やがて終わる夢の続きを、



 伏魔殿最深部、封印の間。
 四柱に縛られていた四大天の力は既に無く、大地に刻まれていた封印の陣も残っていない。
 辺りは大降神したキバチヨとヤクモの式神たちとの戦いの余波を受けて大きく損壊しており、それに加え封印より抜け出たウツホの力の発露とで、迂遠に続く様に思われる闇の中には破壊の痕ばかりが連なっていた。
 『よくやってくれた、ガシン。今こそ私は、人間達と天地流派の闘神士全てに復讐を遂げ、この地上に穢れ無き楽土を創ろう』
 そう、甘やかに宣言したウツホの姿は既に其処には無く。
 ぼろぼろの大地に同じくぼろぼろの姿で、マサオミは疲れた様にその場に座り込み、損壊した筈の神操機に繋ぎ止められ浮かぶキバチヨの『名』をぼんやりと見つめていた。
 神操機は繭の様なカタマリに包まれ、そこより出た糸の様なものが、不安定に揺らぐ名を繋いでそこに在る。
 「これで、全て……終わったんだ」
 夢に浮かされる様に呟いて、マサオミはそっと神操機へと手を伸ばした。その瞬間、繭の様な姿になったそれにキバチヨの名は吸い込まれ、淡い蒼の揺らぎも消失する。
 手の中に残ったのはつめたい感触の、神操機だったもの。
 神操機は破壊された筈だった。同時にマサオミは敗北したキバチヨを失い、その記憶をも失う事になっていた。然し幾ら思い返してもその記憶は僅かたりとも欠落してはいない。繭の様になった神操機には確かにキバチヨの『気配』を僅かに感じるが、それだけだ。幾ら呼びかけてみても返事は返らない。
 全てを覚悟で、こうしたと云うのに。
 何故俺は何も失っていないのだろうな、と苦笑して、マサオミは神操機だったものを胸のホルダーに仕舞うと、ふらつく足で立ち上がった。
 いつも項で結んでいた髪は解け、結構な長さで鬱陶しい。紐はないか、と頭を巡らせるが、あの力の衝突の余波で吹き飛んで仕舞ったのか、何処にも何も見当たらない。
 ふらふらと、マサオミは薄ら暗い広間を歩き出す。紐が見つかるなどと思った訳では無論無く、そこにあった筈のものを何となく探してみたくなったのだ。
 そうして程なくして、瓦礫の破片に凭れる様にぐったりと斃れた姿を発見する事が出来た。殆ど俯せになったその横顔は髪に隠されてよく伺えないが、力無く投げ出された掌へと伝う紅い筋は紛れもない血だ。
 一度ではない、何処か既視感を思わせる光景。
 決定的に違うのは、彼に血を流させたのは己であると云う事実。
 決定的に違えたのは、相手を純然たる『敵』とみなした瞬間から。

 *

 ウツホの復活を阻止すべく、マサオミの前に最後に立ちはだかったヤクモは、その一刻を争う事態の中で然し何故かマサオミの説得を行って来た。
 五体の式神を降神出来るあの力があるのであれば、最初から全力でかかられていれば恐らくマサオミはキバチヨを大降神させた所で最後まで持ち堪える事は出来なかっただろう。キバチヨは失われ、マサオミは記憶を失い、ウツホの復活は阻止される。ヤクモにとって──天流の闘神士にとってはそんな結末で本来良かった筈なのだ。
 然しヤクモは時間稼ぎに興じるマサオミに真っ向から挑み、「考え直せ」などと、今更の説得を叫んで来た。
 今までを戯れの様に過ごした生活を思い起こさせる、それは確かにマサオミにとって耐え難い誘惑には近かった。
 然し、近かったが、決意を変えさせる程のものには未だ足り得なかったのだろう。
 戻る事の出来ない──する心算もない、絶対の裏切りは、リクから月の勾玉を奪った時から継続していた。
 だからヤクモの説得には応じず、嬲る様に時間稼ぎを続けた。正直その侭衝突し続ければいつかは敗けるだろう敵ではあったが、やるべきことはただの「時間稼ぎ」。ウツホが復活するその時までを待てれば良いだけ。
 それ以上続ければ式神を失う。そう警告するヤクモの姿を見てマサオミは心の中で嘲笑を浮かべずにはいられなかった。

