鬼門の内側にあったのは、荒涼と云う言葉さえも其処にはおよそ相応しくない。真白な砂原だった。
 当て所なく彷徨えど、地平にも空にも標の一切も無く、
 必死に頭を巡らせようとも、視覚にも聴覚にも頼りの一切も無く、
 幾ら望めども、生命を活かす恵みなど一切として存在しない。
 渺茫と続く大地が、白砂が、空に不規則に浮かぶ扉が、其処は異質なのだと伝えている。
 人間にとって相容れぬ地なのだと、示している。
 ……………これが『死』なのだと、思っただろうか。
 否。
 何の先触れも無くこの様な所に放り込まれて、あっさりとそう云って仕舞える者など居はしない。
 何を思って彼の人が神域へ立ち入ったかは知れない。だがそれは少なくとも、こんな『死』を望んでの事ではなかった筈だ。
 抗った筈だ。泣いた筈だ。苦しんだ筈だ。『死』以外のものを望んだ筈だ。
 誰かの、何かの、背負った千年以上の罪を、そうとも知れず受けた──不運な、命。
 闘神士の責か。式神の責か。地を荒廃させた人間の責か。多くの命がその時救われ、摂理に反して淘汰された。その罪か。
 誰かの。何かの。背負った千年以上の業は、そうとも知れず受けていた──純粋な庇護。
 あなたがいてくれてよかった。
 でも、あなたに永い苦痛を強いて、彼らにも悲劇を負わせた。
 「……誰も、悪くは無かった。だが、あなたも、彼らも、生きていたかった筈なんだ」
 後悔も、責も、報いも、罪悪も不要。これは反射的な感傷。確かな悼み。
 何度も、足下の真白な砂を見下ろす。骨のひとかけら、血のひとしずく、生命の痕跡の何かしらを探す様に。



  私の罪は千二百年 / 10



 「具合はどうだ?」
 軽いノックの後、応えも待たずに扉を引き開けてヤクモが現れたのだが、如何にもお見舞いと云った体裁の果物カゴを差し出して、第一声がそれである。ベッドにぐったりと横たわるマサオミは思わず肩を落として仕舞う。
 「……ん?何だその顔は。イヅナさんから聞いた話では『とても元気』だった筈なんだが」
 どんよりと云うに相応しい表現を顔面どころか全身で背負ったマサオミに、しかもちっとも狼狽える様子もなく、ヤクモは殺風景な個室を横切るとサイドテーブルの上へ果物カゴを気軽そうに乗せた。続けて見舞客用の椅子を探し出すとそこに腰掛けて両腕を緩く組む。
 平生以上に平生そうなヤクモのそんな様子を見て、少しぐらいは狼狽えてくれるとか心配していたとかそう云う反応が欲しかったなどと思っていた可愛い自分を密やかに慰めつつ、マサオミは空笑いを浮かべる。
 「……ええまあ。健康状態には問題無いって看護婦さんも云ってたしな。術後の経過も良好。ただ暫く固形物の摂取は禁止だそうだから、悪いがソレは持ち帰ってくれ。傷ませちまうのは勿体ない」
 「ああ、そうか。気が利かなかった様だ」
 果物カゴを指して云うと、ヤクモは言葉と裏腹に何故か妙に明るそうにも聴こえる声音でそう返して来た。
 と云うかそれ以前に、マサオミが目覚めた時に傍に居たイヅナから、その程度の事は連絡と共に聞いているのではないかと思えて、マサオミは密かに首を傾げる。
 そのイヅナは今、此度のマサオミの負傷やその治療に対する件だとかでMSSの人間と話をしている為に此処には居ないので、真偽を問い質したくとも今すぐには出来そうにない。
 あれから、鬼門へ駆けつけたヤクモの連絡を受けてMSSより近所の病院への手回しと救援とが寄越され、行方不明者達もマサオミも迅速に病院に搬送された。
 そして『心得て』いる医者の手に因り皆正しき処置が施されたが、最も重傷だったマサオミだけは符や術で何とかする訳にもいかず、意識不明のその侭外科手術を受ける事となった。これは後から聞かされた話だが、最初の止血措置などがちゃんと取られていなかったら結構危うい状態だったそうだ。
 ともあれ手術は滞りなく成功し、麻酔も切れてマサオミが目覚めたのは事件解決から一晩明けた午前中だった。夜から付き添っていてくれたと云うイヅナには感謝の念が絶えないが、ヤクモはどうしているかの方が気になっていたのも事実で、マサオミが礼もそこそこにそれを問えば彼女はくすくすと笑いながら「それでは家の方へ連絡を入れて来ますね」と応じてくれたのだった。
