されど、死ぬのはいつも他人。



 全く何処までもツイていない。
 思ったのが先か、それとも飛び退いたのが先か。咄嗟に翻した身の直ぐ傍を、流星にも似た光が幾つもの穴を穿ちながら追い掛けて来る。苦々しい悪態を口から吐き出すよりも前にヤクモは素早く闘神符をマントの隠しから引き抜いた。指に挟み置いて、走る速度は弛めぬ侭に背後の気配を窺い続ける。
 走り易いとは到底言い難い森の中。見通しも、少なからずちらりと振り返った限りでは全く良くない。射線から大凡の狙撃地点を思い浮かべてはみるが、相手は移動でもしているのか、人の視野程度ではとても探り出せそうにない。
 「ッ!」
 得体の知れない寒気に予感めいた動作で横に跳んだ瞬間、ヤクモの頬を矢が掠めて飛んで行く。鏃の太さは命中していれば人の脳髄ぐらい簡単に吹き飛ばして仕舞いそうだ。森の中と云う環境に拘わらず雨の様に降って来る矢の狙いは時間を追う毎に確実にシャープになってきている。ありありと感じられるその事実に背筋を冷やしながら、かと云って身を潜める事も足を止める事も出来ず、ヤクモは必死で回避行動を続けていくしかない。
 『ヤクモ様、この侭では危険でおじゃる!』
 『何でも良いから取り敢えず降神しちゃって下さいよ〜!』
 足下を狙って飛来して来た矢を避け転がる様にして逃げる。その軌跡をトレースする様に次々に突き立つ矢を苦々しく見つめ、ヤクモは目の前にあった巨木の根を飛び越えるとその裏側へと回り込んだ。途端身を隠したその木に矢が猛烈な勢いで突き刺さって来る。
 何とも笑えない状況なのだが、零神操機から聞こえる式神達の声にヤクモは苦笑すら浮かべて見せる。
 「相手は地流の闘神士だ。希望としては出来ればこの侭逃げて済ませたい。ここの調査もまだ終わっていない──し!」
 式神達の申し出に相変わらず否定的になるほかない語尾と同時に、ヤクモは身を隠していた巨木の陰から飛び出した。途端、矢の雨に因って針鼠の様になっていた木の中程に割れ目が生じたかと思えば一気に倒れた。振動が辺りをひととき騒がしく揺るがし、周囲の葉陰に今まで潜んでいたのだろう妖怪達が泡を食って逃げ惑う。
 狙った訳では無かったが、これが射手の目眩ましになるかも知れない、と踏んだヤクモは、先程取り出した符を投擲すべく腕を翻らせ、
 「っな」
 発動せんとした符を、目掛けて飛来した矢が貫く。その勢いにヤクモのバランスが崩れた。符のほぼ中心に風穴を穿った矢はその侭近くの木に突き立てられ、蹌踉めいたヤクモの動きは瞬間的に静止し、ほんの僅か無防備な空隙を生んだ。
 今までの狙いは鋭くはあったが、ヤクモが避けて動く事を何処か確信している様子だった。と、云うより態と回避可能な狙撃をしているのだろう。神流ではあるまいし、まさか闘神士の命を絶つ様な真似はしないとは瞬間的に判じたが、行動不能になる部位に怪我を負わされる事はそれよりも望ましくない。
 躊躇は一瞬。賭けは確信。
 「──ちぃッ!」
 久方振りの冷や汗に背筋を冷たくしながら、咄嗟にヤクモは自らの左半身を庇う様に身を捩った。ほぼ同時に、左腕と足とがあった場所を二本の矢が貫いて飛んで行く。想像通り、闘神士としての戦いを求めている相手はヤクモの利き腕である右腕側は狙って来なかった。
 勝った、と思うより早く、ヤクモは掌に隠してあったもう一枚の符をその場、零距離で発動させた。たちまち辺りを真っ白な煙幕が包み込む。
 煙に紛れて少し移動し、そこでヤクモは別の符を素早く密かに発動する。そこから生じたのはヤクモと同じ背格好とシルエットを持つ『影』。解き放たれた『影』は煙幕の中に紛れながら素早い身のこなしで森を駆け抜けて行く。
 その後を矢が再び追って行くのを確認し森に静寂が戻るのを待ってから、木々の根元にしゃがみ込んでいたヤクモは漸く大きな息をついた。どうにか射手の目は誤魔化せた様だと、すっかり上がって仕舞っていた呼吸を整えてからそっと立ち上がる。
