ノングラータ



 停車ボタンを押したのは、いつもの停留所の四つ前。人の詰め込まれた車内に、何処か間の抜けたブザー音と次の停留所での停車を知らせるアナウンスが響く。
 週末の夕刻だからかどこか疲れた様な、然し浮ついた雰囲気を持ったバスの車内。駅から乗って来ていたから、ナナは己の概ねの指定席となっている最後部の隅の席で小さく溜息をついた。
 会社帰りの大人や学校帰りの学生、塾帰りの子供などで座席は全て埋まり、吊革にも多くの人々が掴まり、規則正しい車体の走行リズムに揺られている。
 手持ち無沙汰に手の中でもてあそんでいたパールピンクの携帯電話にふと視線を落とせば、ディスプレイに表示されている時刻は17:40。駅から住宅街方面に向かうこの路線は丁度今頃からが混雑のピークとなる。
 ついいつもの癖でこの、最も降りにくい席に腰を下ろして仕舞った事を、ナナは心の中でだけ毒づく。もうかなり慣れた事だと云うのに、未だ三回に一回はこのミスをやらかして仕舞うのだ。いつも下車する、あと四つ先の停留所ならばその間に通る集合住宅のお陰で殆どの乗客は既に降りているから、最後部の席でも何ら問題はない。
 停留所に着くまではもう何分もない。幸い隣に座しているのは痩せた女性で、足を組んでもいなければその下に荷物なども置いていない。通路に出る迄は簡単だろう。
 (その先は──ああ少し難しそう。大きなアタッシュケースを持った男性に、ランドセルを背負った男の子。次のおばさんは買い物帰りかしら、足下にスーパーの袋の入ったバッグを置いてる。蹴らない様にしないと)
 そうやってナナは順番に、人をどう避けて無事に出口まで辿り着くかと云う経路を気怠い心持ちで考えていたが、やがて溜息をついた。今度は先程よりも盛大に。隣の女性の注意が一瞬だけこちらに注がれるのを感じて、振り切る様に、景気よい音を立てて携帯電話を閉じる。
 (……何で私がこんな事してやらなくちゃいけないのかしらね)
 思わず毒づく矛先を転じた胸中で呻く。ほぼ毎週の様に同じ事をしていながらも、慣れずに座る席の失敗などをして仕舞うのは、結局の所己のこの行動に何ら義務感を抱いていないからだ。発端だって「なんとなく」だ。以前イヅナから話を偶然聞いていたのもあり、「なんとなく」気にした。それだけの。
 (つまり、一応は『惰性』と云えるんでしょうね)
 窓硝子に映った、どこか不機嫌そうな面持ちの己の顔を見返してやって、適当な結論がついた所でナナは思考を切り替えた。携帯電話を制服のスカートのポケットに押し込むと足下に置いた鞄を持ち上げる。
 そろそろ停留所が近い。降りる迄に時間がかかって仕舞うのは承知の上なのだから、せめて少しでも早く飛び出せる様に。
 
 *
 
 「……悪いことって続くのね」
 長い、人の殆ど通らない所為で雑草が生え放題となり、歩きにくいことこの上ない石段を登り終えた所で、予想だにしなかった光景と遭遇してナナは今度こそ口に出して呻いていた。
 色褪せた『KEEP OUT』のテープの向こう、廃墟と化した神社の境内にあった人影がこちらを振り返る前に、途中のコンビニでの小さな買い物袋を素早く背中に隠す。
 「…北条?」
 久し振りに目にした彼は、目深に被ったフードの下で少し緊張の気配さえも漂わせていた表情をきょとんとさせると、振り返らせた半身から力を抜いた。
 闘神士として在って、現世でも警戒を怠る事のないその様子から、成程彼の過ごしている『今』の生活振りが僅かとは云え伺えて、ナナは小さく息を吐くと『立ち入り禁止』とされている鳥居を横から回り込んで境内へと入って行った。佇む彼から未だ少しだけ距離を遠目に置いた侭、肩を竦める。
 「お久し振り、ヤクモ。相変わらずの様で安心したわ」
 バスでの失敗、そしてよりによって彼の帰郷している『この瞬間』に自分がやって来て仕舞ったと云うタイミングの悪さをこれ以上無い程に呪いながら、ナナは背後に隠したビニール袋が自分が動く度音を小さく立てるのに顔を顰めた。
 看破される事などまず無いだろうとは確信していても、自然と口調にも嫌味が五割程加味されて仕舞うのだが、案の定ヤクモはナナの毒など意にも介さなかった様だ。少し目元を弛めて柔らかい表情になる。
