天より堕ちて災厄と為す



 石段のあった場所を、こんな深夜だと言うのに駆け上がって来る幾つもの気配がして、ヤクモは徐々に温度を喪いつつあった、マサオミの身体にもたせかけていた頭をゆっくりと持ち上げた。
 冽たく冷えた彼を庇う様に強く腕を回して、見遣ればそこには幾人もの人の姿。その何れにも風貌に憶えは無かったが、揃いの装束を纏った彼らが闘神士であると言う事だけは何故かはっきりと解った。
 「何と言う事だ…!」
 「封印が解けるなんて事、起こる筈が無かったんじゃないのか?!」
 「過ぎた事を言っても仕方がない、今は──」
 彼らは、呆然とマサオミを抱えた侭座り込んでいるヤクモを油断なく見つめ、互いに決意した様に頷き合うと──神操機を向けた。
 「………、」
 闘神士が神操機を向けると言う事は、式神を降神すると言う事。
 式神を降神すると言う事は、妖怪や敵の式神と戦うと言う事。
 人の身に突如として突きつけられたそれに、ヤクモは思考の理解を追いつかせる事が出来ずにただ困惑した。
 そうして不意に気付く。
 彼らの向けるそれが、敵意や悪意と言うよりは、恐怖や絶望に程近いものだと言う事に。
 「封印から出たばかりなら、きっと奴もまだ全力は取り戻していない筈だ…!」
 「そうだ、その為のセキュリティも施されていたと伝わっている。奴の力を抑制し、それをその侭返す様な類の術であったと、師は言っていた」
 「今なら…、」
 
 「今なら、まだこの災厄を封印し直す、或いは滅ぼす事も出来る筈だ」
 
 「──…………」
 言葉は、形を伴っていれば恐らく正確に刃となってヤクモの身を貫いていたに違いない。
 何処にも痛みや感情として転化出来ないその衝撃に震えながら、ヤクモは戦慄く視線を背後、封印の礎に使われたのだろう巨大な要石へとゆっくりと振り向かせた。
 碑石の様なそれは目に見えぬ封印の陣の上に、まるで重しか蓋の様に乗せられていた。目が自然と追うのは、そこに刻まれた古びた文字。風雨に削られて浅くなった文字に貼り付いた苔が、その刻まれ留め置かれていた年月をただ静かにヤクモへと突きつけて来る。

 "此処に、天より堕ちた災厄を封じる"

 そうして静かに悟る。その瞬間まるで世界を睥睨する様に通った不思議な視点に因って、ヤクモは全てを過たず理解する。
 此処が己の過ごしていたあの時より遙かな未来であると言う事。
 いつからか歴史が歪められ、或いは書き換えられ、天地宗家の封印は更なる強固な要石を置いて、嘗て世界を無に帰さんとした災厄を封じ込めたものとして伝わった事。
 新太白神社も、天神町も、飛鳥神社も、書き換わった地形と地図とに因ってとうに忘れられた存在になった事。
 そしてこの闘神士たちは、恐ろしい災厄の封印を見張る役割を持った者たちで、今、突如として復活した『災厄』を前に、悲壮な決意で以て自らの、闘神士としての使命を遵守しようとしていると言う事。
 
 「………」
 
 「式神降神!」
 呆然と、途方もない刻の集約された情報量を受け止め、力無く天を仰いだヤクモに向けて、闘神士たちが自らの式神を喚ぶ。彼らの紡ぐ絆を信じる心と、それが喪われるかも知れない恐怖との、相反する二つの感情の狭間で、闘神士(かれら)は然し自らが世界を護らなければならないのだと言う、純然たる使命感を以て敵に──『災厄』へと向かい立つ。
 世界と大事なものとを護るべく、その身を賭して戦おうと、決然と。嘗てのヤクモと同じ様に、ただそれこそが己の役割なのだと信じて。
 ヤクモは、マサオミがどうしてあんなにも必死になって己の手を引いて『外』に出ようとしたのかと言う事に、漸く彼の本心を──願いを知れた様な気がした。
 もう彼がこの時代へと刻を渡れなくなったら。或いは何かがあったら。或いは年老いて先立ったその後では、誰にもそれが出来なくなるからだ。
 災厄と呼ばれる様な悪魔を救おうとする者など、きっと世界中を探した所で、マサオミ以外にはもう居なかったからだ。
 