 『〜ヤークーモー…』
 途端、何か抗議したげな空気を纏って真正面に浮かび上がって来たタンカムイの渋面に出会う。射手を退けた所で、最も強敵の存在をある意味で失念していたヤクモはタンカムイに──式神達に──向かい、苦く微笑みながら両手をぱんと合わせた。
 「解ってる、解ってるってタンカムイ。済まない、本当に」
 『ちっっっっっっとも解ってないって!相手と無用に戦いたくないって云うヤクモの言い分はわかるけど、見ていて心臓に悪すぎるよ!』
 「しーっ!バレるから静かに…!」
 ぷんすかと、今にも頭から湯気を噴きだしそうなタンカムイを仕草だけで宥めながら、ヤクモは周囲を窺う事は怠らずこそこそと木々の間を抜けて、『影』とそれを追う射手が向かったのとは逆方向に進んで行く。
 腰の零神操機からの怒り(やら何やら)の気配はタンカムイのものばかりでは無く全員の総意だなとは感じていた為、少し落ち着いた頃合いを見計らってから、ヤクモは式神達を納得させるべく独り言めいて呟いた。
 「地流の闘神士と無用に戦う訳にはいかないのもあるが、それより──あの封印は、早めに何とかしておいた方が良いと思うんだ」
 だから、逃げる事も出来ない。
 そう胸中で繋げると、ヤクモはこの緑深いフィールドに降り立った時の事を思い浮かべた。

 *

 降りた場所が良かったのか、それとも『何か』に導かれでもしていたのか。見渡す限りの森しか拡がっていないそのフィールドをヤクモが探索し始めてから程なくして、それは目の前に現れた。
 かなり広大な拡がりを持つ森林の中で、八卦盤や式神の感覚無くしてぴたりと『それ』の前に辿り着けた事は果たして単なる偶然で済ませて良い事とは思えない。
 『それ』は木々が複雑に絡み合う事で形成された、天然の拝殿の様な姿をしていた。中央に聳える苔生した巨木へと続く木々の道は、恰も人を誘うかの様な参道を想起させ、一目でそこが異質であると知れる。
 ヤクモは当初それを闘神石かと思ったのだが、近付いて見てもそれらしき力の気配は全く感じられなかった。どころか、拝殿の中央に当たる木には天流の仕掛けたものと思しき封印が施されている有り様。
 そも伏魔殿自体も封印結界の役割を為している空間だ。そこにあって更なる封印がかけられている以上、その中身はよからぬものである可能性は高い。とは云え放置しておく事が最善とも言い難いのが、神流や地流の動きも気にかかる現状故の事だ。
 因って、彼らに悪用される様な事になる前にその正体を見定めた方が良いだろうと云うのが、今まで幾度かこういった状況に遭遇して来て出された、ヤクモの結論である。
 それに上手く行けば神流の目的やその起源に迫る類のものが出て来る、かも知れない。
 「よし、壊……すのは少々物騒だから、少し蓋をずらす程度で」
 式神達──特にこの木のフィールドに於いては頼もしい筈のサネマロからは特にお伺いを立てずとも意見は無い。その時もヤクモの呟きに対し五体の誰もが反論も咎めもして来なかった。式神達はヤクモが相談さえすればそれに応じてくれるし、進言や助言の必要があると思えば自ら言い出してくれる。特に応えがないと云う事は、皆がヤクモの判断を信頼してくれていると云う事だ。
 方針を固めたヤクモは、警戒を弛めずに封印符で戒められた巨木の、苔生して重厚な洞へと近付いた。
 洞はそう深くは無い。どうあっても巨木の太さ程度の広がりしか持たない筈だと云うのに、その中に蟠る闇は天上より降る緑陰の光程度では到底払えない程に昏く、洞の入り口に巻き付いた蔦は注連縄の様に、何処か神聖ささえ感じさせる空気を纏い洞と外界とを隔てている。