 固形物云々の遣り取りは、目覚めた後の簡単な検査の後に看護婦が云った事だ。その場に立ち会っていたイヅナであればそれをヤクモに伝えぬ筈もあるまい。
 思い起こせば思うだけ、それでもヤクモが果物カゴなぞを携えて現れた事は妙である。よくよく見ればそこはかとなく、マサオミを見つめて来ているヤクモの表情には──そう、意趣とでも云うべき色が宿っている様にも見えてくる。
 「ええと……それで、結果的にはどうなったんでスか?」
 頷き難い現状に云うべき言葉が上手く出て来ない。仕方無しにマサオミは気になっていた事ランキング三位を取り敢えず切り出した。どうなったもなにも概ね想像がついているからこその序列だが、間を保たせる為には致し方ない。
 「『神』は去ったが、頼んで土地神の奉納を新たに行って貰う事にした。神社自体は永いこと信奉されてきた神域で清浄な土地だし、問題も無いそうだ。
 ……あの式神が最後まで心配していた事だからな。完全な加護はもう与えられないが、いつの世でも信仰を仮託する存在は必要だろう」
 信仰を集めていた神代がいきなり取り払われて仕舞うと、行き場を失ったその念が時にあらゆるものと結び付き、それで良からぬものを生む事は少なくない。呪い、などと俗に云われる事もあるそれはその俗称の通りに余り宜しくないものである。
 あのお山を中心とした一帯はこれから、今まで知らぬ内に受けていた『神の加護』から放される事となるが、その恩恵を決して知る事の無かった事実は端から『無い』事と同義だ。だからこそ其処に住まう人々が生きられると云うのは、あの大蛇にとっては皮肉なものだろうか。それとも、式神として見返りなど何も求めずただ役割を遵守しただけだろうか。
 「行方不明だった連中は?」
 滔々と淀みのないヤクモの返答には先程マサオミが見た様な意趣などは到底感じられそうにない。はて、と首を傾げながらも問いを続ける。
 「全員衰弱や闘神士を降りた反動やらもあって入院中。ムツキさん達が彼らへの全面支援を行ってくれているから心配は要らない。
 曩に行方不明となっていた一般人の女性だが、混乱を起こさせる前に記憶を封じる措置を取ったそうだ。行方不明になっていた期間も相俟って、お前を除けば最も症状が酷かった様だが、暫く回復すれば社会復帰は問題無いとの事だ。神隠しだなんだのとマスコミが面白半分に騒がない様にと『お上』からの圧力もかけられたらしい」
 最後は余り面白くも無さそうに続けると、ヤクモは唐突な動きで果物カゴへひょいと手を伸ばした。林檎やバナナや、小振りとは云えメロンまで詰められたその中へとヤクモの手先が沈んだかと思えば、掌に収まるサイズの鈍く光るものをふと取り上げる。
 果物ナイフ。とは即座にマサオミも理解したのだが、先頃までの意趣めいたヤクモの表情を思い出して見ればそれが異様な光景である様に思えて、思わずベッドの中で後ずさって仕舞う。
 「見舞い品に凶器を隠し持って来る殺し屋みたいな図だな?」
 そんなマサオミを特に気にする様子もなく、然しにこりと尻上がりの肯定だけを寄越して、ヤクモは再び籠へと手を伸ばすと今度は林檎を取り上げた。ベッドの下に隠れる様に置かれていたゴミ箱を引き寄せ、余り慣れてもいなさそうな手つきで林檎の皮をごりごりと剥き始める。
 「…………」
 怖い。なんだか解らないが──或いはそれこそが『厭な予感』とやらなのかも知れない──全身に緊張が走りまくって、マサオミは何となく点滴を見上げた。まだ残量は多く、逃げ出すには難しそうだ。
 (って何で逃げる必要が……?いやそもそもヤクモが何で不機嫌だなんて思うんだ俺)
 呟いてからそこで初めて、ヤクモに先程から見え隠れしていた『意趣』めいたその様子が、不機嫌──或いはそれによく似たもの──からなるものであるとマサオミは不意に気付いた。
 が、原因にも対処法にも生憎思い当たりが浮かばず困り果てる。険悪な訳でもないと云うのにただ居心地が悪い。空気が悪い。
