アリアドネの紅い糸 / 7 外に出ると、とっぷりと陽の落ちた村は最早真夜中の様な暗さと静けさを以て佇んでいた。矢張り原付を走らせてここから帰るとなると少しどころかかなり冷えそうだ。無理はせずに一旦宿場に立ち寄って、一晩を過ごす事を考えた方が賢明だろう。 「なぁ、この辺りで一番近い宿場までどの程度かかる?…あ、何ならこの村に宿的なもんがありゃそれでも良いんだけど」 工房の入り口まで一緒に出て来た仏師を振り返った銀時がそう問えば、彼は面の顎に手を当てて「ふむ」と思索する。面越しでは解り難いが、真剣に考えてくれているらしい様子は何となく解ったので、黙って続きを待つ。 「村はな…。昔は大きな豪農の屋敷があって旅人ぐらいは泊める事が出来ていたが、残念ながら今はもう無い。他の村人たちは余り余所者に良い顔はしないから、納屋を借りる事も難しいだろう。一番近い宿場までは、この時間だと徒歩で小一時間はかかるが…」 「あぁ、一応足はあるから、道さえ繋がってりゃなんとか」 足、と言いながら単車を運転する様なポーズを取ってみせれば、仏師は納得を示した様に頷いた。 「それならば一時間以内には辿り着けるだろう。町の方に出る道を行けば迷う事もあるまい。ただ、山道は暗いからくれぐれも気をつけた方が良い」 往路では朝と言う事もあって余り気にしていなかったのだが、田舎の道は舗装の状態に因っては車輌の通行は困難だし、街灯さえもあるかも怪しい。そこは銀時の懸念する所であったのだが、特に何も言われない以上は道に問題があると言う事も無さそうだ。 「良い鑿だったと伝えてくれ」 「おう。良い仏さん作って貰えりゃ、道具も道具を作った側も本望だろうよ」 ひらりと手を振る銀時に、然し仏師は笑みを浮かべた翁の面の奥で寸時黙り込んだ。 「そう思いたい所ではあるが、道具には心も目的も無い。誰かを救いたいなどと思い上がるのは人間だけの持つ悪い癖だ。利己的で手前勝手な、そればかりは已める事が出来ん」 「あんたの作る仏を拝んで救われた気になってる連中もいるんだろ。あんま理屈っぽい事言ってると、面倒なジジイだって呆れられちまわァ」 恐らくは、贖罪であれど気晴らしであれど、何かを押し殺して何か別の形に変換している以上、心には澱の様なものが嵩むのだろう。何処に吐いてもきっと意味の無い、独り言の様な仏師の重たい声音に向けて銀時は極力軽くそう言うと、「達者でな」と翁の面の職人に背を向けた。 「気をつけてお帰り」 気むずかしい老人と言うよりはまるで父母の様な調子でそう言われて、銀時は小さく笑いを噛み殺しながら門の方へと向かった。矢張りああ見えてそう年齢を重ねている訳でも無さそうだ。もしもあの仏師に子供でも居たら、全く印象の違う人間になっていた事だろう。そんな気がする。 果たして今は何時ぐらいなのだろうか。徒歩で小一時間、車輌でそれ未満で辿り着くと言う宿場には、ここから夜道を慎重に原付を走らせてどの程度かかるか。食事はどうするか。思い出した様に空腹を強く訴える腹をさすりながら道まで出た所で、空気に混じる異臭に気付いて銀時は思わず足を止めた。 「……?」 大凡真っ暗な夜の、田舎道には相応しく無い様なつんとしたその臭気は、間違いようもなく燃料のものだ。咄嗟に原付を停めた辺りに視線を向けると、叢をがさがさと音を立てて何かが走り去る様な音が耳朶を打った。 小動物か物の怪の類か。そんな事を思いながらも原付へと駆け寄ると、きちんと立てておいた筈の原付はその場に横倒しになっており、あぜ道の下に危うく落ちかけている所だった。 「んだ、こりゃ…」 思わず呻く。辺りに漂う燃料の揮発する臭い、そして横倒しになった原付。道の端には停めたが、倒れて転がり落ちる様な置き方はしなかったと、記憶をそう深く手繰らずとも断言出来る。 星と月明かりだけの視界では判然とはしないが、それでもこれは異常であると解って、銀時は背筋に厭な汗を感じた。 取り敢えず原付を何とか起こして道へと引っ張り上げてみれば、燃料蓋が開けられて燃料の殆どが地面にこぼれていた。原付が倒れただけで道から転がり落ちる事が百歩譲って起き得たとしても、燃料蓋が勝手に開くと言う事は、どんな偶然が降り注いでも有り得ない。 