生殺与奪の権利は無いが、機会は確かに与えられた。 
 然し紅く染まったてのひらを振り払って、落ちた花弁を忌々しく見つめて。
 言い訳の様に、幾度目になるだろう、同じ事を呟いた。



  落下紅



 一見、尾瀬の風景でも思い出させそうな、草花の多い湿地帯。火の符を使い通り道の煩わしい水分だけを取り除いて、マサオミは長閑と云えなくもないそのフィールドを、爪を噛みながら歩いていた。
 『完ッ璧に見失ったね、ヤクモの事』
 「……煩いぞキバチヨ。見失ったと云っても奴の進行速度を考えればそんなに大した距離じゃない筈だ。この侭進めば直ぐに追いつけるさ」
 殊更に軽く云うのに応じる、いつになく苛々とした様子の契約者の姿に、神操機から霊体を覗かせていたキバチヨは肩を竦める仕草をすると、ふわりとマサオミの少し上の位置に浮遊した。
 額の上に手をやり、周囲をぐるりと見回す仕草をしてからもう一度肩を竦めてみせる。どうやら全く、探し求める相手の姿は近くにはないと云う事らしい。
 『ねぇマサオミ、一旦出直したらどうだい?アイツなら放っといてもどうせまた神流(誰か)の前に姿を現すだろうし。そうしたらまた追跡も出来るんだし。で、次からはいつも暇そうにふんぞり返ってるショウカク辺りにでも見張らせちゃうとかしちゃえばいいのさ』
 「それは駄目だ。彼奴は……天流のヤクモは必ず俺が倒す」
 珍しくも、底暗い翡翠色の瞳を炯々と。感情ばかりをギラギラさせてそう云うと、マサオミは懐から符を取りだし、後方より彼に襲いかかって来た妖怪に向け投げつけた。結果など見届けなくとも解っているから、振り返りもしない。キバチヨだけが後ろを向いて、ひゅー、と口笛を吹く素振りをした。
 「大勢の神流(なかま)が彼奴に倒されて、タイシンでさえ遂にやられた……そして俺自身もあいつとの勝負がついていないんだ。
 彼奴は──ヤクモは俺の獲物だ。他の奴に譲って堪るか!」
 疲労からのストレスもあってだろう、珍しく抑える事なく激情を露わにそう云い散らすマサオミを見て、キバチヨは三度肩を竦めた。
 『随分ご執心だね。単純に同じ青龍使いだから、ってワケじゃないだろ?それ』
 「……少なくともヤクモは只の青龍使いなんかじゃない。タイシンはマガホシの大降神を御する事が出来る闘神士だった。それを敗る事が出来た時点で──少なからずヤクモが式神を大降神させる事が出来る程の腕の持ち主なのは間違い無いだろう。
 だが、天流と地流には完全に制御が取れた大降神を起こせる印や技は伝わってない筈だ。あれはウツホ様が俺達神流に直々に伝えて下さった唯一の術なんだぞ……?
 つまりヤクモは大降神以外の──以上の力を何かまだ隠している、と云う事か?」
 大降神とは式神の、戦闘能力のみを引き出した姿、つまりは力そのものの具現でもある。その力の指向性を制御された大降神と、暴走し眼前の敵に向かうだけの大降神とでは、どちらが有利かなどとは──云う迄もない。
 地流の幹部たちには四鬼門の制御の目的もあって大降神の情報を上手く伝えてあるが、天流の者たちにはそう言った情報は一切漏らしてはいない。ウツホから神流へ伝えられたその技は文献などにもなっていない筈だ。
 まさかそんな事が、とぶつぶつと呟きながら考えに沈んで仕舞うマサオミを見下ろして、キバチヨは指を一本立てた。
 『さあねぇ…。そう云えば彼奴って僕らと戦った時には闘神機を使ってただろ?そもそもアレの出力を考えると彼奴が大降神を倒せたとはとても思えないんだけどねぇ?』
 「……言われてみればそうだな。今天流や地流の闘神士達の間では神操機を使う事が当たり前だ。印の数が多く式神のポテンシャルを最大限に引き出してるとは言い難い闘神機を何故使い続けているんだ…?
 ひょっとしたらそこにも何か、奴の強さについての秘密があるのかも知れないな…」
 『……ほんとマサオミ君は彼奴の事気に入ってるんだねぇ』
 眉間に皺を寄せて小さく呻く契約者の姿に、キバチヨはぽつり、と小さく呟くが、考えに沈むマサオミの耳にそれは入らなかった。
 
