1/365の本音 12月25日、クリスマス。 年の瀬迫るただでさえ忙しいこの季節、異国のお祭りだか神聖な日だかなんだかと言うその行事が江戸に輸入されて来たのは果たしていつの事だっただろうか。 その行事が、赤い服の爺さんが子供にプレゼントを配る日になったのはいつの事だっただろうか。 その行事が、恋人や大事な人達と甘いひとときを共に過ごす日になったのはいつの事だっただろうか。 「……え」 12月24日、クリスマスイヴ。 年の瀬迫るただでさえ忙しいこの季節。テロリストや犯罪者はこう言ったお祭り行事に便乗するものだからと、歳末特別警戒だかなんだかの実施で休暇など取れる訳もないだろうと言っていた男が、まさかその渦中の日に万事屋の電話を鳴らすなど、果たして予想だにし得ただろうか。 《…と、まぁそう言う訳だ。…おい、聞いてるのか万事屋》 そんな訳で。 黒電話の受話器を片手に、銀時がぽかんと口を開いた侭凝固したのも無理のない話だった。 * 時刻は午後九時を大きく回った頃。階下のスナックでパーティ…と言う名のどんちゃん騒ぎを繰り広げ、散々食い散らかし暴れ散らかしていた神楽が船を漕ぎ散らかし始めた。子供は夜が早い、とかではなく、単にはしゃぎ疲れである。 一旦階上へ連れ帰ろうと、鼻提灯を膨らませた神楽を担いだ銀時が万事屋の玄関を潜った丁度その時だった。 じりりんとけたたましく鳴り始め、一向に止む気配の無い電話のベルに、ほろ酔い気分の上に楽しくて上機嫌だったのもあって、銀時は当初応じる心算などまるで無かった。寧ろ逆に、こんな日にウルセーよと悪態をつきながら無視を決め込んで、殊更にのんびりとした動作で神楽を定春ごと押し入れに寝かしつける。 この間、大体数分程度か。然し電話のベルはまるで鳴り止む気配がない。根気が強いのかそれ程までに困っているのか重要な用件なのか。或いは単に暇なのか。 納戸の戸を閉めて玄関に戻りかかった銀時だったが、まるで袖を引っ張り泣く子供の様にベルを鳴らし続ける電話に結局は根負けした。負けた、と思うのは何となく癪だったので、この侭で居ると神楽が目を醒まして仕舞う、などと有り得ない言い訳を誰にともなくしながら、居間に向かうと渋々と受話器を持ち上げ、早口で一方的に捲し立てる。 「はいもしもしィ、万事屋は今日臨時休業ですゥ。下着の色とかは承れませんが仕事なら後日改めておかけ直しを」 《なんだ、居るんじゃねぇか》 戻しかけた受話器の向こうからふと聞こえた、こんな時期のこんな日のこんな時間にこんな長時間電話を鳴らすとは到底思えない男の声に、銀時の全身の動きは綺麗に停止した。思考も発条切れの人形の様にぎこちなく止まって、ただぽかんと口と目とを開いて固まって仕舞う。 その1、幻聴。その2、ドッキリ。その3、勘違い。さあお好きな答えをどうぞ? 下らない悪戯に付き合う男ではないから2はない。 自分がこの男の声を、受話器越しとは言え聞き間違えるとは思えないから3もない。 因って、銀時が消去法で選んだのは1だった。きっと酔いすぎて都合の良い幻聴が聞こえて来たのだ。そうに違いない。 《生憎だが、依頼でもテメェの汚ぇパンツの色に興味がある訳でも無ぇよ》 ふ、とほんの僅かの吐息の様な間を挟んでから続く、男の少し不機嫌そうな声音が銀時の選んだ答えが正解ではないのだと雄弁に伝えて来る。 正解は欄外の4。土方本人である。 「土方?え?なんで??何?」 胸中の驚きがその侭狼狽になって出た。銀時は受話器を耳──と言うより頭蓋骨にめり込むぐらいに押しつけて食い入る様に問いを発すると、黒電話の本体を抱えて机に寄り掛かる様にして床に座り込んだ。驚きが過ぎて上手い事疑問も形にならない。 受話器の向こうからは喧噪の様なざわめきが聞こえて来る。と、なると居場所は真選組の屯所ではなく外だろうか。だが、警備中とか、とにかく任務や仕事に類する様な事の間は、絶対に私用でなど電話を掛けて寄越す様な鬼の副長ではない。いや、そもそも暇な時だとしても土方が万事屋の電話を鳴らした事など片手に余る回数程度しか憶えがない。しかも何れも、約束がご破算になった時とか、そう言った用件ばかりだった気がする。 だからまず銀時が考えたのは、何か緊急を要する様な事態が起こったのではないか、と言う事だった。 例えば、土方が今爆弾と一つの部屋にでも閉じ込められており、最期の時にせめて電話を── (いや、それは無い。絶対に無ぇわ) そんなドラマの様な展開を一瞬想像しかけた銀時だったが、直ぐ様頭を振ってその可能性を棄てる。仮にそんな頓狂な事態が起きたとして、土方がそんな一秒を争う時に悠長に銀時に最期の言葉を残そうなどと言う殊勝な事を考えるとは思えない。縦しんば電話をしたとして、近藤の所にだろう。 否、そもそもそんな覚悟を決めて潔く死ぬ様な性格の男でもない。電話で無駄話をしている暇があったら、生き延びる為の手段を僅かでも探して回るだろう。 甘いんだか苦いんだか知れない幻想を振り払って、銀時は受話器の向こうに再び意識を集中させた。携帯電話と思しき僅かのノイズの向こうには、賑やか、と言っていいだろうざわめきの音がしている。町中と言うよりどこかの人混みの中か。人の声や音が幾つも混じって、一つの騒音になって聞こえて来る。 と、なると矢張り警備活動中だろうか?その最中、何か重要な理由があってわざわざ電話を? 色々と思考を巡らせながら、受話器の向こうからの続きを待つ銀時の耳へと、次の瞬間何故か溜息混じりに飛び込んで来たのは、大凡聞き慣れない様な類の言葉だった。 《今、暇か》 正確には。言葉自体は然程不自然なものでもないだろう。問題なのは寧ろ、そんな問いを発した人物が常々その『暇』とやらを、他人に尋ねる程に持て余しているのをついぞ見たこともない事に因る。 今度こそ、銀時は己の聞き間違いか幻聴を疑った。 付き合い始めて三ヶ月少々。土方の口から、銀時の都合を問う類の言葉など、出た事が果たしてあっただろうか。 否、無い。 はいィ?と。これ以上は無く呆気に取られた疑問符がそれでも喉から出て行かなかったのは、単に動揺──と言うより、意味が理解出来なかったからだ。 