ミルラ 果たして何故、我ながらこんなにまめまめしいのだろうか? 頭を過ぎった疑問は既にマサオミの中では慣例になっているものだ。 例えば日々、後々の計画の為に策謀を巡らせる狭間にふと思い出す『障碍』の事とか。 例えばそれは足繁く天神町へ赴き、天流宗家の動向を伺いつつも心の端でつい或る人物をの訪れを期待している事とか。 ……例えばこうして休日の早朝から伏魔殿の中を、訪ね人の痕跡を手繰って歩いている事とか。 別に特別暇な訳でも無ければ、する事が無い訳でもない。寧ろ忙しい最中の僅かの自由時間と云っても良い。 計画に万全を期す為の作業は凝らし過ぎるに越した事はないし、仮に本当に『暇』だとしたらそれこそ日頃の疲れをとるべく休息でもとった方がマシだ。 …だ、と云うのに果たして何故。陽が昇るよりも早く目覚めて、渺茫に過ぎる伏魔殿の中などを歩いていると云うのか。 幾ら『訪ね人』が居ると云え、伏魔殿と云う広大な空間内で実際、対象者に遭遇出来る確率は果てしなく低い。実績で云えば負けの方が進行形で込んでいる。並ぶ労さえ惜しまなければ確実に購入出来る限定丼物とは違うのだ。 何せ相手は生きて動いている人間。しかもそれこそ休日など無関係に連日活動し続ける勤勉な質の。 ついでに付け足すと、マサオミにこうして追われる『彼』は当然の如くにその労や理由になど思い当たりもしていない。「何故か狙って現れる」程度の認識はしてくれている様だが、行動が行動だからか労ってなどくれないし、特別に構ってくれる訳でも無い。 そこで浮かんで仕舞うのが冒頭の疑問である。 寧ろリスクや負担になる事を己に強いてまで彼を追い、挙げ句付随する収穫も成果も何もありはしないし寄越しても貰えない。 そう。疑問を繰り返して仕舞う程に、結論から云えばこんな事は無駄な労でしかないと解っているのだ。 それでも結局はこうして、幾度疑問を連ねたところでやっている事を止めはしない。酔狂だの趣味だの、云われればそれまでなのだが──少なからずこうしている間には妙な充実感がある。達成感は毎度皆無とは云え。 「……お」 探索の為に撒いた符から反応が返るのに、気付けば浮かべている充足の笑み。 程なくして現在佇むフィールドの端に残留していた闘神士の気配と移動の痕跡を発見すると、その後をトレースする様に行き先を定める。 痕跡の具合からして、此処を『何者か』が通ったのはつい先程の事だろう。急げば次のフィールドで追いつける可能性が高い。 確かな手応えに満足しつつ、符で途を開くと素早く、障子の形をとったその中へとマサオミは飛び込んだ。 ……忠実忠実しい、と云うより最早これは意地なのかも知れない。 これだけ必死で追跡しているのだから、せめて驚くなり喜ぶなり寄りかかるなりの反応がいい加減に欲しくもなるのだ。と云う中々に切実な。 * 驚いている。 目の前に在った瞠目の表情はそうとしか云い様のない引きつった様子で、マサオミは思わず面食らった。願ったり叶ったり、と云うよりも寧ろ真実味が無い気を憶えて自分の方が目を見開いて固まって仕舞う。 「………………ぇーと…、コンニチハ?」 琥珀色の瞳を見開いて、符を取り出そうとでもしたのだろう、マントの隠しに左腕を突っ込み逆の利き腕はベルトに引っかけた神操機に。臨戦態勢としか云い様のない状態で凝固した侭、表情だけが険しい驚愕から意表を突かれた驚きへと転じている彼にぎこちのない笑みでそう云ってみると、漸く思いだした様に、こちらを凝視してくる目が瞬きをした。眉が少し寄る。 「………マサオミ?」 「ハイ…」 驚愕の表情が困惑のそれになり、真っ向から見定められる様に覗き込んで来る視線にマサオミが返す首肯もぎこちなくなって仕舞う。 間近にある『驚き』としか表しようの無い表情。殆ど鼻先と云っても良い距離は50cmと離れていない。瞬きをする睫毛の本数まで数えられそうな──正に『目の前』だ。 僅かな吐息。詰めていたのだろう呼吸が吐き出され、強張っていた肩から力がすとんと落ちた。日頃は鋭さすら感じる眦が弛んで睫毛が軽く上下。 今までに無い至近距離の観察を堪能する間も無く、彼が姿勢を正すのと同時に自然と距離が少し離れた。まだ近いと云えるが、眼前と云うには遠い隙間。 「…………驚かすな。一体何処から生えて来るんだお前は……」 あ、やっぱり驚いてくれてたんだ。と思えば満足感が口の端に昇る。偶然にも欲していた反応が何らか返ったのは不可抗力とは云え、殆ど初めてと云っても良い立派な『収穫』である。 眼前の距離に驚いたのは自分もだが。