散華有情 間仕切りの戸を閉じてさえ仕舞えば、余り広いとも云えない台所にも一応の静寂が落ちる。その手応えで漸くひとりになれた事を実感出来たヤクモは、意識して詰めていた息をゆるりと吐き出した。 油断をすれば即座に傾きかかる意識を、かぶりを強く振って留める。気を詰める必要がひととき無くなったとは云え、未だ倒れる訳にはいかない事に変わりはないのだ。 見慣れた太刀花家の台所。背にした戸の向こうからは、主にナズナとソーマとの賑やかな遣り取りが聞こえてくる。 そこからは、つい先程まで死力を尽くして戦っていた様子などは微塵も伺えない。世界も人の心も、戦いが終わった先に在るのは紛れなく平和──日常だ。 再びここに戻ってくることが出来た。家族ごっこ、と一度は嘲りを受けたこの場所に。関係に。 耳を峙てる迄もなく実感はそこにある。そのことを殊更に強く安堵として受け止めて、ヤクモは口元を緩めながら居間と台所とを隔てる戸から離れた。惜しむ気持ちはあったが、取り戻せた平和を堪能するのは後からでもゆっくり出来る。 浴室の前には脱衣籠が置いてある。その脇に先程ナズナから手渡されたタオルを置き、着衣に手をかけそこで暫し静止。少しの間の後、ヤクモは己の右腕をそろそろと持ち上げ、僅かに顔を顰めた。 続けて己の身体をぺたぺたと上から探って行き、どの箇所にどの程度の怪我があるかをざっと確認する。ざっと見て解るだけでも擦傷切傷が数えるのに飽く程ある上、目では見えない挫傷や骨折もある。おまけに気力体力は枯渇寸前と来たもので、ヤクモの現状の体調はと言えば、まるで消える寸前の蝋燭の様な状態であった。 正直今まではどちらかと云えば、気力の限界に傾きつつある意識を保つ事に気を注いでいた為、ヤクモは負傷の程度や痛みについては極力考えない様にしていた。とは云え完全に無視出来る程に軽い症状では無い事ぐらい確かめる迄も無く解っている。 「……止痛、はしない方が良いだろうな……」 咄嗟に思い浮かべた闘神符への頼りは真っ先に否定しておく。気力もいい加減限界に近いこの状態で符を使うのなど以ての外だ。 『暫し我慢されるしかないでおじゃるね…多分。普段のヤクモ様ならばいざ知らず、今のヤクモ様では昏睡に陥るのが目に見えておじゃる』 「やっぱり?」 無理は禁物だ、と暗に示して来るサネマロの苦い言葉に、ヤクモも苦笑を浮かべながら奥歯を噛んだ。目を閉じて、シャツの裾に手をかけると上を一息に脱ぎ去る。 その動作で否応なく襲い来た、ずきずきと右腕を中心に神経を苛む新鮮な痛みに渋面を隠さず、ヤクモは脱いだシャツを脱衣籠の中へ投げ入れる。想像以上に良くない怪我の程度に向ける文句は然し出ない。 「介添えでもして貰いたいぐらいだが、降神なんて符より論外だよなぁ」 冗談めいてそう笑うと、ヤクモはジーンズの腰に下げた紅い神操機を外し、籠の上にそっと置く。 いっそ先程受けた申し出通りにマサオミに手伝いを要求しても良かっただろうかとちらりと思うが、自分の世話も自分で侭ならなくなる程に弱っているとは思いたくないし、何より不本意だ。 少々いつもよりも苦労して、なんとか身一つになった所で浴室の扉を開ければ、涌かされた湯の温度がふわりと素肌を暖かく包んで来た。その感覚に思わず目蓋を弛めかけたヤクモは、気絶へと落ちかかる意識を活性化させようと総動員した。目を擦って振り返ると脱衣籠の上に乗せた神操機を取り上げ、携えた侭浴室に入り込む。 『どうしたの?ヤクモ。手伝ってあげたいのは山々だけど、いま降神とかしたら』 「解っている。だからそうじゃなくて。この侭だと『つい』眠って仕舞いそうだから、話し相手になってくれると助かる」 鏡など見ずとも己で頼りないと判じられる苦笑を浮かべて、ヤクモは半分だけ開けた浴槽の蓋の上に神操機を乗せた。 