦い感情を嗚咽に似た感触で干した。畳を掻き毟る様に拳を固めて、掠れた言葉を吐き出す。
 「姉上、俺は……、俺とキバチヨは、姉上と、皆を取り戻す為にここまで来たんです…!
 だから、お願いです…、それが姉上が真に俺の事を思い遣ってくれた故の事であっても、どうか、、」
 「──ごめんなさい、ガシン…!」
 軋る様な弟の声の、その示す意味を知ってウスベニは息を呑むと、ガシンの肩を抱いてやりながら謝罪の言葉をこぼした。同時にそっと、恐らくは同じ様に傷つけたと思ったのだろうキバチヨの『居る』闘神機にもそっと手を添わせる。
 姉の優しい抱擁にまるで子供の様に宥められながら、マサオミは心の裡で静かに、己の決意と答えとを噛み潰していた。
 (誰あろう望んだあなたに許されたら俺は、事実よりも甘えを選んで仕舞いたくなる──!)
 両方に介在せず、どちらか、と問われたのであれば。
 選んでも良いのだ、と云われたのであれば。
 棄てても構わないのだ、と請われたのであれば。
 それは本来無い筈の選択肢であったが故に、己の願いを裏切ってでもそう、許される事など御免だった。
 
 (……矛盾、してる)
 
 徐々に冷えた心がそう、今更の様に囁きを寄越して来る。
 選べるのは二択。是か、否か。
 然しマサオミの裡の望みはそのどちらにも類さない。選ぶことが出来ない。
 二択ではない。絶対に望むそれは、ひとつのこたえ。
 ここも。むこうも。両方を欲する──何と強欲な、矛盾。
 (…………ああ、それなら)
 嘗て願ったのと同じ様に、願いの侭で欲してみれば良い。
 どうすれば両方が叶うのか。答えなど、解りきっていた筈だというのに。
 
 *
 
 「そうです。明日。取りに行きますから。それじゃあ宜しくお願いしますよ」
 マサオミは受話器を置くと鼻歌交じりに、書き付けたメモを読み易く清書してから、千切ったそれを忘れない様に財布へと仕舞い込んだ。
 今日の明日で果たして間に合うかと不安だったのだが、意外にもあっさりと要望は通ってくれた。電話ひとつで欲しいものが手に入る。全く便利な世の中になったものだと改めて思わざるを得ないのはこんな時にだ。
 受話器の向こうから依頼された、牛丼の具(レトルト)○箱+その他、と云う唐突な話には先方も流石に暫し狼狽えてはいたが、店長に電話相手を代えて数分、些か無茶とも云えるマサオミの願い倒しは、然し最終的に満足な結果を得られたと云える。
 「バイクに積めるだけ積んで行きたいよなあやっぱり……」
 食のペースと賞味期限の兼ね合いはざっと試算した程度だが、余裕で許容範囲内に収まりそうだったので、到底満足度には遠いかも知れないが。
 「姉上や皆にもあの味は是非とも体験して頂きたい所だし。やはり持てるだけ持って行くべきだな」
 記憶を失っていた事もあり、タイザンの場合は牛丼の味を堪能するどころでは無かった様だったが、千二百年前に戻って落ち着いてみれば、きっと皆気に入るだろうとマサオミは踏んでいる。
 話を取り付けた個数だけでは些か不安になり、マサオミは廊下に立ち止まって呻いた。然し想定の量以上になった『荷物』を運び込む労は如何んともし難い。
 「マサオミ殿……、何のお電話だったのです?」
 ぶつぶつ呟きながら廊下に佇んでいたマサオミに、不意に低い位置から声がかけられる。振り返ってみれば、いつもの毅然とした態度がそこはかとなく崩れて見える、一言で言えば疲れた様子のナズナがそこに居た。
 その手には来客用なのだろう、皺の折り目の綺麗な単衣が何枚か畳まれ抱えられている。どうやらナズナの長い長い一日はまだ終わりそうにないらしい。
 「ん?いつものヤツなんだが……、そんな事より、色々迷惑かけて済まないな、ナズナちゃん」
 そんな様子に純粋に有り難みと申し訳の無さを加味してマサオミが云えば、ナズナは相変わらずのツンとした様子で憮然と返して来る。
 「……、これも私の役目の一つですのでどうぞお気になさらず。それよりも、本当に姉君方と同じお部屋でなくて宜しいのですか?」
 「ああ。姉上達はもうお休みだろう?俺すっかり現代っ子が板についちゃってるから、流石に九時(こんな時間)じゃ未だ寝れないしね〜。別の部屋で寝た方が気も遣わせないで済むだろう?」
 「…………そうですか。ならば構いませんが……。あと、余り夜更かしもなさらない様にして下さるとこちらも助かるのですが」
 「〜あー、それは大丈夫。云ったろ?疲れが出てるみたいだから、適当に遅くならない様に床にはつくよ」
 ただでさえ今日一日働き(+子供達の相手)通しで疲れているだろうナズナをこれ以上煩わせる程悪意ないし悪戯っ気を捲く心算もないマサオミは、苦笑しながらそう云うと廊下の端に寄って道を空けてやる。ナズナはぺこり、と一度お辞儀をしてからその場を辞そうとし、然し思いついた様に途中で立ち止まった。
 「そう云えば……ヤクモ様をお見かけになりませんでしたか?」
 「…………いや、見てないが?またその辺りをふらふらしているんじゃないかね」
 「……〜未だ体調も万全では在らせられないと云うのに…。マサオミ殿、ヤクモ様をお見かけしましたら、直ちにお休みになる様にどうか進言をお願い致します」
 僅かに強張ったマサオミの表情には気付かぬ侭、ナズナはごく当たり前の様にそう締めると、今度こそ少し足早に立ち去っていく。
 その小さな背中を意識せず苦い面持ちで見送って、マサオミは壁に凭れると深く嘆息した。
 今日はあれから──封印を解くのに立ち会って貰ってからは一度も、ヤクモと顔を合わせていない。
 ウスベニとの相談の間、ヤクモは刻渡りの鏡を取りに太白神社跡へと赴いていたと云うのだから、彼が意図して席を外した訳ではない。
 決して互いに避けていたと云う事は、ない。
 寧ろヤクモにはマサオミを避ける様な理由などはないのだから、その様な意図があるとすればマサオミの方にだ。実際マサオミは今ヤクモに真っ向から対面する気にはなれていない。
 然しわざわざ意識して避けずとも、両者は全く、自然なすれ違いすら見せていなかった。隠れて相手の様子を伺う様な無様な事にもなっていない。
 ………気付いてみれば。ナズナが自然と『会う』だろう事を想定して云った程になど、マサオミはヤクモとの距離を何ら縮められてはいないのだ。
 同じ屋根の下で過ごした数ヶ月と云う時間は、要するにそう云うことだ。
 それなりの広さのある神社の敷地内で、意識して探さなければ顔を付き合わせる事すら無い。
 或いはそれは、マサオミの惑いに対しては然るべき形として示された、答えに似ていたのかも知れない、が──
 「……」
 ひととき『帰る刻』へ気を向かせる事で忘れようとしていた、矛盾への解答が鎌首を擡げ始めるのを感じて、マサオミは数えるにも飽きた密やかな溜息を漏らした。
 答えの直ぐそこにあるあからさまな矛盾に、苛々とした感情を積もらせていく。
 望むならばひとつであると、そう、己は正直に告げている。
 だがそれは同時に、不可能である、と否定する己に気付く事でもある。
 恐らくは叶わない。故に矛盾。想像に過ぎないが、間違えてもいない。
 それを突きつけられた時、自分がどうして仕舞うのかと、噛み締める様に呟いてからマサオミは力無く嗤った。手を当てた胸の痛みに、苦い感情を薬の代わりに呑み込んで諦観と云う名の蓋をすれば、表情にだけ未練や惑いが残像の様に残される。
 廊下を何処か不安定な足取りで進み、境内の裏手に面したその地点で。根拠も理由も当て嵌めるには億劫な予感を憶えて立ち止まる。
 白い月を抱いた境内に居る、融け込んだ様な白い人影を驚きも感慨もなくそこに認めて、掠れた息を吐けば。
 驚くほど簡単に、出会っている事実ひとつに皮肉を込めてマサオミは口の端を歪めた。
 少しも縮まっていない筈の彼我の距離は、確かにいつでもいとも簡単に、この広さの中では出会わせてくれている。そんな高すぎる確率を持っていた。
 分が良すぎて賭にさえもならない。距離が遠くともこんなに簡単に姿を認められると云う。共に居た年月などそれは一切関わらぬ、ただの必然。
 「…………ヤクモ」
 開いていた硝子戸の一枚から外に向かい、寒さに掠れた声が絞り出された。
 春先とは云えよく冷えた夜の空気に恰も融ける様に佇んでいた人影が、呼ばれた名に緩やかな動きで応えを寄越す。
 月ひとつに飾られた境内の裏手で、白い単衣一枚を纏い佇んでいたヤクモは、マサオミの声に振り返ると、その姿を認めた瞬間に──気の所為だろうか、僅かに表情を綻ばせた様にも見えた。
 