 どうしたものかと呻くマサオミを余所に、ヤクモは林檎の一つを剥き終えるとそれを八個サイズに切り分け、果物ナイフの先端にその一つをざっくりと突き刺した。それこそ恨み骨髄の様な勢いで。そして真逆に、にこりと微笑んでマサオミへとそれを突き出す。
 「   ♪」
 声は聞こえなかった。と云うよりマサオミの聴覚が聞いても脳は聞こえる事を拒否した。ただ有り得ない程、見たことも聞いたこともない程に上機嫌そうに半音持ち上がった語尾と共に、更に林檎(付きのナイフ)がマサオミの顔面の方へと突き出される。
 「え、ぇーと……、俺、固形物禁止なんだってさっき申し上げましたよね……?」
 「話では消化器官に損傷は無いそうだから、術後の経過の為に禁止されただけで実際問題は無い筈だ」
 やっぱりイヅナから具合は聞いていた様で、妙にきっぱりとそう言い切るヤクモ。
 更に深さを増した笑顔と同時に、何か凄味までもが増している気がした。気圧され下がるマサオミの眼前に構わず突きつけられている林檎一切れ。そしてその後ろにあるヤクモの笑顔ひとつ。
 (フォークや爪楊枝だったら嬉しかった……いやそう云う問題じゃないんだが、)
 何だか解らないが何に謝れば良いのかも解らない。それ以前に何でヤクモがここまで不機嫌なのか(どこかの消雪の式神の様に極端に不機嫌になる程笑顔になるタイプでは無かった筈だが)は見当もつかない。不機嫌に『見える』だけにしても同じくその理由に見当がつかない。
 何かのイヤガラセですか、と眼で問えば、それは重畳だとばかりに微笑みが更に優しいものへと変わる。微妙に噛み合っていない想像が恐ろしい。
 心の中で滂沱の涙を流しつつ、マサオミは大人しく林檎を囓った。刺殺の危険など端から考えてもいないが、今は林檎の刺さった刃物が向いている事よりも、奇妙な行動を大真面目に取るヤクモの方が怖かった。
 
 
 結局林檎四切れ、つまり半分を無理矢理マサオミへと食べさせた所でヤクモの気は済んだらしい。そうではないとしてもこれ程実用的な面で意趣めいたことをされるのは初めてな気がして、ほぼ一日振りにまともなものを放り込まれ暴れる胃を宥める様に、マサオミは傷の下あたりをさすった。
 手術後の縫合創は残されているが、緊急止血の為にヤクモの符で刻まれる事となった火傷痕は既に殆ど『修正』されており、少なくとも見た限り触った限りでは伺えない。
 そんなマサオミの行動をどう取ったのか、ヤクモの表情が笑顔めいたものから一変した。溜息混じりに顔を顰められる。
 (あれ……ひょっとしなくてもこれって、意趣含めて全部ヤクモなりの心配…………………
 ──の訳ないか。これはどちらかと云えば呆れている表情だよなぁ…?)
 『あの』ヤクモに限ってそんな可愛い真似はまさかすまい。当面の疑問からその選択肢は除けてマサオミは、顰めた顔の侭で残る林檎の半片をしゃくしゃくと囓っているヤクモの様子を密かに伺ってみる。
 足手纏いにはならなかった。ものの、役立ったとも云えない。のも事実である。今までも無理に『仕事』に付き合っては似た様なもので、今回は重傷まで負う事となった。自業自得の癖に見舞いなぞわざわざさせるな、とでもひょっとしたら思われているのかも知れない。
 そう云われた所で、あの場面でじっとしている事など出来よう筈も無かったのは事実である。ヤクモの神操機は特別製の様だし、あの石礫ひとつ喰らった所でひょっとしたら闘神士生命を失う様な事にはならなかったのかも知れない。庇ったマサオミが怪我をしただけ無駄だったのだとは充分有り得る事と云えたが──
 飛来した矢を闘神機に受け、斃れた姉の姿があの瞬間、過ぎって仕舞ったのだ。
 何も考えずに飛び込んだ。助けられると云う確信があった訳ではない。助けなければと思っていた。
 だからマサオミが重傷を負う事になった経緯そのものについては、仮令ヤクモから抗議されようが罵られようが逆に礼を言われようが、折れる心算は無い。
 だが実際的にその結果がこうして養生を強いられている現状であるのは事実で、その事についてはぐうの音も出そうにない。いよいよ見放されるかもなと、そんな事を考えてマサオミは口をへの字に下げた。
 「──さて、見舞いも済ませたしお前の経過も悪く無さそうだからな。安心した所で帰るとしよう」
