アララギ



 身に馴染みきったマントが、伏魔殿の何処から吹くとも知れぬ風に煽られてばさばさと音を立てて翻る。マントの襟刳りに顎までを深く沈めたヤクモはその風の生ぬるさと、運ぶ厭な気配とにいち早く気付き、そっと眉を顰めた。
 腰に下げた零神操機に一瞬意識を向けると、そこからは確かな応え。彼と契約を結んでいる式神たちが戦闘に対する意欲を向けて来るのを感じる。
 勿論それは只暴れたいなどと云う欲求ではない。契約主たるヤクモを守りたい、共に戦いたいと云う純然たる思いだ。そしてそれを正しく理解しているからこそ、ヤクモは彼らの求めに軽く首を振った。
 「大丈夫だ。この程度なら俺一人でも何とか出来る」
 ざ、と懐から闘神符を指に挟んで振り抜いた──瞬間、大地を割って植物の蔓か根だろう、柔軟にしなるものが飛び出し、身構えるヤクモへと向かって疾ってくる。
 素早く放った符が火行を以て発動し、身に巻き付こうとする蔓を払い除け散らす。蔓と云っても人の腕ほどは太さのあるもので、幾本ものそれは何れもまるで統制が取れている様に蠢き、攻撃を避け的確な反撃を行うヤクモをしつこく付け狙って来る。
 『ヤクモ様、本体は大地の下にいるでおじゃるよ!』
 「ああ、サネマロ。解っている」
 零神操機からの式神の助言を聞くまでも無く、木行のこの妖怪は大地の土行を封じて支配している。妖怪を仕留めるにはこの地ごとどうにかする必要がありそうだった。
 伏魔殿では気力と体力の消耗が激しい。ちまちまと戦っているとこちらが不利になるのは明白だ。なれば大きめの技で一度に仕留めよう、と素早く判じ、ヤクモは左手に闘神符を五枚取り出した。右手には別に迎撃用の符。
 背後より迫る蔓をかわし、左手の符を一枚配置。続けて対角線上に走り二枚目。
 ちょこまかと動き回るヤクモに業を煮やした様に、蔓の追撃が執拗になる。かなり複雑に動き回る蔓同士はどう云う具合か全く絡まる様子もない。
 器用なものだな、と思考しながら三枚目、四枚目と配置し、最後の五枚目を、たん、と音を立てて地へと付けると、ヤクモは一斉に配置した闘神符を発動させた。妖怪にではなく大地そのものに向けて。
 と、大地が隆起し、火と土の行で構築した力場の内部が荒れ狂った。
 木行は火行と克しはしないが、火行は土行を生む。火行の力が土行を活性化させ、結果地の中に潜む妖怪を激しく打ち据え、耳鳴りに似た振動を辺りに一瞬だけ響かせ消えた。行の相克を破るのは半ば力業になるので手間を生む。びたびたと大地の上で暴れていた蔓の群れがひととき断末魔に似て震え上がり、やがて力を失って落ちる。
 ふう、と疲労からではない吐息をつくとヤクモは身を起こした。舞い上がった粉塵を除ける様に再び襟刳り深くに顎を沈めると、予想外に手間取ったな、と思って苦笑する。
 『お見事であります、ヤクモ様』
 『お疲れ様、ヤクモ。でも僕らに任せた方がもっと楽だったのにさぁ』
 「いつも皆に頼りきりなんだから、偶には大目に見て欲しいかな」
 零神操機の中からブリュネとタンカムイが労いの言葉をかけてくるのに微笑を添えて応えると、ヤクモはマントと服に付いた埃を叩く。
 『──、ヤクモ、未だ終わってはいないぞ!』
 と、そこに血相を変えたタカマルの声が届く。や否や、言葉の意味を斟酌するよりも早く、ヤクモはその場を飛び退いた。が、大地から再度伸びた蔓に片脚を絡め取られ、為す術も無くその場に転倒させられる。その隙をついて次々に伸びて来る蔓に手足を戒められ、あっと云う間に射止められて仕舞う。
 「仕留め損ねたか…!」
 ぎり、と強く、抱いた獲物をその侭へし折らんばかりに締め付けて来る蔓に、ヤクモは歯を食いしばって抗う。否、蔓ではなく根だ。半壊した大地よりその姿を現したのは瀕死の体となった巨質量の妖樹。その巨大さたるは、普通の木にして樹齢何百年と見積もっても全く足りない。普段は地深くに潜み、地上を通る獲物に向けて恰も手の様に己の蔓を伸ばしていたのだ。
 細かな根の先端が肉を抉り、己の左腕へとめり込んで行く厭な光景を目の当たりにしてヤクモは生理的な嘔吐感を堪えた。妖樹が養分の補給に人間や動物の血を啜るのは珍しくもない事なのだが、皮膚の下を異物が這い回る感触は痛みよりも嫌悪感の方が上だった。
 「っ…すまない、皆…!」
 急激な失血感に脳髄がぐらりと来るが、謝罪は決して敗北に対するものではない。力を借りる、と云う意味。
 『こりゃヤバそうです、早く降神しちゃって下さいよー!!』
 『急ぐでおじゃるよヤクモ様!』
 式神達の血相を変えた声音に、応えるべくヤクモは急激に朦朧となる意識を然し保たせ零神操機へと意識を繋いだ。いつも近くに置く様にしていた手が、ホルダーに、その中の零神操機へとかかる。
 その瞬間。
 ぼすっ、と云うどこか間の抜けた音と共に唐突に、ヤクモを戒めていた蔓が消失した。急に解放され、受け身も侭ならずヤクモは地面へ倒れ込──みそうになる寸前に何とか踏みとどまり、神速で抜き放った闘神符を眼前の妖樹へと叩き付ける。
 発動した炎が瞬く間に、枯れかけていた妖樹を一本の巨大な松明へと変える。今度こそ響く、音声ではない断末魔。裡に溜め込んでいた妖気が炎に完全に捲かれ消えると、漸く巨木はその身を大地へと横たえた。
 火行のもたらした灰が大地へと還っていく。その光景を最後まで見届けぬ侭、踏みとどまった膝を崩して大地に倒れる様にして座り込みながらも、ヤクモは思い出した様にゆるりと顔を起こした。半ば予想はついていたが、今の手出しが何者の仕業であるのかを明確に見極める為に。
 「全くさぁ」
 だが相手は探す迄も無く、無造作にヤクモの方へと近付いて来ていた。服が汚れるのも構わずに膝をついてヤクモの横へしゃがみ込むと、ふう、とあからさまな溜息などついて見せる。
 「油断なんてらしくないんじゃない?アンタにしちゃ」
 いつもの軽薄そうな表情で、然し態度はそう軽くもなく。云って来たのはマサオミだった。天流でも地流でもない、明確なる『敵』──神流の一員である筈の闘神士、なのだが、何を企んでいるのやらリク達の手助けをしたりヤクモの前にも度々巫山戯た事を宣いつつ現れる、言い得て『怪しい男』。
 ヤクモは相手があからさまな敵ではなく顔見知りであった事に安堵の息を吐きかけ──途中で、考えたくなかった事にまで気付いて眉を寄せた。が、それも一瞬。
 「……そうだな。らしくなかったかも知れない」
 怪我とかは?などと云いながら甲斐甲斐しくヤクモの身体の様子を検分しようとしてくるマサオミに、存外素直にそう呟く。
 「まぁでもそのお陰で俺はアンタに、助けたって云う貸し一つ作れたかな?」
