それでも時折、ふ、っと。
 まるで呼吸をしていた事を不意に意識するかの様な、ごくごく自然で当たり前の事象の様に、記憶が鮮やかに再生される。
 己が名を与え、守り守られ共に戦い、生きた。
 あの時以上の歳月を経ても、決して埋まらないそれは──確かに、ピースの足りなくなった想い出だった。
 足りない欠片があるからこそ、補えない存在が居るからこそ、記憶は完結しているのに思いは完結しないのだ。描きたかった未来を夢想せずにはいられないのだ。その身がどうなっているのかを、案じずにはいられないのだ。

 だからこそ、あの時の思わぬ再会で気付いた。
 楽しそうに今の契約者の事を話しながら、その一方で父を、己をずっと抱いてくれていたのだと気付かせてくれた──深い思い。笑顔で語るその様子に紡いだ絆を確かに感じて。
 埋まらなかった欠片を漸く見付けた事に。気付いた。
 そして、心の中でずっと会っていた、描いていた不安や安心、そして描けなかった未来は、自分の想像とは全く違ったけれども。
 彼の白虎にも確かに未来(それ)は訪れていたのだ、と云う事実に。

 新たな契約者と絆を結びながら、そこにちゃんと自分や父が記憶されていた。そんな確かな喜び。
 式神界に居るのか、闘神士を続けていればいつか敵として使役されている姿と再会するのか、そんな怖れが払拭された安堵。
 そうして自然と笑みが浮かんだ。
 見えなかった、己が想像するばかりで達せなかった未来を、知ることの出来た嬉しさに。

 その時、確かに酷く安心する事が出来たのだ。
 契約の満了と云う終わりを、初めて──良かったのだと。『記憶』として抱く事が、出来たのだ。



  いつでも思い出せる。世界で一番遠い存在になって仕舞ったのに。



 その日、京都・新太白神社は、天地流派の闘神士の歴史が紡がれて以来初めての珍客を迎える事になっていた。
 厳密には賓客、かも知れない。だが今まで天地流派の辿って来た歴史から見ればそれは明かな『珍事』或いは奇蹟だっただろう。故に客人が如何なる大物であろうがそれを『珍客』と呼ぶのは間違いでもない。
 冬の寒さも去り、少し暖かさを憶える様になってきた早春の空の下。件の新太白神社・境内にある賽銭箱の前に腰を下ろしたヤクモは、新たな節季の恵みをその身に受け止めんとばかりにゆったりとした風情で、それは心地よさそうに目を細めていた。
 節季の変化かそれとも心境の変化か。未だ比較的新しい神社は古い建物と新しい生活の匂いとが混在しており、当初は身に馴染みの薄かったそこが、気付けばそれなりに心地良く感じられる様になっている。
 現代と過去との融和を象徴するかの様な変化は、果たしてこの新太白神社ばかりに起こっている事ではない。今日此処を訪れる曰く『珍客』達もまた、過去から現代、そして未来へと通じて闘神士の歴史と在り方とを大きく左右する者達だ。
 苛烈で、そして半ばがその意味を失いつつあった天と地の流派の諍い。神流の憎悪。全てが混在し全てが衝突し合いそして全てが結果的にとは云え打ち解ける事となったあの戦いの末に、果たして彼らは何を学んだのか。いつかこの出来事を『歴史』と見た時、何を学ばれるのか。
 その在り方をも恐らくは左右する。これが歴史的な奇跡であり、『珍事』でなくて何だと云うのだろうか。
 多くの犠牲も生んだが、それ故に先に進める事になったのは確かだ、と、自らの思考に水を差してから、ヤクモは息継ぎをする様に顎を持ち上げた。
 回想のついでに、いつも慣れて来た挙措であった筈の、印入力や闘神符の使用すら侭ならなかった数ヶ月前の我が身を何となく思い出して、ヤクモは今は(怪我に関しては)すっかり完治した右手を翳して空を見上げてみる。
 見慣れた己の手の甲と指先までを辿れば、いつしか意識は右手を透かして高い空へと向いている。春を迎えた空は夏のそれよりも高く、冬のそれよりは幾分近い。風も殆どない穏やかな空模様の中、時間をまるで惜しむかの様に、薄い雲が指の間をゆっくりと通り抜けていく。
 「ヤクモ様、この様な所で一体何をなさっているのですか?」
 掴めないかな、と掌を軽く握ったり開いたりしている所にかけられた声に、ヤクモは視線をゆっくりと空から降ろして行く。と、左右二つに分けて結った淡い色の髪先に勾玉の飾りをあしらった、いつもの巫女服姿のナズナがいつの間にやら目の前に立っていた。
 「何を」と問いはしたものの概ね想像がついているらしく、彼女のその表情は少々険しい。
 「……………、」
 ええっと、と呻きを口内で呑み込んでヤクモは自然と浮かんだ苦笑と共に視線をナズナから少しだけ逸らした。その動作で丁度宿坊の方が目に留まったので、思いついて右手を降ろした。その侭ぽふ、と手を打つ。
 「そう云えば、マサオミは未だ起きて来ないのか?」
 「いえ、先程それはもう眠そうに起きていらっしゃいましたので、朝食をお出しておきました。全く、夜更かしはなりませんとわざわざ昨晩注意を促したと云うのにあの者は……」
 「彼奴も『今日』を不安に思っていた一人だからな。余り虐めないでやってくれよ、ナズナ」
 「ええ。本来ならば幾らお客様とは云え甘やかすのは私の流儀ではないのですが……此度の大戦を終局に導いた功労者の、一応は一人として、それなりに労は労える様に尽力しています。一度は裏切った身とは云え、あの者がリク様やヤクモ様をお助けしたのは、事実ですから」
 少し硬い口調で質問に応じたナズナも、ヤクモの軽い取りなしを受けると、自らに言い聞かせるかの様にそう言い添えた。曲がった事を好まない彼女の性質故に、マサオミが神流として裏切りを見せた事自体には未だ看過しかねる複雑な感情が残っているらしい。然しそれもリクやヤクモの説明やナズナ自身の納得もあってか、それとも『自然』と同じ釜の飯をつつきあう仲になったからか、この数ヶ月で幾分和らいで来ている。
 もう本質的には恐らく、ナズナはマサオミの事を疎んでも嫌ってもいないだろうと確信出来る程には、ヤクモは彼らを含めた今の生活に慣れきっていた。
 「そんな事より。ヤクモ様はこの様な所で一体何をなさっていたのです?」
 ナズナやマサオミを含めた日頃の様子を思い浮かべ、僅かな油断が生じたヤクモのその隙を突くかの様に、ナズナの鋭い切り込みが入って来た。と云うよりは原点に戻って来たと云うべきか。どちらでも構わないがどうやら誤魔化しきれなかったのは確からしい。