 そしてその注連縄めいた蔦と、洞の口とに幾枚も貼られた封印の符。古風にも闘神符で創られた結界ではなく、和紙に朱墨で呪が刻まれているものだ。残念ながらその内容が意味する所まではヤクモの知識の及ぶ所ではない。
 検分程度で洞を覗き込むのを止め、ヤクモは、よし、と軽く深呼吸をすると符を取り出した。天流のものに因る封印を解除するには、天流の解除方法ないし無理矢理に封印を破壊するだけなので容易である。が、目的は封印を破壊する事ではなくその正体を見定める事だ。そしてその所行は、単純に封印を開く事よりも当然ながら難しい。
 集中しながら符を洞に『当て』る。外的な力の接触面が、ぱり、と封印結界上で僅かな軋みを発するが、黙ってヤクモはその侭符から手をそっと離した。中空に恰も貼り付いているかの様に止まった符に、目を閉じて意識を寄せる。
 封印とは喩えるならば一種の『結び目』の様なものだと以前イヅナに習った事がある。その教えの通り、封印術と云うものは単純に扉に南京錠を下ろす様な力業の結界術とは異なり、ドアノブそのものを紐で硬く縛る様なものだ。
 封印、と云う名の通り、その用途は内側を封じる事に重きを置いている為、外部と内部とを隔てる役割を持つ結界とはそこが大きく異なる。
 その封印を解かずに中を覗き見ると云う事は即ち、紐を弛めてそれに因って生じる余裕の分だけ扉を開き、そこから内部を窺うと云う事だ。『解かずに弛める』。この力加減はなかなかに難しい。況してヤクモは特別術の心得がある訳ではない。符を介して封印の構造を読みとり、後は慎重に事を進める。それだけの作業ではあるが、当然一朝一夕に適う事ではないのだ。
 そうして封印に集中していたヤクモは、背後から迫っていた気配に気付くのが遅れた。
 『ヤクモ様!!』
 暗闇の中に蠢くシルエットをあと少しで捉えられそうだと思った瞬間、ブリュネの鋭い声に耳朶を打たれ目を見開いたヤクモは、目の前の封印から素早く手を離すと無意識にその場を飛び退いた。ヤクモが集中している様な時に式神達が声を荒らげる理由などひとつしかない。
 身を躱してからヤクモは封印の事を気にかけたが、幸いにも初撃は大した威力を伴わない牽制だったらしい。飛来した矢は封印結界に衝突するとその侭光となって崩れて消える。
 「見ない顔。天流の闘神士だな?」
 振り返った背後から現れたのは鹿の様な式神の巨躯と、その肩に担がれている小柄で華奢な女性だった。ノートパソコンまでは携えていなかったが、何処となくデジャヴュを感じさせる光景に、ヤクモはこんな状況だと云うのに思わず苦笑を浮かべそうになる。
 見ない顔は天流と、消去法でそう判じた女性は元よりヤクモの応えなど待つ心算も無かったのか、自信過剰そうな笑みを浮かべると手にした神操機を高々と掲げて見せて来た。背後からの奇襲に、この挑戦的な態度。どこをどうとっても友好的とは言い難いその様子に、ヤクモの表情は益々苦くなっていく。
 「あたしに会ったのが運の尽き。さ、早く式神を降神(よ)ぶと良い。逃がさないけど待っていてやる」
 彼女の視線が、ヤクモが全く手を触れようとしない紅い神操機に少し苛々とした様子で注がれる。式神を降神しない限り闘神士の戦いは始めようがない。
 「──、」
 半ば反射的にヤクモの口から説得の類が飛び出しかかるが、眼前で殺気を轟々と滾らせている女には、云うだけ無駄だろうかと云う考えが過ぎって止まる。偶然彼女の機嫌が悪い時だったのか、それとも元来好戦的なのか。どちらであったとしても、彼女がヤクモの説得など聞き入れてくれそうにない人種なのは明らかだった。
 腰の零神操機からは特にタンカムイの挑戦的ですらある意識が伝わって来ているのだが、飼い犬にお預けをする心境でヤクモはそれを黙殺した。女の視線を真っ向から受け止めながら、右手をそろそろと零神操機へと近づけ、彼女がその動きに注視した隙に左手で符を振り抜くと一気に地面を蹴る。虚を突かれ咄嗟に飛び退こうとする式神と闘神士の真横を駆け抜け様、符に戒めの効能を込めて足下に叩きつける。