 「助けさせてやったんだ。丁度良いヒーロー登場のタイミングでな」
 「……〜大概アンタ素直じゃないよねぇ…」
 鼻を鳴らして微笑しながら云うヤクモに、やれやれと云った表情でマサオミもまた笑うと、「立てる?」と手を差し出しながら云ってくる。が、そのてのひらを横目に見た侭、ヤクモは一人で立ち上がった。
 「大事ない。残念ながらそれ程柔に出来てもいないからな」
 これ以上弱味になりそうな事を露呈するなど御免だと内心で同時に呟きながら、立ち上がったヤクモは再びマントを軽く叩いて息を吐く。零神操機の中の式神たちの気配が何処か剣呑になりつつある事にも気付いていたから、マントの下で密やかに、宥める様に神操機へと手を添えてやる。
 後から「だから最初から降神してくれれば良かったのに」とタンカムイ辺りを筆頭に、嫌味すれすれの説教を貰いそうだと云う懸念は到底軽くなるものではなかったが。
 だがそれは半分。式神たちの不機嫌な気配の原因の最たるは寧ろ、眼前に居る大神マサオミの存在そのものである。
 「無理するなって。あのテの妖樹は人の血を湯水みたいに遠慮なく吸ってくれちゃうし、更には、」
 「それは知識か?それとも経験談か?」
 「…………ま、色々妖怪と戦う事の多い子供時代だったんでね」
 ヤクモとしては軽く返した心算だったのだが、何故かマサオミは妙な間を置くと何処か神妙そうに云い、然し次の瞬間にはいつもの様に軽薄そうな挙措で肩を竦めてみせた。単純に図星だったから、と云う訳ではなさそうだと思い、ヤクモはマサオミにも、式神たちの為にも、速やかにこの話題から──この場から逃れる事を決める。
 「吸血はされたが、そう多くはない。誰かさんの迅速な救助のお陰でな。礼は云うが、生憎少し急いでいるんだ」
 少し身を翻らせて、言動でも行動でも辞退の意図を隠さないヤクモの様子をマサオミは暫しの間見上げていたが、自らの膝を叩いて立ち上がると再び肩を竦める。今度のは苦笑。そうして先程取られる事もなく行き場を失っていた手を軽く握ったり開いたりしながら身体の脇へと落とした。
 「俺が心配してるのは失血だけじゃなくって、さっきも言いかけたが妖樹(あいつ)から毒を食らってる可能性があるって事なんだよ」
 珍しく食い下がるマサオミを振り返りながら、ヤクモは傷を負った左腕をちらりと見下ろした。先程まで血管に食らいついていた根は既に抜けているが、漸く滲み始めた血と共に未だ痛みは残留している。毒、と一度反芻しながら検分する様にそんな腕を矯めつ眇めつして見るが、傷を見る限りではそれらしい症状は見て取れない。
 「その心配は、」
 「云っておくが妖樹の毒は遅効性だぜ?場合に因っては体内に残った根がその侭育って全身に広がり、気付いた時には手遅れ、なんて事もある」
 ヤクモの簡単な判断を真っ向から否定する様にそう云うと、マサオミはこれ見よがしに溜息をついてみせた。
 「平気と言い張るのは結構な事だが、余り伏魔殿を舐めない方が良い。アンタも相当な期間を出入りしてるのは承知の上だが、妖怪の生態や被害については俺の方が詳しいだろうって自負もあるんでね。
 ま、普段そうそうこんなヘマをやらかさないからこそだとは思うが、そんな『軽率な』アンタをこの侭放置しておくってのも寝覚めが悪そうだし」
 具体的にマサオミの云う『伏魔殿に精通している』事については相変わらず事情が知れずにヤクモは眉を寄せるが、云われている事が尤もである自覚はある。概ねの場合ヤクモが妖怪相手に遅れを取る事など殆ど無かった為、基本的な知識程度でしか臨床例を知り得ていない事は多い。先程の妖樹にしたって、あれだけ大きなものに遭遇したのは初めてであり、こんな怪我を負ったのも同じく初めての事になるのだ。
 「……………」
 一見ただの負傷にしか見えない左腕の傷をヤクモはもう一度、見下ろしてみる。マサオミの云う事が確かであれば、利き腕ではないからと笑い飛ばせる事態でもない。毒が回っているにしても、血管にあの根の様な組織が残留していつかは体内の養分を吸おうとしているのだとしても。それがマサオミ曰くの『軽率な』行動で引き起こされるなど。どちらにしてもぞっとしない想像だ。
 「……手当ぐらい自分でも出来る」
 「んで後からぶっ倒れて、俺に貸しもう一つ作らせてくれちゃう訳ですか?ヒーローのタイミングでも何でも良いけどな」
 云われた事を真に受けて仕舞った事が悔しかった為に少し憮然とヤクモが云えば、マサオミは淡々とした様子で、心底呆れた様な溜息を吐くとそう返して寄越した。
 云っている事は太々しいことこの上ないのだが、表情ばかりは真剣で、茶化す様な気配はそこにはない。そんなマサオミの様子に少々気圧されがちになったヤクモは、反射的に言い募りかけた反論を呑み込んで、さてどうしたものかと胸中で呻いた。
 正直な所マサオミが側に居るだけで、己の式神達の不機嫌バロメータは激しく揺れ動くのだ。その理由は概ね、ヤクモ当人にも憚りなく接近して来るマサオミのその所行や態度に因るところが大きい。最近では何を考えているのやらあからさまに好意(らしき態度)を押しつけて来るのもあって、何やら余計に『要注意人物』のレッテルを貼られている様だ。
 とは云え契約闘神士の人生や行動に物を申し立てないのが式神の本分である。因って今までの殆どの場合、式神たちが実際にヤクモに近付くマサオミの行動を直接咎めたりする事はない。
 ……のだが、マサオミが去った後にああだこうだと愚痴めいた警戒や進言を告げて来る事までは抑止出来ない。
 皆心配性だなあといつも適当にはぐらかして来てはいるが、実のところマサオミへの警戒の必要性を概ねの面で感じられなくなって仕舞っているヤクモとしては、そんな式神達の『思い遣り』に少々居心地の悪い様な気分にさせられる事もあるのだ。
 恐らく式神達へとそんな本音を漏らして仕舞えば、益々強く制止されるだろう事は想像に易い為、当分は黙った侭で──少なくとも口には出さずに──いるつもりだが。
 故に。マサオミの申し出る『手当』とやらを殊更邪険にする心算はヤクモにはないのだが、己の式神達がその事に因ってストレスを抱える事や、後から愚痴と遠回しな文句との応酬を受ける事になるのは正直御免なのである。実際式神がストレスなどと云うものを具体的に感じるのかどうかはさておいて。
 「いい加減観念して大人しく手当されてくれたら?アンタが倒れるまで俺も諦めるつもりはないし?」
 俯き加減に黙考に沈むヤクモを見て、マサオミはさらりとそう、何処か皮肉気な表情で云った。
 ──と、その表情がぎょっとした形を作り、翡翠色の瞳が丸く見開かれ遠ざかる。
 (…………………あれ?)