 眼前で今度ははっきりと、厳しい誰何の眼差しを背負い腕を組んで立っているナズナの事を、ヤクモは苦笑の表情を浮かべた侭固まって見つめて──暫時の間の後。
 「………ごめん?」
 「何故そこで疑問系になるのですか」
 「いやなんとなく。人待ちをしていただけなんだが、多分必要かな、と」
 素直に謝罪の言葉が口をついて出たが、ナズナの険しい表情は一向に晴れる気配も見せない。どころか更に怒りを孕んで行く気がする辺り、どうやら彼女の叱責を見越して先に謝ったのは却って藪蛇だったらしい。
 「お解りなのであればどうぞお控え下さいませ!その様な些事は私共にお任せ下さっていて宜しいのです!第一ヤクモ様はまだお身体の調子が万全ではあらせられないのですから、この様に外に出られていてはお身体に障ります!」
 案の定かナズナは怒髪が天を突きそうな勢いで捲し立てて来た。とは云えそれは、歳の離れた兄の様であり尊敬する闘神士であるヤクモの事を信頼しているがそれでも案じずにはいられない故の、彼女なりの心配や思い遣りから来るものであって、厳しくはあるが厭なものでは決して無い。
 「すまない。でももう怪我も完治しているし俺は大丈夫だ。──それに、今日は矢張り大切な『約束』の日だからな。出来る事ならばきちんと迎えたいんだ」
 諭す様な、然ししっかり通ったヤクモの言葉に明確な主語は無かったが、それでもナズナは聡くその意味に気付いて、険しい表情の侭ではあったがやがて小さな溜息を残すと肩を一緒に落とした。
 「……解りました。ですがヤクモ様、くれぐれもご無理はなさらぬ様にお願いします。何かございましたら直ぐに仰って下さいませ」
 「ああ、解っているよ。心配をしてくれて有り難う、ナズナ」
 そっと頭を撫でる仕草に少し照れた様に頬を赤らめると、ナズナは空気を改める様に一度咳払いをする。
 「それと。幾らお出迎えに立つとは云え、ヤクモ様が天流にとっての大事な御身であらせられる事には変わりませんから、くれぐれも自ら茶坊主を務める様な真似はなさらぬ様にして下さいませ。私達闘神巫女の矜持に関わる事になりますので!」
 そう、しっかりと釘を刺す事は忘れず、最後に一度丁寧に頭を下げてからナズナは少し慌ただしく宿坊の方へと駆けて行った。マサオミの話や想定では結構な数の『客』が出るのは間違い無い為、準備に忙しいのだろう。意図をしていなかったとは云え、引き留める事になって仕舞った現状に密かに謝罪しながら、ヤクモはナズナの背を見送った。
 小柄な体躯が宿坊の中へと消えて行った後、ヤクモは両手を後ろ手について、両足を緩やかに開いて伸ばした。目蓋を降ろして静かに息をつく。
 特に考えずした動作だったのだが、視界が閉ざされた事で意識が自然と追想めいた記憶に落ちる。
 犠牲と負債のその果てに、此度の戦いは終結を迎えた。天地流派は今日これから最後の過ちを清算し、今後は天も地もそして神も、流派の垣根を越えて純然たる『闘神士』として協力していける様になるだろう。
 既に戦いの果ての時期には、リクとユーマ、テルとムツキの団結を始めとし、地上でもウツホの石化の呪いから逃れていた天や地の闘神士達は互いに協力し合い妖怪を祓い人々を守っていた。
 宗家同士の和解そして贖罪が決定付けられ、流派の垣根が完全に取り払われる。その事で千年の争いは最早何の意味も無くなり、天と地の断裂とはそう遠からず歴史の中の事となるだろう。
 それが我欲の為に互いを食い潰し合うと云った闘神士の歪んだ在り方を正し、良き方向へと導くものであるだろう事は、今や誰もが願う必然となっていた。
 闘神士達も、解り易く明確に同じものであった『憎むべき敵』と云うものを失う事で、式神と云う存在を争う為の『武器』としてではなく、共に手を取り合い先へ進む為の『絆』であるのだと、恐らくは知っていく事が出来る。
 嘗て己も知ったあの絆を、互いに奪い合う様な事にはもうならないで欲しいと。ヤクモは強くそう願わずにはいられない。
 神流を犠牲とした、天と地の負った罪の代償は、千年の永きに渡る永訣だった。その端的な憎悪こそが闘神士の在り方を、人の心を、歪め続けていた決定的なものだ。
 天流の過ち、地流の罪、神流の苦しみ、そしてウツホと云う少年を。節季と云う世界の恵みを。式神と云う絆の優しさ、或いは厳しさを。
 その力は闘神士同士の争いに向ける為のものではなく、世界を、人々を慈しみ守る為の力である、と云う真実を。
 二度と同じ事を繰り返さぬ様に、これからは闘神士の正しき歴史として全てを記し、伝えねばなるまい。
 その為に宗家の二人が、全ての闘神士達が、ヤクモが考えなければならない、こなさなければならない事は未だ幾つもある。戦いが終わったとは云え、それで全てが終わりではないのだから。
 そうしてどれだけの時間そうしていたのか。ふと新太白神社へと近付く気配を感じて、ヤクモはゆっくりと目蓋を開いた。思考も同時に戻して開き、そっとジーンズを叩くとその場に立ち上がる。その侭じっと見つめる鳥居を、やがてくぐって現れたのは大小三つの人影。
 向こうは境内で待ち構えていたヤクモの姿に気付くと、軽く三様の会釈をしながら新太白神社の敷地内へと入ってくる。嘗ては天流の来訪を知らせ、地流の立ち入りを拒む結界の張られていた、その地に。
 「ヤクモさん、お久し振りです」
 『よおヤクモ。怪我はもう平気なのか?』
 真っ先に、境内へと降りたヤクモの方へと近付いて来たのは相変わらず穏やかに微笑む天流宗家の少年、太刀花リクと、その腰の神操機から霊体を浮かばせた式神、白虎のコゲンタ。
 「久し振り、だな。ヤクモ」
 『ユーマよ、お前が此奴に直接対面をするのはほぼ初めてであろう』
 その後に続いて来たのは、どこかぶっきらぼうに云う地流宗家の少年、飛鳥ユーマと、こちらはコゲンタとは異なり声のみを神操機から飛ばして来る式神、白虎のランゲツ。
 「ああ、そう云えばそうなるな。それではハジメマシテ、か。地流宗家・飛鳥ユーマだ。そしてこっちは俺の父だ」
 「初めまして。貴方が天流のヤクモ君か。噂も予々。モンジュ殿──お父上はご息災かな?」
 ユーマの紹介を受け、二人の少年を引率する様な形でやって来た壮年の男が軽く頭を垂れる。それに丁寧に返しながら、ヤクモは首肯する。
