夢の解読者



 見上げた時計の短針と長針はそれぞれ9と6の辺りを指していた。
 「……〜あちゃー…俺とした事がやっちまったな……」
 布団に横たわった侭そんな事を呟いて、寝癖のついた髪を掻き上げる。頭をふと巡らせた窓際の日差しは一日の始まりの曙光と云うには些か遅い、緩やかで平らかな質。八割以上の人間が職場ないし学校での時間を過ごし始める時に目にするものだ。
 つまりは見事な迄の朝寝坊であった。
 出自が出自と云う事もあり、マサオミの朝は比較的に早い部類に入る。己の本来身を置く時代に居た頃は日の出と同時に目が覚めていたものなので、それからすれば今の起床時間は幾分遅いのだが。
 今日の、九時半過ぎなどと云う時間の目醒めは、正直そんな日頃や過去から見れば怠惰としか言い様がない。
 概ね三時間半の寝過ごし。これが今日一日のスケジュールにどう影響するかを、横になった侭で天井の木目の上に描いてみる。
 定職に就いている訳ではない身はこう云った不慮の事態にも比較的対応がし易い。とは云え日々をただフラフラしている訳では無論無く、どちらかと云えば私用で常時忙しい事が多い。与えられた役割のスケジュールは調整の効く融通があるが、己の立場を思えば、常に暇など切り詰め不測の事態への対処を巡らせておくべきだとも心得ている。
 因って、こうして寝過ごした事を怠惰のひとことで済ませる訳にもいかないのだ。
 然し脳内の予定表を幾つか思い浮かべて行くと、此処に上がり込んでいるだけあってか、今日と云う一日は完全な空隙となっている。決まった予定は何も無い、暇と言って良い自由時間。
 尤もそれは、正式な名で云うのであれば『天流宗家の監視』と云う自由時間なのだが。
 普段は伏魔殿より出て来れぬ神流の仲間の調べた資料や、地流に潜入したタイザンの情報を受けて、それを現代と云う世界を渡り歩く事で確かめて回り、計画に有用であれば利用する手立てを目論む事がマサオミの主な『役割』である。
 これ以外にも伏魔殿内部に封じられた神流の仲間や天流の遺した遺物を捜し回ったり、神流の痕跡を辿って仕舞った不幸な地流闘神士を始末したり、果ては伏魔殿を昨今我が物顔で闊歩する某天流闘神士の後を追いかけ回したり。
 その上で更に天流宗家の様子を常に確認し、リクに負えない程の危機あらば密やかにそれを払い除け、可能ならば焚き付けて彼の成長に利用すると云った地道な活動まで行っているのだ。
 そうして今日の様にスケジュールに空きが出来れば、天流宗家の監視と矯正を行う為にこうして太刀花アパートに上がり込む訳である。
 「俺って本当働き者だねぇ」
 誰にともなく苦笑めいて呟いてから、マサオミは布団からよいせと身を起こした。当初はリクの祖父であるソウタロウの寝間着を借りる筈が、余りにもサイズが合わなかった為に手ずから買ってくる羽目になった(勿論自腹である)、着慣れないまだ糊の効いた寝間着を脱ぎ捨てると、枕元に畳んでおいたいつもの服に着替える。
 布団を畳んで押し入れに放り込んでから窓を開ける。平たい角度の陽光はどことなく気怠さと忙しさの混在した街を穏やかに照らしており、その光が薄く室内に舞い散る埃をきらきらと見せていた。
 家の中はひとけがなく静かで、この気怠い時間帯と相俟って、己がまるで一人取り残された子供になって仕舞った様な錯覚を憶える。その感覚に何故か流される侭にマサオミは部屋に暫し所在無く立ち尽くして、遣る瀬のない気分を抱えた侭のろのろとした挙動で行動を開始する。
 櫛と紐を片手に姿見を捜すが部屋には見当たらないので、仕方なしに部屋を出て管理人室──もとい太刀花一家の住まう部屋へと向かいながら、義務感のある思考へと意識を流す。
 (今日は日曜だからリクは伏魔殿で修行か、ボート部の練習かね…。どっちにしても追い掛け辛いんだが空き時間は天流宗家の監視、がお役目だしなぁ…。さてどうしたものか)
 外階段を下りて縁側の方へと回ってみる。縁側はいつも通りに鍵が開け放しになっており、他人の家ながらに不用心だなと思わず顔を顰めて仕舞うのだが、便利なので特に改めさせる気はしない。
 案の定か居間にはいつも居る顔ぶれは無い。それでもすっかり勝手知ったる家で、風呂場まで行くとマサオミは顔を洗って髪を結んだ。
 さて、と鏡に向かって考え込む。取り敢えず己の支度は整った訳だが果たしてどうするべきか。ボート部の練習であれば大体行く場所は想像が付くので、昼食の差し入れとでも云って捜し出して行けば良いのだが、彼らの行き先が伏魔殿であったら問題だ。
 鬼門より立ち入る伏魔殿の座標は、侵入時に何らかの指向性を持たせない限りは完全なランダムなのだ。リクは月の勾玉で途を開いている為に、行き先は月の運行に因って左右されている様だが、その完全な把握はマサオミには出来ていない。