 *

 存在を貶めもしたし、心を嘲りもした。
 故にそんなひとがこうして『未だ』己を振り返ってくれる事には、幾度を経ても慣れそうにない。
 それはマサオミにとっては罪悪や後ろめたさでしか無いのだろうが、ヤクモにとっては寧ろ──、そんな惑いすら抱かせぬ程に真摯で清いものだったのかも知れないと。
 そんな事を、幻想めいて思う。
 彼が余りに勁い闘神士だったから。少なからず『伝説』などと謳われた彼の闘神士が、容易くも屈する筈などないと決め込んでいた。
 然しそれは半分正解で半分は間違っていたと云える。
 あの日、憎悪に縋る事を選んだマサオミを『そう』と認めて仕舞ってから、ヤクモの反応はと云えば始終その処遇をマサオミへと委ねているばかりだった。神流闘神士ガシンの憎悪にではなく、大神マサオミと云う人間に対して、こたえてくれていた。
 無論安心しきっている訳でもなく、抵抗する気力さえも無い訳でもなく、それにすら値せぬ程に軽視されている訳でもなく。
 選んだ、と云う答えそのもの。彼の揺らがぬ意思そのものを、目の当たりにするばかりで。
 
 「……マサオミか」
 
 ああ。そうだ。
 闘神士と云う側面など無くとも、慥かにそれは、敵わぬ程に勁いひとだった。
 
 半身だけを軽くマサオミの方へと振り向かせたヤクモは、非道く穏やかで静謐な風情と、月しか背負わぬ夜の光景とを伴って、ただそこに佇んでいる。
 単純で典雅なそんな当たり前の有り様であったからか、その姿は目に入る傍からマサオミの思考の中へと埋没していって仕舞う。幻か、偽か、或いは酷くどうでもよい光景であるかの様に。
 千二百年前へ、と云う言葉を口にした時、何故か真っ先にマサオミの脳裏に思い浮かんだのはそのヤクモの姿だった。
 どうでもよい程に己の裡に既に染み渡っていた、その存在だった。
 懐かしいあの時代へ戻る、と云う事は──同時に、この時代を離れると云う事だ。たったひとつ求めた、帰る場所へと辿り着ける、と云う事だ。
 それはつまり、姉を、家族を取り戻す代わりに、この世界で得たあらゆるものを棄てて行くと云う事でもある。
 その中には無論、大神マサオミと云う名も。ヤクモに呼ばれ留まった、その名も含む。
 (……………矛盾してる)
 今一度胸中でそう呟くと、マサオミは境内に佇むヤクモへと些か物騒ともとれる視線を投げかけた。敵対していた頃の様な、剣呑な、何かを──或いは答えを──求める様な、縋る様な思いを我知らず込めて。
 そのあからさまな意図に、然し全く答える風情を見せもしないヤクモの様子に、マサオミは解りきっていた結論を改めて呑み下して。ただ睨む様に挑む様に見つめ続けた。
 
 (姉上達を取り戻して、願いはもう叶った筈だってのに──俺は、ヤクモの事も手放したくないんだ)
 