 *

 幾つかのフィールドをその後も抜け、次にマサオミが出たのは所々に常緑の木々を抱いた潤沢な草原だった。その割には辺りに咲いている花は冬のものが殆どで、どことなくアンバランスな印象を抱かせる。
 「寒椿が咲いてるってのに、足下は青々としてるんだな」
 椿だけを見れば雪でも似合いそうな風景ではある。尤もマサオミは、命に関わる冬の象徴でもある雪が余り好きでは無かったのだが。
 空を見上げると、薄い灰色の、実に景気の悪そうな天候(そら)が拡がっていた。全く以て追跡する相手に追いつかない、そんな苛立ちも含めて天気の悪さに八つ当たりでもしたくもなるが、気力・体力の無駄遣いになるだけなのは流石に解っているので自制。
 マサオミはジャケットのポケットに両手を突っ込んで、油断無く周囲を窺いながら少しづつ歩を進めていった。



 「それは違うな。天流で青龍を使うのは、この俺だ」

 そう、見据えた瞳を思い出す。
 遠目に、白砂の反射を映して金色にも見えた、鮮烈で透徹とした眼差しだった。
 それはとても静かで、それでいて何よりも雄弁。
 裡にひかるものは、強さ。自信。信念。あらゆる正しきものを己に詰め込んだかの様な、全き迷いの無い瞳だった。
 実の所、同じ青龍の式神と契約しているからとは云え、天流だとか地流だとかで何か決まりがある訳でも何でも無い。
 更には天流の闘神巫女であるナズナの様子を見る限り、天流闘神士の誰が何の式神を使役しているとかそう云う所までは、組織立った地流とは異なり互いに知り得ていないのが現状。
 ただ、式神の中でも、玄武、白虎、朱雀、青龍の四体は四神と冠される四方大地の担い手であり、それ故にか種族数がそう多くないらしく、また彼らの眼鏡に適う闘神士と云うのもそれなり珍しいと云うのが今までの歴史を振り返って出る専らの説である。
 故に「四神と契約している」と云う事は流派内での少なからずの売り込み言葉になり、重宝されたり尊敬されたりと云った評価をもたらすのだ。(実際式神の潜在能力が高くとも、契約した闘神士の力量がその発揮出来る力を左右する為、種族に因っての優位などは殆ど無いのだが)
 その事を知っていたマサオミは敢えて『天流の青龍使い』と己を強調し名乗る様にして来た。案の定太刀花リクらはそれを額面通りに受け取って、マサオミの事を『頼りになる闘神士の先輩』と云う目で見てくれている訳だが──、
 ともあれ。あそこでヤクモに向かってそう名乗った時に、然し彼はそれをその侭返して来た。先に挙げた通りに四神の契約者だからと云って天流に一人地流に一人などと言う決まり事は無論無い。ヤクモ程の闘神士であればそんな事ぐらいは承知だろう。
 それでも敢えて「違う」と返して来たのは恐らく、マサオミが「四神使いだ」と名乗る事で少なからず益を得て来た事を見抜いたからに違い無い。
 式神(キバチヨ)の威を借りて名乗って来た、そのもたらす効果を知っている為に、それを利してマサオミが浅ましい名乗りを上げて来たと云う事までを恐らくヤクモは見抜いたのだ。
 見抜いたからこそ、当て擦る様にああ云って来たのだ。「天流の青龍使い」などと云う肩書きを声高に宣う事に意味など無いと知っているのだろう?と云う意図を込めて。
 そもそもヤクモはあそこでマサオミが待ち合わせをしていた神流の仲間を倒して来ていた時点で、マサオミが神流の関係者、或いは神流の一員であると云う事を疑っていた筈だ。
 それだと云うのにあの場でつい「地流の闘神士か?」とヤクモに問いて仕舞ったのは大きなミスだったとしか云い様がない。マサオミがそう口を滑らせた所為で、ヤクモの頭にあった闘神士派閥の候補から天流と地流は両方削除されて仕舞ったのだから。
 それも踏まえて「違う」と云って来たのだとすれば──何と云う性格の悪い男だろうと思わずにはいられない。
 「天流の青龍使い」と云う、マサオミが偽りで名乗る肩書きの嘘、そして意味の無さを。それと「お前は天流ではないだろう」と暗に示す為の、静かな否定。
 「………本ッ当何処までも嫌味な奴に違いないな、ヤクモってのは」
 そこまで考えてから思わず呻く。
 あの邂逅から、まずは対策としてマサオミはタイザンに頼み『天流のヤクモ』の事を調べさせた。
 地流のデータベースに収められている情報は、ヤクモ自身が地流に動きを捕捉される事が少ない為にかそう多くは無かったが、成程解り易い存在ではあった。プリントアウトされた書面に刻まれた簡素な経歴は華々しいと云えば華々しい。