 つまる所闘神石で鬼門を開くマサオミには、伏魔殿に入ったリクらの位置を確実に発見する事は困難なのである。
 地流は既に大鬼門の建造を終えた為に、以前よりも伏魔殿内部へと派遣される闘神士の数は大幅に減ってはいる。いるが、だからと云って油断出来ると云う訳では無論ない。何せ太刀花リクは地流全ての目の敵である天流宗家として名乗りを上げた存在だ。相対してそれを捨て置ける程に軽いものでは到底無い。
 神流がリクに手出しをする事は、いつかの様に人違いでもしない限りは無いが、だからと云って天流宗家を庇護してくれる訳でも、これもまた無い。天流宗家のフォローは全面的にマサオミの──ガシンの役割であり、天地流派を憎む他の神流の仲間達には願った所で為してなどくれはすまい。
 (今更妖怪如きに倒されてくれたりはしないだろうが……)
 そうごちかけてマサオミはふと気付く。リクをどう追い掛けようかと云う考えからいつの間にやら、放っておいても大丈夫かな、と云う方向に転じている。
 確かに今のリクとコゲンタであれば、妖怪や盆百の闘神士に倒されて仕舞うなどと云う事はそうそう有り得ない。因って心配はするだけ杞憂とも云えた。
 結果。本来『天流宗家を監視』している筈の、云って仕舞えばこの『暇』になって仕舞った時間を果たしてどう潰そうか、と云う思考になる訳だ。
 家の中にこの侭留まっていても仕方がないし、途方に暮れた感がどうにも付きまとう。
 空いた時間。空いた時間。二度、そんな言葉を脳裏で咀嚼してから、マサオミは鏡の中の己に向かってニヒルな笑みなど浮かべてみる。
 「……そうだなぁ、折角久々に丸一日空いてる訳だし。ちょっとヤクモの奴でも捜してみるかな」
 「ヤクモ様がどうかなさいましたか?」
 「っうをわ!?」
 ふ、と格好を付けて眦を細めた瞬間、唐突に澄んだ少女の声音が背後やや下から聞こえて、マサオミは思わず鏡に背をつけ仰け反った。浴槽に滑り込みそうになるのを何とか留まる。丁度想像が想像だっただけに何となくびくびくとしながら視線を下方に向けてみれば、そこには己の腰程度までしか丈のまだ無い、然しとてもその外見年齢からは想像もつかぬ程にしっかりとした少女の姿。
 「な、ナズナちゃん?いたのか……」
 「私はこの家に世話になっているものですから、居るのは当然です。それとも、居ては何か都合の悪い事がお有りなのですか?マサオミ殿」
 気の所為かどこか冷ややかな目でマサオミの事を見上げて来ている、いつもの巫女服姿の少女を見下ろしながら、表情は逆に自然と笑みに。
 大概の女性であれば、甘い造作の顔が作る微笑になにかしらの良い反応が返るものなのだが、生憎この幼い闘神巫女にそれは全く効果がない様だった。ナズナは冷ややかな眼差しの侭、反射的に笑みを形作ったマサオミの事を横目に、ちらり、とさも意味ありげに見やって来る。
 「全く。屋根を借りた身でありながらもこの様な時間まで惰眠を貪るとは良い身分ですね。リク様のお口添えが無ければとっくに叩き起こしている所でした」
 棘だらけのナズナの云い種と態度から、日頃しっかりとした生活習慣を行っている彼女にとって、こんな時間までの寝坊と云うのは相当に度し難いものらしい事が解る。
 「いやあ〜すまんすまん、俺もまさかこんなに寝過ごすとは思ってなかったんだよ。何しろ最近忙しくって全然休む暇がなくってさぁ、知らない内に疲れ切ってたみたいなんだよね」
 笑顔作戦は通じなかったが、だからと云ってやさぐれたり反論したりするのはナズナ相手には良い行動とは言い難い。猶も笑顔の侭で言い訳を述べるマサオミへと、彼女は正直な所を隠さぬ、呆れと蔑視との混じった視線を向けて来た。
 「肝心な時には居ない事も多い癖に『忙しい』などとよくも云えたものですね。相当ご大層な言い分の様ですが一体何の用事なのです?」
 「調べ物とデートかな」
 主に伏魔殿で神流の仲間と密会する時の隠語として利用するのがマサオミ曰くの『デート』なのだが、当然ナズナは言葉通りの意味と取ったらしい。眼差しに込められた軽蔑の色が濃くなるのを見て、慌てて付け足す。
 「ほ、ホラ俺が各地の地流の動きとか、調査してるの知ってるだろ?今までも何度も情報持って来たじゃないか。な?デートってそう言う情報収集の一環みたいなもので」
 いい加減、年端もいかぬ少女からの冷たい視線に耐えかね、笑顔が冷や汗混じりの苦笑に転じて来たマサオミの重ねる、ますます言い訳じみた説明に、対するナズナは暫くは侮蔑の色を隠さない沈黙を寄越していたが、やがて、心底呆れた様な溜息をつくと、肩を竦めるのに似た仕草で台所の方を軽く指す。
 「朝食は台所に取ってありますので、宜しければどうぞ召し上がって下さいませ。