 「──、このッ!」
 途端足下から伸びた蔦が式神の巨躯を戒める。この木のフィールドでは相手の──楓の式神にはさしたる時間稼ぎにもならないだろうと即座に判じたヤクモはその侭足を止めず森の奥深くへと走った。
 「な、舐めた真似を…!!イヤでも式神を使うしか無い様に追い詰めて狩るんだダイカク!!」
 即座に響いたヒステリックな女の声が、森の深くまでヤクモを追って来た。

 *

 見つかりたくない時に限って見つかる。さて、これをツイていないと云わずして何と云おうか。
 ここに至る迄の経緯を思い出しながら思わずそんな事を胸中でぼやきつつ、ヤクモは今まで矢の雨に追われ逃げて来た森の中を逆に辿って歩いていた。逃げる時も冷や汗はかかされたが危機感があった訳でも無く、絶体絶命の状況下にあった訳でも無い為、走って来た方位ぐらいは大体頭に入っている。
 何処まで行っても同じ様な森林の薄暗い風景に加え、伏魔殿には方位を確実に示してくれる日の出や入りがある訳でもない。その為一度方角を見失うと厄介な事この上ないのだが、判り易く土を蹴って走った自らの足跡も良い目印になってくれている。
 楓のダイカクの射撃の腕は確かだし、あの女闘神士もそれなりに腕は良さそうだったが、神流の闘神士と違い本気でヤクモを仕留めようとして来ないと云う点では幾分だがこちらに利がある。フィールドの有利や命中精度の高い飛び道具と云う問題はあれど、状況に因っては何とか捌けないレベルではない。
 とは云えあの『影』で誤魔化すにしても限度がある。騙されたと知れれば先程よりも猛烈な勢いで追い掛けて来る事は想像に易く、ヤクモはそんな未来予想図にげんなりしながらも息や足音を殺して、然し迅速に元来た道を探りながら進んで行く。
 と、やがて前方に見覚えのある、参道めいた木の並びが見えて来て、ヤクモが目的地に無事到達した安堵に吐息をこぼしかけたその時。
 「彼奴は此処で何かやっていたんだ。絶対また此処に戻って来るに違いない」
 げ。と思わず叫びそうになった己の口を抑えて、ヤクモは近くにあった根の陰に身を潜めた。気の所為では済ませたくない様な頭痛を訴える頭をそっと覗かせ、巨木の拝殿の方を見遣る。
 声の主は改めて観察する迄もなく、先程の二人組の片方だった。彼女は式神の肩から降りて拝殿の周囲を観察しながら歩き回っており、その傍では楓の式神がじっと周囲を窺っている。
 思いの外『影』の囮がバレたのが早かったのか、それとも此処まで戻るのに時間をかけすぎて仕舞ったのか。或いは女は見た目以上に頭がキレると云うべきかそれとも単に閃きが良かったのか。ともあれ厄介な事になったのには変わりなさそうだ。
 『そんなのどっちでも良いけどさぁ……どうするの?ヤクモ』
 苦い表情で額を揉むヤクモの思考を聡くも察したタンカムイが肩を竦めて云って来るのに、呻く様に応えを返す。
 「…………正直参った。無血開城と云う訳には行かなさそうだから、相手が諦めた頃出直すのも一つかも知れないが──」
 「それにしても……」
 気になるのは封印の方だ、と続けようとしたヤクモの言葉を丁度遮るかの様なタイミングで、女が呻きながら封印の前で立ち止まった。短い茶の髪をくるくると指先で弄びながら彼女は巨木の洞を覗き込む。
 「これは一体なんだ?何かの封印の様だが──、……まさか闘神石?」
 ツイていない、と当初ヤクモが判じたその通りに、事態は加速度的に悪化していこうとしている。そんな予感が想起せずとも隣に寄り添うのを感じて、ヤクモは思い切り渋面を浮かべた。
 『こりゃもうさっくり斬った方が早いんじゃないですかねぇ?』
