通り雨 #4



 優しい月明かりよりも、打ち据える様に強い雨が降って欲しかった。


 外に出れば空が珍しくも晴れ間を作っていた。多めの雲が形作る陰影の下、銀時はゆったりとした歩調で夜の町を歩いて行く。
 見上げた頭上には切った爪の様な月。見下ろされても、遠くの町の灯りの照り返しや街灯の控えめな光に縁取られた夜は充分明るいから余り気にならない。
 馴染みの飲み屋や定食屋の連なる通りを往き、川沿いの道を歩いて、橋を渡って。今は静かな商店街を横切って、住宅地を抜けて行く。その頃には時間も手伝って、辺りを歩く人の姿は殆ど見受けられなくなる。
 遠くで野良犬の遠吠え。明日は燃えるゴミの日だったから、深夜から早々にゴミを出した家でもあるのかも知れない。朝から苦労させられるのだろう清掃員の姿を適当に思い浮かべながら銀時は生あくびをした。連日まんじりとも出来ずに眠れない癖に、眠気に似たものだけはこうやって存在を主張してくるから困る。
 歩く内やがて、武家屋敷の広大な面積を覆う外壁が前方に見えてくる。サッカー場くらいの大きさだとか大江戸ドーム算の可能な広さだとかは以前聞いた様な気もするが、どうでも良い。別に外周をマラソンしようと言う訳では無いのだし、中に入った所で目的地も概ね決まっている。
 外壁に沿ってある程度進むと、ほどなくして長い塀の途中に設けられた勝手口と、その前に佇んでいる一般隊士の服装の山崎を発見する。
 「旦那。わざわざ来て貰って済みません。どうぞこちらに」
 ぷらっと手を挙げる銀時に向けて潜めた声音でそう言うと、山崎は勝手口の戸を押して中に入る様促して来た。
 「邪魔するぜ」と一応言い置いて、身を屈めた銀時が戸を潜り抜けると、後に続いた山崎が閂をしっかりと下ろして、それから人差し指を一本、口の前に立てて見せた。静かに、と言う意味もそうしなければならない状況も解っているから、面倒だと思いつつも顎を引いて承諾を示しておく。
 「旦那がそんな目立つ形でなければもうちょっとは楽なんですが」
 そう小声でぼやく様にこぼす山崎の言い分はスルーしつつその後を追い掛けて、庭木の隙間を縫う様にこそこそ歩いて行くとやがて人気の無い部屋の薄暗い縁側に辿り着く。
 「事務とか会議とか……通常任務に使われる区画です。詰め所ですね要するに。こんな時間なんで誰もいません」
 顰めた侭の声量でそう説明しながら、先に縁側に上がった山崎が脱いだ靴を持って立ち上がるのに、銀時もブーツを指に引っかけて続いた。縁側に向かって並ぶ障子の向こうは言われた通りに暗く、人の気配はしない。
 「随分無駄に土地遊ばせてんだな。ウチの神楽なんて部屋が殆ど押し入れだよ押し入れ。納戸と押し入れ。部屋っつーかもう物置だよなアレ。居候って言うかもう座敷童的な何かみたいな?いや金とか逆に飯の形にして吸い取ってく座敷妖怪だけどよ」
 会議室などと言わず、夜はその侭このへんの大部屋に布団を並べれば良いだろうと思わずこぼせば、返るのは諦念めいた苦笑がひとつ。
 「俺もそう思うんですけどね。一応公的な施設なんで、そういうのはマズいらしいんですよ。公私は隔てられてないと云々だとかで…。
 でもそのお陰で旦那は今こうして楽に侵入出来てるでしょ」
 「侵入っつーか侵入の手引き付きでな」
 「面倒掛けて申し訳ないですホント」
 銀時の言い種が剣呑な色を見せるや否や、山崎は機先を制する様に謝罪を投げて寄越して来る。こう言う所が上手いと言うか抜け目の無い奴だ。監察とか言う役職柄なのか生来のものなのか。暫時考えてどうでも良くなって止める。張り合いも無ければ意味も無い会話は面白味も何もない。思って銀時は袖から抜いた手で顎先を掻いた。
 人気のない部屋を通り抜って反対側の方角へ抜ける。襖の並ぶ薄暗い廊下をひたひたと、裸足の足音を引き連れつつ少し歩けば、T字に分岐した縁側の通路に出る。
 (あ)
 そこで銀時は足を止め、山崎の向かう方角と逆の方角を思わず見遣っていた。
 この先を行った所にある一番奥の区画は土方の居る、副長室兼私室のある方角だ。
 角度的には見えない位置だから、幾ら視線を送った所で何も見えはしない。だから、任せた想像の侭に顔を顰める。果たしてこんな日のこんな時間でも、部屋に火は灯っているのだろうか。
 「旦那?」
 少し先で、足を止めた山崎がこちらを振り返って見ているのに、「ああ」と頷きだけを返し、銀時は何かを振り切る様にその方角へ背を向けた。山崎にも銀時が足を止めた理由は容易に知れたのか、歩を再開しながらも特に無駄口は叩こうとしない。
 土方。
 思い出せばじくじくと胸の裡に蟠る痛みに似た不快感がある。
 何も出来ないと言う事はいつだって酷い痛苦を伴ってそこに突き刺さる。
 護ろうとして振るった刃が何を傷つけるとか、そんな事すら考えずに前へと進んだ日々があった。戦争の燠火は今でも銀時の裡に確かに在って、怨嗟や後悔や、繰り返し感じた無力感を燻らせている。