 お盛んな事で結構です。リク様は朝から伏魔殿へと修行に赴いていらっしゃるのに貴方と来たら全く…」
 「今日はリクは伏魔殿なのか。あれ、そう云えばナズナちゃんは何でついていかなかったんだい?」
 これ以上は続けたくもなかったのだろう、まだ非難を残しつつも話を転じたナズナへと、マサオミは改めて問う。いつものナズナであれば「リク様が行かれるのであれば私もお供致します」か「地流が伏魔殿へと入るのであれば私も参ります」などと云ってリクと共に伏魔殿へと出向いている筈だ。
 ヤクモ曰くの要約、「天流宗家を待つ意向の為に設えられた、新太白神社の守り手として本社より派遣されて来た闘神巫女ナズナは、その侭宗家に仕える義務を授かっていると云う事でもある」だそうなので、彼女がリクの行き先に常に従うのは当然の事らしい。
 マサオミの疑問を受け、ナズナは静かに頷いた。
 「私もそのつもりでしたが、お客様のお世話をとリク様に言いつかりましたので、仕方なしに留守を預かる事となったのです。
 然し肝心のお客様は朝日が昇りきっても起床の気配を見せず仕舞い。然しリク様が『寝かせておいてあげて』と仰っておられたので、そっとしておく事に致しました」
 ちらり、とそこでナズナは一度視線をマサオミへと向けた。あなたの事です、とその目線が語っている。
 「とは云え惰眠を貪り過ごす訳にも参りませんから、丁度良い日向きでもあるのでひとつ掃除に励んでいたのです」
 そう、最後まで再び棘混じりに言い終える少女の姿をよくよく見ると、頭に三角巾を巻き袖をたすき掛けにして、手にはハタキと言う格好をしている。成程見事な掃除スタイルだ。
 「一人でか。大変そうだし……俺も手伝おうか?」
 「いいえ結構です。リク様の身の回りのお世話は私の役目ですので。マサオミ殿はお客様としてどうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」
 思わず助けを述べるが、当てこすりも半々程にナズナはきっぱりと言い切った。客の手を借りたくないと言うより、本当に己の役割と自負しているのだと知れるその云い種にマサオミは何も継げなくなり少し困り果てるが、彼女が「では」とぺこりと頭を下げ場を辞したのを見送って、漸く小さな溜息が漏れた。
 (お客様、ねぇ……何か矛盾してるようなしてないような寂しいような)
 一本通った気で己の役割や指針に従うその頑なさは、真面目で自尊心のある少女の本質そのものであり、そう簡単に曲げたり変えたり出来るものでもない。
 ああして最後まで棘を出したり当てこすりを向けたりするのは、何の事はない、少女の中で『それ』が許し難い現象であると云う事だ。嫌味と云うよりは説教に近いだろう。将来もっと弁達者になり経験も豊富になれば、大層説教好きな人物になるやも知れない。
 「まだ幼いのに頑張り屋さんだね。何処かの誰かさんそっくりと云うか……」
 そう云えば僅か数年の中の付き合いとは云え、その『何処かの誰かさん』ことヤクモとは兄妹の様な関係で過ごしていたのだと以前聞いたなと思い出す。あの気質は果たして、類はなんとやらと云うべきなのか、似て培われた云うべきなのか。
 ヤクモの方が幾分周囲に柔軟で、その分己にも他者にも厳しい。身内には甘い様だが。ともあれ年季と云う側面を重視するのであれば、ナズナよりもその心を曲げる事は容易でないだろう。
 (難儀な連中だね…全く)
 ひとり肩を竦めると、マサオミは台所へと足を向けた。折角食事が残っていると云うのだから、有り難く頂いておく為に。
 『お客様』の侭のんびりするか、伏魔殿にでも出かけてみるか、独自に調査でもしてみるか、それともその他か、は、その後でゆっくり決めれば良い。
 
 *
 
 食事を終えた皿を洗っていた時、玄関で呼び鈴が鳴った。
 おや、と見回すが、先程まで居間の硝子戸を熱心に拭いていたナズナの姿はそこにない。バケツの水でも替えに風呂場に行って仕舞ったのだろうか。だとしたらひょっとしたら水音で聞こえないか、手が離せない状態にあるかも知れない。
 ボート部の子らであったら縁側から姿を見せる事が多い。わざわざ呼び鈴を鳴らすのは気安い関係の相手ではないだろう。
 荷物か何かかな、とタオルで手をさっさと拭いて、マサオミは玄関へと向く。万が一、と云う事も有り得るので、余所行きの笑顔の下に僅かの警戒を隠しつつ、「はいはい」と応えながら鍵を外した。戸を開ける。
 「………………」
 「………………、」
 途端、玄関の内側と外側とで、客人と来客と二人して呆然とした顔を突き合わせて仕舞った。
 鍵を開ける為に突っ掛けたサンダルの上で、マサオミは二度、三度瞬きをして、それから途方に暮れた様に呟く。
 「……ヤクモサン?」