それにしたって滅多にない心底の驚きの表情などを目の当たりに出来たのは成果と数えても良い。 …………概ね自己満足と云うレベルでの物事なのだが。 「まあそりゃ確かに先回り出来たら良いなあとは思って来たんだが……、生えて、は無いんじゃない?」 わざとらしく傷ついた様な顔を作って云えば、疲れた風情で背を岩壁に預けながらも反射の様に呆れた表情が返って来る。正確には呆れと云う程雄弁でも無い、マサオミに良く向けられる彼の常の表情だ。 気易い、とも、無関心、とも取れる、平生としか云い様の無い様子に転じた彼の人の気配からは先程の驚愕など既に微塵も感じられない。 そんな表情を目の当たりにして漸く、ヤクモと云う『捜していた相手に追いついた』事実が実感めいて沸き上がって来るのを感じる。 はて、俺ってひょっとしたら相手に邪険にされればされる程燃えるとか云う厄介な性癖の持ち主だったのだろうか、と思わず厭な事を考えて仕舞ったマサオミの心の中の笑顔が若干曇る。 そんな内心複雑なマサオミの前のヤクモは、何事もない風に背後の岩壁に僅か預けていた体重を、姿勢を変えて戻した。軽く吐息。 「落ち着いて己の今の状態を顧みれば、生えた、と云う表現も理解出来ると思うが………繰り返して云っておこう。落ち着いて、だからな?」 まるで何かを警戒する様に言われ、マサオミは疑問符と共に周囲を見回した。薄ら暗くひんやりとした、まるで洞窟の中の様な風景。光源は遙か頭上の空と、岩壁の所々に目立つ石英に似た発光体。 薄く白い、不思議な屈折を見せる耿りに照らされた空間は神秘的と云えば神秘的な光景なのだが、『生えて来た』形容には寧ろ合致しない。猶も疑問符を引き連れて視線を下方に向け、そこでマサオミの背筋が凍り付いた。 「ぅおわ!」 靴先に地面が無い。真下を向いた分首だけが前にあって、視線は足下どころか底の無い真っ暗な先を射ていた。佇むのは、現出した障子(足場)の他には何の支えひとつない中空。 ぞ、っと、本能的な寒気が瞬間的に背筋を這い昇る。更に眼下に何も無いと云う、今までに類を見ない光景を前にした途端にマサオミは泡を食い、咄嗟に身体を後方へ戻そうとして仕舞った。反射的なその動作で一気に均衡が崩れ、バランスを失う。 冷や汗と眩暈。前傾しかかる身体が底なしの暗闇に投げ出される寸前、ヤクモの両腕がマサオミの肩を押し返す様に伸べられた。支えられる様な形で何とか留まる。 「う、うーーーわーーーーー……!」 マサオミを支える為に崖淵に一歩を出し踏ん張ったヤクモの足下からころころと石粒が落下していくのが見えて、思わず表情が凍り付く。 「……だから落ち着けと云ったのに」 今度こそはっきりとした呆れ混じりの声音。先程よりも至近距離にあるヤクモの表情は緊張の為にか少し硬い。 思わぬ接近距離にマサオミが、役得、とか思う暇も無く、ぐ、と押し返される様にヤクモの腕が離れた。彼はその侭慎重な所作で脚を伸ばし、不安定な岩壁をそっと下方に一段降りると、その侭ちらりと上を見上げて来る。そんな所に居ないで降りて来いと云う事なのだろう。 不安定な障子の上に佇んでいるのもぞっとしないので、マサオミは素直にそれに従う事にした。ひょいと軽く足下を蹴って岩に飛び降りる。直後、背後で障子がぱたんと閉じて消える音。 振り返って改めて周囲を見回してみる。ヤクモの居た視点に立って改めて見ると、辺りには岩壁としか呼び様の無い荒涼とした風景が拡がっていた。真っ暗な縦坑の様な中で、無骨な岩と薄く光る石英とで構成された急勾配の斜面。声の反響やほぼ円形に切り取られた頭上の空(孔)の具合からして、相当に広く深い。己の佇む岩壁以外には何も無く、その足場も到底道や地面とは云えない様な具合だ。所々に大きな岩場や平らな場所もある様だが、どこをどう見ても『落ち着く』とか『歩きたい』場所では決してない。 成程確かにこんな中空(しかもヤクモにとっては眼前)にいきなり現出すれば『生えて来た』と表されるのは存外間違いでもなさそうだ。 そんなとんでもない場所に佇んで、ヤクモは暫しの間マサオミの様子を見上げて来ていたが、もう大丈夫だろうと判断したのか。やがて、つい、と視線を下方へと向けて仕舞った。足場を見定める視線は先程マサオミに場所を空けてくれた時と同じで、紛れ無く再び歩を再開しようと云う意識が感じられる。勿論、更に底に向けて。 「……ひょっとして崖下りの最中だったのか?」 「ああ。ひょっとしなくても見ての通りに」 打てば響く様に酷くあっさりと応えると、ヤクモは慎重に両腕で左右の岩を掴みながら脚を滑らせる様にしてまた一段下の岩へと片足ずつ身体を下ろしていく。