マイノリティジレンマ



 まあ、何て云うか。
 何なんだろうコレは、と云う些細な疑問は取り敢えず考えない事にしようと思うんですがどうでしょう。
 頭の中でそんな事を呟いて。マサオミは短い瞑目の時から立ち戻った。
 薄く。別にそうしたからと云って眼前の光景が本当に薄くぼやけて消えて仕舞うと云う様な事は勿論無く、薄らと目を開いた視界に映る光景は目を閉じる前と何ら変わりはしない。
 再び目を閉じたくなる、そんな衝動を堪えつつマサオミはゆるりと目の前のそれに半眼を向ける。
 「………で、アンタ一体何してる訳?」
 のだが。眼前で繰り広げられている実に謎な光景に。呟き虚しく、そんな問いしか結局は発する事が出来そうになかった。
 「何、と云われてもな……。その侭、見ての通りだが…」
 (ああやっぱそう来るよな。アンタそう云う奴だもんなあ…)
 問いと答え。そんな会話を交わした回数はそう多いと云う訳では無かったが、どうもこの相手はこう云った「答えになっていない答え」を返す事が実に多い。或いはこちらが余りに些末な疑問をぶつけすぎているのだろうか。
 そんな時はいつもぱちくりと、琥珀の瞳を瞬かせてこちらを見て来る。その相手。
 「…………………ヤクモ様、」
 マサオミの奇異の視線と、それをさらりとかわしている(或いは意図に気付いていない)ヤクモとの間に挟まれ、青龍の式神がその巨躯を心なし縮めてそんな遠慮がちな声を発する。
 それを聞いてマサオミは己の顔が再び半眼の胡乱気な表情を作るのを自覚した。していて止められそうになかった。

 現世より鬼門と呼ばれる界門を通る事で達する事の出来る、実相空間とはその在り方も意味も法則も異なる異空間。それがここ伏魔殿だ。
 伏魔殿はその殆どの空間を、五行の理を重ね合わせ組み上げ織り成した一種の結界とも云える法則で形成している。図に示せば、五行のそれぞれの属性或いは複数の属性を顕著にした幾つものフィールドが、複雑で幾何学の陣、ないし渦を描く様にして構成されているのが解る。
 そして此処はその中層程度にある、水と木の行の濃いフィールドのひとつだ。水色の精彩の無い空の下、実に風光明媚な、木々を時折茂らせた起伏のある大地が延々と拡がる所々に、澄んだ水を流す川や泉が点在している。
 ちょっと遠い異国の高地の様な。そんな平和で長閑な見た目だ。
 マサオミの目の前にあるのはそんな泉の一つだった。フィールドを歩き疲れ、近くで感じた水気を辿って来て見ればそこには先客がおり。その先客こそがマサオミが伏魔殿のあちらこちらををわざわざ歩き回っている理由の原因たる人物で。
 「こら、逃げるのは禁止だぞブリュネ。少しの間なんだから大人しくしていてくれ」
 その人物は今目の前で正に、そんな事を言いながら。
 「然しヤクモ様…」
 どこか辟易……若しくは照れと云った様子を示しつつも、己の闘神士の云う通り大人しく水の中に何故か正座して座る青龍の式神。
 「然し、じゃなくて。全く犬猫じゃないんだからそんな厭そうな顔をしなくても良いじゃないか。ブリュネだって汚いより綺麗な方が良いだろう?」
 その青龍の前で、いつものマントと靴は泉の淵に脱ぎ捨てて、黒いシャツに、裾を膝まで捲り上げたジーンズ、と云った出で立ちで居る件の闘神士ひとり。
 「……………で、本当に何してる訳?」
 今一度問いて仕舞うが、既に何となく答えは解っている。解っていても理解し難いだけで。
