通り雨 #1 思い起こせば、まるで通り雨の中の事の様だった。 「おやまァ多串くんじゃねーの」 夏の日差しは最早兵器と言って良いレベルだ。温暖化だとか温室効果だとか地球規模で色々と言われているが、環境規制の為の会議は空調の効いた涼しい室内でのんびりと行われているのだから、面白味も意味も実感もあったものではない。そんな政治の円卓など意にも介さず、夏は夏で例年通り、例年以上にその凶暴性を増していくばかりだ。 「おーい、聞こえてますかー?」 結局、地べたに暮らす者の殆どは、昼間は簾を下ろして日陰に入り、風鈴の音でも聞きながら水出しのお茶を飲み、夕刻には打ち水をして昼間散々に熱せられた大気を冷ますと言う、実に『環境に優しい』手段で涼を取っている。 「ちょっとォォ?」 最近は扇風機だクーラーだのと文明の利器があるが、江戸の中心を少し離れた地域では未だ多くの庶民は前述『環境に優しい』涼の取り方を用いている。実際江戸の発展で夏の気温が右上がりに増して行くのであれば、皆が昔の様な生活をすれば良いのではないかと、素人考えながら思わないでもない。 「おーぐしくーん」 真選組屯所にある大部屋の休憩所と食堂にも要望もあってクーラーを入れる羽目になった。(※予算の捻出に苦労させられたと特記しておきたい)屯所は和風建築の平屋で、土地も広ければ風通しも良いのだからせめて扇風機で堪えろ、とは思ったし会議でもそう言ったのだが、夏の暑さとそれに戦う必要性とやらの熱意になんでかんで押し負けた。どうも集団で「副長を論破しなければ俺達の夏に未来はない」とかなんとか、何人かの隊長を含めた隊士らが企んでいたらしい。そろそろシメるべきか、と日報の末尾に書いておいたので、これを機に付け上がる様な真似はすまい。 それでも、屯所のそこかしこで誰が買って来るのやら、風鈴や行灯支柱の朝顔の鉢に果ては金魚鉢まで、が目につく辺り、クーラーの導入はさておいて、この国らしい夏の感じ方、涼の取り方を求めている連中が多いのも事実なのだろう。 「もしもォォォし?おーぐしくん?耳ついてる?」 外回りの隊士らが次々熱中症に罹ったら流石に笑えないので、飲料水の携行も義務付けた方が良いだろうかと考える始末だ。それほどに最近の暑さは炎天下の仕事の多い職業労働者には堪える。 いっそ隊服にも夏服を作るべきだろうか、と、小脇に脱いで抱えた上着を見れば反射的に考えも浮かぶ。勿論以前沖田の発案した、袖を無意味にギザギザにカットしただけのアレは却下だが。 しかし何故わざとギザギザにカットしてあるんだか。普通に半袖にすれば良いものを。 一応夏冬で多少材質に違いはあれど、真選組のぶ厚く重たい上着には、斬った張ったの際に刃を通し辛くする防刃目的と言う立派な意味がある。とは言え、そんな繊維一枚で致命的な一撃を貰おうと考える事自体がそも問題だと思うのだが。 その他の役割としては些か物騒な話ではあるが、返り血を目立たなくする意図もある。市民の前では寧ろこちらの方が重要かも知れない。 そんな実用的な理由の他にも、隊服にはそれを纏う者らを『そう』であるのだと認識したりさせたりする、所謂シンボルが必須だと言う事もある。誰が見ても『そう』なのだと理解し、その目が光っている所では犯罪など起こさせはしないと言う抑止力と結束力。 刀を佩いている事でなら誰の目にも幕臣と知れるが、必要なのは幕臣と言うお上の看板ではない。真選組と言う名前だ。隊服姿の人間を見れば速やかに真選組の人間と知れる事。その為には最も目立つ上着も、かっちりと着込んだお堅さも矢張り欠かせない。……仮令どれだけ地球が温暖化し、太陽が暴力的な迄に照りつけて来ていたとしても。 