望みを知って仕舞ったそのとき彼は、この世界は違うのだと、そう叫んでいた。
 こんなにも長い幸せの不在を呪って、子供の様に泣き喚いていた。
 あの時彼は嗤っている様に見えて、きっと酷く泣いていたのだ。



  タランテラ



 破滅的な男だ、と、ヤクモがマサオミへとそんな印象を付加したのは、実のところほぼ最初からだった様な気がする。
 彼の目的は酷く曖昧な未来に在りそうに見えていたが、そのか細い標に向かい薄氷を覆む様な歩みをも物ともしなかった。
 つまり彼はどれだけ頼りのないものにでも縋らずにはいられない程に、その目的を希求し続けていたと云う事だ。
 望みに対する足がかりとなれば、隣で笑い合っていた人間を切り捨てる事をも躊躇わない程に、その目的へ追いつめられていたと云う事だ。
 彼は人間的に余り褒められたものではない類の本性を持っていたが、それを隠すのと示すのとの相反する二種類の顔を使い分け、周囲の人を時に煽り時に利して常に欺き続けていた。
 そしてそんな彼は己の目的へ歩む原動力(ちから)以外の事には、酷く弱かった。酷く脆かった。
 だから、己の負った瑕疵は、痛痒は、全て彼にとっては非道い痛みを伴うもので、今の彼にとっては、彼の目的にとっては、邪魔でしかなかった。
 ……だから。彼は己が疵を負わない様に笑う事を憶えたのだろう。嗤う事を学んだのだろう。
 ……つまり。彼がほんとうに欲しかったのは己の目的への希求だけでは無かったのだ。
 