 怒る権利も、嘆く権利もある。
 憎む資格も。
 嘗て世界を救った闘神士は、災厄と貶められたこの世界の仕打ちに、一体何を思うのだろうか。思えば良いのだろうか。
 
 ヤクモは己の裡に、恐らく今まで憶えた事の無い感情が満ちて行くのを感じていた。
 抱えた物言わぬ骸の様に空虚で、ぽかりと胸に空いた穴からあらゆる感情の全てがこぼれ落ちて行く様な、ただただ空虚で堪らない重たい虚脱感。
 その痛みすらない感触に抗おうと苦しむ心は幾度も自らを掻き毟って血を流しているのに、それを止める事が出来ない。
 (そうか……、これが、絶望、か)
 全てを諦めようとする心に抗おうとする心が、互いを傷つけて苦しい。抗う事を完全に止めて仕舞えばきっと楽になれる。だからこそ抗う。非道い虚無の心がそれを厭だと泣き叫ぼうとしている。
 生まれてから初めて味わったその甘美な感情にそっと微笑むと、ヤクモは掻き抱いたマサオミの肩口に顔を埋めて俯いた。
 こちらへと向かって来る式神たちの、闘神士を──否、災厄を滅ぼさんとする美しく苛烈な決意へと純粋に感嘆を憶えながら、然しそちらを見る事もせずに、ヤクモは彼らの方へと右の手を向けた。共に封印されてから、それはいつでもヤクモの裡に在る。全てを零に還元しようとする、巨大な力を持ったもの。
 求める意識に応える様に、その掌に音もなく顕現する紅い神操機を開き、
 「式神……、降神」
 静かな宣誓で以て、五つの界門から顕れ出でる五体の式神たちへと、ヤクモは自らの意思を解き放った。
 
