願わくばその手のもとにて



 障子をくぐったらそこは猛吹雪だった。
 「〜ッ、」
 全身に、顔に突如として容赦なく吹き付けて来る雪に表情を歪め、ヤクモはマントの袷を慌てて掻き寄せるとフードを目深に被った。ぷるぷると顔を振って眼前にまとわりつく雪を払うが、後から後から吹き付ける冷たい息吹の前では意味など殆ど無い。
 ずぼ、と靴を容赦なく呑み込む足下は凍ってすらいない一面の雪。理の異なった世界である伏魔殿で、現世の気象の法則に当て嵌めて物事を考えても意味など無い。薄紫色の曇天の何処からとも知れぬ場所から吹き付ける吹雪からは、止む、或いは幾分穏やかになる気配など全くして来ない。
 容赦のない寒気にあっと云う間に体温は奪われ、立ち尽くすヤクモの身体もこの侭ではそう遠からず雪の中に埋もれて仕舞うだろう。待っていても降り止む性質のものでは無い以上、じっと時間を浪費するのは無駄でしかない。ヤクモは身を縮こまらせる様に肩を竦め、襟刳り深くに出来るだけ顎を沈めると、吹雪で白く濁る視界をぐるりと見回し、風下へと何とか歩き出した。
 『ヤクモ、此処は状態を整えて出直すべきではないか?』
 そうして苦労して一歩一歩とヤクモが前進していると、タカマルが神操機の中から霊体を現し、その蒼い精悍な瞳を気遣わしげな表情に乗せて云って来る。
 「いや、出来るだけ早くこのフィールドを離れた方が良いだろう。もたもたしていると地流の闘神士達が追いついて来る可能性があるしな…。一度とは云え場所を捕捉された以上、付近に留まるのは得策ではない」
 そう応えるとヤクモは身を切る様な寒さに少し苦労しながら目を僅かに伏せた。睫毛についた雪の破片が、同時に吐き出された溜息に溶かされて落ちる。
 つい先日通ったフィールドで、ヤクモは神流闘神士との戦闘中に、二人組の地流闘神士にその姿を目撃されて仕舞っている。
 ヤクモにとって今の『敵』は伏魔殿の奥で暗躍している神流であり、地流ではない。故に彼らを敵に回すのは本意ではなく、また戦闘に巻き込むのも極力避けたい所であり、結局突然の『謎の闘神士同士の戦闘』と言う事態に呆然としている彼らを庇う形での戦いになった。
 結果的に、いつも通りに闘神士を直接狙って来る神流闘神士に防戦を強いられ、気乗りのしない侭ヤクモは相手の式神を倒す事で勝利を収めた。短いやり取りでは情報も殆ど得られない、云って仕舞えば無駄な勝利(或いは犠牲)だった。
 そして一部始終を見ていた二人組の地流闘神士に己が『天流のヤクモ』であると知れた途端──彼らは畏怖と同時に功名心をはっきりと見せ、無謀にも戦いを挑んで来たのだ。
 元より闘神士同士が戦う事、式神同士を意味も無く戦わせる事を好まないヤクモとしては、今は敵でも無い地流の闘神士を悪戯に倒す様な真似は極力避けたい所だった。故にその場は半ば無理矢理に離脱した。が。
 地流は現在宗家であるミカヅチの元、一枚岩の組織となっている。以前よりはっきりと彼らに良い感情を抱かれているとは言い難い『天流のヤクモ』が彼らと同じく伏魔殿へと降りている事が知れれば、討伐隊などを差し向けられる可能性も充分有り得る。
 その為地流にこれ以上動きを捕捉されない様、戦闘で負った傷を癒すなり直ぐに伏魔殿へと戻ると、ここ数日強行軍でフィールドを次から次へと渡っていたのだ。
 そして現在この猛吹雪のフィールドに出た、所になる。
 「出来れば俺は、彼らとは戦いたくないからな……」
 闘神士(かれら)、と云う思いを込めて呟く。神操機を扱う様になってから闘神士達は己の式神だけではなく、己自身の人生をも戦いに捧げなければならなくなった。どんな悪人であろうが善人であろうが強者であろうが、負ければ人生の一部を欠落すると言う業を、世界の守護者であるその代わりに負わされる事となったのだ。
 闘神士とは本来己らで争うのではなく、妖怪の類を倒し世界を裏から守り続ける存在だ。決して天と地の流派で、己の名や流派章の為に式神を扱うものではない。
 だから、ヤクモは闘神士同士で戦う事を望まない。神流と戦う事になっても、情報を聞き出すと云う目的は無論あるが、叶うのであれば極力相手を無力化する事で終わらせたいと思っている。