 「北条も。半年振りくらいになるか?今日はまた珍しい所で会ったな」
 云う顔付きは穏やかだが、その奥にあった苦さの様なものにナナは聡くも気付いて仕舞う。これは本当に悪いタイミングだった、と更に毒づく。失敗続きの自分にも、今日この瞬間に偶然ここに居た相手にも。
 ここ、太白神社が地流の襲撃を受け『無くなった』のはもうかなり前の事になるが、事態を聞きつけ訪ねた時にナナの見たヤクモの様子は、今でも忘れ難いものだった。
 『家』を奪われた事に対する衝撃、一歩運命の何かが狂っていたら『家族』そのものを失っていたかも知れない事に対する戦慄。それらを全て己の『無力』へと受け止め転換して、彼は淡々と事実を受け止め耐えていた。
 落ち込んだり憎んだり、と云った『前向きさ』の全く感じられない、然しその裡に溜め込んだ、何かを目指そうと見据えるヤクモの姿に、ナナは正直危うささえ憶えたものだ。
 なにかをひとつ、叶える為に目指す。
 その為ならば如何な代価をも支払う覚悟は出来ている──その感情はナナにもよく知る所にある。
 それは嘗て『復讐』の名前で彼女ら姉妹に取り憑き続けていた。姉のマリは一時は実の妹でたった一人の家族でもあるナナをもその名に、『犠牲』として支払う事をも躊躇わなかった事さえもあったのだ。
 だがヤクモはそれとは全く異なっていた。抱いた、『復讐』ですらないものへと彼が支払う代価は己そのもので、それ以外には何も足り得ていない。あの太極神との戦いでも、叶うのであればコゲンタをその犠牲(代価)になどさせなかっただろう。
 或いはその『犠牲』の経験──失ったものの大きさ故に、ヤクモは益々強くそう思ったのかも知れない。
 だからこそヤクモのその思いは、健全な程に真っ直ぐな癖に、酷く危険な破綻を孕んでいる気がして堪らないのだ。
 何も失わせまいとしていると云うのに、その代価が己であるのならば、彼は恐らくそれを全く躊躇いはすまい。そんな、紛れない矛盾。
 そうでなければここ数年の音信の途絶え振りは説明がつかない。つまりヤクモは、誰をも巻き込む事無く誰にも知られる事なく、ひとりで何かを為そうとしているのだ。それが太白神社の焼失と云う出来事に起因しているかまでは判然とはしないが、少なからず決意に足る『何か』を彼に促したのは確かだろう。
 (自分だけ犠牲になるなんて傲慢……、それともとんだ自信過剰かも知れないわね。ま、実際大概の事ならひとりでなんとでも出来る人だし。
 …………仮令本当に『自分だけの犠牲で済む』事が起きた時でも、彼がそれを躊躇うとは全く思えないし)
 そう云った事を『素』でやるからタチが悪いのだと、以前ヒトハと語り合った事をふと思い出して、ナナは自然と胡乱になって仕舞った目つきで、目の前のヤクモを睨み付けた。
 恐らくは何らかの感傷を抱いて此処に来たのだろう、彼を。
 「太白神社(ここ)に何か用事でもあったのか?」
 「別に。通りすがっただけ」
 ナナの内心になど到底気付く筈もないヤクモの至極真っ当な問いに、つい、と顔を逸らして殊更素っ気なく答える。がさ、と後ろ手にしたビニール袋が揺れたが、もう変に意識はしない。こちらは制服姿の女子高生だ。別に妙な取り合わせでも何でもない。
 「……こんな所を?」
 知らぬ振りで通そうと決めたナナは、訝しげな表情になるヤクモを完全に躱す事にした。肩にかかった長い髪を払う。
 「そ。偶々」
 「北条の家はこっちの方じゃないと思ったが?」
 「偶々」
 「…………偶々、ね」
 断固として『偶々通りすがった』と言い張るナナに、ヤクモは己の疑問を問い質す事を諦めたのか、苦笑と共に軽く肩を竦めてみせた。
 どう考えてもこの太白神社跡は、ナナが『偶々通りすが』る様な場所ではないのだが、今まで誰にも知れずこそこそとやって来ていた事だと云う自負に進行形の不機嫌も相俟って、こうなったら断固として知らぬ存ぜぬを通そうと密かに誓う。
 「偶々よ。それ以上でも以下でもなくね。大体、珍しいって云うならあなたの方が余程じゃない。どれだけ音信不通にしてると思ってるの?