 泉の中に感じた気配や聞こえた声に思わず、地流の輩かと思い神操機を構えて飛び込んだマサオミは、眼前で先程から繰り広げられているその光景に思わず半眼になって疑問符を浮かべずにはいられなかった訳だ。
 何せ。
 泉の中の闘神士(ヤクモ)は座らせた青龍にばしゃばしゃと水をかけて、手に持ったタオルで熱心にその体躯を拭いて──もとい洗ってい(る様に見え)たのだ。
 一見水遊びにしか見えない。と云うか八割以上水遊びとしか云い様がない。そんな光景を、散々追いかけて来た対象が繰り広げていた訳で。
 「だから。ブリュネが泥…いや違うかな。泥田坊が噴いて来るあの粘液みたいな汚さそうな奴を被る羽目になったんだ。で、泥田坊は倒したんだが汚れているのは気持ち悪いな、と思ったから洗っているんだが?」
 (あーやっぱりそうですよね……)
 予想と概ね違えなかったヤクモの、今度はちゃんと的を射た返答に、マサオミは口元が生温く笑うのに気付いて遠い目を空に向けた。
 伏魔殿の空に浮かぶ障子の枚数を七枚ほど数えた所で視線を下へと戻す。ヤクモは相変わらず、どこか肩を小さくしてちょこんと大人しくしている青龍の身体を水洗いしている絶賛最中の侭だった。
 「……あのさ、アンタ程の闘神士が知らない訳ないと思うんだが…、」
 「式神は神操機や闘神機に戻せば──つまり一度実体化を解けば姿がリセットされるから汚れなんて落ちている、だろう?」
 言いかけた弁を遮って、ヤクモはさらりとそんな事を言うと、タオルをよく洗って水を充分染み込ませ、困り顔の青龍の肩に無造作によじ登った。青龍が慌てて手を伸ばし、落ちない様にと支えるのに小さく礼を返すと、くるりとマサオミを振り返る。
 「確かにそれは一番簡単だが。わざわざこんな事をするのは──そうだな、要するに」
 何かを考える様な表情でそんな事を呟き、ヤクモはびしょ濡れのタオルを青龍の頭の上へと両手で持って行くと一気に絞った。水が滝の様に一際滴り泥を流し落とし、諦めた様な表情で目を閉じる青龍の頭が濡れ鼠になる。
 「俺が楽しいから、かな」
 くすくすと心底楽しそうに笑顔でそう云うと、その侭びしょ濡れの青龍の頭をタオルで拭って汚れだかなんだかを落とすべく手を動かすヤクモ。青龍は一瞬溜息に似た仕草を見せたが、結局はやはり目を閉じて大人しく闘神士のする侭にされている。
 「〜水遊びじゃないかつまり。アンタ意外とお子様なんだな…」
 散々探させられた相手がこれ、である。マサオミの言はそれなりに刺々しく発せられたのだが、ヤクモは全く意に介した様子もなく、笑いながら「そうかもな」と頷くばかりだ。
 最早諦めたのか何も云わない青龍の肩の上で楽しそうに鼻歌など歌いながら、意味もない式神の身体の洗浄などをしている闘神士の姿。
 それは闘神士として全く意味のない──況して気力体力の温存を重視させられ、いつ妖怪が襲い来るかも知れない伏魔殿でする行動では無い。
 然しあらゆる意味でこの闘神士が『規格外』なのはマサオミも既に知っている。だから「ああ、やっぱりな」と云った納得に似た呆れ、或いは目の前の青龍と同質の諦めの様なものを抱かずにはいられない。
 ちなみに『規格外(ふつうじゃない)』の意味は、気力や体力のスペックばかりではなく、当人の気質も多分に含む。
 そう考えると今更伏魔殿で『水遊び』をしている事ぐらい何でも無い、と云えば無い。が。
 そんなマサオミの諦観の表情などは意にも介さず、青龍の肩から身軽に降りると、まるで日曜の庭で愛犬や愛車を見る様な楽しげな表情でヤクモは両腕を腰に当てて、綺麗に洗われたのだろう己の式神を見つめてうんうんと満足気に頷いた。