何せ。 12月に入った所で、駄目もとで土方に「クリスマスとか年末年始の予定は?」と訊いてみたのは銀時の方だったからだ。 どうせ無駄だろうとは思ってはいたし、仮に暇だったとして、『あの』土方相手に甘い恋人同士の様な展開を期待していた訳ではない(無論全くしていなかった訳ではないのだが)。 なお、『あの』にかかるのは、仕事にはお固い、とか、仕事にだけは糞真面目、とか、仕事馬鹿、とか。そんな評価である。 だが、一応は世間的に言う『オツキアイ』をしている(筈の)身なのだ。一応はそれらしいイベントを期待してみる事ぐらいは許されるだろう。寧ろ特別行事を見過ごすなど男の沽券や甲斐性に関わる問題だ。 ……まあこの場合、残念ながら相手も男であり、更には『そういった』一般的に浸透しつつある恋愛イベントや行事には興味など欠片も示してはくれそうもない手合いでもあったのだが。 ともあれ、銀時がお伺いを立てた時の土方の返答は頗る悪いものだったと言わざるを得ない。土方的な認識では、行事や祭事は恋愛イベントではなく、イコールで犯罪行為と結びつくものでしか無いのだ。 テロリズムは示威活動。目立つ場所での目立つ人物の催し物こそ、テロリストにとっては恰好の目標になる。 テロの類が無くとも、年末は何かと金や人の動く季節であり、浮かれた人々を狙う犯罪者は多い。人混みでの掏摸に始まり、酔っ払い同士の喧嘩から刃傷沙汰、若者同士の乱痴気騒ぎ。最近ではサンタクロースの扮装をした泥棒まで出るとか、年々増える騒動は枚挙に暇がないと言う。 そんな背景を背負った土方の反応は、 「俺の職業を言ってみやがれ」 「おまわりさん?」 「だな。そう言う訳だ。諦めろ」 要約して銀時の記憶ではこんな感じだった。すげないなどと言うものではない。端から訊く耳すら持たないレベルである。 そう言った経緯もあって、銀時の理解がついて行けなかったのもまた、致し方のない話だろう。 暇か、と訊かれた。仕事で暇などこれっぽっちもないだろう土方の方から。しかもクリスマスイヴの夜に。 取り敢えず緊急性を要する『厭な』想像の類ではなさそうな事態だが、これもある意味では緊急事態と言えたかも知れない。意味を素早く斟酌してやる必要がありそうだ、と言う銀時の予感の様なものの囁くところではあるが。 だが、銀時が疑問符か引き延ばしの冗談かを探るより先に、受話器の向こうの声がふうと吐息を落とした。溜息ではなく、恐らく紫煙を吐いたのではないかと、なんとなくそんな事を思わせる響きのある間の、その延長線上で。 《話せば長くなるから省略するが、屯所を追い出されてる。で、いつもの飲み屋で今一人で飲んでるんだが、》 座り込んだ冷たい床に晒された、アルコールの入っている筈の体がなんとなく冷えた気がした。唐突な言葉に思考がついていかない。銀時からの申し出を断った日に、忙しいだろうこの日に、一人で飲んでいる、とは一体どう言う事なのか。 「お…おい、ひじか」 《で、一人酒も暇かと思ってテメェに声掛けてみる事にしたんだが──》 思わず上げた声に対する応えと言う訳ではないだろう。聞き慣れた声が、聞き慣れない様な言葉をさらりと紡いで行くのに。呆気に取られて銀時は口をぱくんと開いていた。 「……え」 12月24日、クリスマスイヴ。 12月25日、クリスマス。 これは、その。所謂アレではないだろうか。 いつからか親子や恋人向けの『特別』なイベントとなったその日を、少しでも共に過ごさないかとか言う、その、アレである。 (い、……いやいやいやいやいやいやナイナイナイナイナイナイ!?) 相手は土方だ。『あの』土方だ。 付き合って二ヶ月少々、甘いイベント事などひとつも経る事の無かった相手で、大凡『恋人』や『情人』などと言える通過儀礼など、非常に残念な事に未だ一つもしてはいない。正直に言えば、デートは疎か手すら繋げていない。 いや、それらの諸事情も結局の所『あの』土方だから、と言えば諦念を込めて納得出来て仕舞う様なものだ。 その土方が、犯罪者を追い掛け回したり、犯罪事を警戒したりで最も忙しい日の筈の今日。クリスマスだかイヴだか──そんな最中に『暇か』だの『暇かと思って』だの口にする事自体が、有り得ない。 故に銀時は軽い思考のパニックに陥った。 土方がそんなつまらない嘘や冗談を口にする筈はないから(そもそも仕事中ならばそんな暇がある訳がない)、質の悪い冗談やドッキリではまず、無い。 では『暇だ』と言う言い分は正しい事になる。と、なるとそれは土方曰くの『話せば長くなるから省略する』と言う部分に纏わる話になるのだろう。忙しい筈の──そもそも仕事で忙しいと、銀時の誘いを予め断っているのだ──『今日』にどうやれば、『屯所を追い出されてる』と言う状況に繋がるのか。まるで想像もつかない。それ以前に銀時の方に推測に足る材料がまるで無いのだ。 《…と、まぁそう言う訳だ。…おい、聞いてるのか万事屋》 思考停止に陥りかけて再起動中の銀時へと猶も続く土方の言葉には、少しだけ苦いものが混じっていた。 《……まぁ、テメェの方もまたいつもの連中で宴会でもしてんだろうから、端から無理言う心算はねぇし、なんとなく暇な奴ってんでテメェの面が浮かんだだけだ。悪かったな》 気にしないでくれ、と続ける土方の声に、再起動を強制的に完了させた銀時は黒電話を抱えた侭思わず立ち上がった。泡を食って声を上げる。 こうやって、さっさと結論に運ぼうとするのは土方の悪い性分だ、とは。既に知っている。 気を惹きたくて、身を、言葉を翻しているのだとしたら面倒な奴としか思えないが、この男に限ってそれはない。本気で、普通に、諦めと物わかりが良いだけなのだ。 「ちょ、ちょっと待てや。今から行くから。直ぐ行くから。いつもの店って、四丁目の『はなぶさ』だよな?」 ここで理由を今すぐ問い質すも、億劫そうな素振りも逆効果だろう。銀時が慌てて早口に言えば、逆に土方の方が鼻白む気配がした。まさか是の返答が来るとは思いもしなかった、と言った様子で、少し狼狽した様な声がおずおずと応える。 