 「こちらこそ初めまして。はい。今はこの新太白神社には不在ですが、飛鳥の方のお話は父より聞いていました。どうぞ宜しくお願いします」
 裏の地流宗家として田舎へと身を隠していた飛鳥家は天地流派の争いを元より余り好んでおらず、同じく闘神士として一線を退いてからは互いの流派の関係を慮っていたモンジュともそれなりに知った間柄であるとは、ヤクモも以前父から聞いてはいた。
 「天流、地流宗家共々、本日はこの新太白神社へとご足労頂き、誠に有り難うございます。この度の子細なお話は奥で致す事にしましょう。どうぞ、こちらへ」
 穏やかな物腰を、柔らかいばかりではなく真剣なそれに変え、綺麗な立礼と共に云うヤクモの、余りの変容っぷりに目を瞠るコゲンタに内心苦笑を漏らしながら、ヤクモは客人達を中へと通した。
 その後で忘れずにナズナへと『珍』客人達の来訪を告げに行けば、相当意外だったのか彼女は素直に報告に来たヤクモに少々驚いた様だったが、直ぐにもてなしの準備を開始する。どうやら機嫌は完全に治った様で、その事に密やかに安心した。

 *

 そうして積もる話もそこそこに、マサオミの案内を受けて辿り着いた彼の地にて、天地宗家は己らの最初にして最後の過ちである神流への呪いを鏡合わせの印に因り解き放ち、ウスベニや子供達は千と二百年の永きに渡る封印から解き放たれた。
 刻の変動や現在の状況に困惑する彼らを取り敢えず新太白神社へと招き、過去と現在との唯一の架け橋でもあるマサオミはナズナの立ち会いの元、ウスベニや他の仲間達に今までの経緯を説明する事となった。
 千と二百年の刻の差異に動じていないのは子供らだけの様で、変わらず元気に、ただ物珍しいものを次々興味の対象にして回っている。
 彼らの意向はこれからの話し合いで確かめる事となるだろうが、恐らくは千二百年前の時代へと戻る──或いは還る──事を選ぶだろう。刻を越える事は世界の理に基本的に反する事ではあるが、元在る時代より引き剥がされる事となった者達ならばそれに当たる事も無く、『還る』事が出来る筈である。
 幸い、その為に必要とされる稀少な陰陽神具である刻渡りの鏡は、未だ太白神社跡地に安置された侭だ。地流からその存在を隠す為にわざわざ隠し神殿に封印結界を張って隠匿しておいたのだが、『今』であればそれを解き放つ事にも問題は無いだろう。
 (然し、うちまでぞろぞろ山登りをして行くのも骨が折れるだろうし、鏡自体をこちらに運んで来た方が良いだろうな)
 『還る』人数やその質を思えばその程度の気遣いは必要だろう。過去の者は基本的に未来を知らない方が良い。出来るだけこの時代の余計なものに触れさせない様にする方策は間違った事ではない。算段とその為の手間とを口の中に含んだ侭、ヤクモは同室に居る天地宗家の方へと意識を戻した。
 リクは元来穏やかな性格で、因縁や思い違えと云う宿業さえ無ければユーマやランゲツと戦う事などを自ら望んではいなかったし、ユーマも今はただ振るうだけの力ではなく、人を守る為と云う力の使い途を見定める事が適い穏やかな心に在った為にか、久々に顔を付き合わせる筈の二人は一触即発になる事もなく、平和の空気の下他愛も無い事をぽつりぽつりと互いに語り合っている。
 最初は「馴れ合い」の様な事は苦手だと云う顔をしていたユーマも、余りにのほほんとリクが物を語り、ヤクモが穏やかな相槌を挟む為に絆されたのか、宗家二人組は此処に来て漸く戦い以外の事でゆるりとした関係を築けている様だった。
 「ただいま。お話中失礼するよ」
 そこに障子を開け、宮司姿のユーマの父が顔を覗かせる。彼は今度天地の流派がどう在るべきかを定め推奨する為の作業の一環として、歴史の伝達についての事柄を相談しにモンジュの元を訪ねに行っていたのだが、どうやら話が纏まったらしく戻って来た様だ。
 「モンジュ殿も今後の見通しについては概ねこちらと同意見の様だ。今度共に太白神社本殿へと赴き、天地宗家としての意向を公式の場で明らかにした方が良いだろうと云う意見の一致も得た。地流のトップはミカヅチが降りた今この通りだが、天流の上層の方は未だ利権の問題や古臭い慣習に煩わされているそうで、まだまだ大変そうだよ。ユーマ、リク君。二人にはまだやって貰わなければならない事が山積みの様だな」
 「今後宗家と云う存在が形骸化されるだろうとは云え、未だ俺達は責任を負う立場にある。その程度は覚悟の上だ」
 「昔から本殿(うえ)は頭の固い存在でしたからね。年々巨大になる地流に対抗する術も持たず、ただ寄り集まって負けん気と自尊心ばかりを凝り固めてばかりいた日々は、彼らの年齢程に雄弁に語っていると云う事でしょう」
 頷き合う飛鳥親子に、ヤクモは水を差す様な気分になりながらも正直なぼやきを漏らした。遣り取りを黙って聞いていたリクが、質問をする意志を示す様に軽く手を挙げて云う。
 「あの…、僕は天流宗家として刻を越えて来た訳ですが、宗家がいなくなってたその間、天流を支えて来たのが太白神社って所なんですよね?」
 「ああ。神社とは云うが実際は宗教体系には属していない、天流の闘神士の隠れ蓑的な組織。それが太白神社だ。この新太白神社や上にある太白神社(うち)もその本殿に直轄された支殿に当たる。天流に属する以上、なんだかんだで所属する事になるんだが──不謹慎な事を承知でここだけの話として云えば、建前の大事な見栄っ張りのご老人達の集会所、と云った感じだな」
 色々と含む所もあった為に殊更ぞんざいになるヤクモの云い種に、流石に大っぴらに同意する事は出来ないのだろう、ユーマの父が苦笑を浮かべる。その一方で、質問を寄越したリクはきょとんと首を傾げてくる。
 「でも僕はその……、ええと。天流の、太白神社の偉いご老人達、って云うのに会った事も無ければそんな人達が居る事すら知らなかったんですけど……」
 「ナズナだよ。出来るだけ君にこれ以上の無用な心配や負担を与えまいと、ナズナが無理をして遠ざけていたんだ。真面目な事に定例の報告義務は怠らないからな。毎回、宗家を何故お連れしないのだとか無茶な事を云われる度、上手く躱していたらしい」
 「ナズナちゃんが……?」
 驚きに目を見開くリクに頷きかけ、ヤクモは寸時浮かんだ苦い感情に蓋をして、それから肩を竦めた。