 沢山のものを救って来た筈なのに、それよりも取りこぼして来たものの方がいつだって多くて。生者を護る為に背負っているのか、死者を護りきれず背負っているのか、そんな区別も悪夢のひとときには曖昧になる。
 だから、ここで得たものたちを護りたかった。背負って、背負われて、護って、護られて、そうやって共に生きて行きたかった。そんなふうに当たり前に、生きていて欲しかった。
 なのに。
 何を、どう、誰が、どうして、間違えて仕舞ったのか。
 「……あの子、今日はどうしてんの。仕事?」
 視線を爪先に蹴飛ばさせながら、思いついた言葉をその侭口にしてみる。
 あれ以来。あの路地裏での酷い分かれ以来一度も会っていなければ顔も見ていない。だから純粋に土方の事が心配だったのは事実だ。山崎や沖田が目を光らせているし本人がそんな性格ではないとは言え、状況を聞くだに、いつ何が切っ掛けになって土方に自棄を起こさせるか知れない。
 「いえ。流石に今日は残務は無しですよ。何しろ明日から出張ですしね。寝かせる為に仕事も奪って来てますんで」
 具体的に『誰』と口にした訳ではないからか、山崎の応えにも銀時の指す名は出ない。
 「抜かりねェなテメーほんと」
 「それはどうも」
 半ば呆れた様にこぼす銀時の溜息に、山崎は少し笑いを乗せた息を吐く。こちらも土方に負けないぐらい疲れているだろう筈だのに、全く勤勉な事だ。
 「しっかし…」
 呻く様に漏らして、銀時は相変わらず収まりの悪い頭髪を引っ掻いた。山崎が疑問符を浮かべて立ち止まるのを待って、不承不承に口を開く。
 「俺、アイツに会う事以外でここの門潜った事ねーんだけど。うっかり会いたくなっちまうじゃねーかチクショー。こんな時に何でわざわざ呼び出されなけりゃなんねぇかね」
 億劫さと面倒さとがない交ぜになって、ついぞ硬い声で文句その他を口にすれば、山崎は一瞬だけ何かを言いたげにしたが、然し直ぐに申し訳なさそうに見える顔に作り変えた。
 「だからそれは申し訳なく思ってますって。なにしろ紙媒体じゃなくてPDAなんですよ。正確には専用の端末内のデータで、持ち出しも書き出しも厳禁って言う代物です。貸与が許可されたのも指揮官二人分だけですしね。俺が端末持って屯所を出たりしたら、即座にGPS探知が働いて警報がけたたましく鳴った挙げ句、内部データは消去されるって寸法ですから」
 「何その、二人で同時に鍵を回さないと開かない金庫的に偏執的な面倒臭さ」
 どうしても持ち出せないが、これに目を通して貰わないと話し合いひとつも出来ない、と。そんな事を言われてここに今呼び出されているのは重々承知でいた銀時だが、そこまで面倒な代物だとは正直思っていなかった。口の端が下がる。
 「無理ないです。何せVIPホテルのセキュリティ情報ですから。色んな関係の要人が利用する場所なんですよ、大阪城は」
 嘗ての天下の台所、太閤の座した地が今では保養地……を装った歓楽街になっている、と言うのは既に知れた話だ。江戸に居を構える幕閣ばかりか、京に近い事もあって貴族らもよく利用しているらしい。そしてそうなると当然一般人の近づける場所ではなくなり、要人を狙ったテロや大規模な犯罪の──行き当たりばったりではなく、周到に計画し内部に侵入して起こす様な大事の起きる率は跳ね上がる。
 故のセキュリティだ、と言われれば銀時も納得を示すほかない。
 「まあ…、要するに警備の具合と地理の把握だろ。オメーもわざわざ面倒な事しねーでも、適当に地図書き写してFAXでもしてくれりゃ良いのに。気が利かねーなホント」
 「いえだからそれじゃ問題が生じるから、まんま現物見せた方が話が早いって事になったんでしょうが。大体、万事屋の何処にFAXがあるんです」
 「昔はあったんだけどなァ。ババアがスルメ送ろうとして壊しちまって以来」
 「何ですその都市伝説級の言い訳。〜ああもう、来てくれた以上すっぱり諦めて大人しくついてきて下さいよ。愚痴ならその内聞きますんで」
 お座なりに耳などほじりながら応じる銀時に、終いには山崎は大きく溜息をついて、諦めた様に両手を肩の高さに上げた。降参するから今は大人しく従って貰わないと困る、と言うはっきりとしたその表現に、「あっそう」とだけ投げて、銀時は渋々頭を掻いた。歩を再開させる。
 体よく、ストレス発散の攻撃の矛先にされた事に山崎は気付いていた様だったが、その場に溜息ひとつを残したのみで、後は何事も無かった風な様子で銀時の先を歩き出す。
 
 ここには余り来たくはなかったのは事実だ。
 だって色々と碌でもない事ばかりを思い出すし、どうしたって恋しくなる。どうしたって気にかかる。
 この侭土方の部屋へと乗り込んで、その侭かっ攫って行けたら、それで良いのなら楽なのに。
 そうでなくとも、顔を合わせてただ、落ち着いて話でも出来ればきっと大丈夫だと思うのに。
 だが、今の自分の存在が土方の精神を大きく損耗する程に灼くだろう事は銀時とて理解している。そして自分もまた、猶も手を振り払って強がろうとするだろう男を前に、碌な言葉を紡げずに傷つけて仕舞うだろう事も。