「……おまわりさーん、そこに善良な市民を無視するチンピラ警察がいまーす」 「誰ァれがチンピラ警察だ!つかお巡りさん俺!」 「何だ、聞こえてんじゃねェか」 思わず怒鳴り声を上げてから、仕舞った、と口の端を下げるが遅い。 「よ」と片手を挙げてだらけきった表情で笑いかけて来る銀髪頭を数秒見遣り、土方は諦めの色濃い溜息をついた。街頭の灰皿に吸いさしの煙草を押しつけ、日陰になっている喫煙所から離れると、銀髪頭の座している茶屋の野点傘の下に日光を避けて逃げ込む。 「さっきから煩ェんだよ何度も何度も。何か用なのか?」 大きな野点傘の影が黒く落ちる、緋毛氈の敷かれた茶屋の椅子に腰掛けていた銀時は「いんや別に。見かけたからつい」と素っ気なく応えると、ソフトクリームの入った善哉を美味そうに啜った。 「うめぇ〜」などと暢気に息をついている銀時の目の前に立った土方は思わずその胸倉を掴み上げた。こめかみの辺りで血管がめきりと音を立てるのが解る。頭までもが暑い。重症だ。 「用も無ェのに呼ぶんじゃねぇよ、公務執行妨害で逮捕すんぞテメェ」 「えぇー?名前呼んだだけで犯罪者扱いですか?ナニ、悪徳警官の前では挨拶も賄賂にされちまうの?て言うかお前喫煙所(あんなとこ)で休んでたって事ァ休憩時間だろ?妨害されて困る公務も何も無いですよねーおまわりさーん?」 「チンピラだの悪徳だのいちいち余計な修飾付けてンじゃねぇよ。第一テメェ名前ってな、俺は多串くんじゃねーから。金魚も飼ってねーから」 額に青筋を浮かべた土方と対照的にも、へらりとユルく笑って返す男の顔にはあからさまな書き付けがある。『暇つぶし』と言う名前の。 それを読み取って仕舞えば一気に馬鹿馬鹿しくなり、暑さも手伝って土方は掴んだ銀時の襟から手を離した。血圧を一瞬とは言え上げた事で一気に暑くなった様に感じる体温にうんざりとしつつ、スカーフを解いてポケットに押し込む。襟元のボタンを二つばかり開ければ、汗で湿った肌をぬるい風が撫でていく。 「つーかテメェもいい加減人の名前くらい覚えやがれ。髪の体積以外スッカラカンの頭でもそのくれェ出来んだろーが」 「ちょっとォォ!俺の首から上が全部天パみたいな言い方やめてくんない?!」 野郎の名前とか顔憶えるの苦手なんだよ、と不服そうにぶちぶちとぼやき、男は口を尖らせて頬杖をついた。ちらちらと土方の顔を見上げて、考える様な素振りを見せてはうーんと首を傾げている。態とらしい様な真剣な様なその仕草からは、『土方十四郎』の名前が眼下の銀髪頭の中にはインプットされていないと言う訳ではなく、単に知らぬフリをしているだけなのが薄らと伺えた。 池田屋に近藤の仇討ちに花見。不意な遭遇は何度かあれど、メディアにも露出する事の多い『看板』も、目の前の男の前には何の意味も無いものらしいと、思っていなかった訳ではないが改めてひしひしと感じさせられる。 はあ、と溜息を隠さない土方を見上げて何を思ったのか。銀時は思考を振り切る様に軽くかぶりを振ると、ひょいと手を伸ばして、土方が小脇に抱えていた隊服の上着を軽く引っ張った。 「んな暑苦しい格好で歩いてっと熱中症になんぞ。熱中症舐めたら駄目だよ、ほんと死ぬからね。 ──おーいオヤジ、キンキンに冷えた緑茶二つ。あと氷イチゴと小豆。この兄さん持ちで」 「オイ何さりげなくテメェの分まで払わせようとしてんだよ」 「まァ固い事言うなや、『多串くん』」 強調された感の漂う声に引かれ、土方は眉間に山脈を拵えながら銀時を思い切り睨み下ろした。暑くなるのは御免だが、肚の底から煮えたぎる様な苛立ちが全身を浸した侭で熄みそうもない。 (……誰だよ) じっと立ち止まれば、街路を吹き渡るぬるい風でもそれなりに気持ちが良い。