通り雨 #2



 通るだけの癖に、散々に人を惑わせる豪雨。


 今日は一日中、夏の暑さも随分引いた爽やかな陽気です。江戸中心部は午後からは曇りになるでしょう。北部山沿いの一部地域では俄雨が降るかも知れません。
 昼前に立ち寄った食堂で見上げた国営放送のニュースの、気象予報士はそう締めていたと記憶している。今日は朝から忙しく、いつも何気無く横目に見ている占い天気予報を気にする暇もなく屯所を出たのもあって天候の具合は気になっていたのだから間違いない。
 とは言え天気予報は飽く迄予報であって、的中しなかったからと言い、それがしたり顔で『本日の天気』を伝える気象予報士やアナウンサーの責任になる訳ではない。そんな事は解っている。
 「クソ…、ツイてねぇな」
 それでも思わず何かに毒づかずにはいられない。天の気分にでもアナウンサーにでも何でも良い。傘を携行しなかった自分に、と言う選択肢もあるのだが、雲一つ無い晴天の下を傘を持って歩くと言うのも気が退ける所に持ってきて、刀の取り回しを考えれば、他の長物など邪魔以外の何にもならない。毒突く以前の問題だ。論外だ。
 天人様々のご来港の世であっても、天の気分と言うのは完全には読めないものらしい。昔のそれと比べれば天気を大雑把にとは言え『予報』出来る様になっただけ文明は進歩したと言えるのかも知れないが、宇宙から見下ろした所で雲の下の出来事はそう知れないと言う事だろうか。
 何より。天気予報よりも確かなのは、幾ら文明が進もうが世が豊かになろうが、人は頭の上に紙や布を拡げる事ぐらいでしか雨を凌いで歩く術を未だ持たないと言う事だ。
 天気予報の的中率が100%になろうが、結局傘と言う邪魔な荷物を持たなければならない事そのものに変わり無い。毒づく相手は天気でもアナウンサーでも傘を持ちたくない己でもなく、雨と言う事象に対する人類の無力さが相応しい。
 (…………馬鹿か俺ァ)
 暇つぶしにもならない上に実用的でもない思考をそこで打ち切り、土方はすっかり濡れて重たい前髪を、同じく濡れた手で掻き上げた。ぽたぽたと盛大に雫が滴り落ちる不快感に顔を顰めて息をつく。
 ゲリラ豪雨とか最近では呼ばれているらしい、急な雨だった。視界ほぼゼロの、濁流の様な雨があれよと言う間に辺りに降り注ぎ、先頃までは秋口にしては少々暑いくらいの気候にあった町は今ではすっかり冷えた雨に浸されていた。
 唐突な天候の変化に人々も慌ただしく、軒先に逃げたり、用意周到に持ち歩いていたらしい傘を広げたり、家路へ急いだりと動き回っていたが、今では雨音以外の気配は殆どしない。まるで始めから今日は雨が降っていたのだと言わんばかりの、どこか気怠く重たい空気に浸されて仕舞っている。
 人々がやっとの思いで駆け込んだ店の軒先などに、一目で幕臣と知れる隊服姿の佩刀した侍が並ぶのには少々気が退けたのもあり、土方は雨から逃げるのが遅れた。そしてほんの数秒の逡巡とほんの数分の雨宿り場所を求めての彷徨は、人ひとりを濡れ鼠にするには十分に過ぎるものだったのは確かだ。
 痛いぐらいの雨粒に打たれながら路地を駈け、適当に目についた雑居ビルの入り口の、一米も張り出していない庇の下に今更の様に潜り込んだ時には、隊服から水が滴る程に全身すっかり濡れて仕舞っていた。
 少し庇から出した顔を上へと向ければ、絡み合った電線の向こうの空は先程と比べて随分と機嫌を取り戻している様だった。雨足は土砂降りの状態から少しはマシになっているが、まだ傘もささずに歩くには少々酔狂と言える。
 どうするか、と暫し思案した土方だったが、結局はその侭そこに留まる事を選んだ。こういう俄雨が引くのは大体唐突なもので、雨足が弱まったからと英断をし飛び出したとして、目的地に到着する頃合いにはすっかり止んで仕舞っている事が多い。
 クソ、ともう一度何処とも知れぬ方角に吐き捨てながら、水を吸って重たい上着から苦労しつつ袖を抜く。続けて胸ポケットを漁って無傷の携帯電話と煙草が出て来るのに土方はほんの僅か気の緩んだ息を吐いた。携帯は有事の際に必要だし、煙草は命だ。