 何も、土方に対する答えを何も与える事の出来ない『今』では、銀時がどれだけ気休めを連ねた所で届きはしない。それでは囲って閉じ込めて満足したと嘯いているのと何も変わらない。
 だから、もう少しだけ。お前に手が届くまでの間、もう少しだけ。
 今度は絶対に間違えずに、お前の手を取るから。伸ばされようともしない──出来ないその手を、辛抱強く待つから。
 (こんだけ近くに居るってのに……、何て遠さだよ)
 実感のまるで無い距離感を指先で弄んで、銀時は遠い夜空の晴れ間を見上げた。
 (あん頃は、こんな事で悩むだなんて思ってもみなかったんだよな…)
 頭を巡らせ、視界から途切れかかっている方角をもう一度振り返ると、銀時は意識して薄く微笑んだ。
 泣きそうだ。
 ここで見る夢はどうしたって、甘くて優しいのだから。
 

  *
 

 「……オイ。テメェここで一体何してやがんだ?」
 背後から突然そんな言葉を、不審なものを伺う調子でしかない低めの声音で放たれ、作業する手は止めぬ侭で銀時は応える。
 「んー?見ての通りですけど?」
 すれば、きっかり三秒の沈黙の後「だから、」と苛々した様に続けられる。
 はあ、と露骨な溜息まで混じったその様子に、苛立ちよりも疲労の様なものを感じ取って仕舞った銀時は、億劫な動作でぐるりと身体ごと振り返った。丁度眼前の作業が一つ片付いたのだしまあ良いかと思いながら。
 「依頼だよ依頼。お宅らから」
 「…だから何の。つーか聞いてねぇぞ」
 振り向けば、予想通りの土方の顔が、予想以上の顔色の悪さで立っていた。いつもの様に『不審そう』な万事屋さんの姿を前にしても、喚いたりツッコんだり怒鳴り声を上げたりはせずにただ苛々と。否、寧ろ淡々と。
 そんな土方の様子を前にした銀時は、格好を見りゃ一目瞭然だろうが、と投げ遣りに言いかけた口を噤む。
 ちなみに現在の銀時の形は、股引に脚絆を巻いて、鯉口に腹掛け、上には法被、頭に手拭いと言うこれ以上ない職人スタイルである。
 そして此処はかぶき町の中や公共の場、況して万事屋の建物でもない。真選組の屯所の庭だ。
 「より正確に言うとだ。たまったまお前らが雇った園丁の中に、たまったま人手募集の都合があって、たまったまそこの棟梁が俺の知り合いで、たまったま俺も暇だし家賃の催促は来てたしで仕事が欲しかった。以上」
 「…………あァ」
 おわかり?と手の仕草で締めれば、土方は二本の指で自らの額を揉みながら頷いた。
 「園丁?」
 得心がいったならその侭立ち去るだろう、と思っていたのだが、意外にも土方は銀時の言葉に食いついて来た。首がことりと傾く。それこそ不審なものを伺い見る風に。
 「出来んのか、そんな事がテメェに」
 不審そうな視線の割には、少し驚きの混じった声だった。感心する様な風さえも漂う土方の声音は珍しく、存外に気持ちが良いもので、安堵半分に銀時は少し笑った。
 なんだかくすぐったい様な、妙な感じがする。なんだろう、この憶えのない空気は。
 なんでよりにも因って、この男相手に。
 「剪定とかトピアリーみてーなのは幾ら器用な銀さんでも無理だよ?流石に。床屋も出来ねーのに植物の床屋が出来る訳ねーだろ。今回のはホレ、菰巻きだから」
 独白めいた胸中を振り払った銀時が、抱えていた蓆をべろりと拡げて見せれば、土方は眼前に出された菰蓆と、銀時の今し方作業を終えた松の木とを見比べて「ああ」と今度は少しはっきりとした調子で頷きを返して来た。
 「木の腹巻きみてーなアレか。ずっと防寒用途なんだと思ってたら、防虫目的らしいってんで、驚いた憶えがあるわ。昔」
 「そうそのアレ。つーか防虫にも実は効いて無ぇらしいんだよな」
 以前テレビでそんなトリビア的な話をやっていた様な気がしたのでそう付け加えて言うと、土方はまたしても感心の色濃く「そうなのか」と相槌を寄越して来る。
 「まぁ伝統みてぇなもんだからやってくれって感じらしいぜ。これなら園丁じゃねぇ素人でも、指示された通りにやりゃァ良いだけだしな」
 自然と遜る様な言い方になるのに銀時は気付いたが、まあいいかと思い、拡げた蓆を畳んで抱え直した。数米隣にある次の木へと移動していく。
 「ほー」と一音だけながら感心らしき反応を示してみせた土方は、その場に立った侭で銀時の作業を見ている。
 (……なんで見てんだよコイツ……)
 落ち着かない、訳ではない。
 ただ、夏も終わり頃の俄雨の日以来。或いはそれよりもっとずっと前からだったか。どうにもこの、真選組の副長なぞをやっている瞳孔開き気味の男に──正確にはその男の居る空気に──何故か居心地の良さの様なものを感じている自分が居る事に銀時は、大変不本意ながら気付かされていた。興味以上の興味、と。少なくともそんな認識が涌きそうになる程に。
 ……だから。決して、落ち着かない、訳でない、のだ。が。
 (…イヤ。流石に凝視されっと落ち着かねぇ。落ち着ける訳がねぇ)