 「本当は石鹸とかも欲しかったんだが……それは仕方ないから諦めよう。あ、そうだ。今度家に戻ったら一緒に風呂にでも」
 「や、ヤクモ様、自分は式神ですので──」
 「〜ブリュネは俺に洗われるのがそんなに厭なのか?タンカムイはよく付き合ってくれるのに」
 「め、滅相もないであります!ゆ、許されるのであれば寧ろこ、光栄でありますが、」
 まるで親兄弟に云う様に、式神相手に云うには些かおかしな事を微笑んで、然し当たり前の様に云うヤクモに、自ら墓穴を掘って行く様な青龍の式神。
 そんな平和──であり妙な光景に。マサオミは何となく居心地の悪さを憶えて頬を掻いた。
 その暖かな眼差しが。式神を道具ではなく家族の様に見つめる目が。扱う精神が。姉を取り戻す為、と云う復讐を誓い式神(キバチヨ)と共に或る己の心には当てつけめいて映る。
 その在り方はどちらが間違っていると云う訳ではなく、どちらがより正しいと云う訳でもない。
 ただ──目指していた『先』の姿、或いは失った『あの頃』の姿は、あんな風にあたたかでやさしいものではなかったか、と不覚にも感じて仕舞った事。
 目的の為にならば誰をも利用し蹴落とし、式神(キバチヨ)を失う事も恐れず立ち向かう『今の己には有り得ない』姿であったからか、その居心地の悪い感覚が、一種の嫉妬であるのだと気付いて仕舞った。
 式神にも。或いは闘神士にも。
 マサオミの知る時代の、ひとの争いの道具として扱われた多くの式神と、それを当然と疑わない闘神士達の有り様。
 ウツホの里に逃れて来て神流となった闘神士達は姉のウスベニを含めて皆、己の式神をそんな風に道具として扱う事を良しとは思っていなかった。
 そんな姉を見て育ったから、式神と日常的に心を交わし笑い合うのは当たり前なのだと、ずっと思っていた。
 それだと云うのに。
 ──取り戻したいものがあるから、と。
 結局は、その為の『力』として式神(キバチヨ)を求めたのか。
 …………………結果として、それは違えてはいまい。
 だが共に取り戻す為に、と応えてくれたキバチヨは、果たして『手段』でしかなかったか。或いは『同志』であったか。それとも『家族』だったのか。
 何れとも云えるし、何れとも云えない。明確な目的を携え式神(かれ)の前に立った己には判ずる術などない。
 だが、こんな風に目の前で、莫迦みたいに下らない事をして式神と戯れる闘神士(ヤクモ)にとっては少なからず、式神は力でも手段でも武器でも無いのだろう。
 「……なぁ、アンタにとって式神って、──」
 問いは意識もしない内に自然と放たれており、マサオミははっとなって口を押さえた。声音に、こちらを振り向いた琥珀の瞳は「うん?」と疑問符を浮かべている。
 「いや、何でも」
 拙い、と思って、辺りを見回す素振りをしてマサオミはヤクモから目を逸らした。此奴にそんな問いをかける事などそれこそ莫迦だ。余計にこの居心地の悪さや不快な罪悪感を増長させるだけに違えのない、甘くて胸焼けがする様な答えが返って来るだけだろうから。
 ヤクモは暫くそんなマサオミの姿を見ていたが、やがて何やら得心が行った様に「ああ」などと頷いて軽く手を打つと。
 「ひょっとしてお前も、曰く『水遊び』がしたかったのか?」
 「……は?」
 あっさりとそんな事を云ってのけ、マサオミの目を点にしてくれた。
 (………………本当にこの、伝説の闘神士様は、訳が解らん…)
 拍子も抜け過ぎて、思わず呆れ顔になる。そんなマサオミをじっと、誰何する、と云うよりはもっと軽い、些少な疑問符を浮かべるばかりの表情で見ているヤクモは、歴戦の闘神士と云うよりも只の子供の様だ。
