窒素抱擁



 「と云う訳で、仲良くしようじゃないか、ヤクモ」
 休日の昼下がり。例に因って例の如くに軽々しく時代を超え、吉川家に(と云うよりはヤクモの前に)現れたマサオミは、大層人好きのする笑顔と共に唐突にそんな事を云って来た。
 「……………」
 判断に困った、と云うよりは、意味が解らなかった、と云う表情で、ヤクモは手にしていた文庫本から目線だけを持ち上げる。活字の羅列の直ぐ上には、上機嫌とあからさま過ぎる程に知れる笑み。
 目が微妙に合ったのは然し寸時。ヤクモは再び興味を無くしたかの様に文庫本の紙面へと視線を戻して仕舞う。実際割とどうでも良かった。
 ぱらり、と頁の繰られる音だけが沈黙の部屋に響く。
 「……や。そんな全力で無視しないでもいいじゃないか」
 「理解がし難かっただけだ。大体何が『と云う訳』なんだ?」
 笑顔の侭、然し何となくこの結果を予想していたのか、存外にダメージの無さそうな様子で云うマサオミに、ヤクモは紙面から今度は目線すら起こさない。
 そんな様子に少しムッと顔を顰めたマサオミは手をつと伸ばしヤクモの手から文庫本を取り上げた。タイトルは新聞で見覚えがある。最近の大河ドラマの原作本か何かだ。
 途端マサオミの手を、と云うよりは文庫本の行方を追ってヤクモは顔を持ち上げた。酷く迷惑そうな表情で、押し殺した声音を紡ぐ。
 「返せ」
 「ヤなこった。話くらい真面目に聞いて下さいよ、ってね」
 舌を軽く出して云うマサオミの顔をヤクモは忌々しげに見上げはしたが、正論ではあると判じた。実力行使で本を取り返す事は一旦諦め、不機嫌顕わな表情で溜息を吐き出す。
 「で、何を聞けば良いんだ。云っておくが最初の頓狂な一言は論外だからな」
 「………なぁ。俺達の関係って何だと思う?」
 平坦なヤクモの返答に少々落ち込んだのか、マサオミは笑顔を苦笑へと交換。奪い取った文庫本を後ろも見ずに、ぽい、と放り投げた。
 「何、って……それは」
 畳に落ちる本に一瞬意識は向けたが、即時ヤクモはその問いに眉を顰めた。顎に折った人差し指を当て、存外に真剣に思索を始める。
 親友。何か違う。
 腐れ縁。そこまで長い付き合いでもない。
 ライバル。と云う訳では全く無い。
 家族。では確実に無い。
 仲間。違和感。
 相棒。には足りない。
 コイビト。では、有り得ない。と云うか願い下げである。
 今まで余り気にしていなかったが、確かに一体己にとってマサオミとはどの様なポジションに居る存在なのか、と、云われて改めて、ヤクモの中に疑問が起こる。
 「ホラさぁ漢字二文字で」
 人差し指と中指をぴんと伸ばして示して来るマサオミの笑顔を、ヤクモは横目で軽く睨むと密かに溜息をついた。
 恐らくマサオミは最後の一つを云わせたいのだろう。それは想像には易いのだが、ヤクモとしては事実関係はどうあれ、恋だの愛だのそんな甘い奇妙な関係がマサオミとの間に適しているとは到底思えないし、確定しておきたくもないのが心情である。
 どうしたものか、と思った時、不意に脳裏に合致する単語が閃き、ヤクモはぽん、と手を打った。
 「『他人』」
 我ながら実に的を射ている、と、自信たっぷりにヤクモが出した答えは然しマサオミの期待には全く沿え無かった様だ。彼は氷河期の恐竜の様な物凄い表情を一瞬見せた後、がく、と激しく突っ伏して仕舞う。
 解っていて躱す為に云った事なので、罪悪感は無し。
 「ついこの間までなら『居候』で丁度良かったんだが…」
 あの大戦の直後、当面の行き場を失ったマサオミは新太白神社に厄介になっていた。タイザンの預金から恐らくは勝手に引き出して来た幾ばくかの金額を『家賃と食費』と称してイヅナに渡そうとして断られていた姿はまだ記憶に新しい。
 「いや大して変わらないし!?て云うかまだ他人なんですかアンタの中で俺って!そんな、今まであーんなに深い関係に」
 「煩い黙れ」
 復活するなり泡を飛ばして抗議するマサオミを押し退け、否応なく熱くなる頬を誤魔化す様にヤクモは頭を巡らせた。目当ての、先程投げられた文庫本が落ちている場所を見やる。
 『深い関係』を自ら言及するつもりはヤクモには無いが、マサオミならば意趣返しめいて憚り無く公言しかねない。
 マサオミはヤクモがきっぱりと「厭だ」と云えば、存外素直にそれを尊重してくれる妙な所が誠実な男ではあるが、だからと云って油断が出来るものでもない。
