、それでも求め世界を繋ぐ



 まるで波打ち際の砂に似ていた。
 波が来て、そして引いて。その度揺さぶられ潮汐の度に乾いたり水底へと沈んだりと。
 優しく、時には乱暴に翻弄され、ゆらゆらと、身体ごと意識が絶え間なく揺らぎ続け攪拌されている。
 それは微睡みの瞬間にもほど似ていた。
 揺りかごの中で見る夢にも似ていた。
 母親の胎の中にも多分似ていた。
 ゆらゆらと、ゆらゆらと、攪拌された身がやがてどろりと原形質になるまで融けだして、空いた孔から、開いた淵から溢れ出ていく。
 当然だ。砂は収まるべき場所に戻るし、眠りは醒めるし、夢は終わるし、子は胎から産まれ出るのだから。
 ゆらゆらと。この安らぎにも似た感覚からも抜け出さなければならない。
 それが、目を醒ますと云うことだ。
 融ける様なほどける様な意識を流しながらヤクモが薄く目蓋を開いてみれば、其処は暗闇によく似た無限の拡がりを持つ空間だった。
 端とも中心とも知れぬ地点に佇み、冴えの無い意識を掻き寄せて周囲を見回してみるが、探るものも知るべきものも触れるものもなにひとつ見当たらない。
 ただひとつ、立って微睡んでいたのかな、と違和感にのみ首を傾げて、ヤクモは上を見上げた。
 「──ッ」
 その瞬間、きん、と脳裏で何かが弾ける音が響き、同時に目前に新たな光景が現れている事に気付く。
 「……リク、コゲンタ……?」
 唐突に現れた憶え知る二人組の姿に、思わず茫然とするヤクモの眼前で彼らは楽しげに笑い合いながら歩いていた。伏魔殿だろうか、四季の有り様の美しいフィールドを穏やかな空気を纏って逍遥している。
 リクが、見回す花の名を次々に諳んじて行くコゲンタに感心すれば、節季を司る式神だから当然だとコゲンタが呆れた声を上げる。
 思わずその有り様に口元を綻ばせたヤクモの耳に、再びの耳鳴りが響いた。

 「(天流宗家)」

 「?!」
 何処からとも知れぬ声が脳に響き、反響するその声の出所を掴もうとヤクモが振り返ると、次にはまた別の光景がそこにあった。
 業火逆巻く伏魔殿。躍る妖怪達に符で果敢に挑んで行く若い闘神士。その傍らには黒い白虎の式神がじっと、彼を守る様に佇んでいる。
 「あれは、確か──」

 「(地流宗家)」

 「、!」
 以前伏魔殿で僅かの邂逅を果たした闘神士の名を呟きかけたヤクモの耳に、再度謎の声が響いて落ちた。スピーカーの音量を最大にしエコーをかけ過ぎた様なその声の、意味だけではなく存在感へと顔を顰めずにはいられない。
 両手で耳を覆った侭、地流宗家と呼ばれた闘神士──飛鳥ユーマと白虎のランゲツから視線を外せば、次にはまた別の闘神士と式神とが其処には居た。
 (これは……)
 気の強そうな女性、小狡そうな男、幼い少年。窺う間も、様々な闘神士達の、様々な場面が次々に映し出されていく。声は「天流」「地流」と彼らを恰も判別するかの様にその都度響いてきていた。