 ・六年前、当時天流最強の闘神士であったマホロバの起こした天流内部の乱に単身挑み、五行に各々特化したマホロバの高弟らとその配下を打ち破る。
 ・その後マホロバと、彼の式神白虎のランゲツ(逆式を起こしていたとされる)をも撃破。
 ・直後発生した太極神と云う『災害』を鎮めたのも状況から見てヤクモ当人である可能性が高いが、これについての詳細は不明。
 ・以降天流最強の闘神士と目されるが、当人にその後目立った行動は無い。(天流側の情報工作の可能性高し。近年の幾つかの妖怪事件等には明かに彼が関わったとされているものが少なくない)
 ・地流伏魔殿探索チームが天流のヤクモと思しき闘神士を、伏魔殿内で幾度か確認。(未確認情報や誤報も含む)この事とヤクモが天流内部では異例の存在である事を合わせると、彼が伏魔殿へと降り何かを行っている可能性は高いと云える。(※対策待ち)

 地流の誇るデータにしては異例にもたったそれだけの活字の羅列が、隠し撮りなのだろう、精度も角度も悪い写真画像の下に、何処から入手したのやら各種個人情報と共に並べられている。
 然し闘神士としては肝心な、式神の種類やその得意とする戦法についてなどは全くの空白で、これでは資料としての意など期待出来そうにないのだが、その書面をマサオミは幾度となく読み返した。『情報』と云う活字の向こうに実際会ったヤクモの姿を透かし見て、果たしてそこから何かを読み取れないかと巡らせる様に。
 地流側の資料に加え、神流の仲間からの情報に因ると、今までの彼の『経歴』の物語る実力は通常の闘神士の追随を許さぬ域であり、大降神や逆式や術に因る強化などの手段を除けば、現在確認されている闘神士の中では彼の実力は未知数と云うほかない。
 そんな闘神士が、何故か人目を憚る様に伏魔殿の中を探索している。この事実の裏にあるのが如何な意図かは知れないが、マサオミら神流にとっては厄介な事極まりない。最も危険な相手が、最も困難な──然し確実に神流の急所となる部分へと迫ろうとしているのだから。
 これに加え更に、天流のヤクモには未知の部分が多すぎる。測れるのは実力ないし目的。推測するのも実力ないし目的。詰まる所書面や客観視以上には何ひとつ読めておらず判明していないのが現状と云う事だ。
 天流のヤクモに対するそれらの情報と事実とに付随し、マサオミが抱く感想は──概ねの点で不可解。
 探り合う様な最初の戦い。神流を追いながらも追いつかせない速度で伏魔殿を彼が複数日にも渡り闊歩している現状。リクを伴い何故か名落宮から帰って来た事(ただの人間の闘神士が自らの式神を連れて名落宮へ行くなど正気の沙汰ではないとマサオミは思っている)。
 『敵』と云う点で。或いは『障碍』と云う面で。加えて、『個人的』、と云う点で。マサオミは確かにキバチヨの指摘が正しい程度にはヤクモと云う存在へ興味や執着を抱くに至っていたのだが、こうして考えれば考える程、果たして己はヤクモを理解したいのか、それとも理解の適うものではないと払い除けたいのかがどうにも解らなくなる。
 闘神士にではなく特定の個人に拘泥する余りに、何か本質的な事を見逃している様な違和感を自覚し、マサオミはポケットの中で密かに拳を握って、開いた。溜息。