《あ、ああ。──いや、ただの気まぐれみてぇなもんだから、テメェ事優先させろや。ガキ共や他の連中と騒いでんの放り出す様な真似は、》 「神楽ははしゃぎ疲れてとっくに布団の住人だし、新八は階下で下手くそなカラオケ中。他の連中も酔い潰れてたり片付けたりしてるから問題ねーよ。何次会もやる騒ぎでもねーし、そもそも丁度終わった所だから電話に出た訳だしね?」 だから、丁度良いし飲み直しと洒落込むわ、と、出来るだけ軽い調子で何でも無い事の様に捲し立てると、「直ぐ行くから」と、念だけは再度押して、銀時は受話器を置いた。 本気で飲み直しをしたいぐらいに、酔いなぞ冷たい床に吸い込まれて醒めており、思わぬ事態への緊張感に喉はからからだった。 土方の状況は相変わらず知れないが、取り敢えず『お誘い』を受けた事は事実である。しかも、行き慣れた居酒屋とは言え、恋人同士のイベントなぞと謳われる今日この日に。12月24日(25日目前)に、だ。 受話器を置いた黒電話を乱暴に卓に戻すなり、銀時は寝室の長押に掛けてあった羽織とマフラーとを引ったくる様に取って、ブーツをつっかけながら玄関を飛び出した。何で俺普段からブーツなんて履いてるんだ、と己に悪態をつきながら、片足づつぴょこぴょこ跳ねて進み何とか足を走れる程度まで押し込む。 呑む、と言った手前、土方がまさか銀時が駆けつける前に立ち去るとは思ってはいないが、何しろ相手は『忙しい』お巡りさんである。今は何かの事情で『暇』な様だが、一分後には緊急招集がないとは言い切れない。 そもそもそれ以前に。 『あの』土方が、忙しいと言った身で、銀時に電話を寄越したのだ。この日に。一緒に呑まないかと、言って寄越したのだ(!!)。※この部分は強調線を引いておきたいぐらい重要である。 当然土方とて、自分に誘いを断られた銀時が、子供らや知己らと宴会めいた事をやっているだろう事は承知の上だった筈だ。それでも、電話に出ないものかと思って──気まぐれ、などと言いながら、出はしないだろうかと僅かの期待をして、ベルをずっと鳴らし続けていたのだ。留守電がついていなくて良かった。本当に良かった。神楽が丁度良く眠ってくれて良かった。上で寝かせようと思って本当に良かった。 それを、一分でも余計に、一人で置いておける筈があるだろうか。 無い。少なくとも銀時には、無い。 そんな生半可な惚れ方しかしていないのであれば、誰が好き好んで犬猿の仲の、しかも男に告白なぞするものか。 走りながら羽織に袖を通して、マフラーを適当に巻いて。銀時は夜半を過ぎて猶、カップルや酔客に浮かれる町中をひた走った。 理由なぞ、事情なぞ、後で訊けばいい。 今はとにかく、一刻も早く土方の顔が見たかった。 自分の到着を待ってくれているだろう、恋人に──『この日』に、会えると言う事実が、嬉しくて仕方が無かった。 * 二月前の誕生日の事だった。 誕生日、とは言っても本当の生まれ日とも知れない日付、10月10日だ。だが、その日は神楽も新八も他の連中も、毎年の様に皆揃って祝いめいた真似をしてくれる日だった。 お登勢が、客に貰ったとかなんとかで珍しくも良い酒を開けてくれて、しこたま呑んで浮かれていた銀時は、酔い冷ましに飲もうとしていたいちご牛乳が冷蔵庫に無い事に気付き、深夜だし億劫だが仕方がないとコンビニまでふらりと出掛けて── その帰り道だったか。密かな片思いの相手でもあった土方に遭遇した。 ……ぶっちゃけると、具体的にどんな遣り取りがあったかは記憶に定かではないのだが、酔いの所為か誕生日と言う浮かれた日の所為か。銀時はつい気合いを振り絞って(少なくともその心算で)、土方に思いの丈を告白して。 それ自体常の自分を思えば信じ難い事だったのだが、そこに来て更に信じ難い事に、土方から返った返答は諾だった。 要するに、受け入れて貰えたのである。 ほろ酔いの男の口にした、世迷い事としか言い様のない告白劇の、一体何がどう土方の琴線に触れたのかは解らない。だが、思えば確かに互いに憎からず想う様なものはあったのだろうと、今になって確信めいて思う。 好き、なのかどうか、と言う細かい理由は何となく訊かない上に言わない侭来て仕舞ったが、現状は嘘ではないし、演技で他人に付き合える程にお互い器用な男でもない。 ともあれ、銀時の告白は叶い、土方との所謂『オツキアイ』が始まった。のだが。 特にそれから何がどう変わったと言う訳でも、無い。特に示し合わせずとも互いに慣れた飲み屋で、概ね決まった時間や土方の非番の度に会って、飲んで。 ……それだけである。告白する前と変わったのは、その遭遇が『偶々』ではなく、それなりに『得た』ものだと言うぐらいで。 そうやって出会う回数は大分重ねた。だが、テイクアウト的なコースに突入したいと言う銀時の内心の本音は、それに対する土方の白い反応を考えると到底恐ろしくて言い出せたものではなかった。 そう、ここまでの経緯で既に理解は容易。土方は『あの』と言う形容が正に相応しい程に、恋愛事情に関して淡泊だったのだ。慣れていない初々しさと言うより、単に恋愛事に関心がまるで無いだけ。少なくとも銀時の抱いた感想はその一言に尽きた。 銀時は、土方に告白し受け入れて貰えた事実で、少なからず浮かれていた。心地も大分浮上しっ放しだったし、それは土方に会えば猶更の事だった。 だが肝心の土方の方はそうでも無い様で。目に見えて浮かれた様子などはこれっぽっちもなかったし、態度も告白以前の、飲み屋で会う度なんとなく一緒に飲んだり喧嘩したりと言った様子からまるで変わらない。 恋愛に浮かれる気配が無ければ当然なのか、仕事が最優先なのも変わらない。恋愛的なイベント事など以ての外だった。 例えば。付き合って一ヶ月記念じゃね?と11月10日に、たった今気付いた素振りで言ってみた時は、信じられないぐらい可哀想なものを見る様な目を向けられて軽く落ち込んだものだ。 まあそれらは別段期待はずれだった訳ではなく、寧ろ「まあそうですよねー(棒」と得心して言える所なのだが、正直銀時としては物足りない心地が常にあった。