 マホロバの乱までは未だそれなりに組織形態として保っていた太白神社も、そのたった一人の闘神士の叛逆に因って殆どが散逸しかかった。ただでさえ天流が肥大化する地流組織に負けをみていた頃である。彼と彼の高弟達に因るクーデターは数少ない天流闘神士の結束を更に乱しそれどころか崩壊へと導きかねない危機でしかなかったのだ。
 天流上層部である太白神社本殿にとって幸いだったのは、マホロバが特に積極的に本殿を潰そうと画策した訳ではない事だったろう。お陰で彼らは苦汁を舐めながらマホロバの行動を見守るしか無く、それに挑んだたったひとりの少年闘神士に、彼自身も知らぬ内に全てを託して仕舞っていた。
 要するに本殿の者達は、ただ昔からの権威や闘神士である優越に支配され、地流(敵)を憎悪する以上の事をしなかったのだ。組織力も自らの力をも失い、ただ怠慢に過去の栄光にばかり縋り付き続けていた彼らの悲願は、宗家が再び戻る事、それしかなかった。
 そんな事実以上にヤクモは、本殿の人間達の身勝手な醜さを良く知っている。嘗てはそこに居たモンジュやイヅナ、ナズナもまたそれを良く知っている。
 ナズナは本殿から宗家の帰還を迎える任を帯びて派遣されてきた巫女だが、それ故に忠誠は本殿にではなく寧ろ宗家そのものに対してある。そして今では宗家のリクばかりではなく、ヤクモらを含めた者達へも親愛や尊敬を以て相対してくれている。
 彼女が本殿の再三の要請に拘わらずリクにその事を一切漏らさなかったのは一重に、ひとりでさえ宗家の重圧を感じているリクに、それ以上の重荷を──しかもヤクモ同様、或いはそれ以上に、身勝手な理想の載った御輿を背負わされる事が確実なのだから──かけさせまいと守り抜いてくれたのだ。
 「地流が大企業ならば、天流は自転車操業以下の零細企業だからな。『本殿(うえ)』なんて云った所で、殆ど形骸化した、ただ威張り散らす事が趣味の様な数人のご老人達が居る程度だ。彼らの誇大妄想や無知蒙昧な趣味嗜好に、ナズナはリクを煩わせまいと尽力してくれていたんだよ」
 「そう…だったんですか……」
 何も知らなかった、と俯き肩を落とすリクに、微笑みかけながらヤクモは少し戯けた様に続ける。
 「ナズナがいちいち云わなかったと云う事は、気にする必要は無いと云う事さ。俺がこうしてつい漏らして仕舞った事も出来れば内緒にしておいて欲しいな」
 ナズナの気性からして、却って感謝される謂われなどないと意地を張りかねない。そう言外にしたヤクモの云い種に、リクも釣られて少しだけ笑った。そして息を継いでから、決意を露わに真っ直ぐな眼差しで顔を起こす。
 「そうですね。でも、僕ももう、何も知らなかったからって云ってはいられないんです。だからこれからは宗家として、その人達ともきちんと話をつけたいと思います。闘神士と式神の力は、他人に威張り散らす為の力ではないし、流派の違う人を傷つけたり憎んだりする力でもないんだから」
 勁い意志の込もったリクの、今までより大人びて見える表情に、ヤクモばかりではなくユーマやその父もまた頷き顔を綻ばせた。
 「それでは早速だが、闘神巫女殿に許可を頂いた歴史資料や文献を確かめて見る事にしたのだが、当然これらのものは正しい事物を何一つ伝えていないものばかりだった。だからこれから改めて、正しき歴史を伝える為の文献の編纂をしようと思っている。
 そこで、地流、天流宗家それぞれにもその立会人として少々手伝って貰いたいのだが、お願い出来るだろうか?」
 ならば早速、とばかりにユーマの父がそう申し出る。実際、本当はこの事を云う為に来たのだろう。話を意図せずにとは云え逸らして仕舞ったのは申し訳無かったなと思うヤクモの正面左右でそれぞれ頷く天地宗家。
 「当然だ。今後の闘神士の為にも、それは俺達宗家がやらねばなるまい」
 「うん、そうだねユーマ君。僕に出来る事でしたら是非お手伝いさせて下さい」
 頼もしいその返答に、ユーマの父は深い頷きをひとつ返した。
 「有り難う二人共。それでは時間のある内に、早速──済まないなヤクモ君、二人を借りるよ」
 「いえ。俺もこれから太白神社へと刻渡りの鏡を回収に行かねばと思っていた所でしたから」
 次々立ち上がる宗家二人組に続いて、外に長時間出た事で久々の怠さを憶えている身体を、然しヤクモはそんな様子は微塵も感じさせずに立ち上がらせる。と、そこでリクの、少し寂しそうな表情に出会う。
 「刻渡りの、って……マサオミさんたちを元の時代へ送る為、のものですか?」
 「……ああ。限定的な指向性はあるが、刻渡りの鏡とは時空の違う世界へと人や物を転送する事が唯一適う陰陽宝具の事だ。未だ彼らに直接意向を尋ねた訳ではないが、恐らくは千二百年前への帰還を望むだろうからな。準備をしておいた方が良いだろう」
 「………そう、ですよね」
 ヤクモの首肯に、リクは表情を僅かに曇らせて俯いた。それがマサオミの狙いであり手管であったとして、リクが彼にソーマやナズナやヤクモに対するものと同じ、家族の様な情を寄せていたのは間違い様のない事実だ。薄々とマサオミの、全てを元に戻す、と云う願いの意味を悟っていたとは云え、矢張り寂しさを感じずにはいられないのだろう。
 「寂しく、なりますね。ヤクモさんも」
 「………………全くそうはならない、と云えばそれは嘘になるな。だが、それが本来彼奴の在る、正しい形であり望みなんだ。解ってやろう」
 屈託も他意もないリクの言葉に反射的に否定が浮かんで仕舞い、直ぐに返事を返せなかったヤクモは少しの間の後、態と模範的な云い方でそう諳んじた。
 彼らを家族の様に思っていたのは、実のところヤクモとて同じであった。あそこに行けばマサオミやリクやソーマやナズナが居て、彼らの式神が居て、そして──
 (コゲンタが、居た)
 そんな遠い囁きが己のものであると気付くと、ヤクモは表情には出さず顔を顰めた。
 それは嘗て望んだ夢の有り様に酷く似ていた様な気がする。いつかは望んだ事を忘れ去った、未練よりも無惨で莫迦莫迦しい、悲鳴の様な。
 振り払う様にかぶりを振ると、ヤクモは横目で窓の外へと、封じ込めた記憶の代わりに視線を逃がした。
 促すユーマに続いてリクが部屋を出ようとした丁度その刻、腰の後ろに下げられた神操機からコゲンタが霊体をふわりと浮かばせた。寸時奪われそうになる意識を留めると、ヤクモはごく自然な所作でそちらの様子を窺う。