ちりん、と、茶屋の軒先に下げられた江戸風鈴が涼やかな音を立てるのに誘われる様に、土方は銀時の座る席の端に腰を下ろした。 野点傘の作る濃い陰の下で喧しく騒いでいる蝉の声を聞く。光を弾いて濃い色の空は雲一つ無く、ぎらぎらと照る熱は肚の裡の不快感より余程熱い。 癖で煙草を探りかけた手を止める。ヤニを補給したい気持ちはあったが、小さな火種でさえも何だか暑苦しい気がする。 手持ち無沙汰になった土方が横でクリーム善哉をゆっくりと口に運び続けている銀時をもう一度睨めば、「ん?」と返っdて来る。全く以て馬鹿馬鹿しい上に忌々しい。 「はい、お待ち」 店主らしき男がそんな両者の間をさらりと割って盆を置いて行く。上には暑さで早くも汗をかいたグラスが二つ。湯飲みとは違う透明なその中で、上品な色の緑茶がたくさんの氷を浮かべている。進行形で暑さに茹だった身にそれは何よりも素晴らしい甘露に見えた。 喫煙所に立って煙を吹かすぐらいならまだしも、ここまであからさまな休憩を取る心算は無かったのだが、カンカンに照る太陽は相変わらず地面の上の人間達を鉄板の上の焼肉とでも勘違いしているのではないかと言う程の熱量を落として来ている。ちらと見遣れば、店の調理場に掛けられた古いデザインの壁時計の示す時刻は十五時前。もう少しばかり茹だった身体を休ませる時間はありそうだと思い、土方はグラスの片方を手に取った。 (つーか俺の払いとか言ってやがったしな) 濡れたグラスの感触が指先をひたりと冷やす感覚すら心地よい。傾いたその中でからころと氷が音を立てるのを聞きながら、ゆっくりと喉を潤す。 (……生き返る) 「生き返るよなぁ」 ぷはー。とまるで冷酒を煽った時の様な調子で、土方の内心の呟きを奇しくも同時に声にした銀時が息をつく。 「最近は暑いとクーラーだの何だのスグ言うけどよ、こう言う涼の取り方もアリだよなァ」 言って、目を細める銀時の手の中で、氷が硝子にぶつかり澄んだ音を立てる。呼応する様に風がゆったりと吹いて揺らしていく、江戸風鈴のどこか懐かしい音色。 日差しが強い程に濃くなる陰の中。項にかいた汗を風が優しくぬるく撫でて行く。遠くに近くに蝉の群れ。暑さなど気にする風情なく走り回る子供らの笑い声。土の上に打たれた水によって大気がしっとりと湿り気を帯びていく匂い。 「……まぁな」 反りの合わない銀髪の男に同意するのも癪だったが、まだじんわりと暑い脳は反論する熱量ですら勿体ないと訴えて来ている。まぁ別にいいかと思いながら土方はゆっくりグラスを干して、残った氷をがり、と噛み砕いた。 「昔は氷なんて、こんな季節の庶民が味わえたもんじゃ無かったんだろうがな」 「そこはそれ、お大尽様気分」 砕かれた氷は口内をひととき冷やして直ぐに消えていく。やれ文明の利器だ、クーラーだ、と一言で断じずとも、天人のもたらした恩恵は余りに多すぎて、分不相応な程に豊かなそれらは最早世界に自然に根付いている。昔はそれこそ『お大尽様』にしか味わえなかった涼も、庶民のものとして容易に手に入れられる。 一度手に入れて仕舞った便利さを、人は棄てる事など出来はしない。仮令それが製氷器一つであれど。 「なぁ多串くんや」 「だから俺は多串じゃ、──ッひぁ!?」 涼の取り方に反論はなくとも呼び名には相変わらずある。再び首を擡げた苛立ちと共に振り返りかけた土方は、項に突如当てられた感触に喉を引きつらせて跳ね上がった。 すわ何事かと見遣れば、まだ中身の残るグラスをこちらに向けている銀時の姿。少し驚いた様に、眠たげな目蓋を常より少し持ち上げている。そんな視線を受けながら思わずがしがしと項を擦ればひんやりとした湿り気と温度。まるで手渡す様に突き出された、アレを当てられたらしい。 