甘ったるい展開などこの年齢で、それも『あの』土方相手だ、過剰に期待はしていないが、もう少し恋人らしい何か進展や行事があっても良いのではないだろうか、と。 それ故の、12月頭の誘いであった。すげなく断られはしたが、そう言う願望があるのだ、と言うアピールはした心算である。そう、それこそが重要な点だった。 無駄と解っていても恋人同士のイベントに、それらしい『期待』があるのだ、と言う主張だ。果たしてそれが、今日こそ土方に通じたのだろうか。 思えばこそ、銀時の足は否応なく速まる。 期待通りになど、無論いかない事も考えてはいる。その程度の分別はある心算だ。 だが。とにかく、早く土方に会いたかったのだ。 12月24日。クリスマスイヴ。 誰が言ったか、恋人同士が大事な時間を過ごす、かも知れないこの日に会える僥倖など、到底有り得る筈のないものだった。 土方自身に他意がなくとも。散々迷った挙げ句、長くベルを鳴らして一人で待っていたのだろう男が、果たして何を、どう思っていたのか。思ってくれていたのか。 それが知りたくて堪らなかった。 * 飲み屋が多く軒を連ねる繁華街から少し離れた市街地に、ぽつりとした風情でその居酒屋はある。 乾いた冬の空気を赤く照らす赤提灯の下がる軒先はほの明るく、足繁く通う常連客を屋号の染め抜かれた藍色の暖簾で迎えてくれる。 居酒屋と言うより小料理屋と言ったものだと女将は主張しており、日中は食堂としても営業している。だが生憎かぶき町の客層からすれば、美味い料理の評判の飲み屋扱いである。 店内は広く、カウンター向かいの席が数席と、壁際のテーブル席が五組。そして後は座敷の席が三つ。カウンター近くの吊り棚にはテレビが置かれており、スポーツ中継やめぼしい番組の無い時は女将の旦那の趣味だと言う落語のDVDが流されている。店員も家族のみと言う、良くも悪くもアットホームな雰囲気と言えた。 はなぶさ、と白く染め抜かれた暖簾を頭に被った侭、銀時はぜいぜいと息を切らせて店の戸を開けて店内に飛び込んだ。 「いらっしゃい。……おやまぁ銀さん、どうしたの、そんなに慌てて」 店内の酔客の注視を寸時一身に浴びた銀時は、ふらふらとカウンターに凭れて、驚いた、と言うよりは呆れた様な声を上げる女将に向けて、 「駆けつけ三杯、水で」 と、息を整えながら言って、直ぐさま店内をぐるりと見回した。と言っても土方が陣取る席はいつも座敷の端だ。専用にキープして貰っている訳ではないが、一人で座敷の席に上がる者も少ないからか、大概の場合は二人揃っていつも同じ席で落ち合える。 案の定か、探すまでもなく土方はいつもの、一番端の座敷席の、壁側に座していた。ちらりと銀時を見て寄越すその手には既に御猪口がある。どうやら先に始めているらしい。 こんな日に居酒屋に来るのは独り者か暇な連中が殆どの様で、店内には店の人間以外に女っ気など無い。だが、一応は目出度い行事、と言う認識が広まっているからなのか。料理にはいつもは憶えの無い様な鶏料理や異国の珍しいツマミなどが供されているし、テレビはクリスマスの特番だかなんだか、クリスマスソングを流す歌番組が聞き覚えのあるメロディを奏でている。心なし酔客らもいつもより上機嫌な者が多く、店内はいつもに増して賑やかに見えた。 そんな観察が一周回るころ、女将が水をたっぷり注いだグラスを出してくれたのを受け取って、礼を言って一気に干すと、銀時は猶も息を整えながらそそくさと座敷の席に向かった。 ブーツを脱いで座敷に上がって、軽く御猪口を持ち上げてみせる土方の向かいに座ると、思い出して暑苦しいマフラーと羽織とを脱いだ。水を思い切りやった反動でか、真冬だと言うのにどっと汗が出る。 そうしながらざっと卓の上を見れば、もう既に結構な量の酒が干されている事にまず驚いた。種類も日本酒洋酒と多様である。が、取り敢えず特に何を言うでもなく、足りなさそうなツマミを幾つか頼んで、それから用意されていたもう一つの御猪口を手に取った。 すれば、間髪入れずに注がれる酒。挨拶代わりにこつんと互いの御猪口をぶつけあって、同時に軽く干す。 「悪ィな、急に」 先にそう切り出したのは土方の方だった。銀時は、ともすれば首根っこを掴んでああだこうだと聞き出したい、言いたい衝動に駆られるがなんとかそれを押し留めて言う。 「珍しいじゃん、お前がこんな日に誘い寄越すなんて。一体どうしたんだよ?」 珍しいどころか初めての事だ。こんな日に、ではなく、誘いを寄越す、と言う点が既に初めてなのだ。 そうは思ったが、飽く迄ソフトに。お前今日は忙しいんじゃないのか、などと言う核心からは離れた所から軽く突いて見る事にした。 何せいつもは無い様な事態だ。状況的にも日取り的にも。余りがっついて見えるのも、下心が浮き彫りになるのも出来れば避けたい。 銀時としては飽く迄アピールを繰り返すのみの攻め方で此処までを来ている。土方の頑なさや淡泊さを思えば、下手に銀時が押せ押せで掛かると鬱陶しいとも取られかねない、と言う懸念からである。 すれば、土方は眉を僅かに寄せると猪口に自ら新しい酒を注いで、それを一気に干した。 「予定外の暇が出来ちまったんだ」 そう、酒の勢いで口を滑らかにでもしようと言う様に、不承不承の調子で言いながら、土方は更に徳利を傾けた。 以下。途切れ途切れの話を要約するとこうである。 今年は将軍が他星でクリスマスバカンスを過ごすとの事で、見廻組がその警護に当たっており、真選組は例年あった将軍家まわりの催し物の護衛任から外れる事となった。この時点で既に、お上を標的にしたテロの懸念は江戸から概ね消えたと言っても良い。 そこに来て、つい先週、大規模テロの予告をしていた攘夷党が一斉検挙された。念の為に予告された地点の警備は強化したが、結局今のところ何も起こらず仕舞いである。 これらの事情もあって、真選組内部にも例年より余裕が生まれていた。流石に有給は家族持ちの者などにしか許可されなかったが、隊士らの一部は24、25日はローテーションで休み時間を取って家族や恋人などと過ごす時間を何とか確保する運びとなった。