 松の木に蓆を巻き付ける素振りをしながら、銀時はちらりと背後を視界ギリギリの所で伺ってみた。元より人の気配や視線や意識──総合して殺気と言う事も多い──に聡い事には自負がある。そんな己が他者からの熱心な注視に気付かぬ筈も、思い違える筈もない。
 (…………見てるよ。めっちゃ見てるよ。相変わらず瞳孔開いてるしおー怖。寧ろ寒ィぞこれ)
 視界の端ギリギリの位置に映り込んだ全身黒い色彩の男は、ほんの数分前の遣り取りの時と全く変わらぬ風情で、ただ頭だけをぐるりとこちらへ向け、熱視線と言って良い程の注視を向けて来ている。
 突き刺さりそうだ。と思う。いや既に痛い。居た堪れないどころか居心地が悪い。仮に相手と親しい仲だとしてもこれではまるで針の蓆だ。常にカメラ目線の絵画にじっとりと追われている様な気分にさえなる。
 反りの合わない曰く万事屋の一味を、真選組の敷地に予期せず入れる羽目になっている事で警戒するのは一応理解出来る。目を離した隙に何かやらかしはしないだろうかと疑ってかかるのは、まぁ警察組織の人間として当然至る思考だろう。あちらさんも職務な訳で、その事自体に銀時は否やを唱える心算はない。抗議も特に。
 だが、この注視は違う。絶対に違う。職業柄、或いは今までのこの連中との関わり合いとその起きた状況を思えば、何らかの嫌疑をかけられるのもまあ致し方ないと──不承不承にも思える。然しそれはだからと言ってあからさまな嫌悪や疑いの眼差しを向けられている様な現状を看過するかどうかとは別だ。
 「なぁ、副長さん暇な訳?」
 はあ、とあからさまに呆れた風の溜息を吐きながら、いよいよ銀時が苛立ちも顕わに、作業をする手は止めずにそう口にすれば、そこに突っ立っている土方は視線を僅かも揺らがせない侭、ほんの少しだけ足を動かした。ざりり、と土が靴底に撫でられる音が返事よりも早く返る。
 「暇な訳ねーわ。テメェと違ってバリバリに勤務中に決まってんだろ。どんだけ机周り積んでると思ってんだ」
 何故か逆に露骨に呆れた溜息そのものを、肩を竦める動作と共に返された。眉を軽く寄せて言い放つ土方の表情は『テメェと違って』と己で口にした部分を強調するかの様な顰めっ面だった。
 苛、と、銀時の脳内で苛立ちのジェンガが一つ上に積み重なった。既に倒壊寸前のそれは、足下を危ういバランスにしながら辛うじて立っている。
 「ああそりゃ悪かったな、余計な見張りの手間ァ取らせちまって。つぅか俺もコレ一応勤務中だからね。それにしたってオメーらからの依頼だって知ってたらどんな人手不足でもどんな金欠でも受けてねェわ」
 こんな、背筋に不快感を齎す様な視線を向けられるくらいならば、一食や二食喰いっぱぐれる方が余程マシだ。
 居心地が寧ろ良くさえ感じると、期待をした訳ではないが、ごくごく自然とそんな気さえ感じていた銀時にしてみれば、まるで掌を返したかの様な変容だとしか言い様がない。
 (ま、コイツにとっちゃァ、俺みてぇなのは胡散臭ェ、元攘夷志士の嫌疑を持った市井の一般人でしか無ェんだろうけどよ)
 そんな事は解り切っていたことの筈だったのだが。
 どこか奥歯に苦いものを挟んで擦り潰しながら、銀時は藁紐を巻き終えた。続けて、次の木は、と頭を巡らせたかけたその時。
 「?見張りだの手間だの、テメェ一体何の話をしてんだ」
 ぽつり、と。疑問を投げて来る、土方の正にそんな表情が視界に映り込み、銀時は思わず動きを停止させていた。こちらを伺い見る土方の表情は純粋に疑問符を浮かべており、寄せた眉の狭間には紛れもない困惑の色がある。
 流石にこれには銀時も、何か互いの認識が噛み合っていない事に気付かざるを得ない。
 「……〜だから、」
 お前は胡散臭い部外者を見張りに立ってんだろう、と言いかけた銀時だったが、そこでふと一つの可能性を思いついた。抜き取りかけた苛立ちのジェンガを元に戻す心地で、その場から一歩も動こうとしない土方の姿をまじまじと見つめ返す。
 煙草。無い。
 刀。いつも通りに身体の左側。
 隊服。上着まで相変わらずかっちりと着込んでいる。
 目。こちらに向けられた侭殆ど動かない。瞳孔開き気味。
 顔色。余り良さそうには見えない。というかよく見ると隈が濃い。
 (つーか最初のが有り得ねぇレベルで無ぇ)
 それに、「バリバリに勤務中」などと宣った癖に、焦りも苛立ちもそこには見受けられない。いつもの土方ならばこう言う時は、散々悪態を投げつつも真選組屯所(こんなところ)に銀時が居る理由を問い質したら即座に踵を返している筈だ。当然「とっとと終わらせてとっとと失せろや」と言う感じの棄て台詞を残しつつ。
 こんな風に、銀時がこの場に居る理由に得心してまで、わざわざ自ら監視などと言う暇な真似をするとは思えない。況して、机周りが書類の山だと自分で言い置いてまで。
 「んだよ?」
 ぽん、と手を打つ銀時を、口を尖らせた土方が睨んで来ている。
 「ひょっとしてオメー疲れてんのか?」