 今まで幾人もの神流闘神士たちと戦って来て、何をも恐れず向かって来る彼ら相手にそれは無理なのかも知れない、とはうんざりする程に思い知らされているのだが。
 それでも「式神を倒したくない」「闘神士の記憶(じんせい)を奪いたくない」と云うヤクモの考えは変わらない。
 (天と地の流派が争いを始めなければ、闘神士の在り方も何もかもが変わっていただろう。この争いの隙間を縫うかの様に暗躍する神流と云う存在も、或いは……)
 そも、二つに引き裂かれた天と地の流派、その争い、決して潰えぬ千年の永訣が無ければ、闘神士は自らを食い潰し合い式神を彼らの戦いの道具として扱う様な、歪んだ在り方を生まなかった筈である。
 争いの発端は天流の裏切りと地流の叛逆。それは千年も昔の歴史、なのだが──
 (刻を越えて事態は動いた。潰えかけた天流と還った宗家、世界をも席巻する権力と財力とを手にした地流。そして、『今』になって動き出した神流。
 ……恰も何者かに仕組まれていたかの様な、歴史の流れと設えられた舞台)
 伏魔殿の中に眠る、嘗ての天流の遺した遺産や史跡を探索するヤクモが得ている情報は、少なからず他の天流や地流の闘神士達よりも多い。歴史には惑わされる様な史実や捏造も幾つか存在しているのだが、流派と云う色眼鏡を除いて事実を定め見る事が出来ると云う点では、正に彼は適任であったと云えよう。
 然しそんな真実への探求を続けるヤクモにとっても、歴史の推察は軽々しく他者に漏らすべきものではないと云う意識が無論在る。幾分真実に近い処に立っているとは云え、それが真に在る未来を生むものとは、正しき歴史を紡いだ結果の正義となるかどうかは、未だ解らないからだ。
 故に極力他の闘神士との接触を避け、神流やウツホと云う存在を他に漏らさぬ様にしているのだが、そんなヤクモの行動が地流にとって益々不審感を煽る一因になっているのは間違い無いだろう。
 ちなみに天流内部でもヤクモが伏魔殿へと降りている事は、近しいごく一部の者にしか知られていない事である。
 「追いつかれて仕舞ったら、現状よりも厳しい戦いが起こる。一方的に敵視されていて、説得も通じない様な相手との無益な戦いは極力避けて行くべきだ」
 神流と戦う事も本来望まない結果だが、と一応は胸中で小さく付け足しておく。
 彼らがヤクモの予想通りに過ちの根源たる存在であれば、どうにか手を打たなければならないのは事実だが──そも、神流の行動理念は天地流派への激しい憎念から成るものであり、つまりそれは天地流派に何らかの罪がある、と云う証明でもあるのだ。
 なれば歴史の闇、真実の底へと辿り着くまでは、彼ら神流とは云え明確な『敵』と位置づけて良いものではない。先入観で定めて良い関係でもない。
 思考が段々と薄暗い方向に進んでいるな、と感じ、ヤクモはマントの中で己の肩を軽く抱いた。寒さに色を失った唇を、無理に笑みの形にして戯けた様に云う。
 「それに、一旦帰ったらもう二度と来たくなくなりそうだ」
 『………』
 ヤクモのそんな心中を正しく解しているからこそ、霊体のタカマルは、むう、と小さく呻いたがそれ以上は言を紡がずに黙り込むとその姿を引っ込めた。
 『そんならサッサと離脱した方が良さそうですね〜。こう云う厳しい環境には大概の場合』
 『自分たちで均衡の取れなくなっちゃった妖怪とかいっぱい居るしね』
 リクドウ、タンカムイと言のみが続くのに、ヤクモは軽く頷きを返す。
 「そうだな。これ以上余計な体力も気力も消耗したくないし……、」
 『ヤクモ様、』
 と、呟きかけたヤクモの足が、神操機からの式神達の警告の前に止まる。顔を起こすと、前方の空に吹雪に紛れて黒い無数の塊が幾つも飛来して来るのが見えた。
 陰の気に浸され、領域を侵すもの全てに無差別に襲いかかる妖怪の群れだ。先程のタンカムイの言葉通り、苛烈な環境で生き延びて来た妖怪達は現世の妖怪の様に、人の心に左右されず、生者に明確な敵意を以て襲いかかって来る。
 「云った傍から……全く、最近の俺はどうもツイていない気がする」
 『ヤクモ様、降神を!』
 「ああ、頼む。──式神、降神!!」