 木行を克す金行のリクドウが、頭を抱えて蹲るヤクモの肩に、ぽん、と手を置く様なノリで云うのに、ヤクモは力無く微笑むと深く苦い溜息をついた。何とか相手を無力化してこのフィールドから追い出すべく手段を浮かべながら零神操機に密やかに触れる。
 「大鬼門の建造は既に大詰めだ。闘神石の採取はもう厳命されてはいない……が、闘神石の力は式神を覚醒させるとか何とか、オオスミ部長が以前云っていたな……」
 女は自らの式神と、巨木の封印とを交互に見遣り──最後に視線を向けたのは封印の方にだった。好奇心で封印を破ろうと云う意思の感じられるその様子を、看過出来る程にヤクモは寛容でも愚かでもない。思わずして相手の思うつぼに嵌っている現状に小さく息だけを吐くと、観念して木の根を乗り越えた。倒木を跨いでゆっくりと歩み出る。
 「それは闘神石ではなく天流の封印だ。何が出て来るかも知れないから触れるのは止めた方が良い」
 唐突なヤクモの声に彼女は驚いて振り返り、式神は再びこちらに矢を番える。「いつの間に、」と呻いた女の瞠目は然し、一瞬後に凶暴な微笑みへと転じた。
 「飛んで火に入る。戦う決心はついたのか?臆病者」
 神操機を油断なく向けて来る彼女は、ヤクモの敵前逃走を単純に、自らに畏れてのものだと取ったらしい。傲岸不遜な微笑みを寄越して来る。
 「俺に地流(あなた方)と戦う理由は無い。だから一応訊くが、この侭帰ってくれる気は?」
 「無いね」
 即答。ヤクモは零神操機に触れていた手をゆるりと持ち上げ、溜息を殺して開いた。
 (俺はこの『敵』を倒したくは無いが、かと云ってお前達に危険が及ぶ様な事も御免だから、)
 心の中で呟いたその声に、五体から揃って返る肯う意思。静かに頷きながら、ヤクモは祈る様な気持ちで宣言を発する。
 「式神──、降神」
 恃んだのは火行、雷火のタカマル。フィールドの影響も相手の行も受けない選択だ。現出した雷火族の姿に、女が勝利を確信するかの様な笑みを浮かべるのが見えて、ヤクモは思わず苦みを帯びる表情を僅かに逸らした。その動きで丁度封印が目に留まり、ここで戦うのは封印への被害が心配だと思い直す。
 その時。或いはヤクモがそちらを見た事で再び彼女の興を引いて仕舞ったのかも知れない。彼女がふと、面白がる様な風情で封印を振り向いた。
 「天流の封印でも闘神石でも良いが、お前の興味をさっきから一心に受けているのはどうやらこっちの方らしい」
 「、!」
 女の表情と言葉から次の予想される行動が脳裏にいとも簡単に閃き、ヤクモははっと息を呑んだ。タカマルはヤクモのその意識を素早く受け止め、封印を庇うべく飛び出しかけ。
 「やめ──、」
 静止を叫ぶヤクモの言葉の、ほんの僅か早くに楓のダイカクが振り返り様矢を放った。今度は先程の様な牽制とは違う一撃。光に似た軌跡を残し飛んだ矢はタカマルの翼を掠めて巨木へと吸い込まれる様に突き刺さり、
 「────!!」
 叫ぼうとしたのは罵声かそれとも悲鳴か。耳を劈く様な高周波の音波が木々をなぎ倒す程の暴風となって放射状に轟き、その強烈な圧力にヤクモの身は一瞬重力の軛から解き放たれた。周囲にあった木諸共、吹き飛んでいる。
 「タカマル!」
 「──ヤクモ!」
 咄嗟の呼びかけに応じ素早く転換したタカマルは、後方に飛ばされたヤクモの身を受け止めながら垂直に飛び上がった。状況の把握をすべく必死で目を凝らすヤクモの眼下で、緑に充たされた森が胎動する様に震えるのが、嘘の様な光景として目に飛び込んで来る。
 恰も暴風が通った後の様に、封印された巨木のあったその場所は木々が残らず薙ぎ倒され、ぼろぼろの大地を剥き出しに辛うじて開けた空間となっていた。そしてそこを中心に波紋が──波紋としか云い様のない『波』が周囲の木々を、森を言葉通りに震わせている。まるで何かの鼓動の様に。
 あの闘神士と式神は果たしてどうなったのか。タカマルに抱き留められた侭ヤクモは眼下を必死で探し、程なくしてその姿を視界に捉える。こちらも上手く庇ったのだろう、楓のダイカクが自らの闘神士を抱えて、蠢き続ける森に身構えながら佇んでいる。
