花の無い庭 生憎の雨天で順延した演習は、予てからの予定通り翌週に行われた。 一週間の間に梅雨はすっかり明けきり、それまでの連日の曇り空やすっきりしない雨は何だったのだろうと言う程に、からりと晴れた空に居座った太陽は容赦なく地上を照らしていた。 今までサボっていた分取り戻しますんで、とでも言う様に、相当に働き者らしい陽光はじりじりと隊服の表面を焙って内側の温度を上げて来ている。未だ夏には早いと言うのに、今年も盛夏になりそうだと想起させる様に、全く見事な晴天だった。 演習とは言え真選組の実働部隊全てが参加する訳ではない。合同で捜査や治安維持活動を行うケースを見越した、所詮は警察組織同士のレクリエーションの様なものである。 基本的に縦割りの組織構造は、お世辞にも融通が利いたものとは言えない仕組みをそれぞれの裡に持っている。その事が昨今マスコミや市井から声高に指摘され始めたのもあり、形だけでも──或いは本格的に緊急事態の時にでも、互いの組織に計れる便宜と言う建前が必要とされた為、こんな、単なるポーズに近い催しが試みられている。 今は、何れの組織の指揮官であれど連携を計るべく──だかなんだかで、真選組の実質指揮官位である土方に出番はない。暫くの間は双眼鏡で互いの組織の動きを学んだり、身内の欠点を探り出したりと言った事を熱心に行っていたのだが、正直この暑さと、広報向けの『良い』画を作る過多な『演出』とでそろそろうんざりし始めていた所だ。 一応は演習場の方へ視線は投げているが、遮るものの何もない場所に暴力的に照りつける日差しに、意識は余り正しく向いてはくれていない。夏の寸前の晴天は、未だ慣れない体調や季節に変わっていない服装には実に厳しいものであったと言わざるを得ない。見下ろした足下の影は大分くっきりと黒かった。昔採石場だった空き地などと言う、無駄に空の拓けた場所柄が恨めしい。 後方の『本部』では仮設の屋根だけのテントが設営されており、松平を始めとする警察関係の高官、局長クラスの人間はそこから広報部隊の撮影するライブ映像で状況を『視察』している。 土方がそこを離れて、演習の行われている『現場』に程近い、野晒しの高台を選んだのは、一応己が現役の現場の指揮官である使命感の様なものがあったからだ。 まあ、そうでなくとも、そんな『本部』に長時間居座る心算は端から無かった。何しろ人事異動の大事の直後だ。互いに腹の探り合いから入る友好関係を愉しむ幕臣らの下衆な話の肴にされるのなど土方の望む処ではない。 大粛正とそれに端を発する人事の変動は、世間的に既に一定の落ち着きを見た。幕府高官らの『新しい』役職も既に公の知る所となり、大阪城の一件の騒ぎも粗方『愉しい』処を突き終えたのもあってか、鎮まっている。 この人事──と言う名の変革で、今の徳川治世がどう傾き出したのか。良きか、それとも危うきか。或いはどう変容し始めたのか。それは末端の人間である土方には未だ知れぬ事だ。佐々木辺りに言わせれば、絶対の安寧の政治の支配する世など有り得ないとでも素っ気なく答えてくれそうだが。 政権を握る定々公の周辺には、ただでさえ黒い噂が絶えないのだ。国を安定に導いた名君として頌える声の多い反面、その『黒さ』を醜聞と見る者も多い。前将軍がそうして少しづつ自らの手駒を集めて築き上げた牙城が揺らいだその時、果たして其処に裁決の刃を突き立てるのは何者になるのだろうか。 天導衆か、一橋派か、腹中の虫か、それとも傀儡の現将軍か。或いは過去に残した過失、『黒い』呪いやも知れぬ。 何れであったとして、それを斟酌するも付け入るも、それは土方の役割ではない。些か腹立たしい話ではあったが、今井信女の言って寄越した様に、己は組織の、人にとっての刃でしかないのだと、強く実感させられた、と言うのもある。 