 さっきの『半年』って目算。正確に云うなら七ヶ月と二週間ほどよ?」
 そうして誤魔化したその侭に鋭く切り返すと、ヤクモは「痛い所を突かれた」とでも云いたげな表情になり、軽く頬を掻いた。
 彼が何かを誤魔化す時に度々する仕草。変わっていない。
 「……あなたの家族も。私たちも。皆が心配しているって事は忘れないでよ」
 釘を刺す様に云いながらもナナは内心では、恐らく無駄だろう、と判って仕舞う。だから表情に悔しさが出るのを悟られない様に、顔を横に向けた侭でいた。
 「…………解っているよ。済まない、北条」
 静かな返答は、ヤクモもまたナナのそんな態度と本音とを理解した後のものの様だった。恐らくは何度も、様々な人に同じ事を同じ様な感情で云われ、その都度そう、どこか申し訳の無さを感じながらも、そう決意を変えるつもりなどこれっぽちも無く応えて来たのだろう。
 闘神士ではないヒトハよりも、元闘神士であるナナの方が幾分かはヤクモにその言葉を届かせる事は出来たのかも知れない。が──
 (気休めね)
 瞬時に否定すると、ナナは盛大な溜息をついた。
 果たして誰か居るのだろうか。彼に、彼を案ずる者として本当の意味での言葉を届かせる事の出来る、対等な人間は。
 「どうでも良いけどその格好、頓狂とか云うよりも不審者丸出しね。しかもこんなひとけのない場所で。誰かに遭遇したらどうする心算だったの?下手をしたら警察とか呼ばれるわよ?」
 色々と腹の立ったついでに忌憚なく云ってやると、ヤクモは平然とした所作で己の格好──砂色のマントに全身をすっぽり包んでいる──を見下ろしてから苦笑じみた表情を浮かべて見せる。
 「近いしそう長居する心算も無かったから、面倒だからこの侭来て仕舞っただけで、いつもならちゃんとコレは脱いでいるぞ。そう、今日は『偶々』。
 俺が『偶々』こうして居る時に、『偶々』北条が来た。それだけだろう」
 先のナナの言い分を真似しながら言い終えて、ふ、と。五年前よりも遠くを見つめる様な、淡くなった笑顔に変えてそう云うと、ヤクモはマントの下から闘神符を一枚だけ取り出して指先でくるりと回して見せた。いざとなったらコレもある、と云いたいらしい仕草に、ナナも合わせる様に微笑みを浮かべた。少しシニカルなのは意識してではなくいつもの事だ。
 両者の間に在る空気が僅かに和らいだその時。がさがさとナナの横にあった茂みが音を立てた。ナナは思わず身構えるが、ヤクモは軽く視線をそちらへと動かしただけだ。
 「にゃー」
 果たして、茂みから姿を覗かせたのは二匹の猫だった。家族かどうかは知れないが、二匹ともまだ若い野良猫で、太白神社跡にいつの間にやら住み着いている猫である。
 猫は二匹共、茂みから悠然と出て来ると、ナナの足下に擦り寄ってみせた。甘える様に頭を押しつけてぐるりと靴の周りを一周。後ろ手に提げたコンビニでの買い物袋を見上げ、もう一度「にゃー」と少し高い声で鳴く。
 「〜っあんたたち…!」
 何でよりによってこんなタイミングで出て来るのだと心底吼えながら、はっと我に返ったナナが眼前を向き直ってみれば、ヤクモは横を向いてくつくつと肩を震わせていた。
 「別に、いつもやってるとか云うんじゃなくって!イヅナさんも気にしてたみたいだし、部活が無くて暇な時だけ──って」
 (何余計な事まで云ってるの…!)