 不意に遠くなったその姿に疑問を抱く前に、ヤクモの目に続けざま伏魔殿の精彩のない空が映り込んだ。同時に、俄には信じ難い様な頭の重さに気付き──、
 ひょっとして自分は後ろ向きに倒れていっているのではないか、と思い至った瞬間、ヤクモの意識は唐突にぷつりと途絶えた。

 *

 「     ?」
 「             !」
 遠い耳元で誰かと誰かが話し合っている様な声が聞こえる。
 「     !!」
 「     」
 うつらうつらと浮上しかかりながら揺蕩う意識では、その会話の内容や様子までは聞き取れそうもないのだが、どこか聞き覚えのある声と声との遣り取りに、未だ明確な形にはならない思考が自然と穏やかな奈辺に在る事だけを自覚し、ヤクモは無意識の内に安堵を憶えた。少なからず此処に危険はない、と微睡みの中で判断する。
 (とうさんとイヅナさんかな……?)
 モンジュとイヅナが会話をする事ならば実家(うち)では自然に有り得る状況だが、それにしては何処か遣り取りに妙な熱が籠もっている気がする。では果たして誰なのだろうかと、頭の中で思い浮かぶ限りの人たちを想像しては流しながら、ヤクモはぼんやりと目蓋を持ち上げた。
 「だからそれは誤解だって!アンタらもいい加減シツコいな…!」
 『どうだか〜?ヤクモが何も云わないのを良いことに何か勘違いしてるんじゃないの?』
 (………?)
 少し穏やかではない雰囲気を保った遣り取りの中、先ずヤクモの目に入ったのは経年の汚れが目立ち始めた、白い天井。直ぐ横には窓があり、閉じられたカーテンの隙間からは風が僅かに吹いて来ており、その度揺れる陽光がちらちらと頬を舐めて来るのが少々眩しい。
 「まぶし……、」
 胸中の感想が気付けば声になって漏れていた。ヤクモは右腕で顔を庇う様にしながらぼんやりと瞬きを繰り返して、見覚えのない天井を見上げて呻く。
 (………ん?)
 聞き覚えのある声達に、憶え知らぬ天井。はて、と明確な疑問へと首を傾げるその前に、何やら大きな音がしてややあってから、にゅ、と顔がひとつ横から突き出された。
 「お目覚め?」
 「…………………………」
 いつものジャケットを脱いだ、薄い色のシャツ姿。長い栗色の前髪がさらりと揺れて眼前、触れそうにくすぐったい位置に在り、それに縁取られた端正な面差しがじっと、白い天井との間に佇んで、ヤクモの事を真っ向から見下ろして来ている。
 「〜〜〜?!!」
 理解がついて行かなかったのは僅か三秒。気怠い目醒めの姿勢の侭固まっていたヤクモはやがて声にならない声を上げて、ばね仕掛けの人形の様に跳ね起きた。そんなヤクモの動きを予想していたのか、眼前のマサオミはヤクモが上体を起こす寸前に素早く身を引いたので、お互いに衝突事故は何とか免れる。
 左、右、左、右、左、……右。ぶんぶんと左右を見回していたヤクモが最後に、ベッドの右側に膝をついて座しているマサオミへと視線をやれば、彼は再び軽い声音で一言。
 「や、お早う?」
 「おはよう……〜ではなく、!」
 まだじっくりと検分した訳ではないとは云え、軽く見回しただけでもそこは紛れなくヤクモには全く憶えのない部屋だった。どこかのワンルームマンションの一室なのだろうか、特徴も別段見受けられない六畳程の広さの空間の窓辺にヤクモが今まで身を横たえていたパイプベッドが置いてあるほかは、中央に折り畳みの小さなテーブルが一つと、収納に使っているのだと思しき衣装ケースが所在なく壁際に追いやられているばかりの空間。
 その様子にも家具にも風景にも、ヤクモには見覚えが全くない。
 「一体何処なんだ此処は…?」
 己の『自室』を棚に上げて、殺風景な部屋だと率直な感想を脳内で述べながらのヤクモの問いに、マサオミは軽く肩を竦めて答える。
 「俺の家(隠れ家)だが?」
 「……何だか聞き捨てならない括弧書きの補足があった気がするが、それは兎も角、」
 「憶えてない?アンタ唐突に倒れたんだぞ」
 あっけらかんと答えを寄越すと、マサオミは軽く手を伸ばしてヤクモの額に触れて来た。ヤクモは咄嗟にそれを払い除けそうになるのを堪えて、代わりに布団の中で様々な感情と一緒くたに拳を作り握り締める。
 ……憶えていない。訳はない。妖樹と戦闘中に不覚を取ってマサオミに助けられた挙げ句手当を進言された所まではっきりと記憶にある。その後から記憶・意識共に欠落している辺り、曰く『唐突に』倒れたと云うマサオミの弁も嘘と云う訳でもなさそうだ。
 妙に冷静に思考を固めると、ヤクモは暗澹たる思いで溜息を吐いた。
 「……それは、憶えているが、その後何がどうなってこうなっているのか詳しく説明しろ」
 「ん。特に熱も無いし、大丈夫そうだな。まあでも暫くは安静にしていた方が良いだろう。一応処置はしたが、失った体力までは取り戻せないからな。
 で、状況だが──……ここまでお膳立てされていれば大体想像つくと思うんだけどな?説明が必要か?」
 「……………………いや、矢張り良い。どうやら世話になりっぱなしだった様だな」
 マサオミの云い種から、己の記憶と概ねの流れとが繋がって、ヤクモは痛みの錯覚を訴えて来る頭を軽く揉んだ。何もかもが情けなくなり、再びの溜息がこぼれる。
 恐らくはヤクモが倒れた後、さて何処で介抱すべきか悩んだ挙げ句にマサオミは此処を選んだのだろう。天神町だとリク達に不覚を取った有り様を見せる事を望まないヤクモにとっては宜しく無いし、京都の実家だとその詳細な位置までを彼は知り得ていない。天流の結界に守られた新太白神社は以ての外だ。
 マサオミとしても、己の住処(仮住まいだとしても)にヤクモを連れて来る事に抵抗があっただろう事は想像に易い。仮にも『敵』かも知れない者を己の『家』へと招き入れるなど。
 その辺りの想像が簡単に繋がって仕舞ったからこその現状に、ヤクモは居慣れない部屋ばかりにではなく、何処か居心地の悪さを憶えていた。まじまじと見下ろしてみれば、纏っている着衣までもが見慣れない寝間着だった。当然己に着替えた憶えなどない。
 正直ここまで他者に世話をかけさせて仕舞うなど、相手がマサオミでなかったとしても不本意極まりない事である。
 「あ、それ?寝汗かいてたからな、悪いとは思ったんだが勝手に着替えさせて貰いましたよ。アンタの服は今洗濯中。荷物には一切手をつけてないから安心してくれ。それに、寝てるアンタを見て不埒な事とかも考えてないからさ〜、心配無用よ?」
 寝間着姿の己を見下ろして黙って仕舞ったヤクモの様子から疑問を察したのか、そう戯けた様に軽く云うと、マサオミはベッドの空いたスペースに腰を下ろした。足下からがさごそと音を立ててビニール袋を取り上げる。