 上着の表面は本来防水加工だとかで、多少の水なら弾く様に出来ていると言う話だったが、大量の水で表面はおろか生地ごと浸されて仕舞っては意味などなかったらしい。とは言え厚めの素材のお陰か裏地までびしょ濡れと言う事態にはまだ至っていなかったのが僥倖か。携帯も煙草も、ほんの少し湿らされる程度の被害で済んだ。
 とは言え水を真っ先に浴びる肩や袖の方はそうもいかなかった様で、上着を脱げば濡れたシャツの貼り付いた皮膚が少しひやりとした。
 試しに常の倍以上に重量を増している気のする上着の袖を掴んで絞るが、厚い布地がこちらは災いした様で、乾いた雑巾の様に水分を吸っている筈なのにその半分ほども絞り出せそうにない。自然に乾かそうとしたら日向に丸一日以上は日晒しにしなければならないだろう。勿論そんな事をしたら致命的な皺が残るからやりはしないが。
 クリーニング決定だな、と際限のなさそうな溜息を吹き消しつつ、土方は取り敢えず自分にこれ以上水の被害が及ばぬ様に、くたりとした上着の裏地を外側に折って腕に引っかけておく。重い。
 筋トレが出来そうだと皮肉の様に考えながら、土方は背後の雑居ビルの入り口にとんと背中を預けた。水の浸食が無いのを確認してから、携帯をズボンの後ろポケットに突っ込み、煙草を一本取り出し、そこで顔を思い切り顰める。
 湿って使い物にならない事態を辛うじて免れた奇跡の一服は正に言葉通りの一服だった。軽く振った箱から返る手応えは最後の一本の時のそれだ。
 (買おうとは思ってたんだよ…。ああクソ、)
 煙草の予備はカートン買い置きで自室にあるが、手持ちに予備は普通持ち歩かない。屯所を出る時までは懐の心許ない数量に憶えがあったから、切らしたら巡察ついでに買うか、ぐらいには考えていた筈だと言うのに、通りすがりの食い逃げ犯を捕まえたりしている内にすっかり忘れて仕舞っていた。そして折り悪く土砂降りに見舞われて──以下現状に続く。
 同心に突き出しておいた食い逃げ犯の面に向けて悪態をつき、いやそれも矛先には正しくないかとぼやき、土方は箱から飛び出た煙草の最後の一本に指を乗せた。とん、と叩く様にして中に戻し、潰れかけた箱ごとシャツの胸ポケットにねじ込む。
 別に今更禁煙を気取る訳ではない。ただ、ぐっしょりと濡れ鼠になった状態で吸うのもなんだと思っただけだ。湿気が多いとどうにも不味い。ヤニの補充になるなら味などどうでも良いのだが、どうせ雨が上がった後にはまるで土左衛門の様に、川から上がったばかりの様な体で水を滴らせて歩く羽目になるのだ。その時の苛立ちを思えば後に取っておいた方が精神衛生上マシである。きっと。
 煙にならない溜息をついて、気を逸らすのも兼ね土方はふと己の寄り掛かっているビルの入り口を振り返った。アルミ製の安っぽい扉に曇った硝子が嵌められた、オフィスの入り口の様な戸だ。看板などは何も出ておらず、塗装の剥げかけた街区表示板だけがぽつねんと雨に晒されている。
 地面から十糎程高くなった、土方の佇む入り口の上にだけ小さな張り出しがあり、埃だらけの蛍光灯がそこに取り付けられていた。一応雑居ビルの体だけあってか、路地裏に面した如何にも後ろ暗い建築物であっても、何処から入れば良いかぐらいの主張はしているらしい。
 もう一度横目にビルの外壁を見上げて行くが、入っているテナントの看板らしきものは何一つ確認出来そうもない。曇り硝子の向こうにはアパートメントの様な集合ポストがある様に見えるので、訪ねた客はそれで企業名やらの訪ね先を確認しろと言う事か。
 「……胡散臭ェなぁ」
 「臭くねぇって。銀さんはいつだってフローラルで清く正しい万事屋さんだから。そこんとこ重要だから宜しく」
 「いや、フローラルなのと品行方正なのは違ェだろ。つーかナチュラルに会話繋げようとすんな」
 思わず、と言った感で漏れた呟きに、ごくごく自然な調子で返答が返る。その事に渋面にはなったものの余り驚いてはいない己に首を傾げつつ、土方は見上げていた方と逆側の壁沿いに視線を走らせて行き、やがて二階にある小さな窓から顔を覗かせている銀髪頭をそこに発見する。
 「仕事か」
 うらぶれている上怪しげな雑居ビル+胡散臭い万事屋。イコール?