 絵に描いた様な間の抜けた己の云い種に、ナナは云いながら赤面した。逆ギレさえ起こせそうなその動揺っぷりに、ヤクモは未だ軽くくすくすと笑いながら、横を向いた侭で手を軽く振って寄越して来る。
 「いや、イヅナさんも以前云っていたし、北条がこんな所にわざわざ来るなんて、多分そうだろうとは思っていたんだ」
 つまり最初から『偶々』でもなんでも無い事は既にバレていた訳である。あっさりとしたヤクモの肯定に、ナナは苦々しい表情で息を吐いた。全く最初から今まで、今日は自分ばかりが莫迦をやらかしている。腹立ち半分、間抜けな己への自己嫌悪半分。
 「知ってるんなら最初から云いなさいよ」
 「北条が隠していたい様に見えたからな。黙っていようかと思っていたんだが──こうなったら仕方がないだろう?それより、腹を空かしているんだろうから、是非餌を上げてやってくれないか?」
 ちゃんと『お願い』らしく云われて、ナナは悔しさと恥ずかしさを誤魔化す様にふんと鼻息を吐いてから、後ろ手に持っていたコンビニ袋を地面に置き、自分も一緒にその横へとしゃがみこんだ。中から、途中で買って来た割り箸と紙皿と牛乳、猫用の缶詰をひとつ取り出すと、手慣れた仕草でそれらを開ける。
 ただでさえいつもより遅れた『食事』の時間に待ちくたびれていただろうに、猫たちは皿に盛られる餌に即座にがっつく様な真似はせず、缶詰の中身を丁寧に空けて行くナナの作業が終わるまでの間、足にぐるぐるとまとわりついたり時折頭を擦りつける様にしながら待っている。
 野良猫は何ヶ所か己の餌を得る事の出来る『家』を持っていると云う。ちゃんとそれぞれの家に愛想を尽かされない様に、定期的に順繰りと媚を売り売り巡る事も珍しくないのだとか。
 違う場所で違う名前で呼ばれ、お行儀よく立ち回り餌を貰って腹を満たす。それだけの知恵が彼らにあるのであれば、自分がこうして毎週の様にわざわざ──時に今日の様に幾つも失敗を重ねながら──やって来る意味など殆ど無いのではないか、と。そんな事も思わないでもない。
 それでもナナがこうして、以前イヅナに茶飲み話に聞かされた、太白神社跡に住んでいるらしき野良猫たちの面倒を──義務感からでは決して無いとは云え、見に来て仕舞うのかと問えば、答えはひとつ明確に。
 (彼との接点、ね)
 余りに躊躇いのない己の返答にナナは自分で仏頂面になり、缶詰から落とした猫餌のかたまりにざく、と乱暴に割り箸を突き立てた。挽肉に似たその感触に更に自分で顔を顰める。
 小学生の、小娘だった頃の自分であればいざ知らず、別段あの根っからの闘神士一辺倒の男に恋愛感情の類は抱いていないと確信も断言も出来る。
 確かに一度は、僅かな時間とは云え共闘した仲であるのだが。その最中では、姉から見捨てられ、敵だと見なしていた相手に命を救われ、信じていた上司からは裏切られ──列挙すれば「不運だった」の一言で済ませられては堪らない程に『色々』とあった。
 そして何より当時契約していた式神のネネとの別れやルリとの新たな契約……そう云った様々な出来事が立て続けに起こり、ナナにとっては悲しく辛く厳しい思い出と云える出来事でもある。
 故に正直、ヤクモと共闘した僅かな時間は、寧ろナナにとっては余り楽しい記憶ではないのだ。それは闘神士として生きて来たそれまでの人生がそこで否定されたから、と云う、感情ばかりでは語り尽くせない様な、もっと複雑なものをも秘めてはいるのだが。