 「一応符で処置はざっと済ませたから毒や根の心配はもう無いんだが、傷が──、アンタ相当痛みに強いんだか痩せ我慢だか知らないが、結構酷い事になってたんで驚いたんだぞ?こっちもちゃんと処置はしたが、あれから結構経ってるからな。ほら腕出して」
 云いながら、駅前や大手量販店で目にする、有名薬局チェーン店の名の入ったビニール袋からマサオミが次々取り出して見せるのは、包帯やテープなど、いわゆる『救急セット』の類だ。思わずきょとんとして仕舞うヤクモに向けて、更にマサオミは腕を捲る仕草をして促して来る。
 「あ、ああ……、そんなに酷かったか?」
 袖口の釦を外し左袖を捲り上げてみれば、そこには割と器用に捲かれた薄く紅い色の滲む包帯があり、ヤクモは思わず顔を顰めた。怪我の程度にではなく、マサオミのこの甲斐甲斐しいまでの気遣いに対してである。
 「俺から見ると相当酷いんですが?……なぁヤクモ、アンタもうちょっと自分の身体大事にした方が良いぜ?義務感でも使命感でも何でも良いが、歯止めが効いていない様に見えるからな」
 ふう、と、実に正直な溜息を引き連れて、マサオミの手がヤクモの左腕の包帯を解いていく。そうして露わにされた傷口は、ひとつひとつを取ればそう大きいとは云えないものの、ずたずたと痛々しい筋状になって皮膚を埋めている。根が直接血管を抉ったのだろう数箇所は、流石に出血自体はもう止まっている様だったが、紅く乾いた血の痕を鮮やかに残していた。
 吸血性の生態には、より多く血の摂取をする為に血液凝固を防ぐ成分を獲物の体内へと注入して来るものがいる。それは時に妖怪とて例外でもない。あの時の妖樹の様な、元々は生物だったものが陰の気に因って妖怪化したものならば猶の事当てはまるだろう。出血が暫く続いていたらしい原因は恐らくそれだ。
 まじまじと、無感動に分析しながら自らの傷口を見つめるヤクモに一瞬だけ視線を寄越すと、マサオミはベッドサイドの床に置いてあった洗面器からタオルを取り上げ、水の滴るそれを軽く絞った。「ちょっと滲みるかも」と、宣言をしつつ、傷口をそっと拭う。
 「、」
 ぴりりとした新鮮な痛みに自然と顔が顰められる。表情を覗き込もうとする様なマサオミの視線から逃れる様に、ヤクモは殊更に冷静な視線で己の傷を見下ろした。タオルが乾いた血を拭って茶色い色を滲ませるのに、軽く目を眇める。
 マサオミは先程あんな事を云ったが、痛みに慣れ、流す事が容易になっているとは云え、『痛い』と云う事実が何ら変わる訳でもないのだ。痛いものは痛い。どれだけ意志でそれを抑え込めるかと云う努力を『慣れ』と云うのであれば、些か酷い客観視である。
 血の痕を軽く拭い終えたタオルは元通り洗面器に戻され、代わりに包帯を手に取ったマサオミが疑問符を浮かべて、自然と渋い表情になるヤクモを見ていた。
 「毒抜きの時に浄化したから、感染症の心配はないと思うが…、ひょっとして滲みたか?痛い?」
 「……ああ。正直痛む」
 意外性を込めた、少し茶化す様な問いに真面目に返すと、「自業自得だが」と自らそう付け足してヤクモは自然と薄い笑みを浮かべていた。
 何のこともない。この情けなさも遣る瀬の無さも、全ては己の負債ひとつにある。それで他者(マサオミ)をこうして巻き込んでいる現状には素直に反省を促され正直落ち込みたくなる所だが、逆に、マサオミが思い違えている『天流のヤクモ』と云う闘神士の勝手なイメージを覆せると云うのは、なかなかに新鮮な面白味でもある様だ。
 実際マサオミは少々物珍しげな表情になって、傷と、ヤクモの表情とを見比べる様に交互に見遣っている。
 (『強い』からと云って何でも出来る訳でもないだろうに──……って、)
 「ッこら何してるんだお前は!」
 いつの間にやら、手に取った左腕を辿る様に口唇を寄せているマサオミの姿に、ヤクモの表情は一気に引きつるのだが、当人は全く意に介した様子も見せず、傷の上から口接けをひとつ。
 「消毒とか?」
 「余計悪化しそうな気がするから止めろ」
 「うわ酷い言い種。ちょっとショックなんですけど俺……」
 言葉ほどには傷ついた様子も別段なく、マサオミは顔を起こすとわざとらしい溜息をついた。
 「消毒って云うかおまじない?少しでも痛くなくなればって云う、俺の精一杯の思い遣りなのに〜」
 「御託は良いからとっとと包帯を巻け。不用意に得体の知れない傷に触れるのは感心しかねる。もしも毒が残っていたりしたらお前までもがその被害に遭うと云う懸念はないのか?」
 毒にせよ感染症にせよ、傷口に粘膜で直接触れるのは危険極まりない話だ。危機管理が足りていないのはどっちだと、溜息を吐いて言うと、マサオミは口端をへの字に下げて肩を竦めた。
 「……遠回しな心配有り難う。ま、符も使って浄化してるし大丈夫だろ」
 そうして名残惜しそうにヤクモの左腕から顔を離すと、マサオミは傷口の上に新しく開封した清潔なガーゼを乗せ、要望通りに包帯を巻き始める。傷の位置が位置だからか、いつもサポーターを巻いている姿と傍目に殆ど代わりはない。
 「はい完了。膿んだりしない様に暫くは注意しておけよ?」
 「助かった、有り難う。……それにしてもお前、意外と器用だったんだな」
 真新しい包帯の巻かれた左腕を表裏とひっくり返しながらヤクモが存外素直に感心しつつそう云えば、片づける手は止めない侭マサオミの憮然とした視線だけが返って来る。心外だな、と云いたげなその表情に、慌てて付け足す。
 「別に、不器用そうだ、と評価していた訳ではないぞ?同じ年頃の人間にしては勤勉な事だと、感心したんだ」
 況して日頃『この家』には無かったのだろう、応急手当の道具をわざわざ買って来ている辺りを思えば、傷の手当などと云う行為はそうそうしたことが無かったのではないかと窺わせた。
 そもそも気力と実力に自信のある闘神士ならば、闘神符一枚があれば応急手当ぐらい事足りて仕舞う事もあって、ヤクモ自身もそうなのだが、却って一般人よりもこう云った原始的な事に不慣れな者も多いのだ。因って素直に感心を抱いたのだが──日頃ヤクモから散々な評価を食らっていた所為もあってか、マサオミはいまひとつ釈然としない様な表情を浮かべた侭軽く肩を竦めた。薬局のビニール袋を枕元に放ると、水の満たされた洗面器を持って立ち上がる。
 「アンタが褒めてくれるなんて珍しい事もあるもんだな。俺これから食事とか買って来ようかと思ってるんだから、雨とか降らせてくれるなよ?」
 「、ちょっと待てマサオミ」
 云いながら部屋を横切っていこうとするその背に向かって呼び止めると、うん?と振り返る栗色の頭。項で結んだ髪が合わせて翻る。
 「俺の──神操機は何処にある?」
 声に少しばかり警戒が乗って仕舞ったのは否めない。我ながら上手くない問いだったと思いながら云うヤクモに、果たしてそれが理由だったのか、マサオミは軽く目を見開いた。ぴたりと動きを止める。