 『ヤクモ様、これは拙いでおじゃるよ!!』
 浮かび上がったサネマロの霊体が凝視する先、封印の施された巨木のあった地点──さながらこの異変の震源地とでも云うべきその地点が、『割れ』た。矢の一撃で脆くなった封印が引き千切られ、空間が破砕される音が聞こえる様な錯覚を憶え、ヤクモも額に汗を滲ませてそれをただ茫然と見つめた。
 そしてまるで何かの冗談の様に、突如その地点に巨大な質量が顕現した。その身の重量で大地を震わせたソレは、今正に封印から解き放たれた歓喜を謳うかの如く産声の代わりに、巨大な顎をがちがちと耳障りに鳴り響かせた。
 巨大な。嘘の様に巨大な、ヒトの頭蓋骨を模した妖怪だった。
 「このフィールド自体が木克土の封印を為していたと云う事か…!」
 流石にここまで巨大な妖怪はヤクモも見た事が無い。巨大な頭蓋骨は暫しの間笑い声を上げるかの様に下顎を打ち鳴らしていたが、やがてその眼窩の奥に真っ赤な光を灯らせると、静かに真下を──、封印を解いた愚かな闘神士と式神とを、威圧するかの様に見下ろした。
 「──!」
 女闘神士が何かを叫び、その手が印を切る。それに応え楓のダイカクは矢を次々に妖怪へと打ち込むが、それは妖怪に刺さりもせず力無く落ちて行って仕舞う。石礫程の効果も得られていないのは見て既に明らかだった。式神が弱い訳ではない、妖怪が余りに巨大過ぎるのだ。
 「タカマル、彼女らを──!」
 「うむ!」
 ヤクモの意図を素早く読みとったタカマルは、首肯と同時にヤクモを抱えていた手を離し妖怪に向け飛ぶ。ヤクモは自由落下しながら印を切り、同時に符を発動させ、先程まで大地に溢れんばかりだった木々をすっかり呑み込んで仕舞った荒野へと着地する。
 「必殺!神速武近松!!」
 一方、印を受けたタカマルは闘気に包まれた身を妖怪へと迷わず突き込ませ、その巨大な体(?)に槍を突き立てた。女とその式神を狙い妖怪が口蓋から吐き出したガスの様なものは、タカマルの槍に因って与えられた、激痛にのたうった動きで中空に霧散する。
 先程までの気勢は何処へやら、すっかり血の気を失った顔でその光景を見上げ茫然としている女へと、ヤクモは声を張り上げながら駆け寄った。
 「早く逃げろッ!」
 「あ、あれは、何だ!?」
 「先程の封印でこのフィールドに囚われていた妖怪だ!並の闘神士でどうにかなる相手じゃない、早くここから逃げろ!」
 歯の根の合わない女の問いに重ねる様に叫ぶと、ヤクモは再び印を切った。中空をめまぐるしく、妖怪の攻撃を躱しながら飛び回っていたタカマルがそれを受け、必殺技で牽制をする。
 封印に囚われたものはその知能程度にも因るが、その封印を解いたものを、術者と勘違いでもするのか積極的に狙う事が多いとされている。この頭蓋骨の様な妖怪もその例には漏れなかった様で、タカマルの牽制を受けながらも女闘神士と楓のダイカクとをずっとつけ狙っている。彼女は怯えているのか、逃げる事も出来ずにそこに止まっており、結果的にヤクモはそれを守る様に戦う事を強いられる事となって仕舞う。
 「早く、」
 再び叫びかけたヤクモの視線の先で、女の足下が突如割れた。それと同時に空にも次々に罅が生じ始める。大地も、空も、空間そのものが瞬く間に綻んでぼろぼろになっていくその光景にはヤクモも憶えがあった。
 「──ッまさかあの妖怪を封じていたのは、」
 暴れる妖怪の巻き起こした土埃に顔を顰めながらヤクモが振り仰げば、妖怪の上空に飛び上がったタカマルの視界が意識に飛び込んで来る。
 妖怪の、丁度額に当たる位置で鈍く輝きを放っているのは、てのひらに収まる程度の大きさの、涙滴の形をした──闘神石。