 千と、二百年の刻に跨ったそれは──相容れず叶う筈もない、矛盾。
 帰るか往くか、どちらかを選ぶしかない。どちらかを選ばない。結論。
 その未練と惑いから、一日、と猶予を引き延ばす事を望んだと云うのに、結局は何もかけるべき言葉を持っていない己に気付いて、マサオミは頬の内側を噛んだ。
 これは、飢餓を通り越したもっと空虚な──喪失感だ。
 手にしてすらいないと云うのに、手に入る事など無いかも知れないと云うのに、既に失った気になっている。
 否、解るのだ。むかし充たされていたものが失われてからずっと、ずっと。それを取り戻す迄は永遠に充たされる事など無いのだと、解っていたのだ。
 だから、充たされない筈の孔を充たしたものは、『本当は存在しない』。
 だから、失う筈のない孔を更に拡げた喪失感など無く、『とっくに失って仕舞っている』。
 何をも告げず、何もかもをも望んだ、餓えた眼差しで睨め付けるばかりのその視線の先で、ヤクモはただじっと。答えをくれようとはせずに待っている。
 言葉をか結論をか迷いをか。或いはそれすらもマサオミの思い上がりか。
 所詮相容れぬ刻の隔たりの先にいるそのひとは、やがて受け続けていた視線をごく自然に、微笑の表情へと弛めてかわした。
 「少し、歩かないか」
 その侭通り過ぎた微笑みは一瞬で、ヤクモはマサオミの方へ背を向け、先程までの様にひとりで佇んで仕舞う。寸前の言葉さえ無ければ、それはあからさまな拒絶と取れたかも知れない。
 「……、」
 然し事実は真逆。ヤクモが視線を外したのは拒絶からの事ではなく、マサオミがそれに応じると確信をして待っていると云うだけの事だ。
 誘われたか、或いは促された言葉に、然しマサオミは躊躇した。
 縁台から踏み出しかけた足には靴など当然無い。その為にヤクモの誘いに応えるのであれば玄関へと回って靴を履いて来なければならない。だが、その僅かの間でさえマサオミはヤクモから目を離したくはなかった。
 視界に捉えずにいたら、その間に今度こそ本当の拒絶の様に、失われ消えて仕舞う様な。錯覚を憶えたのだ。
 …………或いは本能で、一方的に見つめている以上の事を、消極的に忌避していたかったのかもしれない。
 恐らく、ヤクモは解っているのだから。
 マサオミの飢餓感も、己の役割も、これが別れである事も。判っているのだから。
 故に、消えて仕舞うと云うマサオミの想像は、結果としては恐らく違えてはいない。
 今直ぐにでも駆けつけようとする身体を諫める様に、沸き上がったのは恐怖心。
 「別に、逃げも隠れもしないから、早く表に回って来い」
 だからこそ、優しさすら感じるその申し出に、マサオミは素直に安堵を覚える事が出来なかった。
 寧ろ、確信して仕舞った。

 ヤクモは、マサオミへと別れを告げようとしているのだ、と。

 「──ッ!」
 息を全身で呑み込み、己の想像が違えていないだろう確信に悔しさを滲ませて、マサオミは素早く玄関へと駆け出した。靴をもどかしく踵を踏みながら履くと、境内裏手へと全力で走る。
 告げられるだろう言葉も内容もどうだって良い。今ならば未だ止める事が出来るかも、知れない。
 夜を切り取った様な白いシルエットは、果たしてその侭の有り様を保ち待っていてくれたが、息を切らせて近づくマサオミには諸手を挙げてその様子を喜ぶ事など到底出来そうにない。白い息を吐き出して待っているヤクモのその口を急ぎ塞いだ所で、事象そのものが停止して仕舞う訳ではないのだから。
 マサオミのそんな恐慌めいた様子を果たしてどう思ったのか。それとも解っていたのか。ヤクモはマサオミがあと一歩傍へと近づくのを待とうとはせずに、ふらりと歩き出した。
 歩かないか、と云った言葉通り。目的があるのかないのか、広い境内を無造作に横切って進んで行くヤクモのその背中を、マサオミは迂闊な言葉もかける事が出来ずただ追い掛けるしかない。
 振り返りもせず、ふわふわと羽毛の様に漂い歩くヤクモの姿は、白い単衣ごと夜を切り取ってただ無言で進んでいく。見る状況が状況であったのならば、幽霊の類と思えたかも知れない。
 だが生憎目の前の姿は現実でしかなく、その証拠に足下では草履がざくざくと無粋な足音を引き連れている。幽霊に足がない、と定義したのは誰であるかなど知れないが、確かに足音と云うのは少なからず現実の存在である事を感じさせてくれる要素だと云うのは間違い無い様だった。もしも環境音以外の音が夜に響いてなければ、マサオミは疾うにヤクモの身を捉えて仕舞っていただろう。口すら開かぬ彼を現実ではないと、確認したくなっていただろう。
 或いはそれを許さない為に、マサオミがついて来易い様に、ヤクモは態と無造作な足運びをしているのかも知れなかった。
 「夜桜の季節には早すぎだな」
 己の厭な想像に俯き加減になっていたマサオミは、ふと放たれたその言葉で、ヤクモが既に立ち止まっていた事を知る。
 何歩か遅れて同じ様に立ち止まった、彼我の狭間にあるのは距離ではなく無辜な夜のみ。
 正体のわからない不安をいつでも内包した、先行きの定かではない闇。
 横たわるそれは、距離では決して縮まらず埋まりはしない空隙を代弁するが如く。
 その代わりの様に空は開けて、忌々しい満月が全てを晒し出す様な白光をご丁寧にも投げかけてくれていた。
 突き抜けてただ見つめるマサオミの視線の先で、ヤクモは月を枝に引っかけた桜の巨木を無造作に見上げて佇んでいる。
 まだ固い蕾を枝先に抱くばかりの木と、それを見上げる苦笑の混じった云い種から、別にここがヤクモの目的地であった訳ではないと、マサオミは知る。
 ただ、何処でも良かったのだろう。言葉さえ何にも遮られず届く事が適えば。
 歩こう、と云ったヤクモのくれた『間』は、マサオミにとっての猶予であったのだろうから。
 言葉を聞き入れる為の。覚悟の。
 「マサオミ」
 まるでいつもの様に口を開いた、その声は酷く静かで穏やかで、マサオミはこれこそが齟齬であるのだとはっきりと気付かされた。
 刻よりも雄弁なそれは、溝。
 「……良かったな」
 ヤクモは、今度こそはっきりとマサオミの方を向いて、微笑んでいた。
 無理や偽の一切感じられないそれは、心の底からマサオミの幸福を喜んでくれている。
 家族を取り戻せて良かった、と──そう、祝福してくれている。
 だから、これは矛盾ではなく齟齬。
 相容れていない。噛み合っていない。願っているのは、迷っているのは、失おうとしているのは、届かぬ諦めに至らないのは、未練を噛み締め苦悩しているのは、マサオミだけなのだ。