 恐る恐る、思いついた可能性をその侭口にすれば、
 「ひょっとしなくてもバリバリに徹夜真っ最中に決まってんだろ。三日までは数えた」
 「今スグ寝ろや!お前どんだけ仕事好き人間ン!?そんな真選組が好きなら真選組さんチの子になっちまいな!ってもう既にそうだったじゃねーかコノヤロー!」
 打てば響く様にそんな事を真顔で言われ、銀時は思わず声を上げていた。この『鬼の副長』さんが常識外れの仕事馬鹿真選組馬鹿ゴリラ馬鹿だとは情報として理解していた心算でいたが、まだまだ認識が甘かった様だ。
 「徹夜記録一人で打ち立ててプチ頑張っちゃった自慢ですか?お前そんなんしてると過労死すんぞ?マヨで成人病死、ヤニで肺ガン死する前に過労死だよ、どんだけ周到に死亡フラグ重ねてんの」
 何処から何を燃料に湧いたとも知れない苛立ちを、屈んで拾い上げた蓆にぐるぐると巻きながら猶もぶちぶちとこぼす銀時の姿を土方は暫し無言で見下ろしていたが、やがてポケットから煙草を取り出して一本くわえた。恐らく銀時がヤニと口にした事で思い出したのだろう。澱みのない手つきで火を点けると、重量感のある溜息を一つ、吐き出す。
 「…まぁ確かに徹夜続きで碌に寝てねぇんだが。外回りから帰った所なんだが。一刻も早く部屋に戻って寝るとか書類を倒すとかするべきなんだが」
 土方はこれもまた珍しくも歯切れが酷く悪そうに、何故か『ここを離れて・寝に行かない』理由らしきものをぶつ切れに、続けて言いながら、くわえた煙草を唇の狭間でゆったりと上下させている。
 (つーか書類に倒すってかかる時点でおかしいから)
 銀時の内心のツッコミは声にはならず、土方の、常にない程遅い思考の妨げにはならない。
 「部屋に戻りゃ多分に書類が朝見た時より増えてんだろうと思う。外回りから帰ったから、部屋で書類を殺るとかしなきゃなんねぇんだが。部屋には書類が増えてんだよ。だから眠い目擦って外回りに出たってのに、帰りゃ書類を滅ぼさなきゃならねぇ。書類は朝より分単位で嵩を増やしてやがるに違いねぇんだ。でも少しぐらい気晴らしにと外回りに」
 「解った、解ったからもういいから。エンドレス書類なのはよっく解ったから」
 外回りに出た→帰ったらデスクワークがある→書類はきっと増えてる→それを見たくなくて外に出た→帰ったらデスクワーク以下略。完全にループしている内容を真顔で、どこか切実な様子さえ漂う口調の癖、淡々と無表情で積み上げて行く土方に、手のジェスチャーも添えて「もう止め」と伝えてから、銀時は蓆を小脇に抱えた侭、空いた手に顔を埋めた。思いの外の重症──と言うより崩壊っぷりに、どこから手をつければ良いのか解らなくなる。
 「マジで大丈夫なのかお前。この指何本に見える?」
 「五十九本」
 「瞬間的にソレ数えられたらおかしいだろ、俺の指は殺せんせーですかとか言うよりお前の動体視力のがおかしいからね」
 土方の眼前に立てて突き出した指三本を、脱力した侭にぐにゃりと曲げ、銀時は全身で溜息をついた。得体の知れない苛立ちよりも途方もない疲労感の方が今では大きい。
 (……つーか何で俺がコイツの不摂生な生活ッぷりを気にしてやらねーとなんねーんだよそもそも。コイツが危なっかしい上お馬鹿なお巡りさんだってのぐらい解りきった事だろうが)
 気には懸かるのだと既に認めて仕舞っている自覚はあれど、それは飽く迄江戸を護る侍たろうとする信念を抱いた有り様に対するものだった筈だ。
 ともすれば迷走しそうな己の思考を捕まえて屈託を深めて行く銀時へと、溜息の代わりの様に紫煙を吐き出した土方が続けて来る。
 「それに、この前から付けられた小姓の扱いが面倒臭くてな。普段ならまだ堪えられんだろーが、徹夜続きの今の俺のコンディションじゃ、切腹とかソフトな事を抜かす余裕も無さそうでな。うっかり鱠斬りにしかねねェ」
 「切腹がソフトな表現だとか鱠斬りにされる様な小姓ってのもどうだと思うんだがツッコむのももう面倒クセーわ…。つーかねお前ら仮にもケーサツだろーが」
 物騒でさえ無い淡泊な表情で物騒極まりない事を口にして寄越す土方の様子に、常より果たしてこれは何割増しで機嫌が悪いのだろうと余所事の様に思いながら、銀時は自らの頭髪をわしわしと引っ掻いた。
 そんな銀時の困惑顔など気にする風情でもなく、土方はまだ長く残る煙草を携帯灰皿へと押しつけた。崩れた灰と共に紙巻きがくしゃりと歪んで潰れる。土方の裡の苛立ちそのものの様に。
 「警察云々の問題じゃねーわ。真選組(ウチ)は良家のボンボンの厚生施設じゃねェんだよ。最近漸く積み重ねた実績の甲斐あって名前が上がって来て色々やり易くなったかと思えば、体の良い厄介者の処分場にされるたァな。
 結局、俺らを見る連中の目は『狗』その侭でしか無ェって事だ。どんだけ小屋や首輪が立派になった所で、家柄だの出世コースのエリート様だのから見りゃァ、薄汚ェ消耗品の野良犬がいいとこなんだとよ」