 そう思って問えば、「んや」と軽く首が振られる……様な気配。正直距離と雨の緞帳とでそこまではっきりとは見えない。ただ銀髪頭が一旦引っ込んで、ややしてまた出て来るのだけは解った。
 「小便中。あ、跳ねた」
 「小便してる最中に話しかけんな阿呆天パがァァァ!!とっとと済ませろや!つかちゃんと手ェ洗え、汚ぇ!」
 「そうなんだけどよー、」
 思わず声を荒らげた土方になど頓着せぬ風情で、また銀髪頭が一旦引っ込み、再び戻る。
 「仕事は仕事だけどな。雨どんだけ降ってんのかなーとか気になって覗いたらよ、土方くんつーか寧ろなんだか捨て猫みたいな黒い子が寂しげに佇んでたから?つい?」
 「つい?じゃねーよ誰が捨て猫だ爆発天パ。雨で頭スゲー事になってんぞ」
 トイレから頭なぞ覗かせて何をやっているのだこの阿呆は、と思って呻けば、それに応じる自分も大概だと気付かされて気が一気に重くなる。
 「え?何?なんて??」
 「だから、」
 聞き返して来る銀時の声量はそれなりに大きい。怒鳴り返していた自分の声も勿論。
 これは距離よりも雨の所為だろうか。互いに数米程度の距離の位置に立っている筈だと言うのに、姿も声も何処か遠い。
 「………」
 紗幕に遮られた様な、現実感との奇妙な乖離。同じく声を大きくして返しかけた土方は、その返す筈の内容の馬鹿馬鹿しさに思わず口を噤んだ。こんな馬鹿で下らなくて埒も意味もないいつも通りの応酬を、何故こんなに隔てられた感覚で行わなければならないのか。
 使う熱も熱量も酷く無駄だ。濡れて疲れたコンディションの割になど合わない。
 「だから、?」
 聞こえなかっただけだと思ったのか、その先が続かない土方を促す様に銀時が問いて来るのに、止め、のジェスチャーで投げ遣りに手を振って返すと、土方は再びアルミの戸に体重を預けた。身体がほんの少し先程よりも横に、銀時の覗き下ろして来ている窓の方に近付いていた事には気付かぬ振りを決め込んだが、水平に張り出した屋根からぱたぱたと滴る雨水が肩を時折濡らして行くのは不快だった。
 だった。が、屋根の真下に移動する気には何故かなれず、その侭無言で立ち尽くす。
 左腕に乗った上着の重さが不快だ。濡れた肩に貼り付いて体温を奪うシャツの感触が不快だ。まだ声をかけようとしているのか、窓から覗き下ろしている銀髪頭が不快だ。声も姿も霞んでいるのに、視線だけがはっきり感じられるのも不快だ。
 それでもそこを動かない自分が、……不快だ。
 諦めたのか引っ込んだらしい、銀髪頭の姿は見えなくなった。それでもそこを動かない自分が。動けない自分が。
 (……不快なのは寧ろ、不快だと判じてる手前ェ自身だ。煩わされてんのを手前で認めちまってる時点でもう)
 手遅れ、と言う言葉は呑み込んで、土方は先頃煙草を仕舞った胸元に手をやった。吸って仕舞った方が良いだろうかと考えていると、やがて背後の戸の向こうからとんとんと足音が近付いて来るのに気付く。
 サンダルか何かだろうか、軽い音が上から降りて来る。階段を下って来ているのだろうその正体は、音を立てている張本人に良く似た無造作で無遠慮な足音だ。
 (……ああ。また、だ)
 煩わされているのだと雄弁に語る不快感をまた一つ積み上げて、土方は寄り掛かった戸から少し背を浮かせた。
 動けない。
 キィ、と軋む音を立てて扉が内側から押され、背中を浮かせていた土方はごく自然に、押しだされる様に半歩を踏み出しながら振り返った。
 僅かの動きで、思い出した様に髪を伝い落ちる雫がぽたぽたと足下に滴るのは、まるで泣いている様だ。それこそ捨て猫の様に。鳴いて、誰かの手を待っている様だ。
 土方が寄り掛かっていた時の事を考えたのだろうか、ゆっくりと僅かの隙間だけ開かれた戸から、湿気にボリュームの増して見える銀髪頭が顔を覗かせるのを、半ば諦めの心地で見遣る。
 「取り敢えず入んなさいよ。タオルとぬるいお茶と煙草くれェなら出してやれっから。……つーかお前想像以上にずぶ濡れなんですけど。土砂降りの中海水浴でもして来た訳?」
 あからさまな溜息と共にくいくいと招き猫の様な手つきで引き寄せる銀時を胡乱な目で見ながら、土方はどうしたものかと躊躇っていた。動かなかったのも、戸が開くのも予期していたのだから、そうなればこの基本怠け者の癖にお節介な男が何を言うかぐらい想像がついていたと言うのに。