 『リク。俺はちょっと此処に残る。歴史のなんたらってのくらいなら、俺に助けてやれそうな事はないだろうし、構わねぇだろ?』
 「え……どうして?」
 『アレだ。ほら、ランゲツの野郎がそこいらに居るしな。どうも落ち着かねぇんだ。だから神操機(俺)はここらへんに置いてってくれ』
 廊下を先に行くユーマの背を──正確にはその下げた神操機を──ちらりと見遣り、ふん、と鼻息を荒く云うコゲンタの姿をリクは暫し見つめていたが、やがて「うん」と頷くと、再び室内を振り返った。窓の傍に佇んでいたヤクモの方へと戻ってくる。
 「じゃあ、一人で置いておくのも可哀想だし……ヤクモさん、ちょっとコゲンタの事お願い出来ますか?」
 そう云ってヤクモの手へと白い神操機を押しつける様に渡すリクの表情は、嘗てその喪失に怯えていた弱気な少年のそれとは余りにかけ離れて見えて、ヤクモは思わず瞠目する。
 「……ああ、構わないよ」
 『そんじゃ行って来い、リク。しっかりやれよな』
 「うん。コゲンタも行儀良くしていてね?それじゃあ行って来ます」
 窓の外の春の日差しにも似た笑顔をひとつ残したきり、振り返りもせず廊下を去って行くリクのその背中が角を曲がって完全に見えなくなってから、ヤクモは少し呆れた様な吐息をついて、手の中に託された神操機を見下ろした。
 「バレバレじゃないか。下手な嘘は却って相手を傷つけるぞ?」
 『…………へッ、いーんだよ別にそれは。リクが解ってて気を遣ってくれたんなら、許可が取れたって事だしな』
 「それで。俺に一体何の用事だ?リクには云えないか聞かせたくない様な事なんだろう?」
 リクの向かった方角へと視線を未だ向けながら、図星なのを誤魔化す様にかぶっきらぼうに云うコゲンタに──正確にはその神操機に向けて問いを投げながら、ヤクモは無意識の内に己の神操機が普段下がる場所を意識した。今は特に危険もお役目もないからと、零神操機と五体の式神達には部屋で留守番をして貰っている。
 コゲンタが彼の言葉通りランゲツを避けたいと云うのであれば、もっと早い内に云い出していても良い事だ。つまりコゲンタはそんな建前の下手な嘘をついてリクの手を離れてまで、ヤクモに用事があったと云う事になる。
 リクもそんな嘘は直ぐに見抜いた様だったが、だからこそなのかコゲンタに気を遣い、ヤクモの手に神操機を託して行ったのだ。
 『刻渡りの鏡、取りに行くんだろ。なら歩きながらにしようぜ』
 くるりと霊体を振り返らせてそう云うと、コゲンタはヤクモの頭上へと浮かびそこに組んだ腕を乗せて落ち着く。懐かしいその構図にヤクモは何とも云えない表情になった。憧憬、が最も近かったかも知れない。
 (「懐かしいな」)
 出掛かった言葉を寸での所で呑み込むと、ヤクモは借り物の神操機を握り締めて黙って歩き出した。
 向かう先こそが懐かしい、記憶しか埋めて来なかった嘗ての地であると云う事実の前では、今そんな事を嘯いてみるのも莫迦らしかった。

 *

 注意書きに書かれた文字の意味は『立入禁止』。幾重にも張り巡らされた黄色い、古くぼろぼろになったそんなテープの群れには、書かれた言葉の効力よりも寧ろ、ただ足下を煩わしく遮る役割の方が大きい。
 まるで何某かの封印を想起させる様な、鳥居を塞ぐその無粋な障害物の横を無造作に回り込んで抜け、ヤクモは嘗ての実家の敷地へと足を踏み入れた。
 今までにも幾度か、気紛れを時折起こしては度々ここに帰って来た。本殿ばかりではなくその横手にあった実家も破壊され、幾度も節季を巡らせすっかり荒れ地と化したそこは、帰る度何か違った印象を見せてくれると云う事も特に無い。人の歩かなくなった石畳のそこかしこに雑草が蔓延り、春先の今でも枯れた草はその侭に、新芽は新たに好き放題に姿を見せている。
 『酷ェ有り様だな……こりゃ』
 特に新たな感慨を得るでもないヤクモとは対照的に、コゲンタの方には何かしら思う所があったらしい。現した霊体できょろきょろと忙しなく、懐かしの地を見回している。
 人の気配も自分たちの他には無く、想い出や生活の匂いも稀薄な、荒涼とした風が相槌を打つ様に境内を吹き抜けていく。僅かに感じた寒さにひっそりと肌を粟立て、ヤクモは崩れかけた本殿へと危なげもなく入って行く。実際、廃墟の中へと入り込むのは結界を施して以来の事だ。術で補強してあるとは云え少々天井や腐った足下に不安を覚えないでもない。
 だが天井が落ちてくる事も足場が抜ける事もなく、ヤクモは無事に本殿の板の間へと足を踏み入れる。一瞬だけ「キン」と軽い音と共に結界が揺らめくが、それはヤクモを遮る事も無く通した。
 天流、よりも更に限定した、ヤクモやナズナ、イヅナ、モンジュのみが通れる様に調整した結界だ。住居を移す際、念の為に、と張っておいたものである。結界を通る事が適わぬ者には、自然と『不安』や『恐怖』を与え払う様にしてある。火事で焼失した神社、と云う場所柄もあって、崩れるかも知れないと云う不安や、何かが起きるかも知れないと云う恐怖は、人払いには正に的確と云えよう。
 本殿の屋根はその半ばが崩れ落ち、壁面や柱も申し訳程度にその形を留めようとしているだけに過ぎない。幾年も風雨に晒され続けた建物は、既にその意味も体裁も保ってはいない。況して用途を求めるのは無意味だ。
 祭壇の横を通り過ぎると、ヤクモは符を一枚取り出し発動させた。と、眼前にある瓦礫の幾つかが揺らいで消え、壁に空いた四角い穴を晒け出す。穴の先には地下へと続く階段が変わらず佇んでいる。
 『幻術か。入念だな』
 「それはそうだろう。幾ら自由度は無いとは云え、刻渡りの鏡の危険性はコゲンタも良く知っているだろう?」
 『まぁな…』
 結界に幻術に、と指折り数えるコゲンタが息を吐いて云うのに、ヤクモは肩を竦めて歩き出した。
 嘗てヤクモ達にとって『刻を渡る』事が身近であったのは、敵であるマホロバが刻を歪める所行を企てていたからである。世界は理を守る為に度々歪められた刻へと鏡を用い通じてくれたが、今となって見ればそれは全てイレギュラーな事であったのだと知れる。
 刻は過去から未来へと定められた速度で進むものであり、未来から過去を望む事は闘神士ばかりではなく人としての禁忌だ。本来あっては、決してならない所行だ。そう云った意味では五年前の戦いは毒を以て毒を制する様な事と云えただろう。