 所で丁度林檎を食べ終えたヤクモが立ち上がった。果物ナイフをハンカチに包むと符で消して(見えなくしただけの様だ)、その侭入って来た時同様にすたすたと病室を横切って行く。
 「、ぇ、あの…、?」
 散々意趣返し(?)をした挙げ句何の説明も無しに帰ろうとするとは流石に思わず、マサオミは狼狽えた。何せ相手はヤクモである。不機嫌なのだとしてその原因がもしもマサオミにあるのだとすれば、それをしっかりと告げて解消させない限りは梃子でも動かない様な人格の筈だ。
 つまり不機嫌ではないと云うことなのか?だとしたらこの奇妙な行動でヤクモは一体何をしたかったのか。何を訴えたかったのか。
 然しマサオミのそんな疑問には気付かぬ様な素振りで扉に手をかけると、ヤクモはぽかんと口を丸くしているマサオミを少しだけ振り返った。
 軽めの嘆息。
 「栄養でも摂って少しでも早く治すと良い。次の依頼に間に合う様に」
 そして続けられた、マサオミの意とは全く異なったヤクモの言葉をじっくりと反芻するその前に、もう一言が付け加えられる。
 「実際、命拾いはしたと思われる訳で、感謝はしている。だが俺の所為で無謀な行動に出たお前を赦せる気もしないんだ。何と云えば良いのかな、こう云うのは」
 先程まであった意趣のものと思われる笑顔ではなく、何処か力のない微笑でそう云うと、言葉を失って茫然としているマサオミから彼はするりと視線を外した。「お大事に」と他人行儀の様に言い残して、扉がぱたりと閉ざされる。
 「あら?ヤクモ様はもうお帰りになって仕舞ったのですか?まあ、果物は駄目ですとお伝えしましたのに…」
 最後のひとことが問いかけであったのだとマサオミが気付いたのは、それから暫くして戻って来たイヅナが、置き去りの侭の果物籠を見ながら困った様に問いて来た時だった。
 
 
 特別慌ただしい訳でも愛想が良い訳でもない、薄いクリーム色のリノリウムの床と経年で草臥れの感じられるコンクリートの壁や天井に挟まれた廊下を、病室を離れた勢いの侭に数歩歩いてからヤクモは満足さには程遠い溜息をついた。
 『…憂鬱そうでおじゃるね?』
 ひょろりとした声のみを飛ばして来るサネマロの気配へと意識を傾け、ヤクモは正面から検査機材らしきものを押してやってきた看護婦が横を通り過ぎ終えるのを待ってから、殆ど唇を動かさない小声で問いの一部に対して応える。
 「……憂鬱、なんだろうな。今回の事件は何を残したとも何を解決出来たとも、余り云えない様な気がしているから、かも知れない」
 平日昼間の一般病棟はそう賑やかなものでもない。この辺りは個室ばかりの一角だから余計にそうなのかも知れないが。
 エレベーターの呼びボタンを押して、静かに業務をこなしているナースステーションを横目に見遣った時、丁度顔を上げた若い看護婦と眼が合って仕舞った為、軽く会釈をすれば笑顔を返された。
 チン、と軽い音がエレベーターが到着した事を告げて来たのを契機に、無断で刃物なんか持ち込んで済みません、と心の中でぽつりと一応謝ってから、ヤクモはエレベーターへと乗り込んだ。ストレッチャーも収まるサイズの筺には他に誰も乗っておらず、一人では少々居場所に困る感さえ漂っていけない。
 「二十年前に行方不明になった人に関しては、結局伏魔殿からも発見する事が出来なかったからな…。少なくとも現代に記録として残っている限りでは、『彼』の意図せず、然し間接的に出して仕舞った犠牲者となった訳だ…」
 背にしたエレベーターの壁に、更に頭を押しつける様にしてヤクモは顎を上向かせた。薄ら明るい照明。静かに下る筺。広い余剰空間。吐き出した陰鬱さは吸われもせずに全て己へと戻ってくる。
 「然しそれさえも、本来の原因は闘神士──人の手に因るものだ。何をも誰をも今となっては責められない。解っている。
 でも、少なからずひとりの人間が、失われた。行方不明、神隠しと、残された家族は今でもそのひとりの『死』たる証も何も持つ事が出来ないんだ。だからその人も、叶うことならばこちらへ返してあげたかった」