 『マサオミ』

 そんな時に不意にかけられたキバチヨの声は、いつもの何処か巫山戯た調子ではない。深淵から引かれる様な意識にマサオミは思わずはっとなって身構えた。思考に埋没しすぎて、妖怪や地流闘神士の接近に気付くのが遅れたのだろうかと危惧する。
 「どうしたキバチヨ」
 油断なく、胸に仕舞った神操機に手を触れさせながら云うと、頭の少し上辺りに浮かんだキバチヨの霊体は無造作にマサオミの進路の先を指差した。
 「何が……──!」
 問いかけ、然し直ぐに気付いて息を呑む。咄嗟に隠れる場所を探すが、生憎周囲には灌木一つ無い。代わりに隠行を発動すべく符を手でまさぐりながらも、目についたそれから視線は決して外さない。
 くすんだ砂色の布が、下生えの草の間に僅か揺れているのが見える。先にある、なかなか立派な椿の木が数本生えている所。
 「……?なんだ、マントだけ、か?」
 思わず呻く。見覚えのある色をした布が揺れているのは、とてもそれを纏う人間が立っているのであれば有り得ない位置だ。
 『いや、寝てるみたいに見えなくもないよ?』
 そう云うキバチヨはマサオミよりも高い視点でものを見ているので、マントだけが脱ぎ捨ててある、と云う訳では無さそうだ。
 「……寝てる?こんな所で??符で障壁も展開せずに???彼奴が????」
 そんな馬鹿な、と眉を寄せる。あの見覚えのあるマントは間違い無く、ヤクモが纏っているものだろう。他に伏魔殿に出入りしている闘神士の中であんな格好をしている者はいない。
 神流は皆狩衣に戦装束が基本だし、地流は伏魔殿探索部規格の制服を着ている事が殆どだ。何れにしてもあんなマントを羽織って時代錯誤な空気を醸し出しているのは、マサオミの知る限りヤクモしかいない。
 そしてキバチヨ曰くマントだけではなく『中身』もちゃんと居る様なので、寝ている、と云う表現は間違いではなさそうだが。
 (それにしても、伏魔殿を何年も探索していて、神流から思い切り『発見次第殺害ないし捕獲。但し生死は問わず』なんて、命を取る気満々で手配されている闘神士がこんな所で呑気に寝る筈など。無い。だろ?)
 思考の末尾が上がって仕舞うのは否めない。マサオミは警戒を解かない侭、いつでも神操機を扱える様にすると気配を殺してヤクモ(らしき物体)の方へと近付いて行った。
 気配を消す為にキバチヨの霊体も完全に神操機の中へと引っ込む。
 さく。さく、とマサオミが草を踏んで歩く音だけがやけに大きく耳に響く。