「んな驚かねェでも」 「驚くわフツー!いきなり何しやがんだこの腐れ天パ!背中に氷入れるガキかてめーは!!」 情けない悲鳴を上げて仕舞った事実がなんだか居たたまれなくなり、土方は恥ずかしさを誤魔化す様に怒鳴り散らし──それから頭に昇った血にくらりと眩暈を覚えた。すとん、と椅子に戻る。 銀時はそんな土方をにやにやと見ながら、冷えたグラスを持った手をつと伸ばし、熱さに平時以下の回転数になっている頭部にこつんと当ててくる。黒い頭髪の上を水がひたりと伝って落ちて来るが、直ぐに温度を持って仕舞うそれが汗なのか水なのか最早よく解らない。 「多串くん暑そうだなーって思った銀さんの親切ですゥ。ンなお化け屋敷でコンニャク当てられたガキみてーに驚かれるとは思わな……いや心外だよ?多串くん」 「笑い噛み殺して言うんじゃねェ、本気で親切だとか宣うなら人の目ェ見て言えやコラ」 ぷ、と音を口内で殺してあらぬ方に視線を逸らす銀時を睨みつつ、『親切』と言う言い分を引き連れてこめかみに押し当てられたグラスを手で除ける。 当然言った通りの『親切』などではないのだろう、喉奥で笑いの残滓を鳴らしながら銀時は大人しくグラスを除けた。それから思い出した様に、盆の上で形を崩しつつあった氷イチゴを手に取る。 「多串くんがスゲー反応してくれちゃったから危うく忘れる所だったわ。ホレ、氷小豆は多串くんのだから。溶ける前に食っちまおうや、勿体ねェ」 指される侭見れば、グラスの載っていた盆の上には氷イチゴと氷小豆がでんと鎮座している。そう言えば先頃なんか勝手に注文していた様な。と記憶を引っ張り出した所で、 「おーい、聞いてるか多串くん」 またあの癇に障る呼び名が聞こえて、土方は思わず拳を固めた。 「〜っだ・か・らァァァ、俺は多串じゃ」 「だって、俺まだテメーの名前聞いてねぇんだから仕方ねェだろ」 「無い……って…………、……はァ?」 まるで当たり前の事の様にそんな言い分を返され、土方は束の間言葉を失った。何を言われたのか、意味を上手く咀嚼出来ずに瞬きを繰り返す、その眼前にぷらりと揺らされた匙がやがて引っ込み、紅色のシロップに浸された氷をしゃくりと掬う。 (聞いてねぇ、ってな…) 今更、ではないだろうか。もとい、今更何を言い出すのだろうか、この銀髪天然パーマは。 池田屋の遭遇では顔も名前もいまひとつ覚えられていなかった。まあ無理もないとは思う。が、次の、近藤の仇討ちの決闘では……、とそこまで考えて土方は口の端を下げる。 (つーかそこが『多串くん』とやらの発祥か。…二度目にして既に俺ァ『多串くん』だったのかよ) 何処の誰とも知らぬ、実在するかも解らない、デカくなり過ぎた金魚を飼っている、銀時の知り合いらしい多串の何某。 その後池田屋での件もあって山崎に『万事屋銀ちゃん』の事を軽く洗わせ、その段で土方は『坂田銀時』の名前を知った。花見で遭遇した時は飲み比べ勝負で埒もない酔っ払い同士の会話を展開していたが、互いに名乗った憶えはない。 沖田や山崎が「土方さん」と口にするものだから、銀時が何となく聞き知っていても──少なくとも『多串の何某くん』ではない事ぐらいは直ぐ知れただろう。そうでなくともTVや新聞にそれとなく名前が出る事だってあるのだし、そこまで鈍い男では無いと思う。 「な?名乗った事無ェだろ?」 土方の思考が着地するのとほぼ同時に、そう言いながら氷イチゴをしゃくりと一匙。得たり、と当然の様な顔をしている銀時を、然し土方は胡乱な目で見返した。溜息の代わりに肩を竦める。 「テメェに憶える気が無ェだけだろーが」 「訂正しねぇわ名乗らねぇわって、お前どんだけ女王様?ま、そんじゃ俺の中じゃやっぱおめーは『多串くん』だな」 確かに名乗った憶えはない。