 此奴は、何て甘いのだろう、と。

 最初から全力で止めなかったのも、マサオミから式神(キバチヨ)を失わせない為の手心。式神を失う事を恐れず抵抗するマサオミへと告げた降伏の勧告もまた、その甘さ。

 此奴は本当に、なんて甘くて、莫迦なのだろう。

 闘神士から式神を奪う事を嫌い、それが敵であっても叶う限りならばそれを忌避する。
 或いはその甘さがなければ、ヤクモは疾うに神流の企みを阻止し、ウツホの復活を止めていただろう。
 ウツホの力に因ってキバチヨは完全消滅の寸前に、一度契約をマサオミから奪う事で救われ。
 ヤクモの琥珀色の瞳が驚愕に見開かれ、そして次の瞬間に走った膨大な力の波に飲まれて見えなくなって。


 そして今。閉ざされて此処に在る。
 何処からの創傷なのかは解らないが、ヤクモの身体は血に濡れていた。ぐったりと倒れた身は僅かも動かない。
 その身に纏っていたマントは普段包んでいた身体を守る事なく、瓦礫の上に引っ掛かり拡がっていて、一見して蝶か何かの翅の様だった。
 だが、
 (…………此奴は、飛び立たない)
 どこか愉悦を憶えてそう、胸中で静かに呟き、マサオミは倒れ伏すヤクモの傍に立った。
 あの綺麗なイキモノはいっそ哀れな程に傷ついて。血に濡れた翅を引き擦る姿は、飛び立てない侭叩きつけられて壊れたものの様に無惨で無様。
 錯覚にすぎないと解っていても、そう思えて。マサオミはくつくつと喉で嗤って、倒れ伏して動く事のないヤクモの身体を見下ろし続けた。
 嘲笑と憐憫とが綯い交ぜになった感情は、喉からは出ずに只翡翠の視線に留まるのみ。
 言葉にしたら嗤いだしそうだ。
 この惨めな姿に向け幾度も尊厳を踏み躙ってやりたくなる。言葉で。暴力で。或いはもっと直接的な手段で。
 (望んだことは、全て叶ったんだ。全て。──すべて)
 姉の契約を引き継ぎ、同じ志を持つに至った式神(キバチヨ)を失い、天流を、地流を。リクやナズナやソーマやユーマやその他の全ての闘神士を葬って、あの時失った姉を、きょうだい達を取り戻して。
 それが、此処まで来た理由だ。マサオミのずっと願い目指した、結果だ。
 (それでは、今度こそ『敵』として斃れたお前の事は、どうしてやろうか?)
 殺すか、飼い殺しにするか。それとも生かし続けて、いつか俺を裁きに来るのを、待とうか。
 全てを喪ったヤクモは、きっと気が狂わんばかりに泣き叫ぶだろう。リクも、コゲンタも、ナズナも、ソーマも。そればかりではなく彼奴が大切にして来た全てのものをも壊してみれば。
 そうすれば俺のことばかりを思い憎む、そんな存在になってくれるだろうか。これまでの俺の様に、憎しみに浸されて悲しみを押し殺して嗤う、そんなものになり果ててくれるだろうか。
 それともその手の中の神操機を奪って、闘神士としての力も無く、地を這い擦って俺を睨み据えるお前を見て愉しもうか。
 己の歪んだ想像に、マサオミは喉を鳴らして哄笑すると、ヤクモの髪を鷲掴んで顔を持ち上げさせた。
 は、と無意識の侭苦しげな姿勢に吐息が零れ、何処かの痛みに反射の様に背筋がびくりと跳ねる。
 「…………終わったんだよ。もう、な」
 嘲る様に、いまいちど呟く。だからもう此奴には何も出来ないのだ。此奴に何をも求む必要も、無いのだ。
 望んだ結果は叶った。後は天地宗家を葬りあの忌々しい封印さえ解ければ、姉は戻って来る。きょうだい達とまた笑い合える。

 (そうして、描いていた理想の世界に──然し入り込んでいるこのどうしようもなく愚かなものを、俺はどうしてやればいいだろうか?)