 *
 
 流れる風の気配は、己の憶え知るあの頃と殆ど変わらない。そんな取り留めもない事をぼんやりと考えながら、ヤクモは抱きかかえたマサオミの背を撫でて、目をゆっくりと閉じる。
 頬を濡らしていた涙はもう風に乾かされて、それ以上の慟哭も喉からは出て来ない。木々を揺らす風の音と、見下ろす満天の星空。倒れた闘神士たちの姿さえなければ、そこはただ静かな夜の山中でしかなかった。
 式神を喪い倒れた彼らがこれからどうなるのかは知れない。だが、封印を護らんとこれだけまとまった数の闘神士たちがおり、『災厄』の伝説がはっきりと伝わっている以上、きっとこの時代では闘神士の組織体系はきちんと機能しているのだろう。それならば闘神士を降りた者らにも相応のケアぐらいは与えられる筈だ。
 自らを『災厄』と呼ぶ者らに向けて随分寛容な事だと、ヤクモは寸時偽悪めいてそう考え苦笑する。性分にしても余りにも愚かで虚しくて、人間らしい。
 嘆いても、怒っても良いとマサオミは言った。それを知って欲しかったとも言った。
 彼は、ひょっとしたらヤクモが自ら救われる事を望んで欲しかったのかも知れない。
 冽い身体は何の疑問にも答えてくれる事はない。答えのない、途方もない感情を持て余したヤクモは、縋るものの様にしてマサオミの身をただ抱きしめ続けていた。
 そんなヤクモの周囲に、五体の式神たちが静かに寄り添う。
 世界は最早ヤクモの知る世界とは有り様を大きく変えて仕舞っていたが、吹く風や夜空のもたらす優しい孤独感が変わらないのと同じ様に、世界を司る節季の持つ労りや厳しさの気配は永劫変わる事は無いのだろう。
 それでもこの世界は、この刻は、ヤクモにとって何の価値も意味も無い。大切な人たちは既におらず、どうやって果てたのかを知る術すら残されていない。
 「いっそ魔王にでもなろうか」
 望まれた通りに、と、山の裾野から拡がるのだろう、遠い街の灯を夜の中へと透かし見て、ヤクモは小さく笑った。
 災厄として。闘神士や人間を喪わせて、そうして世界を壊した己に失望しようか。
 (きっと誰にも、俺を討つ事は出来ない)
 灰暗い想像を冗談めかした笑いで打ち消すと、ヤクモはマサオミの事をブリュネに任せてそっと立ち上がった。ぐるりと振り向けば、そこには不可視の封印の陣が在る。静かに佇む要石は沈黙していたが、その下にある天地宗家の封印は未だその侭に残っている。
 「……還ろうか」
 マサオミはヤクモを縛っていた鎖を断ち切ったが、それは封印を破壊したと言う訳ではない。一時的に封印の楔を抜いて、縛られていたヤクモを解放したと言うだけだ。
 天地宗家の織り成した封印は天地宗家にしか解けない。
 この時代にまだ天地それぞれの宗家が居るかは知れず、神流は恐らくもう存在していない。刻を越えて来ていたマサオミも喪われて仕舞った。
 故に、ヤクモの封印を再び解く事が出来る者はもう居ない。ヤクモが封印空間へと還れば、もう二度と自力で外に出る事は叶わなくなる。それどころか、駆けつけてきた闘神士らを返り討ちにして逃げようとした災厄に対して、更なる強固な封印や結界が施される可能性もあるだろう。
 それでもヤクモは『還ろう』と、そう思った。
 最早己の居場所は世界の何処にも無いし、未練にするものも悔いになるものも残っていない。世界を滅ぼしたいと思う程に、この世界に飽いてもいない。人間を消滅させようと思う程に、人間に失望はしていない。
 仮に、この時代の闘神士たちを説得し、『災厄』ではないと何とか解って貰ったとしても、その『先』はどうせ無い。
 故に、己の居る場所は、在るべき場所は、式神たちと共に在るあの封印の内──我が家だと、自然とそう思えたのだ。
 世界に絶望したのは己だ。故に、ヤクモはこの世界をもう棄てる事にした。
 その絶望を晴らしたり薄めたりする事は容易には出来そうもない。怒るにも嘆くにも恨むにも足りない感情であれば、再び呑み込んで仕舞っておく他にはない。
 「また、皆にも不自由な思いをさせる事になるな。何なら、今の内に満了しても、」
 いつの頃だったか、封印に入る前に口にしたのと同じ様な事を言って振り向けば、寄り添う五体は顔も見合わせずにやれやれと言った仕草をしてみせる。
 「またまた〜、珍しい冗談を言ったかと思えば」
 「笑えないでおじゃるよ、それは」
 「もし本気で言ってたら流石に怒るからね?」
 「ヤクモ様が望まれる限り、どの様な形であってもお傍に居たいであります」
 「我らはいつまでもヤクモと共に在る。その意志は決して変わらぬ」
 すかさず返って来る五者五様のそんな言葉に、その向けて呉れる心に、ヤクモは胸の奥に憶えた痛痒の侭に静かに微笑みを返した。
 きっとこの胸に空いた穴は消えない。一度知った絶望の味わいをそこに湛えて、それを飲み干して生きる事を選んだヤクモの事を、思い出した様に時折嘲るのだろう。
 それでも。彼の穿ったそれがどれ程までに大きくとも。静かにただ痛みをもたらし続けても。
 見えざる封印の囲いへと足を向けるヤクモの手を、タンカムイがそっと握って言う。
 「ヤクモをひとりになんて、絶対にしないよ。させないよ」
 怒りは自分で食べた。嘆きは夜に融けて消えた。憎しみは浮かばない。然し哀しみは尽きない。壊れそうなその場所に自ら留まったヤクモに、式神たちはただ寄り添う事で応えてくれる。
 足下から天地の──青と赤の色彩をした鎖が身に絡みつく。再び封印の空間へと引き摺り込まれて行きながら、ヤクモは「花を植えよう」と笑んで言った。
 視界の切り替わった次の瞬間には、見慣れた封印の箱庭が──我が家が見下ろせる高台にヤクモと五体の式神たちは佇んでいた。
 世界に在って『世界』に非ず。されどそれが与えられた唯一のもの。鎖に囲われた檻と言う自由。今となってはきっと唯一の、『災厄』の心安く在れる地。
 停滞した時と空気。茶番の様に繰り返す幸福に似た寄る辺。世界を棄てて、選んだのはきっと歪と嘲られる様な生。
 (護りたいと思っていた世界に拒絶されて──、それでも生きろと、笑っていろとお前が言うのなら)
 マサオミの持って来てくれた花は随分と増えた。それをもっと増やそう。庭ばかりではなく、辺りを花の優しい香りで一杯にしよう。
 いつでも想い、寂しさを憶えぬ様に。
 「マサオミが安心して居られる様に。俺も、皆と穏やかに笑って過ごせる様に」
 