 マサオミやウスベニ達が元の時代へと『還る』事は、例えるならば嘗て奪われた対価に対する支払いの様なものだ。本来あった時空より彼らの存在が取り上げられたと云うその事自体が『歪み』であったが故に、『還る』事はそれを逆に修正する事となる。
 『還元』されるにしてはマサオミなどは未来の事を知り過ぎたとも思えるが、それは刻と云う本来不変のものからみればごく些細な変化でしかない。進行し続ける刻は常に『先』の一つを取捨選択しており、それ故に少々過去を動かす歪みが働いたとしても、未来(結果)は変わらない様に出来ている。それが修正の効かない程に大きな歪みでは無い限り。
 (それに、人は本来過去を望むものではない)
 記憶に囚われる事やイフの世界への望郷を、誰もが一度は思い経験している。然し人は過去には決して戻れない。過ぎた時を戻す術など存在しない。そうでなければ人は未来には進めない。過去は、想い出は、寄る辺となっても、変更を望んで良いものではないのだ。
 過去に思いを寄せるその瞬間にも、刻は前にしか進まない。寧ろ、想い出に浸れば浸るだけ気持ちの方が未来へと──それが不安であれ焦燥であれ──急くのだから、上手い様に出来ているものだと、そんな事を思う。
 地下へと続く階段は天井が低い為か、コゲンタの霊体はヤクモの後ろに続く様にしてついて来ている。符で明かりを灯したものの、本来暗闇でしかない地下は暗く、何人も立ち入っていなかった為にか埃っぽい空気に満たされており少々息苦しい。ガスなどが溜まっている心配は端からしていないが、閉塞感に息が詰まりそうな錯覚を憶える。
 (或いは、過ぎた時そのものが息苦しいのかも知れないな)
 己のつまらない想像には皮肉の笑みさえ浮かばない。やがてヤクモは危なげもなく、地下に拡がる隠し神殿へと降り立った。
 そこは円形状の小広い空間で、床には太極八卦の陣、周囲には八方音と節季とを刻んだ、陰陽見地的にも霊力の濃密な儀式空間を構成している。そして拓けたその中央には、布をかけられ今は沈黙し続ける、刻渡りの鏡がある。
 ヤクモは一直線に鏡の前へ進むと、埃避けの心算でかけておいた布を一息に払い取る。と、布に積もった何年分かの埃が舞い上がり、しまった、と顔を顰めた。暫し噎せ返る。
 『……何やってんだよお前は』
 コゲンタの呆れた様な声音に苦笑を返しながら、ヤクモは取り出したハンカチで口元を押さえると符を使い、舞い上がった埃を床へと沈めた。まだ痒い目や鼻の奥のむずむずした感触に辟易しながら、髪や服を軽く叩いてそれからゆっくりと鏡を振り返る。
 鏡はつるりとした、恐ろしいくらいに澄み切った鏡面を見せており、永年人が触れていないにも拘わらず、錆一つすらその表面に浮かせてはいない。鏡、と物質的には最も近いものを差してそう呼ぶのだが、実際はそれとは異なるものだと云うのも、強ち誇張や冗談ではなさそうである。
 鏡を覗き込む様にして、ヤクモはそっと手を伸ばすと鏡面に映った己の顔に触れてみる。触れても指紋や手脂の一つすらつかないその表面はひやりと冷たく畏敬すら感じさせるものであったが、物を映す事だけはそこいらにある普通の鏡と何ら変わりない。
 頭の上にくっついていたぶ厚い埃の塊を、鏡を見ながら払い除ける。そのついでに鏡面越しに隠し神殿内を何となく見渡して、ヤクモは意識せずに苦い息を吐き出していた。
 そこに映る姿は嘗て見た自分の姿とは大きく異なる。背も伸びたし顔立ちも大人びた。成長したからだ、と一言で表せる人の有り様とは然し裏腹に、天井付近に浮かび上がり周囲を見回す姿を鏡に映している白虎の姿は、あの頃と殆ど変わりがない。
 きっと父も、あの時同じ様な気持ちでこの白虎の式神を見つめたのだろう、とそんな思いを馳せる内、視線は自然と嘗てモンジュが石となって在った場所へと向いている。名残も何も残ってはいないが、どの様にどう在ったのか、全てを今もなお克明に思い出す事が出来る。
 記憶からまるで抜け出たかの様に、あの頃の自分が父の前に居る。冷たくなったその身に触れる度、無力感に打ちひしがれて。それでも只管闘神士として戦いに在った子供が居る。
 あらゆるものが変わった。全ての事が過ぎ去っていった。それでも変わらない、その侭にある式神と──鮮明に過ぎる記憶。
 六年前のはじまりの場所に、今二度目の終わりを迎えようとしている自分と、既に一度分かたれた筈の式神とが立ち尽くしている、現在(こと)。
 既視感にほど似た、然し全く異なる深い感情に支配されそうになり、ヤクモは静かに目を伏せると鏡から意識を外した。先程までと変わらずに隠し神殿内を感慨深そうに見回しているコゲンタの霊体(すがた)を見上げる。
 「……で、一体何の話がしたかったんだ?」
 『…………………』
 「リクには聞かせたくない様な話題なんだろう」
 『…………………』
 再度に渡るヤクモの問いに、コゲンタは珍しくも黙り込んだ。周囲を見回すのを止め、何処か厳しそうな表情で鏡の方を見ている。ひょっとしたらコゲンタもまた、先程ヤクモが見たものと同じものを追っているのかも知れないと一瞬思うが、恐らくはそうではなく、ただ目を逸らしたいだけの行動だろうなと思い至って仕舞い、そこで問いを重ねるのを諦めた。
 先程鏡から取り払った布を拾い上げると裏返しにし、返したそれを床に拡げてヤクモは無造作に腰を下ろした。神操機も同じ様に目の前に置くと、片膝を立てて肘を乗せ、コゲンタが口を開くのを待つ事を決め込む。
 ほぼ鏡の正面に腰を下ろして仕舞ったから否応無しに、座り込んだ己の姿が視界に映り込む。極力目を逸らしてはいるが、その所為でまるで拗ねた子供の様にも見える表情が鏡に映し出されており、振り返る事も気にする事も面倒になったヤクモは目蓋を降ろした。
 暗くなった視界は、想像していた程に余計なものを映したりはしなかった。その事に安心すべきかを暫し悩み、莫迦莫迦しい事だとまたしても直ぐに気付いて思考を放棄する。否定と肯定と或いは断絶。今日はこんな事ばかりをしている気がする。そんならしくもない己の思考の流れに呆れを感じずにはいられない反面、無理もないからだ、とも判じている。言い訳と云うよりは淡々と事実として。
 過去はそれほど軽くない。少なくとも今すぐに放逐して仕舞える程には。──否、忘れるのと投げるのとでは意味が違うだろう。受け入れて諦める。若しくは認める。それこそが人が未来へ進む為の賢い方法だ。