 呟きと云うよりそれはただの告悔の様だった。どうしようもないと云う事実の認識こそが言葉となって漏れ出す。それこそ未練がましく。図々しく。
 明確な『犠牲者』として、公には伝えられはしないものの記録として残されるのはその二十年前のただ一人だが、実際はもっと多くのものが巻き込まれた可能性はある。近年になるまで人ひとりの失踪などは付近の住人達以外の騒ぎになどならなかった。
 そしてそればかりか、式神を失って仕舞った闘神士達も今回の犠牲者と数えられる筈だ。『彼』が能動的に望んだ事ではなくとも、契約を履行し続けるその為にはそうするほかなかったのだ。
 「……人間は、そうやって式神や、あらゆる『神』やそう云うものに救われて生きているんだと、今回の事で更に思い知ったよ。
 式神の──皆の本来持っている、節季そのものの優しさや厳しさとか……、人に関わらせる業の深さとか」
 そこでエレベーターが再び軽快な音を鳴らした。どうやら何処の階にも止まらずに一階まで降りて来れたらしい。表示板を軽く振り仰いでから、ヤクモは姿勢を正して狭い筺から抜け出した。
 『あれは大昔からこの時代にまで縛られていた式神だからね。多少頑固過ぎるきらいはあるとは思ったけど。だからそのことについてをヤクモが気に病む必要は無いんじゃないかなあ?要するに『好きでやってた』訳だし、ね』
 こちらは上階の病棟とは異なって外来患者でそれなりに人の流れのあるロビーを横切っていくヤクモの周りに、霊体を纏わりつかせながらタンカムイが云って来る。
 『あれの庇護で救われた人もいるんだからさ。犠牲になった人たちだって、帳尻が合う、とか。ヤクモだとそうは思えないかも知れないけど──僕はバランスなんてそんなものだと思ってるよ』
 自然摂理を重んじる消雪族らしく、その辺りは憚る事もなくきっぱりと言い切るタンカムイに、そうなのかもな、と曖昧な応えを返してやってから、ヤクモは自動ドアを潜り抜けた。途端人工の照明ではない日差しの温かさに照らし出され、眩しさにてのひらで額の上を覆う。
 『とは云え、彼の者が怪我を負ったのはそのバランス外だからして、その事自体を許してやる必要など無いでおじゃるよ……多分』
 またしても声だけを飛ばして来たサネマロのその言葉に、ヤクモは思わず顔を顰めて仕舞う。同じ様に隣ではタンカムイが矢張り顔を顰め(まくっ)ていたが、原因は無論別のところにある。
 「…………許せる気はしないと、彼奴自身にも云ったし、」
 それよりも他に赦せないのは、マサオミの取った行動ではなく、寧ろ──、
 『無論。ヤクモ様がご自分をお責めになる必要も無いでおじゃる』
 胸中の呟きを継ぐ様に続けられるサネマロの言葉に、ヤクモの目蓋がそっと伏せられる。弱い吐息。
 「それは難しい相談だな……」
 顰めた顔から予想以上に憮然とした声音が漏れた事に気付いて、ヤクモは口を尖らせ溜息をついた。何となく周囲を見回して、辺りに人の気配が無い事を確認してから続ける。
 「……我侭である自覚はある。──でも……………、厭だったんだ」
 何が、とは指さずとも解っている。誰かが。彼が。或いは誰もが。自分ではどうしようもならないことで、容易く目の前から喪われるかも知れなかったと云う、その事が。感じた恐怖が。己の無力が。只管に厭だった。
 何でも出来ると自惚れる心算はない。だが、出来る事が出来なかったと云うのは、後悔を抱くよりも何よりも只、赦せない。
 (だから、俺の油断や不覚が原因で彼奴が死にそうになるなんて、そんなのは御免だ)
 思考は解法のないパズルによく似ていた。マサオミも恐らくはヤクモと同じ様な事を思って敢えて自らを危険に晒したのだろうと、予想は恐らく間違ってはいないと確信出来るだけに質が悪い。
 勝手についてきて、勝手に巻き込まれて、勝手に庇って、勝手に傷ついた。一連の彼の行動をただ莫迦と罵って仕舞える程には、ヤクモは独りよがりな人格でもない。
 (彼奴が居る事が心強かったのも確かだが、)
 小さく呻いて打ち消す。それを口にすれば今後益々調子に乗られる事は見え透いている。
 手で作った庇の下で、盛大に顰めていた表情をなんとか元の通りに切り替えると、ヤクモは病院のエントランスを一度だけ振り返った。