 左手にいつでも符を出せる様に構えながら、零神操機で青龍のブリュネを降神させるとヤクモは前方に拡がった妖怪の群れを見据えた。
 「ヤクモ様、来ます!」
 「頼んだぞ、ブリュネ──坎坎離震!」
 「必殺!究極竜護符変化!」
 ブリュネの身体が光に包まれ、翠の竜体に変化すると妖怪の群れを次々に食い散らして行く。ブリュネの必殺技に集中しつつヤクモは時折符を投げ、その動きをサポートしていく。
 そうして程無くして、妖怪の群れは一掃されていた。幾ら凶暴化しているとは言え、そこいらの妖怪程度を相手に、元より苦戦する様なヤクモではない。
 「ヤクモ様、ご無事でありますか」
 「寒さ以外は。有り難う、ブリュネ」
 竜化を解きヤクモの傍へ戻ったブリュネが、その身を案じる様に大柄な身を屈めてフードの下の表情を窺おうとするのに、そう柔い笑みで答えると、ヤクモはマントの下で本格的に身体を震わせた。
 戦いで僅かとは云え発汗した事が間違い無くこの寒さを増長させている。この侭では風邪を引きかねないし、そう遠からず行動不能に陥る方が早いかも知れない。
 ブリュネがそんなヤクモの様子を見て、さりげなく風上に立ち、僅かでも吹雪から守ってくれようとしているのに気付き、ヤクモは思い出した様に顔を少し上げる。
 「ブリュネ、済まないが休息を取れそうな場所を探せないか?」
 「お任せあれ。土行の式神なれば簡単であります」
 普段ならば自ら符を使っているヤクモの、余裕の無さを感じたのかブリュネは即座に槍の柄頭を雪深い大地に突き立て、「むん」と精神統一を始める。
 数秒の後、ブリュネは瞼を開くと一方向を指差した。
 「あちらの岩山に洞がある様であります。ヤクモ様、自分にお掴まりになって下さい」
 指す方角をヤクモは目で追うが、吹雪の厚い壁に遮られ、先には何も見えない。
 自分の目で探す事を諦めると、ヤクモは差し出されたブリュネの腕に抱えられ、バランスを崩さない様にその羽織る装束を掴んだ。
 (…………、)
 その途端、同じ土行の存在故のものなのか──不意に懐かしい匂いと感覚とがヤクモの喉奥に沸き上がり、自然、安堵の吐息が零れた。
 ブリュネは翼を拡げて風を打つと、結構な速度で吹雪の中を進んで行く。が、その腕に壊れ物の様に大事に抱えられ、土行の守りの懐かしい感慨に優しく包まれたヤクモの身体には決して風は厳しく当たらない。
 それでも何処か遠いぬくもりを求める様にヤクモは、ぎゅ、と強くその身に丸めた身体を寄せた。
 同じ様に強く、瞳を閉じる。

 *

 暫く進むと、ブリュネの見立て通り、前方に巨大な岩山が聳えているのに突き当たった。複雑な造りの岩の隙間をブリュネは心得ている様に進むと、やがてその壁面に空いた一つの洞の中へと着地する。
 天然の地形の形成した穴は入り口こそ広かったが、内部は幾つか複雑な狭い横穴が空いている様で、様々な方角から空気が吹いて来るのが解る。
 夜目の全く効かない人間(ヤクモ)とは異なり、ブリュネにはちゃんと見えている様で、暗い中をヤクモを抱えた侭器用に進んで行く。視界を共有しても良かったのだが、ブリュネの判断に任せようとヤクモが何もせず待っていると、やがて洞の中を進んでいたその足がぴたりと止まる。
 「この辺りまで来れば雪も風も入って来ないであります」
 そう云って身を屈め、ブリュネは慎重にヤクモの身体を降ろした。温もりが離れるとまた寒さが蘇り、ヤクモは僅かに身を震わせながら、闘神符を取り出し火を点ける。
 火行の力を発動させた符を地面に落とせば、燃料の類が無くとも火は焚き火の様に大きく燃え上がり、辺りを照らす光源と、暖を取る役と両方を成してくれる。
 ぼやりと橙の光に照らされたそこは、洞穴の奥詰まりの一角の様だった。この部分に至る横穴は細くくねった一つしかなく、ブリュネは今そちらに向き、一応なのか外の気配を伺っている。
 番犬ならぬ番龍。ブリュネのそんな実直な頼もしさを好ましく思っているヤクモはその様子に軽く笑むと、まずはマントを外して火とは逆方向に向けて叩いた。雪は溶けさえしなければ水分にはならないので、熱せられて水になって仕舞う前に叩けば簡単に払える。