だが、正解を知らない筈もないのに何故『多串の何某』に固定された侭なのか。愛称ですらない、別人の名前の侭なのか。 しゃあしゃあと宣う銀髪頭を叩き斬ってやりたい衝動を堪えた土方は、未だ見ぬ『多串の何某』像を思考から無理矢理に追い出した。そこで顔を盛大に顰める。 どうやら、自分は気付いて仕舞ったらしい。この暑さより猶忌々しくて耐え難い苛立ちの正体に。 何のことはない。要するに厭なだけだ。 坂田銀時の記憶に居るかも知れない多串何某とやらが自分に似ているとか似ていないかとかは関係無く、土方十四郎と言う自分が、多串何某と言う人物にされている事が、だ。 自分の裡には腹立たしさを残して焼き付いた、わざわざ調査までさせた『坂田銀時』は忌々しい程しっかりと残って仕舞っていると言うのに、坂田銀時の頭には未だに『土方十四郎』は明確に存在していないのだ。していたとしても、正しい名前すら与えられていない。 それが癪に障る事この上ない所に持ってきて、呼んで欲しければ自己紹介してみせろとは。何様の心算なのだ、この腐った天然パーマの阿呆面は。 馬鹿馬鹿しい、とも、どうでも良い、とでも。この男の前ではそんな投げ遣りな姿勢で居ても構わないとは確かに思っているのだが、どうにも看過しかねているからこそ苛立つのも事実だ。 同じ夏の空の下に並んで座って、同じ様な事を考えながら冷たい飲み物で喉を潤して、同じ様な心地にはなれていない。自分ばかりが苛立ったり怒ったりと、らしくない上に面白くもない。 (テメェに負けてる様で腹が立つ、のか?) 諳んじてから、そんな子供じみた性分は武州の田舎に疾うに捨ててきた筈だろうと小さくごちて、土方は先程グラスを押し当てられた項をなんとなく指で撫でた。 不意打ちの冷感に悲鳴を、不覚にも上げさせられた。だが触れた項にはもう体温とほぼ同じぬるさしか感じられない。指先に感じる湿り気は、グラスで濡らされたものなのか、汗なのか。判然ともしない。 辿った指先の意味に、苦いものを咀嚼しつつ舌を打てば、思いの外に大きく響いた。 名乗るまで名前は呼ばないなどと。それをとっておきの理由の様に言い張るなど。相手も大概立派な子供だ。 そして、思いの外に、きっと近い。 * 氷イチゴはこの暑さで少々崩れていたが、口に甘みをたっぷりと残して喉を下って行く冷たい食感はやはり絶品だ。単純だからこそ美味しくその上財布にも優しい。時折頭にキンとした痛みが走るのも夏の風物詩だろう。 氷に冷やされた匙をくわえた侭ちらりと横隣で仏頂面を決め込む男に視線を向ければ、彼は相も変わらずの眉間山脈を拵えた侭だった。盆の上の氷小豆に手をつける様子はまるで無い。無愛想でクールに努める様は甘味を好んで嗜好する様には見えないが、だからと言って別に苦手と言う訳でも無いだろうに。 銀時がそんな事を考えていたから、ではないだろうが、男は突如舌打ちを一つ残して立ち上がった。すらりとした首筋を覆うスカーフを瞬く間に結び、刺すみたいに強烈な日差しを振り払う様に勢いよく上着に袖を通すと、刀の位置を整える。 (休憩時間、終わりかね) 真選組の副長を務めるこの男が、存外大雑把な性格に拘わらず、仕事に関しては結構に生真面目な性分だと言う事を銀時は知っている。 基本的に自由行動中や休憩中、仕事上がりでも無い限り、衆目に晒される場所で上着やスカーフを外す事は滅多に無い、と言うのも知っている。 つまりこの暑い中、まるで討ち入りにでも行く様な表情をして隊服を着込んでいると言う事は、恐らくもう休憩時間が終わったと言う事に他ならない。 「オヤジ、勘定まとめて頼む」 そんな男が上着の内ポケットから札入れを出して店に歩いて行くのを、銀時は匙をくわえた侭で見送った。