 『本当にこのフィールドそのものでアレを封印していたって事だね。闘神石が動かされた事でフィールドが一気に不安定になってるんだ』
 タンカムイの言葉に頷きながらヤクモは振り返り、逃げる気配の無い女を見遣る。彼女は妖怪ばかりではなく次々に割れ始めたフィールドの様子にすっかり混乱を来しており、辺りを見回しながらじりじりと後ずさっている。式神の叱咤を受けているがそれも殆ど意味や理解を為していない様な、その表情にあるのは紛れもない、恐怖。
 妖怪を滅ぼすには既に一体化している闘神石を破壊するのが手っ取り早いとヤクモは判じるが、それは同時にこのフィールドを消滅させると云う事だ。一度定められた地点から動かされて仕舞った以上、闘神石に因ってフィールドを支えていた力は失われて仕舞っている為に、闘神石を破壊する事自体に躊躇いはない、が、問題は彼女の方だ。何とか安全な別のフィールドに逃がすなり逃げて貰うなりしてくれなければ困る。
 少なからず混乱しきった今の彼女は、ヤクモの言葉になど全く耳を貸そうとしていないし、かと云って彼女が落ち着いて安全なフィールドへの扉を開いて脱出出来るとも思えない。
 (送り届けるしか、ない──か)
 益々増えた厄介事に今度は顔すら顰めず、方針を決めるが早いかヤクモは妖怪に向かい立ち、零神操機へと意識を繋いだ。
 「横着で済まないが、頼む、サネマロ!」
 ひゅ、と、妖怪とその狙う女闘神士との間に向かって飛ぶタカマルに符を投げ、属性の転換でサネマロを降神する。それと同時に、再びガスを噴こうと口を大きく開いた妖怪を迎撃すべくヤクモは印を切り──
 「う、ああああああああ!!!」
 響き渡る、恐慌めいた悲鳴と、それを発した女が印を切るのに気付き、瞠目する。
 目の前で交代した式神を新手と勘違いしたのか、彼女の切った印を受けた楓のダイカクは素早く矢をつがえ、妖怪の技を迎撃すべく必殺技を発動させたサネマロの無防備な背を、狙った。
 「──」
 背筋を伝うつめたい恐怖に呑み込まれた悲鳴の代わりに、ヤクモは素早く大地を蹴っていた。
 取り出した符は然し、怯える女闘神士と、その縋る式神の姿を見た瞬間に、指から放たれる事はもう無く。
 サネマロの必殺技が妖怪の動きをひととき静止させ。
 息が切れたのか、長く尾を引いていた女の悲鳴が漸く途切れ。
 零神操機から式神達の悲鳴に似た声が響き渡り。
 弦から放たれた矢の射線に、飛び込んだヤクモの、その手にあった符が障壁を発動させる。
 スローモーションの様なその一瞬の後、障壁はあっさりと砕け散り、衝撃が痛みと灼熱と恐怖を伴ってヤクモの身を打った。為す術もなくヤクモは地面に転がされ、然しその勢いで何とか身を起こす。
 「ヤクモ様っ!?」
 硬直から脱したサネマロの悲鳴が他の式神達の悲鳴に混じり合い、再びぐらりと身を傾がせたヤクモをその声が何とか支え留める。咄嗟に堪え振り返ったヤクモの目には悲鳴を上げながら扉を開き逃げて行く女の姿が映り、良かった、と辛うじて思う。
 『ヤクモ様、大丈夫でありますか!?』
 聞こえてくる心配の声に軽く頷きを返すと、ヤクモは背中寄りに生まれた激痛を堪えながら零神操機を構えた。
 「っサネマロ、闘神石を!」
 「心得ておじゃる!」
 軽い身のこなしでサネマロが頭蓋骨の額にまで登って行くのを見て、ヤクモは急速に引きつつある血の気に眩暈を憶えながら、何とか印を完成させる。
 すかさず発動した必殺技は闘神石に命中し、闘神石は粉々に砕け散った。既に闘神石が己の一部となっていた妖怪は苦悶の悲鳴を上げながらその巨躯から陰の気を噴き出し瞬く間に縮んで行き、同時に闘神石の支えを完全に失ったフィールドが一気に崩落を開始する。
 「サネマロ、戻れ!」
 絶叫に似た声と同時に符で素早く隣のフィールドへの退路を開く。零神操機へとサネマロが帰還するのを確認してから、貫通創から溢れた血に足を取られたヤクモはその障子の中へと転がる様に飛び込んだ。