 只式神と戯れている。昔のマサオミの様に。
 ──寸時重なるイメージ。この齟齬は、取り戻せた者と、未だ取り戻せない者の明確な差なのだろうか。
 心が僅かにささくれ立ってはいるが、浮かびそうになった厭な感情を振り払うとマサオミは顎をかくりと落とした侭、苦笑にもならない苦笑を浮かべて云う。
 「何でそうなるんですか」
 「何やら羨ましそうだった様に見えたからな。違うなら別に良いが──」
 マサオミのそんな疲れ切った様子に気付かない訳でもないだろうに。全く調子の変わらない言と同時にヤクモの身が半分翻った。「え」と思う間もなく、足下の水が勢い良く蹴り上げられ、マサオミの頭から降り注ぐ。
 「う、わ?!」
 反射的に光る飛沫から顔を庇おうと腕を翳して仕舞い、マサオミは蹌踉めいて──その侭水柱を上げて泉へと転がり落ちていた。
 咄嗟に顔は水面に出すが、鼻に水が入って仕舞ったらしく、ツンとした痛みを堪えながら噎せ返る。
 水の温度はさほど冷たくはない。とは云え風呂でもないので温かくもなく。水浴びには丁度良さそうな環境ではあった。が、ともあれ水であってもお湯であっても、服ごとびっしょりと濡れて気持ち良いものとは到底云えない。
 泉の底に座り込んだ侭、マサオミは水を滴らせて凶悪な目つきでヤクモを睨み上げるが、
 「ほら、これで仲間入りだし」
 などと、数歳は年齢の低い子供の様に悪戯めいて笑う姿を見て仕舞えば、その凶悪さも敵愾心ではなく気安いそれに変わって仕舞う。
 「………〜アンタなぁ……」
 呼吸を整え、まだ痛い鼻を押さえて、一応は抗議の意図を込めて見上げる。明確な怒りより、呆れの色濃いマサオミの視線を真っ向から受けても、ヤクモはまだくすくすと笑っている。
 「悪かった。そこまで見事に落ちて来るとは実際思ってなかったんだ。油断大敵だな、マサオミ」
 「へぇーほぉーはぁーふぅ〜ん……つまりワザとじゃないと」
 「結果的には申し分無かったな。面白い事になったし。上がったら符を使ってやるから余り怒るな」
 云いながらもまだ笑いを噛み殺して、マサオミが起きあがるのに手を貸そうと差し伸べて来るヤクモのてのひらを、暫し逡巡したがそっと取って。
 「、!」
 立ち上がるべく腰に力を入れるのではなく、勢い良く腕をその侭引いた。本日二度目の水柱の中に、完全に虚を突かれた表情のヤクモが沈む。
 意趣返しの成功にマサオミはしてやったりと、遠慮なく笑い飛ばしてやる。
 「はははは〜油断大敵、だよな?ヤクモ」
 上体を起こし、先程のマサオミと同じ様に咽せているヤクモの背中をばしばしと叩いてやると、不意に濡れた前髪の間から琥珀の瞳が閃いた。
 その鋭い視線にマサオミがはっとなるより早く、水から勢い良く跳ね上がった右手には、紅い神操機──
 「ブリュネっ!!」
 自らの式神を呼ぶヤクモの声に、マサオミは「げ」と呻くが回避は間に合わず。次の瞬間マサオミは立ち上がった青龍の尾にぽこんと打たれ、再び顔面から水中に。
 「ぷはッ、式神は反則だろ!アンタ存外大人気無いな?!」
 「とか云いつつ神操機構えるお前は何なんだ…」
 「やられたらやり返したくなる性分なんでね。式神降神ッ!任せたキバチヨ!」
 「オッケーマサオミ!任されたッ!」
 状況もマサオミの意思も存分に伝わっていたらしく、飛び出したキバチヨは着水と同時に目の前のブリュネとヤクモに向かって水を浴びせかける。
 「へへーん」