そのぐらいは人員にもスケジュールにも調整の余地が出来ていたのだ。 当然土方は、余裕と言う名の気の弛みに難色を示したのだが、近藤の「なぁに、テロ予告をした連中は検挙したんだし、今年は何も起きんさ」と言う一言が最終的には通り。 残る屯所待機組も、アルコールは禁止ながら軽く宴席を開く許可まで流れる侭に勝ち取る事に成功したのであった。圧倒的票差の生まれた結果に、土方が民主主義を呪ったのは言う迄もない。 ここまで来ても土方には気を抜く心算は──要するに休む心算はこれっぽっちも無かったのだが、沖田に「アンタが屯所で難しい面してると、隊士どもは息抜きのパーティも楽しめやしねーそうですぜィ」などと、微妙に心に刺さる一言を投げられたのだと言う。 そもそも、日頃からどんなに平和だろうと警戒は怠るなと常に眉を吊り上げてかかるのが鬼の副長だが、この時期だけは沖田以外の部下にも後ろから刺されてもおかしくない自覚はある土方である。極力家族持ちや婚約者持ちの隊士には優遇措置(と解るものは少ないが)を施しているとは言え、局長でさえも「何も起きないだろう」とどんと構える中では、副長として我だけを通すのも体面が悪い。表向きにも、隊内向きにも、だ。 そこに来て、本格的に何事も起こりそうもない侭、酒のない宴会がしめやかに営まれ(宴会にしめやかと掛かるのもそもそもどうなのだ)、一人苛立ちながら雑務を行う副長が屯所内を行ったり来たりしている現状。 誰にどう嫌われようがまるで気にする心算はない土方だったが、宴会に参加し部下との親睦を深めたりなぞしている近藤と、そんな様子を具に報告した挙げ句に「この状況じゃアンタが邪魔だ」と辛辣に言って寄越す沖田とに押される形になり、他のローテーションで休み時間を取っている隊士同様に、三時間は暇を潰せ、と屯所から半ば無理矢理追い出されて来たと言う訳である。 無論、何かあったら直ぐ連絡は入れろと何度も言い含めはしたと言うが、実際屯所を出た後は、何で俺が追い出されなきゃならないんだと直ぐさま苛立ちは鬱積したフラストレーションモードに移行し。 こうなりゃ、休めと言われた通りに休み時間を満喫してやろうと開き直って(緊急事態が起きたら直ぐに酔いなぞ醒ませる自信があったのもある)、飲みに出る事を決め込んで。 ……そうして今に至る。 成程、確かに土方にとっては不本意且つ『予定外の』暇に違いない。頷きながら、銀時は途中から半ば酔っ払いの愚痴となりつつつある話を脳内でまとめて、得心に頷くのだった。 重い心情を表すかの様に、ひたすら酒で滑りを良くした喉が一連の事情を言い終える頃には、土方はすっかり出来上がって仕舞っていた。 「おい万事屋ァ、テメェ人の話聞ーてんのか?」 据わった目で言う土方は既にぐだぐだになっており、銀時は内心そっと溜息をつかずにいられない。 (クリスマスだから会いたい、なんつー甘い話じゃやっぱ無かった訳だけど、よ) 実のところ、落胆半分、喜悦半分である。寧ろタナボタ、と言うべきか。 偶さかの話とは言え、土方が曰く『暇』な一人酒の相手に銀時を、葛藤をしつつもいつまでも電話を鳴らして呼び出したと言う事は、愚痴の相手にしたかった、と言う訳だけではないだろう。そうだとしたら出ない可能性の高い電話を延々鳴らして待っている筈などない。そんな事で愚痴の原因を余計募らせるのは矛盾している。 まあ、理由はどうあれ。経緯はどうあれ。土方は気楽に一人で飲むよりも、銀時を誘ってみる事を選んだのだ。何せ一度は断った『今日』だ。暇を満喫した銀時が子供らやいつもの面子と騒いでいる可能性は当然頭にあっただろう。それでも、来てくれる様な奇跡は無いかと。そんな事を心の何処かで考えながら、一人杯を傾けて素っ気ないコール音を聞いていたのか、と思えば、堪らなくなる。 (バカンスに行ってくれた将軍ありがとう。捕まってくれたアホの攘夷志士共ありがとう。つーか沖田くんありがとう) 追加注文したビールのジョッキに向けて胸中で手を合わせて、銀時は晴れやかな心地でちびちびとアルコールを喉に流し込む。 現状に至るまでの愚痴や事情──土方の不穏な心中はどうあれ、一応はクリスマスイヴに逢瀬の叶った恋人同士、である。もうこの際脳内の日記には、土方がこっそり屯所を抜け出して会いに来てくれたのだと記しても良い気さえする。 なにしろ。 「おい…、万事屋ァ」 「はいはい、聞いてる、聞いてますって」 ずい、と卓の上に身を乗り出して来る土方を宥める様に押し戻しながら、銀時はこっそりと胡座をかき直した。そっと目を泳がせながらジョッキを卓に戻し、なんとか自らの視界を遮る様に置く。 眼前の土方の様は、酔っ払いの体そのものだった。暑さでか寛げた着流しの前合わせは大きく開かれているし、顔はアルコールで紅潮している上、目などいつもの鋭い目つきは何処へやったのか、弛んで潤んでいる始末。それらの光景を金色の麦酒ひとつで遮断しようと言うのも無理がある。 これもこの際だからぶっちゃけて仕舞えば、土方は酒癖が酷く悪かった。…と言うより、銀時と飲んでいると──無論付き合い始めてからだが──油断が多くなるのか、前後不覚になりそうなぐらいに潰れる事が多い。そしてそれは『今日』でも変わらない様だ。 (銀さん、毎回毎回理性がヤバいんですけど。銀さんじゃなくてギンギンさんになりそうなんですけど) 土方がこうなって仕舞うと銀時の脳内は、轟け理性頼む俺、やれば出来る子だから俺。と念仏を唱える僧侶の様な状態にならざるを得なくなる。いっそ同じぐらいにぐでぐでに酔っぱらって仕舞えば、と思った回数数知れず。それはイカンでしょ、と踏み留まった回数それと同じく。 今日はクリスマスイヴだ。土方に『そのつもり』がなくとも、万が一──許される、のではないだろうか、と言う期待がまるでない、とは言い切れないのが、残念ながら悲しい男の性である。 反応しそうな息子を誤魔化す様に何度も姿勢を整えながら、銀時は土方の愚痴や振って来る話(所詮酔っ払いの話である)を気も漫ろにいなし続ける。 