 起きろ、早く起きろ。起き上がって、闘神機を突き付けろ。

 そう祈る様に想いながら、ゆっくりと距離を詰めて行く。
 近付いて行く内に段々と、相手がどんな状態をしているのかが解って来た。
 椿の木の下に、ヤクモは寝ている。腰を少し曲げて、横向きに。
 フードは既に脱げており、鳶色の髪と砂色のマントの裾とが時折そよぐ風に揺れている。マサオミの印象に強い、あの琥珀の瞳は残念ながら髪に隠れて今は見えない。
 その周囲に毒々しい程に紅い椿の花が落ちている有り様が、何だか血を流して倒れている様な錯覚を連想させ、本能的にぞくりとする。
 そう云えば椿の花は、花首がその侭の姿でぽろりと落ちるから、まるで首が落ちる時の様である、と喩えられる。美しい紅色をした、死を連想させる不吉な花だ。
 マサオミは自分でそう考えて仕舞ってから、その不吉な想像をかぶりを振って払った。
 あと一息。闘神士同士が式神を降神し合い戦う距離に、ほど近い処まで来て。
 それでもなお、ぴくりとも動かないヤクモの姿を見て。
 マサオミは不意に違和感に気付いた。
 椿の木の根元で、腰を曲げて横向きに、少し丸まるようにして倒れた姿。
 例えばヤクモが木に寄りかかっていたのだとして、その侭傾いて倒れたら丁度こんな姿勢にはならないだろうか……?
 落ちた椿の花達が不気味に取り囲む中で、その想像は余りにも合致し過ぎていた。
 「まさか………死んでるのか?」
 こんな敵地の最中で、符も使わずに無防備に転がっている。その意味は。訳は。
 恐る恐る呟いて、マサオミは最後の一歩を進めた。
 その瞬間ふわりとヤクモの横に、半透明の青龍が浮かび上がった。よくよく確認するまでもなく、闘神機の中から姿だけを出している霊体の状態であり、降神はされていない。
 自分の神操機の中でキバチヨが好戦的な気配を出し始めるのを、神操機をジャケットの上から撫でる事で諫め、マサオミは更に一歩、倒れるヤクモへと距離を詰めた。
 すると霊体の青龍は厳しい瞳を見せ、マサオミの行動を制するかの様に進み出てヤクモを庇う様な位置に立った。幾ら式神とは云え霊体の姿ではそんな行動など何の意味もないのだが、その様子を見てマサオミはヤクモの身に何かがあったのだと確信した。
 「アンタ、此奴の契約してる青龍だよな。名前は……〜えっと、…なんだっけ、忘れちまったが」
 『………青龍のブリュネであります』
 ヤクモとの過日の一件を特別に記憶に刻んでいたと云いたくは無くて、態と考えて口にしたマサオミに、青龍は律儀にもそう答えて来た。
 「わざわざご丁寧にどーも。で、其奴は一体どうしちまったんだ?式神(アンタ)がまだ居るって事は別に死んじまった訳じゃ、無いんだよな?」
 問いかけは、何となく。恐る恐る、と云った感じになった。
 『……………』
 案の定か、マサオミの問いに青龍は黙りこくった。
 何があったのかは知らないが、余り尋常とは云えない状況。しかもそれが己の契約者の不利となる事であれば、そう易々と口は割らないだろう。
 薄く透けて見える青龍を透してマサオミは、その向こうのヤクモの姿を無遠慮に観察する。あからさまな観察眼の意強い視線を移動させる度、青龍が憮然とした表情を動かす。
 式神に警戒を以て見つめられる、緊張感の漂う中でマサオミは更に一歩を進めた。青龍が激しい威嚇の意を込め、ヤクモを庇うべく身構える。
 降神されていなければ無力と云えど──その式神の心に、マサオミは酷い憐憫を憶える。
 ここまで来たら、詳細は判然としないが、流石に事態は何となく読めている。
 ヤクモは現在何らかの理由で戦闘を行えない状態であり、その意識さえも無事ではない。それを、無駄と知りつつ守る為にこの式神は姿を見せているのだ。
 守りたいものを、守れない。そんな無力感。それは嘗て己が痛感し──未だ抱える想いだ。
 「…そうまでして契約闘神士を守りたい、か。まあそりゃそうだよな、闘神士が死んだら式神は名落宮直行だ」
 『否、であります。我…、いえ自分はヤクモ様をお守りしたいだけであります』
 マサオミの偽悪めいた呟きに、反射的なのだろう、生真面目な声で青龍が答える。一瞬目を瞠るが、恐らくは自分が同じ立場に置かれたら、同じ様にキバチヨもそう云ってくれるだろうな、と思い。その瞬間に肯定の気配を感じて、こんな状況だと云うのに自然と笑みが浮かぶ。
 『……この様な事を申し上げるのは心苦しいのでありますが──どうかこの場は見逃しては頂けないでありますか』
 その笑みを打ち消す様に青龍が神妙に頭を下げるのを見て、弛みかけていたマサオミの表情が思わず歪む。
 「そいつは天流のヤクモだ。今まで俺の知り合いや仲間を何人も倒して来てる。闘神士として神操機で契約をしている者が、式神を倒される事でどんな末路を迎えるかを──まさか知らない筈があるまい?!
 中には今のアンタの様に、契約主を救えない無力感の中で散っていった式神も居た筈だ」
 『──なれば!この神操機を破壊すれば良いのであります!さすればヤクモ様は闘神士たる資格を失い、貴殿らの脅威には二度となりはすまい…!
 式神たる自分はどうなっても構わないであります。だが、ヤクモ様のお命ばかりは──!』
 記憶と云う絆を失う事なく、ただその生が存続さえすれば、と。彼の式神は只管にそれを願い叫ぶ。マサオミは前代未聞の、契約者の命乞いをする式神を思わず茫然と見返していた。
 「……………」
 我知らず、マサオミの裡に浮かんだのは苦い感情。

 ──あねうえ、あねうえ!