 珍しくも──これでもう三度目の珍風景だ──吐き捨てる様に、口を歪めて紡がれたそれは、土方にとっての明確な愚痴としか言い様のないものだった。
 『狗』と、そう忌々しげに吐いた言葉は、幕府の狗と日頃疎まれる身には珍しくもない言葉の筈だと言うのに、もっと異質な何かを表す様な響きがある。
 世界を、傀儡幕府の紡ぐ政治やそのシステムが清廉なものでなどはないと、土方は疾うに理解している筈だ。それもまた覚悟の一つとして刀を手にする事を選んだ筈だ。醜くて無様で残酷で優しい足下を知って猶、それを護るを良しとした筈だ。
 (……みっともねぇ愚痴)
 珍しい、と純粋に思う反面で、そんなものをこの胡散臭い部外者に漏らすのは宜しくないだろうと思う。否、或いは胡散臭い部外者が相手だからこそ気が弛んだのかも知れないが。
 (もし俺がスゲー口軽い奴だったらどうすんのかね)
 公然の発言ではないとは言え、聞く者が聞けば土方の頭一つぐらい下げさせられるネタには足りる。やる心算はこれっぽっちも無いが。
 銀時は取り敢えず眼前の、自分の手には到底負えそうもない土方を何とかして仕舞いたかった。いつも通りの互いであれば、適当に悪態を投げて喧嘩に発展しそうになって面倒になって、はい終了。それで良かったのに。
 だが、曰く徹夜続きの土方が、気晴らしに出た外廻りから帰って、部屋に戻れば仕事の山があると渋っていた所に銀時の姿を発見して、何を思ったか近付いて来たらしい事実が今目の前に続いていると言うのに、今ひとつ理解が出来ない。
 幾ら、部屋に戻れば仕事続きで徹夜が更に記録更新になるだろう予感がしたとして、それは土方が──誰よりも真選組に尽くす筈の鬼の副長が、『帰りたくない』とあからさまな行動にして仕舞う理由にはならない様に思えるのだ。
 少なくとも銀時が今まで知って来た限りの土方であれば、そうだったと思う。
 仮に、胡散臭い万事屋の男が屯所の敷地内に居る事が不愉快だったとして──否、そうであれば余計にだ。碌に関わろうともせずにとっとと部屋に戻って、今頃終わらない仕事に明け暮れている筈だ。
 蓆を抱え直しながら、銀時は顔を顰めた。目を閉じて、喉から出掛かった溜息を呑み込む。
 果たしてこれは無用なお節介なのか。或いは興味由来の延長線上のものなのか。
 (らしくねぇのは疲れてるから。その理由自体は『らしい』と言わざるを得ねぇんだが…、)
 老婆心として忠告するのであれば、部外者相手にそんな為体を晒している事にも恐らくは気付いていないのだろう土方へと「お前少し迂闊過ぎんだろ」と言ってやれば良いだけの話だ。そうすれば土方はきっと酷くあっさりとこの事実に気付く。仕事を敬遠している様な逃げの言い種にも、情けのない愚痴にも。
 (……何だろうな。『らしくねぇ』ってのは多分スゲー苛々するんだと思うんだよ。いつかの妖刀の呪いみてーに、コイツが『逃げ腰』な様なんて見たかねぇとは思ってんだよ)
 だと言うのに。胸中でそう反芻した銀時は、己の裡にふと沸き起こって勝手に居座った、憤慨とも何とも呼び難い感情を持て余す。
 胸が悪くなると、そう思っていた筈の胸中は、然し何故か新鮮な当惑を訴えている。
 (……………それも、悪くねぇ、とか)
 好意的とは大凡言い難いが、肯定である事は間違い様が無い。
 恐らく。これは銀時の勝手な想像なのだが──恐らく。
 土方は、彼の仲間や部下、上司の前にはこんな様はきっと晒さない。
 (…………………………それが、悪くねぇ、とか)
 至った結論らしきものに渋面を浮かべずにいられない。銀時は、それきり口を噤んで何処か悄然と突っ立っている土方の方をちらりと伺った。すると、相変わらず自分の手になど負えそうもない、生彩を著しく欠いた横顔が、いつの間にやらこちらではなく遠くの奈辺へと向けられている事に気付く。
 空。
 上向いた横顔の視線を追って、銀時はずっと先まで平らかに続く鰯雲を見上げた。奇妙な連続模様にも似た空模様は陽光を遮る様なものではなく、中天より大分傾きつつある日差しを弾いて柔らかい光を拡げている。
 寝不足の人間の散漫な意識だ。恐らく意味などはあるまい。
 先程、銀時の作業を熱心に見つめていたものよりは何処か遠い眼差しには、幾ら探してみても何か実のある感情など籠もっていそうもない。
 まるで明日の天気の話でも始めそうな空気が満ちる。険悪では無く焦臭くも血腥くも無い、大凡自分たちには相容れない様な静穏。
 (…………………………………そんなのも、悪くは、)
 そう、銀時が回りかけた思考を肩を竦めて除けた時、最初と同様唐突に土方が再び口を開いた。
 「……今の時世で言や情けねぇ話なのかも知れねぇが、俺には剣以外の取り柄は何も無ェ」
 「…?」
 不意にそう切り出す土方が何を言いたいのか解らず、銀時は今一度、整った鼻梁と切れ長の瞳の向けられている方角を追い掛ける。だが、当然の様に空は先程までと何ら変わりない。伺い見た土方の横顔にも何も変わりはない。