 ………………溝の別名は、隔絶と云う。
 
 理性だとか、良心だとか、そんな名前をした冷静なものは、いつだって悲鳴を上げていた。 
 周囲にあるものを利用して、裏切ってまで願った。
 どうやっても欲した。再び充たされる為に取り戻した。千と二百年の刻に喪ったものたち。
 それが手元に戻って来てくれた途端、それ以外のものまでを求めるのは、充足感に憶えた我侭でしかない。
 ………何故ならそれは『失ってすらいない』、だから『取り戻す事も出来ない』、故に『絶対に叶わない』我侭。
 帰るも往くも、どちらも選べない。どちらも選びたい。矛盾。
 呼んでくれた。呼べば振り返ってくれる。間違い様のない此の充足は、決して充たされなかった姉達の代替品ではない、それもひとつの望みと、いつの間にかすり替わって仕舞っていた。
 戻りたい。棄てたくない。失いたくない。忘れられたくない。忘れさせたくない。ここに置いていきたくない。置いていかれたくない。
 マサオミの抱えるその悔しさを、我侭を、未練を、恐らくヤクモは承知の上で云った。
 『千二百年前へ戻り、家族との、喪った時間を取り戻せ』 ──と。

 間違っても俺(こっち)を選ぶな、と。そう──はっきりと、拒絶したのだ。
 

 「俺は、アンタを失いたくない……!」
 
 反射的にマサオミがあげた声は、思いの外に縋る感情を伴って仕舞っていた。
 だからなのか、ヤクモの浮かべていた微笑みが寸時遠く、苦いものになるのをはっきりと見る。
 気付けば先程追い掛けていた時よりも近い距離は、然しその間に無言の夜と、確実に示された拒絶と隔絶とを挟み込んで、益々遠い。
 なまじ視界には近いからこそ、ヤクモの表情の変化のひとつひとつが、別れを惜しむ類ではなく、どうマサオミに言い聞かせるべきかと云う思い遣りから来るものであると、理解出来て仕舞う。
 「失われたりはしない」
 静かな返答は、今のマサオミにとっては揚げ足の様にしか取れない。無論意味は正しく解してはいるが、納得や諦めには到底至る事が出来ない。胸中に沸き起こる苦く熱いものを奥歯で噛み砕くと、マサオミは軋る様に吐き出す。
 「俺が戻って、アンタが此処に居る以上──、それは、手放すって事だ。アンタを失くして仕舞うって事なんだ」
 手に入れていない、手に届きそうだったもの迄をも欲しがる、酷い我侭。子供の駄々であるとは重々理解してはいたが、実際言葉に出して仕舞えば慥かにそれは、マサオミがそうまでして願わずにはいられない、それ程までに欲している答えなのだと。己でも厭になる程にそう知れた。
 家族を取り戻した。
 全てが元に戻った。
 だが、そこにヤクモは居ない。
 全てが元に戻ったら、失って仕舞う。
 嘗ては無かったものを。今手に入れられそうだったものを。
 『何事も無かったかの様に』。
 (──俺は、此奴を失いたくない……!)
 家族を取り戻したその手で、一緒に掴んで離したくない。
 矛盾はいらない。矛盾しているからいらない。齟齬などしらない。願いだけが欲しい。
 刻の隔たりなど、無ければいい。

 「俺と、一緒に、来てくれないか」
 恐らくは非道く情けない、縋る様な希う様な表情で、マサオミはヤクモの琥珀の瞳を見つめて、とうとうそう願いを告げた。
 振り絞る様なその声に、然しヤクモは一瞬も溺れてくれる事はなく。ただ静かにかぶりを振って返してくる。
 この時代に残らないか、などと。決して願いを返してくれはしなかった。
 「駄目だ、マサオミ。お前が、お前の家族が願う時代を棄てる事が出来ないのと同じ様に、俺は俺が生まれて生きて来たこの時代を棄てる事など出来ないし、しない」
 だから相容れない。
 苦く言葉に乗せられずとも、それはマサオミにも理解出来ている事だ。承知の上での願いだ。
 仮令ヤクモがマサオミと同じ思いを抱いていてくれたとしても。
 どちらを選んでも、時の流れは何処かに歪みを生じる。未来の人間が過去に、過去の人間が未来に。それは本来有り得てはならない業だ。
 ヤクモが生きるこの時代では、マサオミと云う存在は疾うに無い。歴史にも遺らない、古い古い時代のひとりの人間としてただ潰えている。
 マサオミが生きる時代では、ヤクモと云う存在は生まれていない。未来は知る事は出来ず、変える事も赦されない、何処にも有り得ないひとりの人間としてただ適わない。
 千と二百年の刻は、絶対だ。数えた年月がそれより余程少なくとも、理違えない経過は、過ぎた歴史は、そのものが隔だ。
 解りきっている。いるが、だからこそ縋り付かずにはいられなかった。
 マサオミは悲哀とも憤怒ともつかない感情を歪めた表情の下に隠すと、それが嗚咽、或いは瞋恚になって仕舞う前に、神妙な面持ちで瞑目しているヤクモの身を引き寄せた。無視する事の叶わない深い感情ごと強く抱き締める。
 失ってすらいない筈の喪失感が、胸の奥深くで熄む事のない激痛を訴える。飢餓感にも似たそれは酷く独善的で、猶甘い。
 「………なら、攫って行く」
 泣き出す一歩手前の様な表情でまるで子供の癇癪の様な言葉を囁くマサオミの背に、やがてヤクモのてのひらが触れた。慰撫する様に軽くなぞる手のその動きに、マサオミの腕の力が益々強くなる。
 包み込む、と云うよりは覆い潰そうとでも云う様な力で抱きすくめられても、然しヤクモから漏れたのは苦悶ではなく、だめだ、と云う再びの小さな呟きだった。
 言葉の割に、示されたのは抵抗の意思と云うよりも、もっと明確な拒絶。変わらない、マサオミをどう諦めさせるかを考える様な応え。
 刻の隔絶を解していたからこそ、人の拒絶を恐らくは応えた。 
 「マサオミ。それは思い違えだ。家族を求め願ったお前を赦した俺を、非道く都合の良い形で保持したいだけに過ぎない」
 神流闘神士ガシンの裡にあったのは、叶わぬもどかしさと憎悪。成就には、復讐には、恨むべき相手が必要だった。遣り場の疾うに喪われたその攻撃衝動を赦してくれるものへと、八つ当たりと理解しながら縋ったそれは。
 