難しい顔をしているから大凡こちらに好意的な事を考えているとは到底思っていないが、全く反論が無いと言うのも些か張り合いがない。 (まあ暑いし良いか。氷小豆貰っちまって良いのかね) 思ってちらりと、小豆の艶やかな照りを銀時が見ていると、前掛けで手を拭きながら出て来た店主のオヤジが銀時と土方の両者を見比べて言う。 「えーと、銀さんの分もまとめちまって良いんですかね?」 「ああ」 「あれま。有り難くゴチになっちまって良いのかね?多串くん」 何やら『多串くん』呼ばわりされる事に抵抗心のあるらしい男の事だ、てっきり反論を寄越すだろうかと思いつつ銀時が半ば態と言うのに、然し彼はちらと一瞬こちらに視線を向けたのみだった。 札を出して会計をするその姿を(つまんねーの)と内心ぼやきながら見上げる。別に特別からかって楽しい相手と言う訳でもないし、寧ろ話す内にずれる主張や反論に苛立つ事の方が多い。のだが、何となく声をかけて仕舞う事が時折ある。例えば今日の様に。 こうして奢らせる所まで成功する事もごく稀にあるので、そう言う意味では財布に優しく胃にはもたれる相手なのだが。 「悪ィが領収書切って貰えるか?」 だから、男がそう言い出した時には、つい反射的に声が出ていた。 「奢ってくれんのは良いんだけどさぁ……何、結局経費にしちゃう訳?皆様の血税で銀さんの血糖値上げてくれちゃう訳?」 煩ェ、散々食っておいて言う台詞か。──……とでも返って来るだろうかと銀時は思っていたのだが、男はふ、と少し珍しい質の笑いを浮かべたのみだった。 「宛名はどうします?真選組で宜しいんで?」 さらさらとペンを走らせる店主を「いや」と止める声は少し軽い。弾んでいる、と言う程ではないが、何かを企む様な含みのある。 「ヒジカタ トウシロウ、で。土に方で、十に四に、太郎二郎の普通の郎」 今度こそ笑いのはっきり乗った声に、銀時は思わず瞠目した。 言う通りに店主の書き付けたそれを受け取り、振り返った顔にはほんの少しの笑みをはいて。 土方十四郎は、ぽかんとした坂田銀時の前に立つと、切ったばかりの領収書を盆の下に挟み入れ、懐から煙草の箱を探り出した。そうして、指の代わりの様に取り出した一本を銀時の鼻面に突きつける。 「てめーの食った分はツケといてやるよ。稼ぎが入ったらキッチリ返しやがれ、自営業無職が。あと、その氷小豆は正真正銘俺からの奢りにしといてやらァ」 溶ける前に食えよ、と言って煙草に火を点けた男は、軽く手を振ると黒の上着を翻し、暑い夏の雑踏へとあっという間に消えて行って仕舞った。 すらりとした黒い影は、夏の蜃気楼の様な空気にあっと言う間に姿を消していた。半ば茫然とそれを見送る形になった銀時は、凝固からふと解けると俯いて口を押さえた。腹を抱えて笑いを堪える。 (おいおいおいおい、何だよあの子、意外と面白ぇトコあったんだな) 真正直に今更名乗れないからと言って、まるで名刺の様に領収書を一枚。何の効力もない様なそれを笑いながら引っ張り出して、銀時はくつくつと喉を鳴らした。 しかも銀時の『多串くん』呼びに対して、何か反撃を思いつきました、と言う顔をしといて、何とも可愛い仕返しだ。 一頻り密やかに笑った後、立ち去った背中に向けて手を合わせる素振りをしてから、銀時は少しばかり溶けかけた氷小豆の器を取り上げた。匙をさせば細かな氷の心地よい感触。 しゃり、と口に甘い氷を匙ごとくわえた侭、銀時は手の中に残された領収書を陽の光に透かしてみる。 土方十四郎。刻まれた文字を胸中で諳んじて、それから余韻の様にちいさく笑う。 「じゃ、有り難く馳走になろうかね、土方くん」 多串くん呼びは妙な特別感あって好きなんですが…。 : ↑ |