 「剣の腕には憶えがあるし、爆弾抱えてアクロバットだの、大工だの、配達屋だの、引っ越し屋だの、園丁だの……、見る度違う事してるテメェは、俺たァ違って器用なんだな、と」
 疲れと寝不足からか。常の土方からはまず引き出せない様な誉める類の言葉に、銀時は思わず目をしばたかせた。
 「あー…」
 小声で呻いて気付く。些かに唐突な切り出しだが、先程の熱心な注視はひょっとしたらそれが原因だったのではないかと。
 (…それは、悪くねーな)
 或いは、寝不足の人間の散漫な意識が生んだ、空をぼんやりと見上げるのに似た、意味などまるで無いものなのかも知れない。
 だが。
 (それだから、悪くねぇんだろ)
 疲れた視界に映り込んだ見慣れた姿の見慣れぬ様子に、何かを思って近付いて来た。
 感心めいた感想をそこに残して、口を開けば草臥れた意識その侭にみっともない愚痴をこぼした。
 たったそれだけの顛末。全ての『らしくない』新鮮なものには、心境の変化などと言うものではなく、ただ単に『寝不足だから意識が散漫になっている』そんな枕詞が付いてくる、そんな、意味などきっと何も無いものだ。だから苛々とはせずに、こんな風に面白がってそれを享受してみている。
 「雨は降らせてくれんなよ?未だ俺仕事中だしな」
 礼も衒いもなく笑い飛ばす風に言えば、今更の様に己が滑稽な事を口にしていたと気付いたのか、土方は少し腰を折って、さも可笑しそうに「く」と小さく喉を鳴らした。
 銀時はそれに釣られた笑いの残滓を目元にだけ残して、菰蓆を抱え直す動作をした。仕事に戻るぞ、と言うジェスチャーに、それでも土方の足がそこから動きそうにない事をはっきりと確認してから口を開く。
 「なぁ副長さんよ、次の松の木まで案内してくんねぇ?」
 ここって無駄に広いからよ、と続ければ、土方の顔が奇妙に顰められた。鋭い眼差しが訝しげに、ほんの十米程度離れた所にある松の木を捉えながら、開き掛けた口の逡巡と同じ様に揺らぎ、それからゆっくりと銀時の方へ戻って来る。
 「……残り、何本だ?」
 その視線は銀時の抱えている菰蓆を観察してはいるが、なにせやった事もない菰巻きの作業だ。一本の木に使う量の見積もりなど出来る訳もない。
 「さあ?聞いてねーから」
 わざとらしい銀時の言い種に、妙な鼻利きの土方が何も感じない筈は無い。
 誘いは酷く単純で下らない。まるで悪戯を嗾ける子供同士の様な質のもの。
 だが土方は、隈を少し目立たせた常より生彩の無い顔に、決闘を受けて立つ剣士にも似た物騒な笑みを浮かべてみせた。
 それを見た銀時は、艶やか過ぎる花を摘み取って仕舞った時の様な、後悔とも満足感とも知れない心境にひととき陥る。
 「有り難がれよ。泣く子も黙る真選組の副長が、手ずから胡散臭ェ部外者の見張りしてやろうってんだ」
 「わーそりゃうれしーや」
 棒読みの台詞とは裏腹に、銀時は先に歩き出した。その後を続いて来る足音にも気配にも、躊躇いの類は一切感じられない。
 真選組屯所(ここ)に在るのに、最もそぐわない様な奇妙な温度差に感じるのは、ひたすらに違和感と、それを吝かでないと思う自分自身への疑問そのものだったのかも知れない。
 だが、銀時はその時はそれを深くは追求しなかった。
 その正体が、真選組ではなく銀時を選んでくれた事そのものなのだと気付いたのは──仮令睡眠不足に始まる建前があったとして──、それからずっと、ずっと後の話になる。
 
 
  *


 眠りはきっと浅かったのだろうと思う。或いは神経が過敏になっているのか。
 小さな音を耳が捉えた気がして、土方の意識は緩慢な眠りの淵から僅かに引き揚げられていた。
 遠征の前の大事に、碌に寝付けもしなかったなどとはおいそれと言えるものでもない。仮にも警備の主任を任されている身なのだから余計にだ。
 とは言え、佐久間より急に下った『関西への出向の護衛』などと言う任務を額面通りに受け取る心算など土方には端から無い。
 山崎はそこに危険の臭いを嗅ぎ取った様だったが、土方の勘が告げて来たのはそれとは少し赴を異にする。
 この時期のこのタイミングのこの謀。即ちこれは聡い部下の進言した『危険』であると同時に、紛れもないチャンスなのだと。
 眠りの海に未だ半分程捕らわれている憶束ない頭がそこまで考えた所で、今度こそはっきりと耳に音が飛び込んで来た。
 ひた、と、廊下の床板を踏む音。それとも気配か。理解した瞬間には土方の脳は覚醒していた。目は未だ閉じた侭、日付が変わって数刻程度かと疲労具合や眠気の残滓から計り、音も立てずに布団から右の手を抜き出す。
 ひた、と、もう一度音がした。気の所為と言う選択肢を完全に抹消すると、土方は伸ばした右手で、布団端に常に置いてある脇差しの鞘にそっと触れた。
 愛刀は床の間の刀架に置いてある事が多く、今もそこにある。そもそも刀では尺が長すぎて狭い室内での取り回しには向かないので、いざと言う備えに脇差しを布団端に置いてあるのだ。