 個人的に彼と云う人格をどう思うか、と問われたら、恐らく「好ましい」とは云える側に分類される。或いは闘神士(敵)としてではなく普通のクラスメートとして出会っていれば、子供らしい恋心ぐらいは抱けたのかも知れない。
 然し闘神士として生きる、吉川ヤクモと云う人間の本質を知れば知るだけそれは、ナナの恋愛的感性で云える「好ましい」部類から彼は到底除外されていくばかりだったのは否めない。
 普段はフランクな癖に、決定的な所で溝を作っておき、自分はそれを行き来する癖に他人には決して踏み込ませない──そんな、実に『闘神士(かれ)らしい』在り方に気付いた瞬間から、ナナの中でヤクモは恋愛事の対象の一切から外れた。
 何の事はない、直感で──莫迦らしいと思って仕舞ったからである。
 ならばその彼との接点を何かしら保とうとするこの行動は何なのだろう、と、これには少々答えを考えるのに間を生じた。
 ナナが進学したのは、京都(ここ)から電車で通わねばならない距離にある、付近ではそれなりに名の知れた進学校で、当然ヤクモが「家から近いから」と云うだけの考えで進路を定めた高校とは違う。家も特別近いと云う訳でもない。
 元より接点は、互いに闘神士だから、と云う一点が無ければ、繋がりもしない関係であったと云える(そもそもナナはヤクモ抹殺の作戦の為に京都──彼の家の近所へと引っ越して来たのだが)。
 ヒトハと異なり家族ぐるみの、それなりに知れた付き合いがあると云う訳でもないのに、そのヒトハに連れられたり自分でも何となく伺ったりしている間に、太白神社の闘神巫女であるイヅナと親睦を深める事となり、その関係は不定期とは云え未だ何となく続いている。時折何かの用事のついでに訪ね、女らしいと云うべきか──他愛もない茶飲み話に興じるだけなのだが。
 現在、闘神士として真っ当に活動をしていない(体裁上は辞めている)ナナが、現役闘神士であるヤクモと未だ保っている『接点』と云うのは、今では彼と直接こうして会う事よりも、イヅナやヒトハを介しての間接的に因るものの方が大きい。
 例えばそれは、こうして学校帰りに不満を抱えつつも何故か甲斐甲斐しく野良猫に餌を与えに来て仕舞う事のような。
 到底、『嫌い』な相手に関わる事では出来ない様な内容では、ある。
 確かに、恋愛的観点からは間違いなく除外するのだが、人間的な意味でのプラスの感情──そう云う『好ましさ』ならば、彼と云う闊達で屈託が無い人格に対しては抱けている。
 (そう……強いて云えばどうしようもない莫迦だから放っておけない、って云うか…)
 そんな思考の間にも手は無意識に、二匹の野良猫の鼻先へと、餌を崩して食べ易くしてやった紙皿を出してやっている。猫たちは「にゃー」とお愛想の様に頭から尻尾までをナナの足に擦りつけて回って、それから漸く紙皿に顔を突っ込んだ。
 そう空腹が深刻と云う訳でもなかったのか、二匹共特にがっつく事も争う事もなく、餌を咀嚼していく。その横で別の紙皿に紙パックの牛乳を空けてやってから、ナナはそっと猫の背に手を伸ばした。
 ぴく、と一瞬だけ警戒する様に震えた猫は、然しそれ以上の拒絶を顕わにはしない。この程度は餌を貰っている礼──お愛想のひとつなのか。少しザラついた毛並みを撫でるナナの動作を気にする事もない様な素振りで、黙って餌を食べ続けている。
 「……こっちが『ネネ』でこっちが『ルリ』。勝手に呼んでるだけだけど」