 「……だから、お前のそれは、情愛と云うよりも『甘え』だ」
 
 最初の邂逅の時からずっと、あの明け透けな心が──憎悪や嫌悪の一切を持たないあの甘い心が欲しかった。
 興を惹かれたのは確信があったから。
 だから、好きだ、と云う理解など不要で只欲した。赦された事を都合良く解釈した。
 恨まれなどしないと知っていたから、自分ばかりは憎悪を押しつけ貶める事で甘えた。
 餓えた杯に注がれた水の様にそれを干した。
 失うなどと。諦めさせられるなどと、解っていても思ってはみなかった。最後まで『甘え』をも赦してくれると、心のどこかでマサオミは未だ期待していたのかも知れない。
 然し実際、腕の中に大人しく収められた人は、果たして如何な表情で拒絶を示しているのだろうか?
 赦しを囁いた時と同じ声音で。まるで何でもないことのように云うのだろうか。
 「間違えるな。マサオミ」
 「……………違う、俺は、ほんとうにアンタの事が」
 初めは嘲り甘える心算だったかも知れない。だが、そればかりであったのならば、今でも猶欲する理由に説明がつけられない。
 姉を、遠い時間を、取り戻したその後に。それでも失いたくなかったのだから。
 「……、アンタの事が、好きなんだ」
 漸く掬い取れた様な弱い声音に、マサオミの背を幾度も撫でてくれていたヤクモの手の動きが、ぴたりと停止する。
 それは要求ではなく、縋る言い訳でもなく、ただの願いであるのだと気付いてくれたからなのか。
 あらゆる夾雑物の一切を排した、当たり前の夜しかない空間で、初めて生まれた己の願いに、マサオミは漸く惑いの解答を得ていた。
 欲しかった筈の、然し手に入らなかったものを、然し今はただ失いたくないと希う。
 それが、──隔てられた奈辺に距離もなく偽もなくただ感情として介在する事が許された、好意と云う心で無ければ一体他になんだと云うのか?
 優しい罵声も甘やかな嘲りも偽の言い訳も、必要ない。
 好きだから、失いたくはないのだと、分かたれたくはないのだと、ただそれだけの。
 手放したくなかったのは、やっと手に入れる事が叶ったその激情。
 これだけは赦されたくない。これだけが、多分本当に必要なものだった。
 それは何と滑稽で、何と拍子抜けな、答えだったのか。

 「俺は……、アンタの居る所にも、帰りたい」

 剰りにも子供じみた願いの必要性に、喉を突き上げる様な衝動の侭にマサオミは吼えた。
 嗚咽とも嗤いともつかないマサオミの呻き声に、ぽんぽん、と背中が再び優しく撫でさすられる。姉の温かな腕と同じ様に優しい仕草から、ヤクモもきっと彼女と同じ様な表情をしているに違いないと、今度こそマサオミは確信した。
 「お前がそれを好意と云うのなら、それをも偽と断じる権利は俺にはない。……──だが、」
 一旦切られた言葉と共に、背を撫でていたヤクモの腕が離れると、代わりに両肩を強く押されてマサオミは身を引き剥がされた。惜しむ間も無く、包み込んでいた筈の体温が一歩、遠ざかる。
 「駄目だ、マサオミ」
 目を伏せてかぶりを振ってヤクモが云った言葉は、その隙間を埋める事はない、変わりようもない否定。
 仕草ばかりではない。ヤクモの紡いだそれは姉の云ってくれた思い遣りと全く同質。
 マサオミのその願いが叶うものではないと、知っているからこそ向けてくれる、慰藉。
 
 ああ、此奴は赦す気なんだ。
 この好意を赦して、駄目だと諭す心算なんだ。
 それに因って傷つく俺を、慰めてくれようとしているんだ。

 「お前は、お前の願いを叶えた。取り戻した。もう、家族の居る場所に帰る事が出来る」
 「──ッでも其処にアンタは居ない!」
 ヤクモの口調が殊更に淡々と聞こえたから、真逆にも反射的にマサオミは声を荒らげていた。赦されるなど冗談ではなくて、遠ざけられた距離を、突き放された体温を、再び取り戻そうとするかの様に腕を伸ばしかけ、
 「当たり前だろう。お前はお前の本来在るべき人と時間の許に帰」
 それ以上の言葉を遮る為に、ヤクモの喉笛をその侭鷲掴んだ。
 一瞬詰まった呼吸の音を残して、マサオミが望んだ通りに、目を瞠らせたヤクモの口から言葉が続けられる事は無かった。
 声帯を潰せる程に力を込めている訳ではないから、実際マサオミのこの行動自体はヤクモの言葉を止める役は果たせていないと云うのに、冷え切った手のひらに触れた喉は僅かたりとも震えようとしてはいない。それでも確かにそれ以上の言は紡がれない。
 聡く気付いたから、抗議もせずに戦きもせずに、ただ口を噤んでいてくれている。
 ……あの時も、今も。何故彼はこんなにも無用な優しさを見せるのだろうか。
 この我侭と理不尽でしかない相対を、何故今になっても赦してくれているのだろうか。
 或いは、ヤクモのその態度にマサオミが甘えれば甘えて仕舞うだけ、拒絶に足りる理由にでもする心算なのか。

 (ならばいっそ、)

 嘗て、僅かに胸に宿った黒い焔の様に。噎せ返る程に酷い衝動が沸き起こりマサオミの肺腑の奥を焦がす。
 その衝動の侭に、マサオミは乱暴な動作でヤクモの背中を木に押しつけた。首を掴む手だけに力を残して、腕一本分を保った距離でその姿を真っ向から見つめる。

 (此奴の命を断って仕舞えばどうなるだろうか…?)