 「(神流)」

 やがて呼ばれたその言葉に頭を巡らせれば、そこにはまたしてもよく憶え知った姿が居た。大神マサオミと青龍のキバチヨ。
 映写機のフィルムを回していくかの様に、ヤクモの端的な理解だけを待って更に場面は移る。
 世界を覆い尽くす式神達の争い。天流総本社へ憎悪を向ける宗家だった男。嘗ての天流宗家らしき夫妻の姿や閉ざされた天流の者達。嘆く神流闘神士達の怨嗟の声。がむしゃらに花畑を、封印を掘り返さんとする幼いマサオミの姿。
 見た事などない筈のそれらが不可解な理解と共に流れつづけていく。頭の中へと直接情報を叩き込まれている様な、名状しがたいそれは、現象だった。
 それらの光景が唐突に消え、見える有り様が再び変容した。途端、ヤクモの周囲を何処から立ち上ったのか炎が包み込み、その現象に戦く間も無く足下に血を流した子供が斃れて来る。
 「、!」
 はっとなって周囲を見渡せば、炎の中には数え切れない程のヒトの亡骸が横たわっていた。炎に照らされ昼間の様に明るい空には爆撃機が爆弾を降らせ飛んでおり、その真下では鎧を着込んだ武士や粗末な武装をした農民とが殺し合いをしている。
 その理由は憎悪や怨恨、名誉、略奪、支配欲であったり、或いはもっと下らないものであったりした。ただその都度喪われるひとの命に、血に、咽び返る。
 この世界の刻んで来た、ありとあらゆる争いの歴史の、それは縮図だった。予告も前触れもなくヤクモの眼前に突如、何かの劇の様に現れたそれらの光景達は、飽きもせず殺戮と争いと略奪とを繰り返し続けている。

 「(人間は争いの歴史を繰り返し)」

 世界は幾度も蹂躙され、式神達の多くが名落宮へと堕ち、太極は徐々にバランスを崩していく。
 (……そうか、これは)
 やめてくれと叫びたくなる様な凄惨な光景が悲鳴を伴って演目を次々と転じていく。だがそれは劇や夢などではなく、全て現実に起こってきたことなのだ。
 (世界の記憶)
 流れる血も、焔と燃える憎悪も、下らない諍いも、命を摘み取るだけの争いも。全て、世界の見てきた、刻の流して来た、現実。
 歴史と云う名に刻まれた、人の数え切れないほどの過ち。
 その理解を待つかの様に、ヤクモの眼前に矢張り唐突に、その闘神士は姿を現した。
 「……マホロバ…っ!?」
 『──白き、清浄な世界を』
 思わず身構えるヤクモとは時空も空間も理も違えた所で『再生』されている現象たる彼は、そう謳う様に嗤うと、自らの闘神機を手に逆式の印を切り始める。

 「(闘神士も式神を己の権能として用い)」

 そんなマホロバの姿がどろりと黒いインクを紙に染み込ませる様にして消えると、次にはそこには白虎のランゲツが現れていた。
 『我は、究極に昇る』
 ランゲツは狂った金色の眼で太極神へと手を伸ばし、そして世界へと破壊の権化と化して襲いかかっていく。

 「(式神でさえも人間の心に狂わされた)」

 ぶつん、と、テレビのスイッチを切るかの様に、全てが融け合い全てを知らせんとしていた悪夢の様な光景が、始まった時同様に唐突に途切れた。
 我知らずかいていた冷や汗を拭い、ヤクモは再び暗闇へと戻った世界に佇んだ。いつしか密やかなものへと下がっていた声の出所を──前方を、ゆっくりと見据える。
 いつからそこにいたのか。あの時封印より顕れた、子供の様な人物が超然とそこに在る。
 ウツホ、とその名を口中で密やかに漏らし、然しヤクモは今までその名に感じていた危機意識の一切を不思議とそこに居る彼からは全く感じられないと云う事に気付く。

 「(これが、世界の記録。『僕』の記憶。人間の愚かしさの記実)」

 高く結った長い黒髪を揺らして、彼は恰も絶対者の様な瞳で世界を睥睨していた。然しその眼差しは世界を憂い、人間へと憐れみとも悲しみともつかない感情を向けている。

 「(即ち、人間こそが真にこの太極より滅びるべき、悪)」

 それはまるで託宣の様であった。そんな事を思える程に彼は純粋な子供の姿と云う神聖さを持ち、絶対的なひとつの観点で言葉を放っている。
 千二百年。或いはそれ以上の長き刻を、世界に愛され人間に斎まれて来た、ひとつの現象として。
 それは違う、と紡ぎ掛けた言葉をヤクモは呑んだ。今此処に在る彼は今この世界に顕現した彼そのものでは恐らく、ないからだ。
 (世界の記憶であって、同時に──ウツホの記憶なんだ、これは)
 劫火に灼かれる文明世界も、千年の美しき森の深奥に流れるひとしずくの源流も、全てを見て全てを識って全てを晒して。