期待をしても良いのか、それとも悪いのか。 今日、だからと何もかもが許される訳ではない。だから、今日、に会えた僥倖だけでも享受すればそれでいいのかも知れない。 だが、恋人同士のイベント事に分類されるだろう日に期待を何らするなと言う方が無理なのではないだろうか。 銀時の念仏じみた思考が何とかその辺りの妥協案に着地を試みたその時、ふ、と対面の土方の表情が曇った。僅か俯いたその顔に店内の灯りが落ちて、長い睫毛がまるで狙った様に憂いを帯びた陰をそこに作る。 「……やっぱ、怒ってんだろ」 「へ?」 悄然としたその姿に何となく見惚れていた狭間に、今ひとつ繋がらない言葉が飛び込んで来て、銀時はぱちりと瞬きをした。 ゆっくりと顔を起こした土方の黒い双眸はとろりと潤んでいて──(いやいやいや、それは酔っているだけだから!)──憂いの乗った表情と併せて、未亡人的な印象を見る者に与えて来る。その顔を彩る深い悲しみの色もまた魅力的なのだが、それを晴らす事が出来ればどんなに素晴らしい事だろうか、と。そんな錯覚を。 落ち着け落ち着け、と己に言い聞かせる銀時の前で、そんな様子にはまるで気付く由も無い土方が続ける。 「ここんとこ、大きいヤマとか急な事件も多かったし、年末で忙しいしで、テメェとの約束とか誘いを三回反故にしちまったのを、やっぱ怒ってんだろ…」 「や。四回な」 「……俺だってそりゃあ、一応テメェと付き合ってんだし、譲歩とか色々してやりてぇとは、少しは思ってんだよこれでも…」 (え、なにこれ。どういう流れ?) 呆気に取られて思う銀時の前で、土方は泣き上戸にでも入ったのか、ぐず、と鼻を鳴らして、常ならば大凡出て来ない様な事を──問題発言と分類しても良い──つらつらと唱えては御猪口を煽っている。 銀時評するところの恋愛音痴の土方からは到底出そうもなかった類の発言の幾つかを反芻して、銀時は思わず頭を抱えた。何これ、何だこれ、反則だろうこれ。 よりによって今日のこの日に。町中のカップルにでもアテられたのか、どんな恋の魔法が働いているのか。知らない。が。 「いや気にしてねーから!全然、全く、何とも思ってねーから!」 流石に泣いてはいないが、ぐすりと鼻を鳴らす土方に銀時は慌ててそう叫ぶ。自分がもしもそんな器の狭い男だったら、そもそも一ヶ月もしない内に二人の関係は終わっていただろう。 繰り返すが、生半可な惚れ方はしていない。そこにだけは自信がある。自信は別名で惚れた弱みとも言う。 「何とも思ってねーのかよ…」 「なんでそこで落ち込むの!?いやほんとマジで!怒ってねーから!」 「……本当にか?」 「ホントホント!!」 鼻を鳴らすのを止めてじとりと見上げて来る(寧ろ睨んでいる勢いだった)土方にこくこくと頷いてやれば。 数回の瞬きをした土方が、ふにゃりと相好を崩した。 「………そかぁ」 笑った、クララが笑った。立ったどころかタップダンスして笑ってた。 訳の解らない想像と共に銀時は顔を手で覆ってその場に突っ伏した。座敷の端から端までごろごろと転がって行きたい衝動を堪えて、丸めた座布団をぼすぼすと殴りつける。 (なんだコレ、何の罠?!何の仕業?!クリスマス補正とかそういうアレじゃなくってもう、何この……ナニ???!!) 言ったら殺されるかも知れない。でも言おう。可愛い。 (何だコイツ、なんで今日に限ってこんなしおらしいの?!つーか可愛いの?!) 大凡、かわいい、などと言う形容の似合う男ではない、常の鬼さんを想像してみれば、そのギャップがシュールな笑いを通り越して寧ろ倒錯的ですらあった。 ストレスと苛立ちと酒とクリスマス効果?原因の成分なぞ知れないが、土方の気が程良い具合に抜けて仕舞ったのは事実の様だった。サンタさんありがとう、と思わず銀時は天を(天井を)仰いだ。 出番か?とばかりに存在感を主張しようとしてくる息子を宥めようか宥めまいか、銀時は半ば真剣に悩みながらよろよろと起き上がった。 そう言えば、三時間とか言っていた。シンデレラの魔法が解けるまで向こう二時間程度だろうか。誰が謀った訳でもあるまいに、ギリギリ『今日』の中、ではある。 どんなに酔い潰れて前後不覚だとして、どんなにらしくない姿を今晒していたとして。休憩時間が終われば、土方はそれこそ魔法の解けたシンデレラの様に元通りの帰路について仕舞うだろう。酔った頭を冷水で醒ましながら、また一人きりの部屋で警戒と仕事に励むのだろう。 どうしたものか、と呻きながら、銀時はかぶりを振って店内の時計を見上げた。もうそろそろ閉店の時刻も近い。店内の酔客も減っている。引き揚げるには丁度酔いタイミングである。『次』に移行するのにも。 呼び出したのはこっちだから奢る、と予め言っていた土方の意には甘える事にして、拝借した財布で勘定を済ませると、憶束ない足に草履をしっかりと履かせてやってから、肩を貸して店を出た。 途端晒される寒風と遠い繁華街との喧噪に晒され、ぶるりと体が震えた。住宅街だと言うのに、どこか遠くから流れて来る、『今日』を主張する様なクリスマスソングが銀時の躊躇いと忍耐とを揺さぶる。 余程腹を立てて飛びだして来たのか、羽織を一枚引っかけただけの土方が小さくくしゃみをしたので、銀時は自分のマフラーを解いて寒そうなその首に巻いてやった。酔いでか薄ら紅い耳元にごくりと生唾を飲んだのは秘密だ。 (この侭そのへん連れ込みてぇ…でも、休憩とか言ってたしそもそもコイツそういう気配全然出してこねーし、プラトニックな感じとか?そういう感じで良いみてーだし…。ああもうどうしよう俺。と言うか俺の一部) 憶束ない足下ではあるが、一応は立って歩いているので、肩を貸して歩いているこの状態では、大層心臓に…もとい息子に悪い事に、火照った土方の顔が直ぐ近くにある。 この侭一発どうですか、などと直球の問いは論外だ。何せ、繰り返すが『あの』土方である。今は酒の力だかフラストレーションだかクリスマス効果だかで、土方の気は大層弛んでいる。嘗て無い程に弛んでいる。その証拠に大凡信じ難い類の言葉が幾つもその口からぽろりとこぼれるのも聞いて仕舞っている。 