 *
 
 意識が疲労と気怠さとの中に埋没しかかったのは、ほんの一瞬にも満たない間だった。
 本当はこの侭身を横たえて目蓋を硬く瞑って仕舞いたかった。疵ついた身を布団に沈めて、重く圧し掛かる疲労に任せる侭に眠りに落ちて仕舞いたかった。
 然しヤクモはその誘惑を振り切って意識の淵を掴んだ。自分と同じ様に、耳障りな荒い呼吸を繰り返しているマサオミを押し遣る様にして、しわくちゃに乱れたぬるい布団から這い出す。
 「………」
 全身にじっとりと纏わりつく様な熱や残留する触感の錯覚には顔を顰めるだけで返し、汗ばんだ髪を疲労に重たい腕で掻き上げてから、ヤクモは枕元に放られていた単衣を探り手に取った。部屋は未だ深夜の帳の下で暗く、裏も表も解らなかったので、取り敢えず手探りで襟だけを上側に見つけると肩からそれを羽織った。溜息が漏れる。
 「終わるなり愛想ないねぇアンタも。商売女だってもうちょっと余韻ぐらい楽しんでくれるだろうに」
 「…………」
 布団の上に頬杖をついて腹這いになって、つまらない揶揄を寄越して来たマサオミを軽く一瞥し、ヤクモは着物の前を掴んだ。
 そもそも彼が選んだのが何故『この行為(かたち)』だったのか、と云う点は今もヤクモにとっては疑問の侭だ。
 安易に相手を貶める為や辱める為の手段として選んだのだろうとは思っているのだが、当初それは殺意だった筈なのだ。首を強く絞め、然しマサオミは殺人者になるその前に踏み留まり、そして『こう』した。
 疑問は真摯だったが答えは滑稽ですらあった。鬱屈を晴らす為の手段や、或いは単純な性欲処理。
 ともあれそう云った目的を兼ねているかどうかは知れないが、情も愛も無い彼の行為の裡には常に昏い闇や方便ない心の痛ましさがあって、それを感じる度にヤクモは辛さを憶えずにはいられない。
 彼を救う方法として、こんな事しか出来ないものなのかと、思い病む。
 マサオミが一体何を思ってこうしているのかの本当の所はヤクモには知れない。身体を重ねれば思いも通じるなどと云うドラマの中めいた現象は当然そこには存在しないし、まさか今まで彼が幾度も口にしていた様に本当に『愛』だの『恋』だのと云う感情が存在しているとも思えない。仮にそうだとしたら、こんなに相手を思い遣らない、痛みや屈辱ばかりを多く伴う遣り方などすまいと思う。
 (貶める満足。嘲笑う充足。それだけならば欺き続けるだけで事足りただろうに。お前は何故『こんな』方法を選んだんだ…?)
 ぽつりと浮かんだ泡の様な呟きに応える様に、マサオミが暗闇の中でヤクモの視線に気付いた。さも意外そうに彼は瞬きをすると、口の端を歪める様に持ち上げる。
 「何かな? ひょっとして俺の事でも考えていてくれた?」
 偽悪めいた本性が微笑みの下から、じっと己を見つめていたヤクモの事を嗤う。からかう様な云い種は正直我慢がならないものだったが、問いとしては強ち間違ったものでもなかった為、ヤクモは素直に頷く事にした。
 「……そんな所だ」
 するとマサオミは一瞬だけ瞠った目を、次の瞬間には凶悪に細めた。「へぇ」と愉悦めいた笑みを浮かべ、俯せの侭するりと手を伸ばして来る。
 「、」
 器用そうな指先が着物の上から、からかう様に脇腹を辿るのに、ヤクモは眉を顰めた。
 「…自虐的だね。それとも趣味なのかも知れないが」
 「、──」
 そんな意図は欠片もない、と紡ぎかけて然し止まる。被虐趣味なのはどちらだと云うのか。
 忌々しく思うのとほぼ同時に、強く後ろに腕を引かれて布団に逆戻りする。見上げれば見慣れた角度で口の端を歪める男の姿が其処にあって、恐怖や不快にではなくヤクモは目を逸らした。まるで逃げているみたいだと思って頬の内側を噛み締める。
 愚かな事を、無駄な事をしているのだと、きっと式神達はヤクモの事を憐れんで、マサオミの事を恨みにほど近い距離にまで遠ざけているだろう。それでも彼らがヤクモに愛想を尽かせて仕舞う様な事はない。呆れる様な事をしても、労られる様な事をしても、いつだって皆はヤクモの意志を尊重してくれている。
 マサオミの、キバチヨは果たしてどうだろうか。矢張り同じ様に彼もまた、マサオミの事を呆れたり憐れんだりしながら見守っているのだろうか?
 仮令マサオミが如何なる手段を選んだとして、それを受け入れ赦す心算はヤクモの裡にずっとあった決意だ。だから彼の伸ばした『手』がどんなものであれ今更後悔などはしていない。
 それがどんな屈辱であれ、愛も情も無い痛みであれ、殺意にも似た衝動であれ。大神マサオミと云う人間を肯定しようと云うヤクモの意志に躊躇いも変わりもない。
 それでも。
 彼が望むものの正体がどの様な形であるのかと、果たして識る事は出来ないだろうかと思わずにいられない。
 彼の強さと弱さとの原動力。それは失って未だ取り戻せないもの。だからこそ今在る幸福に非道い痛みを憶える。
 解るのだ。痛い程に。その心の悲鳴が、聴こえるほどに。
 彼に与えてやりたい。取り戻す為の願いを。だがそれはヤクモにとっては、正しき取捨をえらぶ闘神士には、選んでやれない途だ。
 (今の俺には只、『お前』を肯定し赦してやる事しか出来ない)
 おまえたちは間違っていると、そう云いきって仕舞うのは簡単だ。だがそれだけに正しくはない。公平ではない。そう思ったからこそヤクモは自ら答えを求めて伏魔殿の裡へと、歴史の真相へと飛び込んだ。そうする事で天流にも地流にもそして神流にもそれぞれ正しい事があり誤った事もあるのだと知り、判断を誤るまいとしたのだ。互いを認めずただ『敵』として打ち倒す。その繰り返しが闘神士の今の歴史を紡いで仕舞ったのだと知るからこそ。
 (この、毒の様な澱が何かを違わせ、全てを謬らせた。ただしいものなんて、それこそお前の純粋に信じる願いぐらいしか本当は残されていないのかも知れないな……)
 身を性急に暴き立てる熱に喘ぐ様な吐息を零して、ヤクモは呟きを強く掴んだ枕の中へと沈めた。それが何かに耐えている有り様にでも見えたのか、背後から圧しかかっているマサオミの喉が音を立てて嗤う。
 不快で不愉快で屈辱的だったが、なにもない様にそれに堪えて、千々に流される感覚に意識をとろかせる。
 (あとは、──求むならどうぞお好きな様に。出来るものなら殺意だって肯定してやるさ)
 彼はいつでも己の目的以外の全てを否定している。それでいて自分が一番間違っていてはいけないと強く信じて、そうする事で自分を守っている。
 彼は己の目的を最も正しき絶対的なものとして基準に置いて、それで全ての物事を見ている。その『正義』は他の如何なるものも受け入れない。だから彼の世界は全てが偽で、当然其処に彼が棲まわせている、彼と彼の取り戻したいもの以外の全ての存在は否定される。それが彼にとって居心地が良いものであればあるだけ。彼はそれを認める事が出来ず、嘲り棄てることしか出来ないのだ。
 だから、此れもマサオミにとっては、否定されるべきものだ。時折抱いている様に見える殺意や憎悪ですら、本当は其にすら類さないものだ。
 彼のそう云った深い淵。人で云うなら心と呼ばれるのだろう其処に響く様な言葉は、果たして何と呼びかければ届くのだろう。
 衝動そのものであって感情は或いは持たないのかも知れない、そんなものを貪って。それで餓え続ける。彼は己の幸福を自分で許しはしないのだから。
 彼にとってはこの世界は恐らく、醒めない悪夢の様なものなのだろう。いつ醒めるのかと、暗闇の中を手探りで進んでいく。きっと報いは得られるのだと妄信的に信じて。
 (お前は本当は、)
 或いはこんな無為の重ね合いだとしても。
 「愛情を、願いたいのか?」
 解けた意識で紡がれた言葉は譫言の中に埋没して直ぐに融けた。
 聞こえなかったのか、返事は、無かった。


 ……つまり、そう云うことなのだ。
 彼が否定するのは彼の願い以上の幸福であって、否定すると云う事はそれにどうしようもなく餓えていると云う事。
 彼が、ほんとうに欲しかったのは、
 


非道い人同士通じ合ってない図。加虐趣味と被・加虐趣味。

お馴染み舞曲。タランチュラの毒を抜く為には踊り続けなければならないと云う逸話。