『そう云う事なら喜んで任されちゃいますよ〜』 『じゃあ、万が一寝そうになっても起こしてあげるからね』 次々に首肯する式神たちに感謝の微笑みを向けると、ヤクモはいちいち痛みを伴う動作に苦労しながらも、身体を洗う作業に努めた。 * ……とは云ったものの、式神たちの気持ちはと云えば、正直現状に否定的ではあった。 本音を云うのであれば、天神町(こんなところ)からはいち早く出て、ヤクモを彼の実家へと戻し休ませてやりたい所だ。 神操機の中で自分達も休み、ヤクモのこれ以上の気力の消耗を抑えたいぐらいだと云うのに、その当人はあのマサオミと云う闘神士や天流宗家の少年たちの為に毅然と在ろうとしている。だから、話し相手に、などと普段からは想像もつかない様な弱り切った苦笑などを浮かべて云うのだ。 途方もない無理をしている。それを理解しつつも、ヤクモの思いを酌んで仕舞えるからこそ、式神達は反対もしないし、況して断る事など出来よう筈もない。 時折傷の痛みに顔は顰めていたが、基本的にヤクモは始終嬉しそうだったのだ。 戦いが終わった事、と云うよりは、家族ごっこ、と嘲りを受けた『ここ』に再び皆で戻れた事そのものを、彼は恐らくは喜んでいた。 ……当然その経緯を思えば、式神達の何れもが不満を隠せない。自分達の敬愛するお人好しの闘神士が一体何者の手でこれ程までに傷つけられたかと云う事実の再確認はすればするだけ、居間でのんびりと夕食を摂っている何処ぞの神流闘神士へと怒気を向けるだけでは収まりそうになくなる。 「それにしても、五年前程ではないが今回は本当にハードだったなぁ…」 漸く全身を苦労しながらも洗い終えたヤクモが湯船に顎までを沈めてしみじみとそう呟くのに、零神操機の中の五体の式神は同意を以てうんうんと首肯する。曰く「ハードだった」事の八割以上は件の『誰か』の所為なのだから、ヤクモも少しはその事について愚痴ぐらいこぼさないものかと思う。 「皆にも無理をさせ通しだったな。済まない」 だが実際出たのは愚痴どころか穏やかな感謝ひとつ。つと伸びたヤクモの指先がそんな事を云いながら神操機を──式神達を──労う様に撫でてくる。云いたい事も云って欲しい事も式神達の想像とは大きく異なった訳だが、まあヤクモらしいし良いかな、と五体も少しだけ絆されかけた時。 「……………でも、本当に。良かった」 ふ、と突き抜けて放たれた恬淡としたヤクモの微笑みに、式神達の誰もが意識を寸時奪われる。 『良かった、とは何が……でありますか?』 四肢を伸ばせる程には広くない浴槽の中で、ヤクモは両の腕だけを組んで前方へと軽く伸びをした。ブリュネの問いに、喜び、と云うよりは安らぎそのものを得た時の様な表情を浮かべ、彼は目蓋をひととき下ろす。 「彼奴が、帰って来れて」 『………うっわぁ』 流れからすればある意味予想通りのヤクモの返答に、タンカムイが五体を代表して正直な溜息をこぼす。然し気力の消耗を抑える為に霊体(すがた)は現していないからか、苦り切ったそのニュアンスまではヤクモに正確には伝わっていない様だ。 「うっわぁ?」 きょとん、と、鸚鵡返しにしてくる闘神士に、五体は叶うのであれば小一時間説教(と云う名の説得)を行ってやりたくなる。この侭では本当に将来が色々と不安だ。 『〜ねーヤクモさぁ……。何で彼奴にそんなに同情的なの?別に惚れてるとかそう云う訳じゃ全くないんでしょ?』 「惚れ……、」 霊体こそ出すのは控えたが、あからさまに声音に乗った呆れ混じりのタンカムイの云い種に、ヤクモは思わず絶句した。云い種にと云うよりは内容にかも知れない。傷の痛みで浮かべていた渋面よりももっとずっと苦い表情になると、彼は湯船の中で肩を竦めてみせる。 「マサオミ当人の云い種でもあるまいしそれは無い。