その足下は50センチにも満たない幅の岩。然し彼は動じもせずぐるりと身を反転させ岩壁に身を貼り付ける様にしてそこに降り立つ。靴底に削られた砂や石の欠片が音もなく坑の底へと吸い込まれていく光景は見ているだけで背筋をぞくりと冷やす。当然落下音など返って来ない。 「相変わらず器用な事してるねアンタ…。普通こんな所歩かないって」 「道が他に無かったし、こんな事で符を使う気にもなれないしな。ついて来るつもりなら気をつけて降りて来い。巻き添えを食うのは御免だ」 マサオミの呆れたとも感心ともつかない云い種に必要最低限の返答だけを寄越すと再びそろりそろりと岩壁を下り始める、常々予想外の行動を起こす規格外闘神士様。符や式神に頼ればもっと安全に速く事を運べると云うのに、相変わらずよく解らない事をしている。 幸いにか時折どこからか吹く風は柔く、マントを翻らせ安定感を損なわせる程ではない。見下ろすマサオミの視線の先で、首当ての結び布だけがひらひらと中空に踊っていた。 (……って云うかついて行っても良いって事か?) ついて来るつもりなら、と云う辺り、既に気構えとして前提にあった様な雰囲気ではある。確かに毎度伏魔殿で遭遇と云う名の追いかけっこを繰り返し、実際顔を付き合わせる事になれば必ずその後付きまとっていた訳だが。 正直マサオミとしては、ついては行きたいが、願わくばもっと真っ当な地面の上に居て貰いたいと云うのが本音である。対話をするにしても探りを入れるにしても口説くにしても、平らかな環境に越したことはないのだ。 (だからって、ちょっと崖下り(あぶないこと)が厭だってだけで、此処まで来たのを無駄足にしちまうってのは……、却下だな) 一度ちらりと眼下の行程を見やってから、微妙な溜息ひとつを吐き出し身軽になると、マサオミはヤクモの動作を見遣りつつ、それをなぞる様に慎重に岩壁を下り始めた。自分だけは符や式神を使うと云う選択肢もあったが、何だか癪なので自力を選ぶ。 ヤクモはそんなマサオミに寸時視線を走らせたが、それだけ。然し心なし時折上を見上げ伺いながらの進行速度になってくれた様に思える。 それは、マサオミが万が一滑落した時に巻き込まれない様にと注意を払っている様にも、手や足を滑らせたら素早く助けられる様にと気遣っている様にも取れた。 暫く両者とも互いを伺いつつ、無言で急勾配の岩壁を下り続けると、やがて幾分勾配が緩やかになって来る。大きめの岩塊が比較的に広い間隔で転がるそこは、岩壁が一度崩れて積み重なった部分なのだろう。少々急な階段を下る様な調子で進めそうだった。 それにしても、そう動き易いとは云えない格好では、平らな道を往くよりも慎重にならざるを得ない。マサオミは己の少し前方を身軽に進むヤクモの姿を見てげっそりと溜息を吐いた。相手の足下は同じ様な革靴で、更には動き易いとは到底言い難いマントなどを羽織っていると云うのにあの身のこなしだ。人外だの規格外だのと理不尽な感想を浮かべたくなるのも禁じ得ない。 ヤクモは軽々と岩を降りながらも時折周囲に油断無く視線を走らせている。探索の意図で歩き回っているのだろうから当然とも云える動作なのだが、見れば見る程、こんな生活に慣れているのだと伺わせる様子である。 「……で、収穫はありそうなのか?」 岩を一つ飛び降りながら探る様に問えば、返るのは「いや」と正直な応え。 「順序が違う。その収穫を得る為に進んでいるんだ」 歩調と同じ様に涼しげな横顔を半分振り返らせながら云うヤクモの口元には、然し苦笑。応え通りに芳しくないと云う表れなのだろうか、それとも。口調にも表情にもどこか精彩が無い様に見える。 「それにしても、いきなりお前が出て来た時は正直冷や汗が出たぞ。こんな不安定な場所で襲撃でも受けたらただでは済まないしな」 大きめの、比較的地面と平行な一枚岩の上に立つと、ヤクモは足を止めた。その横にあるこれもまた大きい岩に寄りかかる様に手をついて、振り返った先のマサオミに溜息混じりで云って来る。 「あら〜…だから珍しくあんな驚いてくれちゃったんだ?」 あの過剰な警戒や瞠目の理由に得心がいってマサオミが思わず頷くと、向けられるのは少々非難の込もった一瞥。 「俺にしてみれば死活問題だ」 至極真面目にそんな事を云って寄越すが、実際もしもマサオミないし神流闘神士が襲撃の意図を以て今回の様な遭遇を為したとして、『足場が悪い』と云う理由などでヤクモが負けを見るとはとても思えない。彼にはいざとなれば闘神符や式神と云う手段もあるのだから。 と、すると、あの過剰な警戒具合にはそれだけではない理由があるのだろうか。