 ブリュネは咄嗟にヤクモを庇うが余り役にも立たず、両者は結局濡れ鼠になって。ずぶ濡れになったヤクモは、にやにやと楽しそうに笑うキバチヨと、得たりと云った表情のマサオミとを交互に見ていたがやがて。
 「──」
 す、と水音すらさせずにヤクモは無音無言で立ち上がると神操機を構えて。それはもうとろけそうに満面の笑顔を浮かべた。
 「…………ぇーとその、ヤクモさん?」
 呼ぶ名に返るは、にっこり、としか表現のしようのない表情。
 正直怖い。楽しそうで怖い。「いいことおもいついた」子供の笑みほど怖いものは無いと云う事例は、年下の子供達の面倒をよく見ていたマサオミには憶えが存分にあり過ぎた。
 思わず冷や汗と共にそんな笑顔を伺い見るが、全く揺らがないその表情の侭で、ヤクモは死刑宣告に等しい言葉を甘く囁く。
 「頼むぞタンカムイ。式神、降神」
 「「!!!」」
 そうして、咄嗟に回避行動を取ろうとしたマサオミとキバチヨの頭上から、大量の水と共に水行の式神が降って来たのであった。
 
 *

 「つ…疲れた……」
 数十分後、マサオミはぐったりと泉の淵に濡れ鼠の侭座り込んで、大きく息をついていた。
 「それに、いい加減冷えて来たかな…」
 その真向かいには、そんな事を云いながら矢張り同じ様に疲労の濃い顔色で、然しまだ何処か楽しそうな表情の侭のヤクモが座り込んでいる。
 気付けば水遊びが可成り本気の勝負になり、先程まで子供の様に暴れていた結果である。
 ちなみに式神達には両者どちらともなく呟いた、「取り敢えず引き分けで」と云う水遊び終了の譲歩宣言と共に戻って貰っている。
 歴戦の闘神士同士の戦いにしては些か間抜けな顛末だったのは否めない。
 「アンタが意外にお子様だってのは前から解っていたつもりだったが、改めて思い知ったね」
 「そのお子様に付き合った以上お前も同類だろう」
 凶悪に数秒睨み合ってそんな事を云うが、所詮は軽口。やがてそれはどちらともなく含み笑いに転じ、くつくつと二人で笑い合う。
 「正直疲れてるから、加減が巧く行くかは保証しかねるが…」
 未だ笑いの濃い口調でそう云うと、ヤクモは闘神符を無造作にマサオミの方へと投げつけた。軽い発動の音と光の後には、マサオミの服や髪から過分な湿気が一瞬で取り除かれている。
 「巧く行くかは保証しかねる」などと云った割に、相変わらず見事なコントロールである。マサオミも本調子であったとしてもこうまで巧く出来る自信は正直無い。
 わざわざ云って負けを認めるのも癪なので、感心した素振りは隠して「さんきゅー」と礼だけを述べておく。
 マサオミの方が巧く行った事を見届けてから、続けてヤクモは同じ様にして己の湿気を払い除けた。すっかり乾いて、疲労以外は元通りになった所で草の上に後ろ手をついて、ふう、と嘆息する。
 「……久々に疲れた」
 「当たり前だろ。水遊びに本気で式神五体共降神させるとか、大人気無い以前に莫迦っぽいぞ?しかもここ伏魔殿だし。アンタ戦いでも遊びでも何でも、負けず嫌いだろ」
 久し振りに目にする、甘く緩められた琥珀の双眸に釣られて笑みを返しながら、マサオミは手をつと伸ばしてヤクモの頬に触れた。乾かされているのに存外に冷えた侭のその温度を意外に思いながら手を進め、前髪を除けようとすると流石にやんわりと退けられて仕舞う。
 「戦いにはそもそも負ける訳には行かないし、遊びにも手は抜かないな」
 「それを負けず嫌いって云うんだっての」