 憎悪とは違うその狂気めいた囁きは、違えようもなくどうしようもない、最後の甘え。
 嘲りを甘んじた。冒涜を受け入れた。裏切りを赦した。殺意と云う暴力は?
 赦されるか。赦されずとも構わないか。
 何しろそこで終わる。忘れられる不安も、残して行く不満も、刻を違え別れる不快も無くなる。
 残されるのは恐らく酷い後悔と、今度は千年どころではない、永遠を尽くした所で取り戻す事が叶わない真の喪失。

 「……………………それが、お前の望みか?」

 抑えられた声音が、ヤクモの喉を震わせながら静かに漏れる。喉笛を鷲掴むマサオミの手に因って少しだけ上向いた口蓋の奥深くから。
 薄暗い思考を全て見透かしているかの様な、静かに過ぎるその声にぞくりと背筋を震わせ、マサオミは眼前のヤクモの琥珀色の瞳に映る己を見据えた。
 それは今し方殺意の肯定さえもしかけた、狂気に駆られた人の貌と云うよりは、泣き出す寸前の子供の様な姿に映った。
 縋るものを失ったと知って、どうしたらよいか解らないと泣き叫ぶ、子供の癇癪の様な。
 「それでお前が満たされ、今度こそ全てが叶い、救われると云うのであれば」
 そしてそれすらも見透かしたかの様に、ヤクモは穏やかに微笑みを浮かべて寄越す。
 「好きにすれば良い」
 「──!!」
 挑戦的ともとれる微笑みに、マサオミの指に思わず力が込められる。然しヤクモは寧ろ陶然とした吐息を漏らして笑った。
 「無論ただで死んでやる訳には行かないから、俺は抵抗する。生憎神操機も符の一枚も手元には無く、それどころか完全に生殺与奪はお前次第と云う状態だが、仮令無駄だとしても生きる為に足掻かせて貰おう」
 首は人体にとって晒された急所のひとつだ。心得てさえいれば瞬間的に生命活動を断つ、ないし活動不能に追い込むのは容易い。ヤクモが言葉通りに抵抗した所で、マサオミにその気があれば命を奪うは容易。失敗した所で重傷は免れない可能性は高い。
 幾らヤクモの腕が立つとは云え、端から死に手をかけられた状態では、どう転んでもマサオミに有利があるのだ。躊躇うか、或いは止めない限りは。
 試されているのか、それとも確信があるのか。ヤクモの表情は本気だった。マサオミが手に力さえ込めれば──そこから殺意を感じ取ったならば即座に抵抗を、生きる為の獣の足掻きを見せるだろう。この腕を捻り折ってでも逃れようとするだろう。
 その証拠に。偽ではなく、本当に。死ぬ気などまるで無い、決意の。
 何て綺麗な、何て非道い、哀れなものを見る様な眼。
 「……ヤクモ、」
 生きる気概しか無い癖に、何故黙って獣に身など委ねているのだと、憤然と出掛かった言葉をマサオミは辛うじて呑み込んだ。今彼に殺意をひとときでも向けて仕舞った、自分の云えた台詞では到底無い。
 代わりに、かける言葉など見つかってもいないのに名を紡いだ己の声が、情けなく掠れて吐き出された事を意識した瞬間。憑き物が落ちたかの様にマサオミの背筋から一気に熱が引いた。
 引きつった様な形を保った侭の手指が、ヤクモの首から離れる。躊躇いすら持てなかった己の束の間の衝動にマサオミは戦いて震えると、頽れる様にヤクモへと凭れ掛かった。瞬きすら出来ない程に乾ききった眼球がずきずきと、涙の代わりに痛みばかりを吐き出して止まらない。
 「たのむ、嘘でも言うな。俺を挑発するな…!」
 覚悟を赦しと取ったら、止まれない限りほんとうに。最も安易で最も非道い最後の裏切りで、手に入れてみようなどと。勘違い、しかねない。
 存在ごと。刻む様にか、忘れる様にか。ただもう二度と失われる事だけはないと、そんな歪んだ喜びに安堵を憶えかねない。
 「好きなんだ、失いたくないんだ、だからアンタの意志なんてどうでも良いんだと、俺に思い違えさせるな!」
 そう支離滅裂に、己の所為でしかない下らない言い分を叫んでから、マサオミはそこで漸く気付く。
 己が救われた奇蹟とは慥かに、礼讃しても足りないほどの幸運だったのだ、と。
 救いの主に出会えた事も、思いを寄せて仕舞っていた事も、それすらをも赦された事も、相手を殺さずに済んだ事も。
 此処までの間、喪失を憶えずに済んだ事も。
 「俺は、」
 「すまない」
 絞り出す様な感情が熄むよりも早く、ヤクモが謝って寄越した。
 「すまない」
 それ以上をマサオミに紡がせる事を許さずに、先に逃れた。
 「お前を追い詰める心算は無かった。ただお前が…、それで良い筈は無いと思ったから、等しく選ばせるべきだと……思い上がった。だからこれは俺の責任だな」
 すまない、ともう一度謝ると、己に凭れ掛かって居るマサオミの肩に額を預け、ヤクモは再び宥める様にその背に腕を添えてくれる。
 ………謝らせない心算なのかも知れない。ヤクモはマサオミの所行を赦す事を前提にしているが、その理念は全く違えぬ侭に、然しその事についてマサオミが謝罪するのを咎めてきている様だった。
 赦さない心算なのかも、知れない。