だが、やっぱりはじめてならば、酒の勢いとかでなくもっとちゃんと素面で合意で行きたい所である。恋愛音痴の男相手であれば、猶更のこと。 ──いや、だからこそ『今日』ならどうだろうか、と囁く悪魔も直ぐ真横に居る。 裡の先入観と土方の性質もあって。銀時は実のところ土方との関係には酷く慎重でいた。いっそ臆病な程に。 はあ、と大きく吐き出した溜息が白く立ち上る。その向こうで、遠くの空が未だ明るいネオンの照り返しで街を見下ろしているのが見えた。 忙しい男だから。こんな風に、休憩を取れと無理矢理に屯所を追い出されてでも来なければ、土方にとって『今日』は犯罪を警戒して気を張り詰めるだけの日だったに違いない。 少しでも安らげただろうか、などと。我ながら若(あお)い発想だ。 その若さと不埒な願望とを一緒くたにまとめて呻いていた銀時に向けて、ふと土方が声を上げる。 「万事屋ァ」 どこか剣呑な響きだ。人気の少ない寒い街路を通り抜けて、少し冷えた川風にでも晒された事で酔いも醒めて来たのかもしれない。 「なァに…?」 修行僧修行僧、と心の中で連呼しながら銀時がそう応えれば、俯き加減でいた黒髪の頭が少しだけ持ち上がった。長い前髪の隙間に覗く切れ長の瞳が、すい、と細められる。 (アレ?笑った?) 至近距離の息遣いに銀時がそう思って首を傾げると、ふ、と息を吐くその調子の侭で、土方は続けてきた。 「キスくらいしても良いぜェ?」 そんな。正しく息を吐く様な爆弾に、銀時は思わず咽せた。 ぶふぉ、とか、ぶごふ、とか、蛙の潰れた様な声が上がるのに、土方は露骨に眉を寄せて胡乱な顔をする。 「……んだよ」 いやそんな、当たり前の様な口調でナニを。 目を白黒させる銀時の肩から手をするりと解いて、土方は常よりやや危うげな足取りでその場にひとりで立った。泡を食っている銀時の方がおかしい、とばかりの調子である。 「いや、ちょっとまって何、なんなのいきなりお前!酔ってんにも程があんだろ?!」 「酔ってねェ」 いや酔ってる。絶対酔ってます。 でなければこんな、坂道をダンプカーで駆け抜ける様な急展開…もとい変化は起こりはすまい。と、声無き抗議を上げる銀時をじっと見返して、土方は少しだけ不機嫌そうに唇を尖らせてみせた。 「だって、今日はアレなんだろ。大事な奴とか好きな奴と過ごす日だとか言って、休みは取れねぇのかってしつこく訊いて来たのはテメェの方だろが」 いや確かに訊きましたけど。 それを、仕事がある、と一刀両断して寄越したのはそもそも土方の方だった筈である。それが、なんで、しかもいきなりキスするだのしないだのと言う話になっているのか。 (酔ってるにしてもタチ悪過ぎんだろコレ…!) 訳の解らない──と言うよりは解りたくない様な、そんな馬鹿なと打ち消す声の方が大きい、そんな思考を必死で巡らせる銀時をじっと見つめて来る土方の声音に苛立ちに似たものが混じる。 「してぇのか、したくねぇのか」 むすりと問い返す、その唇の動きに、議題が議題だからかつい目が行って仕舞う。熱を持って薄ら紅い顔の中で、ほんのりと色づいた唇。僅か覗いた舌が少しカサついて見えるそこをちろりと舐めて湿らせる動きまで、妙に仔細に脳に飛び込んで来る。 (確かにしてぇけど!つーかそれ以上もしてぇけど!) 思わず銀時は胸中で吼えた。酔っ払い相手に馬鹿馬鹿しいとは思うのだが、酔った勢いと言うのもアリなのだろうか、と束の間考え、いやいやいやいや、と全力で打ち消す。 そんな銀時の懊悩を果たして見て取ったのか。土方は相変わらずの据わった目で、ふん、と実に思い切りの良さそうな息を吐いた。 「そんなに俺を抱きてぇのか?突っ込みてェのか?……まさか、たァ思うがツッコまれてぇ方?」 「わーーー!!」 無表情でずばずばと矢継ぎ早に続ける土方の口を思わず押さえて銀時は「ああもう」と呻いた。土方の悪酔いはタチが悪いのは事実だが、ここまで色々とブチ抜けた事を言い出すとは普通に思わなかった。 なんだこれ、なんの効果だ。一人苛々と酒を飲んでいたのがここまで響いたのか。そう言えば洋酒も日本酒もチャンポンに飲んではいた様だったが。 ともあれ。周囲に人気がなくて良かった。飲み屋の中で無くて本当に良かった。そうでなければ、後で素面に戻った土方が仕事と言う名の天の岩戸に向こう何ヶ月かは引き籠もりかねない。 土方の口を押さえて、後ろから羽交い締めにする様な体勢の侭、銀時はずりずりと、取り敢えず道の端へと移動した。川縁のこの辺りは幸い人家より倉庫や船宿の方が多い。 むご、と掌の下の抗議の音に溜息をついて、銀時は──諦めた。 「〜そりゃ抱きてェに決まってんだろ、好きなんだから仕方ねーだろ文句ありますかコノヤロー!」 半ば逆ギレ気味にそう断じてやれば、土方は銀時に抱え込まれた侭、頭を軽く振り向かせて来た。ぱちり、と瞬きをする黒瞳と目が出会い、改めて、今までにない距離感に狼狽えた銀時が思わず手を離せば、土方はその場で「く」と笑った。 (、う……嬉し、そう??) 突発的で意味の繋がらない事態に驚きかけていた息子が、再びの出番を察しでもしたのかじわりと存在を主張してくるのに、銀時はわざとらしく咳払いをした。本来冷たい筈の川風の温度すら余り感じないぐらいに熱い頭を冷やしたい。切実に。 クリスマス効果。それとも酔いの勢い?どちらを理性で掴めば良いのか判然としない侭、少なくとも銀時の今見た限りでは、『あの』土方にあるまじき話題での、想像だにしない良い反応に、結論がお手軽にも浮かびかかるのを留められそうもない。 「て、言うかお前はどうなんだよ。そう言う話題出した事もねーし、ちょっと触ろうとしたくれェで眉吊り上げるし……、お前の方こそ、やっぱ男と寝たくなんざ無ェのかと俺ァずっと悩んで」 そうして負けが込んだ末の『あの』土方だから仕方ない、と言う達観である。 声は自然と恨みがましさを潜ませたものになったが、土方はまたしてもあっさりと。 