 (この野郎の世話になるのが厭だ、とか。これ以上煩わされんのは御免だ、とか……でなく)
 別に今更貸しがどうのと言うものでもない。伊東の件で既に大きすぎる負債を万事屋達に負わされている。問題はその件を含めた『貸し』を、銀時は時折戯れの様に投げてくるだけで、本当の意味ではちっとも取り立てたり支払わせたりする気配がまるで無いと言う事だ。
 後から万事屋の眼鏡に訊いた話では「一生チビチビたかる」などと嘯いていたらしいが、それを語った新八自身も、銀時が悪質なたかりを行うとはこれっぽっちも思っていない風だった。
 報酬も、借り貸しも無しの恩義ほど居た堪れなさを齎すものはない。なまじ矜持高く、気になる物事はどちらかと言えばはっきりと片を付けて仕舞いたい質の土方にとっては覿面に。
 そしてその代わりの様にするりと入り込んで来ていた、この現実が。煩わしさしか残していかない筈の銀髪の男との遣り取りの応酬が『日常』の一つになっている事がこそが。
 「……タオルと茶は解る。ぬるいのもこの際どうでも良い。何で煙草まで出すんだよ」
 半ば解答の解っている気のする問いを応えの代わりに放り投げれば、
 「切らしてんじゃねーの?ヤニ」
 と、至極当たり前の事の様に云われ、胸ポケットの軽さを自覚した土方の心の内側が、かり、と何かに引っ掻かれた気がした。
 「何でだ」
 これもまた解答が解っていたから、溜息以上の溜息が、掻かれた爪痕から剥がれ落ちた。痛痒は無い。余りにも下らない。
 土方が解っていて問いをこぼした事には銀時も気付いていたのだろうか。否、確実に解っているに違いない。そんな根拠のまるでない確信もまた腹立たしい事は承知の上で、吐き出して呑み下す。
 「雨に望んで降られる酔狂じゃねーしお前。んでこんな界隈まで来るなんて相当苛ついてんだろ。だのに煙草吸ってねーし。と言ってライター持ってねェ訳じゃなさそうだし」
 銀時は決して、解っているだろうに、とは口にしなかったが、少々面倒さの乗った声音と共に、とん、と、ほぼ空箱の煙草を押し込んだシャツの胸元を指さされる。そこには確かに煙草と一緒にライターも突っ込んである。
 (これが、多分最大の間違いなんだろうよ)
 その質量も熱もない重量をも自覚しながら、土方はアルミの戸のドアノブに手を掛けた。タオルや茶にではなく、煙草に惹かれたのだ、と、言い訳が無ければ動けなかった自分と、言い訳を作った銀時に対して抱くのは、まるで茶番めいた劇を見ているかの様な感慨の無さだ。予定調和の様なその遣り取りの、互いへの妥協点と触れない確信とが酷く薄ら寒い。
 (テメェが、余りに自然に日常的な存在になってるってのを、俺もまた疑問に感じて無ェ事だ。組の連中みてーに、当たり前に見る事を、当たり前に言う事を、テメェに感じてる)
 奥歯で、ごり、と擦り潰した己への悪態を、その苦味を喉奥に感じながら戸を引き開ければ、溜息混じりに己の髪を掻き回した銀時の手が、土方の腕を掴んで引っ張った。逆らわずに数歩進むと、背後でぱたんと戸が閉ざされ、それと同時に雨音が遠ざかる。
 外界と隔絶され、しんと温く停滞した空気が、古いコンクリートの筺の中に澱の様に降り積んでいるのが解る。
 昼間散々に暖められていた筈の空気は、然し強烈な湿り気と濡れた身にはひやりと涼しい。思わず肩を震わせればぽたぽたと雫がこぼれ落ちた。
 「冷え切ってるじゃねーか。風邪引くぞお前」
 「そんなヤワじゃねェ」
 捕まれていた腕を振り解く様に動かせば自然と指が離れた。今まで土方の濡れた袖を掴んでいた指を開いたり閉じたりしながら顔を顰めてみせる銀時に軽く返すと、再び水分の重さで下がりつつあった前髪をもう一度掻き上げ除ける。犬の様に身体を振れば、辺りに思う存分水気を散らせるだろうなと考え、我ながら下らない冗談だと肩を竦める。
 その動きが再び震えた様に見えたのか、小さく息を吐いた銀時が「こっち」と促して歩き出した。一度踏み入れた以上拒否する理由もなかったので、土方も黙ってそれに続く。
 玄関は階段と集合ポストしか無い空間だった。あとは重たそうな扉が一つだけ。物置と言った風情の戸は特に興を惹くものでも何でもない。