 「(あの時の『僕』と同じ、式神に愛され世界を愛する者にならば解る筈だ)」

 「──うぁッ!?」
 そうして再び、人間の愚かさを知れとばかりに、ヤクモの脳に直接忌まわしく狂おしく美しく醜い世界の有り様が叩き込まれる。眼を閉じても耳を塞いでも、その激痛は全身の何処からも入り込み何処をも余す事なくヤクモの心を苛み浸していく。
 世界が嘆き、式神が哭き、人間が叫び、血は血で購われ、尽きる事無き欲が争いを次々に生みそして命を絶やし絶望の版図を拡げていく。
 それは世界の痛みだ。それはウツホと云う少年の感じた痛みだ。
 其は生誕の唄声。其は覚醒の産声。其は鼓動の呼声。其は呪いの歓声。
 しめやかな言祝ぎとささやかな祝祭。世界のはじまりとおわりとを線に引き、起原と終焉との交わるその点、天地開闢の時を待ち侘びる。
 其は死滅の紡ぎ手。其は熄滅の忌み子。其は崩壊の招き声。其はすべてを呪いすべてを厭いすべてを欲しすべてを祓いすべてを手に入れ全てを棄ててすべてを繋ぎすべてを巡らせすべてを祝福しすべてを違わせすべてを罵りすべてに裏切られたそうすべて、全て、総て、遍くすべての存在そのもの!
 人間に対するそれは圧倒的な絶望。憎悪。失意。摩耗した心の中で、それでも、と足掻かずにはいられない故の悲鳴。
 「──違う、人間は世界を、節季を、式神を、皆大事に思っている!守りたいと、そう願っている!
 人は、自然を、生命を、平穏な時を、幸福を、自らの美しいものと感じるものを、守りたいと思うものだ!だから、だから式神は人間を──、」
 身を灼く痛苦の中でヤクモがそう叫んだ瞬間に、焔が熄んだ。残滓も感触もなにひとつ残さず、あらゆる痛みが消滅する。