 ナナの背中側、少し離れた距離に変わらず佇み続けているヤクモに、気付けばナナはふとそう漏らしていた。猫の──自分の名付けで『ネネ』と呼ぶその背をゆっくりと、撫でながら。
 何故そんな、天気の話並にどうでも良い戯言を今彼の前で口にして仕舞っているのかは解らないが、どこか外界から隔絶されたかの様に超然と佇んでいたヤクモは、そのナナの一言で気配を僅かに転じた。
 その事に気付いて、宜しくない、とも、やっと注意を促せたか、とも、どちらともつかない感情が揺らめいている己に、ナナは本日何度目になるのか、僅かの自己嫌悪を抱く。
 (『遠く』からは戻って来たかも知れないけど、きっと……傷ついた表情をしている)
 それだけは確信していたから、ナナは決して振り返らぬ侭、黙って猫の──『ネネ』の背を、己の波立った内心とは反して優しく、手慰みに撫で続けた。
 (いつまでもこうやって、人の事で傷つく事が出来るなんて、ね……)
 契約の満了、と云う言葉を想起させるナナの発言に反応したのは、果たして己の事からではあるまいと云う確信もある。
 何故ならば、彼の白虎との『満了』はヤクモにとって、『傷』と云うものでは足り得ないからだ。
 強いて云えば『空隙(あな)』かも知れない。因って彼はそのことを思い出して傷ついたりは決してしない。だが、時に『落ちて』仕舞えば這い上がるのに相当を労するだろうとは皮肉にも想像に易い。『穴』とは成程言い得て巧い喩えである。
 今背後で、見ずとも解る──どこか悄然と微笑んでいるのだろう彼は、北条姉妹の通り超えて来た式神との絆に対して、傷みを憶えているのだ。
 ネネやルリとの別れに、ヤクモは決して直接的に関わった訳ではない。ネネの場合には間接的に関わったと云えなくもないが、どちらかと云えば無関係の域に居る。
 それでも──闘神士として在る事を常に強く意識する彼には、式神と闘神士との『分かたれ』を慮る癖がある。己の経験然り、他者然りで。
 食事を終えて満足したのか、毛繕いに興じ始めた『ネネ』の喉元に指を差し入れごろごろと鳴らせながら、ナナは傾きつつあった思考を断絶する様に髪を掻き上げた。はあ、と大仰な溜息を吐きながら、空いた片手で頬杖をつく。
 彼のそんな、途方もない優しさや甘さは、傍から見ればお節介な事極まりないものだ。因ってその辺りがナナの評価する『莫迦』に含まれているとも云える。
 (…………要するに私も人並み程度には貴方の事を心配出来ているって事か)
 吉川ヤクモと云う闘神士の在り方を知っているからこそ、その行動を励ましたり怒ったりしながらも案じてあげられる存在程度には、なっているのだと思いたい。
 (友達の心配ぐらい、したって良いじゃない)
 なんとなくむず痒さを憶えながらそう胸中で呟くと、ナナは思考を振り切る様に立ち上がった。足下では、触られていた事が気になるのか『ネネ』は盛んに毛繕いをしており、『ルリ』の方は紙皿の牛乳をちびちびと舐めている。
 こうして彼の領域にある野良猫に餌などあげにわざわざ、遠回りをしてまで太白神社(ここ)に立ち寄る、それは義務ではなく──願掛けの様なものだ。
 無論それは此処に彼が訪れている『偶々』のタイミングを待つ様な類ではなく、彼が『戻って』来た時に、彼の知る人間や世界の、変わっていないその有り様に安堵を憶えれば良いと云う。
 「……戻ってこないかも知れないから、戻ってこれる様にしておくぐらい、良いじゃない」