 そう、ただ静かに『災厄』は微笑んだ。
 天から堕とされ人に貶められ、それでもなお人に絶望する事も出来ずに。
 やがて、沢山の花に囲まれるその時も、未だ変わらずに彼は微笑んでいるのだろう。




堕ちたと言うか堕とされた英雄と言うネタをやってみたかったんです。…的なお話。
度々、ウツホとヤクモの力は似た様なもんだ論を唱えているもので、ウツホと同じ様な立場になって貰う筈だったんですが、気付いたら伏魔殿サバイバーの経験を活かして封印生活をエンジョイしてくれちゃったので、当時結局上手いことまとめきれなくて放置物件(食べ残し)となっていました…。
正直救いが少なすぎるので、死にネタや未来ネタが苦手な方には申し訳ない限りです…。
以下説明不足だった所の蛇足。

・ヤクモが災厄にされた経緯。 … についてはもうフワッとした感じで。なんか天地のいや〜な思惑があったのが時の堆積を経る内に歪み歪んでああなったと。当代の闘神士たちは、ウツホを悪魔と伝えられていた事同様に、それを額面通りに受け取って育って来ただけなので、彼らに罪は無い筈です。
あ、多分大体百年単位の数えでの遙か未来の事です。マサオミは廃墟と言うか遺跡状態の新太白神社に飛んで来た事でそれを悟り、太白神社跡(封印の地)に増えてる要石を見て、ヤクモが災厄扱いをされている事を知りました。そして憤ったと。

・マサオミが刻渡り出来なかった事。 … 単純に、矢張り千二百年後の世界に過去の人間が渡る事が、歪みだと世界に判断された様です。それから十年ぐらい経過して、偶然にもヤクモがマサオミの不在を思って孤独を憶えた=必要とした、ので刻渡りが一時的に可能になったものの、鏡を調整する人もいなかったので、実際喚ばれた(形になった)時間から何百年も先にズレて仕舞ったとかなんとか。

・お花。 … マサオミが最初に持ってきたのは一応、匂蕃茉莉と言う想定です。地植えでサクサク増やせて良い匂いがして、一見地味な花と言う事で。
…ぶっちゃけ散々書いた後に気付いたんですが、花言葉に「浮気な人」とか言う意味があるらしくて、お前そのチョイスはあかんやろ…と頭を抱えさせられたので、匂蕃茉莉ぽいけど違うかもしれないものとイメージ可能な様に色はちょっと変えました。

・別エンディング。 … 当初はマサオミが倒れてキバチヨは名落宮へ堕ち、ヤクモがマサオミの神操機を使ってキバチヨと再契約(ウツホと同じ様なもので、名落宮に行かずとも呼べたと言う感じで)して未来の闘神士たちを撃退すると言う想定でした。それで五体+一体になって暮らすと言う。でもマサオミ君の猛抗議を食らった気がしたので変更して、満了して貰う事に。

或いは、天に在る時からずっと堕ち続けていたのかも知れないと、彼は云った。