 あの鮮烈な耿りを持つ琥珀色の双眸は、苦しげに歪められた目蓋の下。頭だけを持ち上げられ、辛い体勢を強いられていると云うのに、それ以上はぴくりとも震えない表情筋。
 全身は脱力して重く、紅い血がその重さを減らすかの様に、一滴また一滴、床に鮮やかな染みを拡げて行く。
 死に体の様なそんなヤクモの姿を、いっそ優しさを以て見つめて。己の感情の不可解さにマサオミは僅か口元を歪める。
 「アンタはその甘さで、俺を赦したりしたから悪いんだよ。
 拾った野良犬の心算でも、その内に救い主の手を噛んで、喉笛を噛み千切って、骨の髄までに甘い血を啜る事くらい、出来るんだぜ…?」
 赦しを囁いたあの琥珀の瞳を、穏やかな微笑みを思い出す。
 それは偽善ではなくただの献身。憐憫ではなく尽きる事のない慰藉。
 マサオミはそれに浸っても、溺れきらなかった。溺れる事を拒否した。或いは、嘲る事で自ら逃げた。そうしてその甘さに甘えて、今こうして全てを出し抜いて此処に勝者(のこされたもの)として立っている。
 「なあ、今でも未だ俺を赦すって云えるか?戦いたく無いなんて云うのか?底抜けに甘いアンタは」
 云うんだろうな、と直ぐに結論の出て仕舞った己に苦笑し、マサオミは力の無いヤクモの手を取るとそこを滴る血を舐めてみるが、当然の如く甘くもない、ただの生臭い錆の味しかしなかった。
 「俺はもう失わない。取り戻す事が出来る。だから今度はアンタを奪う。アンタから全てを奪い尽くす。
 赦す事なんてない。赦しも待たない。今度はアンタが──全部奪われて、絶望して、赦しを請うて泣き叫べばいい」
 手を放すと、力の無い身体は音もなく再び手折れる。
 こうも簡単に斃せた。嘗て思った印象とは違うのだが、それでも言葉としては違えていない──確かに脆く果敢なかった存在を見下ろして。マサオミは静かに、甘く。睦言の様に囁いた。
 「アンタの甘さじゃなく、憎しみをくれよ、ヤクモ」
 自分がそうだったのだ。憎しみは何よりも強く、相手を忘れない昏い意思だ。生きる絶望であり希望だ。
 ヤクモにあったのは慰藉や献身で、それはとても優しくて柔らかくて、時には溺れそうなくらいの幸福や情があったが、それはこうして仕舞うだけで容易く失われるものだ。
 幸福は憎悪と違い継続される感情ではない。
 「その生きた感情で、俺を見ろ」
 憎んで、届かずにのたうって苦しんで、俺の事を只管に呪って憎んで、力無く屈服すればいい。
 嘗て俺がそうして来た様に。もう二度と俺を惑わせない様に、憎悪に汚れて生きればいい。
 その勁さで俺を──、見れば良い。

 ──お前は、その甘さで俺を、それでも赦すだろうか。

 (……………ああ、そうだ。多分、お前は俺をそれでもやっぱり赦そうとするんだろう。
 それならば、その抜け殻の様な中に、俺はどんな感情を詰め込んでやれば良いだろうか?)
 
 再度の問いにも、答えは全く変わらなかった。想像でしかないが、確信はある。
 どんな有り様になっても、此奴は莫迦みたいに真っ直ぐ其処に立つのだと。
 どんな有り様を求めても、此奴は思いを違えず底に在り続けるのだろうと。
 あの透徹とした瞳で、ただ「赦す」そんなやさしくて辛辣な弾劾を向けるのだろうと──確信は、あるのだ。

 そうして応えも無く手折れた侭の身体からそっと離れ、マサオミはヤクモを静かに見下ろした。
 傷だらけの身体は、それでも恐らくは諦めずに再び立ちふさがるだろう。そんな予感も恐らくは違えまい。
 それでも、その時。
 未だ莫迦みたいに俺を赦そうとしてくれているのだとしたら。
 未だ俺の目を醒まさせようとしてくれるのだとしたら。
 俺は。




40話直後。ヤクモってば一刻を争う時間の中で五行相克や五体同時攻撃を持ちかけずマサオミの説得ですよ。何やってんのもう。日和ってるのかのんびり屋さんなのか甘いのか…三つ目て事にしてます。いやだって極力式神倒したくなさそうだったし。アニメの展開上の都合ですよって云われたらそれまでですが、ここは夢を通す事に。

、それでも未だ信じていたい。夢見たさに夢を見ている。