 必死で叫んで、倒れた姉に駆け寄ろうとするが、必死で伸ばしたその手は然し届かない。
 それは幾度も繰り返し見た悪夢。守られて終わり、救えなかった。救いたい人たちを今も思って此処に居る、マサオミと云う闘神士を構成してきた、無力を悔い続けた一つの強い思い。
 (馬鹿げて、る。式神にそれを共感して、どうする…)
 呻くが、倒れているヤクモの姿と、闘神機を破壊され気力を喪い倒れた姉の姿とが、何故か重なって見えて。マサオミは喉奥から溢れそうになる絶叫を必死で堪えた。
 そうして無造作に、契約闘神士であるヤクモを守ろうと必死に懇願する青龍をすり抜け、マサオミはその横に膝をついた。
 そっと手を伸ばし、顔にかかった髪を掻き分けると、色を喪った顔と力無く閉ざされた瞼とが露わにされる。
 あの時全てを見透す様に見据えて来たあの、金色にも見えた琥珀の瞳はそこには無くて、マサオミは我知らず不可解な安堵を漏らしていた。
 軽く、頬から首筋へと手を這わせるが、倒れた躯は僅かにも反応を示そうとはしない。
 今ならば簡単に仕留められる、と思うが──それは厭だ、と即時己の答えが返りマサオミは狼狽した。
 否、と思う。
 こいつを殺せても意味がない。こいつを、屈服させなければ──意味がない。ひとごろしをしたい訳ではない。勝つ為には、戦わなければ意味がない。
 仲間の仇、と思うのであればこの場で神操機を破壊し闘神士を下ろすべきだ。
 だが、それではあの時にマサオミはヤクモに『負かされた』侭で終わって仕舞う。
 式神同士の戦い──闘神士同士の戦いは決着をつけずに終わった。
 だが、相対した精神では、マサオミは確かにヤクモに打ちのめされていたのだ。
 あの、正しく全てを見透した様な目に。不可解の侭。
 『……マサオミ君の考えてる事は大体解るけどさ。実際問題として──どうするの?』
 迷うマサオミの思考に、タイミングよくキバチヨが囁きを挟んで来る。
 ここで仕留める事は、正直──我ながら今ひとつすっきりしない理由ではあるが、したくない様だ。
 キバチヨもそれは解っている。だからこそどうするのかと問う。
 捕らえて神流(なかま)の元へと届けるのか、
 青龍の云う様に神操機──でも闘神機でもいいが──を破壊して無力化させるのか、
 どうにか目覚めさせて無理矢理に勝負にでも持ち込む、のか。
 何れも利口な考えとは言い難い気がして、マサオミは苛々と爪を噛んだ。
 「………取り敢えず、何で此奴がこんな所に倒れてるのか。それを教えてくれないかな?ここまで来たならもう隠す必要もないだろう」
 『…………』
 再び沈黙する青龍をちらりと見て、随分と口が堅い事だ、と思いながらマサオミは再びヤクモへと視線を落とした。
 横たわった身体には力も生気もまるでなく、端正な横顔は蒼白とも云って良い顔色で、薄く開かれた唇からはか細い、指を近づけなければ解らない程の弱々しい呼吸。
 「ん?」
 ふと、視界に僅かの違和感を憶えて、マサオミはヤクモが寄りかかっていたのだろう椿の木の根元を見た。
 散った紅い花の海の中に、花とは違う紅い色彩が。
 「──」
 はっとなってマサオミはヤクモの纏っているマントを大きく捲り上げ、そこで息を呑んだ。
 「っなん、」
 マントの下が黒い服だったので解りづらかったが、ヤクモの背中、腹の裏側の部分が真っ赤に濡れていた。捲ったマントの裏地を見ると、そこもまた鮮やかに重たく、紅い色彩でぐっしょりと染められている。
 反射的な行動で、マサオミはヤクモの首当てを解いて外すとマントを一気に剥ぎ取った。傷口が上になる様に身体を俯せに転がし、着衣を慎重に捲り上げる。
 乾いた血と傷口とが貼り付いていると思っていたのだが、着衣は湿って重いばかりですんなりと剥がれて、皮膚の上のその傷口を晒けだした。その感触と、傷口を濡らす鮮やかな血の色と臭いとに激しい眩暈を憶え、マサオミは思わず口元を覆った。
 「血が、止まってさえいないじゃないか……!」
 そう云ったから、と云う訳ではないだろうが、捲った着衣の下からはらりと闘神符が落ちた。思わず拾って検分すると、どうやら血止めに使って(或いは使おうとして)いたらしいのだが、全くその役には立っていなかったのは──現状を見ても明らかだ。