 「お前も来ていたのか、マサオミ。俺は少し報告事項があって立ち寄ったんだが…」
 何故かカタコトになるそのイントネーションだけでマサオミの裡の問いを察したのか、妙に正確に返してくるのは伏魔殿から滅多に出て来ない筈の天流のヤクモその人だった。
 彼は戸口に出て来たマサオミの姿と、その所在なく立ち尽くす玄関とを暫し見つめて(確認していたのは恐らく靴の数だろう)、不意に眉を寄せる。
 「ひょっとしてリクは居ないのか。お前はまさか……留守番?」
 「……まあ似たようなもんだな。成り行きでね。アンタは伏魔殿から直か。タイミング悪いね〜」
 まさか「寝坊して見過ごしました」と云える筈もない。漸く驚きから回復したマサオミは、眼前の来客の様子を観察するだけの余裕を取り戻していた。
 問うまでもなく、ヤクモは伏魔殿装備を解除しただけの立ち姿だ。いつもはベルトに引っかけてある神操機が腰の後ろに移動している以外には変化と云う変化はない。こうして見るとマサオミ同様全く普通の青年にしか見えない。
 そもそも格好はどうあれ、現状ヤクモは鬼門以外の手段を用いて天神町を訪れた事などないのだが。
 「ああ。休憩がてらにと思っていたんだが……ん?そうか、入れ違いだったのか」
 主語はなかったが『タイミング』の意味は察したらしい。彼は目を僅か細めてそう云うと、心なし肩を落とした。
  伏魔殿は出口と入り口が同一であってもそこに至る途は異なるので、偶然時間がかち合わない限りのすれ違いも時に起こる。
 「残念ながらそうなったみたいだな。折角だからあがって行くだろう?お茶ぐらいなら煎れて差し上げますよ?」
 ヤクモはリクと入れ違えの形になったが、然しマサオミのタイミングはこれ以上無い程に合っていたと云えよう。何しろ丁度暇潰しに悩んでいた所なのだから。
 しかも相手は今後の選択肢に加えていた対象である。鍋の中に鴨が具材を背負って自ら飛び込んで来た様なものと云って良い。
 因ってマサオミの方針は『逃がすまい』となる。笑顔は一気にご機嫌取りに近い質に変わり、「さあどうぞ」とばかりに居間を示してみせる。一度巣穴に誘い込んで仕舞えば、後はなんだかんだと逃がさない自信はある。搦め手の話術だってお手の物だ。
 そんな風に妙に意気込んで持て成す気満々のマサオミの様子を、然しある意味当然ながらヤクモは酷く胡乱な目で見返して来ている。疑心、或いは妙なものを見る様な態度そのものだ。
 「休みに来たなら良いじゃないか。ホラあがって行けって」
 「留守番の癖に図々しいことこの上ないな。生憎だが俺もそう暇な訳じゃない。日を改める事に」
 「ヤクモ様!?突然どうなされたのですか!」
 マサオミの(邪な)願い空しく、踵を返しかけたヤクモの足を引き留めたのは、玄関口に加わったもう一つの声だった。
 「ナズナ?──どうしたんだ、珍しいな。リクと一緒じゃなかったのか?」
 振り返ったヤクモがきょとんとした表情で云う先には、云うまでもなくナズナの姿がある。やはり風呂場で雑巾でも洗っていたのか、水の入ったバケツを両手に、ヤクモと全く同じ様な表情で立っている。
 「私は留守を任されまして……ヤクモ様は、…もしや何か伏魔殿に異変でも!?」
 「違う違う、俺はちょっと報告したい事があって立ち寄っただけだ。もし何かがあったとしたら、こんなのとのんびり立ち話なんてしていないさ」
 逸りかけたナズナは『こんなの』とヤクモの示したマサオミの姿を見上げて、妙に得心がいった様に頷いた。
 (……何か釈然としないのは何故かなぁ)
 思わず生温い目でヤクモとナズナとを──もといその両者の曖昧に過ぎる視線を受けて、見返して仕舞うマサオミである。この似た者兄妹に果たして己はどんな風に思われているのやら。
 「ナズナは…掃除の最中か。ならば、折角だから俺も手伝おう」
 そんな物言いたげなマサオミの視線など意にも介さず、ヤクモは酷くあっさりと靴を脱いで家へと上がった。ナズナの手から重そうなバケツをひょいと取り上げる。
 「や、ヤクモ様にその様な事をして頂く訳には参りません!今お茶を煎れますので、どうぞごゆっくりお休み下さいませ!」
 「どうせ持て余す暇だから構わないさ。窓も上の方を拭くのはひとりでは大変だろう?丁度良い事に暇そうな手はもう一つあるし」
 まさかそこまで察した訳ではないだろうが、縁側の窓は確かにまだ下の磨り硝子部分しか掃除されていない。ナズナは恐らく脚立でも出して来て後でやろうとでも思っていたのだろうが。
 ともあれ彼女の丈では些か大変な作業になるのは事実だ。それに引き替えマサオミやヤクモであれば軽々とこなせる。『暇そうな』とかかるのは気になるが、故の『手』と云う事だ。
 「……〜それってひょっとしなくっても俺の事だよねえ?」
 「他に誰が居るんだ。こんな時間まで寝ていられるぐらいに暇ならば手伝えマサオミ」