 「(……その心は、絆は、慥かに美しい。でも、もうそれをそう認められる心は『僕』の中には遺されていない)」

 黒髪の少年は悄然と俯いた。
 ──ああ、そうだ。これがもしも『彼』の記憶なのであれば。

 「(『僕』は世界を愛していた。『僕』は自然を慈しんでいた。『僕』は式神が好きだった。『僕』は君達の絆を美しいと思っていた)」

 彼はそう、独白する様に呟くと、何処を見定めたらよいのか解らないのか視線をふわりと宙に漂わせた。
 薄い色の瞳に尽きる事のない思いを宿して、涙を零す様に云う。

 「(『僕』は人間に好かれたかった。『僕』は皆と共に、生きたかった)」

 これは彼の欲した、唯一の願いなのではないだろうか。
 そうしてすすり泣きを漏らす少年に、ヤクモが思わず近づきかけたその刹那──

 「…………終わったんだよ。もう、な」

 「(もう、手遅れなんだ)」

 全く異なるふたつの声が同じ様な言葉を紡ぐのが聞こえ、それと同時にすべてが消え、すべてが醒めた。
 
 *
 
 「──」
 夢現の声を思い起こすよりも先に、ヤクモはゆっくりと目蓋を上げた。半身を浸す冷たさとそこに横たわっているらしい身の心地の悪さに眉を顰め、ゆっくりと頭と全身とに血と意識とを巡らせていく。
 「……ぅ」
 酷い頭痛がする。脳震盪を起こして意識を失っていた所為か、それとも他に何かあるのか。
 がんがんと脳を打つ痛みと、唐突に沸き起こった寒気と嘔吐感に唇を噛んで堪えて、口中に溜まっていた砂と砂利とを拭って吐き出す。錆の味が僅かにする辺り、何処かを切ったらしい。それが益々不快感を煽るのを振り切らんと、ヤクモは大きく息をついた。天井を見上げる。
 何処かの玄室を思わせる、暗く冷え切った空間。壁と天井が遙かに高く聳えるそこはいっそ厳粛な感さえ漂う『場』だ。
 然し今そこはその大半を崩落させており、中央には円形の巨大な孔を穿たれ、四方を囲っていた四大天の姿も持たない。
 伏魔殿最奥部に位置する、封印の間。否、元・封印の間と呼んだ方が良いかも知れない。其処に封じられていたものは既にその姿を消して仕舞っている。
 「…………」
 遅かった、と云う思いは後悔にはならず、ただ無力感とそれ以上の新たな使命感とをヤクモの心に与えていた。痛みや疲労感に下がりそうになる眉尻を彼は眉間に力を入れて堪えると、慎重に身体の状態を確認していく。
 真っ先に確認した右腕には新鮮な痛みがある。見れば瓦礫で傷つけたのか、二の腕の皮膚がざっくりと抉れていた。余り軽傷とは云えないが、外傷程度なら符で誤魔化す事は出来る。
 続けてそっと頭部に触れてみる。こちらも何処かで打ったか切ったかしたのか、こめかみに乾いた血が付着していたが、それ以外には何もない。
 更に続けて胸部、腹部、足。取り敢えずざっと見た限り、命に関わる致命的な部位へと外傷を負っている様子はなかった。
 眩暈や頭痛は貧血か脳震盪の所為だろう。吐き気も恐らくそこから来ている。頭は外傷が無くとも油断出来ない部位である為、ヤクモは少し慎重に己の記憶や意識、自らの覚醒反応や身体の動きを確認し、ひとまずそう云った方面に何の懸念もない事に安心した。
 「、ッぐ、…!」
 大丈夫だろうかと上体を起こした途端、胸部から腹部にかけて激痛が走り思わず蹲る。この痛みには憶えがある。どうやら肋骨を何本か持っていかれて仕舞ったらしい。
 取り敢えず今正に折れて臓器に刺さりっぱなし、などと云う深刻な状態にはない様で、動き方にさえ気をつければ暫くは保ちそうではあった。
 「っは…、」
 簡単にそう判じるとヤクモは腕をついて、質量を増した錯覚さえ憶える身体をよろよろと起こした。息を吐き吐き何とか真っ直ぐ座り直した所でふと右手を見下ろしてみればてのひらには紅い零神操機がしっかりと収められており、安心すると同時に、我ながら何処までも闘神士根性だなと少し苦笑が浮かぶ。
 「……皆、大丈夫か……?」