 「一体何やらかしたんだ此奴は!」
 呻いて青龍を見上げる。すると青龍は鎮痛な面持ちで漸く言を紡ぎ始めた。
 『…地流の者が巨大な妖怪の襲撃を受けているのに遭遇し、彼らを逃がす為にヤクモ様は式神を降神させたのであります。が、それに動揺した地流の者は逆に、妖怪へと戦いを開始した式神へと己の式神をぶつけようとして来たのであります。
 ヤクモ様は符を用いて地流の式神を撃退する事を望まず、自らの身で式神を守りに、』
 「──、!!」
 声にならない呆れに思わず眩暈を憶える。憤慨なのか嘲笑なのかよく解らない苛立ちに、然しマサオミには何故かその様子がまざまざと想像出来て仕舞った。
 遠くから妖怪と、それに追われる未熟な地流闘神士を発見したヤクモは己の式神を降神させ、彼らが逃げおおせる迄の足止めを行おうとしたのだろう。
 所が現れた新たな式神(てき)に、パニックに陥っていた地流闘神士は己の式神に、敵を倒せと命じる。
 ヤクモが降神した式神は妖怪を滅する為の必殺技を放っていて、その背はまるで無防備。
 それを見たヤクモは己の式神を守るべく符を取りだしかけ、しかしそれで『敵』の謂われも無い地流の闘神士を──式神を滅して仕舞う事を恐れ、己の身を間に飛び込ませ、符で障壁を展開した──
 妖怪は倒したが、咄嗟の事態に混乱した侭の地流闘神士は伏魔殿の恐怖に戦きながら撤退し、後には、己の式神の無事を確認し、傷に呻きながら「大丈夫だ」そう云って再び歩き出そうとする、彼の姿。
 応急手当に符を使っても、消耗しきった傷と体力では侭ならず。脱出する符を使うにも気力が届かず、力尽きる様に椿の木へと倒れ込んだ。
 恐らくはそう違えていないだろう、そんな有り様。
 『故に──、』
 と、何か続きを言いかけた青龍の姿が霞んだかと思うと、ヤクモの腰に提げられた神操機の中へと消えて仕舞う。それきり全く反応が無いのを見ると、どうやら僅かに残留していたヤクモの気力が切れ、式神が霊体ですら出現させるに至らなくなった様だ。
 つまりそれは闘神士が瀕死の状態に陥っていると云う証。
 「……此奴は、とんでもないお人好しか莫迦かのどっちかだな……」
 己の想像と目の前の闘神士の行動との間に大差はないだろうと何となく確信して仕舞い、呻きながらマサオミは符を取り出した。傷口の上へと翳し発動させると『浄』の文字が光と共に浮かんで消える。
 続けていつも持ち歩いている清潔な手布を取り出すと傷口を強く抑え、悪いとは思いつつもヤクモのマントの裾を少々破って巻き付け固定する。布は直ぐに血を吸って真っ赤になって行くばかりで、マサオミはそれを見て顔を歪める。
 「まずい、この侭にしておいたら失血死は確実だぞ…!早い所病院か、強力な癒しの使い手の所に連れて行くべきだ」
 取り敢えず応急処置の最後に符を発動させ、刻の流れを停滞させる事で極力出血をくい止める。
 傷口を押さえても生体反射以外に体が微動にしないのは、意識が完全に無いと云う事だ。この侭放置しておけば確実に、そう遠くない時間の内にヤクモは死ぬ。
 「────、」
 死ぬ、ともう一度呟き、マサオミは奇妙な感覚を憶えた。
 俺が此奴を追いかけて来たのは、仲間の仇を取る事が目的ではなかったのか、と呻き、もう一度、色を喪った顔を見降ろす。
 放っておけば死ぬ。手を下す迄もない。だが。
 思わず舌打ちし、マサオミはヤクモの身体を肩の上に担ぎ上げた。マントも拾ってやって小脇に抱えると、符を発動させる。
 『うん、まあそうすると思ってたよ。急いだ方が良いよマサオミ。折角助けてやろうとしてるのが無駄になっちゃうからね』
 キバチヨがぼやきながら神操機の中へと戻る。無駄になる、と云うのは勿論、ヤクモがこの侭死ぬ、と云う事だ。
 「冗談じゃない……こんなすっきりしない侭死なれて堪るか…!」
 やけくその様にそう叫ぶと、マサオミは障子の形の扉を潜った。伏魔殿を飛ぶ。




タイミングとしては25話・零神操機開封&タイシン撃破後のいつか。この少し前にマサオミが必死でヤクモのストーカーをしていたのが印象的だったので、12話以降ずっとストーキングしているのだろうと云う想定で。

落ちる紅。落花でもよかった。