 「って何で知って」
 「寝癖。取れていないぞ」
 ふっ、と微笑んで指された前髪をマサオミは思わず押さえるが時既に遅過ぎた。先程『留守番』とぴったり云い除けたのも何のことはない、マサオミが寝坊をして家に居た事など疾うに見抜かれていたと云う訳だ。
 と、なると先程までの『引き留めよう』と云う意図までひょっとしたらバレていたのかも知れない。苦労は報われ無かったが結果はそう悪くない流れに、マサオミは肩を落として苦笑した。
 「…………ハイハイ、喜んで勤労に励ませて頂きますよ。ナズナちゃん、雑巾何処に仕舞ってあったっけ?」
 「そこの棚の中に……ってそうではなく!この者はともかくヤクモ様はどうかお休みになって下さいませ!」
 不意に、まだまだ言い募るナズナに向けてヤクモは柔い笑みを落とした。
 「ただ待つだけと言うのはリクにも悪いしな。皆で手分けしてやれば早く終わるし、そうしたらゆっくり休ませて貰うとするよ」
 途端。マサオミの笑顔にも動じなかった少女がぴたりと口を噤んだ。まだまだ納得はいかないと言った表情を浮かべてはいたものの、降参する様に両肩をそっと落とす。
 「〜………はあ……解りました。それではどうかお願い致します。では、その間私は掃除機をかけましょう」
 溜息をついて折れたナズナは、ある意味彼女以上にこう云う所が頑固なヤクモの質をよく理解していたと云えよう。これ以上言葉を巡らせ説得し倒されるのであれば、素直に『お願い』した方が事は早く進む。
 掃除機を取りに行くナズナを見送って、勝者は何処か楽しそうな様子で縁側へと向かう。探し出した雑巾を片手にその後を追って、マサオミはやれやれと肩を竦めた。
 予定とは少々違って仕舞ったが、望んだ相手付きで暇を潰せるならば、なかなか上等な一日だろうかと(前向きに)思いながら。

 *
 
 「っっっっつッかれた〜……」
 肺の中どころか胸中全てから溜めに溜めた息を吐き出し、マサオミは縁側に足を突き出して居間に大の字に横たわった。
 ちょっとした丁寧な掃除の心算が、人手のある強みからか誰ともなく白熱して行ったらしく、「折角だから」と云う言葉を皮切りに、あれやこれやと片付けたり手入れをしたりする羽目になり、気付いた時には太刀花アパート全室はすっかり綺麗に片付き切っていた。
 家具の裏を覗く事に始まり鴨居の上やら箪笥の取っ手に至るまで、三人居れば手が足りるだろう箇所ならばこれでもかと云う程に丁寧に掃除をして仕舞い、気分は晴れやかだが流石に疲労が強い。
 途中で昼食(無論マサオミが買い出しに出された)を挟んだものの、気付けば時刻は四時を過ぎている。全く、有益なのかその実無益なのか解り辛い一日となった。
 疲れているだろうに、ナズナは夕飯の買い物にと出て行き、後に残されたのは主に力仕事で疲れ切った若者二人のみ。
 無論ヤクモは買い物も志願した訳だが、流石にその疲労を見抜いたナズナの抜いた伝家の宝刀「食材の善し悪しやどの店を覗けば良いかの判断は慣れていなければ務まりません」に退かざるを得なかった。
 簡単なものにする為荷物持ちも必要無いとまで先回りして云われて仕舞えば、それ以上は継げない。先程の意趣返しなのではないかと、手伝いを断固拒否されたヤクモを見て、思わずそんな感想を提出して仕舞うマサオミだった。
 「ああ見えてナズナは気難しいからな。頑固さは俺よりもきっと上だ。それでも昔に比べれば随分折れてくれる様になったんだぞ?」
 そうしてさりげなくフォローを混ぜて云うヤクモの様子は、優しさや気安さの混在した、正に妹を見る兄の目をしている。
 「へぇ。例えばどんな?」
 きょうだいを見る目、と云うのはマサオミにとって辛い過去を呼び起こす一因にも成り兼ねないものなのだが、あのヤクモがそんな風に誰かの事を語るのは初めてだったので、何となく興味が湧いた。
 「そうだな……そもそもナズナは新太白神社を建立する事になった際に太白神社本社から派遣される事になった闘神巫女だったんだが、」
 茶を乗せた盆をマサオミの枕元へと置き、自らも縁側に腰を下ろしたヤクモは、何かを思い出す様な遠い眼差しで答え始める。
 新太白神社の役割は、嘗て同地区に在った太白神社とは異なり、天流宗家の帰還を待つ為のものなのだと云う。折しも天流遺跡の発掘作業にも目が向けられ始めていた時期(宗家の伝説に縋りたくなる程までに当時、マホロバの乱を終えた天流には力が無かったと云える)だった事もあり、神社は遺跡の近くに置かれる事となった。
 そうして宗家をいつか見出すやも知れない神社の守り手として抜擢されたのが、闘神巫女であり自身も闘神士としての才覚を併せ持つナズナだった。