 「──本当に。無事で、良かった」
 胸の裡に湛えていたひとことをそっと漏らすと、ヤクモはその侭踵を返した。
 次の『仕事』はひとりきりなのだから、大変なものが舞い込んでこなければ良いのだが。


 どう云う事だろう。
 先程見舞い客の残して行った果物カゴ(マイナス林檎一つ)を難しい顔で眺めながら、マサオミは点滴に繋がれた腕を組む。
 ヤクモがマサオミに対し少しばかりドライに振る舞うのは(認めるのは癪にしても)いつもの事なのだが、だからこそ機嫌が善し悪し何れかにああまで極端に傾く事は珍しいと云えた。しかも良いのか悪いのかがさっぱり解らないしどちらであったとしてもその理由も判然としない。
 第一ヤクモは、万が一マサオミに何らかの過失があって不機嫌になる様な事があれば、それを無言で訴えて来る様な性格ではないのだ。寧ろはっきりきっぱりと訴えて来る質だろう。それぐらいの事は『長い付き合い』で熟知している。
 「……だとしたら」
 呻くのと同時に眉間に皺が寄った。さらりと落ちた前髪を除けて、マサオミは短くない吐息をこぼした。
 『らしく』ない様子。平時以上に平然とした態度。意味の掴めない問いかけ。
 「………………感傷的になっていたのか」
 例えば今回の事件の事。例えば己の過失。例えば、慣れない悲哀。例えば、慣れた義憤。
 あらゆる事に疲れて弱っていたのではないか、と云う想像は成程しっくりと収まりはする。
 「全く、アンタは大概、自分に厳しすぎる……!」
 そんなにも全部を背負い込む事などないのに。
 吐き捨てる様に呟くと、びっくり箱から飛び出した中身の様に跳ね起きて、マサオミは腕から点滴針を毟り取った。枕の下に隠していた符を何枚か掴み出すと寝台から飛び降りて窓辺に向かい、勢いも荒く引き開けると、ひといきに窓枠を蹴った。飛び降りる。
 病室が病院の裏手にある駐車場に面していたのが運か、目撃者不在の侭マサオミは温いアスファルトの上へ衝撃一つなく足を下ろしていた。いきなりの符の使用で、ヘバッていた気力が激しい消耗を訴えて来るが、それを無視し裸足でエントランスの方へと駆け出す。
 ──彼は怒っていた。自分に対して怒っていた。そしてきっと同時に、落ち込んでもいた。だからこそ、マサオミに向けて露骨に具体的な抗議を寄越さなかったのだ。そんな彼に酷い好感を得ている己には莫迦莫迦しいことこの上なかったが、それは今こうして自身を無茶苦茶な行動に駆らせるだけの原動力でもあった。
 力無い微笑で問われた──「どう云えばいいのかな、」──などと。
 何故解らないのか。何故気付かないのか。
 感傷も義憤も悲哀も、遣る瀬の無さも。ひとりで抱え込むからに決まっている。自ら以上の瑕疵を己の責にして、強い心算で居るからだ。
 果たして、探していた人物は未だ病院からそれ程行かぬ道を歩いていた。寝間着で裸足、髪を振り乱したマサオミの姿は大層人目を引くものだっただろうが、周囲には人の気配が全く無い。
 田舎の平日の昼間と云う環境に幸いと云うべきか、或いはこれは何かの采配か。人通りの一切も無い、ぽっかりと空いた空隙の様な其処にマサオミは躊躇わず踏み込む事を選ぶ。
 否。仮令此処が人の集う往来であったとしても構うまい。『今』しかないのだ。この言葉が届くのは。
 「ヤクモ!」
 呼びかけるのと同時に、腕を掴んで無理矢理振り向かせた。「え」と完全な不意打ちに瞠目する彼の両肩を掴んで、マサオミはひとつ、息をつく。
 「まさ」
 「アンタが、全ッ然解ってない様だから云いに来た」
 ぽかんとした侭、己を振り向かせた者の名を紡ごうとするヤクモの、横っ面を叩く勢いで強く。迫って云う。
 「俺はアンタの枷になる為に此処に居る事を選んだ心算は無いからな。闘神士として何の役にも立てないとしても、人として支えになってやりたいから此処に居る。アンタの信頼に応えてアンタを信頼する為に、そう、選んだんだ」
 それはマサオミが何度も繰り返した事だから、言い訳の様に聞き慣れていることだろう。それでも随分驚いた様に目を白黒させているヤクモの、常よりも覇気の薄い瞳に同じく自分の目をひたりと合わせて、今までよりも深く続ける。