 ぐるり、とナナは背後のヤクモを振り返りながら、少し挑戦的な微笑を含ませそう云う。前後のナナの思考など無論知る由もないヤクモは、「え」と呆気に取られた様な表情になるとぱちりと瞬きをした。
 「…………いきなり何の話だ?」
 猫に餌をやっている間黙っているかと思えばいきなり謎の発言。ナナの唐突な転換に流石に、訳が解らないと云った様子になるヤクモの顔にあどけない疑問符が浮かぶのを見て、ナナはしてやったりと思いくすくすと笑った。
 最近はどこか隔離世のひとめいた雰囲気すら漂わせていた彼も、何のことはない。癖や挙措ばかりではなく、変わっていないと云えば変わっていないのだ。
 微笑の余韻を引き連れて、ナナはポケットから出した携帯電話で時刻を確認する。部活の無い日の帰宅時間としては若干遅いが未だ妥当な範囲。余り遅くなると姉を心配させる事になるかも知れない。
 足下に置いてある、猫缶を空けた紙皿やその空き缶、牛乳パックなどのゴミをまとめてコンビニの袋に放り込むと、口を軽く縛って持ち上げる。猫がその行方を名残惜しそうに見上げ「みぁ」と頼りなく鳴いた。
 また来週には来るわよ、と声には出さず囁きかけてやってから、ナナは手にしたゴミ袋をくるん、と軽快に回した。
 「じゃ、私はそろそろ帰るわね。貴方も、偶には『此処』じゃなくて『家族の所』にも帰ってあげなさいよ」
 敢えて『家』とは断定せずにそう告げると、ナナは未だ茫然とした感の強いヤクモに背を向けた。鳥居の横を抜けて、石段の正面に立った時。
 「北条」
 後ろから声をかけられ、ナナはゆるりと振り返った。
 神域と俗界とを遮る『門』を挟み、『KEEP OUT』の無粋なテープに遮られた彼我の姿は、既に遠く傾いた斜陽の痕跡も残らぬ、ただ濃い陰の遮る『夜』の領域に不気味な程に鮮やかに。
 その有り様と距離感とが、何とも己と彼との関係に相応しいと思えて、ナナは表情から先程までの微笑を意識せずに消していた。
 日常に帰結する事を選んだ闘神士と、日常に帰結する事の許されない闘神士との皮肉な配置にともすれば浮かびそうになる、苦笑を押し隠して。
 「ありがとう」
 やがて──実際はそう長い間も無かったのだろう、簡素で飾り気のない礼だけを、また淡く転じた微笑と共に寄越すと、ヤクモはナナの返答を待たずに背を向けた。途中で符を発動させ、その姿をそこから消して仕舞う。
 「………………」
 ナナは暫くの間、彼の消えた空間を挑む様に睨み付けていた。忠告を聞く気など二割程度も無さそうな態度に矢張り腹は立ったが、やがて鞄を背負い直すと石段を降り始める。
 なだらかとは云えない石段を、ローファーの割には結構な勢いで下って行く。足音の下に幾つかの感情を踏みしだいて、やがてナナは途中で足を止めた。空を仰ぐ様な角度になった太白神社跡を振り返り、口の中でだけ毒づいてかぶりを振る。
 恐らくはそれでも、来週にはまた変わらず此処に来ているのだろう自分を思えば、彼と自分と、果たしてどちらに呆れれば良いのやら判然ともせず。然しただひとつはっきりとしていた不満を「莫迦」と呟きひとつに乗せて、今度こそそこから背を向ける。
 ……手に届かない遠くの事物を眺める様な表情をされるのが、一番耐え難かった。




ナナとは多分互いに恋愛対象には成り得ないだろうなあとは。やっぱり初対面「……誰?」が大きい。ナナはナナでガチ闘神士のヤクモの本性を知っちゃってる訳だし。

"Persona non grata"