 闘神士にとって式神は大事な相棒であり同志であり家族であり──一概に『全て』を込めたひとつの手段でもある。神操機はその式神との繋がりそのものである為、本来闘神士としては己の身の次に(或いはそれより先に)その無事を確認しなければならないものなのだ。
 因ってヤクモの問いは至極真っ当な手順を踏んではいたが──寧ろここまでよく問いを発さずに堪えたと思う──マサオミと己との間に横たわるこの危うい関係と、相手の巣穴に入り込んでいる現状とを思えばそれは少々複雑なものであると云えた。
 (まるで……、信用していない様に聞こえた、かもな)
 思って苦いものを口中で噛んで、ヤクモは顔を顰めた。正直な所を云えば、マサオミがヤクモから『手段』たる神操機を取り上げどうこうする、とは全く疑っていないのだが、それをわざわざ説明してやると云うのも少々癪に障る。
 「声が、したからな。その辺りに在るのかと思って」
 結局ヤクモは思考から疑問だけを取り出す事にした。目醒めの時の話し声は明かにマサオミと式神達のものだったと云うのに、こうして殺風景な室内を見回したところで今は何処にも、あの紅い神操機を捉える事は出来ないと云う事に対しての疑問を。
 果たして今度こそそれが理由だったのだろう、マサオミがいつの間にやら浮かべていた苦笑が深さを増した様に見えたが、ヤクモはその意図が知れずに軽い困惑を憶える。
 「…………、説教を食らう事は承知の上だが、俺から皆にちゃんと謝らないと落ち着かないんだ」
 そもそも発端は判断を甘く見たヤクモに因る。式神達はちゃんと進言をしてくれていたのだから、それを聞き入れなかったヤクモの油断が今回の為体を引き起こした一方的な原因なのは云うまでもない。
 だからと云って式神達が拗ねたり意趣返しを企みヤクモを無視する様な事は、彼らの気質から云って有り得ないと、これは断言出来る。つまりヤクモが目覚める寸前までマサオミと何らか遣り取りを交わしていたのであれば、それからずっと黙って潜んで仕舞っているとは考え難いのだ。
 そこに来てヤクモは、マサオミが嫌味や謀略で神操機をどうにかして仕舞うとはそもそも考えていない。彼は昨今の闘神士よりも余程、闘神士としては酷く正しい道を生きて来ているのだろうと確信をしていたので余計に。
 「マサオミ?」
 ヤクモの再びの問いに、マサオミは苦笑を浮かべた侭水場の方へ歩いて行った。洗面器を流しに置くと、くる、とヤクモの方を振り返る。
 「俺も別にイヤガラセとかの意図があった訳じゃなくて……ただその、ちょっと邪魔されたくなかったかなーとかそんな感じでして」
 「?」
 「だから…、怒るなよ?手当の御礼を勝手に頂いたって事で勘弁してくれ」
 疑問符を浮かべるヤクモに向かって、言い訳をする様にそう云うとマサオミは冷凍庫に貼られていた紅いものをべり、と剥がした。よくは見えなかったがサイズ的に恐らく符だろう。
 「──っ!?」
 まさか、とヤクモが息を呑むのと同時に、マサオミが冷凍庫の蓋を、横に避けながら開いた。と。
 『ヤクモぉぉぉーーー!!』
 『ヤクモ様!!』
 『ご無事ですか〜??』
 『何処か痛む所などはないか!?』
 『心配したでおじゃるよ!』
 どばっと突如冷凍庫から一斉に響いて来た五種の大音声にヤクモは思わずぎょっとなった。ベッドから転がる様に慌てて降りると、憶束ない足取りに狼狽するマサオミを押し退けて冷凍庫から、紛れなく己のものである、紅い零神操機を掴み出す。
 「冷ッ!!何で皆…、じゃなくてマサオミ!一体どう云う心算でお前!」
 「いや〜ちょっと消雪のイルカ君と一悶着あってつい…」
 「『つい』!?つい、でこんな酷い事をする奴が居るか!──皆、大丈夫か!?」
 『この程度の事、問題な』
 『寒かったよ〜ヤクモーー!』
 何やら言いかけたブリュネを押し退けて、タンカムイがべそべそと云ってヤクモに抱きつく様に霊体を浮かばせてくる。途中ちらりとマサオミに牽制の視線を遣るその様子からしてあからさまに『大袈裟』なのだが、心底狼狽していたヤクモはそれを見過ごした。
 薄ら白く霜をまとわりつかせた零神操機を両の手で暖めながら、ヤクモは一気に襲い来る脱力感に身を任せてその場に座り込んだ。冷凍庫の蓋をぱたりと閉じるマサオミを見上げて呻く。
 「礼は云うし感謝もしている。だが、式神虐待だけは感心しかねるから止めろ」
 神操機は式神が普段その裡に収まっている、家や部屋の様なものだ。降神されておらずとも『内部』に式神が居る以上、当然外気温を含めた環境に感覚は左右される。中には汚れた手で神操機を触れられる事さえも疎んじる式神もいる。逆に『裡』深くに篭もり『外』に全く左右されない式神もいるらしいが。
 ともあれ冷凍庫になど放り込まれ、封印に符など貼られていたら、幾ら降神されていない式神とは云え寒さや狭さにさぞかし辟易させられた事だろう。
 「あー、うん、悪かったとは思うがこっちにも色々と事情が、」
 『ヤクモは大丈夫だった?怪我とかもう平気?彼奴に変な事されてない?』
 「俺は大丈夫だ。それより皆、済まなかった。俺の油断でお前達をも危うく危険に晒す所だった」
 『それはもう気に病まれずとも良いでおじゃるよ』
 『ヤクモ様がご無事であられた事が一番であります!』
 「本当に済まない」
 「……って話聞けよ……」
 神操機を抱えて式神達との会話に浸るヤクモの頭上から、置いてけぼりを食らった形になったマサオミの抗議の声が降って来たが、ヤクモは敢えてそれを流した。溶けた霜を寝間着の袖口で拭ってやりながら、安堵に細く息を吐き出す。
 「……………じゃあ俺、飯とか買って来るから。アンタはもう暫く安静にしている事」
 やがて、自分の家だと云うのに所在の無くなった身を持て余したらしいマサオミはそう諦めて云うと、壁にかけてあったハンガーからいつものジャケットを手に取った。財布を確認して出て行こうとするその姿に、思い直したヤクモは再び声をかける。
 「ちょっと待てマサオミ、」
 「……今度は何だよ?式神が側に居るんだから『今』のアンタでも留守番ぐらい任せられるだろう?」
 「そう腐るな。その心配は必要無いが、今はもっと大事な事があった」
 「……………?」
 振り返った、未だ少し拗ねた様な気配を保っていたマサオミの表情に疑問が浮かぶ。そんな彼に見下ろされた侭、ひいやりとしたフローリングの上に座り込んだヤクモは、先程の遣り取りで少し高ぶった己の内圧を下げる様に、或いは誤魔化す様に。苦笑した。
 痺れた様な感覚を断続的に訴えて来ている、到底まともに云うことを聞いてくれそうにはない脚を軽く示して云う。
 「迷惑ついでに、出掛ける前に肩を貸してくれると助かる」
 
 *

 裾を軽く捲ってみれば、根に巻き付かれ転がされた時に負ったのだろう痣が、脚に紅いみみず腫れの様になって残っていた。こちらはジーンズに隠されていた為に吸血された様子はなかったが、意識をすれば傷としてそれなりに痛む。