例えば今現在本調子とは云えない、とか。そう云う類の。 その事を指摘しようかと思いつつ、マサオミはヤクモの佇む一枚岩の上へと降りた。着地時にバランスを取ろうと、手が傍にあった石英の塊を辿り、 「痛ッ!」 瞬間走った鋭い痛みに顔を顰める。思わず石英から除けた左掌にだらりと生ぬるい感触が伝わり、怪我をしたと知る。空いた右手で反射的に血管を押さえてから振り返れば、支えに辿った石英の、どうやら鋭く尖った部分に掌を乗せて仕舞ったらしい。薄ら白い耿りに、無機質な程に紅い血が跡を付けていた。 事態を把握するとマサオミは素早くポケットからハンカチを取り出して疵口を押さえる。血を拭ってみれば、結構派手に刺したらしく出血量と相俟ってじくじくと鈍く痛んだ。 完全に不注意だ。情けないやら恥ずかしいやら、呆れられる事を承知の複雑な面持ちで顔を起こしてみれば──程無い距離に佇むヤクモの、真っ白な顔色に突き当たった。 真っ白、とは周囲の光源の仕業ばかりではない。色を失った、と云った方が良いのか。ちゃんとした陽の光の下で見れば或いは真っ青と呼べるのかも知れない。 マントから引っ張り出した片手で口元を押さえ、酷く悪い顔色と表情とで、ヤクモはマサオミの左手を凝視している。 「……ヤクモ?」 思わず傷の痛みも忘れ、マサオミはヤクモの顔を覗き見た。不穏なその様子に一歩近づく、と、逆に一歩、後じさる様に退かれて仕舞う。 「………………もしもし?怪我したの俺の方なんだけど?」 顔色や表情ばかりか言葉まで失って仕舞ったかの様に、一言も発せず下がったヤクモの背中が、先程彼が手をついた大岩に触れた。その侭寄りかかる様に上体が傾く。 怪訝な表情に疑問符を乗せ、マサオミは追いつめられたかの様に佇むヤクモへと接近した。相変わらずその目線はマサオミの、傷を負った左手に固定され動かない。 ただ接近して解ったのは、ヤクモの額に浮かんだ僅かの汗と血の気を失った顔色──本当に具合が悪そうだ、と云う事だ。 これではまるで。 「……まさかアンタって血とか駄目な人だったのか……?」 「いや、」 意外性を辿りつつ問えば、これは早い、否定。そこで漸くヤクモは呪縛から解かれたかの様に目をマサオミの手から外し、口元を押さえた苦々しい表情の侭で喘ぐ様な吐息をこぼした。 「自分なら…、平気なんだ。ただ………、人の血は、……、余り、」 掠れた様な弱々しい声で時間をかけてそう紡ぐと、ヤクモの膝が折れた。ずるずると背中で岩を辿って座り込んで仕舞う。 「お、おい?!」 ぜ、と吐き出される呼気は少し荒く、目をきつく瞑った表情はお世辞にも健康そうだとは云えない。狼狽えたマサオミは己の傷はさておいて、両足と片腕とを投げ出して力無く座り込んだヤクモの前に膝をついた。 手を伸ばせば、然し遮る様に持ち上がる力の無い腕。払う様にぷらぷらと振られる。 「俺の事はいいから、先に血(それ)を止めろ……」 そうヤクモは呻く様に云うと、「気持ち悪…」ともごもご呟いて、頭を上体ごと膝の上にだらりと傾けた。これ以上ない解りやすい拒絶に、伸べかけた手を所在なく引き戻したマサオミの表情にも柔い苦笑が上る。 そんなヤクモの口調や態度を見て、具合は悪そうだがそう深刻でもなさそうだと取り敢えず安心すると、マサオミは符を一枚取り出し、紅く染まったハンカチを除けた。 符で軽く疵口を浄化し、止血の処置をするとハンカチを裏返して患部を覆い隠す様に結びつける。薄手の布は裏でも表でも既に紅くなって仕舞っていたが、一応の気遣いだ。 止痛はしていないので、粗方の処置を終えると思い出した様に疵口が痛みを訴えて来るが、利き腕ではないし、当面は不便も問題も無さそうだ。出血は派手だったが致命傷と云う訳でもない。こまめに面倒を見れば膿んだりする事もないだろう。 ジャケットの袖口にも血が染みて仕舞っているのに気付き、洗濯が大変だなあとマサオミの胸中で思わずぼやきが漏れる。 そうして一段落ついた所で、ぐったりと云う言葉が相応しく座り込んでいるヤクモの、膝に埋める様に傾いた頭に右手を再び伸ばすが、今度は払い除けられる事もなく。そっと前髪を除ければ無事に額に到着する。 触れた皮膚はつめたい汗を薄ら滲ませており体温が低い。血が下がっているからそう感じるのか。 (気持ち悪い。ってこの様子じゃ……貧血か?貧血の場合は頭を低く足を高くして寝かせた方が良いんだったか…?) ぶつぶつと考えながらマサオミがヤクモの背に手を差し入れようとした時、その身が軽く身じろいだ。ゆっくりとかぶりが振られる。 