 彼女は、これも縁の為せる技と云えようか──太白神社の闘神巫女であったイヅナの妹弟子と云える存在であり、それ故に適任であると判断されたのだ。
 「適任て何でまた。人の縁はそりゃ大事だが、守り手たる立場には特に関係ないんじゃないのか?」
 「そこが天流のご老人達の巧い考え。太白神社にはひとりの闘神士が居て、イヅナさんとは家族に似た関係にある。その縁であわよくばその闘神士も新太白神社へと身を置いてくれれば、守りにも、形ばかりの威光にも使えると云う判断だったんだ」
 どことなく疲れた様なヤクモの物言いに、現状の天流はその殆どが散逸して仕舞っていると云う程度の情報しか持たないマサオミでもピンと来た。
 「……その闘神士ってのがアンタって事か」
 返って来るのは何処か自嘲に似た苦笑。紛れなく肯定のしるし。
 「そりゃ確かにアンタは天流随一の使い手だと思うが、威光ってのは大袈裟じゃないか?過大評価とか」
 「そうだな。俺もそう思うんだが──」
 同年代故にか、闘神士としての実力を測る様な話題になると何となく険のある物言いになって仕舞う。互いに式神を用いて刃を交えたのは一度きりだが、その強さは己と拮抗、或いはその上を行くのではないかと判じていたので余計に。
 だが、ヤクモは実に恬淡とマサオミの険をかわした。つまらなそうな表情で、夕暮れに近い空を仰いで小さく吐息。
 「大戦の終結と云う戦績と、その後の活動。
 身内で滅ぼし合った直後で、地流の台頭が天流には最早止められない域にあったからか、気付けば急速に名が轟いていて。もうひっそり生きるしかないとまで嘆き士気が下がる一方だった天流の中で『天流闘神士ヤクモ』の株は真逆に上がり放題の大高騰。
 いつの間にやら『伝説』だの『最強』だのなんてご大層な煽り文句が付随する様になっていた訳だ」
 肩を竦めるヤクモを、成程なと云う目でマサオミは束の間見やる。
 結束の危うくなった組織を持ち直すにはそれを纏める為の旗印や御輿が必要になる。この場合は未だ現れない天流宗家に代わって、大戦を終結させ、今なお闘神士として百戦錬磨の活躍を続けていた少年は成程良い素材であっただろう。しかも四神の式神の一体と契約を交わしているなど、丁度良い誉れになる。
 そんな名誉は然し今のヤクモにはまるで興を引く様なものではないらしい。表情を見る迄もなく、何処か客観的な物言いからもそれは察せた。
 「話を戻そう。ともあれ宗家を待つ『場』に天流の頼ると云うか奉じると云うか。そう云う存在が在ると云う『事実』こそが天流再起の意志を周囲へと示す事になるからな。そんな理由もあって俺やその周囲の人間にとって『家族』として見られる様な関係にあるだろうナズナが選ばれたんだ」
 そこで何かを思い出しでもしたのか一度苦笑。
 「当初は。ナズナはそんな『天流闘神士ヤクモ』の『伝説』的な風聞を真に受けていて、それはもう丁寧に過ぎてこっちが寧ろ萎縮しそうだったな」
 今現在宗家であるリクに対してもあそこまで献身する、己の役割に熱心な少女である。宗家不在の折、盲目的に奉じられて居た『伝説の闘神士』様の傍に仕えるとしてもその度合いは変わるまい。
 想像するだに易い、当時のナズナと、何処か辟易とするヤクモとの様子を思い浮かべてマサオミも思わず苦笑を漏らした。
 「その頃が先程云った『昔に比べれば』と云う部分だな。
 でもうちは父もイヅナさんも俺も、堅苦しい事は全く好まないものだから。『家族』として在る以上はそれ以外の扱いは許さない、なんて云う方針で説き伏せたんだ。
 元より新太白神社に来るのがイヅナさんの縁でなくとも、全面的にそう迎え入れるつもりではあったんだが、ナズナは年齢的にも丁度俺の『妹』みたいだったからかな。余計に『家族』として居て欲しいな、と皆思っていて」
 今ではすっかり家族(うち)の一員だ、と、先程の淡泊な表情は何処へやら、今はすっかり幸福そうな表情で微笑んでみせるヤクモの姿を、マサオミは身を起こしてお茶を啜りながら、何となく背中にむず痒さを覚えつつ見た。
 「……ゴチソウサマ」
 これは嫉妬と云うより単純に胸焼けだな、と思いながら云うと、ヤクモは眉間を寄せた。然し口角はまだ笑んだ侭である。
 「訊いておいて呆れるとは失礼だな。
 実際『家族』として暮らしていたのはそう長くないし、今では俺も伏魔殿に籠もりっきりだったからな……。少し懐かしみが過ぎて惚気めいて聞こえたなら謝ろう」
 済まない、と云うと、盆の上の茶菓子の包みを一つ余計にマサオミの方へと寄せ、彼は自分の分の茶を啜った。
 ここで引き下がると食べ物で懐柔された様で、何となく気分が宜しくない。そう思いマサオミは手早く包みを開くと、中に鎮座ましていた薯蕷饅頭を取り出すと半分に割り、ずい、とヤクモの顔面へと近づけ、何らかの誰何の言葉を紡ぐ為にか開かれた口内へと容赦なくそれを放り込む。