 防水の効いたマントの下にあって殆ど開いていなかった為に、その下の黒いシャツもジーンズも雪で濡れた様子はない。これでびしょ濡れだったら全部脱いで乾かさねばならなかった所である。
 取り敢えず雪を叩いたマントを火の前に拡げておき、僅かに染みた水分を乾かして座り込む──が、幾ら暖があるとは言え、半袖では寒すぎる。
 「ブリュネ、こっち来て」
 己の二の腕をさすりながらヤクモが声ばかりでなく手招く仕草で呼びかけると、ブリュネは疑問符を浮かべつつもヤクモの横へと戻って来る。
 「流石に寒すぎるから、ちょっと暖を取らせて貰えないかな…」
 苦笑を浮かべたヤクモの言葉に、ブリュネははっとなってその場に即座に座り込んだ。真っ青になった直後に真っ赤になる、なかなか忙しい反応である。
 「も、申し訳無い限りであります、気が利かず──!」
 警戒や注意に夢中になり、肝心の闘神士への気遣いを忘れていたと云う、実にブリュネらしいそんな様子にくすくすと笑いを漏らし、ヤクモはブリュネの膝の上へと上がった。すかさず支える様に、温める様に両腕で軽く抱かれてヤクモはその安堵感に目を細める。

 *

 さてこの伝説の闘神士様は見事なくらいに、己の式神に身を委ねてその温度に目など細めている訳だが。
 一方の式神ブリュネの方は日々それはもうヤクモ様命で来ている。他の四体に負けず劣らずヤクモを大切に思う感情は強い。敬い過ぎて萎縮すら憶えて仕舞う程に。
 然しブリュネはその生真面目な性質故に五体の中では割合損をしている方だ。戦闘時には汎用的な戦闘能力の高さからよく降神されるのだが、逆に他の部分では四体の式神達に今ひとつ負けを見て仕舞っている。
 タンカムイは甘える様な性質でヤクモに平気でべたべたと懐くし、サネマロも聡い事を進言しながら、戯けた様によくまとわりついている。リクドウは元の愉快な性格もあってか、ここぞと云う時には結構大胆に立ち回るし、タカマルは実直な所に持って来て気が利く。
 ブリュネは真面目過ぎてその分の『遠慮』が強く出て仕舞い、例えばヤクモの身ひとつ庇う時でも「こうすれば」「しかし畏れ多い」「いやでも」と一瞬葛藤して仕舞い、出遅れて仕舞うのである。
 例えばタカマルやタンカムイならばそこですかさずヤクモの身体を抱えて離脱出来るのに、ブリュネはその逡巡の間が邪魔してそれが出来ず、盾の様に自らの身で庇う事しか出来ない、と云う様な状態である。
 無論ヤクモの事を全力で守り大事にしたいと云う想いは強い限りなのだが、良く云えば『純』である為に思い切れない、と云う部分が災いして仕舞う事が多いのだ。
 そんな経緯もあり、現在ブリュネはがちがちに緊張していた。
 両腕の中には、敬愛する大事な闘神士の身。今にも寝息など立て始めて仕舞いそうに目を細めて体重をかけてくれている。硬直気味のブリュネと裏腹に完全なリラックス状態だ。
 契約闘神士の身を、式神は決して傷つけない様に出来ている。どんなに爪や牙が鋭くともそれが印で起こされた技に因るものでは無い限り、己の闘神士の身体を傷つける事はない。
 …のだが、少し力を込めれば握りつぶせて仕舞いそうな感覚を、力ある式神であるブリュネはどうしても懸念して仕舞う。
 式神の膂力は人間のそれとはまるで異なる。人が生まれたての小動物をどう扱っていいか力加減が解らなくなるのと同じで、ブリュネはもっと腕を寄せた方が温かいのかも知れないと思いながらも、その力加減が解らずに困り果てるばかりだ。
 と、腕の中のヤクモの身体が身じろいだかと思うと、横頬をぴったりと押しつける様にブリュネへと抱きついて来た。
 「……土の匂いがする」
 眠気の乗った声音で、ぽつり、とそう呟くと、ヤクモはくすくすと笑い、甘える様に目を閉じた。
 「式神(みんな)は本当に、人間(俺たち)を見守る節季なんだなと思う。戦っていると苛烈な自然そのものの強さなのに、こう云う時にはとても温かくて落ち着く」
 そこまで云うと琥珀の目を開いて、ヤクモはよいしょとブリュネの肩に手を置いて身体を持ち上げた。
 「ありがとう、ブリュネ」
 今の、暖と云う理由ばかりではない、万感の思いを込めた真摯な言葉と共に、ブリュネの鼻面に一瞬だけ唇が触れる。