「大丈夫……ここの所疲れていたのもあって大袈裟に気持ち悪くなっただけだ……」 未だ優れない顔色でそう搾る様に云うと、ヤクモは背に力を入れて岩に寄りかかり直した。首を大きく反らせて頭頂部を岩に当てると、虚空に向かって力の無い息を吐く。 「……何かあるなとは思ってたが、やっぱり疲れてたんだな。本当に大丈夫か?」 血を前にしたぐらいで座り込んで仕舞うなど、常のヤクモを思えば想像だにし得ない事態だ。その意を込めてマサオミが少し強く云えば、若干の不満を隠さない薄く開かれた眼差しが向けられる。 「……情けなくて悪かったな……。残念ながら心配には及ばないから、」 「…………………なー。ヒトの心配ぐらい素直に受け取らないか?」 突き放す様なヤクモらしい言い回しに苦笑を浮かべつつ、そっと手首を取って脈を測れば割と正常に戻っている。呼吸も穏やか。ただ色を失った顔はその侭。 そんなマサオミの動作を薄目で追いつつ、吐き零す様な弱い声。 「情けない自覚はあるからな…」 女の子でもあるまいし、血を見て気分を悪くするなんて。と、溜息混じりにこぼれた呟きに、マサオミは思わず真剣な眼差しを向けた。幾ら疲労が嵩んでいたとは云え、血を見ただけで倒れると云うのは正常な肉体の反応と云うよりも、精神的な部分に要因がある様な事だ。 しかも、自分の血は平気で、他者の血が苦手とは。 そんなマサオミの誰何の視線を正しく解したのか、ヤクモは暫く緩慢に瞬きを繰り返していたが、やがて伏し目がちの表情で、ぽつり、と呟いた。 「…………………………トラウマ、かな……」 「馬…、………ああ、心的外傷(トラウマ)、ね」 現代に来て身につける事となった脳内辞書を素早く検索してから、マサオミはぱちくりと音がしそうな瞬きと共に眉を持ち上げ片目を見開いた。 心的外傷。トラウマ。或いはPTSD。簡単に云うと、過去に受けた精神的や肉体的な苦痛から様々な障害を起こす症状。…だったと思う。 (つまり昔、血に纏わる厭な体験をした、と云う事か?) 疑問符は浮かぶが、何分精神的に関わる事であるのなら、無闇に聞き出すべきではないと判じて、マサオミは想像を胸中で呟くに留めた。 こう云った心の傷に不容易に触れたり暴いたりするとどうなるか、と云うのは、リクの一件で経験済みである。 黙り込んで仕舞ったマサオミに一度だけ視線を向けて来ると、ヤクモは己の額に手を這わせた。くしゃりと前髪を力なく掴んで、今までに見た事の無い様な、自嘲の色を潜ませた微笑みを形作って再び項垂れる。 「最初に経験した戦いで、……目の前で闘神士(ひと)が、…、斬り殺されたんだ。致死の一太刀、ほんの一瞬で…、斃れたひとはもう動かない。血がどうしようも無い程に流れて……、ひとが死ぬのはこう云う事なんだって、心が恐怖にではなく、理解で冷えた」 腕が良い者の為した所行だからこそ、その死は無言で、無音で、無常で、ただ得体の知れない恐怖を生んだ。 殺められた側には恐らく『殺された』恐怖を感じる暇すら無かった。 ただその一瞬で確実に、何年かを生きた生が、潰え果てた。 この国は厄介な事にさえ足を突っ込まなければ平和だ。五年前の子供もそんな平和に馴染みきった一人だった。闘神士と云う言葉さえも未だ夢見がちな部分に在る様な、『普通』の。 「……覚悟も想像も無い侭にいきなり全てが翻って。非日常が日常(当たり前のこと)になって。 例えば父親が我が子を庇って血を流したり。目が覚めてみれば石化の呪いを受けていてそんな怪我どころじゃ無くなっていたり、さ」 独白めいた呟きの果てに、ふと琥珀色の瞳から温度が失せた。シニカルな表情。笑みを浮かべようとして失敗したのがはっきりと解る、乾いた唇の震え。 「闘神士だろ、ってコゲンタに宥められて、覚悟と云うのが『そういうもの』なんだと知り、死と云う現象を理解として得ようとしたんだが、」 「結局無理だった」、と。ひととき下ろされた目蓋の下で目の縁が一瞬だけ歪んだ。吐き出すのに迷いがある。だが事実として必要だから殊更に淡々と語る、紛れない悔しさや己への微細な苛立ちを滲ませて。 止めるべきなのか、聞いてやるべきなのか。惑いに落ち込んだマサオミを却って置き去りにしたそんな表情。 死体。他殺体。死などと云うのはTVや本の中だけのフィクションで、ニュースで知っても実際目の当たりにした事などは無かっただろう。平和な国の子供の当然の有り様として、人が人を殺める業などとは掛け離れた場所で育ったのだ。初めて見た『殺人(ひとごろし)』の有り様に衝撃を受けるのも無理もない話と云える。 然し、戦乱の、安定や安寧などとは程遠い無法の時代を生きて来たマサオミには、ヤクモの感じただろう恐怖は理解し難いものだ。 