 「〜でもさぁ、俺はアンタの事が好きで、アンタも俺の事が好きな訳だろ?なら晴れて両思いって事にならないか?」
 さっくり切られたにも関わらず未だ諦めてはいない様で、マサオミは再びにこやかな表情でそんな風に追い縋って来た。
 「語弊がある。俺はお前の事は別に嫌いではないが、だからと云って好きと云う一択になる訳でもないぞ」
 平然と云うが実の所真顔で云える台詞でもない。ヤクモは益々マサオミから視線を逸らし、苦い溜息を吐きながら返すのだが。
 生憎、大神マサオミと云う男はヤクモが何かを云う度、それを歪曲して投げ返す事にかけては何よりも得意なのであった。
 「嫌ってないなら良いじゃないか。はいはい、と云う訳だからこっちおいでヤクモ」
 さあ、と両腕を拡げて、まるで犬猫を呼ぶ様な厚顔に呆れた視線一つをやってからヤクモは立ち上がった。
 呆れ顔の侭、これもまた何が「と云う訳」なのか、にこやかに待ち構える姿勢のマサオミの横を逡巡一つなく通り抜け、内側を下にして落ちた文庫本を拾い上げる。
 軽く頁を検分するが折れた様子はない。少しズレたカバーを直してから、貼り付いた笑顔が凍り付いた苦笑に転じているマサオミの方へと戻った。そうして先程とほぼ同じ位置に今度は背を向けて座すと、その侭背中から力を抜く。
 一瞬の脱力感は、何となく諦めに似た感覚。絆されているのかそれとも甘いのか。諦観は飽く迄己自身に。
 ぼす、と、マサオミの胸に寄りかかる形に落ち着くと、ヤクモは文庫本の頁を繰った。先程の続きを探すその背後には、動揺の気配。
 「自分で来いと云っておいて驚くな」
 漸く見つけた頁に指を置いて、少し前の文節から区切りの良い場所を探しつつヤクモは憮然と云う。
 とは云え実は半ば予想していた事ではある。マサオミは常々、自分で『希望』を要求する癖に、それが実際叶うとはどうにも五割以下程度にしか思っていないらしい。
 どこまでが本音か解らないと云うべきか、単純に度胸がないと云うべきか。そんな『本気』の感じられない、然しそれとは相容れない筈の誠実な質がまた、ヤクモに冷たい態度を取らせているのだと本人は気付いていない様だが、何だか腹立たしいので指摘してやる気もない。
 結局の所浮かれたいだけなのではないか、と云う予想が一瞬ヤクモの脳裏を過ぎる。が、何となく胸が悪いので流した。
 「いやあ……、アンタがノッてくれるとは流石に思ってなかったし。や、これはこれで有り難い限りなんですがね」
 何だかんだで立ち直りは早い。数回瞬いた後には先程までの笑みの気配をすっかり取り戻して。マサオミは当然の如くにヤクモの内心などには気付かぬ侭、腰に両腕を絡ませ抱え込む姿勢を取ると鼻歌でも歌い出しそうな風情になる。
 一瞬だけ見上げた顔には緩んだ笑顔。「幸せです」と顔に大書きして貼りつけている様な。
 (……『椅子』も二文字だな)
 ぽつりと胸中でそう呟いてから、ヤクモは文庫本に意識を戻した。流石に他者に寄りかかって座る事になど慣れてはおらず、最初は落ち着く事も出来なかったが、段々と本文に集中するにつれて気にもならなくなってくる。
 要するにそれが、恐らくはマサオミと己との関係を体現しているのだろう。
 (『空気』とか)
 思いついた、今度こそ適切だろう言葉は、然し口にすればまた突っ伏させそうな気がするので呑み込む。
 ヤクモはマサオミの事を敵として在った時から、嫌悪も憎悪も無く、ただひとりの存在として見ていた。それは喪失と云う己の過去を重ね合わせた上の憐憫や慰藉に似た感慨からだった。
 同じ様な闇に佇む彼を何とか救ってやれないものかと思わず手を伸べた。向けられた感情に逆らわなかった。マサオミにとっては失礼極まり無いだろう、そんな話。
 対して。果たしてマサオミに当初在ったのがどの様な感情なのかは、問わない限りヤクモには知る術がない。
 『敵』だと云いながら命を救い、身を案じ、リク達の居る空間に自然に在って笑っていた。その男が一体どの様な気の惑いだったのだろうか。顔を付き合わせる度に愛だか恋だかと冗談めいて囁いて相対して──そうして、それを不意に反故にした。
 疵を負わなかったとは云えない。衝撃を受けなかったとも云わない。
 ただ──縋る寄る辺を求める様な、野蛮で汚い偽と罵りと嘲りとを乗せた乱暴なばかりの関係は、紛れなくマサオミと云う存在の苦悩を、救われたい魂を、切に訴えていたのだ。