 ちらりと通り過ぎ様に見やったポストの個数は四つ。一階ワンフロアと言った所か。名札がそれぞれに入っていたが、○×金融だの△△事務所だのと薄ら読めた時点でなんとなく目を逸らした。怪しげな界隈の胡散臭い存在とは言え、合法で回している以上は警察の出る幕ではないのだ。違法だとして、それが天人絡みや攘夷浪士絡みでなければ真選組の突っ込む嘴もない。
 二階まで階段をぐるりと昇ると、再び重たげな扉を潜って廊下に出た。耐火も兼ねているのか今度のは頑丈そうだが愛想はない鉄扉。抜けた廊下には扉が三つばかりバラバラに並んでおり、それを塞がない様に椅子やら机やら段ボールやら、何やら家財道具らしきものが無造作に積み置かれている。埃の様子からして、そこにいつもあるのではなく、ここ数日の内に置かれたものの様だ。
 頭を巡らせて先程銀時が覗いていた窓のある辺りを向けば、廊下の扉の一つに当たる。と言う事はそこが手洗いと言う事か。水回りは大概近くに作る筈なので、隣の小さな戸は給湯室か何かだろうか。
 職業柄の癖で、頭に建物の構造間取りの青写真を描きながら、土方は銀時の背に続いて一番奥の扉を潜った。広々、と言えば聞こえ良く。正直に言えば閑散とした。そんな室内の様子から察するに廊下の家具はここから出されたものだろう。残された棚や雰囲気から事務所やオフィスとして使われていたのだろうと知れる。
 「棄てる予定だけど椅子は椅子だしな。濡らしても良いから適当に座ってろや。今茶ァ持って来てやっから」
 「ああ。つか何の仕事だ。白昼堂々夜逃げか?」
 乾いた所では文字通りの濡れ鼠と言うものを実感せずにいられない。思いながら、スプリングの軋むキャスター付きの事務椅子を適当に引き寄せた。灰色のクッション部分が破れてパンヤの覗く椅子に、言われた通り遠慮なく腰を下ろす。
 すると、辺りの段ボール箱から適当にタオルを取り出した銀時がそれを放って寄越して来る。熨斗紙のかかった袋に入ったそれは、挨拶用かお中元お歳暮の余りだろうか、大きめのバスタオルだった。
 「寧ろ夜逃げを追い掛ける方ぽくね?まァそれは一個上の階の仕事らしいな。こっちの依頼内容は引っ越しだとよ。貿易関係回してるとかなんとか言ってたか。事務所移転するってんで、片付けと荷運びの手伝いをな」
 首に汗拭き用の手拭いを掛け、仕事用なのだろう作務衣を纏った銀時の姿は、成程普段のそれなり『侍』とか『浪人』風に見えなくもない(主に木刀効果だが)様とは掛け離れており、本当にただの市井の仕事人なのだと思える。
 ふぅん、と余り気もなく頷いた土方が濡れた上着をその辺りの別の椅子に引っかけ、刀を外し机の上に置くのを余所に、銀時はすたすたと事務所から廊下へと出て行った。宣言通りに茶を持ってくる心算なのだろう。隣の部屋の戸が開かれ、ごとごとと何かをする音が聞こえて来る。
 「貿易関係の事務所、ね。警察的に余り看過したくねェ類の商売で無きゃ良いんだが」
 ぼやきながら、適当にその辺りの段ボールに詰められたファイルを引っ張り出して捲ってみると、見慣れない言語の名前が幾つか発見出来た。顧客名簿の様なその内容は天人が多い様だ。天人関係の商売は規制が多い割に法の抜け穴も多い。さほど力のない星ならともかく、例えば犬威星の様な大物となると、治外法権と言う最強の免罪符を立てられるのが厄介なのだ。立件も送検も困難な上、幕府の立場としては危うきに近寄らずと言うスタンスもあって協力は見込めない。警察としては最も関わりたくない類だ。
 関わりたく無い類だ、と脳内で繰り返し諳んじながら、土方は、とんとん、と指で名簿の名前と帳簿らしきページとを捲り直して叩いた。
 「んじゃそのへん勝手に家捜したり漁ったりすんなよ。俺らも依頼人が逮捕されたりしたら報酬無くなって困るしな」
 (悪ィな、もう手遅れだ)
 壁の向こうの銀時の声に胸中でだけ応えると、土方はファイルを元通り段ボールに放り込んだ。顧客名簿はともかく、商売ならば何らかの『商品』を回していた筈である。それらしき品物や痕跡は何処にあるのだろう。
 そうして辺りを見回したところで、ふと思いついて声を上げる。
 「メガネとチャイナは?」
 「依頼人のトラックに同乗して家財の移動手伝ってる。俺は二度目に運ぶ家具の準備と、粗大ゴミ処理と、ゴミ処理と、燃えるゴミ処理と、燃えないゴミ処理と、資源ゴミ処理と、ゴミ処理担当。後は掃除とか諸々。ちなみに公正にジャンケンで決めてこの有り様だよ、全くツイてなかったわ今日は」