 零神操機にそっと声をかけてみる。最後の瞬間は確か大降神をしたキバチヨを砕きかけていた所だったので、式神達はその侭放り出されて仕舞った筈だ。あの時咄嗟に皆へと戻る様命じてはいたし、神操機が閉じている所を見ればちゃんと『戻っ』てはいる様だが、無事でいるかの確証は無い。
 『無論』
 『僕らの方はなんとかね』
 『無事であります、が、ヤクモ様は──』
 云いかけたブリュネの語尾が力無く途切れる。『繋が』った式神達には負傷の事も知れて仕舞っているだろうし、今のヤクモが気力体力共に侭ならない事を理解もしている筈だ。だからこそ今までヤクモの残る気力をこれ以上消耗させまいと大人しくしてくれていたのだろうから。
 「………余り愉快な状況、とは云えない、かも知れない」
 強がりや気休めが反射的に出て来るのはヤクモの習い性だが、どうせバレているんだし、と今回は割と正直にそう云うと、ずきずきと不規則な痛みを訴えて来る脇腹に手を添え、内臓を痛めているかも知れない新たな可能性には取り敢えず蓋をした。
 「でも大丈夫だ、心配は要らない」
 珍しくも自らに言い聞かせる様にそう呟き、ヤクモはひとまず落ち着いた所で周囲を軽く見回してみるが、辺りにはウツホの気配は疎かひとの気配も妖怪の気配も無い。
 マサオミがさっきまで其処に居た様な気がしたのは、気の所為だったのか。
 「……マサオミが、」
 『…うん?』
 疑問が気付けば声になっていたらしい。ヤクモの呟きに、神操機の裡からタンカムイの不審そうな声音と共に少々不満そうな感情とが漏れて来る。
 今の経緯を思えば当然の事だろう。本格的に神流の闘神士として牙を向き立ち塞がった彼を、どう見れば好意的と取って貰えるか、などとは考えるだけ無駄だ。
 「…、マサオミが、其処に居た様な気がしていたんだが……」
 暫し迷ったものの結局ヤクモは大人しく漏らしかけた疑問を口にする事にした。敵対し袂を分かったこの期に及んでまで敵の心配をするのかと思われかねない疑問ではあるが、どちらかと云えばヤクモが気にしていたのは、彼が『此処』に居た様な気のする錯覚そのものにだった。
 『あれから暫くその辺にはいたみたいですがねぇ?』
 『こちらもいちいち構っている余裕などなかったでおじゃるよ』
 碌でも無い感想を隠さない式神達の物言いに、ヤクモは「そうか」と小さく頷きを返した。前方を見据えて、ふと蘇る夢現の感覚に意識がふわりと寸時奪われる。
 最後に聞こえた声は、ウツホのものと、マサオミのものである様に思えた。片方は夢の中から、片方は現の中から。両者共違う様で同じ、刻限の事を示す言葉を告げてきた。
 マサオミが──何をしていたかなど知れないが──此処に居たと云う事は、あの夢現の体験を肯定するものであると取れる。
 封印より瞳を開いた、白髪の少年。そして先頃の夢に見た、世界を憂いていた黒髪の少年。どちらもウツホと呼ばれる存在である事は疑い様もない事実で、どちらも同じ思いを抱く存在である事も、慥かだ。
 「──」
 唐突に先程までより強くなった嘔吐感に息を呑んで、ヤクモは現実へと引き戻された。ふらついた身体を支えるべく手をついた事に因り、視界が紅く染まる程の激痛が身を容赦なく打ってくる。
 『ヤクモ様!』
 『しっかりしてよヤクモ!ねぇ!』
 呼吸さえも阻害する苦しさの前では、堪えずとも寧ろ悲鳴などは漏れなかった。みっともなく倒れ込みそうになった形で、顎先を伝う脂汗を乱暴に拭って大丈夫だとかぶりを振って返す。
 (こんな所で、こんな事をしている暇なんて、無いのに……!)
 もしもあれが、この場所で見た『彼』が夢や幻ではないと云うのならば──それにはきっと意味がある筈なのだ。
 そしてそれが、ヤクモの考えに違えないものであれば──まだ、救いの可能性は残っている筈だ。間に合わないなどと云う事は、無い筈だ。
 可能性があるのならば、諦める事などは出来ない。況してそれが『彼』の望みなのであれば。世界はもう、闘神士はもう、これ以上の悲劇を重ねずに済むかも知れない。祖先の罪悪も、突きつけられた現実も、購う事が適うかも知れない。