……何故彼奴を気にかけて仕舞うのかは、皆ならば既に解っていると思うんだが……」 『境遇が似ているから、と云うのは解るが』 『……感情論としてはさておいて、正直納得は出来かねるのが本音でおじゃるが……多分』 『自分達はヤクモ様の御意志は尊重するでありますが、ヤクモ様が傷を負う事にはなって欲しくないのであります』 皆我先にと口を開いた為に幾つか言葉が重なる。ヤクモは個々の言い分をちゃんと聞き分けはしたが、それ故に返す答えには少々ばつが悪そうな表情が浮かんでいた。 「皆が彼奴を嫌うのは解るが…、彼奴自身はとても正しい闘神士だと俺は思っている。きっと良い家族や良い闘神士にきちんと教えを受けて来たんだろうな」 慥かに、形振りも禁忌も厭わない他の神流闘神士達に比べれば、大神マサオミは余程真っ当な部類であったと云えよう。ヤクモに余計なちょっかいさえ出していなければ、五体の式神達も別段嫌う理由など無かったに違いない。 でもそもそも『ヤクモに余計なちょっかいを出した』それこそが彼の闘神士を嫌う決定的な理由だし、とタンカムイが思うのに、残る四体から返るのは同意の気配。 『闘神士として正しかろうが、人としてはそうでも無かっただろう』 ヤクモの、擁護とも取れる言を看過しかねたタカマルが憤慨と云うより八割以上嫌味も露わに吐き捨て、浴室は暫時重く静まりかえった。カランから滴る水音だけが無粋に響く。マサオミに『酷い目』に遭わされたヤクモ当人にもどうやらそこはフォロー出来ないらしい。彼は湯の中で軽く伸ばした自らの指先を見つめながら、「滅多な事は云うものじゃない」と小さく呟いたのみだった。 『でさ。結局、ヤクモは彼奴を赦しちゃうの?』 態と咎める様な言い回しで云うタンカムイの言葉を受けて、水面から漂ったヤクモの眼差しが揺れた。それは躊躇いからではなく、思慮のものだとは皆直ぐに察する。 詰まる所、大神マサオミに対するヤクモの意見は、式神達の意見とは真っ向から相容れないと云う事だろう。どう云えば式神達が納得するか、どう伝えれば刺激が少ないだろうかと彼は慮っているのだ。 「赦すも何も。最初から彼奴を恨む心算など俺にはなかった」 『……ヤクモがそう云うならそれは良いけどさ。でも僕らは彼奴を赦す気なんてこれっぽっちもないからね?』 闘神士の意向を──それが信念に基づいた事であるなら尚更──咎める事は出来ないが、感心は出来ないのが本音である。因って結局彼らに出来る事は適う限りヤクモの意志を尊重し、その心を守り支える事ぐらいしかなく、それに多少の愚痴や不平が付随するのは憚り無い本音なので、一種の愛嬌とでも思って貰いたい。ヤクモも慣れている為にかそんな四体の同意を引き連れたタンカムイの、念を押す様な余計な言葉に、困り果てた様な苦笑を浮かべていた。 湯に浸された温かな手が再び、神操機の表面を軽くなぞってくる。今度は宥める様に。 「そんな事よりも、皆、本当に頑張ってくれたな。お疲れ様」 ヤクモにしては珍しく下手な話の逸らし方だったが、これ以上腹立たしい対象の人物を議題にすると云うのも何だと思った式神達は素直にそれに応じる事にした。どうあってもヤクモがマサオミへと負の感情を向ける事はないだろうと、改めて確信して仕舞ったから、と云うのも多分に大きい。 『あの程度、お安い御用ですよ〜』 『ヤクモ様をお守りし共に戦う事が出来て、光栄であります』 「あ。そうそれ」 妙に畏まったブリュネの言葉に、ヤクモが水中でぼこりと手を打った。 『??』 いきなり何だろうと疑問符を浮かべる式神達──の収まった零神操機──を優しい眼差しで視界に収め、ヤクモは少し躊躇いがちな微笑みを浮かべる。 「あの時、皆が俺を少しでも守ろうとしてくれて。俺も自分を不甲斐なく思うべきだろうって場面だったのに、皆の気持ちに対する喜びが寧ろ浮かんでいてさ」 あのとき、と云うのが何を指しているかは記憶を検索する迄もなく直ぐに理解する。あれはヤクモが不甲斐ないと云うより、相手と状況とが悪かったと云うべきだろう。