後はもうなるようになれ──成った時に、皆が選択を誤ったと恥じず進める途さえ作る事が叶うのであれば、それで構うまい。 一応仕事中であったが、気にせずくわえていた煙草を携帯灰皿に押し込んで、新しい一本を取り出しかけた所で土方は躊躇う。この暑い中暑い火種を顔の近くに据えるのも如何なものか。暑いからこそ苛立ちも手伝ってニコチンの摂取をしたい所ではあるのだが。 纏う隊服は、遅い衣替えを未だ迎えてはいない。既に夏用のものは(山崎の手で)用意されていたのだが、どうせこの野外演習で汚れるのだろうから構うまいと、つい冬生地の侭で来て仕舞っていた。ただでさえ重たい羅紗の上着には動き易さと保温とを兼ねた裏生地が縫いつけてあるのだ。身体と衣服との僅かな隙間には逃がせない熱が籠もっていて、暑いと言うより最早苦しい。 項や頭髪の根元がじわりと汗ばんでいるのを感じて、土方は熱の籠もった溜息を吐きながら双眼鏡を覗いた。実際演習の様子が気になったと言うより、この蒸される様な暑さから気を散らしたかっただけである。 建物に立てこもったテロリスト相手に、人質を救出しつつ突入・鎮圧する『作戦行動』の途中らしい。頑丈な建物を模した模型の中で、攘夷浪士役の扮装をした人員が周囲の岩陰からの狙撃を警戒して壁際に貼り付きながら、人質役に模造銃を突きつけているのが、高性能なレーザーレンジファインダーの双眼鏡にくっきりと映し出されている。演習が行われている場所は少し窪地になっており、僅かに高低差のある土方の立ち位置からは見通しがとても良い。 これが訓練ではなく実際の事件であったら、この場と、他周囲数カ所に腕の良い狙撃手を連れて来れば事足りる所だが、生憎実際の事件の現場は市街地である事が殆どだ。市街地は建物や人が煩雑に溢れており、こんな絶好のロケーションで見物を決め込む事などまず出来ない。 仮に適ったとして、現場に近付かず後方からのんびりと指示を出す指揮官など、発言力が強い以上の役には立たない。戦場で、現場で、実働し命の遣り取りを行う兵たちと同じ空気に晒されてこそ、その命を預かり指揮を執る将たる説得力が通じると言うのが土方の思う所であるからだ。 通信手段の発達した現在では、土方のそんな考えは寧ろ古くさいものに類するのかも知れない。現場で汗みずくになりながら、慣れない臨時上官の指示を受けて演習に励む者らが、天蓋の下でのんびりと映像を見ながらあれやこれやと世間話に交えた『作戦』を立てる連中をどう思っているかは知れないが。 己の信頼出来るものではない、そんな将に命を全面的に預ける様な真似は少なくとも土方には出来そうもない事だ。 そう、例えば。どこぞのエリート様が未来の警察庁長官になぞ就任したその暁には──果たして真選組は、自分は、どうなっているのだろうか。 ふん、と殊更にあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らせば、背後から足音ひとつ立てず近付いて来ていた気配がそこに立ち止まった。今更の様に、じゃり、と靴音を立てて、残り数歩を詰めて来る。 「そんな所で呆けていると熱中症になりますよ。炎天下では適度な水分の補給と、直射日光を遮蔽物で避ける事などの自己管理が励行されている筈です。民の生活を護る役割を負った我々警察が無様に倒れる様な事はあってはならない事だと、努々お忘れ無きよう」 正論ではあるが、嫌味と言うより棘を潜ませた平坦な調子でそう言うと、土方の真横に立ち並んだ所で佐々木は足を止めた。 「自己管理ぐらい出来てらァ」 苦々しくそちらを一瞥する、そんな土方に向けて「どうぞ」と差し出される一本のペットボトル。見れば普通の市販のスポーツドリンクだ。僅か汗を掻いたその表面を見るだに、演習後の隊士らに配るものだろう。