 だが余り慣れない武器での戦いは有利には運ばないので、飽く迄一時凌ぎだ。実際土方は自室で賊に寝込みを襲われた事などないが、脳内のシミュレーションでは、脇差しで取り敢えず初撃を捌きつつすぐに愛刀を取りに行っている。
 頼りない訳ではない。飽く迄刃は刃だ。思いながら、ぐ、と鞘を掴む手に力を込めた。
 目は未だ閉じた侭。眠っている様な姿勢は何一つ崩さず、気取られぬ程度の動きで手だけが刃の鞘にそっと触れている。
 ひた、 ひた、 ひた、と、歩調の正しい足取りは徐々にこちらへと近付いて来る。この辺りは事務仕事を行う区画で、就業時間も終わり灯の落とされた夜に近付く者などいない。そして、足音の主が向かう方角には土方の今眠る副長室しか無い。
 山崎だろうか、と寸時考え、即座に否定する。あの監察の部下は思いの外に気配りの出来る所があり、土方の部屋へ近付く時には態と、自分である、と言うアピールを足音に込めて来る。
 (いや、)
 閉じた侭の瞼に力が込もった。そもそも、この足音の具合は裸足のそれだ。真選組の隊服を纏う者であればそもそも裸足でなど歩かない。私服の時は別だが。
 深夜の副長室に向かう、裸足の足音。
 規則正しく、体重の乗った足取り。姿勢も恐らく良い。
 「──」
 ひゅ、と土方は思わず息を呑んだ。脇差しの鞘を握る手指が強張る。
 そんなものに該当しそうな足音を立てる者などほかには。
 否。そもそも、この足音を俺は知っている。こうして訪れる者の正体を俺は知っている。
 ひたり。 足音が、そこで止まった。
 瞼に降り注いでいた、縁側から斜めに差す月明かりが何かの影に遮られるのを感じて、土方は益々強く目を閉じた。
 開けばきっと見える。見えて仕舞う。障子の向こうに浮かび上がる、銀色の輪郭を持った人影が。
 唇を強く噛んだ。そうしなければ喘ぐ様に無様な悲鳴を漏らしそうな気がした。ばくばくと鳴る心臓と、背を濡らす冷たい汗、漏れそうになる早い呼吸までもが気取られそうに思えて、石の様にじっと硬直する。
 強張った指だけがぎりぎりと凄まじい力で鞘を握り締めていて、その感触だけが現実に縋る術だった。
 (何が、)
 一体『何』が怖いのか。『何』を恐れると言うのか。この鬼の副長が。
 なにひとつまるで理解出来ない侭で、廊下に立ち尽くしている気配に向けてただ焦燥感だけが募って行く。
 そうしてどれだけの間怯えた様に硬直していたのか。硬く瞑った瞼の上で、やがて影が先に動いた。
 ひた、 ひた、 ひた、と、来た時同様の足音を引き連れて、憶え深い気配の主は遠ざかっていく。
 「──、──、」
 は、と苦労して大きく息を吐き出しながら、土方は力を込め過ぎて痛い瞼をゆっくりと持ち上げた。ずっと無理矢理閉ざしていた為に涙の滲んだ眼球が、僅かの月明かりでさえ眩しく視界を拡散させて網膜を灼く。
 それからこわごわと、鞘を握った侭でいた手指から力を苦労しながら抜けば、薄らと汗ばんでいる筈の掌は酷く冷え切っており、それが己の今の醜態を知らしめて来ている様に土方には感じられた。
 くそ、と声には出さず呻き、布団を顎まで引き上げるとほぼ俯せに転がり、背を丸める様にして身を縮める。
 まるで怯えている様だ、と客観的に問いかけて、もう一度否定が返るのを待つ。
 何が怖いのか。
 否。
 (……もしも、あの野郎が部屋に踏み入る様な真似しやがってたら)
 静かに問えば、土方の脳は至極単純な帰結を弾き出す。つまるところ、侵入者として叩き斬るだけだ、と言う。
 だが、それはおかしな話だ。それは最も己の今避けるべき解答の筈なのだ。
 銀時と、その周囲の連中が平穏に普通に生きながらえて行く事が土方の望んだ事だったのだから、仮に銀時が何かを思って夜這いめいた事をしたとして、それを斬り捨てようと言うのは、矛盾する。
 かと言って、戸を開けようとしたら斬っていただろうと想像が容易いのは、部屋に──己の裡には今踏み込まれたくなど無かったと言う事だ。
 矛盾している。
 残る可能性は、銀時の反撃を誘う事。
 (…………斬られたかった、のかも、な)
 嘯く様な呟きに、自然と自嘲めいた皮肉げな表情が浮かんだ。
 (…それも、矛盾してる)
 溜息が喉を震わせて、笑い声の様に響いた。じくじくと痛む何処かに、酷く障る声だった。
 こんな、解りきった可能性の中にも答えを見出せず、目の前のものを斬り捨てて目を逸らして思考停止するのを望む、子供の癇性めいた感情を持て余すのは久し振りだ。
 ふん、と自分に辛辣に吐き捨ててから、ふと土方は閉じかけた瞼を持ち上げて、先頃目を逸らした障子を見上げてみた。
 ここの所ずっと続いていた曇り空はいつの間に晴れていたのだろうと、差し込む月明かりを見て首を捻ってみるのだが、一体いつから空が気まぐれに晴れ間を見せていたのか、まるで思い出せそうも無かった。





江戸以外の地方は実際どうなってるのか解らないので適当設定通りますその3。

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