 脚の感覚が憶束ないのはその負傷とは別で、恐らく毒の成分の仕業だろう。一時的に神経を麻痺させられたのだろうと判じたマサオミは、呆れ混じりの表情で、然し自分の所為で『無理をさせた』自覚があるからか、大人しくヤクモに肩を貸すと再び元の様に寝かしつけてから改めて買い物に出ていった。
 引っ越し立て、と云う以上には居慣れた雰囲気を保ち、然し真逆に居心地を自ら排したかの様な殺風景な部屋の中で、これだけは一応使用感のちゃんとあるベッドの中に収まってヤクモは小さく溜息をついた。
 毒の副次作用程度ならば直に回復するだろうが、明確な創傷の方はそうもいかない。布団から、真新しい包帯に包まれた左腕を取り出すと、上から軽く傷をなぞった。動かす程度には問題はないが、実戦ともなると少し勝手も違う。印を切る時や符を取り出す時に生じる、僅か一秒に満たないタイムラグでも命取りになりかねない事もあるのだ。
 『ヤクモ、無理はするな』
 『今は安静にしているでおじゃるよ』
 その動作から思考までをも読みとったのか、枕元にその場を移した零神操機の中から次々に飛んで来る式神たちの案ずる様な声に、ヤクモの口元に思わず緩んだ笑みが昇る。
 「自業自得とは云え、被毒する羽目になったのは厄介だったな。少しばかり軽率に過ぎた。彼奴が呆れるのも無理ないか」
 言葉の割に口調が少し柔らかくなるのにヤクモは自分で気付くが、まあ良いかと思い直すと、枕の上で頭を右に転がした。そうするだけで視界に簡単に収まって仕舞う七畳程度一間。使用感のないキッチンのシンクにぽたりと落ちる水の音ですらよく響くほどに、何もない。静かな空間。
 生活感のない室内は『寝む』以外の用途や機能を一切必要としておらず、此処に住まう人物の趣味や人となりと云ったものが全く見えて来ない。テレビやラジオ、書籍、電話さえも無いそこからは、或いは態と『家らしくなく』設えているかの様な印象を憶えた。
 夾雑物を一切排した『家』は獣の巣穴にも似ている。ただ休息を欲するだけの役割の『場』。故にそれは連れ込んだ獲物を食い千切るにも値しない、と、そんな考えに至って仕舞ったからか、ヤクモはマサオミの部屋に居ると云う己の現状について、殊更に警戒や懸念を抱く気にはなれなかった。
 これは、マサオミを信用している、と云う曖昧な事実よりも顕著に抱いた、この『家』の様子に因る所が大きい。
 日頃のマサオミの、どちらかと云えば軽く見える人格からは到底想像もつかない、この方便ない空間は──何処か彼そのものに在る、孤独に似た本性によく合っている様に思えたのだ。
 或いはその印象は、『それらしく』在る偽そのものであったのかも知れない。
 (…………彼奴は、何者なのだろうか)
 ヤクモは、ふとした拍子に浮かんだ、最も始源の疑問を静かに脳裏から取り出してみた。時間を潰すだけには、その対象となる本人が不在である以上些か不毛なものだとは思ったが、構わず考えを巡らせていく。
 少なからず、本来この部屋に必要とされるのだろう『日常』などを不要とした生活を送りながら、闘神士として生きている事は間違い無い。世界にも日常にも依らない生き方と言うのは、目的そのものにそれが必要無いと断じている事でもある。
 闘神士としての目的。或いは希望。天や地と言った概ねの闘神士の抱える、帰納的に必要とされる手段ですら無関係とする神流のそれは──恐らくはヤクモとも決して相容れない様な最終目的を見定めており、唯其処に向かう事のみを目指しているのだろう。
 (……相容れない、か)
 矢張り不毛でしかなかった、と、思考の内容に少し後悔しながらヤクモはそう漏らして目を細めた。どうにも不可解な感と相俟って、虚しさに似たものが付きまとうのが否めない。
 特別平和主義を唱える心算は無いが、闘神士である以前に人間なのだから、少しは話し合う努力ぐらいしてみれば良いのだと、伏魔殿の中で幾度も問答無用で襲撃して来た神流闘神士たちを思い出して仕舞い、陰鬱な溜息がこぼれる。
 彼らから言葉に因る選択肢を奪ったのは、果たして古代の天や地の流派だったのかも知れないとは、実の所想像の範疇ではある。何しろ時代が時代だ、当時の闘神士たちは自分たち以外の者を何一つ信じず、式神は己が刃でしかなかった。
 虐げられた者は同じ様にして他者を弾圧する。欺かれ続けた者は同じ様にして誰かを騙す。そうして築かれた生き様は歴史の重みと等価だ。
 吐き出した呼吸の代わりの様に枕に深く頭を沈めて息を吸えば、漸くこの余所余所しい、建材に囲われた無臭の気配しか感じられない部屋の中で初めて、ひとの生活の明確な気配に気付く事が出来た。
 それは果たして安堵に似ていたのか。ヤクモは徐々に重くなる目蓋に逆らわず目を閉じると、すん、と鼻を鳴らした。
 「……マサオミ臭い……」
 本人が聞いたら憤慨しかねない、実のところいまひとつ自分でも解らない感想が眠気と共に駄々漏れる。ほど近い緩慢な眠りの気配の中では、それは別段深い意味など伴ってはいないのだが、神操機の中の式神達はそうは取らなかったらしい。ヤクモの呟きから間髪入れず、枕元にふわりとタンカムイの霊体が少しばかり不機嫌に傾いた顔を突き出して来た。
 『ねぇヤクモ?』
 「…ん?」
 幾ら半透明の霊体とは云え、鼻先ほどの距離に出現されればそれなり驚く。ヤクモは瞬間的に眠気を軽く押し退けると、眼前のタンカムイの顔をぱちくりと見遣った。
 「どうしたんだ?」
 『今まで割とヤクモが楽しそうなのもあって僕らは敢えて何も云わなかったんだけどさあ……、嫌いじゃないって云ってるその割にヤクモは少し彼奴に心を許しすぎてるんじゃないかなあって』
 実の所進言の八割以上は、マサオミの『家』であるこの空間でヤクモが余りに安らいで仕舞っている事に対する懸念──と云うより嫉妬からなのだが、思わず茫然と瞠目して仕舞ったヤクモにはその事にまで気付く余裕は無かった。
 「…、気付いていた、のか?」
 マサオミの事を毛嫌いしていると公言して憚り無い式神達に対して、己の心情ではマサオミと云う人物をそう嫌ってもいなかったヤクモとしては、それを看過されていたと云うのは少々後ろめたさを憶える事である。恐る恐るの問い返しに、然しタンカムイはあっさりと首肯して見せた。中空でくるりと反転すると、逆さまになった侭ヤクモの眼前で静止する。
 『そりゃあね。最初からあんまり彼奴に悪い印象を抱いてなさそうだった、って云うのも勿論だけど、その後も特別に警戒とかしている様子まるで無かったし。まあ僕らは彼奴を嫌いだけど、だからってヤクモにまで同じ様に思えって強制なんてしないから、黙っていたって事も別に気にしてないよ?』