クーラーボックスに入れて運搬されているのを先頃目にした憶えがある。 礼も言わずペットボトルを佐々木の手から無造作に奪い取ると、なんとなく成分表などにぼんやりと視線を落としてから、キャップを捻った。ぷし、と新規開封時特有の音がするのに目を眇めつつ、遠慮無く煽る。 「ならば結構ですが。何しろ今日はこの季節には些か不向きな暑さですからね。……土方さんはお疲れですか?顔色も余り宜しくない様ですが──まぁ、老婆心程度の忠告と思って下さい」 土方の不作法さには特に気にした風情でもないどころか、珍しく携帯電話弄りもしていない佐々木は、急な青天の忌々しさを示す様に雲ひとつない空を仰いでみせた。密かに伺い見るその横顔にも、同じ様な服装に包まれた身にも、汗などひとつもかいている様子は伺えない。その鉄面皮の顔面同様に表に出ないだけなのか、本当に暑さなど意にも介していないのか。 喉を潤したペットボトルに蓋をして、濡れた口元をぐいと拭った所で、不意に「そういえば」佐々木がそう口を開くのに、土方はまたしても露骨な渋面を拵えた。このスポーツドリンクはこれからの本題の為の手土産と言った所かと思えば、潤した筈の喉奥で僅かの吐き気を憶えるのを堪えきれない。 「先日は『紳士協定』の共同作戦に応じて頂き、ありがとうございました」 「──」 男の淡々とした口調が紡ぐ、ついぞ聞き覚えのない感謝の言葉をはね除ける様に、土方は刺々しい警戒心を隠さず睨み返した。 言うまでもない。佐々木にとっての目上の『雑草』──一橋派の幕臣を真選組が逮捕する様要請を受け、見廻組は見返りの様に一橋派にとって目障りだった定々公の取り巻きの幕臣の一人を逮捕した、件の話だ。 結局、土方が──真選組の副長が拉致されたと言う出来事そのものはその為の『作戦』のひとつとして関係者の内々では認知、処理され、具体的には『無かった事』になった。少なくとも真選組副長の拉致監禁については、佐々木が土方当人に無断でそれを行った事実ごと公文書の一切にそれらしい記録は残されず抹消されている。 無論、それに携わった関係者の動きも含めて、だ。これも無論。一般人の手助けも含めて。だ。 全く無関係の幕臣がほぼ同時に、献金や汚職の容疑で降格及び処分を下された。それは大粛正の中のひとつと数えられて終わっている。 残された結果だけを見れば、紛れもなく土方にとっては望むところのものでしかない。のだが。 「……そいつァ何の話だ?」 無かった事、として処理する様働きかけたのは誰あろう佐々木自身だった筈だ。今更混ぜっ返す話でも、茶飲み話にでも世間話にでも取り出すにしては、明かに話題を間違えているとしか言い様がない。手の中のペットボトルを軽く弄びながら、乗ろうとはせず躱した土方の横顔に向けて、佐々木が寸時視線を投げて来る気配がする。 何かを言おうとする空隙ではなく、様子を伺うものでもない。僅かの駒運びの思考の間の様なものを挟み、然し不快そうな表情を少しも動かさない土方に、先に諦めたのは佐々木の方だった。 「随分とつれない返事だ。『仲良く』お茶を飲み交わした仲だと言うのに」 「そんな憶えは無ェ」 安い挑発の意図を感じないでもない佐々木の言い種に、ここは心底本気でそう断じてから、土方は双眼鏡を再び目元に当てながらそっと目を眇める。 「そんな下らねぇ冗談を言う為に、わざわざ『本部』からお出でになられたのですか。見廻組局長殿は」 慇懃な調子で紡ぎながら戦況を見遣れば、攘夷浪士の立てこもる建物に閃光手榴弾が丁度投げ入れられた所だった。泡を食った様に、別の階に潜んでいたらしい仲間(役)が的外れな場所へと自動小銃を乱射しているらしく、発砲を示すマズルフラッシュ代わりの光が銃口でちかちかと点滅するのが見える。 現場で実際こんな乱戦になったら突入部隊はもちろん人質の身が危険である。