 「…………………夢を、見たんだ」
 『え?』と云う式神達の不可解そうな声には答えず、ヤクモはマントの隠しから符を取り出した。気力は常から見ると到底充分と云える定量には達していなかったが、負傷の痛苦に黙って苛まれて体力をこれ以上消耗するのも御免だ。それに何より、時間もない。
 実際には躊躇う間など殆ど無かった。ヤクモは符を自らの額に軽く当て、鎮痛の効能を発動させる。途端、視野さえも紅く染めていた痛みが対岸の火事ほどに遠くなる。この様子では余り保たないかも知れないが、今は何とか保たせるしかあるまい。せめて、天神町へ辿り着く迄の間程度は。
 『ヤクモ様…!』
 事態は急を要している。その為の英断であると悟ったのだろう、サネマロの心配そうな声にもう一度「大丈夫だ」と返して、ヤクモは遠く鈍い痛みを引き連れながら立ち上がった。薄暗い天井を見上げてみるが、降りて来る時に開いていた封印の孔はもう閉じて仕舞ったのか、上方からは針の穴ほどの光すら射して来ていない。取り敢えず隣接したフィールドの座標を浮かべ符を発動させれば、少々引っかかる感触を憶えながらも障子の姿をした界門が其処に開かれる。
 ウツホの復活と云う影響を受けて伏魔殿の有り様が変容させられている可能性は高い。今の引っかかり程度ならば問題はさほどないが、急いでいると云うのに回り道をさせられている様な意趣を感じないでもない。
 「夢──いや、記憶かも知れない。若しくは残留思念。それを『俺』が『此処』で見た事には、きっと意味がある筈なんだ」
 それが太極の望みならば。それが式神の望みならば。それが彼のほんとうの心ならば。それは、無視されて良いものでは決して無い。
 ヤクモは伏魔殿の裡で、天流の遺したあらゆる所行を目の当たりにしてきた。それらは、正しきものもあれば明らかに理違えた過ちも数多く存在していた。悲劇を冠する程の出来事も見て来た。
 ──然しだからこそ云える。真実を求め彷徨った挙げ句知った事は必ずしも善きものばかりでは無かったが、だからと云って目を背ける事が、認めず拒絶する事が良いことと云う訳では無いのだ。
 真実には意味がある。感情には願いがある。滅びにだって救いの可能性はある。悪夢を醒ます事は出来る。絶望した者へ伸べる手はある。
 「……だから。俺はこの事をリク達に伝えねばならない」
 夢現におとされた、ひとしずくのそれは恐らく──ねがい。
 『今』のウツホを止める事の出来る、願い。おかしいほど単純で簡単な事だと云うのに、それを伝えるべき『言葉』は存在していない。
 「『君達』の絆だけが、それを『彼』に伝える事が出来る筈だ」
 ウツホも、マサオミも。そして全ての闘神士達も──人間も。未だ彼らは間に合う筈だ。間に合わなければならない。
 「きっと、まだ間に合う」
 願う様に強く呟くと、ヤクモはふらつく身体を引き摺って界門へと飛び込んだ。
 絶望も憎しみも愛着も、触れなければ伝わらないのだ。そして人は他者の心を知る事のできる生き物だ。だから人は解り合える。だから人は想い合える。だから節季は人の世界を見捨てないし、式神は人を見放していないのだから。




40話直後その2。「いつヤクモが対ウツホの良策を知ったのか」の妄想箇条書きメモほぼそのまんま。
単純にウツホの四大天の力=ヤクモとぶつかり合うと反発して時空歪むよ、と云うばかりがヤクモに「出来なかった」理由じゃないと思うんです。「極めし者だけが〜」と言う事は、ウツホを救うには式神と極めまでの絆を結んだ闘神士の心が(ウツホの契約解除が入っても平気ってレベル)必要だと云う所まで理解しちゃってたと云う事で。
ヤクモも存分式神との絆は深いけれど、人間の創った流派章システムだと、五体も居る規格外だから極めレベルへ達せないのかなと思って泣けた。器用貧乏って奴ですね…。

、それでも未だ求めていたいから、夢ではなくこの世界へと。