 薄い壁をひとつ隔てている筈なのに、大して声を上げなくとも問いが届いて応えが返る。先程の雨の中とは大違いだ。よく聞き取れる銀時の苦い声音に思わず笑いを噛み殺しつつ、乾いた所に来た事で今更の様に湿った煩わしさを伝えてきていたスカーフを解き、丸める様に畳んでポケットに突っ込む。
 それから封を切ったバスタオルで湿った髪を拭けば、幾分すっきりして来た。
 「んだ、テメェもか。ツキの無さまで似た様なものとは、妙な偶然もあるもんだな」
 笑った侭言えば「堪んねぇ偶然だなそりゃァ」と同じく笑い混じりの声が飛んで来る。ああ、こういう感覚が変に心地良いから悪い。
 振り切る様に、より不快感を意識しながら、濡れて気持ちの悪い靴下を何とか足から抜いて搾る。一応は事務所だろうと言う考えはあったが、土方が部屋に入った時点で既に床には盛大な水溜まりが出来ているのだ。今更だろう。どうせ引っ越すのだから構うまいと、ここに連れ込んだ銀時も同じ事を考えているに違いないだろうと決め込み、遠慮なく体裁を整えさせて貰う事にした。気休め程度だが何もしないよりはマシだ。
 靴の内側の水分をタオルに吸わせ、続けてベストの前を開く。こちらはそれほど酷く濡れてはいなかったが、単に湿気が不快だったので、だ。脱いで軽く畳むと、先程外した刀の横に置いておく。
 シャツのボタンを二つほど開け、立ち上がってベルトに手をかけた所で、
 「はァいお茶お待ちィ……っと」
 盆を片手で器用に掲げ持って来た銀時が何故か固まった。デフォルトで重そうな目蓋をぎょっとした様に持ち上げ、瞬きを数回。
 「早かったな」
 妙な様子は気になったが、それよりも盆の上の茶の方が気になった。雨でこれだけ身体は濡れていると言うのに、このビルの軒先に駆け込むまで走って来た所為でか喉だけはしっかりと渇いていたのだ。
 外したベルトをだらりと下げた侭、シャツを引っ張り出す。と、そこで漸く凝固していた銀時の時間が動き始めた。いつもの何割か増しに乱れた天然パーマをわしわしと掻いて肩を落とす。
 「〜お前ね。何のマニアックなストリップショーかと思ったじゃねーの。言っとくけどトイレはあるが風呂は無ェからな?更についでに言うと干してる時間もきっと無ェ」
 「……誰がこんな野郎のストリップショー見て喜ぶんだよ。マニアック以前だろ。ドン引きだろ。寧ろイヤガラセ以外の何でも無ェわそんなん」
 銀時の凝固の理由が本当にそんなものだとしたら実に下らない上、冗談にしても面白くも何ともない。殊更呆れた口調で言われているのは解っているからか、そそくさと視線を逸らす銀髪の後ろ頭に向け、土方は「は」と溜息混じりの息を吐いた。
 何だか空気が好ましく無いものに変容しそうな気配を憶え、呆れの気配の侭冗談へと流れを変える。
 「風呂が無ェのなんざ解ってるわ。だが濡れた侭なのも気持ち悪ィんでな、いっそテメェをコインランドリーへ行かせようかと思っただけだ」
 「オイコラお前どこの女王様。屋根借りた挙げ句に人をパシらせる気ですかコノヤロー」
 「乾燥機が無いならコインランドリーへ行かせれば良いじゃない。的な、か?」
 投げた冗談に飛びついたのか単に反射で反論したのかは知れないが、盛大な渋面を浮かべた銀時に、土方は猶も続けて、そして軽く笑う。
 「……」
 だが、今度は銀時は追従してこなかった。この口から先に生まれた様な男に限って、言葉に詰まった訳でも反論が浮かばなかったなんて事もある筈がない。
 「行かねェからな?」
 ややあって──実際は数秒にも満たない間なのだが──そう、困った風情の表情で返す銀時に、土方は殊更憮然と口を開いた。
 「……たりめーだろ。こんな所で素っ裸で待てる訳がそもそも無ェだろーが」
 「ソレどう控えめに見てもヤバ過ぎる画だからね?社長が事務所に連れ込んだ愛人みてーな感じになっちまうからね?ダメゼッタイ」
 ぶんぶんと首を振る銀時に、どこのAVだよと内心でツッコミつつ、土方は片方の手を突き出した。茶を寄越せ、と言う動作での要求に、暫しぱちくりとした銀時は「ああ」と思い出した様に首肯すると、盆から湯飲みを一つ取って手渡して来る。