 タンカムイはさらりとそう云うと、再び、今度は横向きに反転した。丁度中空に腹這いをしている様な格好である。その表情は穏やかな笑みで、この消雪の式神の本性を知らない者が見れば、大層愛嬌のある可愛らしい姿と思う事だろう。
 だがタンカムイと長い付き合いであるヤクモは、その本性、とでも云うか、本音、とでも云うか。良くも悪くもタンカムイの『本質』を存分に知り得ている為に、素直にそれを『笑顔』さえも浮かぶ良機嫌とは取れない。
 少なからず額面通りに受け取れる機嫌なのであれば、こんな風にわざわざ眠りかけていたヤクモに声などかけて寄越さないだろう。
 何の支えもない中空でくるくると、恰も泳いでいるかの様な仕草で佇むタンカムイを上目に見上げて、ヤクモは申し訳無さそうな感情を持て余し、悄然とこぼした。
 「……すまない、皆がマサオミの事を嫌っている事を知っていたのに」
 『良いんだよ、悪いのはヤクモじゃなくて、ヤクモの寛容さに付け込んで図々しく近付いて来る彼奴の方なんだから』
 ぴしん、と尾鰭で空気を弾いて鼻息荒く(然し笑顔で)そう云うタンカムイの様子を見て、ヤクモはそこで漸くタンカムイの『機嫌』の原因を知る。
 それは今更改める事でもない。ヤクモがマサオミを『敵』とみる事が出来なくなっている事実を告げなかった事にではなく、マサオミに心を許し過ぎて仕舞っている事について、タンカムイとしては思う所があるらしい。と云う事だ。
 それは、警告を聞き入れず妖樹に手酷くやられた現状と同じだ。式神たちは常にヤクモの事を思って警戒や進言を寄越してくれていると言うのに、マサオミに対する態度について口出しされる事を避ける為に敢えて、ヤクモは自らの感情や取るべき態度を表明しなかったのだから。
 あれが『敵』なのだとは、最早空々しい程に解りきっている。それでもヤクモは卑怯にも耳を塞いで、式神たちの警告を受け取ろうとは、聞き入れようとはせずにいる。いい加減看過しかねたタンカムイが少し棘を込めて物を言うのも致し方のない話だろう。
 『別にヤクモ様がその事についてを気に病まれる必要はないのでおじゃるよ?』
 と、自己嫌悪に沈んで仕舞うヤクモを取りなす様に、タンカムイの代わりにサネマロが霊体を現すと、そう云ってくる。
 『そもそも式神の本分として見れば、タンカムイの言には少々行き過ぎなものがあるでおじゃるからね……多分。ヤクモ様がいちいち一喜一憂される必要も本来ないのでおじゃるよ?』
 ヤクモが余りに真に受けるからタンカムイが付け上がるのだ、と暗に示しながら、サネマロは腕を組んでうんうんと頷いて見せた。その戯けた様な仕草にヤクモの表情も少しだけ緩み──
 『されど──彼の者に対しての感想は、麻呂達全員がタンカムイと概ね同じ考えである事は変わりないでおじゃるが』
 然し続けられた言葉に再び表情が強張る。
 「矢張り皆は、彼奴を『敵』として相応しく扱うべきだと──、そう思うのか?」
 『……麻呂達が彼の者に感じる印象は、溢れそうな水や張り詰めた弓弦、と言ったものなのですじゃ。それは破滅的で、歯止めが効かず、いつか周囲の者共々に自らを滅ぼす、そう言った質なのでおじゃるよ……多分』
 「…………」
 『故に彼の者に近付かれる事で、ヤクモ様が疵を負われるのではないかと懸念して仕舞うのでおじゃるよ』
 サネマロが慎重に言葉を選んで口にしているのは解って、ヤクモは僅かに視線を俯かせた。実の所は、改めて言われずとも心当たりにはあった。
 大神マサオミと名乗るあの男の気配や印象を一言で言えば、『華やかで、胡散臭い』。振る舞いは明るく、人当たりが良く、親切で優しい。まるで絵に描いた様な人格者を、彼は演じているのだと、余り人を真っ向から疑う事のないヤクモでさえもそう感じる程にそれはあからさまに思えるものだ。
 そしてそんな偽の姿を見せるのと同時に、時折その裏に蠢く黒い感情を顕わにする。それは恐らくリクやソーマやナズナらの前では決して出る事の無いもので、一度その姿を『敵対』し目の当たりにしたヤクモにならば気取る事が出来る程度の、彼の本性、或いは本質なのだろう。
 それをして不安定感を憶えないと言えば嘘になる。確かに、マサオミの抱える『本性』は、神流に根ざした目的に合致するものである事は確かで、神流が天地流派を憎む事を大義名分としている以上、その矛先はいつかヤクモへと向けられるべきものになる筈なのだ。
 「……彼奴は、何故俺を殺そうとしないのだろうな。今までに何度でもその隙はあった筈だと云うのに」
 それが縋る理由の一つだからか、疑問はするりとヤクモの裡からこぼれた。戦い合った次の邂逅では、何故かヤクモはマサオミに命を救われたと言う。重傷を負った身はわざわざ手を下すまでもなく、見殺しにでもすればそれで良かった筈なのだ。
 無論今日の事もそうだ。幾らヤクモが歴戦の闘神士であるとは云っても、その意識を失っている以上はただの人間に過ぎないのだから。害せる機会も、殺める隙も、幾らでも在っただろう。
 それでも、二度。二度共にマサオミはヤクモの命を救い、甲斐甲斐しく世話までやいて見せたのだ。
 故にヤクモはマサオミへの見方から、多少の恩義も含めその不可解さを加味して観察してみる事にした。そうする内に段々とマサオミの抱える心の裡が、闇を孕んだ不安定さが垣間見えて仕舞い──いつしか向ける目は敵対や探るものではなく、寧ろ案じる様なものへと変わっていた。
 その方便ない有り様や憎悪の感情を──嘗て己も抱いた事のある、強い『願い』であると。薄らと気付いて仕舞ったのだ。
 正しき取捨と誤った躊躇い。ただひとつの『願い』の為に、信じるに値するものはそのこと以外に果たして存在するのかと、強く、ただ信じて走った記憶はヤクモにも憶えのあるものだ。
 それは紛れなき己の信念と、ただ静かに背中を押してくれた式神との狭間に在った──不安と焦燥。
 それと類した具現があの、時に憎悪に揺れる眼差しに在る。式神達の憶えた、マサオミへの『破滅的』と云う感覚の裡には、きっと在る。
 (……………救ってやりたいと、思って仕舞った)
 式神達には或いはそこまで看破されて仕舞っているかのも知れない。故の進言であるとしたら、タンカムイの『行き過ぎ』にも思える云い種も頷ける。
 ヤクモへと向けて来た常の態度や、今日の甲斐甲斐しさの中に隠され決して出てこない、昏い、負の感情。方便ない心が、然し裡にとどめる事を選んだ害悪や憎悪。不安。
 然し、ヤクモがマサオミへの敵対意識を失っているのと同じくして、マサオミもまたこの猶予期間に惑うだけの価値を見出していはしないだろうか、と、そう思わずにいられない。希望的で楽観的なものの見方だとは思うが、それでも。
 目を伏せた侭黙考に沈んだヤクモの様子をじっと観察する様に見つめていたサネマロは、すい、と中空を漂うと、ヤクモの顔を覗き込む様にして近付いて来た。その拍子に面の奥の眼差しが酷く労りの色を灯したものになる。