「一言で言えば、無ェな」 その、最早酔っているのか素面なのかも判然としない真っ向からの言葉は、銀時の頭に──首ではなく頭に──断頭台の刃が命中した、そのぐらいの衝撃を以て心を容赦なく打ち据えて来る。 (……ナニコレ。何??何のイヤガラセ?) これはやはり、土方なりの抗議か何かなのだろうか。銀時の不埒な思いを見抜いた上で、改めて釘を刺そうとでも言うのだろうか。こんな日の、こんな時に。 期待をしていなかった訳ではないが、叶わないだろうと思っていたのも事実で。それでも、叶えば良いなと願望だけは潜ませて、色々と言っていたのも事実で。 すれば、土方は不意に、酔い由来なのか良く知れぬ紅い顔の侭で実に綺麗な笑みを浮かべてみせた。 目の力を抜いて、口の端を僅か持ち上げる。それは顔の筋肉の形作る、多分ほんの少しの加減でしかない様な表情なのだが── 「てめー以外には、有り得ねェ」 悪戯も、計算も、邪念も何も無い、ただありの侭の様な。そんな笑い方だった。 「そ」 それって。 本日何度目かの凝固をした銀時へ、土方は静かな笑みの侭で続けて来る。 「今日が何の日だとか、そんなんは関係無ぇだろ。テメェはいちいちなんだかんだと、そればかり気にしてやがるが……、」 俺にとっては偶々『今日』に、久し振りにお前に会えるかも知れない時間が出来た、と言う。ただそれだけの話なんだ、と。 土方は酔いを脳の何処かに引き連れていても、口は軽いが理性はそこに保った侭で、そう、少しばかり残念そうに言うと銀時の方に背を向けた。 「何某の誕生日だろうが、何の日だろうが。テメェの欲してた言い訳に乗ってやれなくて悪かったな」 まぁ、こんな職業だしな。言って肩を竦める土方の袖を、思わず腕ごとに銀時は思い切り引っ張った。何処へ去ると言う訳でもないが、留める様に力を込める。 「待て、ちょっと待て。あのさ、俺も、『こんな日』だと思って誘いはしたけど、そうでなくても、一年だろーが毎日だろーが、お前に会いてぇっていつでも思うし……、その、」 12月24日。クリスマスイヴ。 恋人や家族、大事な人同士で過ごす日。誰が決めたか、そんな『常識』が声高に謳われる日。 だが、それは『特別』な事だから、と言うばかりではなく。 「なぁ、土方、」 手もまじまじと握った事のない、恋人のてのひらに指をそっと絡ませて、銀時は、ぐ、と喉を鳴らした。 恋人同士の行事と謳われる日だから、会いたかった訳ではない。断られると思いながらも誘ってみた訳ではない。『今日』偶さか空いた暇に会う相手として選んでくれた事実に浮かれた、それが全てではない。 そんな言い訳のイベントがいちいち必要なのか、と。そんな事を遠回しに言われて、果たしてこれは自分の甲斐性が無かったのかと銀時は己に呆れを憶える。それとも土方もまた、そんな言い訳が欲しい本音があったのだろうか。或いはそれこそ、『あの』土方だから、なのか。 だとしたら、ひょっとしたら自分は大馬鹿だったのかも知れない。 「今日、だから、とかじゃなくて、その……これから、」 乾いた喉を鳴らして、気合いを振り絞ってそう銀時が声を上げれば、土方は婉然と笑ってみせた。 「有り得ねェから却下」 要約。おことわりします。 流石に、今度の立ち直りは早かった。ダメージを感じるより先に憤慨が先立って、銀時は引きつった顔で「はァ?!」と唸る。 「何そのナマゴロシ?!ていうかお前な、そんなら散々煽ってんじゃねーよ!狼さん出ても責任取れねー場面だよコレ!薄皮一枚で生き延びてる銀さんの理性を褒め称えるべきだよ!」 もうこの際無理矢理何処かへ連れ込んで仕舞おうか。銀時がそんな物騒な──もとい無謀な思考を半ば本気で考えそうになった時、土方がまたあの笑みを浮かべるのが見えた。 「それ、その面」 「…は?」 「俺の事が欲しくて堪らねぇって、テメェのその面が好きなんだよ。生憎、テメェの期待してる様なお約束のイベント事なんてもんはそうそう叶えちゃられねぇが、テメェがそんな面してる限り──」 その先は、聞けなかった。否、続かなかった。 思うより先に動いている。銀時は土方の身体に真っ向から腕を回すと、その侭勢いを付けて肩の上へと担ぎ上げた。自分と殆ど変わらない身の丈と重さの男だ、軽い筈はない。だが、今なら何でも出来る気がした。根拠などないが、ただ頭にひたすら血が昇っていたし、アドレナリンも相当に出ているかもしれない。 「おい…、万事屋?」 「いや無理これ無理ありえねーわうんありえねぇ」 ぽかんと声を上げる肩上の荷物にぶつぶつとそう唱える様に呟いてから、銀時は、ああクソ、と遠くで未だ鳴り響いているのだろうクリスマスソングに向けて悪態をつく。 「それこそな、俺だってオメーの事、今日だとかそんなん抜きで、手前ェの好きに出来ねーかって思いながら見てんだ。畜生め、何が恋人同士の過ごす日だよ、何がクリスマスだよ。もうサイレントナイトが翔だよ。チャージしちゃう勢いだよ、今更なんぼ却下されたって止まれるかってんだ」 薄皮一枚で生き延びた筈の理性なぞ放り捨てて、雄の欲求を隠さず言い放てば、土方が寸時息を呑む気配が返る。 「今日がどうのじゃねぇ。今日、煽ったオメーが悪いだろコレ」 開き直って言いながら、銀時は適当な宿がどこか近くには無かっただろうか、と考えながら歩き出す。すれば、肩の上から苦笑がひとつ。 「あと二時間も無ェぞ?ついでに、帰っても仕事は残ってんだ。弁えやがれ」 宥める様な声からは既に酔いなど消えて、ただ子供の様に屈託のない笑いだけが残っている。そんな土方の、多分に相当に紅いだろう顔を想像して、銀時は満足気に笑った。 ああもう。こんな日だろうが、そうでなかろうが。そんなものは後からついてくるもので構うまい。理由が欲しければそう、くれてやれば良いだけの話だ。 「さァてね?何せ俺ァ、オメーの事が欲しくて堪んねぇっつぅ面してるみてェだから」 12月24日だろうが、25日だろうが、それ以外の日だろうが、知ったことか。 きっとこの二ヶ月どころかこれからも一年中、いつだって俺は、そう言う顔をして土方の事を見ているのだと、今そんな事実を教えられたばかりなのだから。 。 年中ムラムラします。 |