 受け取ったものの、手を何故か持て余す。湯飲みを口元に当てた土方は、先頃感じた、埒もない冗談に生じたずれの様なものを引っ張り出し、あれは違う、とはっきりそう断じた。
 先程ひととき感じたあの、心地よい気配ではない。だが、何処か奇妙な既視感がある。
 温い湯飲みに違わず、茶は温い。最初にそう宣言された様に。
 (ああそうだ、多串とか呼ばれていた時みてぇな、通じそうで届かない様な、なんか下らねぇ事で少し歯車がズレてるみてーな……)
 もどかしいそれは不快感。至った感情の正体に、温い茶が無言で喉を通り過ぎて行く。
 (……なんだ、コレ)
 意に沿わぬものに対して抱く、不満。それはどう在って欲しいかと言う意味を己が相手に与えている事に他ならない。
 そう、例えば日頃近藤に対して、ストーカーだけは止めてくれ、と呻く様に漏らす時の様な。
 薄ら寒いドSの笑みと共に親切ごかした攻撃をしてくる沖田に、いい加減にしやがれと怒鳴る時の様な。
 ミントンだかカバティだかに興じている山崎に、ちったァ真面目に働けと叱りつける時の様な。
 何れも、相手に何らかの期待があるから出るものだ。そうじゃないだろう、と、希望に添う一面をちゃんと持っていると、相手を知るからこそ出るものだ。
 (──いつ、から、  だ……?)
 ぬるい茶の水面を見下ろして、土方はそこに映る絶望的な己の面持ちに向けて呻いた。
 一体いつから、この銀髪天然パーマの、どうでも良い筈の野郎に、何かしら『期待』の様なものを抱いていたと言うのだろう。
 ぬるまったお茶の不快感。温かいものだと思って啜ったら水どころか半端に温かった。そのことにたった今気付いたかの様な、居慣れない、憶え慣れない違和感に気付かされた事に、驚きに似た衝撃を隠せない。
 湯飲みを両手で抱えた侭動きを止めた土方に何を思ったのか、自分の分の湯飲みを干した銀時が頬を掻いた。ぷらりと土方の前を横切り、窓の方へ歩いて行く。
 「ぬるくて悪ィな。何せ一時間くれェ前に入れた奴だからよ。新しいの入れたくてもガス止めてっちまったみてェで、火ィ使えねーんだわ」
 仲間以外の誰かに何かを期待した。その正体を勝手に想像した。意味を持たせようとした。その事実に今はっきりと気付かされ、心底絶望的な感情の侭に俯いた土方は、「いや」とかぶりを振った。お茶の事如きでこんな凹んでいると思われるのも癪だが、上手い感情の着地点が見当たらずに困り果てる。
 窓辺に立った銀時の方を恐る恐る見遣れば、ブラインドもカーテンも何もない窓一面の壁は、雨筋を暴力的に叩き付けていた。陽の射さない室内から見れば薄ら明るいその前に、肩を竦めてみせる、重たい目蓋の男が一人。
 笑う、顔と。銀色に縁取られた耿りと。あの時の、大工姿を思い起こさせる、藍色の作務衣と、が。
 「…………──」
 我知らず、息を呑む。
 出会い頭に二度、斬りかかった男の姿。正体の限りなく不透明な、攘夷浪士との繋がりの疑惑も未だ消えない男。
 脳内が瞬時に弾き出す解答は、真選組にとってコレが益になる筈はないと言う否定。
 だがそれと重なる様に浮かぶのは更なる否定。いつか山崎に命じた、坂田銀時の調査の報告にあった通りの、そんな事には関わっていないだろうと言う見解。
 どちらも同じだけの可能性を持って同時に存在していると言う事は、誰在ろう土方自身が躊躇っている事に他ならない。
 近藤も、沖田も、山崎も、他の隊士達も。幾つかの事件で偶さか手を借りる羽目になった銀髪の侍の事を既に疑ってなどいない。土方とて同じ感想を確かに抱いている。そうでなければ、伊東の乱の時に土方十四郎を呼び戻そうと怒鳴りつけたあの男に礼などは死んでも言うまい。
 ……不承不承認めて仕舞えば、憧れに似たものはあった。あの揺らぎのない強さを、愚かでしかない英断を、ひとりの身であれば平然と言ってやってのける魂の芯に。
 その癖、普段は無職同然の零細自営業で食うに困りつつパチンコなどして、町を歩いて顔見知りと笑い合って、暢気な面を下げて近付いて来る。
 現実感のない水槽の中を泳ぐ銀鱗の魚の様に。死んだ目をして、ちゃらんぽらんな態度で振る舞って──
 こんな手合いは最も苦手だった。自分が勤勉な質な所為か、ふらふらと定まらない怠けた様は、決定的に厭うでないが、だからと言って好きにはなれそうもないものだ。
 (斬った方が良いか…?)