 障子が閉ざされる寸前、フィールドがあげる最後の悲鳴が轟音となってヤクモの耳朶を打った。

 *

 どさ、と僅かの高さを自由落下し、ヤクモは転がった勢いの侭で地面に叩きつけられた。それでも咄嗟に身を翻して、傷を下に落ちない様にしたのは経験や技量の賜物か。
 『ヤクモ、しっかりしてよ!』
 『此処は一旦退くべきだ、ヤクモ』
 矢、と云うよりは技に貫かれた傷口から生まれる新鮮な激痛に意識を飛ばしかけたヤクモは、次々に飛び込んで来た式神達の声に何とか気絶や現実逃避をしないで済んだ。座り込んだ状態で順調に流血を続けている傷口を押さえる。
 『外』へ出る為の符の構成を編もうとするが、激しい眩暈を前に掴んだ符は指の間をすり抜けて落ちて、望んだ効果を発動させる事なく消えて仕舞う。
 急速な失血感に体温が更に冷えるのを何処か余所の事の様に感じながら、ヤクモは手をついた地面に落ちていた椿の花を強く握り締めた。簡単に手の中に潰れる花弁は、痛みを紛らわす足しにもならない。
 『ヤクモ様!』
 「大丈夫、だ…、応急手当をすれば、なんとか、」
 掌に貼り付いた真っ赤な花弁を振り捨てると、ヤクモは符を患部に触れさせ、今度は何とかそれを発動させる。若干手応えが弱いのは失血で意識が朦朧としかかっている所為であると判じ、ちっとも遠ざからない痛みに頬の裏を噛むと力を込めて前を見る。
 視界に収まるのは、椿の所々に茂る潤沢な草原。足下に滴った赤い滴が、花弁めいて下生えの青草を彩っていく。
 (…………止まって、ない)
 乾いた唇を動かし呟くと、ヤクモは奇妙に熱い傷口に触れた。その濡れた感触で、止血の為にと発動させた筈の符が然し全くその効果を為していない事に気付き、同時にぐらりと、先程よりも強い眩暈を憶えた。ショック症状を起こしつつあると気付けども、意識全てを塗り潰す様な暗転に対して為す術など持たない。傍にあった木に寄りかかる様に、その場にずるずると座り込んで仕舞う。
 『ヤクモ!』
 『ヤクモ様!』
 『しっかりするでおじゃるよ!』
 耳朶と云うよりは脳内を直接打つ様な式神達の声が、徐々に遠ざかっていく。ああ、意識を失おうとしているな、と他人事の様にそう思いながら、ヤクモの目蓋がこれ以上開いている事を抗議するかの様に痙攣する。
 (……拙い。が、少しぐらい、休みたい、けど──)
 伏魔殿の中は危険だ。本当の意味でのヤクモの『敵』にとっての、ここはテリトリーでもある。こんな敵の手中とも云える空間の直中で怪我を負って意識を手放すなど、ヤクモでなくとも命に関わる大事にしかならない。
 だが、何故かヤクモの意識は危機感を感じてはいなかった。まるで己の身はどうあっても安全であると錯覚──或いは確信──しているかの様に。
 そう──、何故、と云われたとしても上手く説明などは出来ないのだが。
 ヤクモは震える目蓋に活を入れて、灰色の精彩の無い色に遮られた空を茫っと見上げた。酷い失血に遠のきかけている最後の意識を総動員して、まるでその説明をしようとでもする様に喉を震わせるが、掠れた、血の匂いを纏わせた息だけが形にならず溶けて行く。
 『──!!』
 式神達の悲鳴に似た声にもう一度、大丈夫、と吐息に似た思考を漏らす。
 (多分俺は、)
 彼奴には殺されない──
  遠く判然ともしない気配を直ぐ傍に感じた気がして。散漫になった意識でそう、自分でも訳の解らない事を思いながら。ヤクモの意識は泥の様な闇へと無情にも閉ざされた。





落下紅に続く蛇足と云うか…。
ダイカク大好きです運の悪い所も。と云う訳でウツホ様に宛われる前、みたいな。勿論この場での捏造モブ契約者は無事助からず仕舞い。

"D'ailleurs,c'est toujours les autres qui meurent. "