 反射的に口を閉じて仕舞ってから、ヤクモは何とも形容し難い表情で、にやにやと笑うマサオミの顔を睨み付けて来たが、一旦口にしたものを出して仕舞う様な育てられ方は矢張りしていない様だ。結局憮然とした侭大人しく咀嚼。嚥下する。
 それを見やってもう半片も差し出すマサオミの手を、然し今度は手で止めて拒否。
 「止めろ趣味が悪い。第一意味もない」
 「そうか?何か餌付けされてるみたいで存外面白い態度だったぞアンタ」
 「頓狂な所に楽しみを見出すな」
 「いや〜恋する男子にとっては何でも楽しいですよ?」
 そうにこりと笑って言うと、ヤクモに更に凄い真逆の表情をされた。
 「誰が。誰に」
 「俺が。アンタに」
 きっぱりと言い切ったマサオミをたっぷり二十秒は眺めてから、ヤクモは酷く哀れみの込もった無表情の微笑を浮かべた。生温い笑顔には何処となく同情の色が濃い。
 「…………頭は元気か?」
 「…〜アンタ全然信じて無いだろ。ナズナちゃんの事をあれこれ訊いたのも何を隠そう、ヤクモと親密になれば俺にとっても妹の様になる訳だからして」
 と、流石にこれは冗談で続けるが、大層本気で厭そうなヤクモの視線が返るのに少しばかり寂しくなって仕舞う。
 「解った。精々親密にならない様に心掛けよう」
 マサオミの落胆に気付いていないのか或いは意図的に無視したのか。淡泊にもそう締めるとヤクモは軽く肩を回した。掃除ですっかり凝って仕舞ったらしくいい音が鳴るのを耳にして、思わず眉がぴん、と持ち上がる。
 「やっぱりアンタも疲れてるんだな。ナズナちゃんの手前か?強がっていたのは」
 意趣返しめいた指摘に、然しヤクモは曖昧な表情を返すのみだ。
 マサオミが当初から気にしていた事である。伏魔殿から「休憩がてら」と云いわざわざ此処を訪れた辺り、その時点で彼には相当の疲労があった筈なのだ。
 それだと云うのに手伝いを申し出たりしたのは何の事はない、『妹』であるナズナを気遣っての事だろう。
 「ま、アンタが隠したいなら云わないでおいとこうかね」
 「何の事だ?」
 人の悪い笑みで絡むマサオミに、ふん、と真顔で嘯くヤクモだが、云いつつもその目は「云ったら怒る」と雄弁に語っている。
 (……まあバレてるとは思うんだけどねぇ……)
 両者のやり取りを思い出してみれば、どちらもそれとなく承知と理解がある気がしないでもない。暗黙の了解と云う奴だろうか。
 何れにしても少し蚊帳の外の気分がするのは否めない。どうやら自分はまだヤクモの見ている世界の『内側』には入れて貰えてはいないらしいと知れたからだ。
 遠回しにその事を不満混じりに云うと、ヤクモは少し呆れた様な表情で、
 「お前も此処にこうして居ると云う事は、リク達の『家族』なんじゃないのか?だから少々不本意だが、最終的にはナズナや俺もその中に含まれていると思うぞ?」
 そう答えて少し淡く微笑んだ。辛辣な様で気安い言葉には、偽はまるで無い。本気で、一度は伏魔殿で戦った敵の闘神士たる己を、『そう』と認めてくれているのだと、マサオミは確信する。
 「……………それもそうですかね」
 『家族』の枠を心底得難いものの様にそう示す表情に、然しマサオミは苦みの強い自嘲しか浮かべられなかった。
 ヤクモの示した『家族』と云う枠組み。それを『家族ごっこ』でしかない、と、誰よりも理解しているのは己自身だ。
  つまりはいつかは棄てて終わらせる、つくりものの世界。
 (その中に──そうか、アンタも含まれているのか)
 空隙は有用たれば良い。暇は全て潰すに足れば良い。最期に壊すならば無為だが、『壊す』に足りる存在へと化せば化すだけ、良い。
 『家族』として思われれば思われるだけ、マサオミ自身が『壊す』まで、彼らはこの世界が作り物であると気付かないのだから。
 深入りし過ぎて情を移すなよ、といつだったかタイザンが寄越した警告に対して、とびきり偽悪めいた嗤いを見せた事を思い出す。
 リク達の前でいつかあんな風に嗤うのだろうか。今こうしてマサオミを平然と受け入れているヤクモやナズナは、その行為を無碍にされ果たしてどんな表情をするだろうか。
 (……アンタが失望する表情ってのはちょっと見てみたいかもな)
 そう薄ら暗い感情で思って、真横で、先程のマサオミと似た様な姿勢で隣に倒れ込んでいるヤクモの姿を密かに伺った。腕は大には拡げていないが、畳の上で仰向けに瞑目している、同じ年頃の闘神士。本人曰く『伝説などと云うご大層な煽りを付けられた』、然しその実衰えた天流には確かにそう扱われるべきなのだろう存在。
 あの透徹とした眼差しが、絶対的な強者として立つ彼が、どの様に揺らぐかに興味はある。家族を思うが故に、それを翻したマサオミに果たしてどの様な感情を向けて来るだろう?