 (全く。俺は別に過去へ戻りたい訳では無いと云うのに)
 克服も兼ね合いも納得も──それとも今思った通りに諦めも──既に通り過ぎて来た事だ。今此処に戻って来たその事自体が、過去への未練や幻想、回帰願望と云う訳ではない。ただ、想いが、追体験が、いつもよりも近いと云うだけの事。
 (…………怖い、のかもな)
 何に、対してかは具体的には定めぬ侭、ヤクモはいつの間にか眉間に寄っていた皺を苦労して弛めた。そのついでに薄く開いて仕舞った目蓋の隙間から窺ってみれば、丁度コゲンタが眼前へと霊体を降ろして来た所だった。その高さが丁度、嘗て会話していた時の目線の位置だなと気付き、僅かに目を細める。苦笑か微笑か、どちらでも良い。
 『……ひょっとしたら酷ぇ話なのかも知んねぇけどよ。どうしても、契約を満了した、お前に訊きたいと思ったんだ』
 ヤクモの思考の丁度狭間に差し込まれたコゲンタの言葉に、自然と目線を逸らしたくなるのを堪えた。不自然に空いた間を取り繕う様に、細く吐息を漏らしてから、成程、と頷く。コゲンタが云いたいのだろう話に想像がついて仕舞ったのと、もうひとつ。
 『なァヤクモ。お前はよ、俺と契約を結ぶ以前から、闘神士になろうとしてたんだよな?』
 気付かないのか、それともフリか。気にも留めない様子で続けるコゲンタを見上げて、ヤクモは何となく確信する。後者だ。
 「ああ。小さい頃からとうさんの武勇伝とか、せがんで無理矢理よく聞き出していたよ。式神と共に妖怪と戦って、大事な人を守って。なんて話、子供にとっては良い憧れだったんだろうな」
 よく野球のボールを闘神機に見立てて、振り回して遊んでいた幼い頃。妖怪退治ごっこと銘打って、友達と町中を探検した事もあった。そんな幼い記憶。
 だが今でも思えば不思議な因果を感じずにはいられない。モンジュは決して闘神士の事やそれ以上の話へとヤクモを近づける様な事はしなかったと云うのに、何故だろう、自分は闘神士になるものなのだと、根拠も確信も、理由すらなくそう信じていた──解っていた──気さえしていたのだ。
 家が家だった事もある。太白神社の支殿として、そこを預かるモンジュは表向きの神職以外にも闘神士としての『役目』も続けていた。人の出入りや電話、手紙、書類の数々。モンジュが幾ら隠し立てしようが、あらゆる所からそっちの世界の事は否応なく子供の耳にも入るし、モンジュの知己や仲間は子供のヤクモにそう云った事を隠そうとはせずに教えてくれた(これは彼らが、闘神士の子供だから闘神士になるだろうと云う先入観を抱いていたからだと後々聞いて知ったが)。
 然しそれだけでは説明がつかぬ程。切実に──
 「だから──そうだな。最初は軽い憧れの気持ちだったと思う。だがあの時、傷ついたとうさんと闘神機とを見た時、俺が闘神士になってとうさんを助けなければ、と。それしか考えられなかった。夢が叶うとかそう云う事よりもっとはっきりと……こうなるべきなんだと。思ったよ」
 そしてまるで、最初から決まっていたことのように。こう在るべきと云う鋳型に溶け込んだかのように。切実な、同時に説明も出来ない様な不可思議な願いは、果たされた。
 父の流した血、黒い式神、禍々しい闘神士。今でもまざまざと思い出せる、それは一人の子供にとって日常が非日常に変わった瞬間であり、同時に、闘神士ヤクモが斯く在るべき己の運命を選び取り立った瞬間でもあった。
 それと同じ事を思い出していたのか、コゲンタが鼻の下を軽く擦って笑った。
 『だろうな。俺ン所に届いたのはお前の、必死で切実な「闘神士になりたい」って云う願いだった。幾ら太極神のお導きとは云え……浅ましさや欲も無い、なんて切羽詰まった純粋な呼び声だろうと思ったぜ』
 そこまで云うと、コゲンタは浮かべていた笑みを引っ込めた。紅い瞳を閉ざし、ふう、と大袈裟な息を吐き出す。
 ここからが本題だな、と察して、ヤクモは僅かな所作で背筋を気持ち正した。
 『…………リクの場合はな。やッぱお前みてぇにいきなり敵に襲われて、同じ様に切羽詰まってたんだがよ。闘神士とか式神とか何も知らない──いや、憶えていなかった子供(ガキ)で。戦いになるとか、闘神士として生きる、とか。そんな気構えの一つもなく、ただ成り行きで式神(俺)と契約を結んだんだ』
 逃げ込んだ社に隠されていた神操機を手に、祖父の言葉に従い訳も解らぬ侭式神に接触し、契約を結んだ。闘神士。
 太刀花リク。天流宗家とは云えど、その記憶を失って久しい、闘神士の運命にさえ触れなければ或いは普通の子供として生きる事も適ったのだろう少年。彼が、未だ己の宿命も知らぬ侭に手にした、力。──絆。
 その有り様が容易に想像出来て、ヤクモは小さく頷いた。コゲンタは続ける。
 『最初は気力を喪って倒れちまってた、爺さんを助けてくれ、って願いでな。勿論俺は医者でも無ぇし術者でも無ぇから断った。したら次に、それならあの式神(バケモノ)を倒してくれって。そんな陳腐な願いでよ。つまんねぇ契約(仕事)だなって思いながら降神されて、何とか敵は倒したんだが──どうしたもんか契約は満了しねえ。つまりそれは、リクの奴は無意識で他の願いを俺に託していた、って事になる』
 りん、と尾飾りの鈴が清い音を打ち響かせる。それを継ぐ息の代わりにして、コゲンタは目蓋を開いた。紅い瞳の奥で揺れる迷いや悩みを、未だ切れる事のない通じ続ける絆を通さずとも感じられて、ヤクモはともすれば浮かびそうになる、辛い表情を呑み込んだ。
 『……アイツはよ。自分の孤独を埋めてくれるモンを望んでいたんだ。多分無意識で、天流宗家のヨウメイであった部分が憶えてたんだろうな。式神と闘神士との間にある絆を。傍に居てくれる存在である事実を』
 太極神の導きであると云えば、それは何と残酷で的確な宿業か。
 間接的にとは云え神流の企んだ通りに、千年前に呼び出された白虎の式神は天流総本社をただ与えられた権能の侭に破壊せしめた。
 その時の生き残りである天流宗家リクの許へと、その白虎こそが選ばれたのだと云うそれは──運命と云うべきなのか、贖罪と云うべきなのか。それともそんな安い言葉で断じるには勿体ない程の、慈悲なのか。