 赦している癖に、それ自体に赦しを請う事は赦さないと云う事なのだろうか。それとも或いは単純に、必要ないと排しただけなのかも知れないが。
 故に先に手を封じられたマサオミは、それ以上の言い訳を募る事も、自分勝手な判断も出来ずに黙り込むしかない。だから、咎められた言葉の代わりの様に、縋る様に腕の力を強くした。ヤクモの項に鼻先を押しつけると、厚かましく涙を溢すのは止めて息を静かに吸い上げる。
 赦されたかった。復讐に足りる正当な憎悪の、大義名分を赦されたかった。
 だから。赦して、それを止めようとしてくれた人の、心に縋った。
 好意と認めて、失わせまいと抱き締めた。
 「…………取り戻した筈なのに、どうしても足りないんだ」
 「うん」
 震えたマサオミの声音に返ったのは、珍しく幼い首肯。子供をあやす様な、優しく突き放した応え。
 構わず、続ける。
 「攫いたいぐらいだ。アンタはそれをも『甘え』だと云ったが、俺はアンタの意志を無視してそうまでしてやろうかと、今も猶思う程に、」
 「うん」
 「………………アンタの事が好きで、その分がどうしても、足りない」
 「うん」
 「姉上とアンタと、どちらかなんて選べる筈がない。どちらが欠けても、きっと足りない」
 「うん」
 「姉上に、迷うならば此処に残っても良いと云われて、苦しくて堪らなかった。
 アンタに、迷う必要もなく此処を選ぶなと云われて、悔しくて堪らなかった」
 「……うん」
 「だから」
 「マサオミ、」
 咎める様に呼ばれた名を。ヤクモがそう呼んでくれたから、決定的に間違える前に戻って来る事の出来た、その声を無視して、今一度マサオミは願う。
 「俺と、一緒に、来てくれないか」
 「……………………………」
 次に返ったのは拒絶や隔絶ではなく、沈黙だった。ただ、それが躊躇の類では微塵もたり得ないのだとは、マサオミも何処かで既に気付いていた。
 故に。あとはただ願いを、思いを全部口にすることしか、出来ない。
 これが、こんな切っ掛けの沈黙と触れ合いで無ければ、これ以上ない喜びに微笑むことぐらいは出来ただろうに。今はただ、断罪の言葉を待つ罪人の様な神妙さと畏れとを抱えて、マサオミはヤクモの──恐らくは否定の──言葉を待つしかない。
 「マサオミ」
 寒さにか掠れた声音は、マサオミの思い上がりでなければ、まるで泣き出す寸前の様な響きで紡がれていた様にきこえた。
 「…………お前は、帰るべきだ」
 いやだ、と、マサオミが返そうとした声は、音にもならずにその喉を灼く。漏れそうになった嗚咽が呑み込まれず、堪える様に強く強く強く、腕にただ力を込めた。
 願いに、問いに、返る応えは、然し不在の侭。
 ヤクモが答えを寄越せないのは、拒絶にしかならないからだと。マサオミは悲しい程にあっさりと理解していた。
 最後に、だめだ、と云わずにただ、マサオミの決意だけを促してくれた。ヤクモのその、偽の無い明確な答えひとつで。知れた。
 偽が無い。それこそが何よりもマサオミに正しく伝わる『拒否』だった。
 悲しみを内包したそれは慰めだったのか。それとも或いは、ヤクモもまた、マサオミに否を告げる事を惜しみ苦しんでくれたのか。
 ヤクモの、マサオミと、そして恐らくは己自身にも向けているのだろう密やかな憐憫にも似た情の正体が何であるかは、マサオミには知れない。憧憬と愛情とを只向けるばかりのマサオミにそれは、痛ましい疵の様に映っていた。
 だから彼には偽は無く、平等な心で手を伸べてくれた。自分はひとりで佇んだ侭で。充たそうとしてくれた。
 切実な希求を知ってくれたのは、彼もまた嘗ては餓えた事があるからだと云うのに。手向けた献身はまるでなんでもない事の様にそこに在った。
 「マサオミ、苦しい」
 やがて、抱き締め続けていた腕の圧迫感に正直に抗議しながら、ヤクモはマサオミの胸を軽く押してきた。やんわりとした態度と苦笑めいたその云い種に、マサオミの腕が躊躇いがちに弛む。
 それをいきなり振り解く様な無粋はせず、ゆっくりと時間をかけて、ヤクモはマサオミの肩から額を離し、真っ向から視線を合わせると、何者の支えも必要とせず矢張りひとりで佇んだ。
 優しい、泣くには足りない表情を、緩めた目許だけで形作る。その穏やかな貌に自然とマサオミの掌が惹かれる様に触れれば、それをヤクモの手がそっと掴んで来た。
 咎める調子ではない、その証拠の様に手指がやさしく絡んで、力無く笑う。
 「   、」
 唇の動きが紡ぎかけた言葉を、遮る様に塞いだマサオミを少し寂しそうに見つめながら、それでもヤクモはそれ以上を続けず黙ってくれる。
 幼い恋人同士の様な綺麗で優しい戯れに、マサオミはいつしかヤクモのそれに質を似させた微笑みを返して。今度は壊れものを抱く様に、そっと腕を回した。
 失うと思い込んだ事を、赦されるのは多分今だけだから、存分に甘えて泣こうと思った。
 涙は、出なかった。
 