 (結局俺はアンタが欲しいのか、それとも打ちのめしたいのやら……我ながら何だろうねコレは)
 どうにも倒錯的だなあと判じて、マサオミは大きく肩で息をついた。夕日の赤色に次第に染められる空を仰いで目を細める。
  予定『外』の人物がひとり加わっただけでこの有り様だ。それもこれも其奴が余りに甘い口調で『家族』を語るからだろう。不快な様で不快でもない、それは神流闘神士ガシンにとっては大問題だ。いつか壊す関係(せかい)には、あの時嗤った己の様に情など不要である故。
 (…………………そうか。俺は家族を取り戻すのに『家族』を棄てるのか)
 赤い残照の世界にまるで答えが書いてあったかの様に、万色の雲間を熱心に見つめてマサオミは口元を歪ませた。その侭の表情を落としていくと、隣ではいつの間にやらヤクモが細い吐息を繰り返し眠って仕舞っている。
 とは云え微睡みに似たものだろうから、何かを仕掛ければ直ぐに起き上がるだろう。特にそんなつもりもなかったが──、
 「……今日はなかなか愉しかったんだ」
 気付けば、静かな寝顔に向けて何故かそんな、言い訳の様な言葉を漏らしていた。
 応えはない。聞こえてもいまい。だが答えを求める様に、ねむるひとへと手がつと伸びて、

 「ただいま。マサオミさん、ヤクモさん、いらっしゃい」
 「ただいまー。わ、ホントに綺麗に片付いてるや……」
 「只今戻りました」
 ふと届いた子供らの声に、弾かれた様に玄関を振り返る。買い物帰りに偶然合流したのか、リクとソーマだけではなくナズナも一緒だった。
 「お帰り、お疲れ様。今お茶を煎れるから少し待っていてくれ」
 「ヤクモ様、その様な事は私がやりますので、」
 そうして彼らの声に自然と混じっているのは、今まで隣で無防備に眠っていたヤクモの声。はっとなってマサオミは頭を巡らせるが、横には既に誰の姿もなく、台所へと向かっていく後ろ姿だけが見つかった。
 「…………」
 薄ら暗い思考が途切れている。ただいま、と、そんな声が届いた途端に。まるで醒めたかの様に。
 白昼夢、と云うには些か時間は遅いが、そうとしか云い様のない妙な感覚に包まれて、思わずかぶりを振る。
 悪い夢だと云うならば、それは一体何処から始まっている?何処で醒めれば良い?
 「マサオミさん、どうかしたんですか?」
 卓に座りながら首を傾げてこちらを見つめて来る天流宗家──否、太刀花リクの姿を見返したのは然し一瞬。マサオミは直ぐにいつも通りの軽い笑顔へと表情を転じた。
 「いや?そんな事よりお帰り、リク。今日は伏魔殿で修行だったんだってな。知ってたら付き合えたんだが……すまんな、寝坊しちまって」
 「良いんですよ。修行を手伝ってくれるのは嬉しいですけど、マサオミさんが寝坊するのなんて珍しいから、きっと疲れてるんだなって思いましたし」
 「良く云うよ。肝心な時はいっつも大概いない癖にさ。疲れてるって云うならヤクモさんの方が余程の筈だぜ?」
 「ん?俺は伏魔殿歩きには慣れているからそれ程でもないんだぞ実は」
 「ヤクモ様は少し無理をし過ぎなのです!それに比べてマサオミ殿と来たら…」
 「そこで何で俺に振るかなあ。俺いつもさりげなく役に立ってると思うんだけど?」
 そうしてそんないつも通りの長閑な会話を交わし合って、笑い合う。
  慣れている為に容易いその偽装を含んだこの場は、果たして『家族』の様な姿なのか。
 (そうか。この中では、そんな惑いなんて不要なんだな)
 だから目を醒ましたのだ。あの暗い感情の空隙から。
 今はまだこれを壊す算段など、壊した後の夢想など必要無い。家族ごっこならば、それを思う侭望む侭に続けるだけだ。
 今日、目を醒ました時のあの、取り残された様な感覚が、それに餓えての寂しさであったのならば猶更。未だこれは必要なものだ。
 (そうだ…………今日は、愉しかったんだ)
 いまいちど咀嚼する様に呟いて、マサオミは束の間己を忘れた。この『家族』の存在を心底に得難く思いながら、笑う。

 いつか、この悪い夢が醒めるのであればそれはきっと己が望んだ時だ。
 それは『家族(お前達)』が必要無くなる時なのだろう。
 



「家族ごっこももう終わりだな」って所で、家族だと思ってたんだなあ、と思ったのと同時に、家族取り戻すのに家族ごっこしてたのか、と凄く複雑な気持ちになったのを思い出し。

白昼夢に似た幻想を内包した現実に理由など不要。恐らくそれは望みそのものだから。