 熱のない感情は承知でそう呻き、土方は湯飲みの中のぬるま湯を一気に干した。
 何が気に入らないのかと言えば、それは坂田銀時そのものと言うより、彼に相対した自分がいちいち煩わされ、いちいち感じている得体の知れない痛痒だ。心地よさと、それの叶わなかった事による落胆だ。
 ことん、と、手を伸ばして机の上に湯飲みを置く。こうして感情も呑み干せて投げ出せれば楽なのに。思うが、そう出来ないのが土方の性分だった。
 「爆発しろ腐れ天パ」
 「茶がぬるかったくれェで随分な言い種だなオイ」
 眩しい銀色から目を逸らし、沸き起こった感情の侭に悪態をつくが、それ以上の下らない応酬を続ける気にもなれない。
 濡れ鼠の姿を窓から見下ろされ、土方、と呼ばれた。恐らくは初めて。
 だから肩が濡れるのに気付きながらも、そこから動けなくなった。やっと、多串などと言う謎の人物ではなく、己の存在を真っ向から呼ばれた気がして。無意味な距離の中大声で下らない事を流し続けるのが馬鹿馬鹿しくなった。
 (……どうかしてんな)
 雨に濡れて魂まで萎れただろうかと思って、顔を歪めて吐き捨てる。
 灰色に近い黒に認定されている銀髪の男の事を、多少なりとも好ましく思っているのだと気付いた所で、その疑惑は変わらない。
 幾ら生活がかかっているとは言え、こんな胡散臭い事務所の仕事なぞを平然と請け負っている所も一般市民として誉められたものではない。
 だから、その全てを信頼したり、油断したりして良いものではない、と言うのに。
 ちら、と意識しながら、机に置いた刀を振り返った土方は、ふと気を逸らす様に思いついた言葉をその侭口にしていた。
 「そう言や、タオルと茶はクリアしたが、煙草が未だじゃねーか」
 シャツの胸元に感じる重みの内の一部は最後の一本のものだ。こうなったら吸って仕舞っても良いと思ったのだが、銀時が茶やタオルに並べて挙げた以上、煙草も何処かにあるに違いない。
 そんな事を思いながら、土方は自分でも不自然な感情の転嫁が逃避に近いものだとは気付いていたが、敢えて黙ってそれを見送った。どうにも上手く処理出来る気がしない。
 「あ。忘れてた。一個上の階の廊下に自販機入ってっから。煙草以外に飲み物も。ここの人ら含めて共同で使ってたみてーだし」
 「パシられる気は?」
 「ある訳ねーだろ女王様」
 「っは。冗談に決まってんだろ」
 厭そうな表情で返して来る銀時に向けて笑い飛ばし、土方はズボンのポケットに仕舞った札入れを確認すると、靴下と靴を適当に引っかけて履いた。肩から外したタオルを椅子の上に放り、行ってくる、とぷらりと手を挙げる。
 まるでいつもと逆だ。いつもは馬鹿馬鹿しい冗談を口にしてこちらを散々に振り回す銀時の方にこそ、まるでそんな余裕が無い様にも見える。
 引っ越し仕事で疲れている時に、面倒な野郎が偶々手前の仕事していたビルの前で濡れ鼠になっていた。普通なら関わりたくない相手だったろうが、顔見知りが困っているのを目にして、それを完全に無視出来る程に器用では無いのが、土方の知る坂田銀時と言う男だ。
 お節介が仇になったな、とせせら笑う様にそんな事を思い、土方は廊下に出て行く。
 閉ざされた薄っぺらな戸一枚に世界は隔絶され、廊下の端の窓から響く雨音に世界はたちまちに浸された。声を上げても届きはしない、理解も共感もない壁一枚に隔てられた空間。
 薄い刃の様に、差し込まれたかも知れない鈍い痛みに似た不快感が胸に残留している。
 同じ様なものを、何故か追い掛けて背中へと突き刺さっている視線からも感じられた様な気がしたが、見えないそれに確信は無い。







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