 *
 
 それから暫くの間、情も優しさもないただ密やかなだけの触れ合いをだらだらと経て、いつしか二人して木の根本に、向かい合って抱き合った侭で座り込んでいた。
 いい加減に外気温の低さに辟易として来てはいたが、寒さに震える素振りが腕を解かないで良い理由になるならば、今のマサオミにとってはそれでも良かった。
 どちらかと云えば薄い単衣一枚で居るヤクモの方が余程寒そうなのだが、痩せ我慢と云う様子もなく、黙ってそこに収まっていてくれている。
 マサオミの気が済むまで、待ってくれている。
 だからマサオミはヤクモのその気遣いに甘んじて動かない。もしも寒がらせて仕舞っているのであれば、体温を与え続けられれば良いと、ちょっと狡いなと自分で思いながらも、気付かぬ振りを続けている。
 意外な事にもヤクモは、こうして人と直接ふれあう事が嫌いではない様だった。それは少しの付き合いの程度しか接点を持たない筈のマサオミにも容易に知れる程に、浅く自然な彼の質のひとつだ。
 とは云えその理由までは流石に未だ知る事は適っていない。子供の様な邪気の無さ故なのか、まるきり忌憚などないだけなのか、契約者に誠実な彼の白虎の影響なのか。
 何れかではあるかもしれないし、全く関係ない事かも知れない。ただ触れている現状を赦されているだけのマサオミには、未だ知る事は出来ない。
 これからもずっと知る事は多分、無いが、それすらも比較的にどうでも良い事だ。
 手を取ろうが抱き締めようが口接けを交わそうが、夜が明ける前にはこの最後の戯れも終わる。迂遠はない。無駄にも出来ない。到底優しいとは云えない有限の時間を、そんな些少な疑問の解消になど使う気にはなれない。
 (他の事を訊くのも……莫迦莫迦しい)
 どうせなら最後の一瞬まで、目の前に居る自分だけを見ていてくれれば良いのだ。わざわざヤクモの裡にしか存在しない、奈辺の話などをさせても仕様がないし癪に障る。
 そう投げ遣りに思考しながら、マサオミは己の腕の内側にもぐもぐと縮こまるヤクモのつむじに顎を乗せた。
 「寒い?」
 「寒いと感じる程度には」
 素っ気のない応えと同時に小さい嚔が漏れて、ヤクモの気配が苦笑のそれに変わる。
 確かに痩せ我慢ではない。そんなヤクモに促す様子は特にないが、この侭だらだらと刻限までを引き延ばした所で、風邪をひく可能性以上のものは得られそうにないなと、マサオミは解りきっていた今更の諦観にそっと目を伏せた。
 どうしたところで結局、迂遠はない。無駄にも出来ない。優しくはない時間とは云え、惜しむだけの有限しか持たない。
 「寒い?」
 「気は済んだのか?」
 謳う様に繰り返した同じ問いは、苦笑の伝播した響きを伴って、何処か空惚けた調子になった。だからなのか、マサオミのその言葉にヤクモが返して来たのは、全く繋がらない言葉だった。
 容赦ないなあ、と思って、マサオミは石鹸の匂いのする髪に鼻先を触れさせた。
 未だ甘えは足りない。未練は尽きない。だが、時間は終わる。終了の宣言などなくとも、いつかは。
 「……結局、俺フられたって事?」
 ぽろりと溢してみれば、悔しさよりも途方もない脱力感が一気にのし掛かる錯覚を憶えて、マサオミは溜息を呑んだ。言葉にすれば何と簡単な構図で結末だったのかと、情けない様な惜しい様な妙な気持ちになる。
 「そうなのか?」
 だが顎の下から返る応えは、惚けているのか素でいるのか、実に判断が難しいものだった。故にマサオミは憤慨とも消沈ともつかなくなり、結局微笑む事にした。
 「だってな?嫁に来てくれって云ったら一人で帰れって云われた訳で」
 「誰が嫁だ」
 「解り易い要約。……兎も角フッた張本人に自覚が無いって云うのは、ちょっとばかり酷い話だと思うんだが?」
 だからこんな風に笑う事しか出来ない、と胸中でだけ繋げたマサオミの顎の下で、ヤクモの頭がもぞりと動いた。
 「お前がやっと取り戻せた家族なんだから、それを大事にしろと云っただけだ。お前が嫌いだから帰れと云った訳では無いぞ」
 マサオミの膝の上で犬猫の様に丸まっていたヤクモの身体が、そう云いながら身を起こして来る。
 「だからフッたフられたと云う話ではない…と思う。人聞きが悪い」
 最後に、顎の下から離れた顔が不満そうな表情でそうきっぱりと言い切って、思わず唖然としたマサオミの隙をつく様に少し、離れた。
 ヤクモの、マサオミには拍子抜けとしか云い様の無い態度に、久しく忘れかけていた剣呑な感情が沸き立つのすら感じる。とは云えきっぱりと拒絶されていたのは慥かだったから、却って気持ちは落ち着いていたが。
 強さとも甘さとも弱さとも違う。これは何て、憎たらしい程に大胆不敵な精神なのか。
 「……本当容赦ないなぁアンタって…。云っておくが、俺は諦めてないんだぜ?」
 「云うのは自由、なんだろう?」
 まるで何かの意趣返しの様に、さも可笑しそうに微笑んでそう云うと、ヤクモは無言でマサオミが立ち上がるのを促して来た。無視する事も出来たが、マサオミにはもうそんな心算も無くなって仕舞っている。つまり結局最後まで、ヤクモは自分から明確な終わりを告げようとはして来なかった事になる。
 出会った最初から今の最後まで。餓えた獣に己の肉を喰わせてやった様な心算だったのかも知れない。
 それは果たして優しさか、それとももっとずっと酷いものかと探しながら、マサオミはヤクモの手を引いて腰を起こした。先程よりも随分と傾いた月はもう、彼我の遠い距離も近い触れ合いも照らし出してはくれていない。
 月にさえも見放されたか。否、最初から無辜であったか。
 「…………まあアンタにしちゃ珍しいよな、こう云う譲歩は。どう云う風の吹き回しなんだ?」
 「さてな」
 揚げ足を取る心算で云えば、返るのは空惚けているとはっきり知れる返答。
 そうしてヤクモは、つかみ所無く笑ってみせる。
 どうせ突き放すのであれば、もう少し素知らぬ振りでもしていてくれた方が余程優しいと、マサオミには思える。
 ああ、こう云う所は本当に。偽がない。
 刻の隔絶を絶対と示しておきながら。だから駄目なのだと、決定的にマサオミの諦めきれない未練を打ちのめす。
 甘さも、慰めも、ただ偽ではなく本心で。本音で。刻の理を違える心算はないと、はっきりと告げて寄越した。
 (本当に……容赦ないな)
 いっそ。そんなどうしようもない事物にではなく、ヤクモの心そのものに拒絶された方が、余程気持ちが楽になれたと思う。
 嫌いではないのだと云う応えも、今は酷く心を重くするだけの、冷たい喜びにしかなりそうにない。
 だが、あのどうしようもない喪失感はマサオミの裡から疾うに失せて仕舞っていた。隔絶を示されはしたが、それは別段喪失と云う事象と等価ではないと、得た心の重さと同時に気付く事が適って仕舞っていた。
 手放したところで失われはしないと。最初に云われた通りに。
 断ち切り難い温もりをそっと離せば、ヤクモの手指はいとも簡単にマサオミの手から抜けていき、そこで漸く微笑みらしい微笑みが浮かぶのを自覚した。
 「帰ろうか」 
 刻が攫う前に。
 涙がこぼれる前に。
 この感傷によく似たものが、再び理不尽な思いを抱いて仕舞う前に。
 「何処へ?」
 冷たい風を身体の正面から受けて、白い袖を揺らしたヤクモが振り返って問い返してくる。
 意趣も邪気もない云い種には逆上する事すら出来ず、一瞬は皮肉だろうかと穿ちそうになったマサオミも苦笑して息を吐き出すほかない。
 そうだな、と暫し考える様に首を傾げてから、マサオミはヤクモの手を捕まえた。一瞬でまた冷えきって仕舞った指を探り出すと、未練たらしくも再び強く握りしめて。
 「………温かい所へ、だな」
 微笑み手を引いて促せば、ああ、と笑いながらの首肯が返って、マサオミは酷く安堵した。
 帰る場所が同じだった事が、これほどまでに幸福だとは思わなかった。




マサオミはがっつり泥沼にはまってる訳ですが、ヤクモは間違っても恋心とか思ったらいかんと決め込んでるので、餌やった野良犬とか巣立つ雛を見送る気持ちなんです『未だ』。
それ以前に最終話の「あなおそろしや〜」 と「これが刻渡りの鏡ですか」の隙間一瞬で一日経過って素敵に無理がありますよねはい。ユーマが見送りにいないとか牛丼前日から用意してたとかお前何してんの?とかその辺も気になってたので、この際だからと無理矢理辻褄してみました…。

次の日爽やかに親指立ててオマケみたいな云い種で別れられなきゃ駄目だと課した次第。

視えないけれど多分帰れる。迷い家。