 故に。愚かだろうかと思いながらも、ヤクモは彼の裡の暗い感情を受け入れ赦した。この身ひとつが慰め、或いは救いになるのであればそれも構わないと判じて。
 戦いが終わってから、明確な『敵』では最早無くなった彼は。恰もそれまでを悔いる様に、罪悪感を満たすかの様に、実に丁寧に誠実にヤクモへと相対し始めた。却って狼狽する程に優しく向けてくるその感情は──成程確かに愛だの情だのと云う言葉には相応しいのかも知れない。
 そうして気が付けば。その温度を、いつしか心地良く思って仕舞っていた自分が居る。成程それはマサオミの日頃の言に合わせれば『口説き落とされた』事にでもなるのだろうか。それは少し不満だが──
 いつの間にかマサオミはヤクモを含んだ世界の中に収まっていて、云うなれば確かに空気や温度の様な自然な存在になっていた。
 在るのが当然で、無ければ苦しい。
 そこまで大袈裟ではないだろうが、少なからず不意に何らかの事情でマサオミが姿を消して二度とヤクモの前へと現れないのだとしたら、それは──確かに僅かの息苦しさをもたらすかも知れない。
 悲しくはない。元より互いに交わる時間軸に無い存在だ。だから当然の事である、と。正された先の結果である、と理解はするだろう。納得も出来るだろう。
 それでも恐らく、少しの間は、マサオミの作ったこの『場』に喪失を憶える筈だ。
 後頭部をつめたい畳の上にそっと落として、寄りかからせてくれない存在に。何らかの感慨は抱くのだろう。
 縁を刻んだ存在が失われる、と云う事は──悲しいと云うよりも苦しい。
 嘗ての白虎の式神との間にあった別れの様に、それに納得する結果でありながらも己の中の齟齬に狂いそうになって。噛みついて堪えるだろうか。
 諦めではない納得の果てにあるのが、マサオミの望む──愛情などと云う優しい類のものではない事が少し残念に感じられて、ヤクモは息を静かに吐き出した。眦から力を抜く。
 どの辺りからだろうか、気付けば集中出来ずに流し読みしていた本に適当に栞を挟んで置いて、腹の上辺りで軽く両の掌を重ねてから目を閉じる。
 「ってあれ、お休み?寝ちゃうんですかこんな所で??」
 「ああ、温かいから眠くなった。疲れる様だったら放っておいてくれて良い。転がされても多分目は醒まさないから」
 春眠なんとやら、と云う季節では既に無いのだが、この心地よい不安さえももたらしそうな眠気は本当の事。この後ろめたい様な感情に蓋をするには丁度良い。
 (…………甘いと云うか。お前に絆されている事にも段々慣れている、だなんて)
 気取られない様に心の奥底で深く溜息。自己嫌悪が泥の様に堆積する。
 これではまるで色恋沙汰に狼狽える子供の様ではないか。
 確かに名前を付けるならば恋や愛や情とでも云えば良いかも知れない。然しそれらと決定的に違うのは──どう在っても相容れない互いの立ち位置。
 千と二百年と云う。言葉にすればその重さを却って実感出来なくなる、時の隔たり。
 ──「俺と、一緒に、来てくれないか」
 一時の別れの前に囁かれた言葉は、紛れなくそれを覚悟したマサオミの痛切な願いだった。
 無論対するヤクモが唱えたのは『否』。拒絶と云うよりは隔絶。不安定な感慨を伴う、突き放した返答。
 断られ、然しその後何事も無かったかの様にちょくちょくと時を越え姿を見せる様になった彼は、果たして今でも同じ事を願っているのか。
 何故、今こうして空気の様に自然に、気付けば其処に在るのか。
 或いは空気であるからこそ──時の隔たりなどに関わらず、此処に在るのか。
 「……成程、図々しい訳だ」
 「ん?何か云ったか?」
 「別に」
 半ば眠気に浸された脳で思わず呟けば、直ぐに返る言葉。些細な息遣いでさえ聞き取れる距離感。
 有り得ない筈のその空隙を、お前は何故埋めたいんだろうな。
 (還る場所が在るのに)
 取り戻した家族が居る筈の場所から手を──気付けば逆に伸べられていた。どちらも諦めない、と。問えば恐らくそう答えるだろう。確信はある。
 そうでなければ連日連敗の最中、こんな厚顔で現れもすまい。全く何が「と云う訳」なのかは知れないが。
 少なからずこうして安らげる程の充足を得て仕舞っているのは、お互い様なのだから。




本当に何この惚気愛…。お、おかしいな頭の中ではもっと殺伐としていた様な…!?

理想としては『無頓着』。正に『空気』。大半を占めるのは窒素だけど他色々あって複雑そうです。
現象として求むか精神的に望むかの多分決定的な差異。