銀時は素早く周囲の暗闇を見回すが、叢の中にも田舎道の何処にも、誰の、何の気配も感じられはしなかった。作為と言う厭な感触は目の前に転がっていると言うのに、それを起こしただろう者の姿はまるで見当たりはしない。いっそ不気味なほどに辺りは静かで、ただの夜であった。 キーは刺さった侭だったが、燃料の殆どはこぼれてしまった原付にエンジンのかかる気配はない。ヘッドライトを点けてもう一度辺りを見回すが、矢張り何処にも、何にも、異常は見当たらない。 然し──或いはだからこそ、背筋にぞっと厭なものを感じて銀時はごくりと喉を鳴らした。拡がるのはきっと、遠くに灯りのぽつぽつと点在するばかりののどかな農村の、静かな夜の風景でしか無い筈の風景だ。だがそれが、何か得体の知れぬ生物の腹の中である様な、嫌悪感に似たものをもってじっと己を見つめてでもいるかも様な錯覚を憶えて膚が粟立つ。 「どうかしたのかね」 そうして暫し立ち尽くしていた銀時の背に、やがてかけられる声。のろのろと振り返れば、手元灯りを携えた仏師がそこに居た。原付のライトを点けたきり出発する気配のない銀時の様子に、ただならぬ何かを感じたらしい。見遣れば、工房の戸は開け放した侭だ。 「……なぁ、この村って余所者を村から出さない様にしてから食うとか、そう言う奇抜な風習でもあったりする?」 「は?」 「…や。冗談」 乾いた笑いを浮かべて言う銀時の顔を見上げた仏師は首を傾げ、それから辺りにこぼれた燃料の臭気に気付いたらしい。銀時の様子と比べ見て、大体を察した様に重たい溜息を一つ。 「悪戯でもされたか。ふぅむ…。盗もうとしたのかも知れんが…、まぁ夜の事だしな、仕方あるまい」 「諦めろ、って事で良いんだよねソレ」 「宿場にある警察に被害届を出すと言う手もあるが、恐らく解決はすまいよ」 何分田舎の事だ。溜息混じりにそう言う仏師の言葉に、銀時は覚えのない頭痛を感じた気がして額を揉んだ。幸いにか原付本体は無事だし、燃料の量も金額に換算すれば大したものではない。暫定犯罪者を放置すると言うのは気持ちの良い話では無いが、現場は監視カメラ一つ無い農村だ。村人がやったにせよ、村人ではない何者かがやったにせよ、追求するのは難しいだろう。 泣き寝入り。それが無難な判断と言う事だ。 「乗り物本体を盗まれたり、部品だけを持ち去られるよりは幾分マシだろう」 「……」 仏師の、慰めにもならない言葉に、銀時は無言で両肩を落とした。これだから田舎は、と悪態をつきたい気持ちは少々あったが、当の村人の前で言うのは流石に気も引ける。 「火の気があったら危険だからな、水を撒いておくが、良いかね」 「あぁ…」 確かにこの上火事でも起きた日には余計に面倒な事になりかねない。力無く頷いた銀時は、半分泥に汚れた原付を軽く目視して、取り敢えず燃料の他に何の被害も無い事を確認する。燃料さえ補充すれば走れる状態なのであれば問題は無いと言えば無い。 強いて言えば、夜道を、重たいだけの器物と化した原付を引き摺って、小一時間かかる宿場まで向かうのは無理だろうと言う、新たな問題が浮上した事ぐらいである。 (つまり、一晩はこの村で明かす必要がありそうだって事だな…) この不気味な村で。そう心の中で更に付け足した銀時は、溜息をつくと原付のスタンドを上げた。 「夜道を、それを押しながら行くのは危険だぞ」 ふらふらと歩き出そうとする銀時に、慌てた様に背後から仏師の声。銀時は、燃料を失って軽くなったのか、動かなくなって重くなったのか最早よく解らない状態の原付を押しながら、 「や、流石に宿場まで行くのは諦めるわ。ただ、この侭じゃちょっと人間不信になりそうだからね、人の優しさに勝手に甘える事にしようかと」 そう冗談めかした苦笑を添えて、山中の神社のある方角を指さしてみせた。 戻って来ても良いと言っていた、あの言葉が社交辞令に過ぎないだろうと言う事は重々承知だったのだが、こうなったらそれに甘えさせて貰う事にしよう。 もしも断られたらその時はその時だ──、そう自棄の様に思ったそのくせ、何故か拒絶されると言う想像が浮かばない、そんな楽観的な己に少し呆れながら。 。 ← : → |