 「アンタは呆れる程頑なだから、自分を責めるなと云っても聞きやしないんだろうし、それはもう諦めた。
 ……だけど。そんなにどうしようもない程落ち込んでるんなら、あんな意趣返しめいた事より、もっと素直に甘えろよ」
 「…………………」
 返って来たのは唖然とした、ヤクモの初めて見せる沈黙だった。そうして暫くの間彼は綺麗な琥珀色の瞳をゆっくりと瞬かせていたが、やがてマサオミに押さえつけられていた両肩の力をゆるりと抜くと、ほんの一瞬だけ視線を逸らして、やわい苦笑を浮かべてみせた。
 「有り難う。要するに、もっとお前をあてにしろと云いたいんだろう」
 「…………………本ッ当〜に、アテにしてくれる気、あるのか?」
 「さて?『頑な』な俺の云う事だからどうだか知れないな。だが今の流れで、お前は俺の事を『信頼』してくれているのだと取ったんだが?」
 「…ぐ」
 じっとりとした眼差しで問えば、にこりと楽しそうに打ち返されて、揚げ足を取られる形となったマサオミは言葉に詰まる。そこに、ヤクモからの追い打ちが降って来た。
 「第一、お前が無事退院して来ないと、あてにしたくても出来ないだろう。ひとを心配する暇があったら自分を先ず何とかする方が先だな。と云う訳でもう大人しく病院に戻れ」
 待っていてやるから、と子供の様な微笑みがそう続けて、一歩、後ろへと下がった。
 言葉は近くなったと云うのに、距離だけは奇妙に遠ざかる。その隙間を詰めかけたマサオミは然し、頬の内側を噛んで止まった。
 これ以上進むと、早く病院へ戻れと云うヤクモの言い分を強調してやるだけだ。それを言い訳に逃げられたのでは堪ったものではない。
 全く、どうしてこの些か一方通行な感漂う想い人はこうまで頑固なのか。
 結局のところ彼はいつだって己の裡に秘めた、痛々しい程に正しく真っ直ぐな理念を貫き続けている。きっとその内訳の最初に「強く在ろうと」しなければならないとでも但し書きされているに違いない。
 だからマサオミの想いも言葉も届いていると云うのに、彼はそれを享受しながらもはぐらかす。解っている癖に解っていない素振りで、マサオミが諦めて仕舞うのを待っている。
 有り難う、と告げる言葉に嘘を疑う余地などない。本心なのだろうから。だがそれを形として実践してくれるかどうかは、未だ知れない。
 それがヤクモの性質だから、と理解を示す自分とは別に、頼られていないのか、と落ち込んだり憤ったりする自分がおり、それに気付いて冷静になれる程度にはマサオミは自分のこの心と付き合い慣れていた。
 「…………『この先』じゃなくて、今この時も、なんだけどな」
 だから大っぴらには噛みつかないが、しっかりとヤクモに釘を刺してマサオミもまた一歩、離れた。寝乱れただけではなく、走った事で更にぐしゃぐしゃになった自らの髪を苛々と掻き回して。あからさまに溜息をついてやる。
 「……………………何の事だか。と、惚けるべきかな。俺は」
 内心の瑕や疲労をちっとも見せない眼差しでそう笑う彼は、マサオミのそれ以上の行動を牽制する様に笑った。マサオミの裡の利己的なものを読みとって、だからこそ享受は決してしないのだと無言でただ突きつける。
 (だから、頼られたいし守ってもやりたいって云うのに、その癖適わなくとも『それでも良いじゃないか』と納得しちまうんだ、俺は)
 「ありがとう」
 「え」
 惚れた弱み、と。そんな名前に内心で溜息をついたマサオミの首に、先程離れた筈の二歩を一瞬で詰めたヤクモの、両腕が絡みついていた。
 「……………、」
 互いの肩口に顔を埋める様にして、いきなり抱きついてきた形になっているヤクモの背に、躊躇いながらマサオミは腕をそろそろと持ち上げかけて、暫し考えてから宥める様に彼の背中を軽く叩いてやった。
 「溜め込んでないで、云えるなら云ってくれると嬉しい限りなんだが。一緒に戻るか?」
 いいや、と振られる首。
 「今はこれで充分」