 そうとも云うのかな、と至極真面目な表情で考え込む仕草を見せるヤクモの姿を横目に、マサオミは除けられた手を未練がましく暫し彷徨わせたが──諦めて、肺の酸素を絞り出して仰向けに倒れ込んだ。伏魔殿に慣れていない闘神士とは違って、疲労と一言で云ってもそう酷い類ではない。
 とは云えこの『水遊び』の一件だけで普通の闘神士であれば軽く昏睡に陥れる程の消耗には当たるのだが。
 どちらにしても、酔狂ではある。と己で判じて仕舞う程に。マサオミは疲れた身体で再度嘆息を繰り返した。程良い疲労感に、落ちる心算のない眠気が隣に寄り添うのを感じながら、ただ微睡みの感覚が欲しくて目蓋を降ろす。
 「でも、楽しくはなかったか?」
 数秒か数分か。それとも目を閉じた直後か。判然としない間の後、ぽつりと呟かれたそんな声に誘われ、マサオミは薄く目を開いた。
 「……、そりゃあ…」
 薄くぼやけた視界の中、いつの間にかいつものマントを羽織りすっかり身支度を整えているヤクモが、真っ直ぐに立って。仰向けに転がるマサオミの事を静かに見下ろして来ていた。
 「………いつでも意識をしていると云う事は、逆に云うといつも忘れていると云う事になる。だから思い違えだけはしたくないんだ」
 そうして、そんな。全く関係の無い様に思える言葉を、口にする。
 ひとりごとの様に呟かれた言葉は、然しはっきりとマサオミへと向けた、対話のひとつの様だった。応えは必要の無い口調ではあったが、純粋に不可解さの疑問が浮かぶ。
 「……何の話だよ?」
 思わず微睡みを振り切って、マサオミは上体を起こす。見上げるヤクモは、空気に融けそうな淡い微笑みを浮かべていた。
 「先程の問いに対する、俺なりの答え、だな。お前は答えを欲している様には見えなかったが」
 「──」
 思わずマサオミが瞠目した瞬間、視線を逸らさせる様に風が吹いた。逆らわず、風を追う様に顔を持ち上げる。
 「…………式神は闘神士(ひと)の在り方に準じてくれる。だから、俺と皆の在り方とお前とお前の式神との在り方に齟齬が生じる気がしたのであれば、それはお前自身の思い違えが判じている事に過ぎない。だから訊いたんだ」
 楽しくはなかったか?と再び同じ事を、口の動きだけで問うと──応えは必要ないと思ったのか、ヤクモはマントを翻した。
 思わず茫然と見送って仕舞うマサオミの視線を背中に受けるばかりで、その侭別れの言葉も無く立ち去ろうとする後ろ姿に向けて、自然と苦笑が浮かんだ。
 「…………アンタって莫迦だよなあ」
 「それは婉曲した誉め言葉と取っておこう。それにお前も大概同じだろう」
 マサオミの云いたい意図は正しく解したのだろう。笑いの乗った声で軽く応えると、背を向けた侭てのひらを軽く振って。今度こそ何事も無かったかの様にヤクモは歩き去って仕舞う。
 そんな背中が完全に見えなくなってから、マサオミは笑いを噛み殺して立ち上がった。服を軽く叩いてから今一度、ヤクモの去った方角を見やる。
 気が効くと云うよりも途方もないお人好しであると取った方が良いだろう、その有り様に浸る己に陶然としながら。
 「本当、お人好しにも程があるよな。余り甘やかしてくれちゃうと調子に乗っちゃいますよ?」
 寧ろ乗る気を隠さずそう呟くと、符を発動させる。
 潜り抜けた背で障子の閉まる音を聞きながら、我知らず、得難いものを惜しむ様に。苦笑していた。
 



戦隊とヤクモのラブラブっぷりって何か半端ないじゃないですか…。ヤクモを中心とした式神たちの横繋がり感がちゃんと見えるのも好き。
ブリュネはヤクモ様命なので嫌がってません。気恥ずかしいのと畏れ多いのが混じってるだけであります。

異端な悩みかも知れない。