戦禍ばかりが拡がり、治世の行き届かない地では人の死など日常茶飯事だった。幼い頃より目の当たりにして、逃れ住んだあの平和な里でさえ、苛烈な季節には弱い者の死を無情に突きつけてきた。 血も、死も、記憶の風景の一つに在る。然し慣れる事も享受する事も無く、薄ら暗い厭な感慨を憶えて、ああはなるまいと必死で生きて来た。 今のこの時代では、闘神士とは云え人の死に近しいとは余り云えない。況して普通に暮らす子供であれば猶更と云えよう。 「……それ以来、他者(ひと)が血を流すのを見ると、……あの、無慈悲な死を憶えた感覚が、蘇って。情けない事だが、どうにも前後不覚に陥り易い。 ──それと。今日は疲れていたから顕著になっただけで、別に普段からこう、と云う訳じゃないんだぞ」 口調は弱々しい侭だが、迷いの無い声で一気にそう漏らすとヤクモは、マサオミの胸中の靄を吹き消す様に破顔した。精彩を失った顔にはっきりと、無理の知れる表情が乗っている。 それは曰く『情けない』自覚から出た気まずさの払拭の為なのか、それとも自ら『疵』と知れている部位をマサオミへと不用意に晒け出して仕舞った事に対するフォローなのか。 軽く額を拭う様にしてから起こされる身は、漏らした彼の弱い部分などまるで感じさせない、常の気配と動きを既に取り戻していた。マサオミが釣られて立ち上がるのを見てからヤクモは軽く岩に背を預けていたマントを叩いて。振り返った表情も同じ様に凛と。 「さて、少し休めたし俺は先を急ぐが……お前は外に戻ってちゃんと手当をしておけ」 「ええ〜?!ここまで苦労して追い掛けて来たのにそれはないでしょ〜…。こんなの掠り傷だしまだお付き合いしたいなー、なんて」 元通りに変じたヤクモの云い種に、合わせてマサオミも敢えて軽く応じるが、珍しく云っている事は100%の本音だ。怪我如きでリタイアは御免と言うのが少々と、ヤクモをこの侭放っておくのは気が進まないと云う率直な思考との合計値。 「ついて来るのはお前の勝手だ……と云いたいが、妖怪ホイホイの様なそんな血の匂いのする怪我人を引き連れて歩くのは御免だ。大体符の応急手当だけで過信をするのは賛成しかねる。破傷風になっても知らんぞ」 呆れた様に目を細めて云って来る言葉は、気遣いも多分に含まれているだろう至極真っ当な言い分ではあるのだが── 「や。ホント大した事ないし?アンタが心配してくれちゃうのは嬉しいんだけどさ〜」 (あからさまに参ってる酷い顔色だってのに、そんな事云ってくれるアンタの方が心配なんでね) これは口にすれば却って反発を招く気がしたので呑み込んだ侭でおく。 ヤクモが平生の姿を見せようとすればするだけ、先程の様子との齟齬に不安を煽られるこの現状を見れば、ついて行ってさりげなくアフターケアに励まなければならないと強く思わずにはいられない。何せあの顔色の悪さの要因を作って仕舞ったのはこちらの方なのだから。 と、実の所ヤクモに劣らず、負けず嫌いの気があったりするマサオミが密かに決意したのも束の間。 「……強制排除されたいか?」 「……………………今のアンタを放っておく気にはなれないんでね。お断りさせて頂きますよ」 符をちらつかせた可成り本気の表情で云われ、本音は隠して気遣おうと云うマサオミの決意は僅か数秒で瓦解した。 その気になればどうとしてでも執行されるならば、正直な所で言いくるめなければならない。幸いにも相手はこちらの言い分さえ間違えていなければ真摯に斟酌してくれる質だ。勝算はまだ充分にある。 「お前に心配される謂われは無い」 案の定か対話として応えを寄越してくれるものの、先制攻撃からかなり強烈な云い種が来て、マサオミは笑みを引き攣らせた。飄々とした人格と周囲には思われがちだが、本音のレベルでは短気なのである。 「そんな酷い顔色で云われても説得力無いね」 そんな訳で結局は急いた気に加え負けず嫌いの性分もあって、マサオミもついつい全力で打ち返している。こんな筈では、と内心僅かに残った理性が囁いて寄越すのだが、どうしても喧嘩腰になって仕舞うのは互いの性分と相性故にだろうか。 こうなったら真っ当な言い分で的確な攻撃を仕掛け、ヤクモが反論も出来ない様に畳み掛けるぞ、と、微妙に本末転倒な思考にマサオミは切り替える事にした。 攻撃、とかかって仕舞うのが些か寂しいのだが、ヤクモとの対話は概ねこんな思考に尽きる事の方が多い。 本心を出せば出す程に探り合いの意が滲み出て来て、躱す言葉は意趣返しめいて、互いに斜め向きで真正面へと投げ合う様な。