 これ、と云うのが具体的にどう云う意味なのかは知れなかったが、ヤクモが今日病室で会ってから──会う前から──ずっと溜めていたのだろう、僅かの感情の剥離に、マサオミは驚きながらも純粋に嬉しさを隠せなかった。だから、つい、と体を押される様にしてヤクモが離れた時も、名残を惜しんで仕舞いそうになる。
 「…………………………そうか」
 だがそれを堪えて、離された侭頷く。これ以上は思い上がりにしかならない。
 「早く戻らないと、イヅナさんに見つかった時あとが怖いぞ?」
 「はいはいもう戻りますって」
 経験談なのか、人が悪そうにそう云って手を振るヤクモの姿をもう一度じっと見て、それからマサオミは歓喜と溜息とを胸中に呑み込んだ。
 「じゃあ、また。出来れば毎日でもお見舞いに来てくれると俺の回復力もにばいさんばい」
 「……善処しよう」
 珍しく素直に考えながら、こちらは溜息をはっきりと吐いて、ヤクモ。答えそのものを持て余していると云う風情ではあったが、マサオミはひとまずの確約に安堵して、続けて足早に病院への帰途についた。
 改めて己の格好と状況とを思って情けない苦笑がこぼれるが、収穫はあったし、成果もあったと云える。
 結果には満足し難かったが、少なくとも。彼に全く頼られなかった訳ではないと云う小さな事実に、心はお手軽にも安らいでいた。


 自分から手を差し出さないものを救う事は出来ないと、そう云ったのは果たして誰だったか。
 慌てて去って行く背中が見えなくなるまで見送ってから、ヤクモは本当の意味では伸ばし損ねた手を己の顔に引き寄せ、目元を覆った。際限のない溜息を自覚する。
 戦いを身に付けた時と同じで、いつしか『それ』が苦にならなくなっている。そしてその感覚が心地良い。
 縋るならもっとマシなものにすれば良いのに、と、少々口の悪い己の式神であればそんな事を思うだろうか。そう、考えて仕舞ってからヤクモは俯いた侭かぶりを振った。これはマサオミにもタンカムイにも幾らなんでも失礼過ぎる想像だ。
 「ひとりで全てを負える程の器量なんて、持っている心算もないし、持てるとも思っていないのだと云って、お前は信じるかな」
 悄然とそうこぼして、ヤクモは手の庇越しに再び空を仰いだ。
 己の感じた正しさを貫く為に、強くなった。時に別の理念を断ずる事が適う程の技倆を得た。
 引き替えに失ったのは、躊躇いと後悔。然しそれは決断には不要であっても、全てが終わったあとで心に酷く重く圧し掛かる。
 だが、それこそが必要なものであるとヤクモは信じている。己の力がただの暴力にならない為に。忘れる事なく抱き続ける。
 (縋らないのは俺の我侭で矜持だ。だけどそれは、お前を頼りにしていないと云う意味ではないのだと云って、)
 「……お前は信じるかな」
 何処までも利己的に、何処までも真正直に訴える。あの真摯な心遣いを。受け取り損ねた侭でいるてのひらを強く目蓋に触れさせて、小声の囁きを続ける。
 (寄りかかれ、とか、守らせろ、とか云うのは……たぶん、悪くない。でも、お互いに依存するのは御免だからな)
 恐らくそれは酷い酩酊感を持つ心地よさを与えてくれるものだ。溺れる程に流されはしないが、ひととき沈むのは悪くない。
 溜息混じりにそう胸中で静かに呟くと、ヤクモはくるりと踵を返した。何処となく浮かれている足取りに苦笑が浮かびかかるが、堪えてそっと、手で緩く空(くう)を掴んで拳を作る。
 幾分晴れて仕舞った気分を、わざわざもう一度落ち込ませる趣味はない。戒めとして忘れない事と、己を責め続けなければならない事とは全くの別物だ。
 そしてそれは恐らく、マサオミには到底理解出来ない様なことなのだ。どれだけの想いや愛情があった所で、覆される事のないものなのだ。
 それでも。あなたが居てくれて良かったと。そう云った所で、彼は信じてくれるだろうか。





長かったです読んでくださった方いたらありがとうというかお疲れ様と云うかお付き合いどうもと云うか…。
結局暖簾に腕押しが基本形+妄想具現化したかったとかそんな感で、事象が違う癖にやってる事いつも通りなのも短く纏まらないのも仕様です。式神の庇護と某マサオミの利己っぷりのリンクが想像以上についてなくて息切れしたのが悪い。

彼を変えた。惰弱か人間らしさかそれとも慕情か。それこそが多分罪。