誰が命じたのかなぞ知れないが、些か浅慮と言わざるを得ない御粗末さに思わず舌打ちが出る。突入のタイミングは敵の全ての数と位置を把握し、それを全て同時に無力化可能な状況を作ってからと言うのがセオリーだ。 まあこれは所詮演習の話だ。誰も傷は負わないし、それなりに『厄介』な敵を相手取って人質を全て無事に(負傷の危険性はゼロだから当然だが)制圧しました、と示した方が警察組織的な意味では絵になる。だから構わない事なのだろうが。(そもそも慣れない臨時の指揮系統に現場が混乱しているだけなのかも知れない) 自分が指揮を執っていたらもっと安全且つスマートに事は運ばせるが、犯人の何人かの首ぐらいは状況次第では飛ばしているかも知れない。それこそ、警察組織的な絵面で見れば、市井からの批難のひとつやふたつは受けそうな結果になるだろう。思って、違えないだろう想像に土方は口の端を下げた。急激につまらなくなり、双眼鏡を下ろして嘆息する。 「『本部』に居ても、日陰以外の利は何ら得られそうもなかったものでしてね。どうせ同じ暇ならば、アナタと軍略についての談義でもした方が建設的かと思いまして」 「話す前から暇と決め込むぐらいなら大人しくお帰りになってやがって下さい」 人を食った様な物言いに、苛立ち紛れにちらと見遣れば、横の佐々木も同じ様に双眼鏡で戦況を具に観察していた。それを見て、このエリート様の指揮する方向性は、果たしてあの眼下の御粗末な作戦か、それとも物騒な田舎侍の流儀かとぼんやりと考える。 ──否。恐らくはどちらでもあるまい。先の『紳士協定』の様に、リスクとメリットと無駄と他者への洞察とを綺麗に選り分け、事も無げに淡々と最適解を達する指示を行うに違いない。戦前に居たとして、後方に居たとして、このエリートの合理的且つ効率的な思考が何か誤りを犯すとはいまひとつ想像だにつかない。 (……これじゃあ、野郎を認めてるって話になっちまうか。まあ悪い意味じゃァ間違ってねぇが……) その、合理的且つ効率的なエリートの思考が弾き出した結論──今に至る現状──は、些事程度とは言え目障りだった筈のこの野良狗を何故か生かす事だった。佐々木自身は、白い鬼に怨まれたくないなどと嘯いていたが──果たしてそれだけが理由などとは、土方には矢張り思えない。 何故俺を殺さなかったのだ、と。幾度問おうとしたか知れない。『紳士協定』を含めた他はともかく、少なくともこの一点に於いては、エリート様の思考とやらでは土方には理解出来ない。 或いは。喩えるならばそれは布石の様なものなのかも知れない。土方、真選組、そして、白夜叉。彼らの動きに寓意で働きかける何らかの布石。──銀時ならば縁などと言うやも知れないが。 下らない上に碌でもなく、埒もない。想像さえも届かないそれは、果たして理解せざる『敵』のものなのか。 先は未だ見えない。思考も未だ徒労にしかならない。猜疑心と嫌悪感だけの判断は単なる己の勘でしかない。だから、真選組として全てを疑ってかかる訳にはいかない、のだが── ひとつ、諦めに似た感情を引き擦り出しながら、土方は、自身にとって大変不本意でしかない事を大人しく口にすることにした。先の疑問はともかくとして。なんとなく。これを言っておかなければ、いつまでも借りを作った様な心地が続く気がしていたのだ。 「……言っとくが、礼を言う気なんざこれっぽっちも無ェからな」 すれば、佐々木の目が僅か細められた。中身を減らしたペットボトルの飲み口付近を掴むと棍棒の様に自らの肩へと、とん、と乗せて、その侭背を向けようとする土方の動きを緩慢に追って来る。 その指す意味が、スポーツドリンクの『差し入れ』だの、暇つぶしの談義だのに掛かるものではない事ぐらい、エリート様の頭脳であれば直ぐに至った筈である。 