ウツホが発露させた四大天を前にした、あの絶望的な状況。式神達は気力の殆どを失って、これ以上戦う力を持たないヤクモを、然し最後まで守る事を選んだ。 「そこに来てブリュネが『最期まで一緒だ』って、云ってくれただろう?不謹慎と窘められて仕舞うかも知れないんだが、それが実は凄く──、嬉しかったんだ」 柔い微笑みに目の縁を弛めてヤクモは少し歯切れ悪くそう云うと、湯船の中で膝を抱えた。 死ぬかも知れないと云う状況にあって、なれば共に在って共に散ろうと、最後まで闘神士を守ろうとしてくれた式神達の心をヤクモは強く感じていたのだ。 それは式神達にとっては当然に近い心行きである。この勁く愚かでお人好しで真っ直ぐな闘神士と契約を結ぶ事を選んだのは、そもそも彼のその心の有り様に強く惹かれたからだ。だから出来うる全てを以て誠心誠意で応える事は、寧ろ望む事そのものと云えた。 式神に尽くされる事は闘神士として当然だと驕るでなく、ヤクモは彼らが敬愛し契約を結んだそれと同じ様に、式神達へと心の全てを預けてくれている。 尽きない信頼や思い遣り、深い情と勁さ或いは優しさ。契約と云う事象だけでは語り尽くせないそれが、式神達へと、他者へと向けられる心の総ての答えだった。 「あんな状況だと云うのにな。幸福さえ感じて仕舞ったよ」 照れた様にそう付け足すと、ヤクモはどぷんと耳まで湯船に沈んだ。のぼせ以上に紅くなった顔の、目元だけを水面に出して、上目で零神操機をこっそりと見上げてくる。 『っと、当然でありますッ!』 『どこまでもお供しちゃいますよ〜!』 『当たり前だ、我らは常にヤクモと共に在る!』 『もー式神人生懸けちゃうくらいなんだからね!』 『でおじゃる!』 一斉に飛び出した五者五様の予想外の大音声と言葉とに、ヤクモは面食らった様に瞬いて、それから、云ったことが嘘ではないその証明の様に、本当に幸せそうに表情を笑ませた。 自分で云っておいて照れているのは間違い無いのだが、実の所それ以上に式神達もかなり頭に血を昇らせていた。霊体を出す事が叶っていればタンカムイ辺りを筆頭に迷わず抱きつきに行っている所である。 願わくば来てなど欲しくはないが、『最期』がもしも訪れるのであれば、その時は共に在りたいとそう強く思う。式神界へと帰結するのではなく、最期は共に消えても構うまいと、あの時五体は式神らしからぬそんな事をも思って仕舞っていた。 だからせめて最期までヤクモを守ろうと思った。彼が契約に望んだ『絆』を──、惜しみなく魂ごと注いでくれたその信頼を、心を、守りたかった。 そしてそれはヤクモにとっても同じだったらしい。少し躊躇って、然し当然の様に五体の願いを受け取り頷いてくれた。共に在る事を喜び感謝してくれていた。 「皆」 此処に横たわった五年間の絆は、それよりももっと深く心に在る。だから今更、謝罪や疑いなどは必要ない。信じたその通りに此処に在る。 「共に戦ってくれて、有り難う」 そう、はにかんで微笑むと、ヤクモはのぼせかけて来た頭を浴槽の縁へと凭れかける。眠る訳にはいかないが、気持ちはそれよりも余程安らかに見える表情で、零神操機にてのひらを乗せた。 ええまあ本当はマサオミもヤクモもナズナも天神町には来てないだろうよとはこのへん書く度自分で何度も思っちゃうし突っ込んじゃうんですけど、どうしてもマサオミの『棄て』たものを真っ先に取り戻して頂きたかった妄想都合上。 ともあれそんな訳で「最期まで一緒であります」は告白しすぎだろと何度見ても噴き出すところ。死ぬ覚悟とか云うより、一緒だって事に対しての肯定に見えたんですよ。闘神士が死んだら名落宮直行だからとかじゃなくて、本当に闘神士の事を思ってないと式神とは云えああは出来ないだろーと思うんですってば33話のコゲとりっくん含めて! (ワンブレス 毎度タイトルは連想ゲームからの嫌味。 |