強がりの負けず嫌い同士で、方向性だけを違えた両者の撞着。 「弱音を……アンタにとっちゃ不本意かも知れないが、表す事になっちまったんだ。俺が原因の一端で無かったとしても棄ておけるとお思いで?まさかそこまで冷血漢に思われてたとしたらちょっとショックだね〜」 わざとらしい大仰な所作で肩を竦め、マサオミは口調の割には真剣な眼差しでヤクモを見やった。弱音、と云う言葉にその表情が硬くなるのを見て、すかさず続ける。 「大体アンタさっきっから『情けない』って連呼してるが、俺はそうは思わないしな」 さらりと出て来たのは偽りのない本心だったが、逆にヤクモの表情は内心を鎧う様に硬く険しくなっていった。先程何事もなかった様に流そうとしてマサオミもそれに自然と応じていた為にか、急に蒸し返されたと感じたのだろう。 不機嫌と云っても良い、温度の落ち込んだ硬い無表情。ただその目線だけは常の様な射る鋭い眼光ではなく。はっきりと見据えて来ていると云うのに、何処か居心地の悪さを隠せずにいる。 その部分に付け込む様に仕掛けるのは些か卑怯な気はするが、マサオミは構わず続ける。 「つまりアンタはさ。死ってものを忌避したんだ。人が人を殺めた所行を嫌悪したんだよな。それは、アンタ曰くの『平和』な現代(せかい)では正常なんだろう?」 ただヤクモはその気質が『正し過ぎ』た。だから受け入れる事が出来なかった。理解しようとする齟齬に挟まれ摩耗する程に。気分を悪くする程に。逆に『苦手』或いは『嫌悪』と云う意識で残留する程に。 「アンタは人よりもちょっとその辺が、真っ直ぐにしか取れない程に不器用だからさ、真っ向から受け止めようとして失敗しちまっただけで。 理解なんて納得で、それを受け入れて何も感じなくなるより余程マシだろう?」 人が人に殺された果ての『死』を受け入れ難いと云う事は、恐らくヤクモは『誰か』を殺したいと思う程に憎んだ事も無いのだろう。……それが良い事なのかどうかは、別にして。 「…………」 硬くなった表情に向けて真っ向から言い終えてみれば、返って来るのは押し黙った視線と、マントの下で強張っているのが僅かに解る両肩。 反論が無いのは彼の矜持故にだろうかと一瞬思うが、即時に、違うな、と思い直した。 受け止めて硬い侭の表情は、それをどう言い繕いはね除けるか、ではなく、どうやって呑み込めば良いのだろうかと云う葛藤に思えたのだ。 マサオミの述べた意見は、恐らくはヤクモ自身も既に得ていた答えだったのだろう。矜持や強がりだけで納得し立つ心算であれば、もう少しまともな顔色で拒絶でもすれば良かったのだから。 何でも無い様に振る舞おうとして失敗したのか、それとも偽を被る事が苦痛だったのか。そんな性分で「何でもない」などと云うものではない。 どうだ、とばかりに真っ向から見据え続けて、風の僅かの音でさえ耳障りに感じる程の沈黙の果てに。ふわりと静謐を揺らしたのはヤクモの苦笑だった。 「これは……お前に慰められているのか?」 「………あれ、珍しく素直ですね?」 押し出す様に吐き出された苦笑は、決して厭な質ではない。てっきり溜息か矛先の転換が来るだろうと思っていたマサオミは、どちらに向くとも知れない沈黙を平然と和らげてくれたヤクモの顔をまじまじと見返して仕舞う。 「別に、解っていないと言う訳では無いからな…。それを呑み込めるかどうかは矢張り別問題だが」 「まあでも、無用に意地を張る必要は無いと思いますけどね」 「……そうだな」 溜息混じりに態と『無用』を強調して云ってやれば、帰って来るのは困った様な微笑みだった。つまらない意地にではない葛藤の知れる、明け透けな感情。 彼と云う闘神士の矜持の上に立つヤクモの心を曲げる事が果たして不可能であっても、手を伸べてみるのは勝手だ。滅多にない『弱音』を漏らす羽目になった相手には対等でない事この上ないのだが、いつも肩透かしばかりを食らっているのだ。このぐらいは贅沢を云っても構うまい。 「ここは無理せず、大人しく俺に慰められてお休みするのも一つですよ?」 嫌味なぐらいに微笑んでそう告げながら、マサオミは自分からその場に腰を下ろした。岩だらけの周囲は良い環境とは言い難いし、目新しい風景がある訳でもない。足下に至って云えば、少しを踏み外しただけで滑落死出来ると云う、休むにはこの上なく不釣り合いなロケーション。 そんな岩塊の上に悠然と座って、真正面で苦笑した侭佇むヤクモへと手を伸べる。 引く事は簡単だが、それをしないのは、彼自身の意思で『座る』事を良しとして欲しいからだ。今もまだ酷い顔色で力無く立ち尽くす、強がりの闘神士を心から休ませたい故に。 (『死』を忌避したアンタの方が──まるで今にも死にそうな顔で、見ているんだからなあ…) 受け入れ難い事象が記憶を呼び醒ました。それだと云うのに、抗う様に、堪える様に、慣れようとするかの様に、じっと滴る血を凝視していた。 恐らくは頭の中で何度も『その瞬間』を思い出して、呑み込もうと必死で。 それが強がりでなくて何だと云うのだ。幾ら元より疲れていたとは云え、大丈夫では到底無くて、何だと云うのだろうか。 だから、少々狡いとは思っても、強がって立つのは無意味だと暗に示してから手を伸べている。 他者に寄りかかるのも、心をひととき折ってみるのも、戦いなのだと理解させてから。 手を伸べる自分と佇む相手。沈黙はそう長く続かず、やがて降って来たのは溜息ひとつと綺麗な微笑み。そしててのひら。 「へ?」 お姫様でも迎え入れる様にマサオミが伸べていた掌には、そんな風に乗せられる手指が結局来ない侭。乗せられるどころか、がしりと繋ぐ様に掴まれた。 間の抜けた呟きと共にマサオミが見上げると、ヤクモは微笑みひとつを残像の様に残した横顔で、空いた片手に闘神符を取り出している。 「ほら」 力はそんなに強くないが、促す様な仕草と口調で掴まれた手を引かれ、疑問符ごとマサオミは思わず立ち上がって仕舞う。物理的に引っ張り上げられたのではなく、気持ち的に引き擦られたのだ。 「どうせ休むのならついでだ、お前の疵の手当をちゃんと出来て、もう少し環境の良い所が良い」 云うなりヤクモは符を発動させ、何処ぞへか通じる障子をその場に開いてみせた。呆然と瞬きを繰り返すマサオミの手には、片手に痛み、もう片手には頼る様に引く様に掴んでくれている、強くはないが確かな存在が繋がっている。 「……良いのか?」 その事実が信じ難かったのもあり。探索の途中だろうにこのフィールドを離れて良いのかと、本心にもない事を問えば、呆れた様な息を吐かれた。 「休めと云ったのはお前だろうに。……慰めてもくれるんだろう?今更反故にすると云ったら流石に怒るぞ」 口を尖らせてそうぶちぶちと云うと、ヤクモはこれ見よがしに受け止められ掴んでいる手を持ち上げて来る。暗に、手を取れと云っておいてナニサマだと非難する、不機嫌そうに目蓋を半分下ろした表情を向けられてマサオミは狼狽えた。いやいやと慌ててかぶりを振って、逃げて行きそうになるヤクモの指を強く掴んで止める。 気分は、逆に譲歩された様な、少々釈然としないものが残留してはいるのだが、比較的に晴れ晴れとした類にある。意外性には驚いたが、ここまで来たらとことん状況に甘えてみるのも悪くない。 「ではお言葉に甘えて。……で、これ何処に繋げたんだ?」 役得。棚ボタ。云い方は何でも良いが、当初の目的が予想以上に叶う事となった現状にマサオミは相好を崩しながら障子を示した。油断すると脱力した様な笑顔になって仕舞いそうな表情筋を無理矢理に引き締めようとする。 ……………のだが。 「天神町」 間髪入れず、さも当然の様にさらりと答えが返り、思わず「はぁ?!」と抗議めいた声が出た。笑みかけていた顔が逆ベクトルに歪む。 「お前が伏魔殿をうろついていたと云う事は今は昼間なんだろう?まだ陽が高ければリク達は学校だろうから、修行や部活の邪魔になる心配も無いし」 丁度良いだろう?と。先程の溜息一つで、マサオミに折れると云う蟠りは全て吐き出して仕舞ったのか、ヤクモは機嫌の良さそうな笑みを表情に薄くはいてそんな事を云った。 真逆に思わず脱力して眉尻を下げて仕舞っているのはマサオミの方である。二人きりだったのに、だの、デートっぽかったのに、だのと口の中で恨めしげにぶつぶつと流しながら。掴んだ手をひととき見下ろして、それから息を大きく吐き出した。 愚痴でも弱音でも何でも良い。二人きりと云う訳にはいかなくなったかも知れないが、伸ばした手を受け取ってくれたのは確かなのだから、聞かせて貰えれば良い。話を聞き出してやれば良い。それが少しでもヤクモにとって助けになれば良い。そう信じて取ってくれたのであれば、全力で応えなければ男が廃ると云うものだ。 それに何より、初めて取ってくれた手なのだから。そう簡単に放してやるものかと密かに思い、指に力を込めた。 漫画版一巻の事になるとヤクモの人生そのものの転換な訳で、色々妄想力が働くんです。特に五話は色々トラウマになりそうだなと。でも別に貧血体質と云う訳ではないです。 弱い部分をナチュラルに晒してその事自体に不満は無さそうな、仲良いんだか悪いんだか解らない関係。 死の臭いが嫌いなので防腐剤。 |