謀らずも、佐々木が銀時を嗾けたそのお陰で、土方にとっては利になる結果を多く含む『現状』を招いた事は事実である。 それを佐々木の好意だの、他人の恋愛事情に対する橋渡しなどと言う薄ら寒いものであるとは当然思わない。だが、一度は首を取る好機を見過ごしてまで導いた、この『現状』にまるで意味や佐々木にとっての利する意味がないとも思えない。 そしてそれは土方にとって不穏さや不気味さ、理解し難い未来像を想起させるものに相違ない。 今はまだそれを問い詰める心算も、理解出来る心算も無い。 そう──今は。未だ。 佐々木の視線を振り切る様に、止まりかかっていた足を再び動かした時、ピィィィ、と、演習場の方から甲高いホイッスルの音が上がった。どうやら立てこもり犯の制圧は完了したらしい。次の『演目』は何だっただろうか。半ばどうでも良く考えながら歩き出す。 尤も、フラフラしている癖にある種の包容力や聡さを持つ何処ぞの銀髪頭とは異なり、このエリート様にそんな気遣いを期待するだけ無駄だったらしい。 演習を見るも、飽いた。だから、と言わんばかりに完全に背を向けた土方へと向けられた声は、想像以上に突き放された、やれやれ、と言った響きを持ったものだった。 「ご自分で否定しておいて混ぜっ返すとは、アナタらしくもない」 その呆れは、浅慮や、愚かだと咎めるより。もしも何かを言う気があるのであれば、先に佐々木の振った時に返していただろうと。そんな、土方の生来の短気さを当て擦って嘲笑う様な意味に違いない。 「まあ、こちらとしましても存外に愉しむ事が出来ましたので。別段恩を着せる様な心算はありませんからご心配なく」 そう、笑う声は、揶揄ではなく矢張り、嘲笑。 「…ですが、アナタ方のその、人間くさい…とでも言いましょうか。そう言う所は嫌いではありませんよ。大凡エリートにとっての理解には程遠い感情ではありますが」 「………」 そんな佐々木の言い種からは、常識的な感性を持ち得ぬ者の傲慢は感じ取れなかった。心底に理解も共感も示さない、示したいとすら思ってはいない。そんな絶対の隔絶を感じる。 育った環境、作られた人生、人間としての依る標。それらが僅かでも異なるだけで、同じ惑星の同じ人種同士ですらこうした隔たりを相互に生む。 そんな当たり前の事だけを取り出してみても、あの銀髪の侍に己が出会い、惹かれたのはどれ程の僥倖であったのかと知れる。 世界や政治の歪みなどより、人間の心が最も難く煩雑で厄介で──面倒臭い。 自分ながら下らない思考の間となった。苦々しく吐いた息をその場に残して、土方は未だその場に佇んでいる佐々木から離れる様に歩き出した。『本部』に戻る気もない。かと言ってサボる訳にもいかないのだから、適当に見物場所を変えるつもりだ。 野良狗の一匹など所詮は関心の埒外だろう筈の、エリートの涼やかな声がその背を静かな調子で送って来る。 「いずれ、また近い内に。土方さん。坂田さんにも宜しくお伝えを」 お断りだ、と思ったが、返事も反応もしなかった。 * 日中の暑さが嘘の様に、陽が沈む内に気候は穏やかなものへと転じた。風が少し出て来たのもあって、空は秋雲めいた巻雲を暮れなずむ空に描いている。昼間はあれだけ晴れていたと言うのに随分な話だ。 袂から取り出した携帯電話で時刻を確認すれば、約束した時間より少し早めだった。だが別に早いに越した事はないだろうと、土方は短くなった煙草を棄てて新しい煙草をくわえた。火を点けたそれを唇の間で暫し揺らし──己が緊張しているのだ、と言う事実に気付いた事で顔を盛大に顰める。 その視線で見上げるのは、スナックお登勢の横道から二階へ続く、万事屋への階段だ。何度も通い慣れた筈のその一段一段が妙に遠く高く感じられる、それこそがこの緊張(らしきもの)の正体なのか。 