 思わず硬直したブリュネの、見開かれた翠と赤の瞳に、少し悪戯めいたヤクモの表情が映った。
 「──………………ゃ」
 ごくり、とブリュネの喉から漏れた僅かな音にヤクモが「うん?」と首を傾げる。
 「ヤクモ様っ、」
 『ねーヤクモーそれでこれからどうするのー?』
 尻尾を立て、興奮に上擦った声のブリュネがヤクモを抱える両腕に力を込めかけた瞬間、傍らの零神操機からにょろりとタンカムイの霊体が割って入って来た。ヤクモの眼前、ブリュネの顔面との間。正に言葉通りの割り込みである。
 清々しい迄の声色とにこやかな半眼で、親切ごかしにヤクモの方を見遣りながら、その真逆では唐突な『邪魔』に気勢を失うブリュネへと、牽制の意図を込めて鋭く睨み据えたりなどしている凶悪なイルカ様。
 然し『純』なブリュネである。「邪魔をしやがって」と云うより寧ろ「見つかって仕舞った」と云う様な気まずさを憶え、がくりと消沈。
 ちなみに、飛び出て来たのはタンカムイだけではあるが、零神操機の中からも残る三体の強烈な圧力が送られていたりする。この状況ではブリュネでなくとも到底平然とはしていられまい。
 「少し気力を回復させたら、今度は大人しく符も最大限利用して進もうと思う。これだけの厳しい環境なら、追跡の手も此処で振り切れる筈だ」
 式神たちの水面下の不穏さにはまるで気付かず、いつも通りの調子でタンカムイへと答えを返すと、ヤクモは再びブリュネの膝上へと座り込んだ。
 その様子からは気まずさや気恥ずかしさなどの類は全く感じられず、先程の労いはどうやら他意の無いごくごく自然な愛情表現であったのだと知らされ、タンカムイはブリュネに僅かに同情し、残る部分では羨ましいなと素直に思った。溜息。
 『そうだね。地流の連中(あいつら)も結構、組織力はある癖に下っ端の末端までは纏まってなさそうだし。一遍撒いちゃえばそう簡単には追いつかれないかも』
 「ああ。だから」
 内心の思惑を余所に云うタンカムイに頷くと、ヤクモはひょいと腕を伸ばして、先程火の前へと拡げたマントを取り上げる。布地の表面を軽くなぞり、水分が完全に飛んだ事を確認すると、肩から羽織って丸まった。丁度ブリュネの膝上で、昼寝を決め込む猫や犬の様な姿勢だ。
 「起きたら少し強行軍になるな。熟睡はしないが十五分ぐらいしたら声をかけてくれ」
 『……うん、それはいいけど』
 タンカムイが頷くのを聞くなり、ヤクモはスイッチの切れた人形の様に、瞬間的に眠りへと落ちて仕舞った。毎度の事ながらこの切り替えの早さには驚嘆する。休める時を有効に逃さず確保する、伏魔殿での行動に慣れた故に自然と身に付いた技能だが、元来の環境順応能力の高さも大きいのだろう。
 休むどころか、寝るにも不便そうな式神の膝上だと云うのに、その立てる寝息はどこまでも静かで安らかだ。
 こう云う時に式神として思うのは、見守る事の出来る満足と安堵なのだが、それは時にもどかしさや苦悩を生む事もある。五体の総意は常に同一であるが故に、互いに気付いていても言い出せない事も多い。
 ただでさえあらゆる意味で『特殊』な闘神士を果たしてどう見守りどう助けになるべきか。
 出来ることはせめて、自分たちだけはヤクモを決して裏切らず傷つけず、その心の在り方を誇りにしただ共に寄り添う事だけだ。感謝や心配ばかりではなく、見守り支える。その為に。
 そう云う意味ではブリュネの現状は決して間違いではないのだが、そこはそれ、五体も同じ事を考える同士が居ればそれなりに悋気も撞着も旺盛なのは致し方ない。式神と闘神士と云うのはなかなか難しい関係なのである。
 まだ消沈した侭固まっているブリュネをちらりと見遣ってから、もう特に心配もないかなと思い、タンカムイは僅かでもヤクモの気力を奪わぬ様、零神操機の中へと霊体を戻した。




鼻面ちゅーをやりたかっただけです(いきなり本音)。あとブリュネのヤクモ様命っぷり妄想。
時系列ではカルデイアの数日後と云った所ですが書いた順はこっちのが先。
どうでも良いけどうちのヤクモは周囲を放ったらかしで寝落ちし過ぎな気がして参りました。マイペース過ぎ……。

直訳。貴方に一生ついていきます。