 『ヤクモ様が手を伸べられた事で、彼の者が何か変わるのか、それともその手を振り払うだけなのか、それは未だ誰にも知れぬ事でおじゃる』
 未だ何れとも解らない、と云うサネマロの言葉は、彼の式神にしては些か珍しくも気休めの色が濃い様に思われて、ヤクモは得心した事を示すべく微笑もうとして失敗した。微笑みと云うには苦みの少々強いそれは、ばつの悪い表情だ。
 己でそう、確信出来る程には理解している。思い遣り、忌憚の無さ、憐憫、慰藉。紛れもない、『敵』に相対するには既にヤクモの心には夾雑なものが混じり過ぎていた。今更何と云われた所で、それらを取り払う事など到底出来はしないだろう。
 ひととき情を寄せて、知って仕舞った以上、それが己を憎む『敵』であったとしても放ってなどおけない。それはヤクモの美点でもあるが欠点でもある。
 ひととき、丁寧に包帯の巻かれた腕を再び引き寄せ、ヤクモはそこに鼻先を埋めた。消毒されたガーゼの匂い以外には何も伝えてはこないそれは、『無臭』のこの部屋の様に、目的と云う機能性以外を全て排除したものだ。
 眠るだけの部屋と云う形、疵を覆い保護するだけの包帯と云う形。偽りの生活の一環として、心配をしてみせると云う──或いはそれだけの、形。
 偽悪めいた疑念に苦笑して、ヤクモはその侭強く己の目蓋を押さえた。厄介な事にその程度の客観的なマイナス思考では到底揺らがない程に、己はマサオミと云う人間の本質を確信して仕舞っている様だ。
 (それに、仮にそうだとしても……、そんな『偽』でさえもが、彼奴の本質だ)
 そんな決定的な肯定に、ヤクモはともすれば際限なく漏れそうになる溜息を押し殺すと、包帯に埋めていた顔を苦笑と共に引き剥がした。何処までも彼の男に甘くなっている自分にはとっくに、意識するでもなく気付けている。
 「伸べた手を取って貰えるとまでは思い上がっていない。だが、その行為自体が少しでも彼奴に──俺にとってもだが、良い事になれば良い……、とまでは楽観的に、皆は思えないかな」
 『我らはヤクモの気持ちや意志は常に酌む心算だが』
 『自分の闘神士が傷つくかも知れない事を看過するのは式神が廃るってもんですからねぇ』
 『純粋に戦闘であれば、自分達は決して負けはしないでありますが…』
 『まあでも基本的に乗り気になれないのは、彼奴が敵だとか味方だとか云うよりも、ヤクモの甘さに付け込んでる図々しさ極まりない事が根元だからねー寧ろ』
 タカマル、リクドウ、ブリュネ、タンカムイと各々本質で合致した意見が次々と零神操機から飛び出して来て、最後に纏める様に再びサネマロが姿を現して云う。
 『ですが先程も申し上げた通り、これは式神の本分を越えた進言でおじゃるから、実際ヤクモ様がどうなされるかは自由でおじゃるし、麻呂達もそのお考えに反する心算などもないでおじゃるよ。
 ……とは云えこれは少しヤクモ様にとっては少々狡い云い種と感じられるかも知れないでおじゃるね、…多分』
 説得や進言と云うには純粋な微笑みの乗ったサネマロの言に、ヤクモは一瞬ぱちくりとして、それから喉を震わせて少し笑った。脱力した様に腕を布団に落とすと、ゆっくりと上体を起こしてみる。
 もう既に眠気の遠くなった眼差しは、傾き始めた陽に照らされ揺れるカーテンを除けて、その向こうにある風景を静かに追っている。
 (俺の伸べようとしている手が、僅かにでも彼奴を惑わせたり思い違えさせたりしているともしもそう言うならば──それは彼奴にとっては短絡的で非道いものになるのかも知れないな)
 それが単純な同情ではないと云う確信はヤクモ自身の意思にあるのだが、マサオミにとってはそうではない可能性も十分に有り得た。ヤクモの優しさや甘さがマサオミの憎悪を許容し見過ごした事は、彼にとっての箍を外す事になるやも知れないのだ。
 故に式神達の進言は、もうマサオミを近付かせない方が良いのではないかと云う断定的な意見だったのだろう。
 己の誤った正当性を、それを知って『赦してくれる』存在へとぶつける、単純な攻撃衝動と逃走本能。況して『赦してくれる』のは天流の闘神士。神流に属する者として正当なる憎悪を押しつける事にも、恐らくは躊躇いなどない。
 マサオミの抱く仄暗い感情は、自らの破滅的な情動でヤクモをも共に疵つけるだろう。
 (………それでも、俺は)
 黄昏時には些か物騒な表情で、ヤクモはてのひらで自らの目元を覆うと唇を噛んだ。
 何れの結果も変わらないから手を引かないのではない。何れの結果となろうとも、手を引く気などそもそも無い。
 それは強い信念と気概。絶望に至る不安の味を誰よりも深く知った事があったからこそ、目の前で似た闇に溺れそうになっている者を見て、救いたいと望まずにいられる筈など……、無い。
 式神たちに苦笑を浮かばせ気を揉ませる程に『お節介』な己の気質に、今度は少し深刻に目を細めたヤクモだったが、遠くから響いて来る軽快なエンジン音に意識をふと引き戻された。窓辺にだらりと凭れた姿勢の侭で見下ろしてみれば、住宅地の道路を少し急いた速度で走ってくる、見慣れたバイクの姿が近付いて来るのに気付く。
 定位置なのだろう、駐輪場の様に扱われているスペースにバイクを止めたマサオミは、直ぐ上にある自室の窓から己を見下ろしているヤクモの姿に気付くと、サングラスを外しながら、いつものチェーン店のロゴが入ったビニール袋を軽く掲げて見せて来る。
 そんなマサオミの様子を黙って見ていたヤクモが応える様に軽く片手を振ってやりながら微笑を浮かべてやれば、上機嫌そうな笑顔を見せてから、マサオミは軽快な調子で建物の入り口へと消えていった。
 そう近い内に戻って来るだろう部屋の主を迎え入れる様に、ヤクモは気持ちを静かに切り替えるべく目を伏せた。
 枕の横の零神操機からはもう特に意見や進言は飛んで来ない。どうするかは自由だ、と云ったその通りに、ただ黙って見守ってくれている式神達は、恐らくはヤクモが選ぶ答えなど、初めから承知の上なのだろう。
 疵を負うかも知れない。怖じける程ではないが、その事に対する懸念は無論ある。自分は未だ倒れる訳には行かないし、痛みは慣れる事が出来ても痛い事に変わりはない。その『痛み』が実際の疵であるのか、心の瑕であるかは定かではないが。
 鍵をがちゃがちゃとやり始めた音を耳に、ヤクモは思考を中断する。窓辺に頬杖をついて、裡に残留しているもの全てを一緒くたに、漏れた溜息とは逆に飲み干した。
 



この時点ではヤクモにもマサオミへの好意に至れそうな情は一応あったんですよ、的な…。そのフラグを容赦なくクラッシュされた事で、恋愛に昇華しそうだった感情は一旦は消滅して、主に同情が残った、と。

塔。天(ソラ)或いは空(カラ)を目指すかの様な傲慢で純粋な事物。 其れは揺らがず貫かれる彼の信念に似て。