やがて、ふう、と吐息と共に肩を落とした時には、煙草の長さは随分短くなって仕舞っていた。怖じ気づいている訳では断じてないのだが、なんとなく、むず痒い、と言うか。居慣れない様なものを感じて仕舞うのは、この階段の先に在る『家』の中には、家主である銀時だけではなくその『家族』らも居るからである。 正確には万事屋の従業員である二人の子供らと一匹のペットは、銀時の『家族』ではない。血の繋がりがある訳でも、親類縁者と言う訳でもない。だが、彼らがそんなものより余程確かに『繋がって』いるのを、土方は何度も見て来たし、確信もしている。 その絆は土方にとっての近藤や沖田、真選組の仲間達の様な存在と似た様なものだろうか。全く何処までも、こんな所まで似なくても良いだろうに、と思って薄く笑う。その、似た者同士の気質が引き寄せたものが今の関係性なのだと言い切って仕舞う程には単純なものではないだろうとは思うが── 『何』が『どう』変わる訳ではない。恐らく、今後も。 銀時は万事屋稼業で厄介事に巻き込まれたり、儲けにもならない仕事をしたり、フラフラとパチンコ屋へ出掛けたり、街で出会った土方の足を止めさせたりするのだろうし。 土方も今まで通り勤勉に職務に励んだり、幕臣らや佐々木の嫌味な会話に辟易しながら仕事を終えた後、埒を開けに銀時の元へ赴いたりするのだろう。 そんな様はきっと穏やかで心地よい。平凡では決して無いだろうが、土方の欲していたあの男の世界が、煩雑な庭が、其処に在るのだから。 自らのくわえた煙草の煙を吹き散らす様に僅か笑むと、土方はゆっくりと階段に足をかけていく。 繰り返そう。今日の万事屋には二人の従業員と一匹のペットと、家主とが居る。そしてそんな、万事屋にとっては『いつも通り』なのだろう光景に、プライベートの状態の土方が敢えて踏み込むのは初めての事だ。 銀時と二人で居る所に誰かが帰って来たり、二人と一匹の何れかが普通に同じ屋根の下に居た事は幾度かあった。特別そこに入り込む心算など無かった、土方が身の置き所を困る様な時になし崩しに食卓につかされた事もあった。そんな土方が居心地の悪さを感じる事が無い様にと、態と食費を無心する真似をされた事もある。無論、半ば本気だった様なので眉尻を思い切り吊り上げて応じてやったが。 詰まる所、基本的に土方は『万事屋』の中に踏み込む事を避けたいきらいがあった。銀時の世界の裡に無遠慮に入る事を躊躇ったと言うのもあるが、チンピラ警察などと称される自分が、法律的な意味でギリギリな位置に居る事の多い万事屋稼業の人間たちに歓迎されるとは到底思えなかったから、と言うのが最も大きい。 土方は大凡人好きのする性質とは言えない。職業も同じくだ。その自覚も無論ある。些か情けない話なのだが、銀時の大事にする者らに相対した時に露骨に厭な顔をされるのを恐れていたのだ。 そんな土方を今日、万事屋の『普通』の日に呼んだのは銀時だった。何でもこの間の拉致事件の折に、子供らも積極的に土方の捜索に乗り出してくれたからだ、と言う。訳知りの銀時に「苦手かも知れねーが礼ぐらいちゃんと言ってやれや」、などと言われたら断れる訳もない。 実際、土方は屯所に戻ってからの報告で知ったのだが、子供らの突き止めたと言う拉致の『事件現場』を鑑識に掛けた所、佐々木の私用車のものと同一の車種のタイヤ痕が検出されたそうだ。生憎と、そのタイヤ痕以外の、監視カメラなどに因る、佐々木の車が拉致事件の時間に現場に在った、と言う証拠は出なかったそうだが──恐らく事件を起こした時点でカメラの類には細工がされていたのだろう。沖田は珍しくも露骨に悔しそうな顔をしていた──、何かの折に佐々木にこの意趣めいた隠し球を披露してやれば、僅かばかりの反撃にはなるやも知れない。その点では一応の収穫と言えた。 