 『俺は当初はそんな願いに気付いてやる事が出来なかったから、コイツと契約してる間は兎に角コイツに強くなって貰わねぇと堪ったもんじゃねぇって思っていたからよ、リクの気持ちや悩みなんて考えもしねぇで、ただ強くなれ、って無理強いばかりさせちまってたんだ。
 アイツもアイツで、戦う意志を無くしたら式神(俺)がいなくなっちまうからって思って、必死でそれに応えようとしてたんだ。そうする内に色んな奴に出会って、協力して、戦いを越えて、段々自分がどうして戦うんだって事を知り始めて──気付いたらもう、それを克服しちまってた』
 恐らくはずっと考えていたのだろうそんな事を淀みなくそう言い終えると、コゲンタは嬉しそうな微笑みを浮かべて空を遮る天井を見上げた。その視線を──今度は想いを馳せる類だと気付けた──を追い掛けたヤクモは記憶の中で、名落宮でコゲンタと再会を果たした時に彼の漏らしていた言葉を何となく思い出していた。
 ──『俺はアイツの事を理解してやれなくて、それで今こんな事になっちまったんだけどな』
 そして先程リクの見せた、『ひとりではない』そんな表情を思い浮かべ、改めてその成長を思い知ると、自然とコゲンタと質を同じくした微笑みが浮かぶ。
 『つまりもう、契約は満了出来てんだ。後はリクがそう宣言してくれれば良いだけなんだ。アイツの両親の事とか、まーだちょっと気に掛かる事はあるが、お前の時より余ッ程安心して還れるって状態でな』
 そう、少し神妙さから気安さへと転じたコゲンタの弁に、ヤクモは苦笑に似た表情を浮かべる事でそれに応えた。 
 闘神士になると云う覚悟を以て契約を結んだ訳ではないリクは、コゲンタとの契約を満了したら、もう闘神士としての途を歩む事はないだろう。最早闘神士達の間に流派の隔たりはないし、それ故に率いる統率者も不要だ。
 式神との契約を満了し、天流宗家としての務めを全て終えた時、彼は普通の少年として日常へと帰って行く。闘神士として生きる事を命題として、あの時闘神機を手にしたヤクモとは違うのだから。
 結局の所は、この遣り取りも、つまらない癖に止まらない思考も、同じ所に行き着くのだ。
 『それを考えてたら、急に不安になっちまったんだよ。お前も、モンジュも……俺は式神だからいつでもお前達を思えるが、人間じゃそうも行かねぇ。こうして今もう一度会えたのは全く奇蹟みたいなもんでしかねぇんだ。
 三度目は多分もう無い。だからヤクモ、お前に訊いておきたいと思ったんだ』

 ──あの時の別れを、もう悔いていないよな? と。

 リクはもうひとりで歩く事が出来る。還るべき日常が彼を待っている。だがあの頃のヤクモはそこまで行くことが出来なかった。
 ヤクモの願いであった『闘神士になる』事は未だ、叶ってはいたが終わってはいなかった。
 父を救う事が叶った所で、時間の猶予は尽きた。二人で還ると云う願いは、交わしてはいないが認めていた約束は、果たされずに潰えた。
 それが気がかりの正体だったのか、コゲンタは俯き加減の表情で、然し真っ直ぐにヤクモを見つめた。
 五年を経た再会で、ヤクモが再び歩き出す事が出来たと云う事実を実感以上に受け止めてくれたのは違えようもない。ヤクモは確かに闘神士としても人間としても大きく成長したし、コゲンタもそれを変わらぬ信頼と、安堵の眼差しとで見ていた。
 それでも、最後まで見守れなかった事を──どこかで、きっと気にしてくれていた。
 珍しくも弱気な様子を見せるコゲンタへと、ヤクモは嫌味なく笑いかけた。過去を見つめて止まない眼差しを微笑みの形に細めて静かに、嘗ての相棒へと向かう。
 「らしくもないな、コゲンタ。お前は『信頼』の式神じゃなかったのか?」
 お前が俺やとうさんをいつでも心に置いてくれているのと同じで、俺達もお前へいつでも想いを馳せる事が赦されているのだから。
 それどころか、想像する事も出来なかった未来(さき)を、今こうして与えてくれている。
 それは僥倖。奇蹟より低い確率の偶然に等しい、幸運。
 「……俺も、とうさんも。大丈夫だよ」
 それを告げる、この想い出の地。
 闘神士として歩み始めたこの場所に在るのは、触れられない遠い過去。触れはするが決して届く事のない憧憬。
 今更それを欲する心算はない。今更それに溺れる心算もない。今更還りたいなどと思う迷いもない。
 (ああ、でも)
 小さく思う。僅かに畏れたものの正体は、甘い幻想だ。
 この侭迂遠の間リクとコゲンタが契約を満了しなければ、或いはそれは嘗て望んだ未来によく似ているのではないか、と云う。
 叶わなかった事をつい、似たもので補おうとする。それは人間の諦めの悪さであって、願いの強さの証明でもある。酷く純粋な意志。
 過去は時に無惨な夢を伴って、甘い囁きとなってやって来る。だが過去そのものが、想い出そのものが残酷な訳では決して無い。時にそれを余りにも当たり前の様に手に取って仕舞い、その度にそれを『思い知』る。ただそれだけのことだ。
 有り得た事を美化して、有り得なかった事を夢想させて、今の齟齬とに深い悲しみを憶える。どうやったって人は、都合の良い事を選ぶものだから。
 だが、何よりも不安に抱いていた『未来(予感)』は払拭されて久しい。敵として相対する事も、忘れられて仕舞っている様な事も無かった。
 だから良い。これで。
 この場所で見直す夢は、ここまでで良い。
 願いは確かに。望み通りにまでとはいかずとも、叶ったのだから。
 「お前が、そうやって俺やとうさんを憶えていてくれるだけで、もう充分だよ」
 嘗ての絆を抱きしめる様に、静かに目を閉じたヤクモの背中へと、コゲンタはそっと腕を回して来た。
 受け取る事が出来たのは、夢想していた未来よりは優しくはなかったが、温度だけはこうして今も、全く変わらない。
 だから只。未だこうして己の心を案じてくれる式神に──その心を伝える絆に、心の底から感謝を抱いた。




モンジュと飛鳥父は互いに神社宮司属性と平和主義属性がカブるので、親交とまではいかずとも互いに話には聞いていると云うくらいの接点があれば面白いなとか勝手な話とか。太白神社の事とか天流零細企業説とか。<太白神社は宗教施設ではないぞ説を唱える故に、うちのヤクモは賽銭箱の前にだらだら寄りかかったり座り込んだりよくしている訳です。

二度と契約としては出会えない。叶った先は終わる時。次は敵かそれとも味方か。
それでも世界が終わるその瞬間まで抱きしめて居てくれる、最も遠くて近い存在。