土方としては、紛失したことで弁償する羽目になっていただろう、藤の屋の貸し出し傘を取り戻せた事は純粋に有り難い。そう言う意味もあって、子供らの手柄に感謝する事に異論など無い。 が。改めて、と言われると少々腰が退ける。それ故の足の重さで、土方は常にない程緩慢に万事屋の玄関まで辿り着いた。 短くなった煙草をまた携帯灰皿に押し込んで、新しいものを探りかけて、矢張り止めた。残り本数の少なくなっている煙草の箱を手の中で弄びながら、結局は袂に戻して、もう一度携帯電話で時刻を確認する。 初めてのデートに浮かれる子供でもあるまいし── 勢い、開いた携帯電話でメールを確認する素振りをしてから(誰が見ている訳でもあるまいに)、土方は猶も往生際の悪い己を叱咤する様に、「ままよ」と、寸時の躊躇いを振り切って思い切りよく呼び鈴を押し込んだ。それこそ秘孔を突く様な勢いで。 そう言えばこの家に入る時に呼び鈴の類を押した憶えも無かった様な気がする。などと今更の様に思いながら。 ピ、ンポーン。 軽いトーンの、何でもない様な音が土方の鼓膜にじっとりと響き渡る頃、玄関戸の内側に人影が近付いて来るのが、物音を聞くまでもなく磨りガラスの内側に見えた。 「はいはいはいィ」 がらりと横に開かれる戸。その内側から顔を覗かせた、裸足で三和土に下りてきている男の姿が、まるでいつも通りの様だったのに少し安心なぞ憶えて仕舞うのを呆れ混じりに認めて。土方は呼び鈴を押した手を引き戻して腕を組んだ。 「よ。待ってたぜ」 台所にでも立っていたのか、ガーゼ地の手拭いを使って二の腕まで濡れている手を拭いながら、銀時は玄関口から少し横に引いた。どうぞ、とでも促す様に笑ってみせる。 その余りにも憎らしい『得たり』と言う様な笑顔が、土方が長い時間を掛けて『ここ』に至った事を見抜いて、それを解っている風だったから。 諦め、と言うより、これは──負けだ。 「邪魔するぜ」 眉間に自然と寄りかかった縦皺を返す笑み一つで吹き消して、土方は銀時の横を摺り抜けた。その背後で、からら、と再び戸の引かれる音。 生来、どんな事にも『負け』のつく事なぞ好まない土方だったが、この感覚はそう悪いものではない。解りながら受け入れる、男の自信や包容力には、到底己では適いはしないのだろうから。 「な、土方」 押す様に、促す様に、宥める様に。土方の背にぽんと銀時の右の掌が当てられた。 戯けた様な声が優しく囁く。 「ようこそ、我が家に」 今度こそこれにて蛇足と言う名の回収業まで終了です。回収はしても消化不良点がふごご。でも終わりです。 なッがい事お付き合い下さり、また拍手や御言葉を頂く事でなんとか駆け抜けられました。ありがとうございました!…いやホントに。ホントに。 : ↑ * * * 蛇足の蛇足。 説明とかなんかそういうのホント苦手なんで、どうでも良い方は黙って回れ右推奨。 雨話本編は敢えて銀土関係の(感情面での)平行線を解消しませんでした。コイツらやり直すどころか絶対破綻するよね的な不穏さを残したかったので…。詰まる所最初からなんでかんで蛇足しようとは思ってたんですが、蛇足も蛇足どころかタコ足が蛇の胴体から生えた感じになったのはもう済みませんとしか…。 途中自分でもツッコミましたが…、蛇足事件の主犯の幕臣何某さんたちに固有名詞を付けなかったのはホントすみませんとしか…(二度目)。自分でもどっちの話してるのか解らなくなる為体。極力オリジナルモブに固有名詞はつけたくなかったんですが…今後はこのへん猛省していきたいです。…アレ、作文? ……三行程度でまとめると、急にデレちゃうとかそういう事はなくていつも通りで、ただ少し「得た」分は心の距離が近付いていったり誤解しなくなったり理解を示してやる事が出来るという、その程度の銀土関係。 …………要するに土方くんは面倒くさい子。 ▲ |